柑子の歌 伊良子清白
柑子の歌
媼(おうな)市路(いちぢ)に鬻(ひさぎ)ぎよぶ
手藍(てかご)のこのみ手にとれば
千重の敷浪(しきなみ)末遠く
こは常春(とこはる)のくだらもの
一日柑子(かうじ)の山に入り
草の葺屋に摘みためし
年のみのりに驚きて
南の國の富を見き
霜月勇魚(いさな)よりそめて
湊々(みなとみなと)の潮高く
曉闇(くら)き荒灘を
みだれてはしる柑子船
花のみやこの商人(あきびと)が
千函(ちばこ)の寶開きては
年の設(まうけ)を競(きそ)ふ時
山のみのりは戶に入らん
色と彩(あや)との天(てん)にして
染むるこのみを見渡せば
霞かぎらふ南(みんなみ)の
黃金(こがね)の國は冬もなし
直刺(たださ)す日影美しき
光や凝(こ)りて實(みの)るなる
陰ほの白くをとめらが
柑子採るてふ紀路の山
[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』であるが(署名「清白」)、そこでは総標題(校異の解説から推定)を本篇と同じ「柑子の歌」とし、その中に次に電子化する「昔物語」を含めた二部(同前の推定)一篇として構成されたものであった。その「柑子の歌」の部分を独立させたものが本篇であるらしい。初出形は次の「昔物語」の注で復元する。
「柑子」読みは「かうじ」(こうじ)で、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属 Citrus の通称であり、ここは時代幻想であるから、そのレベル或いはお馴染みのキシュウミカン Citrus kinokuni などをイメージして良いとは思う。但し、次注を必ず参照されたい。
「くだらもの」「百濟物」(初出表記)であるが、百済からミカンの大本(おおもと)の原種が渡来したとか、或いは読者である我々に「百済」国が「常春の」「南の國」とイメージされるか、と問われれば、首を傾げざるを得ない。さればこの「くだらもの」の「くだら」とは海の彼方の「南の國」で「常春の」パラダイスとして漠然と意識された「無何有の郷」「ユートピア」という言い換えとして捉えた方がよいように初読時には私は思った。しかし、調べてみると、ミカンの内、本邦に古くから自生している本邦の柑橘類固有種であるミカン属タチバナ(橘)Citrus tachibana の近縁種にコウライタチバナ(高麗橘)Citrus nipponokoreana が存在し、山口県萩市と韓国の済州島にのみ自生していること(萩市の自生群は絶滅危惧IA類に指定されて国天然記念物)、済州島は耽羅国という独立国であったが、四世紀頃には百済に朝貢しており、十五世紀初頭頃までは事実上の独立的在地支配層は健在であって(李氏朝鮮王朝に入って、全羅道に組み込まれ、後には流刑地の一つとなってしまう)、済州島を古えの邦人が「百済」と認識することには不審感はないこと、さらに済州島は対馬海流の影響を受けて、大陸性気候で冬の寒さが厳しい韓国の中では最も気候が温暖であり、事実、その暖かさをを利用して韓国で唯一のミカンの産地となっていること(この部分はウィキの「済州島」に記載がある)を考えると、済州島=百済=「常春の」「南の國」と認識することには何ら無理がないと私は思うのである。因みに、本邦の最も古い柑橘類の記載(推定同定)は、ウィキの「ウンシュウミカン」の「ミカンの歴史」によれば、「古事記」及び「日本書紀」で、『「垂仁天皇の命を受け』て『常世の国に遣わされた田道間守』(たじまもり)『が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(『「日本書紀」の『訳)との記述がある。ここでの「橘」は』、『タチバナであるともダイダイ』(ミカン属ダイダイ Citrus aurantium)『であるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない』ともある。この常世の国が済州島であったとしても私には全く違和感がないのである。反論のある方は、受けて立つ。]
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