琴の音 伊良子清白
琴 の 音
梨の花月にこぼれて
千里(ちさと)まで霞む春の夜
岸に沿ひ流るる琴の
二つなき響をききぬ
古き世の物語めき
美しき追憶(おもひで)となる
琴の音(ね)はみそらにのぼる
まどかなる月の村雲
人の世はあやにくのもの
心憎き今宵の業(わざ)も
彈(ひ)く人は彈くとも思はず
きく人はきくとも知らず
ただ響くむねの創痍(いたで)に
反響(こだま)する淸搔(きよがき)のおと
幽(かす)かなれど漂ふわたり
けしきだち荒野と成りぬ
[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。初出時は次の「泉のほとり」とともに総標題「北の海」で併載。初出形は以下。最終連が大きく異なるが、初出のそれは少しく意味が採りにくく、改作の方がよい。
*
琴 の 音
梨の花月にこぼれて
千里(ちさと)まで霞む春の夜
岸に沿ひ流るる琴の
二つなき響をききぬ
古き世の物語めき
美しき追懷(おもひで)となる
琴の音(ね)は今(いま)さかりなり
誰(た)が家(いへ)のすさびなるらん
人の世はあやにくのもの
心憎き今宵の業(わざ)も
彈(ひ)く人は彈くとも思はず
きく人はきくとも思(おも)はず――
傷(やぶ)れたる胸に創痍(いたで)に
たゞ一人(ひとり)反響(こだま)する兒は
かすかなれど荒(あら)き響(ひゞき)を
よゝとしもつい啼(な)きゐたり
*]