夏日孔雀賦 清白(伊良子清白) (初出形近似版)
夏日孔雀賦(かじつくじやくのふ)
園(その)の主(あるじ)に導(みちび)かれ
庭(には)の置石(おきいし)石燈籠(いしどうろ)
物古(ものふ)る木立(こだち)築山(つきやま)の
景(けい)有(あ)る所(ところ)うち過(す)ぎて
池(いけ)のほとりを來(き)て見(み)れば
棚(たな)につくれる藤(ふぢ)の花(はな)
紫(むらさき)深(ふか)き彩雲(あやぐも)の
陰(かげ)にかくるゝ鳥屋(とや)にして
番(つがひ)の孔雀(くじやく)砂(すな)を踏(ふ)み
優(いう)なる姿(すがた)睦(む)つるゝよ
地(ち)に曳(ひ)く尾羽(をば)の重(おも)くして
步(あゆみ)はおそき雄(を)の孔雀(くじやく)
雌鳥(めとり)を見(み)れば嬌(たを)やかに
柔和(にうわ)の性(しやう)は具(そな)ふれど
綾(あや)に包(つゝ)める毛衣(けごろも)に
己(おの)れ眩(まばゆ)き風情(ふぜい)あり
雌鳥雄鳥(めどりをどり)の立竝(たちなら)び
砂(すな)にいざよふ影(かげ)と影(かげ)
飾(かざ)り乏(とぼし)き身(み)を耻(は)ぢて
雌鳥(めどり)は少(すこ)し退(しりぞ)けり
落羽(おちば)は見(み)えず砂(すな)の上(うへ)
淸(きよ)く掃(は)きたる園守(そのもり)が
箒(はゝき)の痕(あと)も失(う)せやらず
一つ落(お)ち散(ち)る藤浪(ふぢなみ)の
花(はな)を啄(ついば)む雄(を)の孔雀(くじやく)
長(なが)き花總(はなぶさ)地(ち)に垂(た)れて
步(あゆ)めば遠(とほ)し砂原(いさごばら)
見(み)よ君(きみ)來(きた)れ雄(を)の孔雀(くじやく)
尾羽(をば)擴(ひろ)ぐるよあなや今(いま)
あな擴(ひろ)げたりことごとく
こゝろ籠(こ)めたる武士(ものゝふ)の
晴(はれ)の鎧(よろひ)に似(に)たるかな
花(はな)の宴(さかもり)宮内(みやうち)の
櫻襲(さくらかさね)のごときかな
一つの尾羽(をば)をながむれば
右(みぎ)と左(ひだり)にたち別(わか)れ
みだれて靡(なび)く細羽(ほそばね)の
金絲(きんし)の縫(ぬひ)を捌(さば)くかな
圓(まろ)く張(は)りたる尾(を)の上(うへ)に
圓(まろ)くおかるゝ斑(ふ)を見(み)れば
雲(くも)の峯(みね)湧(わ)く夏(なつ)の日(ひ)に
炎(ほのほ)は燃(も)ゆる日輪(にちりん)の
半(なか)ば蝕(しよく)する影(かげ)の如(ごと)
さても面(おもて)は濃(こま)やかに
げに天鵞絨(びろうど)の軟(やはら)かき
これや觸(ふ)れても見(み)まほしの
指(ゆび)に空(むな)しき心地(こゝち)せむ
いとゞ和毛(にこげ)のゆたかにて
胸(むね)を纏(まと)へる光輝(かゞやき)と
紫(むらさき)深(ふか)き羽衣(はごろも)は
紺地(こんぢ)の紙(かみ)に金泥(こんでい)の
文字(もじ)を透(すか)すが如(ごと)くなり
冠(かぶり)に立(た)てる二本(ふたもと)の
羽(はね)は何物(なにもの)直(すぐ)にして
位(くらゐ)を示(しめ)す名鳥(めいてう)の
これ頂(いたゞき)の飾(かざり)なり
身(み)はいと小(ち)さく尾(を)は廣(ひろ)く
盛(さかん)なるかな眞白(ましろ)なる
砂(すな)の面(おもて)を步(あゆ)み行(ゆ)く
君(きみ)それ砂(すな)といふ勿(なか)れ
この鳥影(とりかげ)を成(な)す所(ところ)
妙(たへ)の光(ひかり)を眼(め)にせずや
仰(あふ)げば深(ふか)し藤(ふぢ)の棚(たな)
王者(わうじや)にかざす覆蓋(ふくがい)の
形(かたち)に通(かよ)ふかしこさよ
四方(よも)に張(は)りたる尾(を)の羽(はね)の
めぐりはまとふ薄霞(うすがすみ)
もとより鳥屋(とや)のものなれど
鳥屋(とや)より廣(ひろ)く見(み)ゆるかな
何事(なにごと)ぞこれ圓(まど)らかに
張(は)れる尾羽(をば)より風(かぜ)出(い)でゝ
見(み)よ漣(さゞなみ)の寄(よ)るごとく
羽(はね)と羽(はね)とを疾(と)くぞ過(す)ぐ
天(てん)の錦(にしき)の羽(は)の戰(そよ)ぎ
香(かを)りの草(くさ)はふまずとも
香(かを)らざらめやその和毛(にこげ)
八百重(やほへ)の雲(くも)は飛(と)ばずとも
響(ひゞ)かざらめやその羽(は)がひ
獅子(しゝ)よ空(むな)しき洞(ほら)をいで
小暗(をぐら)き森(もり)の巖角(いはかど)に
その鬣(たてがみ)をうち振(ふる)ふ
猛(たけ)き姿(すがた)もなにかせむ
鷲(わし)よ御空(みそら)を高(たか)く飛(と)び
日(ひ)の行(ゆ)く道(みち)の縱橫(たてよこ)に
貫(つらぬ)く羽(はね)を摶(う)ち羽(は)ぶく
雄々(をを)しき影(かげ)もなにかせむ
誰(たれ)か知(し)るべき花蔭(はなかげ)に
鳥(とり)の姿(すがた)をながめ見(み)て
朽(く)ちず亡(ほろ)びず價(あたひ)ある
永久(とは)の光(ひかり)に入(い)りぬとは
誰(たれ)か知(し)るべきこゝろなく
夜逍遙の目(め)に觸(ふ)れて
孔雀(くじやく)の鳥屋(とや)の人(ひと)の世(よ)に
高(たか)き示(しめ)しを與(あた)ふとは
時(とき)は滅(ほろ)びよ日(ひ)は逝(ゆ)けよ
形(かたち)は消(き)えよ世(よ)は失(う)せよ
其處(そこ)に殘(のこ)れるものありて
限(かぎ)りも知(し)らず極(きは)みなく
輝(かゞや)き渡(わた)る樣(さま)を見(み)む
今(いま)われ假(か)りにそのものを
美(うつく)しとのみ名(なづ)け得(う)る
振放(ふりさ)け見(み)れば大空(おほぞら)の
日(ひ)は午(ご)に中(あ)たり南(みんなみ)の
高(たか)き雲間(くもま)に宿(やど)りけり
織(お)りて隙(ひま)なき藤浪(ふぢなみ)の
影(かげ)は幾重(いくへ)に匂(にほ)へども
紅燃(くれなゐも)ゆる天津日(あまつひ)の
熖(ほのほ)はあまり强(つよ)くして
梭(をさ)と飛(と)び交(か)ひ箭(や)と亂(みだ)れ
銀(ぎん)より白(しろ)き穗(ほ)を投(な)げて
これや孔雀(くじやく)の尾(を)の上(うへ)に
盤渦卷(うづま)きかへり迸(ほとばし)り
或(あるひ)は露(つゆ)と溢(こぼ)れ零(お)ち
或(あるひ)は霜(しも)とおき結(むす)び
彼處(かしこ)に此處(こゝ)に戲(たはぶ)るゝ
千々(ちゞ)の日影(ひかげ)のたゞずまひ
深(ふか)き淺(あさ)きの差異(けじめ)さへ
色薄尾羽(いろうすをば)にあらはれて
涌來(わきく)る彩(あや)の幽(かす)かにも
末(すゑ)は朧(おぼろ)に見(み)ゆれども
盡(つ)きぬ光(ひかり)の泉(いづみ)より
ひまなく灌(そゝ)ぐ金(きん)の波(なみ)
と見(み)るに近(ちか)き池(いけ)の水(みづ)
あたりは常(つね)のまゝにして
風(かぜ)なき晝(ひる)の藤(ふぢ)の花(はな)
靜(しづ)かに垂(た)れて咲(さ)けるのみ
今(いま)夏(なつ)の日(ひ)の初(はじ)めとて
菖蒲(あやめ)刈(か)り葺(ふ)く頃(ころ)なれば
力(ちから)あるかな物(もの)の榮(はえ)
若(わか)き綠(みどり)や樹(き)は繁(しげ)り
煙(けぶり)は探(ふか)し園(その)の内(うち)
石(いし)も靑葉(あをば)や萌(も)え出(い)でん
雫(しづく)こぼるゝ苔(こけ)の上(うへ)
雫(しづく)も堅(かた)き思(おもひ)あり
思(おも)へば遠(とほ)き冬(ふゆ)の日(ひ)に
かの美(うつく)しき尾(を)も凍(こほ)る
寒(さぶ)き塒(ねぐら)に起臥(おきふ)して
北風(きたかぜ)通(かよ)ふ鳥屋(とや)のひま
雙(ふたつ)の翼(つばさ)うちふるひ
もとよりこれや靈鳥(れいてう)の
さすがに羽(はね)は亂(みだ)さねど
塵(ちり)のうき世(よ)に捨(す)てられて
形(かたち)は薄(うす)く胸(むね)は瘦(や)せ
命(いのち)死(し)ぬべく思(おも)ひしが
かくばかりなるさいなみに
鳥(とり)はいよいよ美くしく
奇(く)しき戰(いくさ)や冬(ふゆ)は負(ま)け
春(はる)たちかへり夏(なつ)來(きた)り
見(み)よ人(ひと)にして桂(かつら)の葉(は)
鳥(とり)は御空(みそら)の日(ひ)に向(むか)ひ
尾羽(をば)を擴(ひろ)げて立(た)てるなり
讃(さん)に堪(た)へたり光景(くわうけい)の
庭(には)の面(おもて)にあらはれて
雲(くも)を驅(か)け行(ゆ)く天(てん)の馬(うま)
翼(つばさ)の風(かぜ)の疾(と)く强(つよ)く
彼處(かしこ)蹄(ひづめ)や觸(ふ)れけんの
雨(あめ)も溶(と)き得(え)ぬ深綠(ふかみどり)
澱(おり)未(ま)だ成(な)らぬ新造酒(にひみき)の
流(ながれ)を見(み)れば倒(さか)しまに
底にことごとくあらはれて
天(そら)といふらし盃(さかづき)の
落(おと)すは淺黃(あさぎ)瑠璃(るり)の河(かは)
地(ち)には若葉(わかば)の神飾(かみかざ)り
誰(たれ)行(ゆ)くらしの車路(くるまぢ)ぞ
朝(あさ)と夕(ゆふ)との雙手(もろで)もて
擎(さゝ)ぐる珠は陰、光
溶(と)けて去(い)なんず春花(はるばな)に
くらべば强(つよ)き夏花(なつばな)や
成(な)れるや陣(ぢん)に驕慢(けうまん)の
汝(なんぢ)孔雀(くじやく)よ華(はな)やかに
又(また)かすかにも、濃やかに
千々(ちゞ)の千々(ちゞ)なる色彩(いろあや)を
間(ま)なく時(とき)なく眩(まば)ゆくも
標(あら)はし示(しめ)すたふとさよ
草(くさ)は靡(なび)きぬ手(て)を擧(あ)げて
木々(きゞ)は戰(そよ)ぎぬ袖振(そでふ)りて
卽(すなは)ち物(もの)の證明(あかし)なり
かへりて思(おも)ふいにしへの
人(ひと)の生命(いのち)の春(はる)の日(ひ)に
三保(みほ)の松原(まつばら)漁夫(いさりを)の
懸(かゝ)る見(み)してふ天(あめ)の衣(きぬ)
それにも似(に)たる奇蹟(きせき)かな
こひねがはくば少(すくな)くも
此處も駿河とよばしめよ
深き林の庭の面に
草は靡きて手を舉げよ
木々はそよぎて袖振れよ
靡けといへば靡きたり
そよげといへばそよぎたり
斯(か)くて孔雀(くじやく)は尾(を)ををさめ
妻懸(つまこ)ふらしや雌(め)をよびて
語(かた)らふごとく鳥屋(とや)の内(うち)
花(はな)耻(はづ)かしく藤棚(ふぢだな)の
柱の影に身(み)をよせて
隠(かく)るゝ風情(ふぜい)哀(あは)れなり
しばしば藤(ふぢ)は砂(すな)に落(お)ち
ふむにわづらふ鳥(とり)と鳥(とり)
あな似(に)つかしき雄(を)の鳥(とり)の
羽(はね)にまつはる雌(め)の孔雀(くじやく)
[やぶちゃん注:「色薄尾羽(いろうずをば)」「美(うつぐ)しく」のルビの濁音は初版「孔雀船」でもママで、底本全集校訂本文でもママである。初出は明治三五(一九〇二)年六月十五日発行の『文庫』。署名は「清白」。ところが、その一ヶ月後に七月十五日発行の同『文庫』に発表した総標題「葉分の月」(「葡萄の房」(後に新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録)と「卜」(「ぼく」或いは「うらなひ」。後に「三人の少女」と改題して同前作品集に収録)の二篇構成)の末尾に、
『「夏日孔雀賦」中三〇九頁下段深き林以下五行は衍』
とあり、底本全集ではそれに従って校訂本文が作られ、校異でカットした衍文部分が示されてある。則ち、今回、私はその初出形を敢えて再現した。則ち、最終連前の「深き林の庭の面に」/「草は靡きて手を舉げよ」/「木々はそよぎて袖振れよ」/「靡けといへば靡きたり」/「そよげといへばそよぎたり」の五行総てが意図しない形で入り込んだ衍文だというのである。しかし他に同じ詩句はなく、これは削除したはずの詩句が活字化されたものとしか思われず、一ヶ月の間は『文庫』読者はこれを含めて本篇を読んでいたことを考えると、これを復元することは意味があると私は考えるからである。他に、校異に示された初出の形の内、誤植と私が判断したものを除き、その通りにした。]
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