太平百物語卷一 六 愚全ばけ物の難を遁れし事
○六 愚全ばけ物の難を遁れし事
備中に愚全といへる沙門あり。
年比(としごろ)、都の方に志しありて、此春、おもひ立(たち)けるが、播磨の書寫山へも次でながら參詣しけるに、下山の比(ころ)、山中にて日(ひ)暮(くれ)ければ、其あたりなる辻堂に立寄(たちより)、『一夜(ひとよ)を明さばや』とおもひ、通夜(よもすがら)、念佛して居られけるに、年のほど、十八、九斗(ばかり)なる女一人、何國(いづく)ともなく來りて、愚全にむかひ、いふ樣、
「それに入らせ玉ふは、御僧(おんそう)と見參らせて候。一夜のほど、此方(こなた)へ來り玉へ、御宿(おんやど)をかしまいらせん。」
といふに、折しも餘寒(よかん)、身にしみ、堪がたかりければ、
「誠に、御こゝろざし、有りがたく候。」
とて、打連(うちつれ)て行ければ、一つの庵(いほり)に入りぬ。
愚全、家内(かない)を見廻すに、此わかき女の外、人、一人もなし。
愚全、心におもひけるは、
『かゝる所に一宿せん事、心よからぬ事かな。』
と思ひながら、力なくしてゐられけるに、此女、愚全にいふやう、
「御覽のごとく、わらは事、獨ずみのやもめなれば、たれを力にすべき便(よすが)なし。御身、夫婦となりて、われに力をそへ玉へ。」
と、傍(そば)ちかく寄そへば、愚全、興を覺(さま)し、
「こは、おもひよらぬ仰(おほせ)かな。われは元來(もとより)出家の身なれば、假初(かりそめ)の戲(たはむれ)だに、仏のいましめ給ふぞかし。あなかしこ、筋なき事、な宣(のたま)ひそ。」
と、にがにがしくいへば、此女、うちわらひて、
「さないひ給ひそ。出家も美童を愛し給ふうへは、女とても何か苦しう候べき。」
といひければ、愚全、こたへて、
「さればとよ。童子は成長にしたがひて、愛著(あいぢやく)のこゝろ、はなるゝものにて、殊に子孫相續の因緣なく、女の道とは格別なり。其上、女は五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)の苦しみありて、仏のいませ給ふぞ。」
と、さも、すげなくぞ申ける。
此女、つくづく聞きて、
「實(げに)、さる事も侍るやらん。」
とて、其儘、十四、五斗なる美童と變じ、愚全が傍へすゝみ寄(より)、
「われこそ、佛のゆるし給ふ童子なり。情(なさけ)をかけて給はれ。」
といふ。
愚全、此有樣をみて、
『これ、察する所、化物(ばけもの)なり。』
とおもひながら、荅(こた)へていはく、
「實(げに)。それとても、道德めでたき知識の事なり。愚僧がごとき蒙昧(もうまい)の身は、童子とても、かなひがたし。」
といへば、其時、童子、氣色かはり、
「扨々、にくや。おのれが舌頭(ぜつとう/したのさき)の聞まゝに、樣々にいひ遁(のが)るゝ腹たちさよ。いで、其義ならば、喰殺(くひころ)さん。」
とて、頓(やが)て大き成坊主となりて、愚全を一口に吞まんとす。
其時、愚全は眼を閉(とぢ)、一心に「仁王經(にんわうきやう)」を修(しゆ)しければ、此妙音(みやうおん)におそれをなし、消(けす)が如くに失せけるが、彼(かの)庵と見へしも、いつしか、㙒原(のばら)となりて、愚全、茫然と四方をみれば、よは、はや、東よりしらみ渡りしほどに、夫(それ)より、やうやう下山し、都の方(かた)に急がれけるとなり。
[やぶちゃん注:「愚全」不詳。
「備中」現在の岡山県西部に相当する。
「播磨の書寫山」兵庫県姫路市書写(しょしゃ)にある書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗の名刹書寫山圓教寺(えんぎょうじ:この地図(グーグル・マップ・データ)の北部一帯総て。引用の後に出る「如意輪寺」を下方でフラグした)。私は同寺に行ったこともなく、演劇の発声練習の早口言葉「書写山の社僧正」の莫迦の一つ覚え状態であるから、ウィキの「圓教寺」を引くと、『西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど』、『寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である』。『京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』。『境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、』三『つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される』。『伽藍がある』『書写山は』現在、『兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている』。『室町時代の応永』五(一三九八)年『から明治維新まで』、『女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)』(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。既に書写山山麓の平地部分直近であるが、本話が室町以前の時制設定であるとは凡そ考えられないので、愚全が女の出現自体を全く問題にしていない以上、この附近より下方の場所をロケーションとすると考えねばならぬ)『に札を納めて帰った』。創建は康保三(九六六)年、『性空』(しょうくう)『の創建と伝えられる』が、『もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前より』、『その地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来は』、『この「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左』(そさ)『村と呼ばれていたが、この「曽左』『」も素盞に由来する』。『創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山』(りょうじゅせん:インドのビハール州のほぼ中央に位置する山で、釈迦はここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる)『の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる』。『また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる』とある。現在、『国の史跡に指定されている圓教寺の境内は』、『姫路市街の北方およそ』八キロメートル『に位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も』『それほど高くないが』、現在でも『境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する』とあるから、特にロケーションとして不自然ではない。
「餘寒(よかん)」冒頭に「此」(この)「春」と合った通りで、余寒は旧暦の立春(旧暦の節分の翌日で新暦の二月四日頃)を過ぎて寒が明けても、なお残る寒さを指す。則ち、物語内時制の設定はそれ以降の二月中上・中旬かと読めよう。
「五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)」既に述べた通り、左右の読み(というか、左のそれは意訳訓)が振られているのであるが、右のそれは「五」「三」には振っていないため、以上のような仕儀とした。「五障三從」の内の「五障」は女性が生得として身に持ってしまっているとされた仏法に従うに致命的な五種の障り、則ち、「法華経」に説くところの、女性は仏教の守護神である天部の梵天王・帝釈天や、魔王(欲界第六天他化自在天にあって仏道修行を妨げるという魔王波旬)、転輪聖王(てんりんじょうおう:須弥山の四洲を統治するとされる最も優れた聖王で、一説に未来に阿弥陀仏となることを約束されたともする)は勿論、「仏」そのものになることは出来ないことを指す。女性がもっているこれらを、月の光を蔽う霞や雲に譬えて「五障の霞(雲・氷)」などとも称した。従って女は変生男子(へんじょうなんし)、男に生まれ変わらなければ、極楽浄土へは往けないというというのが、実は本来の仏教の女性観なのである。原始仏教以来より胚胎している仏教の、それこそ致命的な女性蔑視の思想である。次の三従(さんしょう)は、幼時は親に、結婚すれば夫に、老いては子に、それぞれ従えとするもので、先の「五障」と連用させて、仏教で女性が従うべきものとされた属性と規範を指す。
「仁王經(にんわうきやう)」「仁王般若経」とも称される。仏教に於ける国王のあり方について述べた経典。ウィキの「仁王経」によれば、主な内容は、『釈尊が舎衛国の波斯匿王との問答形式によって説かれた教典で、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を受持し』、『講説することで、災難を滅除し』、『国家が安泰となるとされ、般若経典としては異質の内容を含んでいる』。永く宮中に於いての『公共的呪術儀礼としての役目を』担った側面を持つ経典で、後には広く『災禍を除く』呪的経文となったようである。]
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