和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか) (前と同じくアシカ類・ニホンアシカ)
あしか 阿之加
海鹿
△按海鹿卽海獺也但本草謂頭如馬者差耳紀州有海
鹿島多群居毎好眠上島上鼾睡唯一頭撿四方若漁
舟來則誘起悉轉入水中潜游甚速而難捕其肉亦不
甘美唯熬油爲燈油耳西國處處亦有之其聲畧似犬
如言於宇蓋海獺海鹿一物重出備考合
仲正
家集我戀はあしかをねらふゑそ舩のよりみよらすみ波間をそ待
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あしか 阿之加
海鹿
△按ずるに、海鹿、卽ち、海獺〔(うみうそ)〕なり。但し、「本草」に『頭、馬のごとし』と謂ふは差(たが)ふのみ。紀州に「海鹿島(あしかじま)」有りて、多く群居す。毎〔(つね)〕に眠りを好みて、島の上に上がり、鼾-睡(いびきか)く。唯だ一頭、四方を撿(み)て、若〔(も)〕し、漁舟、來たれば、則ち、誘(さそ)ひ起(をこ[やぶちゃん注:ママ。])して、悉く、水中に轉(ころ)び入る。潜(〔も〕ぐ)り游(をよ[やぶちゃん注:ママ。])ぐこと、甚だ速くして、捕(とら)へ難し。其の肉、亦、甘美ならず、唯だ、熬〔(い)〕りたる油、燈油に爲るのみ。西國、處處にも亦、之れ有り。其の聲、畧(ち)と、犬に似て、「於宇〔(おう)〕」と言ふがごとし。蓋し、海獺・海鹿〔は〕一物〔なれど〕、重ねて出だして、考〔へ〕合〔はす〕に備ふ。
仲正
「家集」
我が戀はあしかをねらふゑぞ舩の
よりみよらずみ波間をぞ待つ
[やぶちゃん注:前の「海獺」の注でさんざん考証したように、ここは最早、良安の評言のみであり、良安の認識を支持して、本邦の本草書記載として「海獺」と同じ食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科アシカ属ニニホンアシカ Zalophus japonicus に比定同定する。
「海鹿島(あしかじま)」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)大引(おおびき)にある海鹿島(グーグル・マップ・データ)。谷川健一の「列島縦断地名逍遥」(二〇一〇年冨山房インターナショナル刊)によれば、『享保十五年(一七三〇)には百頭、安政三年(一八五六)には二百五十頭が確認された(二本歴史地名大系『和歌山県の地名』)』が、『このアシカも明治十年』(一八七七)『年頃にはまったく姿を消してしまった』とある(「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の成立)。
「仲正」「家集」「我が戀はあしかをねらふゑぞ舩のよりみよらずみ波間をぞ待つ」「中正」は、かの鵺退治で知られ、以仁王(もちひとおう)の宣旨を得て平家に最初の反旗を挙げた功労者源頼政の父である源仲政(生没年未詳)の別名である。家集としては「蓬屋集」があったが、現存せず、今、伝わり、良安が参照したのであろう「源仲正集」は後世の編輯になるものである。但し、この一首は「夫木和歌抄」の「巻三十三 雑十五」に再録されていたので、「日文研」の「和歌データベース」で校合出来た。水垣久氏のサイト「やまとうた」の「歌枕紀行 蝦夷」に採り上げられており、そこでは「寄舟戀」という題詠であることが判る。水垣氏の解説に、本歌は『「えぞ」という語が用いられた最初期の例』で、『作者は源三位頼政の父、白河院の時代の人である。平安時代後期、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたが、蝦夷にまつわるさまざまな風聞が都人の耳にまで届いていたことが窺える』とある。]
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