聖廟春歌(媽姐詣での歌) 伊良子清白
聖廟春歌
(媽姐詣での歌)
一
華麗艶美な太陽に迎へられ
草の赤子(あかご)が鈴振り鈴ふり
血に慘(にじ)む荒野(あれの)の旅
蜜のやうな靈廟(れいべう)の地に
到り着いた恍惚の夕
「臺灣」は
航海から上陸した
南瀛(なんえい)の艶姿(えんば)
媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で
暖(ぬ)くめられかい割れた
靑い白鳥の卵である
二
また參籠(さんろう)の夜半
裂帛(れつぱく)の女の肉聲が
赤い悲鳴の胡琴(こきん)から
金の鋭匙(えいび)で
絕美な嗟嘆(さたん)を剔(えぐ)り取る時
「臺灣」は
苦練(くれん)の花の香(にほ)ひに咽(むせ)んで
珠の廻廊(わたどの)月暗く
晝燭の影に鬼集(すだ)き
飛龍の浮彫(うきぼり)の
冷たい楹柱(はしら)にすがつて
銅鐡(てつ)の淚で
泣いて居るのを見る
三
夜は明け放れ
雪白の巖(いただき)は
東方に爽やか
寶玉の川水を掬(むす)んで
靑藍(せいらん)の旗に
陣容を改めた
露結ぶ月餠(げつぺい)を獻じて
最高神を敬せよ
莊嚴美麗の樓宮に
「臺灣」は
星の葡萄に飾られ
鬱蒼と茂つて
冨貴(ふうき)の相を具(そな)へ
不死の神靈に抱かれて
紅顏朱の如き
壯士と成つた
[やぶちゃん注:ここからは昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の第三パート「南風の海」の電子化に入る。本大パート「南風の海」は同集の大パート「五月野」(詩集「孔雀船」からの九篇抜粋)と次の「鷗の歌」に続くもので、本「聖廟春歌」から「老年」までの全十七篇を収録するが、この十七篇は総て校異記載がない。則ち、初出も不明である。従って、この注は以下では繰り返さない。但し、本篇はロケーションが明らかに台湾であることから、創作時期は別として、実際の体験は、底本全集年譜から、伊良子清白が明治四三(一九一〇)年五月に台湾に渡って台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務して以降、日本に帰国するまでのそれに基づく。その後、同総督府台中監獄医務所長(明治四十五年四月)・同府防疫医(台北医院と台北監獄医務所の双方に勤務。大正五(一九一六)年七月から二月初めまで)を経て、同大正五年三月頃には大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(次の詩篇「大嵙崁悲曲」はそこでの感懐を元に懐古して創作されたものと思われる)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)、翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、妻幾美(きみ)とともに四月十九日に神戸に入港している。以上、この明治四三(一九一〇)年五月から大正七(一九一八)年四月上旬までの約八年間が伊良子清白の台湾体験の閉区間である。本篇は詩篇の内容から、明治四三(一九一〇)年五月に台湾渡航直後の嘱目をもとにしていると読める。五月で「春歌」はやや遅い感はあるが、新天地での始まり、媽姐への祝歌として相応しいと私は思う。篇中の「一」~「三」のそれは太字ゴシックである。
「媽姐」ウィキの「媽姐」によれば、『媽祖(まそ)は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾・福建省・潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ』、『広まった』。中国語では、『親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もあ』り、『天上聖母、天妃娘娘、海神娘娘、媽祖菩薩などともいう』。『「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない』。しかし、中国語では「mā」(マァー:一声。高い音程を保ちながら、そのまま伸ばす)であり、台湾語でも「má」(マァー:三声。中音から始め、ゆっくりと低音に移動し、一気に中音に戻す音)である。『媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は』建隆元(九六〇)年、『興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得』、『村人の病を治すなどの奇跡を起こし』、『「通賢霊女」と呼ばれ』て『崇められた。しかし』、二十八『歳の時』、『父が海難に遭い』、『行方知れずとな』ってしまい、『これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。『なお、父を探しに船を出し』たが、『遭難したという伝承もある。福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』。『媽祖信仰の盛んな浙江省の舟山群島(舟山市)には』、『普陀山・洛迦山があり』、『渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された』ものである。『媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され』て『改心し、以降』、『媽祖の随神となった』とされる。以下、「各地の信仰」の「台湾」の項。『台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し』、『台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。このため』、『台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神と評される事も多い』。『台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定された』。しかし、『この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時』、『規制された。なお』、台北最大規模であった台北にあった彼女を祀る「天后宮」は一九〇八年(明治四一年)に台湾総督府によって撤去されてしまい、『かわりに博物館(』現在の『国立台湾博物館)が建てられた』(同博物館は台北市中正區のここ(グーグル・マップ・データ))。『日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお毎年旧暦の』三月二十三日は『媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている』とある。この下線太字部から考えると、伊良子清白は見たのは、この「天后宮」ではあり得ないことになる。私は当初、日本からの渡航船は台北に着くものとばかり考えていたが、彼が務めたのは台中であるから、或いはこれは、船が台北を経由後、台中へ行き、そこで下船して、台中にあった媽姐の廟を訪れたものかも知れない。台中市には彼女を祀った「大甲鎮瀾宮」(俗称で「大甲媽祖廟」「大甲媽」と称し、清の一七三〇年に創建され、現在の中華民国臺中市大甲區順天路にある。グーグル・マップ・データ。同データの画像を見ると、その絢爛さと今も続く信仰の厚さがよく判る)がある。伊良子清白が見たのはここかも知れない。
「南瀛(なんえい)」「瀛」には「大海」「広い海」の意味もあるが、台湾の古地名として「南瀛」があり、その昔、そこには多くの文人が集まっていたともいう。これは台湾の南部(或いは狭義の台南地区)の総称でもあるようで、現在も台南大内区には「南瀛天文教育園区」という施設地区がある。
「艶姿(えんば)」漢語の国に来た伊良子清白にして初めての土地なればこそ従って使った言葉(音)であろう。
「媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で」媽姐の守護下にあることの比喩表現と採れるが、媽姐には「天妃(てんぴ)」「天后聖母(てんこうしょうも)」の異名もあるから、羽があっても一向におかしくはないであろう。
「鋭匙(えいび)」現行、鋭匙(えいひ)と呼び、先端がスプーン状になっている、病巣の掻破や骨の組織の除去などの際に使用する医療器具の呼称であるから、医師である伊良子清白には馴染みの語ではなかったか。
「楹柱(はしら)」「はしら」は「楹柱」二字へのルビ。「楹」は「丸く太い柱」の意で、聖廟のそれを指している。
「銅鐡(てつ)」「てつ」は「銅鐡」二字へのルビ。
「靑藍(せいらん)の旗」青や藍は中国の伝統色である。]
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