太平百物語卷二 十四 十作ゆうれひに賴まれし事
○十四 十作(じうさく)ゆうれひに賴まれし事
大坂上本町(うへほんまち)に、每夜每夜、ゆうれひ[やぶちゃん注:標題ともにママ。以下同じ。]出(いづ)ると沙汰して、夜(よ)更(ふけ)ぬれば、人、おそれて通らざりしが、或夜、十作といふ者、幾兵衞(いくびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])といふ者を伴ひ、此所を通りけるに、谷町(たにまち)といふ所にて、うしろの方(かた)より、女の聲にて、二人の者を呼(よび)かけゝれば、十作、幾兵衞にいふやう、
「これは。聞(きゝ)およぶ此所の幽㚑(ゆふれひ)ならん。」
とて、兩人、ふり歸り見れ共、目に遮る者なければ、又、十間(けん)ばかりも行(ゆく)に、已前のごとくに呼しかば、立留(たちど)まりて、能(よく)々見るに、年の比(ころ)、二十(はたち)斗(ばかり)なる女の、色靑ざめたるが、腰より下(しも)はなくして、髮をみだし、さめざめと泣(なき)ゐたり。
幾兵衞、おく病者なれば、是を見るより、
「わつ。」
と、さけびて、倒れふす。
されども、十作、强氣(がうき)の者にて、少(すこし)も恐れず、ふみ留(とゞま)りて、いはく、
「何者なれば、われらを呼ぶぞ。近くよらば、切(きつ)てすてん。」
と、氣色(きしよく)ぼうて[やぶちゃん注:ママ。]身がまへすれば、此女、こたへて、
「さん候ふ。我は此あたりの者にて候ひしが、嫉妬の爲に、それのおく方(がた)に殺されたり。されば、其瞋恚(しんゐ[やぶちゃん注:ママ。])、はれやらず、夜每(よごと)に此所に出(いで)て、人を待(まち)て呼(よべ)ども、皆、わが姿におそれて、答ふる人、なし。御身、幸ひに言葉をかはし玉ふ嬉しさよ。願はくは、我(わが)力となり玉へ。」
と、云ふ。
十作がいはく、
「我、何としてか此事をなさん。今は恨みをはれ玉へ。跡をねんごろにとふてまいらせん[やぶちゃん注:ママ。]。」
といふ。
幽㚑、よろこびずして[やぶちゃん注:ママ。]、いふやう、
「賴(たのみ)參らする事、外(ほか)ならず。わが腹に子をやどりしが、死せずして、胎内(たいない)、甚(はなはだ)、くるし。おことの刄(やいば)を以て、わが腹を、やぶりてたび候へ。必ず、おそれ玉ふな。」
といふに、流石(さすが)の十作も氣味わるければ、かぶりをふりて、
「左樣の事は、おもひもよらず。免(ゆる)し玉へ。」
と迯(にげ)ごしらへすれば、ゆうれひ、いと恨めしげなる顏(かほ)ばせにて、
「若(もし)、此事かなへ玉はずば、永く御身に付(つき)そひて、恨(うらみ)をいはん。」
といふにぞ、十作も、今はぜひなく、脇ざし、引ぬき、かのゆうれひの傍(そば)へおそろしながら近々と寄(より)て、胴腹(どうばら)をたちやぶれば、
「うれしや。今は、わが本望(ほんもう)は達(たつ)するものを。」
と、いふかとおもへば、姿は、其儘(そのまゝ)、消うせけり。
十作、いそぎ、幾兵衞を呼(よび)おこし、肩に引(ふつ)かけて、一さんに迯歸りしが、其後(そのゝち)はいかゞなりけんも、しらずかし。
[やぶちゃん注:「大坂上本町(うへほんまち)」現在の大阪府大阪市天王寺区上本町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「十間(けん)」約十八メートル。
「谷町(たにまち)」大阪府大阪市中央区谷町附近。先の上本町の北西直近。
「氣色(きしよく)ぼうて」気色(けしき)ばんで。「ぼうて」の用法や転訛は私は知らない。
「瞋恚(しんゐ)」歴史的仮名遣は「しんい」でよい。連声で「しんに」とも発音し、仏教の三毒(貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち))・十悪などの一つに数える、自分の心に違(たが)うものを怒り怨むことを言う。
「迯(にげ)ごしらへすれば」「逃げ拵へ」。今にも逃げようとしたところが。]
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