柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(15) 「駒形權現」(1)
《原文》
駒形權現 [やぶちゃん注:二字空けはママ。]【勝善神】駿府淺間社ノ社人ノ唱言ニ、所謂關東ノ「ソウゼン」奧ノ「ソウゼン」、奧羽ニテ弘ク拜マルヽ「オコマサマ」ハ、今日村々ノ百姓ガ之ヲ何ト稱フルカヲ問ハズ、表向ノ名稱ハ殆ド皆今ハ駒形神社トナレリ。此ハ明治ノ復古思想ノ一種ノ發露ニシテ、奧羽ノ「オコマ」信仰ノ中心タル膽澤郡ノ駒ケ嶽ガ、即延喜式内ノ駒形神社ナルべシト謂フ地方誌ノ說ヲ公認シ、之ニ由リテ名ヲ正シ迷信ヲ改メントセシ神祇官(じんぎくわん)ノ目的ニハヨク合セリ。奧州ノ駒形神ハ成程古シ。神名帳ノ發表ヨリ五十餘年前ニ、既ニ神階ヲ正五位ニ進メラレタル記事アリ〔文德實錄仁壽元年九月二日條〕。【箱根權現】箱根ノ駒ケ嶽ニ祀ラルヽ駒形權現ノ如キモ、安貞二年ノ火災ノ記事ニ、ソレヨリ又五百年前ノ創立トアレドモ〔吾妻鏡〕、此ハ要スルニ所謂緣起ノ主張ニシテ、實ハ足柄越ノ閉塞シ此山道ノ開カレテヨリ後、奧州ニ往來スル旅人ニ由リテ運搬セラレタル信仰ナリシカモ知レズ。兎ニ角ニ此ノ如ク古キ神ナレバ、其名ノ由來ヲ解說スルコトハ容易ノ業ニハ非ズ。即チ假令駒ノ一字ガ共通ナリトテ、馬ノ保護者ニシテ兼ネテ蠶ノ神タル今ノ「オコマサマ」ヲ、駒形神社ト改メ稱フルノ正シキカ否カハ、今直チニ決スルコト能ハザル難問題ナリ。自分ノ信ズル限ニテハ、少ナクモ駒形ト云フ語ノ解釋トシテハ、地名辭書等ニ採用シタル觀迹聞老志以下ノ通說ハ疑ヲ容ルヽ餘地アリ。雪ナリ岩ナリ其形狀ガ駒ニ似タルガ故ニ駒形ト謂フナリト說クハ、恐クハ形ト云フ文字ニ拘泥シタル意見ナルべシ。駒ニ似タル「カタチ」ヲ以テ駒形ト稱スルハ、昔ノ造語法トシテハ不自然ナリ。【手形】「カタ」ハヤハリ押型ナドノ型ニシテ、手形ノ形ト同ジク物ノ上ニ印サレタル跡ヲ意味スルモノト解スべシ。【駒形ハ足形】而シテ馬ガ其跡ヲ留ムト云フニハ言フ迄モ無ク其蹄ヲ以テセザルべカラズ。サレバ古代ノ奧州ノ駒形神モ亦多クノ社ノ神々ノヤウニ、祭ノ日ニ神馬ニ騎リテ降ラレタルガ、其馬ノ痕跡殊ニ鮮カニ岩カ何カノ上ニ殘リシ爲ニ、頗ル地方ノ信仰ヲ繫ギ、從ヒテ其御神ノ名トモ爲リシカト思ハル。始メテ社ヲ建ツルト同時ニ又ハソレヨリモ以前カラ、駒形ハ其地ノ地名ナリシヲ、神ノ御名ニモ及シタリト見ルモ差支無シ。勿論此ハ駒形神社ノ名ノ由來ヲ想像シタル迄ニテ、其後色々ノ神祕ガ附加ヘラレ、或ハ本然ノ信仰ニ多少ノ變動ヲ及スニ至リシコトモ、決シテ無シトハ言フ能ハザルナリ。
《訓読》
駒形權現 【勝善神(そうぜんしん)】駿府淺間(せんげん)社の社人の唱言(となへごと)に、所謂、關東の「ソウゼン」奧の「ソウゼン」、奧羽にて弘く拜まるゝ「オコマサマ」は、今日、村々の百姓が之れを何と稱ふるかを問はず、表向きの名稱は、殆んど皆、今は駒形神社となれり。此れは、明治の復古思想の一種の發露にして、奧羽の「オコマ」信仰の中心たる膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽が、即ち「延喜式」内の駒形神社なるべし、と謂ふ地方誌の說を公認し、之れに由りて、『名を正し』、迷信を改めんとせし神祇官の目的にはよく合(がう)せり。奧州の駒形神は、成程、古し。「神名帳(じんみやうちやう)」の發表より五十餘年前に、既に神階を正五位に進められたる記事あり〔「文德實錄」仁壽元年[やぶちゃん注:八五一年。]九月二日條〕。【箱根權現】箱根の駒ケ嶽に祀らるゝ駒形權現のごときも、安貞二年[やぶちゃん注:一二二八年。]の火災の記事に、それより又、五百年前の創立とあれども〔「吾妻鏡」〕、此れは要するに、所謂、緣起の主張にして、實は、足柄越えの閉塞し、此の山道の開かれてより後、奧州に往來する旅人に由りて、運搬せられたる信仰なりしかも知れず。兎に角に、此くのごとく古き神なれば、其の名の由來を解說することは容易の業(わざ)には非ず。即ち、假令(たとひ)、「駒」の一字が共通なりとて、馬の保護者にして、兼ねて、蠶(かいこ)の神たる今の「オコマサマ」を、駒形神社と改め稱ふるの正しきか否かは、今、直ちに決すること能はざる難問題なり。自分の信ずる限りにては、少なくも、「駒形」と云ふ語の解釋としては、「地名辭書」等に採用したる「觀迹聞老志」以下の通說は、疑ひを容るゝ餘地、あり。雪なり、岩なり、其の形狀が「駒」に似たるが故に「駒形」と謂ふなりと說くは、恐らくは「形」と云ふ文字に拘泥したる意見なるべし。駒に似たる「かたち」を以つて「駒形」と稱するは、昔の造語法としては不自然なり。【手形】「かた」は、やはり、「押型」などの「型」にして、「手形」の「形」と同じく、「物の上に印(しる)されたる跡」を意味するものと解すべし。【駒形は足形】而して、馬が其の「跡」を留むと云ふには、言ふまでも無く、其の「蹄(ひづめ)」を以つて、せざるべからず。されば古代の奧州の駒形神も亦、多くの社の神々のやうに、祭の日に神馬に騎(の)りて降(くだ)られたるが、其の馬の痕跡、殊に鮮かに、岩か何かの上に殘りし爲めに、頗(すこぶ)る地方の信仰を繫ぎ、從ひて、其の御神の名とも爲りしかと思はる。始めて社を建つると同時に、又は、それよりも以前から、「駒形」は其の地の地名なりしを、神の御名にも及ぼしたりと見るも、差し支へ無し。勿論、此れは、駒形神社の名の由來を想像したるまでにて、其の後、色々の神祕が附け加へられ、或いは、本然の信仰に多少の變動を及ぼすに至りしことも、決して無しとは言ふ能はざるなり。
[やぶちゃん注:本段落の柳田國男の見解には細部に至るまで私は非常に共感出来る。
「勝善神(そうぜんしん)」既出既注。
「駿府淺間(せんげん)社」現在の静岡市葵区宮ケ崎町にある静岡浅間神社(グーグル・マップ・データ)は神部(かんべ)神社(祭神は駿河国開拓の祖神ともされる大己貴命。崇神天皇の時代(約二千百年前)の鎮座と伝えられ、「延喜式」(「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された)内小社。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた)・浅間神社・大歳御祖神社(祭神は大歳御祖命(おおとしみおやのみこと=神大市比売命(かむおおいちひめ))。応神天皇の時代(約千七百年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。「延喜式」内小社)の三社からなり、戦後まで三社は独立した神社であった(現在は一つの法人格扱い)。浅間神社の祭神は木之花咲耶姫命で、延喜元(九〇一)年、醍醐天皇の勅願により、富士山本宮浅間大社より、総社神部神社の隣りに勧請され、以来、「冨士新宮」として崇敬されてきた(以上は主にウィキの「静岡浅間神社」に拠った)。但し、柳田國男の言っている祝詞が狭義のこの神社のそれであるかどうかは私には分らない。
「神祇官」律令制で朝廷の祭祀を掌り、諸国の官社を総轄した、太政官(だいじょうかん)と並んだ中央最高官庁は、平安後期にはその機能を失い、室町時代には吉田家がこれに代わっていたが、明治維新政府は慶応四(一八六八)年閏四月に太政官(だじょうかん)七官の一つの官庁として復活させ、宗教統制による国民教化を担当させた。明治四(一八七一)年には神祇省と改称したが、翌年に教部省となり(この時、神祇官は事実上廃止されているものと思われる)、それも明治一〇(一八七七)年一月に廃止され、当該機能は内務省社寺局へ移された。明治三三(一九〇〇)年四月に神社局と宗教局の二つに分離したが、敗戦後の昭和二二(一九四七)年五月三日に施行された「日本国憲法」の理念に基づき、同年末、GHQの指令により、内務省は廃止され、神道部門は宗教法人神社本庁として外に出された。
「神名帳」ここは「延喜式神名帳」を指す。既に注した延長五(九二七)年に纏められた「延喜式」の巻九と巻十のことで、当時、「官社」に指定されていた全国の神社一覧を指す。
「箱根の駒ケ嶽に祀らるゝ駒形權現」神奈川県足柄下郡箱根町元箱根の箱根駒ヶ岳(標高千三百二十七メートル)の山頂にある現在、箱根神社所轄の箱根元宮(グーグル・マップ・データ)。「箱根神社」の同宮の解説によれば、『駒ヶ岳は北に霊峰神山を拝し、古代祭祀=山岳信仰が行われたところ』で、『その起源は、今から凡そ』二千四百『年前、人皇五代孝昭(こうしょう)天皇の御代、聖占仙人(しょうぜんしょうにん)が、神山に鎮まります山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬(あまつひもろぎ)とし、駒ヶ岳を天津磐境(あまついわさか)として祭祀したのに始まる』。『爾来、御神威は天下に輝き渡り、歴世の天皇の崇敬と庶民の信仰をあつめ、敬仰登拝する者跡を断たず、人皇』二十九『代欽明』『天皇の御代に佛教が渡来して』以来、『神佛習合して、修験』『者等が練行苦行する霊場として有名になった』。『奈良時代、人皇』四十六『代孝謙』『天皇の御代、高僧の万巻(まんがん)上人が入峰し、霊夢をうけて箱根三所権現として奉斎。天平宝字元』(七五七)年に『山麓の芦ノ湖畔に社殿を造営し、里宮としたのが』、『現在の箱根神社である』とあり、「史跡 馬降石(ばこうせき)」の項には、『注連縄を張ってあるのは馬降石といい、白馬に乗って神様が降臨』『された岩と傳えられる』。『石の上の穴は降馬の折の蹄跡で、穴にたまる水は旱天にも枯れたことがないと傳えられる不思議な岩』であり、『また』、『参道の右側には馬乗石(ばじょうせき)があり、白馬の信仰を今に残している。此の山の七名石の一つとされている』とある。
『安貞二年の火災の記事に、それより又、五百年前の創立とあれども〔「吾妻鏡」〕』「吾妻鏡」の記載は以下。まず、同年十月十八日の箱根社焼亡の記載。
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十八日戊午。昨日午尅。筥根社壇燒亡之由。馳參申之。當社垂跡以來。未有回祿之例云々。依之。御作事可延引否。及評議。如助教。駿河前司。隱岐入道。後藤左衞門尉。凝群議。依風顚倒屋々被取立之條不可有其憚云々。無御侍幷中門廊條。頗似荒癈之體也。早可被急御造作之由。人々申之云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十八日戊午(つちのえむま)。昨日の午の尅(こく)、筥根の社壇、燒亡の由、馳せ參じ之れを申す。當社は垂跡(すいじやく)以來、未だ回祿の例有らずと云々。
之れに依つて、御作事[やぶちゃん注:実はこの直前の十月七日に颱風が鎌倉を襲い、御所の侍所や中門の廊部分と竹の御所(第二代将軍源頼家の娘鞠子(或いは媄子(よしこ)とも)の侍控所が転覆し、諸亭も数多く破損していた。]は延引すべきや否や、評議に及ぶ。風に依て顚倒の屋々を取り立て被る之條、其の憚り有る不可と云々。」助教[やぶちゃん注:中原師員(もろかず)。評定衆(以下も同じ)。]・駿河前司(三浦義村)・隱岐入道(二階堂行村)・後藤左衞門尉[やぶちゃん注:後藤基綱。]のごとき、群議を凝らす。風に依つて顚倒せる屋々を取り立つるの條、其の憚り有るべからずと云々。
御侍幷びに中門の廊無きの條、頗る荒癈の體(てい)に似る也。早く御造作を急がるべきの由、人々、之れを申すと云々。
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とあり、次いで、翌十一月の条に、
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九日己卯。筥根山神社佛閣火災事。滿月上人草創當山以後五百餘歳。未有此例。當于斯時回祿。武州頗以御歎息。仍今日潛有解謝之儀。又被捧願書云々。
○やぶちゃんの書き下し文
九日己夘(つちのとう)。筥根山神社の佛閣火災の事、滿月(まんげつ)上人、當山を草創以後五百餘歳、未だ此の例、有らず。斯(こ)の時に當りて回祿すること、武州[やぶちゃん注:執権北条泰時。]、頗る以つて御歎息あり。仍つて、今日、潛かに解謝の儀、有り(かいしや)[やぶちゃん注:政道が正しくないことがこの火災を齎したと考えて、神に陳謝する儀式を内密に執り行ったことを指す。以下の「願書」のその願文(がんもん)である。]。又、願書を捧げらると云々。
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とあって、早くもこの時の二十八日に『筥根社、上棟す』(社殿の新築のそれ)とあって、翌十二月三日には『筥根社遷宮の事』について評定が行われ、同十二月二十八日に新築社殿が完成し、恙なく遷宮が行われたとある。]
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