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2019/05/31

鳩 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 私はゆるく傾斜をなした岡の頂上(いたゞき)に立つてゐた。眼の前には黃金(こがね)いろ白銀(しろがね)いろにきらめく海のやうに熟した大麥が連なつてゐた。

 然しこの海の上には小波(さゞなみ)一つ起らず、大輩は息づまりさうでそよとの風もない。大暴風雨(おほあらし)が來ようとしてゐるのだ。

 身のまはりに太陽はまだどんよりした光を投げてゐたが、大麥の彼方(かなた)の、あまり遠くもないところに、嗜碧色の雨雲(あまぐも)が重苦しい塊(かたまり)をなして、地平線のまる半分を蔽うてゐた。

 萬象寂としてゐる……最後の日光の不氣味(ぶきみ)なきらめきのもとに、あらゆるものが色を失つてしまつた。鳥一羽影も見せず啼きもしない。雀までが身をひそめた。ただ何處か近くで山牛蒡(やまごぼう)の葉が絕えずぱさぱさ云つて咡いてゐる[やぶちゃん注:「咡いて」は「ささやいて」。]。

 生垣(いけがき)の苦蓬(にがよもぎ)は何と云ふ强い香ひだらう! 私はかの暗碧色の塊を見やつた……すると漠然たる不安の念が私の胸を襲うた。『さあやつて來い、早く、早く!」と私は考へた、『金の舵よ、閃け、雷(かみなり)よ、鳴れ! 動け、急げ、篠つく雨となれ、意地惡の雨雲よ。此の待ちのぞむ息苦しさを切上げてくれ!』

 けれども雨雲は動かなかつた。それは依然として、ひつそりした地上を壓し附けてゐた……そしてただ一層かたまり、一層暗くなる許(ばか)りのやうに思はれた。

 折りしも、その物凄い暗碧の空を、何か白い手巾(ハンケチ)か雪の塊(かたまり)のやうなものが、すうと眞直(まつすぐ)に飛んでゐるのが見えた。それは村の方から飛んで來る一羽の白い鳩であつた。

 鳩は飛んだ、まつすぐに飛んだ……そして森の中へ飛び込んでしまつた。暫らく經(た)つた――やつぱり恐ろしい程ひつそりしてゐる……然し見よ! 二つの白い手巾(ハンケチ)が空に閃いてゐる、二つの白い雲の塊(かたまり)がひらひらと歸つて行く、二羽の白鳩は相並んで家路をさして飛んで行く。

 そして今やつひに暴風雨(あらし)は來つた、騷然たる聲が起つた!

 私はやつとの事で歸つて行けた。風は吼えたけつて狂ひ廻る。その前を疾走する低い赤い雲は引きちぎられたやうに見える。すべての物はごつちやになつて渦卷いてゐる。篠突く雨は直立した木の下をすさまじく漲り流れ、電光(いなづま)は靑い火をはなつて目を眩(くらま)し、雷鳴(かみなり)は砲聲のやうに颯と轟き渡つて、空氣は硫黃(ゐわう)の匂ひに滿たされた。

 しかし差出た軒下、屋根窓の緣(ふち)に、二羽の白鳩は互によりそつてとまつてゐる。一羽はその配偶(はいぐう)を呼びに行つたあの鳩で、一羽はそれに連れ歸られて、恐らく破滅から救はれた方の鳩であつた。

 彼等は羽根(はね)をさか立てて、互に翼をくくつけてゐる。

 彼等は幸福である! そして彼等を見る私もまた幸福である……私はただ一人であるけれども……いつもの通りただ一人であるけれども。

    一八七九年五月

 

たゞ一人云々、ツルゲエネフは一生結婚しないでしまつた人である、一度農奴の女と一緖になつて子供さへ出來たが、のち佛羅西へ行つて孤獨に終つた。】

[やぶちゃん注:「硫黃(ゐわう)」のルビはママ。正しい歴史的仮名遣は「いわう」。]

岩 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

      第 二

 

   【一八七九年――一八八二年】

 

    

 

 諸君は、うららかな春の日の滿潮時(しほどき)、海岸の年經た灰色の岩に、八方から勢ひのいい浪が打寄せて……碎けて、戯れて、撫でさすつて――そしてその苔むした頭上に眞珠の破片のやうなきらきらする泡を散らすのを見た事があるか?

 岩はいつも變らぬ岩であるが、そのくすんだ灰色の面は鮮かな色を呈して來る。

 その色は溶けた花崗岩(みかげいし)がやつとかたまりかけたばかりで、まだ赤熱の色に燃えてゐたあの太古(おほむかし)のことを語つてゐる。

 そのやうに此頃の私の老いた心も、若い婦人の心の浪に圍(かこ)まれ打たれて……その手に撫でさすられて、久しく褪せてゐた色、消えた火の名殘が燃え上る!

 浪はまた退いてしまふ……けれども。その色はまだ褪せない。鋭い風は乾(かは)かさうとずるけれども。

    一八七九年五月

基督 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    基  督

 

 私は夢で、まだ靑年と云ふより少年のままで、とある低い木造の教會にゐた。細い蠟燭は古い聖者の畫像の前に點々と赤くともつてゐた。

 七色(なゝいろ)をした光の輪が小さな燈明の火を取り卷いてゐた。教會の中は薄暗くぼんやりしてゐた……だが、私の前には澤山の人が立つてゐた。いづれもブロンドの髮をした百姓の頭ばかりであつた。それ等の頭は時々かがんで、ずつと下(さ)げてはまた上げる、丁度熟した麥の穗が夏の風の吹き過ぎる度に、ゆるやかに波を打たせるやうに。

 不意に、誰れやら後(うしろ)からやつて來て私の傍に立つた。

 私は彼の方には向かなかつた。けれども直ぐ此人こそ基督だと感じた。

 感動、好奇、畏怖の念が忽ち私を囚(とら)へた。私はやつと自分を制して……隣の人を見た。

 他(ほか)の人と同じやうな顏、凡ての人と毫も變りの無い顏であつた。眼は穩(おだや)かに心を籠めたやうに、少しく上の方を向いてゐる。脣は閉ぢられてゐるが、然し堅く結ばれてゐるのではなく、云はば上脣を下脣の上に休めてゐるやうである。濃くない髯は二つに分けられてゐる。手は組まれた儘ぢつとしてゐる。また着てゐる着物もあたり前のものである。

『どうしてこれがまあ基督だらう?』と私は思つた、『こんなあたり前の、何の特徴も無い人が! そんな事があるものか!』

 私は眞直(まつすぐ)向いた。ところが私が此のあたり前の人から眼を離すや否や、また此の傍に立つてゐるのが。基督その人に外ならぬと感じられた。

 また私は自分を制して振向いた……そしてまたそのおなじ顏、萬人に似た顏、見た事の無い顏ではあるが每日出會(であ)ふやうな顏を見た。

 すると急に心が重苦しくなつて私は我に返つた。その時私ははじめて悟つた、丁度このやうな顏が――萬人の顏と同じ顏が基督その人の顏であると。

    一八七八年十二月

 

基督、ツルゲエネフの基督教を窺ふに足る。ルナンが「基督傳」を書いたのと同じ精神で、基督を一個の人間として見ようと云ふのである。】

[やぶちゃん注:「ルナン」フランスの宗教史家で実証主義の思想家として知られるジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan 一八二三年~一八九二年)。当初は聖職を志したが、聖書原典研究へ向い、一八四五年に聖職を断念した。一八四八年の「二月革命」に動かされて書いた「科学の未来」(L'Avenir de la science:一八九〇年刊)で科学精神に基づいた実証主義思想を確立した。一八六二年、コレージュ・ド・フランス(Collège de France:フランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立特別高等教育機関)のセム語教授に迎えられたが、開講の辞で、キリストを「比類なき人間」と呼んだため、停職処分を受けた(一八七〇年に教授職に復帰)。生来の理想主義にもかかわらず、超自然的なものを認めようとせず、歴史的な立場から大作「キリスト教起源史」(Histoire de l'origine du christianisme:全七巻。一八六三年~一八八三年)に取り組み、特にその第一巻のイエス・キリストの伝記「Vie de Jésus」(一八六三年刊)がここで言う「基督傳」で、特に名高い(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

友と敵と ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    友 と 敵 と

 

 或る修身禁錮に處せられた囚人が一獄を破つて一散に逃走した……彼の後には踵を接して監守どもが追跡してゐた。

 彼は一生懸命に走つた……追跡者(おつて)は漸くおくれはじめた。

 然るに、突然彼の行く手に斷崖絕壁をなした一條の河が現れた、幅は狹いが深い河である……しかも彼は泳ぐことが出來ない!

 一枚の朽(く)ちかかつた薄い板が岸から岸へかかつてゐた。逃走者はすでにその上に片足をかけた……然るに、たまたまその兩岸に彼の親友と怨敵とが立つてゐた。

 仇敵は何も言はないで、ただ腕を拱(こまね)いてゐた。けれども親友は聲の限り叫んだ、『危い! 何をするんだ? 君は氣が違つたか? 氣を附けろ! 板のまるつきり腐つてるのがわからないか? 乘つたが最後身體の重みで析れて、君は死んぢまふぞ!』

『だつて外に助かる道が無いぢやないか、そら追跡者(おつて)はもう迫つてゐる!』

と不幸な男は絕的の呻聲を(うめき)舉げて、板を踏んだ。

『斷じていけない!……君の破滅するのが見てゐられるものか!』と熱心に親友は叫んで、逃走者の足もとから板を奪取(ひつたく)つた。逃走者は忽ち逆卷く激流に墜落して溺れてしまつた。

 仇敵は滿足の笑ひを浮べて行つてしまつた。けれども親友は岸に身を投げかけて、彼のあはれな……あはれな友人を悲しんで激しく泣きはじめた。

 しかしながら、彼はその友を死に至らしめたのについて、自分を責める念などは起らなかつた……ただの一瞬間といへども。

『私の言ふことを聞かなかつたからだ! 聞かなかつたからの事だ!』と彼はがつかりして呟いた。

『もつとも』と彼は最後に附け加へた、『どうせ一生恐ろしい牢獄(ろうや)で苦しまなきやならなかつたんだ! まあその苦みだけは免れたと云ふものだ! 今は樂になつたんだ! かうなるのもあの男の因果だつたんだらう! とは言ふものの、人情だもの、いかにもかあいさうだ!』

 そして此の親切者は、身を誤つた友の運命を思つて、熱い遣瀨(やるせ)ない淚を流すのをやめなかつた。

    一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「絕的」「苦み」はママ。後者は「くるしみ」と読めるからよいが、前者は恐らく「絕望的」の脱字であろう。中山省三郎氏の訳でも『哀れな男は絕望的な呻きごゑをあげて、板を蹈んだ。』であり、神西清氏の訳でも『哀れな男は絶望の呻きをあげて、板を渡りはじめた。』である。]

さいたづま すゞしろのや(伊良子清白)

 

さいたづま

 

 

  春 の 光

 和鄕ぬしはわが歌の友なり。都におはしゝころ、きみと共に
 紫野の春を尋ねしことありしが、こたび丹後よりふりはへて
 來たまひしかばまたもかの野邊をそゞろありきするとて。

[やぶちゃん注:「さいたづま」は「春に萌え出た若草」を指す古語。

「和鄕ぬし」伊良子清白の「山岳雜詩」(明治三六(一九〇三)年一月一日発行の『文庫』初出。総標題「山岳雜詩」のもとに「陰の卷」「孔雀船」で「鬼の語」と改題して収録)と前の「山頂」及び「淺間の烟」(新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録するに際して「淺間の煙」と表記を変えた)の三篇から成る)と「漂泊」が収録されている、本詩篇が書かれてより七年後ではあるが、河井酔茗編の『文庫』のアンソロジー「靑海波」(明治三八(一九〇五)年内外出版協会刊)に、木船和郷なる人物の「まつよひ草」が収録されている(しかも伊良子清白の後に配されてある)ので彼であろう。経歴は不詳(「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代書誌・近代画像データベース」のこちらの書誌に拠った)。

「ふりはへて」「振り延へて」で「ふりはへ(て)」は平安からの古語の副詞で「殊更・わざわざ」の意。]

 

古京の花にあこがれて、

畫堂の壁にもたれつゝ、

昔をしみしきみをわれ、

また見るべしと思ひきや。

 

海なき園の山中に、

都あるこそをかしけれ、

鴨の川原の漣に、

世に手弱女は生るれど。

 

朱の袂をふりはへて、

若菜摘みけむいにしへの、

紫野ゆきしめの行き、

繪筆なきこそうらみなれ。

 

萠えては靑き春艸を、

若き二人が踏み分けて、

別れし跡を語らへば、

こゝろの花の枯るゝかな。

 

あれ見そなはせ西山の、

峰のいたゞき色染めて、

木立はなれぬ夕雲に、

春の光も沈みたり。

 

 

  水 馴 棹

 

朝雲深き川上の、

森の木末のうす月に、

谷間をくだす筏師の、

歌もほのかにきこえきて。

 

親はへさきに子はともに、

かたみにさすや水馴棹、

馴れてもなやむ早き瀨を、

いざよふ浪も碎けつゝ。

 

削るがごとき岩が根に、

すがりて嘆くや山躑躅、

紅ふかく色染めて、

下行く水に映りつゝ。

 

うたへる唄もをりをりは、

浪のひゞきにうづもれて、

重なり立てる夏山の、

靑葉のひまをめぐり行く。

 

蓑の衣をあふらせて、

谷吹く風のすゞしきに、

親子ふたりが棹とれば、

あやふき瀨々もわすれつゝ。

 

「和子よまだきになが母の

山邊に笹や刈るならむ。

わづかばかりの賣代を、

髮の飾りに代へもせで」

 

「さなり父うへ今朝はしも、

うの花咲ける谷陰の、

月にわかれて下りしが、

一人しませばさびしきに。

 

市の泊にふねはてゝ、

一日の業のをはりなば、

巷に何はあるとても、

とくわが家にかへらなむ」

 

「なれの皈るをまちわびて、

母も門邊に立つならむ。

今宵も裏の瀧津瀨に、

夕涼みせんみたりして」

 

親はわが子を子は親を、

いたはりながらさす棹に、

岩堰く水のせゝらぎも、

たのしき聲や立つるらむ。

 

ほのぼの明くる谷川の

水の面ふかく霧立ちて、

岸の杉村遠こちに、

やまほとゝぎすみだれ啼く。

 

 

 絹繪の鴛鴛

 

西のみやこの寺々の、

鐘に柩を送らせて、

北の山べにをさめては、

夜な夜な月や照しけむ。

 

加茂の川原に冬ざれば、

洒せる布は白かるに、

裁ち縫ふ人のあらざれば、

千鳥啼く夜や寒からむ。

[やぶちゃん注:「洒」には「すすぐ・あらう」の意があるので、「さらせる」(晒せる)と訓じていよう。]

 

墨のかをりもかんばしく、

絹にゑがきし鴛鴦の、

かたをこの世のかたみにて、

ゆきにし人のこゝろはも。

 

百萩咲ける池水の、

さゞ浪靑き下かげに、

羽を並ぶる鳥見れば、

かたとは思へどかなしきに。

[やぶちゃん注:「百萩」「ももはぎ」で沢山の萩の意。

「かた」「形・型」で絵図の意であろう。]

 

こひしき人にわかれては、

獨さびしき小衾に、

夢あたゝかき手枕を、

またまくすべはあらざらむ。

 

玉の小筥の紐ときて、

床のべさらずかゝげても、

とばにきえせぬ色彩の、

千年見るともかたなるを。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年三月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。最終連の「とばにきえせぬ色彩の」の「とば」は不詳。「千年見るともかたなるを」とコーダするなら、「とは」(永久)かとも思ったが、判らぬ。識者の御教授を乞う。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(26) 「神々降臨ノ跡」(2)

 

《原文》

 サテ當初駒ノ足跡ヲ崇敬スルニ至リシ動機ニ付キ、尙一段ノ考察ヲ試ミント欲ス。蓋シ駒形ハ元來定マリタル一種ノ神ノ名稱ニハ非ズシテ、實ハ各地ノ祭神ニ共通ナル威靈ノ徵(シルシ)ナリシヲ、特ニ之ニ由リテ神ニ名ヅケタリシ社ノミガ中ニ就キテ有名トナリシナリ。サレバ奧州又ハ箱根ノ駒ケ嶽トハ些カモ關係無キ諸國ノ社ニモ、駒形石ノ少ナカラザルハ前ニ既ニ言ヘルガ如シ。【白山權現】江州愛知郡押立村ノ客人宮(マラウドミヤ)ハ押連莊(オシタテノシヤウ)十七鄕ノ總氏神ナリ。此社ノ神ハ加賀ノ白山大權現ニシテ、往古神馬ニ召シテ此地ニ飛移リタマヘリトテ、社ノ近邊ヨリ森ノ北ヲ流ルヽ小川ノ岸ニ掛ケテ、其駒ノ足跡多ク殘存ス〔淡海木間攫〕。客人社ノ白山菊理比賣神ナルコト、及ビ此神ノ北國ヨリ飛ビタマヒシコトハ、共ニ日吉二十一社ノ古傳ノ中ニ見ユルコトニテ、ソレ故ニ客人ト稱スト云フ說アリ。而モ此押達莊ノ地ハ夙ニ日吉ノ客人社ノ所領ニシテ且ツ氏子ナリ。續古今集ニ載セラレタル押達宮奉納ノ歌ニ

  爰ニ又宮ヲ分チテヤドスカナ越ノ白根ヤ雪ノフル里

トモアレバ〔地名辭書〕、右ノ緣起ノ如キモ恐クハ却リテ比叡ノ麓ヨリ飛移リシモノナルべシ。但シ日吉ノ本社ニ在リテハ未ダ馬蹄ノ傳說アルコトヲ聞カザルナリ。【客人權現】思フニ客人トハ即チ客神ニシテ元ハ外國ヨリ來タリシ神ナルべシ。之ヲ白山ノ神ニ托セシハ深キ仔細ノアルコトナランモ、今之ヲ推測スルコト能ハズ。紀州ノ熊野モ古キ神ナレドモ亦震旦ヨリ飛來タマヘリト云フ說アリ〔簠簋内傳〕。【熊野】東國ニ數多キ熊野ノ勸請社ノ中ニハ、馬蹄ノ口碑亦少ナカラザルコトナラン。【鞍石】自分ノ知レル限リニテハ、武州西多摩郡小宮村大字乙津(オツ)ノ熊野神社ニ、鳥居場ヨリハ四五町ノ上手(カミテ)道ノ左ニ馬蹄石ト鞍石アリ。熊野權現馬ニ乘リテ此處ヲ通ラレシ折ノ跡ナリト云フ〔新編武藏風土記稿〕。山城男山ノ八幡ニ駒形神人ナル者ノ住セシコトハ前ニモ述べシガ、此山中ニモ八幡神ノ神馬ノ足跡アリ〔神名帳頭注〕。八幡モ最初ハ白山熊野ト同ジク、遠方ヨリ降臨セラレシ神ナリ。遠江龍池村ノ八幡ニ駒形杉ヲ說クガ如キハ、或ハ戰後ノ人心ヲ利用シテ古緣起ノ燒直シヲ試ミタルモノトモ見ルヲ得べキナリ。

 

《訓読》

 さて、當初、駒の足跡を崇敬するに至りし動機に付き、尙、一段の考察を試みんと欲す。蓋し、駒形は、元來、定まりたる一種の神の名稱には非ずして、實は各地の祭神に共通なる威靈の徵(しるし)なりしを、特に之れに由りて神に名づけたりし社のみが、中に就きて有名となりしなり。されば、奧州又は箱根の駒ケ嶽とは些(いささ)かも關係無き諸國の社にも、駒形石の少なからざるは、前に既に言へるがごとし。【白山權現】江州愛知(えち)郡押立村の客人宮(まらうどみや)は押連莊(おしたてのしやう)十七鄕の總氏神なり。此の社の神は加賀の白山大權現にして、往古、神馬に召して、此の地に飛び移りたまへりとて、社の近邊より森の北を流るゝ小川の岸に掛けて、其の駒の足跡、多く殘存す〔「淡海木間攫」(あふみこまざらへ)〕。客人社の白山菊理比賣神(はくさんきくりひめがみ)なること、及び、此の神の北國より飛びたまひしことは、共に、日吉(ひえ)二十一社の古傳の中に見ゆることにて、それ故に「客人」と稱すと云ふ說あり。而(しか)も、此この押達莊の地は夙(つと)に日吉の客人社の所領にして、且つ、氏子なり。「續古今集(しよくこきんしふ)」に載せられたる押達宮奉納の歌に、

  爰(ここ)に又宮を分ちてやどすかな

     越(こし)の白根や雪のふる里

ともあれば〔「地名辭書」〕、右の緣起のごときも、恐らくは、却りて、比叡の麓より飛び移りしものなるべし。但し、日吉の本社に在りては、未だ馬蹄の傳說あることを聞かざるなり。【客人權現】思ふに、「客人」とは、即ち、「客神(まらうどがみ)」にして、元は外國より來たりし神なるべし。之れを白山の神に托せしは、深き仔細のあることならんも、今、之れを推測すること、能はず。紀州の熊野も、古き神なれども、亦、震旦(しんたん)より飛び來たまへりと云ふ說あり〔「簠簋内傳」(ほきないでん)〕。【熊野】東國に數多き熊野の勸請社の中には、馬蹄の口碑、亦、少なからざることならん。【鞍石】自分の知れる限りにては、武州西多摩郡小宮村大字乙津(おつ)の熊野神社に、鳥居場よりは四、五町[やぶちゃん注:四百三十六から六百四十六メートル半。]の上手(かみて)道の左に「馬蹄石」と「鞍石」あり。熊野權現、馬に乘りて、此處(ここ)を通られし折りの跡なり、と云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。山城男山の八幡に、「駒形神人」なる者の住せしことは前にも述べしが、此の山中にも八幡神の神馬の足跡あり〔「神名帳」頭注〕。八幡も、最初は白山・熊野と同じく、遠方より降臨せられし神なり。遠江龍池村の八幡に駒形杉を說くがごときは、或いは戰後の人心を利用して、古緣起の燒き直しを試みたるものとも見るを得べきなり。

[やぶちゃん注:「江州愛知(えち)郡押立村の客人宮(まらうどみや)」「歴史的行政区域データセット」の「滋賀県愛知郡東押立村」の域内からグーグル・マップ・データ(以下同じ)を示すと、滋賀県東近江市のここら一帯となるが、改名したか、合祀したか、それらしい神社を現認出来なかった。ただ一つ気になるのは、柳田國男はこの奇体な名の神社は「押連莊(おしたてのしやう)十七鄕の總氏神」と言っていることで、調べる内に、旧押立村の南西に隣接する東近江市北菩提寺町に押立神社があり、その西北西直近には白山神社がある(示した地図の中央に配した)ことである。私の探索はこれが限界。【同日午後三時:追記】公開当日中に何時ものT氏より情報来信、

   《引用開始》

「近江愛智郡志」巻四 の「第六節 西押立村」の「押立神社」の項に[やぶちゃん注:リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」の当該ページ。「近江愛智郡志」同巻は昭和四(一九二九)年近江愛智郡教育会編・刊。]、『押立神社は西押立村大字北菩提寺に鎭座す祭神火靈命伊邪那美命なり。當社は明治維新以前は客人大明神と稱し又押立二社大明神と號す。押立山の押立明神と二社鎭座の宮なるによれり。客人の神は山王七社中の一神にして此の神は押立庄内の地が延曆寺領たりし時山王七社中の客人社を分祀せしを創始とす』とありますから、貴下御推察の通りです。

   《引用終了》

とあった。まずは、安堵。

「白山菊理比賣神(はくさんきくりひめがみ)」「古事記」には登場せず、「日本書紀」も一書に、それも一度だけ出てくるのみの女神。詳しくはウィキの「菊理媛神」を見られたいが、シャーマンがモデルである可能性が濃厚。

「日吉(ひえ)二十一社」滋賀県大津市坂本の現在の日吉(ひよし)大社に所属する二十一の神社の総称。上・中・下の各社に、それぞれ七社ずつが区分されてあるので、合計で二十一社になる。「日吉」は二次世界大戦以前は「ひえ」と読んでいた

「續古今集(しよくこきんしふ)」「続古今和歌集」は鎌倉時代の勅撰集。二十一代集の第十一番目。全二十巻。正元元(一二五九)年に後嵯峨院の院宣により藤原為家・基家・家良・行家・光俊が撰し、文永二(一二六五)年に成立。歌数約千九百首。

「押達宮奉納の歌」「爰(ここ)に又宮を分ちてやどすかな越(こし)の白根や雪のふる里」「続古今和歌集」の「巻七 神祇」にあるかの九条(藤原)良経の一首。但し、「日文研」の「和歌データベース」を見ると、

 ここにまたひかりをわけてやとすかなこしのしらねやゆきのふるさと

で、「宮」ではなく、「光」である。確かに一読した時、かの私が特異的に好きな「秋篠月清集」の名歌人にしては、やけに事実をマンマを詠んでいて「何だかな」って気がした。「光」がよかろうぞ。【同日午後三時:改稿・追記】T氏に御教授頂いた「国立国会図書館デジタルコレクション」の「近江愛智郡志」巻四 の「第六節 西押立村」の「押立神社」の項のこちらに、「續古今和歌集」からの引用として(そこに『後京極攝政前太政大臣』とあるのは九条良経の通称)

 爰にまた、光をわけてやどすかな、越の白根や雪の古里。

とあった。やはり「光」。「宮」とする一本があるのかも知れぬが(でなければ、柳田國男の凡ミス)、やっぱ、これ、「光」で、しょう。

「震旦(しんたん)」古代中国の異称。古代インド人が中国をチーナ・スターナ(「『秦』の土地」の意)と呼んだのに由来する。古くは「しんだん」とも濁った。

「簠簋内傳」(ほきないでん)」書名注は附さない約束だが、私は完全な偽書と考えているので特に注しておく。全五巻。「金烏玉兎集」とも呼ぶ。陰陽師安倍晴明作とされるが、祇園社(八坂神社)に拘わる人物による偽作とする説が強く、成立も南北朝から室町時代と推定されている。中天竺の吉祥天源王舎城の牛頭天王が、巨旦(こたん)大王の妨害に苦しみながらも、蘇民将来の助力を得て、后をめとるという筋を源流として、天文・暦数の百科辞書的な項目をそれに関係づけている(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「武州西多摩郡小宮村大字乙津(おつ)の熊野神社」現在の東京都あきる野市乙津はここだが、地区内に熊野神社は現認出来ない。「新編武藏風土記稿」も少し見たが、それらしく見える地名と熊野社を見つけたものの、伝承が記されていないから、違う。【同日午後三時:削除・追記】やはりT氏の情報。

   《引用開始》

「新編武藏風土記稿」の「乙津村熊野神社」の記載[やぶちゃん注:「国立国会図書館デジタルコレクション」のここ。「巻之百十下 多摩郡之二十二下 小宮領」の中の「乙津村」に伝承ともに記載があった。私の見落としであった。]に「村の北の方光明山にあり。入口羊腸の坂ありて……(以下略)」

とあり、そこで、「あきる野・光明山」で探すと、

「全国熊野神社参詣記」の「東京都の熊野神社」に、高明神社(東京都あきる野市乙津二一二三)がヒットし、そこに「由緒 古くは熊野三社権現と称した。光明山上にあったが平成三年[やぶちゃん注:一九九一年。]現在地に遷座した。」

さらに、こちらには、遷座前の跡地の写真がアップされています。

残念ながら、江戸時代の熊野神社(高明神社)鳥居場下の高岩、馬蹄石・鞍石は、消えてしまったようです。

   《引用終了》

高明神社の位置はこちらで、旧地光明山(標高七百九十八メートル)はここ(山名が出る国土地理院図で示した。そこでは高明神社の表示がないが、「乙津」地区の寺院記号の北西直近である。ここは昔はこの山上の熊野神社に参詣するための登り口であったことが判る。なお、「東京都神社庁」のデータで調べると少なくとも高明神社の「高明」は「こうみょう」と読む。

『山城男山の八幡に、「駒形神人」なる者の住せしことは前にも述べし』ここ

「遠江龍池村の八幡に駒形杉を說くがごときは、或いは戰後の人心を利用して、古緣起の燒き直しを試みたるものとも見るを得べきなり」私は諸手を挙げて賛成する。]

2019/05/30

海士の囀 すゞしろのや(伊良子清白)

 

海士の囀

 

 

  ある高山にて

 

雲の梯よぢのぼり、

衣なびけて夜立てば、

 

秀(ほ)つ高みねの上にして、

袂に星もひろふべく、

 

ほがらほがらと天の原、

わたらふ月の影淸み、

 

風に布かるゝ八重霧の、

したに國土(クヌチ)のあるかそも、

 

天と地とにたゞよひて、

かげもひかりもいろもなき、

 

くしき力にうたれつゝ、

なにとはしらずなみだおつ。

[やぶちゃん注:「梯」「かけはし」と訓じておく。

「布かるゝ」「しかるる」。]

 

 

  

 

七人の子を生むとても、

女にこゝろゆるすなと、

むかしの聖をしへけむ、

百人の子あらばあれ。

 

などあさましきこの世ぞも、

刀の紐のうちとけて、

ふた世を契る妻をさへ、

あだとよぶてふ折あれば。

 

史てふ史を瀆したる、

血しほの史のおほかたは、

女の業にあらざらむ、

をのゝきてこそ讀みにしか。

 

女の髮のいくすぢを、

小琴に張りて彈く時は、

百の獸の王といふ、

獅子もおそれてにぐるとか。

 

物の博士のかにかくと、

論へるもきゝしかど、

女を鬼といふことは、

わがこゝろより放ち得じ。

 

鏡の面にうつし見て、

おのが姿のおそろしく、

人にとつぎしくはし女の、

はじめて眉を剃りしとか。

[やぶちゃん注:「論へるも」「あげつらへるも」。]

 

 

  大西日月子へ

 京にて親くせし大西白月子はまたの號を桂涯といへり。い
 みじう繪に巧にして、歌詠む業にも秀で給へり。今騎兵と
 なりて讚岐におはするに、まゐらせたるうた。

現人神(ウツヒトガミ)のすめらぎの、

詔(マケ)のまにまにかしこみて、

醜(シコ)の御盾と矛とれる、

城はととへば駒とこそ。

 

生田の杜にさく梅の、

ほゝゑむ枝をかざしけむ。

箙のぬしは一人かは、

かた畫き給ふきみあるを。

 

琴平みやのはるのくれ、

夕山おろしふくなべに、

こまの立髮花散らば、

白月毛とや名にたゝむ。

 

八十島かけてはるはると、

月こそてれゝ迫門(セト)の海。

みぎはさばしる細鱗(ウロクヅ)の、

こゝろあるかや鰭振りて。

 

かゝるながめは時分かず。

海の南のしづめとて、

林のごとく益荒雄の、

つらなる見てもをゝしきに。

 

勇魚(イサナ)吼えよるみ熊野の、

熊野の浦にうらぶれて、

われありとしも忘れずは、

はかなき願きゝてもが。

 

鬼の棲むてふ八鬼山の、

八百重の美根のふもとにて、

苫家をゆする汐風を、

馴れては地震と思はねど。

 

花も紅葉もまぼろしの、

影よりほかにしらざれば、

しばしば文にめし給ふ、

歌などいかであるべきか。

 

なかなかきみのさゝらがた、

錦の紐をときさけて、

玉の小宮に祕め給ふ、

絹繪を贈りたまはらば。

 

天馳りても魂ゆきて、

讚岐の沖に立つときく、

はらから石のゐならびて、

二人かたると思はむに。

[やぶちゃん注:第四連「はるはると」の「はるはる」は底本では後半が踊り字「〱」であるので、かく正字化した。「大西日月子」「號を桂涯」は伊良子清白が添書きした以外のことは不詳。]

 

 

  月 の 夜

 

このさやかなる月影に、

見らるゝことのはづかしく、

そむくとせしをあやにくに、

きみもこなたにむき給ふ。

 

いもとでなきがなにとなく、

こゝろのうちにうれしくて、

いつものやうに兄樣と、

いはぬをなぜととはれなば。

 

にぎるともなくにぎられて、

はなすをりにはなにとせん、

鬢のほつれのみだれきて、

搔きあげたくは思へども。

 

城のあとてふあの松に、

あれあれ月のかゝりたり、

昔の人を吊はゞ、

涸井の底もてらせかし。

 

思はず月や見入りけん、

なにを思にふけりけん、

きみも知らでかとくすぎて、

わが家はあとになりつるを。

 

 

  十津川の山中にて

 

まだ夜探しとおぼえたり。

こゝは峠の上ながら、

なほ明星の影見えず、

たゞしろじろと天の河、

南のかたに流れたり。

 

人をうづむる高がやの、

蓑の衣とすれあふに、

そよぐがごとく音立てゝ、

枯れし尾花の折れたるが、

面わなづるもけうとしや。

 

松明あげて見るかたに、

おどろかれにし寺の堂、

板は獸の蹄(アト)を印(ツ)け、

衆鳥の糞(クソ)ほの白く、

網もやぶれて山蛛兒(クモ)は、

なにのえじきにはまれけむ。

 

ひけば扉にむしばみて、

ほとけも末やすゝけては、

鼠も牙をかけざらむ。

雨風ごとに護摩檀の、

灰もこぼれて流れけむ。

 

この荒堂に夜を籠めて、

しのゝめ近くなるまゝに、

谷より雲やのぼるらむ、

たちまち狹霧おそひきて、

松の火白くしめりしが、

山高くてや小雨して。

[やぶちゃん注:「蛛兒(クモ)」「クモ」は「蛛兒」二字へのルビ。蜘蛛の異名としてこの熟語は見たことがないが、何だか、不思議に違和感はない。]

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年三月五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

ニンフス ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    ニ ン フ ス

 

 私は半圓(はんゑん)をなした美しい山脈に對(むか)つて彳んでゐた。若々しい綠の森がその頂(いたゞき)から麓まで蔽うてゐた。

 その上には澄み渡つた靑い南國の空が輝いてゐた。頂には日光が戯れ、麓には半ば草に隱されて、小川の早瀨がさざめいてゐる。

 するとかの古傳說が私の胸に浮んだ。基督降誕後一百年、希臘の船が多島海を走つてゐた時のことである。

 時は眞晝(まひる)……天候(てんき)は靜穩であつた。突然水先案内の頭上高く聲あつてはつきりと呼ばはつた、『汝かの島の傍を行かば、聲高く呼ばはれよ、「大いなる神パンは死せり!」と』

 水先案内は驚いた……恐れた。けれども船がその島にさしかかつた時。彼はその命に從つて呼ばはつた、『大いなる神パンは死せり!』

 すると忽ちその叫聲に應じて、その海岸のすべてに亘つて(その島は無人であつたけれども)高い歔欷慟哭の聲、長く曳いた悲鳴の叫びが響き渡つた。『ああ死せり! 大いなる神パンは死せり!」と。私は此の傳說を思出した……そして妙な考へが胸に浮んだ。『若し今私が呼び懸けたならばどうであらう?』

 ところで身のまはりの喜ばしげな美景を眺めては、死ついて考へることが出來なかつたので、私は懸命の聲を舉げて叫んだ、「大いなる神パンは蘇(よみがへ)れり! 蘇(よみがへ)れり!』すると忽ち、何等の不思議ぞ、私の叫び聲に應じて、半圓形の綠の山脈から嬉しさうな笑ひのどよめき、喜ばしさうな私語(さゝやき)や拍手の音が起つた。

『彼は蘇(よみがへ)れり! パンは蘇れり!』と若々しい聲々がどよもした。眼前(めのまへ)のすべては急に笑ひはじめた、大空の日よりも輝かしく、草間を流るる小川のせせらぎよりも樂しげに。せはしげなぱたぱたと云ふ輕い足どりが聞え、綠なす木立の間には、ふはりとした白衣が大理石のやうにきらめき、生々(いきいき)と紅味(あかみ)のさした裸形の四肢(てあし)がちらちらした……それは山からこの野邊へと急ぐニンフや、ドライアッドやバッカントの群れなのであつた。

 忽ち彼等は森のすべての出口に姿をあらはした。捲髮(まきげ)はその神々しい頭から垂れ下り、そのしなやかな手には花輪や鐃鈸(にようばち)を捧げ持つてゐる。そして笑聲は、はれやかな神々の笑ひ(オリンピアン・ラフタア)は飛びつ躍りつ彼等に伴つて來る……[やぶちゃん注:「オリンピアン・ラフタア」のルビは「神々の笑ひ」の五文字に対するもの。]

 一人の女紳が彼等の先頭に立つてゐる。彼女は皆の神より一層脊(せい)が高くて美しい。肩には箙(えびら)、手には弓を携へて、その浪打つた捲髮(まきげ)には白銀(しろがね)の新月(しんげつ)がきらめいてゐる……

『ダイアナ、おん身はダイアナだな?』

 けれどもその女神は突然立止つた……そして一時にニンフの群れもすべて立止つた。はればれしい笑ひ聲は消え失せてしまつた。

 私は沈默せる女神の顏が忽ち死人のやうに蒼褪(あをざ)めたのを見た、彼女の足は地にぴつたり着いてしまつて、名狀すべからざる苦痛に脣が開き、眼が大きく見開かれて遠方を凝視するのを見た……彼女は何を見附けたのだらう? 何を見詰めてゐるのだらう?

 私は彼女の見詰めてゐる方に向きかへつた……

 遙かなる地平線の上、なだらかな野の果てに、基督教の寺院の白い鐘樓の頂きに、一點の火のやうに黃金の十字架がきらめいてゐた……此の十字架を女神は目に留(と)めたのであつた。

 後(うしろ)に切れた絃(いと)のやうな長い切(せつ)なげな嘆息(ためいき)が聞えたので、私が振向いて見ると、ニンフの群れはあと方もなく消え失せてゐた……うち擴がつた森は依然として綠で、ただ繁り合つた木の間の其處此處(そここゝ)に何か白いものがかつ消えかつ輝いてゐたが、それがニンフの白衣であるか、谿(たに)から立のぼつた聲であるかはわからない。

 然し、女神達の消え失せたのを私はどんなにか悲しんだであらう!

    一八七八年十二月

 

ニンフス、この篇は基督教と異教との爭鬪を知つてゐなければわからない。基督教の宣傳されると共に、希臘の神々は滅ぼされてしまつた。】

パン神は牧神である、頭に角を生やし、半羊の姿をしてゐる。】

ニンフ、山林水澤の神、女神である。】

ドライアツド、森の闇の中に棲んでゐるニンフの一種。】

バツカンテス、酒神バツカスに仕へる女神達をいふ。】

神々の笑ひ(オリンピア・ラフタア)、無遠慮な哄笑である。神々はよく笑ふのだ。】

ダイアナ、狩獵の女神である、貞潔を代表してゐる。ダイアナの原形は月だから月を頂いてゐるのだ。】

十字架云々、基督教は神々には禁物だから、それで十字架を見て驚き恐れたのである。】

[やぶちゃん注:生田の詩篇本文の外来語の表記と註の違いは総てママである

「ニンフス」英語「nymph」(可算名詞)の複数形のカタカナ音写。古代ギリシャ語では「ニュンペー」(ラテン文字転写:Nymphē)で複数形は「ニュンパイ」(Nymphai)。

「パン神」(Pān)はギリシア神話に登場する牧羊神の半獣神で、ローマ神話におけるファウヌス(Faunus)と同一視される。

「歔欷」「きよき(きょき)」。啜(すす)り泣き。咽(むせ)び泣き。

「ドライアッド」英語「dryad」のカタカナ音写。ギリシア神話に登場する木の精霊であるニンフのドリュアス(ラテン文字転写:Dryas)。

「バッカント」「バツカンテス」これは本来はギリシア・ローマ神話に登場する豊饒と酒の神ディオニュソス(Dionȳsos))や酒神バッカス(Bacchus)の女性の信奉者を指すマイナス(複数形:マイナデス/英語: Maenad)。ウィキの「マイナス(ギリシア神話)によれば、マイナスと『は「わめきたてる者」を語源とし、狂暴で理性を失った女性として知られる。彼女らの信奉するディオニューソスはギリシア神話のワインと泥酔の神である。ディオニューソスの神秘によって、恍惚とした熱狂状態に陥った女性が、暴力、流血、性交、中毒、身体の切断に及んだ。彼女らは通常、キヅタ(常春藤)』(セリ目ウコギ科キヅタ属セイヨウキヅタ Hedera helix)『でできた冠をかぶり、子鹿の皮をまとい、テュルソス』(thyrsos:オオウイキョウ(セリ目セリ科オオウイキョウ属オオウイキョウ Ferula communis)で出来た杖。ブドウの蔓や葉などで飾られ、先端に松毬(まつかさ)を附けたものである。「タイニア」と呼ばれるリボン状のものが添えられる場合もある)を持ち運んでいる姿で描かれる。そこで未開時代に見合った粗野で奔放な踊りを踊る』。『ローマ神話では、ディオニューソスに対応する』バッカスに『狐の皮(bassaris)を身につけさせる傾向が強くなった後、マイナスはBassarids(またはBacchae、Bacchantes)としても知られることとなった』とある中の、英語の複数形「Bacchantes」と、その単数形「bacchante」をカタカナ音写したもの。

「鐃鈸(にようばち)」ルビは擦れて「□よ□ばち」しか現認出来ないが、「う」は破片から推すことが出来、その場合、「にようばち」と振られていると考えるしかない。しかし、これは歴史的仮名遣としては誤りで「ねうばち」(原題仮名遣は「にょうばち」)でないといけない。而して「鐃鈸」とは「鈴」或いは「銅製の銅鑼・シンバル」である。孰れでもよいように思われるかも知れないが、ギリシャ神話の技芸神の女神の祝祭に捧げ持つてゐる持ち物としては、私には孰れも、今一つ、ピンとこない気がするのである。鈴はやや小さい感じがし、ドラやシンバルはちょっと重々しい。原文を見ると、ここは「тимпаны」(ラテン文字転写:timpany)であって、これはイタリア語の「timpani」、楽器の「ティンパニ」であるが、これも相応しくないように思われるのだが、この西洋の「太鼓」を先の「鈴」や「シンバル」と合成してみると、ある楽器が思い出される。それは英語「timbrels」「tabourine」、タンバリンである。小さなシンバル状の鈴のついたタンバリンはニンフの持ち物に相応しく、ここでの音響としても、私は最もしっくりくる楽器であると思うのである。

「神々の笑ひ(オリンピアン・ラフタア)」「Olympian Laughter」(オリンポスの神々の笑い)という「神々の哄笑」の成句表現があるのかと思って調べたが、ない。]

「ダイアナ」ローマ神話に登場する、狩猟と貞節、及び、月の女神ディアーナ(ラテン語表記:Diāna)。新月の銀の弓を手にする処女の姿を特徴とする。日本語では長母音記号を省略して「ディアナ」とも呼び。英語「Diana」から「ダイアナ」の表記が現行は一般的。ギリシア神話ではアルテミス(Artemis)に相当する。主に南イタリアのカプアとローマ附近のネミ湖湖畔のアリキアを中心に崇拝された。]

スフィンクス ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    スフィンクス

 

 上の方は柔かく、底の方は硬(かた)くきしむ黃色がかつた灰色の砂……見渡す限り際涯(はて)のない砂。

 そして此の沙漠の上、此の死せる砂埃(すなぼこり)の海の上には。埃及のスフィクスの巨大な頭が突出てゐる。

 これ等の厚い出張つ脣や、動くことなく開いた仰向いた鼻孔、二つの眼、二重の弓門(アーチ)のやうになつた高い眉の下に半ば眠り半ば醒めてゐるやうな眼などは何を言はうとしてゐるのだらう?

 それ等は何か言はうとしてゐるのだ。實際それ等は何か語つてゐるのだ。けれどもその無言の言葉を解し、その謎を解き得るものは、ただエヂプスだけである。

 ところで、私はかうした容貌(かほつき)を知つてゐる……それには少しも埃及風のところはない。白い低い額、出張(でば)つた頰骨。短かい眞直(まつすぐ)な鼻、綺麗な口に白い齒、柔かな口髭にちぢれた顎髯、ずつと懸け離れた二つの大きからぬ眼……そして頭には眞中(まんなか)から分けた髮を頂いてゐる。……ああ。それは汝である、カルプである、シドルである、セミヨンである、ヤースラアフやリヤザンの百姓、我が同國人、血あり肉ある露西亞人である! 汝もまたスフィンクスの仲間であるか?

 汝もまた何をか言はうとするか? 然り、汝もまたスフィンクスである。

 そして汝の眼、汝の光澤(つや)のない窪(くぼ)んだ眼もまた語つてゐる……そして汝の言葉もまた無言で謎のやうである。

 然し汝のエヂプスは何處にゐるか?

 惜むぺし! 汝のエヂプスとなるためには、百姓服を着ただけでは十分では無いのである。おお、全露西亞のスフィンクスよ!

    一八七八年十二月

 

スフインクス、埃及のスフインクスは誰でも知つてゐるが、露西亞の農夫をそれに比したのである。】

エヂプスはテエベの王、スフインクスの謎とは、朝は四本の足で行き、晝は二本の足で行き、夜には三本の足で行く者は何と云ふので、女面獅身翼を備へたスフインクスと云ふ怪物がこの謎に答へない者は皆岩から突落してしてしまふので、それを退治たものを王にすると云ふ布告が出ると、エヂプスが見事その謎を解いてそれは人間だと言つた。赤ん坊の時は四つん這ひ、大きくなると立つて步き、年を取ると杖を突くからだ。それでスフインクスは岩から身を投げて死に、エヂプスは王になる。その後の悲劇はソツオクレスの名作があつて、この間藝術座でも上演した。さう云ふ事からして、ツルゲエネフは埃及のスフインクスの面、更に露西亞農民の面それ自らを謎だと云つたのである。】

カルプ等は皆ありふれた百姓の名前。】

リヤザン等は地名。】

百姓服云々は百姓服を着て人民の愛願を獲ようとした熱狂的なスラヴ主義者、國粹主義者を諷したものである。】

[やぶちゃん注:本文が「スフィンクス」で、註では「スフインクス」であるのはママ。

「ソツオクレス」古代ギリシアの悲劇詩人のソポクレス(ラテン文字転写:Sophoklēs 紀元前四九六年頃~紀元前四〇六年頃)のこと。言わずもがなであるが、彼の「名作」とはギリシャ悲劇の最高傑作とされる「オイディプス王」(ラテン文字転写:Oedipus Tyrannus)のこと。紀元前四二七年頃の作とされる。]

太平百物語卷五 五十 百物語をして立身せし事 附 奥書・冠首・全巻目録 /「太平百物語」~全電子化注完遂

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   ○五十 百物語をして立身せし事

 或(ある)國主(くにのかみ)の若君、御とし、未(いまだ)十才斗(ばかり)にならせ給ふが、ある日の事なりし、朝、とく、おきさせ玉ひて、御書院に出(いで)させ玉ひけるに、手水鉢(てうずばち)の際(きは)に、猫の切られて死(しゝ)ゐけるを御覽ありて、近習(きんじゆ)の人を召(めし)、

「是れは。いかに。」

と仰(おほせ)下されければ、

「されば候。いかなる者か、仕り候やらん。」

とて、則(すなはち)、御家中(ごかちう[やぶちゃん注:ママ。])へ觸(ふれ)ながして、御僉議(ごせんぎ)有(あり)ければ、御兒小姓(おんこごしやう)に蔭山只之進と申者、罷出(まかりいで)て申しけるは、

「某(それがし)、夜前(やぜん)御寢番(おんねばん)を相勤(あひつとめ)候所に、五更の比(ころ)ほひ、用事に罷出候ひしが、此[やぶちゃん注:「この」。]御緣先(ごゑんさき)に、たけ六尺斗(ばかり)[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]と見へし女の、髮を乱して立[やぶちゃん注:「たち」。]ゐけるまゝ、變化(へんげ)の者と存じ、やがて切(きり)はなし候へば、何國(いづく)ともなく迯失(にげうせ)候ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今日(こんにち)、御沙汰にもおよび奉らざるに、扨(さて)は、此[やぶちゃん注:「この」。]猫にて、御坐有(ござあり)けるにや。」

と申し上げければ、若君、殊の外、御きげんにて、仰(おほせ)けるは、

「かゝる事も、世に有(ある)事にや。」

と御尋(たづね)ありければ、御近習頭(ごきんじゆかしら)伴丈右衞門(ばんじやうゑもん)、申し上られけるは、

「さん候。其實否(じつふ[やぶちゃん注:ママ。])は存じ奉らず候ふといへども、世にばけ物有(あり)と申す事は、每度、咄(はな)しに承り候。」

と答へ奉れば、

「さらば、咄し仕(つかまつ)れ。」

と仰(おほせ)ありしほどに、取(とり)あへず、恐ろしき昔物がたりを申し上られければ、限りなく興(けう)ぜさせ玉ひて、それより、ひたと、化者咄しを御さいそく有(あり)ければ、御近習(ごきんじゆ)の人々も、御奉公の事なれば、御機嫌をとりどりに、樣々、おもひ出(いづ)るまゝ、御咄し申し上られけるが、每日每夜の事なれば、今は御咄しのたねつきて、皆々、案じ煩(わづら)ひけるが、御臺所に御料理方(おんりやうりかた)をつとめ居(ゐ)ける与次(よじ)といふ者あり。

 いろいろの恐しき咄を能(よく)覚へゐるよし、沙汰しければ、若君、此よし、聞し召(めし)、「急ぎ參りて、御はなし、申し上(あぐ)べき」よしの御意有難く、御前(おんまへ)に罷出(かまりいで)、いろいろの、ばけもの咄、或は、ゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。]・ろくろ首・天狗のふるまひ・狐狸(きつねたぬき)のしわざ・猫また・狼が惡行(あくぎやう)、おそろしき事、哀(あはれ)なる事、かなしきむくひ、武邊成(なる)手柄(てがら)ばなし、臆(おく)したる笑ひ草(ぐさ)[やぶちゃん注:「気後(きおく)れしてしまって大失敗したような笑い話」。前の「武辺とするに相応しい手柄話」の対義表現。]など、手をかへ、品を分(わか)ち、御咄しを申し上ければ、若君、限りなき御機嫌にて、それより、每日每日、

「与次、与次。」

と召されけるが、此若君、御成長の後(のち)、國主(こくしゆ)と成(なり)玉ひければ、彼(かの)与次を召出(めしいだ)され、

「汝、我(わが)いはけなかりし比(ころ)ほひ、さまざまの物語をして、心を慰めしが、稚心(おさなごゝろ[やぶちゃん注:ママ。])に剛臆(がうおく)の差別を知り[やぶちゃん注:剛毅であることとと臆病であることの真の違い。]、恥と譽(ほまれ)の是非好惡(かうあく)を弁(わきま)へし程に、今、以て、益ある事、おほし。然(しか)れば、其儘、下﨟(げらう)にして、遣(つか)ふべきに、あらず。」

とて、忝(かたじけなく)も新知(しんち)[やぶちゃん注:新たに下賜された知行地。]三百石下され、大小姓格(おほこしやうかく)になされけるぞ、有難き。

「是(これ)、偏(ひとへ)に、百物語の數々、能(よく)覚居(おぼへゐ[やぶちゃん注:ママ。])たりし奇特(きどく)なり。」

とぞ、羨まぬ人は、なかりけり。

 目出度かりける、ためしなり。

 

 

太平百物語卷之五終

[やぶちゃん注:本話を以って「太平百物語」は終わっている。この一篇は本書中の特異点で、怪談でも擬似怪談でもなく、謂わば、本「百物語」のような、一見、他愛もない馬鹿げたあり得ない怪談でさえも、それを覚えておくことが、人生の中の思いがけない好機を摑む契機となることもあるという、噂話(実際に在り得そうな世間話)として全体を締め括るなかなかにニクい効果を狙っているものと言え、それは正に以下に示す「冠首」の語りと絶妙に応じている。「菅生堂人惠忠居士」はただの動物怪奇談の名手であるばかりではなく、怪談の大事な規範的属性を体現した、いや、なかなかの作者と存ずるものである。

 以下、現在の奥附に当たる奥書。]

 

 

        作者菅生堂人惠忠居士

        畫工髙木幸助貞武

  享保十七年子三月吉日出來

 

         大坂心齋橋筋書林

           河内屋宇兵衞新刊

 

[やぶちゃん注:「髙木幸助貞武」(生没年不詳)は大坂の浮世絵師。幸助は通称。ウィキの「高木貞武」他によれば、『大坂の人』で、素黙・素黙斎と号した。『はじめは斎藤幸助と称したという。延享』四(一七四七)年刊行の「難波丸綱目」には『「高木幸助」として名が載っている』。『狩野派の絵師牲川充信』(にえかわみつのぶ 生没年不詳:江戸中期の画家で享保(一七一六年~一七三六年)頃に活躍した大坂の人。狩野派の鶴沢探山(つるざわたんざん)に学び、独自の画風を拓いた)『の門人だったと伝わるが、残されている作には画風に西川祐信』(にしかわすけのぶ 寛文一一(一六七一)年~寛延三(一七五〇)年):江戸前期から中期にかけての浮世絵師。江戸を中心とした一枚摺の作品で主に語られる浮世絵の歴史の中で、祐信は京で活躍し、絵本を主に手がけたため、やや等閑視されるきらいがあるが、当世風俗描写を主体としていたそれまでの浮世絵に、古典の知識を作中に引用してこれを当世風に表わすなど、抑揚の効いた理知的な美を追求し、次代の浮世絵師たちに大きな影響を与えた作家である)『の影響がうかがえる。作画期は享保』五(一七二〇)年から宝暦二(一七五二)年の『間にかけてで、主に版本の挿絵を描く。宝暦の初年または明和の初年』(明和元年は一七六四年)『に没したといわれる』とある(代表的作品はリンク先を参照。本書も挙げられてある)。

「享保十七年」は壬子(みづのえね/じんし)で一七三三年。因みに、この年は江戸四大飢饉の一つである「享保の大飢饉」の年である。ウィキの「享保の大飢饉」によれば、前年享保十六年『末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続』き、この板行の直後の夏から『冷夏と害虫により』、『中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約』二『ヶ月間にも及び』、『冷夏をもたらした。このためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。また、江戸においても多大な被害が出たといい、その死者の供養のために隅田川花火大会が始まったとされる』。『被害は西日本諸藩の』内、四十六『藩にも及』び、『藩の総石高は』二百三十六『万石で』あった『が、この年の収穫は僅か』二十七%『弱の』六十三『万石程度』しかなく、『餓死者』は実に一万二千人『(各藩があえて幕府に少なく報告した』とする説もある)『にも達した』(「徳川実紀」では餓死者を九十六万九千九百人とする)。また、二百五十『万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。また、翌享保一八(一七三三)年『正月に飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって』「享保の打ちこわし」も発生している。なお、『最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって』、現在の愛媛県の最北に位置し、愛媛県今治市に属する芸予諸島の中の一つで、大山祇神社がある「神の島」として知られる、同県に属する最大の有人島『大三島』(おおみしま)『だけは』、『下見吉十郎』(秀譽(あさみきちじゅうろうひでたか 寛文一三(一六七三)年~宝暦五(一七五五)年:ここ大三島などの瀬戸内海の島々へサツマイモを広めた六部僧。松浦宗案・義農作兵衛とともに「伊予の三農」と称される人物)『がもたらしたサツマイモによって餓死者を出すことはなく、それどころか』、『余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。 この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した』とある。これを以ってしても「太平」どころではなかったのであった。

 以下、ペンディングしていた本書冒頭に配された「冠首」(序)を示す。]

 

 

太平百物語冠首

 やつがり、年比(としごろ)、西國に經歷して、貴賤・僧俗・都鄙(とひ)・遠境(ゑんきやう)の分ちなく、打交(うちまじは[やぶちゃん注:ママ。])り語らひける中に、あやしの物語どもの、それが中にも、出所(しゆつしよ)の正しきをのみ集(あつめ)て、反古(ほうご)の端に書綴(かきつゞ)り置(おき)しをみれば、其數(かず)、百に滿(みて)り。然るを笥中(しちう)に藏(こめ)て虫糞(むしくそ)となさんも本意(ほゐ[やぶちゃん注:ママ。])なければ、是を梓(あづさ)に壽(いのちながふ)して、吾にひとしき輩(ともがら)に見せなば、永き夜(よ)の眠(ねふ)りを覚(さま)し、寂寞(つれづれ)なぐさむ一助ともならんと、剞劂氏(きけつし)に命じぬ。実(げ)に怪力亂神を語るは、聖(ひじり)の文(ふみ)の誡(いまし)めながら、かく拙き物語も、おかし[やぶちゃん注:ママ。]と見る心より、自然と善惡の邪正(じやしやう)を弁(わきま)へ、賢愚得失の界(さかひ)にいらば、少(すこし)き補ひなきにしもあらずと、いにしへの百物語に太平の御代(みよ)を冠(かふむら)しめて、筆(ふんで[やぶちゃん注:ママ。])を浪花菅生堂(らうくはかんしやうどう[やぶちゃん注:ママ。])の窓中に抛(なげう)つといふ事、しかなり。

 時は谷の戶(と)出(いづ)る鶯の

   初聲(はつこゑ)そふる比ならし

           市中散人

            佐(ゆうすけ)書

[やぶちゃん注:「弁(わきま)へ」の「弁」の字は下部が複雑な異様な字形であるが、似たような字を見出せなかったので、この通用字で代えた。最後の署名の位置は実際には前二行の下方中央から二行目下にかけてで、最後に大きな落款が打たれてある(字は私には判読出来ない)。私が底本とした巻首全文の画像(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のそれ()をリンクさせておく。

「やつがり」「僕(やつがれ)」に同じ一人称人代名詞。「奴(やつこ)」たる「吾(あれ)」の音変化とされる。古くは「やつかれ」と清音(底本でも「が」は濁音)。自分を遜(へりくだ)っていう語。上代・中古では男女を通じて用いたが、近世以降は男性がやや改まった場で用いるに限られた。

「剞劂氏(きけつし)」元は板木を彫る人、板木師のこと。ここは板行する板元(具体的には巻末に出た大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を指す。

「怪力亂神を語るは、聖(ひじり)の文(ふみ)の誡(いまし)め」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)の孔子の言を指す。「怪」は「尋常でない事例」を、「力」は「粗野な力の強さを専ら問題とする話」を、「乱」は「道理に背いて社会を乱すような言動」を、「神」は「神妙不可思議・超自然的な、人知では解明出来ず、理性を以ってしても、説明不能の現象や事物」を指す。孔子は仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない、と諭すのである。しかし、この言葉は、実は逆に古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

 以下、各巻冒頭に配された目次を一挙に示す。目録各項は底本では二字下げ「○」で始まっており、話数と表題の間は有意に空いている(上記のリンクの左頁を参照)が、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。但し、読みは既に本文で出してあるので、一部、難読と判断したものを除いて省略した。歴史的仮名遣に反する表記も総てママである。]

 

太平百物語卷之一目錄        前編

○一   松岡同雪狐にばかされし事

○二   馬士八九郞狐におどされし事

○三   眞田山のきつね伏見へ登りし事

○四   冨次郞娘蛇見入れし事

○五   春德坊きつねに化されし事

○六   愚全坊化者の難を遁れし事

○七   天狗すまふをとりし事

○八   調介姿繪の女に契りし事

○九   經文の功力にて化者の難遁れし事

 

太平百物語卷之二目錄        前編

○十   千々古といふばけ物の事

○十一  緖方勝次郞獺を射留し事

○十二  小僧天狗につかまれし事

○十三  或僧愛宕山にて天狗と問答の事

○十四  十作ゆうれひに賴まれし事

○十五  吉田吉郞ばけ物を切し事

○十六  玉木蔭右衞門鎌倉にて難に逢ひし事

○十七  榮六娘を殺して出家せし事

○十八  小栗栖のばけものゝ事

○十九  狐人たがへして憑きし事

○二十  本行院の猫女にばけし事

○二十一 孫兵衞が妾(しやう/てかけ)蛇になりし事

 

太平百物語卷三目錄         前編

○二十弐 きつね仇をむくひし事

○二十三 大森邪神往來の人を惱す事

○二十四 くらがり峠三つの火の魂の事

○二十五 惡次郞天狗の栖に至る事

○二十六 高木齋宮相摸にて難に逢ひし事

○二十七 紀伊の國隱家の事

○二十八 肥前の國にて龜天上せし事

○二十九 和田八熊を殺して發心せし事

○三十  小吉妻のゆうれひと物語する事

 

太平百物語卷之四日錄        前編

○三十一 女の執心恨を永く報ひし事

○三十二 松浦庄太夫猫またと問答の事

○三十三 孫六陰蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

○三十四 作十郞狼に逢ひし事

○三十五 三郞兵衞妻の幽㚑の事

○三十六 百(ど)々茂左衞門ろくろ首に逢ひし事

○三十七 狐念仏に邪魔をなせし事

○三十八 藥種屋長兵衞金子をひろひし事

 

太平古物語卷之五目錄        前編

○三十九 主部(とのべ)筆太化物に宿かりし事

○四十  讃岐の國騎馬のばけ物の事

○四十一 力士の精(せい)盗人を追退けし事

○四十二 西の京陰魔羅鬼(おんもらき)の事

○四十三 能登の國化者やしきの事

四十四 或侍猫またを切し事

四十五 刑部屋敷ばけ物の事

四十六 獺人とすまふを取し事

四十七 松田五市たぬきを切し事

四十八 紺屋のばけ物の事

四十九 天狗祟りをなせし事

五十  百物語をして立身せし事

 

 以上前編終(おはり)後編跡より出(いだ)し申

 

[やぶちゃん注:最後に以上の予告があるが、遂に後編は未刊であった。最終の「五十」に「百物語をして立身せし事」を持ってきていることと、その内容が、本「太平百物語」全体の半公式的な本百物語の所縁をシチュエーションとして確信犯で「キリ」として語っている点から見ても、筆者は実際には後編を出す意志は実際にはなかったのではないかと私は推察する。

太平百物語卷五 四十九 天狗祟りをなせし事

 

   ○四十九 天狗祟りをなせし事

 或國(あるくに)の大守君(たいしゆくん)、御領分の山々の樹木を、おほく切(きら)せられければ、其中(そのなか)に、天狗の栖家(すみか)、おほく有(あり)て、此天狗ども、安からぬ事におもひ、

「いざや。此恨みに返報をなさばや。」

とて、御別埜(おんしたやしき)におかせ玉ふ女房達の黑髮を、夜每(よごと)に、壱人宛(づゝ)、髻(もとゞり)より切(きり)ければ、ありあふ女中、打集(うちあつま)り、皆々、恐れ歎きつゝ、

「いかゞせん。」

とぞ、あきれ居(ゐ)たり。

 主君、此よしを聞(きこ)し召(めし)、大きに驚かせ玉ひ、

「是、天狗の所爲(しよゐ)ならめ。」

と、おぼし召(めし)て、

「此後(このゝち)、樹木を剪採(きりとる)事、かたく停止(てうじ)仕(つかまつ)るべき。」

よし、仰出(おほせいだ)されければ、これにこゝろや足(たり)けん、其後(そのゝち)は、此災(わざはひ)もなかりしとぞ。

[やぶちゃん注:以下は原典では全体が本文の二字下げで、有意に字が小さく、本文同様、ベタで(改行せずに)書かれてある。]

 評じて曰(いはく)、此事、何國(いづく)の事といふ事を、しらず。或人のいふ、

「是は唐土(もろこし)の事をば、此道のすき人、わが國に附會して、ちか比[やぶちゃん注:「ちかごろ」]のやうに、いひなしける。」

とも、いひあへりぬ。

 何(いづ)れか是(ぜ)なるや、しる人は、しるべし。われは、しらざるを、しらず。

[やぶちゃん注:評の末尾は、「中国の原話を日本に付会したに過ぎない翻案とする説と、確かな本邦で起こった実話とする説(それをことさらに挙げてはいないが、それを対峙させなければ、怪談本としての面目は丸潰れである)との、孰れが正しいかは、まあ、知っている人は、知っているのであろう。私は知らない。知らないことは知らないと言うしかない。」という謂いであろう。既に見た通り、巻三の「三十 小吉が亡妻每夜來たりし事」は明の瞿佑(くゆう)作の志怪小説集「剪燈(せんとう)新話」の中の、知られた一編「牡丹燈記」を素材として用いているし、他にも発想や展開を中国の伝奇・志怪小説に求めていると思しいものもあるから、これも逆に見れば、筆者が、「翻案だ」の「これが種本だ」のという五月蠅い穿鑿(「批判」と言うのはあまり当たらない。当時は同時代人に書いたものでさえ、ほぼ真似て板行しても「盗作だ」などとする感覚はほぼ皆無に等しかったからである。要は面白ければよかったのである)をかわすためポーズとも見られる。]

太平百物語卷五 四十八 紺屋ばけ物の事

 

   ○四十八 紺屋(こんや)ばけ物の事

 阿波の國に松屋五郞八といふ紺屋あり。

 或る夜、子の刻ばかりに、家内(かない)、何となく、騷がしかりしかば、五郞八、目覚めて、あたりを見廻しけるに、色の黑き、犬よりは大き成[やぶちゃん注:「なる」。]獸(けだもの)、兩手をあげて、足(あし)二本にて、庭を步(ある)きけるが、染物につかふ糊(のり)をこしらへ置(おき)けるを、悉く、喰(くら)ひ仕廻て、

「そろそろ。」

と、上にあがり、燈(ともしび)の油を、ねぶりける。

 五郞八、此体(てい)を、よくよく、みるといへども、餘りのおそろしさに、しらぬふりにて[やぶちゃん注:騒いだり、音を立てたり、することも出来ず。]、伺ひ居(ゐ)たり。

 扨、夜明(よあけ)ければ、其邊(あたり)の若者共に、「此よし」を語り、

「如何(いかゞ)せん。」

と議(ぎ)しければ、いづれも、はやりお[やぶちゃん注:ママ。「逸(はやり)り男(を)」。]の者どもなれば、皆々、いさんで、五郞八が宅(たく)に集(あつま)り、

「今宵、化者きたらば、打殺(うちころ)さん。」

とて、木刀、又は、樫(かし)の棒なんど、思ひ思ひに脇ばさみ、物かげに隱れ居て、

『今や來(きた)る。』

と待(まち)けるに、案に違(たが)はず、夕(ゆふべ)の刻限[やぶちゃん注:前夜と同じ子の刻。]と覚しき折節、かのばけ物、顯(あらは)れ出(いで)、あたりを、

「きつ。」

と見廻し、又、糊棚(のりだな)にかゝる所を、待(まち)かけ居たる若者共、一度に、

「どつ。」

と、飛出(とびいで)て、

「遁(のが)すまじ。」

と打(うち)ければ、化物、これにおそれをなし、迯ぐる所を、彼方此方(かなたこなた)と追廻(おひまは)けるに、少(すこし)戶の透間(すきま)の有(あり)し所より、

「つ。」

と、拔(ぬけ)て迯出(にげいで)ければ、

「何國迄(いづくまで)も。」

と追(おひ)かけたりしが、平山(ひらやま)といふ所にて、大き成[やぶちゃん注:「なる。]榎(ゑのき)の内に隱れけるを、猶も、かけ寄(より)、尋(たづね)めぐれば、壱つの、火の玉、ほのほとなりて飛出(とびいで)しに、皆々、おそれて、迯歸(にげかへ)りしが、其後は、五郞八が宅へも、再び、來(きた)らざりける、とぞ。

 いかなる化者にてや、有りけん、しらずかし。おぼつかな。

[やぶちゃん注:確信犯の因果も根拠も一切不明の物の怪であり、しかも本書の強い特色である獣類の変異である、黒犬よりも有意に大きい獣(狼より有意に大きく、月の輪熊よりは一回り小さいといったニュアンス)の見かけを持り、しかもそれは直立二足歩行を日常的に行う四足動物の形状を成す。糊や灯しの油を舐(ねぶ)る(妖猫・妖狐・妖狸・妖獺・妖鼬の類いに繋がりそうな属性ではある)。かなり残念なのは、二日目の夜の出現の、複数の目撃者がいるリアルさを出すべき「キモ」のシークエンスで、全く、その視認された「物の怪」の形状や習性を、全く描かれていない点ではある(それはそれで筆者の、読者の最後まで不明性の恐怖を与えるための確信犯なのであろうが)。最後のロケーションである、榎は、老木になると、怪異を生ずるともされるし、大きな榎の洞にはやはり年経て化け物と成った大蛇・化鳥・妖獣の類いを想起は出来る。但し、「火の玉」の出現(私は狐火より(榎の内は狐の棲み家としては相応しくない)も、火と強い相性を持つとされる妖鼬の「火柱」を想起した。私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち)(イタチ)」を参照されたい。まあ、この部分も追跡者を退散させて話を切り上げるには展開上で必要ではあったのだが)は、視覚上に小道具として如何にもな、三文芝居のそれで、却って、読んでいて失笑してしまった。

「おぼつかな」形容詞語幹の用法による詠嘆。正体不明のこの「化け物」に対する不信・恐怖を余韻として添えて効果的である。それは「おぼつかなし」の「ぼんやりしていて、その実体がはっきりせず、不気味に火の玉となってほのかに消えてしまう」という原義を含みつつ、派生するところの不安感情としての「ひどく気がかりで、不安で」「不審極まりなく、如何にも疑わしいではないか?!」という響かせである。]

2019/05/29

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(25) 「神々降臨ノ跡」(1)

 

《原文》[やぶちゃん注:見出し下冒頭三字空けはママ。]

神々降臨ノ跡   前ニ駒形ト云フ神ノ名ノ本意ヲ駒ノ足型ニ基ケリト言ヒシガ、此解釋ノ丸々ノ臆說ナラザルコトハ、甲州穴山村ノ駒形石ナド之ヲ證スルニ足レリ。【駒形杉】遠江濱名郡龍池村大字八幡ノ八幡社ニ一ノ駒形杉アリ。元龜三年德川武田合戰ノ折ニ、白衣ノ老翁白馬ニ跨リテ此木ノ梢ヨリ空ニ昇ルト濱松勢ノ眼ニ見エタリ。軍終リテ後杉木ヲ檢スルニ、馬蹄ノ跡最モ明白ナリキ〔曳馬拾遺〕。即チ八幡大菩薩ガ未來ノ大將軍ヲ助ケラレタル證據ナリシナリ。【足形ノ社】相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿ノ駒形權現ハ又足形ノ社トモ稱ス。神體ハ地上二尺バカリノ一箇ノ岩ニシテ、其面ニ馬ノ足形アリ。足ヲ煩フ者ノ祈願スル神ナリキ〔新編相模風土記〕。土佐長岡郡西豐永村大字柳野影ノ宮ノ神ヲ馬足大明神ト云フ。例祭ハ九月吉日〔諸神社錄〕、未ダ其由來ヲ知ラズ。更ニ步ヲ進メテ馬頭觀音ヲ駒形ノ本地佛ト假定スルナラバ、武藏北足立郡平方村大字平方ノ孤峯山馬蹄寺寶池院ノ本尊ガ馬頭觀音ナリシ事實モ亦一箇ノ證ナリ。此寺ハ古クハ馬蹄菴ト稱シ、吾妻左衞門是好ト云フ芝居ニデモ出サウナ名前ノ武士ガ、【三輪】其伯父三輪莊司ノ菩提ノ爲ニ建立セシ淨土寺ナリ〔新編武藏風土記稿〕。莊司死シテ後馬ニ生レ變リ、人ノ如ク物言ヘリトノ傳說モアレバ、此馬モ亦蹄ノ痕ヲ石ニ印セシコトナルべシ。【觀音石】長門大津郡深川村江良ノ觀音石ハ、【圓相】一間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル弱。]四方ホドノ石ノ面ニ圓相アリテ、其中ニ人ノ足ト馬ノ蹄多ク存セリ。昔ヨリ此石ヲ觀音ノ正體トシテ拜スト云ヘバ〔長門風土記〕、此モ亦一ツノ馬頭觀音ナリケリ。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、駒形ハ即チ馬ノ足型ノコトニテ、神馬ノ奇瑞ノ顯著ナルガ爲ニ、特ニ馬ノ爲ノ祈願ニ有效ナリト考フルニ至リ、終ニ他ノ馬ノ生靈死靈ヲ祭ルノ信仰ト合體シタルモノナルべシ。

 

《訓読》

神々降臨の跡   前に駒形と云ふ神の名の本意を駒の足型に基けりと言ひしが、此の解釋の、丸々の臆說ならざることは、甲州穴山村の駒形石など、之れを證するに足れり。【駒形杉】遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社に一つの駒形杉あり。元龜三年[やぶちゃん注:一五七三年。]、德川武田合戰の折りに、白衣(びやくえ)の老翁、白馬に跨りて、此の木の梢より空に昇ると、濱松勢の眼に見えたり。軍(いくさ)終りて後、杉木を檢(けん)するに、馬蹄の跡、最も明白なりき〔「曳馬拾遺」〕。即ち、八幡大菩薩が、未來の大將軍を助けられたる證據なりしなり。【足形の社】相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿の駒形權現は、又、「足形の社」とも稱す。神體は地上二尺ばかりの一箇の岩にして、其の面に馬の足形あり。足を煩ふ者の祈願する神なりき〔「新編相模風土記」〕。土佐長岡郡西豐永村大字柳野影の宮の神を「馬足(ばそく)大明神」と云ふ。例祭は九月吉日〔「諸神社錄」〕、未だ其の由來を知らず。更に步みを進めて、馬頭觀音を駒形の本地佛と假定するならば、武藏北足立郡平方村大字平方の孤峯山馬蹄寺寶池院の本尊が馬頭觀音なりし事實も亦、一箇の證なり。此の寺は、古くは「馬蹄菴(ばていあん)」と稱し、吾妻左衞門是好と云ふ、芝居にでも出さうな名前の武士が、【三輪】其の伯父三輪莊司の菩提の爲めに建立せし淨土寺なり〔「新編武藏風土記稿」〕。莊司、死して後、馬に生れ變り、人のごとく物言へり、との傳說もあれば、此の馬も亦、蹄の痕(あと)を石に印(しる)せしことなるべし。【觀音石】長門大津郡深川村江良(えら)の觀音石は、【圓相(ゑんさう)】一間四方ほどの石の面に圓相ありて、其の中に人の足と、馬の蹄、多く存せり。昔より、此の石を觀音の正體として拜すと云へば〔「長門風土記」〕、此れも亦、一つの馬頭觀音なりけり。此等の事實を考へ合はすときは、「駒形」は、即ち、「馬の足型」のことにて、神馬の奇瑞の顯著なるが爲めに、特に馬の爲めの祈願に有效なり、と考ふるに至り、終に、他の馬の生靈・死靈を祭るの信仰と合體したるものなるべし。

[やぶちゃん注:「遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社」諸データから見て、私は静岡県浜松市浜北区油一色に現存するこの八幡宮(グーグル・マップ・データ。以下同じ)ではないかと推理している。但し、旧龍池村地区には八幡を冠する神社が現在も複数あり、それらでないとも言えない。伝承を確認出来ない。そもそも糞を漏らして敗走(後注参照)した家康勢が呑気に以下に描写されるような幻想風景をのんびり眺めていられた話は、これ、なかろが! という気は強くしてはくるね。【2019年6月1日追記】T氏より、地名履歴による私の誤認を御指摘戴いたので、以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

藪野様は「遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社」を「静岡県浜松市浜北区油一色」と推定されていますが、「静岡県浜松市浜北区八幡」の八幡神社と思います。場所はこちらです。[やぶちゃん注:私が比定した八幡宮の南東五百五十メートルほどの位置にある。]「静岡県浜松市浜北区油一色」は明治二九(一八九六)年の時点で「遠江濱名郡美島村」であり、明治四一(一九〇八)年の時点で「遠江濱名郡北浜村」です[やぶちゃん注:本「山島民譚集」は大正三(一九一四)年七月刊]。「美島村」は明治二二(一八八九)年四月一日の町村制の施行により、横須賀村・中条村・東美薗村・西美薗村・高畑村・寺島村・油一色村及び豊田郡本沢合村が合併して、長上郡美島村が発足。明治四一(一九〇八)年一月一日に平貴村の一部(貴布祢・沼・道本・小林)と合併して北浜村が発足。同日、美島村は廃止されています(ウィキの「美島村」)。

   

実は私がいい加減に比定材料とした「歴史的行政区域データセット」の「静岡県浜名郡龍池村」を改めてちゃんと見たところが、油一色の「八幡宮」はそこでも実は東の村域線の僅かに外側であったのであった(私はいい加減に旧村域を頭において、この附近の現在の地図を見、その辺りの中心と誤認した附近の本「八幡宮」を比定してしまったのであった)。なお、その「八幡宮」から三百五十メートル南下した位置に「若宮八幡宮」というもある(静岡県浜松市浜北区上善地)が、ここは旧龍池村内(上のリンク参照)で、T氏の比定された「八幡神社」の四百七十メートルほどの位置に当たる。無論、現在の地名も「八幡」であるから、T氏の「八幡神社」が柳田國男の言うそれであることは最早、間違いない。それにしても、最初に述べた通り、この周辺には八幡を祀る社が異様に多い感じを新たにした。これらは、或いは、孰れもこの八幡の八幡神社が元になって分祀されたものかも知れない。いつも有り難い情報を戴くT氏に改めて御礼申し上げるものである。

「德川武田合戰」元亀三年十二月二十二日(一五七三年一月二十五日)に遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた「三方ヶ原の戦い」。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが、敗退した。特に家康が死を覚悟した大敗退・大敗走として知られる。この三方ヶ原から前の「遠江濱名郡龍池村」は東北東に十キロメートル弱ほどの位置にある

「相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿の駒形權現」「足形の社」【2019年6月1日:改稿】T氏よりメールを頂戴し、これは柳田國男の「大字」の記述ミスであるという御指摘を得た。正しくは「相州足柄上郡岡本村大字炭焼所」(柳田國男の底本表記(小文字右付)に合わせて「大字」を上付とした)で、この当時の足柄上郡岡本村はウィキの「岡本村(神奈川県)」によれば、明治二二(一八八九)年四月に町村制の施行により、炭焼所村・和田河原村・駒形新宿・塚原村・三竹山村・岩原村・沼田村が合併して発足したものであった(本書の刊行は大正三(一九一四)年七月)。「新編相模國風土記」の記載は、巻十八の「村落部 足柄上郡七」冒頭の「苅野庄」の部の「狩野村」・「中沼村」・「三竹山村」(みたけやまむら)・「沼田村」・「岩原村」・「塚原村」・「駒形新宿」・「炭燒所村」(すみやきしょむら)と続く中の「駒形新宿」の条の中に(【 】は二行割注。下線はやぶちゃん)、

   *

○駒形新宿【古滿加多志無之久】 古は塚原村にて、新宿と呼し地なり、【正保[やぶちゃん注:一六四五年から一六四八年まで。第三代将軍徳川家光の治世。]の改に塚原の内新宿と記す、】其後塚原の枝鄕となり、始て駒形新宿と唱ふ、【元祿[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。第五代将軍徳川綱吉の治世。]の改に、塚原村枝鄕駒形新宿と號す、】炭燒所村鎭守、足形社或は駒形權現といへり、當所其比隣に在をもて駒形の名は負はせしなり、今は全く別村となれり、其年代は傳へず、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とある。則ち、この「駒形新宿」という新村地区は隣りの「炭燒所村」内の鎮守である「足形社」=「駒形權現」社のごく近くに新設された村であったのであり、T氏も指摘されておられるのであるが、後の「炭燒所村」の項に「足形の社」「駒形權現」の由来の本記載(名の由来)が載るのである。当該部を電子化すると、

   *

○炭燒所村【須美也幾之餘牟良】 相傳ふ古は墨八寸生村【須美也幾也宇牟良[やぶちゃん注:「すみやきしやうむら」。]】と書せり、こは彼賴朝秘藏の乘馬磨墨のせし地なれば村名とすと云、【彼馬毛色純黑にして、長[やぶちゃん注:「たけ」。]四尺八寸[やぶちゃん注:約一メートル四十五センチメートル。後注参照。]に及ぶ、故に磨墨と名付、村名も賴朝が名づくる所と傳ふ、今村民次兵衛は彼馬のせし家筋なりと云、】[やぶちゃん注:中略。]

○足形社 又駒形權現とも呼べり。神躰は一巨石にて地中に埋れり、【地上に出る所、長二尺許、橫一尺五寸、】面に凹池あり。【徑六七寸許、深七寸餘、】賴朝の乘馬磨墨の蹄蹟なりと云、例祭は九月朔日、足を病む者祈れば驗あり、【癒れば草履を賽す、又病馬には沓を納むるを例とす、】王傳寺持、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

旧村名は「墨(すみ)八寸(やき)生(しょう)村(むら)」で、記されている通り、「八寸(やき)」=名馬(「寸(き)」は馬の丈(たけ)であるが、馬では地面から肩高(乗馬する背の前部)までを指すので注意されたい。その背丈が四尺八寸(すん)もあるものを指すが、これは一般名詞「八寸(やき)」で「大きく逞しい馬」を言う語ととっておく。馬の丈は四尺(一メートル二十一センチメートル)を標準とし、それ以上は寸だけで数え、それを別して「寸(き)」と称した)磨墨が生まれた村という意味である。私(やぶちゃん)が参照して電子化したのは「国立国会図書館デジタルコレクション」の「大日本地誌大系」の第三十六巻のこちら(左ページ)である。T氏より現在の「足形社」は神奈川県南足柄市生駒のこちら、と指示戴いた。そのサイド・パネルの境内画像を見ると、駒形石らしい(かも知れない)石が横たわってはいる。また、そこの解説版(写真)によれば、大正時代までは、ここで競馬も行われていたという(この解説版(南足柄観光協会及び南足柄教育委員会製作)は非常に読み易く、且つ、丁寧に書かれてある)。T氏にはいつも乍ら、深く感謝申し上げるものである。

「土佐長岡郡西豐永村大字柳野影の宮の神」「馬足(ばそく)大明神」現在の高知県長岡郡大豊町のこの附近に駅名や郵便局名で「豊永」を現認出来るから、この辺りか。国土地理院図で見ると、複数の神社をこの辺りに見出すことは出来るが、私に出来るのはここまでだ。悪しからず。「影の宮」と言い、「馬足(ばそく)大明神」(読みは「ちくま文庫」版全集に拠る)と言い、何だか横溝正史張りに慄っとくるんだかねぇ。

「更に步みを進めて」謹厳実直の柳田先生にしてちょいと「駄」洒落れてみましたかねぇ。

「馬頭觀音を駒形の本地佛と假定する」賛成!

「武藏北足立郡平方村大字平方の孤峯山馬蹄寺寶池院」埼玉県上尾市平方にある浄土宗の孤峯山寶池院馬蹄寺。いつも大変お世話になっている東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「馬蹄寺」によれば、『鎌倉時代に吾妻左衛門是好が、その伯父三輪庄司好光の菩提を弔うために、知道を庵主として小名大門に馬蹄庵と称して創建したといい』、『天文年中』(一五三二年~一五五五年)、『感誉存貞上人が浄土宗寺院として中興、天正』一八(一五九〇)年に『当地へ移転したと』される。(『感誉存貞上人は、川越蓮馨寺を開山した他、芝増上寺』十『世となった名僧で、当寺の山号院号は川越蓮馨寺と同じ』)。『江戸期には徳川家光より寺領』十五『石の御朱印状を拝領して』いたとある。現在の本尊は阿弥陀如来像であるが、「新編武蔵風土記稿」の平方村の本馬蹄寺の縁起によれば(漢字の幾つかを正字化させて貰った)、『淨土宗、入間郡河越蓮馨寺の末、孤峯山寶池院と號す、寺領十五石の御朱印を賜ふ、昔は小名大門にありしが、天正十八年ここに移せりと、寺傳の略に云昔當所に吾妻左衛門是好と云る者あり、其伯父なりける三輪庄司好光と云ものの爲に草菴を建て、知道と云僧を庵主となし、伯父の菩提を弔ひけり』。『其頃は馬蹄庵と號し、馬頭観音を安ぜしと云、此餘三輪庄司が馬と化して人語をなし、及び蹄を折しことあるより』、『寺號となせしとなり、さまざまの事を書つづれど』、『怪談に亘れば』、『取らず、遙の後』、『天文年中』、『感譽といへる僧當寺を再興し、山號寺號を銘して淨土の道場とせり、よりてこれを開山とすと云、又本寺の傳へにては、川越の城主大道寺駿河守政繁が母常に佛道を傾慕し、己が甥山角某の第二子を僧として、感譽上人と號し、平方村に一寺を草創せしむ』に『よりて』、『かの法尼が謚をとりて蓮馨寺と號せり、其境内御嶽の社あるにより孤峯山と號し、又』、『丸池と云あるをもて寶池院と名付、是より冬夏の法幢』、『怠りなく』、『僧俗』、『群詣しけり、其後永祿六年上人』、『江戶緣山へ轉住し、夫より諸刹を開建して遂に當寺に歸れり』。『此頃』、『川越城主の指揮によりて、蓮馨寺を今の所へ引移せしにより、其跡へ』、『この馬蹄寺を建立すと云、何れの是なるべきやは詳にせざれど、三輪庄司が馬と化せしなど云は妄誕なること齒牙をまたずして、明かなり』。『本尊三尊の彌陀を安ず』。『鐘楼。明曆三年鑄造の鐘をかく』。『觀音堂。馬頭観音を安ず』。『是』、『當寺往古の本尊なり、堂の傍に天文中の古碑二基立り』。『共に月待供養塔にて、灌律師賢秀阿闍梨、某十郎定重・彦五郎吉次助三など彫れり』とあるので、大いに納得!

「莊司、死して後、馬に生れ變り、人のごとく物言へり」これ! いいねえ!! どこかに伝承として残ってないのかなあ!!!

「長門大津郡深川村江良(えら)の觀音石」山口県長門市東深川江良gomen氏のブログ「山へgomen … 山口県の山歩き記録」の「観音石・江良山(長門市東深川)[県北部の山]」でアプローチから「観音石」の画像まで総て丁寧な逐次写真で確認出来る。地図もあり!

「此等の事實を考へ合はすときは、「駒形」は、即ち、「馬の足型」のことにて、神馬の奇瑞の顯著なるが爲めに、特に馬の爲めの祈願に有效なり、と考ふるに至り、終に、他の馬の生靈・死靈を祭るの信仰と合體したるものなるべし』無条件で賛成します! 柳田先生!]

うもれ水 すゞしろのや(伊良子清白)

 

うもれ水

 

 

  八鬼山

 

 八鬼山は紀のくに南北牟婁兩郡の界にあり。友人某山麓に
 居して炭燒を業とす。都門に來學せんとするの意頻なり。
 乃ち此詩を作りて與ふ。

[やぶちゃん注:、「八鬼山」は「やきやま」と読み、現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)(グーグル・マップ・データ)にある六百四十七メートルの山である。熊野古道伊勢路の途中にある。「南北牟婁兩郡の界」とあるが、現在の尾鷲市は昭和二九(一九五四)年に合併する以前は北牟婁郡の尾鷲町と須賀利村と九鬼村、及び、南牟婁郡の北輪内村と南輪内村であった。]

 

鬼の棲むてふ八鬼山の、

さやけき冬の月影は、

よひよひ每にきみが讀む、

書の燈とてらすらむ。

 

うらやむきみの山の菴、

紅葉おちてやねをふき、

ふく風塵を拂ふらむ、

玉の墓はあらずとも。

 

叫ぶ山猿の谷ごとに、

水の氷るをつぐるとき、

寐覺の枕そば立てゝ、

閨うつ霰きゝまさむ。

 

あやふき岩を攀ぢ登り、

長き蘿にすがりつゝ、

裾よりのぼる白雲を、

さか卷く雪と見ますらむ。

[やぶちゃん注:「蘿」「つた」。]

 

函に藏むる書ならで、

文字なき書もあるものを、

炭燒く業のつらしとて、

なにいとふらん山の奧。

 

わけてもきみが手みづから、

亡たらちねの奧城を、

まもりたまふはいかばかり、

すぎたる幸におはすらむ。

 

きみ見そなはせつゞら折、

檜原杉原下闇く、

けはしき峯の洞穴も、

熊は安けくかくれ棲む。

 

劍ににたるこがらしを、

きみなかこちそ寒けしと、

うき世の風は長閑なる、

春の日にさへ身にぞしむ。

 

鴨の川原の小夜千鳥、

きゝにきますはよけれども、

都の塵にうもれむは、

すゝめまつらずきみのため。

 

たふとからずや天地の、

なしのまにまに生ひ立ちて、

心けがれぬ山の子の、

罪も望も抱かずば。

 

 

  惡 因 緣

 

いたづらものと世の人に、

指ざさるゝがくやしくて、

しなむとせしもこの子故、

あゝこの子ゆゑしにもせで。

 

いづれ男のことのはは、

たゞ商人のなさけのみ、

その犧牲に生れこし、

女も人の一人かや。

 

世の人々ぞ同情(なさけ)なき、

きこゝろかよわき女子を、

力のかぎりくるしめて、

男の罪は問ひもせず。

[やぶちゃん注:「きこゝろ」はママ。]

 

三十路に近きよはひまで、

子はありながら圓髷の、

髮も結はれぬ宿世こそ、

前の世深き恨なれ。

 

せめて頰よく生れずは、

人をうらまでよかりしを、

まがつひ神のにくしみに、

花の姿をさづけけむ。

 

あかれしわれはいづれその、

塵芥にもかはらねど、

この子をすてゝ君はそも、

安き寐覺の夜半やある。

 

親のゆるさぬきみの手に、

ひかれてわれも落しゆゑ、

奈落の底の苦悶に、

この子も罪をつくるらむ。

[やぶちゃん注:「苦悶」は韻律からして「みもだえ」か。]

 

 

  山百合ぬしへ

 

五日の旅を海に經て、

山も百里をへだつらむ、

故鄕遠き信濃より、

きみはきましぬわが宿に。

 

都といへどふる寺の、

やれし菴にすめるのみ、

遠き旅路のつかれさへ、

なぐさめまつるよしをなみ。

 

うら珍しき賓客に、

薦むる物もあらざれば、

夏はすゞしき鴨川の、

岸のあたりをしるべして。

 

越路の旅のをかしさを、

きみが話せばわれもまた、

熊野の浦の名どころを、

こゝろへだてず語りつゝ。

 

はなれともなき涼しさの、

柳ふきしく川風に、

あつきさかりも忘られて、

流るゝ水もこゝちよく。

 

三年のすゑに知りそめて、

文の便は通へども、

今日ぞはじめてまのあたり、

きみを見るこそうれしけれ。

 

才なきわれをすてずして、

たづね給ひしみこゝろに、

禮いふすべはならはねど、

わすれはせじなとこしへに。

 

よの交らひは薄氷の、

くだけやすしときくものを、

きみとわれとが誓ひてし、

深き眞情をたれかしる。

[やぶちゃん注:「眞情」は既に「深き」があるので私は「こころ」と訓ずる。]

 

とゞめまほしく思へども、

永き日影も暮れはてゝ、

月さしのぼる鴨川原、

いそぐ旅ぢをいかにせむ。

 

つきぬ名殘に見送りて、

かたみにうらむうしろ影、

かたるまもなく別れては、

なみだにぬるゝ袂かな。

 

茅渟の浦邊のうた人と、

一夜さやけき月を見て、

須磨のみ寺に詠みませし、

歌のこゝろぞまことなる。

[やぶちゃん注:「茅渟」「ちぬ」。既注であるが再掲しておく。「茅渟の浦」は「古事記」に既に登場する古語「茅渟の海」。和泉・淡路の両国の間の海の古名。則ち、現在の大阪湾一帯を指す。]

 

瀨戶の内海に舟うけて、

沖吹く風に棹もさし、

白雲あそぶ彥島の、

浪にもきみは嘯きし。

 

ながき放路もやすらかに、

歸りたまひしその折の、

たよりの末にいかでまた、

見まくほしやとかき添へて。

 

ふかきゑにしもあるものを、

また逢ふときのなからんや、

うき世の中はなかなかに、

さだめなきこそ望あれ。

 

くれ行く秋の夜を長み、

ともし火更くる文机に、

文庫(ふみ)繙きてたゞ一人、

くりかへしよむ「歌枕」。

[やぶちゃん注:「繙きて」「ひもときて」。

 さて、標題の「山百合ぬしへ」の「山百合ぬし」とは久保田山百合のこと。既注の詩人・歌人の島木赤彦の当時のペン・ネームである。「故鄕遠き信濃」とあるが、赤彦は長野県諏訪郡上諏訪村角間(現在の諏訪市元町)生まれである。]

 

 

  祇園懷古

 

 祇園新地は舊眞葛か原といへる野原なりしとぞ。

[やぶちゃん注:「祇園新地」現在の祇園のこと。祇園町地区(所謂、狭義の「祇園」である京都府京都市東山区祇園町南側はここ(グーグル・マップ・データ))は、もっと古くはもと「八坂新地」と称した。また、「眞葛か原」(「か」はママ。後の詩篇本文も同じ)はさらに古い今の祇園地区の他に同地区の東北部の円山公園を中心として、周囲の青蓮院・知恩院・双林寺・八坂神社などをも含んだ、東山山麓の傾斜地の旧広域地名で、この一帯は平安時代より、真葛や薄が生い茂っていたために「真葛ヶ原」と呼ばれていた。]

 

裏吹きかへす葛の葉の、

眞葛か原のあき風に、

昔乙女の袖とめて、

月や恨をやどしけむ。

 

蟲撰けむ宮人の、

秋のあそびのあともなく、

小鷹狩せしものゝふの、

狩衣姿見えもせず。

 

招く薄はうるはしき、

舞の姿にうつり行き、

おき渡したる白露も、

插頭の珠とかはりつゝ。

 

鶉なきけむ細徑を、

大路小路の立つゞき、

おひ茂りたる淺茅にも、

庭の砂やひかるらむ。

 

時の力のおそろしき、

昔の哥にうたひけむ、

眞葛か原の月影も、

史の上のみてらせども。

[やぶちゃん注:「昔の哥にうたひけむ」「眞葛か原の月影」真葛ヶ原と和歌と言えば、鎌倉時代の慈円の一首、「新古今和歌集」巻第十一「戀歌一」の正治二(一二〇〇)年の「院初度百首」で詠まれた一首(一〇三〇番)、

   百首歌たてまつりし時よめる

 我が戀は松を時雨の染めかねて眞葛が原に風さわぐなり

で、この歌で、一躍、ここは和歌の名所となったのであるが、「月影」は詠まれていない。但し、この「眞葛が原」は実は地名のそれではなく、葛が風に煽られて白っぽい葉裏を見せる景色を自らの胸の内の恋に乱れた騒ぎに比したものである。慈円と親しかった西行はこの真葛ヶ原に庵を結んでいたことがある(現在、双林寺境内に西行庵がある)から、探してみたが、見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

 

いづれ此世の夢ならば、

花にもまさる手弱女の、

しろき細手の扇より、

常無き風の吹かざらん。

 

八坂の森の春の夜に、

散りくる花をはかなみて、

遠きうたげの聲きけば、

樓臺くづるゝ響あり。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年二月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 皮(かは) //十二年半かけた「和漢三才図会」動物パート全十八巻のオリジナル電子化注を完遂した!!!

Kawa

 

かは   皮【和名加波】

     革【豆久利加波】

【音脾】

     韋【奈女之加波】

     靻【同右】

 

釋名云皮被也被覆體也剥取獸皮生曰皮理之曰革【音格】

去其毛革更也柔之曰韋【音爲】韋相背也獸皮之韋可以束

物枉戾相韋背故借以爲皮革【俗作※一字作非也】

[やぶちゃん注:「※1」は「韋」の「口」以下の下部を「吊」とした字。]

鞄人【柔革之工】柔革曰※2【奈女須】用稻藁灰汁和米糠畧煖之革

[やぶちゃん注:「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」。「東洋文庫」訳では(上)「北」+(中){「穴」の第一画の点を除去した字}+(下)「瓦」であるが、私の原典は以上の通り。]

 表裏能揉洗以※3張晒之俟稍乾以竹箆刮去肌肉

[やぶちゃん注:「※3」=「籤」の(たけかんむり)の下部部分に(きへん)「木」を添えたもの。]

凡洗韋垢※4者以糯糠揉洗之不糠去晒乾可揉

[やぶちゃん注:「※4」=「耳」+「黒」。]

凡皮褥夏月不宜藏置可見風日否則毛脫

肉【音辱】

[やぶちゃん注:以下の二行分は、原典では上記「肉」の標題の下に二行で載る。]

 月【同】宍【古文】△按肉肥肉也月字中二畫竝連兩

 傍與日月之月不同俗用完字者宍字謬矣完

 【音桓】全也

 

 

かは   皮【和名「加波」。】

     革【「豆久利加波〔(つくりかは)〕」。】

【音「脾」。】

     韋【「奈女之加波〔(なめしかは)〕」。】

     靻【同右。】

 

「釋名〔しやくみやう)〕」に云はく、『皮は「被」なり。體を被〔(かぶ)〕り覆ふなり』〔と〕[やぶちゃん注:「體を被〔(かぶ)〕り覆ふなり」は和文としてはちょっとおかしい。「體を被覆せるものなり」あたりがよかろう。]。獸の皮を剥(は)ぎ取〔れる〕生を「皮」と曰ひ、之れを理(をさ)むる[やぶちゃん注:皮製品として毛を除去して(後述している)調製加工する。]を「革」【音「格」。】と曰ふ。「其の毛を去りて、革(あらた)め、更〔(か)へ〕る」〔こと〕なり。之れを〔さらに〕柔(やはらかにす)るを「韋」【音「爲」。】と曰ふ。「韋」は「相ひ背〔(そむ)〕く」なり。獸皮の「韋」〔は〕以つて物を束(たば)ねるべし[やぶちゃん注:物を束ねることが出来る。]。枉〔(ま)げ〕戾〔しても〕、相ひ韋-背〔(そりかへ)る〕。故に〔この字を〕借りて以つて「皮革」と爲す【俗に「※」の一字に作〔るは〕非なり。】[やぶちゃん注:「※1」は「韋」の「口」以下の下部を「吊」とした字。]。

鞄人〔(はうじん)〕【革を柔かにするの工〔(たくみ)〕[やぶちゃん注:職人。]。】革を柔かにするを、「※2[やぶちゃん注:音不詳。]」[やぶちゃん注:「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」。]【「奈女須〔(なめす)〕」。】と曰ふ。稻藁の灰汁(あく)を用ひて、米糠に和(ま)ぜて、畧〔(ほぼ)〕、之れを煖〔(あたた)〕め、革の表裏〔を〕、能く揉み洗ひ、※3(たけぐし)[やぶちゃん注:「※3」=「籤」の(たけかんむり)の下部部分に(きへん)「木」を添えたもの。竹串。]を以つて張りて、之れを晒〔(さら)〕し、稍〔(やや)〕乾くを俟〔(ま)〕ちて、竹箆(〔たけ〕へら)を以つて、肌肉を刮(こそ)げ去る。

凡そ、「韋」の垢-※4(よご)[やぶちゃん注:「※4」=「耳」+「黒」。]れたる者を洗ふに、糯糠(もちぬか)を以つて之れを揉(も)み洗ひ、糠を去らずして、晒し乾し、揉むべし。

凡そ、皮の褥〔(しとね)〕、夏月、藏(をさ)め置く〔は〕宜しからず。風・日を見すべし[やぶちゃん注:風通しがよく、一定時間は太陽光線が射す場所に置いておくのがよい。]。〔かく〕否(〔せ〕ざ)れば、則ち、毛、脫(ぬ)ける。

肉【音「辱〔(ニク)〕」。】

「月」【同。】。「宍」【古文。】。[やぶちゃん注:同義字を掲げているので、通常項のように改行した。]

△按ずるに、肉は「肥肉」なり。「月」の字、中の二畫、竝びに〔→びて〕兩傍に連なる。「日月」の「月」と〔は〕同じからず。俗に「完」の字を用ひるには〔→用ひるは〕、「宍」の字の謬〔(あやま)〕り〔なり〕。「完」【音「桓」。】は「全きもの」〔の意〕なり〔→なればなり〕。

[やぶちゃん注:「釋名〔しやくみやう)〕」後漢末の劉熙が著した辞典。全八巻。ウィキの「釈名」によれば、その形式は「爾雅」に似るが、『類語を集めたものではない。声訓を用いた説明を採用しているところに特徴がある』。『著者の劉熙については、北海(今の山東省)出身の学者で』、『後漢の末』頃『に交州にいた』『ということのほかは』、『ほとんど不明である』「隋書」の「経籍志」には、『劉熙の著作として』本書の他に「謚法」(しほう:普通名詞としては「諡(おくりな)をつける法則」のことを指す)及び「孟子」注を『載せている』。『成立年代は不明だが』、二七三年に『韋昭が投獄されたときの上表文に「又見劉熙所作釈名」とある』。清の官僚で歴史家でもあった畢沅(ひつげん 一七三〇年~一七九七年)は、『釈州国篇の地名に建安年間』(後漢の献帝(劉協)の治世に用いられた元号。一九六年から二二〇年まで)『以降のものがあることなどから、後漢末から魏のはじめにかけての著作としている』が、清中期の考証学者銭大昕(せんたいきん 一七二八年~一八〇四年)は『三国時代』(「黄巾の乱」の蜂起(一八四年)による漢朝の動揺期から、西晋による中国再統一(二八〇年)まで。狭義には後漢滅亡(二二〇年)から晋が天下を統一した二八〇年までを、最狭義には三国が鼎立した二二二年から蜀漢が滅亡した二六三年までを指す)『の作とする説に反対し』、『後漢末の作とする』。なお、「後漢書」には劉珍の著書にも「釈名」が『あったことを記すが』、『劉熙とは時代が異なり、どういう関係にあるのか不明である』とある。以下は、同書の「釋形體」に、

   *

皮、被也、被覆體也。

   *

とあるものである。

「枉〔(ま)げ〕戾〔しても〕、相ひ韋-背〔(そりかへ)る〕」東洋文庫訳では『反対に巻き戻してもすぐもとに背(そり)かえる』とあり、私の添え文もそれを参考にさせて貰った。

『「※2」(「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」)【「奈女須〔(なめす)〕」。】』現在の「鞣」(なめす)である。動物の皮は柔軟性に富み、非常に丈夫であるが、そのまま使用すると、すぐに腐敗したり、乾燥すると、板のように硬くなって柔軟性がなくなってしまう。この大きなデメリットの属性を、樹液や種々の薬品を使って変化させる方法が「鞣し」である。ここは製革業者団体「日本タンナーズ協会」公式サイト内の『「鞣す(なめす)」とは』に拠った。

「糯糠(もちぬか)」「糯(もち)」とはイネ(単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa)やオオムギ(イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare)などの作物の内で、アミロース(amylose:多数のα-グルコースス(α-glucose)分子がグリコシド結合(glycosidic bond:炭水化物(糖)分子と別の有機化合物とが脱水縮合して形成する共有結合)によって重合し、直鎖状になった高分子。デンプン分子であるが、形状の違いにより、異なる性質を持つ)を全く或いは殆んど含まない特定品種を指す。対義語は「粳(うるち)」で、組成としてアミロースを含む通常の米飯に用いるそれを「粳米(うるちまい)」と呼ぶ(以上はウィキの「糯」に拠った)。]

 

*   *   *

 

本項を以って、私の「和漢三才図会」の動物部の総て、全十八巻のオリジナル電子化注を遂に完遂した(別に藻類の一巻がある)。

 

 思えば、私が、その中、最初に電子化注を開始したのは、私が幼少時からフリークであった貝類の「卷第四十七 介貝部」で、それは実に凡そ十二年と半年前の、二〇〇七年四月二十八日のことであった。

 その時の私は、正直、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、自信がなく、まさか、総ての動物パートをやり遂げられるとは、実は夢にも思っていなかった。

 海洋生物パートの貫徹も、幾人かの方のエールゆえ、であったと言ってよい。

 その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方がおられた。

 また、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。「あなたの仕事は実に楽しく、また、有意義です」というメールを頂戴し、また、私の『栗本丹洲「栗氏千蟲譜」卷九』では、この先生の伝手で、無脊椎動物の幾つかの種の同定について、専門家の意見を伺うことも出来たのであった。

 ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 以下、サイト「鬼火」と本ブログ「鬼火~日々の迷走」に分散しているため、全部に就いてリンクを張っておく。

 

ブログ・カテゴリ「卷第三十七 畜類」(各個版)

ブログ・カテゴリ「卷第三十八 獸類」(各個版)

ブログ・カテゴリ「卷第三十九 鼠+「動物之用」(ブログ各個版。「動物之用」は本来は以下の「卷第四十 寓類 恠類」の後に附録するパートであるが、ここに添えた)

卷第四十  寓 恠サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥★各個版で以下の四巻総て★

卷第四十一 禽部 水禽類

卷第四十二 禽部 原禽類

卷第四十三 禽部 林禽類

卷第四十四 禽部 山禽類

卷第四十五 龍蛇部 龍 蛇サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十六 介甲部 龜 鼈 蟹サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十七 介貝部サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十九 魚部 江有鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第五十一 魚部 江無鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」★各個版で以下の三巻総て★

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

 

が動物部の総てであり、それに附録して、私のフリーク対象である海藻類を含む

卷第九十七 水草部 藻 苔サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

が加えてある。

 

 なお、私は植物は苦手で、向後も纏めてそれをやる意志は今のところ、ない。

 

 一つの私の「時代」が終わった――という感を――強く――しみじみと感じている。……では……また……何時か……何処かで…………

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 蹯(けもののたなごころ)

Mikukyuu

 

けものゝ

たなこゝろ

 

【音番】※1【音柔】

[やぶちゃん注:「※1」=「凩」-「木」+「ム」。]

 

蹯者獸之掌也熊蹯味美煑之難胹得酒醋水三件同煮

熟卽大如皮毬也

爾雅云狸狐貒貈醜其足蹯其跡※1郭璞曰※1者指頭處

與※2同字蓋三隅矛曰※2此相似故名

[やぶちゃん注:「※2」=(上)「九」+(下)「ム」。]

 

 

けものゝ

たなごゝろ

 

【音「番」。】※1〔(じう)〕【音「柔」。】

[やぶちゃん注:「※1」=「凩」-「木」+「ム」。]

 

蹯〔(ばん)〕は獸の掌〔(たなごころ)〕なり。熊の蹯、味、美なり。之れを煑るに、胹〔(に)〕難し[やぶちゃん注:軟らかくなりまで煮ることが難しい。]。酒・醋〔(す)〕・水の三件を得て、同〔じくして〕煮れば、熟して、卽ち、大いさ、皮〔の〕毬〔(まり)〕のごとくな〔れ〕り。

「爾雅」に云はく、狸・狐・貒〔(〔ま〕み)〕・貈〔(むじな)〕の醜き其足〔にも〕蹯(たな心[やぶちゃん注:漢字のルビはママ。訓点の送りがなに含まれる漢字類(「云」「時」など)は今まで総て平仮名で示したが、明らかルビに振られた特異点なので、例外的に漢字で示した。])あり。其の跡、「※1〔(じう)〕」あり。郭璞〔(かくはく)〕が曰はく、『「※1〔(じふ)〕」は、指の頭の處なり。「※2〔(じう)〕」[やぶちゃん注:「※2」=(上)「九」+(下)「ム」。]と同字〔なり〕。蓋し、三隅の矛〔(ほこ)〕[やぶちゃん注:刃の部分が三稜を成している矛のこと。]を「※2〔(じう)〕」と曰ひ、此〔れに〕相ひ似る。故に名づく』〔と〕。

[やぶちゃん注:所謂、肉球を含めた獣類の掌。但し、挿絵では手の甲のそれも添えているから、手首から先全体とするのが本来は正しいかろう。

「爾雅」字書で全三巻・十九編。撰者未詳。周代から漢代の諸経書の伝注を採録したものとされる。後の「郭璞〔(かくはく)〕が曰はく」は「爾雅注疏」で十一巻。晉の郭璞の「爾雅」の注釈書で、北宋の刑昺(けいへい)疏。大変優れたもので、後世の人々から注疏の手本とされている。

「貒〔(〔ま〕み)〕」アナグマ或いはタヌキの異名。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み)(同じくアナグマ)」を参照。

「貈〔(むじな)〕」同前。この時代のこれらは厳密な生物学的種別ではないので、同定比定する気はない。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 蹄(ひづめ)

Hidume

 

ひつめ  蹢【音的】

     【詩小雅有豕白蹢】

【音題】

     【和名比豆米】

 

切韻云蹄者畜足圓也岐曰甲【和名豆米】爪也

 

 

ひづめ  蹢〔(てき)〕【音「的」。】

     【「詩」[やぶちゃん注:「詩経」。]の

      「小雅」〔に〕、

      『豕〔(ぶた)〕に白蹢〔(はくてき)〕

       有り』といへり。】

【音「題」。】

     【和名「比豆米」。】

 

「切韻」に云はく、『蹄は畜の足の圓〔(まどか)なる〕なり。岐〔(また)〕あるを「甲」【和名「豆米」。】曰ひ、「爪」なり』〔と〕。

[やぶちゃん注:『「詩」の「小雅」〔に〕、『豕〔(ぶた)〕に白蹢』と有り』「詩経」の「小雅」の「漸漸之石(ざんざんしせき)」の一節。以前にも紹介した個人ブログ「raccoon21jpのブログ」のこちらで全文・訓読・和訳が出るので、参照されたい。詩篇本文の詩句が「有豕白蹢」である。

「切韻」隋の韻書。全五巻。六〇一年成立。反切(はんせつ:ある漢字の字音を示すのに、別の漢字二字の音を以ってする方法。上の字の頭子音(声母)と下の字の頭子音を除いた部分(韻母)とを合わせて一音を構成するもの。例えば、「東」の子音は「徳紅切」で「徳」の声母[t]と「紅」の韻母[]とによって[toŋ]とする類)によって漢字の音を表わし、百九十三韻を「平声(ひょうしょう)」・「上声(じょうしょう)」・「去声(きょしょう)」。「入声(にっしょう)」の四声に分類した書。陸法言・劉臻(りゅうしん)・顔之推・盧思道・魏彦淵・李若・蕭該・辛徳源・薛道衡(せつどうこう)の九人が、古今各地の韻書について議論した結果を、陸法言が系統的に整理した。原本は早く失われたが、敦煌から一部が発見されている。唐代、他の韻書を圧倒して、詩の押韻の基準に用いられ、その後、王仁昫(おうじんく)の「刊謬補欠切韻」、孫愐(そんめん)の「唐韻」等により増補し、北宋の陳彭年の「広韻」によって集大成された。これらは〈切韻系韻書〉と呼ばれ、中上古の中国語の体系や音韻を推定するための貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。辞書としての役割も持っている。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 角(つの)

Tuno

 

つの    角

      【和名豆乃】

      䚡【音顋】

      【和名古豆乃】

【音覺】

      觘【音鈔】

      【和名沼大波太】

 

△按角獸頭上出骨也角中骨曰䚡【和訓古豆乃】角上浪皮曰

 觘【和訓沼大波太】曲骨曰觠【音權】以角觸物曰觝【與牴同和名豆木之良比】觸

 字本作※作觕會意

[やぶちゃん注:「※1」=(上)「角」+(下)「牛」。]

本綱羚羊角耳邊聽之集集鳴者良然今牛羊諸角但殺

之者聽之皆有聲不羚羊自死角則無聲矣

煑角作噐法 事林廣記云地骨皮牙硝柳枝與角同煑

 水則柔輭如土以作噐再以甘草水煑堅硬【鹿角之下亦有之】

 鹿角切浸水久則柔也鹿角之用甚多

――――――――――――――――――――――

きば

【音】

[やぶちゃん注:以下の内二行は原典では標題下にある。]

 猛獸牙之纖利曰※2【所賣切】事林廣記云煑象牙

[やぶちゃん注:「※2」=(「刹」-「刂」)+「閃」。]

 與木賊水同以砂鍋煑之水減則加熱水煑三

 伏時卽柔用作噐再以甘草水煑之堅硬

 

 

つの    角

      【和名「豆乃」。】

      䚡〔(さい)〕【音「顋」。】

      【和名「古豆乃〔(こづの)〕」。】

【音「覺」。】

      觘〔(せう)〕【音「鈔」。】

      【和名「沼大波太〔(ぬたはだ)〕」。】

 

△按ずるに、角は、獸の頭の上に出づる骨なり。角の中の骨、「䚡」【和訓「古豆乃」。】と曰ひ、角の上の浪〔打ちたる樣なる〕皮を「觘」【和訓「沼大波太」。】と曰ひ、曲れる骨を「觠〔(けん)〕」【音「權」。】と曰ひ、角を以つて物を觸(つ)くを「觝〔(てい)〕」【「牴〔(てい)〕」と同じ。和名「豆木之良比〔つきりらひ〕」。】と曰ふ。「觸」の字は、本(〔も〕)と、「※1」に作り、〔また、〕「觕」に作り、〔これ、〕會意〔なり〕。[やぶちゃん注:「※1」=(上)「角」+(下)「牛」。]

「本綱」、『「羚羊〔(れいよう)〕の角を耳の邊りに〔當て〕之れを聽くに、「集集(しゆつしゆつ[やぶちゃん注:ママ。オノマトペイア。])」と鳴る者、良し」〔と言へど〕、然れども、今、牛・羊の諸角――但し、殺(ころ)したるの者――之れを聽くに、皆、〔その〕聲、有り。羚羊のみならず、自死の角〔(つの)〕のには、則ち、聲、無し』〔と〕。[やぶちゃん注:以上の時珍の文章(以上総ては「本草綱目」の巻五十一上の「獸之二」の「羊」の「集解」の一節)では明らかに部分挿入をして述べているので、今までやったことのないダッシュを用いて示した。]

角を煑〔(に)〕て噐〔(うつは)〕を作る法 「事林廣記」に云はく、『地骨皮〔(ぢこつぴ)〕・牙硝・柳の枝を角と同〔じくして〕水に煑〔れば〕、則ち、柔輭〔に成ること〕[やぶちゃん注:「輭」は「軟」の本字。]、土のごとくにしして、以つて噐に作り、再たび、甘草水を以つて煑れば、堅硬〔と成れり〕【鹿角の下にも亦、之れ、有り。[やぶちゃん注:次の一行がそれであろう。]】』〔と〕。

『鹿の角は、切りて、水に浸〔すこと〕久しきときは、則ち、柔なり。鹿角の用、甚だ多し』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

きば

【音[やぶちゃん注:欠字。]。】

猛獸の牙の纖(ほそ)く利(と)きを「※2〔(さい)〕」「所」「賣」の切。】「事林廣記」に云はく、『象牙を煑るに、木賊(とくさ)水と同じく〔して〕、砂鍋を以つて之れを煑る。水、減ずるときは、則ち、熱水を加へて、煑ること、三伏時[やぶちゃん注:三日。三昼夜。]、卽ち、柔なり。用ひて、噐に作り、再たび、甘草水を以つて之れを煑れば、堅-硬(かたま)る』〔と〕。[やぶちゃん注:「※2」=(「刹」-「刂」)+「閃」。]【

[やぶちゃん注:「會意」漢字の成り立ちを分類する六書(りくしょ)の一つ。二字以上の漢字を組み合わせて、同時にそれぞれの意味をも合わせて一字の漢字とすること。「日」+「月」=「明」、「女」+「取」=「娶」(めとる)などのケース。

「羚羊〔(れいよう)〕」「かもしか」とも訓読出来る。狭義の中国に棲息する「羚羊(かもしか)」となると、獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ(シーロー(英名:serow))属 Capricornis の内で、シーロー亜属スマトラカモシカ(シーロー・ヒマラヤカモシカ)Capricornis sumatraensis(パキスタン北部・インド北部・中国南部・タイ・ミャンマー・スマトラ島などに分布。本種には別に Capricornis milneedwardsiiCapricornis rubidusCapricornis thar の三亜種がいるらしい)。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢(カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)」の私の注を参照されたい。

「事林廣記」南宋末から元代にかけて、福建崇安の陳元靚(ちんげんせい)が著した日用の百科事典タイプの民間書籍。ウィキの「事林広記」によれば、『当時の民間の生活に関する資料を大量に含んでおり、かつ挿絵入りの類書という新しいジャンルを切りひらいた。わかりやすいために、広く普及した』。同書は記載中の『「帝系」の項に』、『「大元聖朝」の一節があり、そこに「今上皇帝中統五年」(』一二四六『年)「至元万万年」』『とあることから、元初のフビライの中統年間から至元年間のはじめ(』十三『世紀中ごろ)に書が完成したことがわかる。この本の原刊本は』既に『失われており、現在は元・明の刻本および和刻本などが知られているが、いずれも増改を経ている』。『元の時代の百科事典として、まず元朝の領域を示した「大元混一図」を置いている。その中に』、『元の上都・大都が描かれている。ついで』、『元朝の郡邑・蒙古字体・パスパ文字』(中国語「蒙古新字」「八思巴字」。十三世紀にモンゴル語など、大元ウルス(元朝)の各種言語表記に用いるために制定された表音文字。上から下へと縦に綴る。「方形文字(ほうけいもじ)」とも呼ばれる)の「百家姓」(伝統的な中国の教育課程に於いて子供に漢字を教えるための学習書の一種。中国の代表的な漢姓を羅列してあるだけの内容だが、「三字経」・「千字文」と同様に韻文の形式で書かれてある)や『元の官制・元の交鈔貨幣・元の皇帝などを順次』、『紹介している。それから元の市井生活および市民生活の常識を紹介しているが、そこでは』、『生活類百科事典ではじめて挿絵を使用している。挿絵には元の騎馬・弓術・拝礼・車両・旗幟・学校・先賢神聖・孔子・老子・昭烈武成王・宴会・建築・囲碁・シャンチー』(象棋。中国及びヴェトナムで盛んな将棋の一つで、二人で行うボード・ゲーム)『・投壺・盤双六・打馬(ダイスゲームの一種)・蹴鞠・幻術・唱歌などがあり、元の歴史や社会生活を研究する上』で、『一級の視覚的資料となっている』。『パスパ文字で書かれた百家姓に多くの紙幅をさいており、かつ「蒙古字体」の説明を行っている。パスパ文字は後世』、『使用されなくなり、元の滅亡後は廃棄されたため、このパスパ文字百家姓はパスパ文字の実物を残すものとして重要である』とある。

「地骨皮〔(ぢこつぴ)〕」被子植物門双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense の根皮。漢方で清涼・強壮・解熱薬などに用いる。「枸杞皮(くこひ)」とも呼ぶ。

「牙硝」不詳。「馬牙硝」(ばがしょう)ならば、硫曹石を再結晶させて精製した、天然の硫酸ナトリウムの水和物。「芒硝(ぼうしょう)」とも呼ぶ。漢方薬では乾燥させた硫酸ナトリウムが便秘の際の便の軟化に用いられており、また、「おでき」や湿疹による炎症を鎮静させる効果も認められる。

「甘草水」植物のカンゾウ(中国の記載であるから、原産地が中国東北部とされている、双子葉植物綱マメ目マメ科カンゾウ属ウラルカンゾウ Glycyrrhiza uralensis とする)の草体全体か根などの部分か、生か乾燥品か、知らぬが、水に浸して得た水溶液であろう。

「木賊(とくさ)水」植物のシダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属トクサ Equisetum hyemale を前注同様に(不明部分も同じ)に処理した水溶液であろう。

「砂鍋」土鍋のこと。]

太平百物語卷五 四十七 松田五市狸を切りし事

Matudagorou 

 

   ○四十七 松田五市狸を切りし事

 ある國の事なりし。

 御城下を、每夜每夜、役人衆、夜廻りに通られけるに、丑三つ[やぶちゃん注:午前二時。]の此ほひ、町はづれにて、若き女の綿帽子をかづきて、只一人(いちにん)、いと忍びやかに通りしかば、役人衆、此体(てい)をみて、心得ぬ事におもひ、跡を付(つけ)て行(ゆか)れけるに、此女、ふり歸りみて、

「莞尓(につこ)。」

と、わらひ、又、靜(しづか)に步み行(ゆき)けるまゝ、いよいよ、あやしくおもひ、猶々、慕(した)ふて行(ゆく)に[やぶちゃん注:ますます不審を募らせて、なおもその後(あと)をつけて行ったところが。]、此女、しだひしだひ[やぶちゃん注:ママ。]に、たけ高くなりて、大きなる松の木の許(もと)に行(ゆく)ぞ、と見へし。

 かの綿ぼうしを取(とり)て、役人の衆中(しゆぢう[やぶちゃん注:ママ。])を、

「はつた。」

と、ねめしをみれば、眼(まなこ)は日月(じつげつ)のごとく、口は耳のもと迄さけて、頭(かしら)におどろの髮を乱し、眉間(みけん)に一つの角(つの)を生(おひ)たりしかば、さしもに武(たて)き面々も、身の毛、

「ぞつ。」

と、立(たち)ければ、皆、引色(ひきいろ)に見へにける[やぶちゃん注:流石に、殆んどだれもが怖気てしまい、身を退かせ気味になったように見受けられたという。]。

 其中に、松田五市といふ人、心勝(こゝろまさ)りの男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])にて、頓(やが)て、刀を拔放(ぬきはな)し、橫樣(よこざま)に切付(きりつけ)しかば、其儘、形(かた)ちは消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])て、切(きり)こみしは、松の木なりしが、大勢の聲として、

「どつ。」

と、笑ふ音して、其後は、何事も、なかりけり。

 能(よく)々きけば、

「此所に數(す)百年を經し古狸(ふるだぬき)の所爲(しよゐ)なり。」

とぞ、いひあへりける。

神の饗宴 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    神 の 饗 宴

 

 或日神がその蒼穹の宮殿に一大饗宴を催ほさうと思ひ立たれた。

 あらゆる美德は招き呼ばれた。然しただ女性なる德のみで……男子は招かれず……婦人ばかりであつた。

 大きな德、小さな德、非常な數であつた。小さな德は大きな德よりは一層愉快で樂しさうであつた。けれどもいづれも滿足氣に見受けられ、近親か知己ででもあるやうに打ちとけて話し合つてゐた。

 ところが神は全く初對面らしい二人の美しい婦人にお目を止められた。

 主人は一人の婦人の手を執つて、今一人の婦人に引合はせて、

 『恩惠!』とはじめの婦人を指(さ)して言ひ、

 『謝恩!』とつぎの婦人を指して附け足された。

 二人の美德は此上もなく驚いた。世界の創造されて以來(このかた)すでに長い年月は經つてゐたけれども、この二人の出會つたのはこれが始めてだつたのである。

    一八七八年十二月

 

神の饗宴、人間の忘恩を諷したもの。】

は女性である。】

エゴイスト ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    エ ゴ イ ス ト

 

 彼はその家族を責め苛(さいな)むあらゆる性質をそなへてゐた。

 彼は生れて健康であり富裕であり、またその長い一生涯富裕で健康で通して來て、たつた一つの罪も犯さす、たつた一つの過失(あやまち)もせず、また曾て心得違ひも遣り損(そこな)ひもしたことはなかつた。

 彼は一點難の打ちどころもない、堅實な人間だつた!……そして自分の堅實なことを誇りにして、彼はそれに依つて、家族であれ友達であれ知人であれ、凡ての人を壓服してゐた。

 彼の堅實さは彼の資本であつた……そして彼は此の資本から放外な利息を收めてゐたのだ。

 此の堅實さが彼に無慈悲であり、また法律の命じない善事をしないと云ふ權利を彼に與へた、そして彼は無慈悲であり、何等の善事もなさなかつた……何となれば命じられてなす善事は少しも善事では無いからである。

 彼は彼自身の模範的の自我を除いては、いかなるものにも興味を有しないで、しかも若し他人がそれに同じやうに、深い興味を有たなければ本氣(むき)になつて怒(おこ)るのであつた!

 その癖彼は自分を主我主義者(エゴイスト)だとは思つてゐなかつた。そして主我主義者(エゴイスト)を非難する事は特別過酷で、それを見附け出す事は鋭敏なものであつた。云ふ迄もなく、他人の主我主義(エゴイズム)は彼自身の主我主義(エゴイズム)の邪魔になるものである。

 彼は自分には些かの弱點も認めないで、他人の弱點は理解もしなければ容赦もしなかつた。まつたく彼は何人も何物も理解しなかつた、と云ふのも、彼が上下前後、あらゆる方面からすつかり自分と云うもので取圍まれてゐたからである。

 彼は寬容の意義さへも理解してゐなかつた。彼は自分自身を赦(ゆる)さねばならぬ必要を持たなかつた……どうして他人を赦さねばならぬ必要があらうぞ?

 彼自身の良心と云ふ判官の前に立つて、彼自身の神の面前に於いて、彼は、此の驚くべき人物、此の德の怪物は、その眼を空に向けて、確乎たる明晰な聲で公言した、『然り、自分は模範的人物である、眞個の道德的人物である!』と。

 彼はこの言葉をその臨終の床でも繰返すであらう、そしてその時でさへも、此の石のやうな心は何等の動搖をも來さないであらう――缺點も汚點も無いその心は!

 ああ、廉價に購(あがな)ひ得たる德の頑迷な自己滿足のその醜惡よ。汝は惡德のおほつぴらな醜惡よりもより惡(にく)むべきものである!

    一八七八年十二月

 

エゴイストは、主我主義者、利己主義者、自分の事ばかり重んじて他人の事は顧みない人間。】

[やぶちゃん注:「眞個」「しんこ」。「真箇」とも書く。真実であること。真正。これで「まこと」と当て訓することも可能だが、今までの生田のルビの振り方から見て、その可能性はゼロである。]

2019/05/28

二兄弟 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    二 兄 弟

 

 それは幻影(まぼろし)であつた……

 二人の天使が……一人の精靈が私のところに顯(あら)はれた。

 私は天便とも精靈(せいれい)とも呼ぷ、二人は裸身(はだかみ)で衣(きぬ)も纒はず。いづれも肩のうしろに二つの長いしつかりした翼が附いてゐるからである。

 二人とも若かつた。一人はふつくらとしてゐて、柔かな滑かな肌に黑い捲髮(まきげ)をしてゐた。鳶色のぱつちりした眼は睫毛(まつげ)が濃くてはればれした眼附には媚を含み、また熱が籠つてゐた。顏には魅するやうな迷はすやうなところと、厚かましい意地が惡さうなところとあつた。やはらかさうな紅(あか)い脣はぴくぴく顫(ふる)ヘてゐた。靑年は力ある者のやうに――自ら恃(たの)むところありげにまた氣怠(けだ)るげに微笑した。つやつやした捲髮(まきげ)にふわりとかかつた見事な花輪はその天鵞絨(びろうど)のやうな眉に觸れんばかりである。まだらな豹の皮は金の矢をもてとめられて、ま

るい肩からふつくりした腿(もゝ)へふわりと垂れてゐる。翼の羽根は薔薇色に染めなされ、その端はまるでなまなましい鮮血に浸されたやうな眞紅(しんく)である。時々さわやかな銀(しろがね)の響、春雨の音を立ててせはしげにその翼は振ふ。

 いま一人は瘠せてゐて、肌は黃ばんでゐる。息する度に肋骨(あばらぼね)がかすかにあらはれる。その髮はブロンドで、細くて直(す)ぐだし、その眼は大きく圓くて薄鼠色である……眼附は不安げで、異樣に光つてゐる。相貌はすべて鋭く、尖つた魚のやうな齒をもつた小さな半ば開かれた口、よく通つた鷲鼻、白い絨毛(わたげ)で蔽はれてゐる突き出(で)た顎(あご)。乾いた脣は未だ曾て微笑したこともないであらう。

 よく整つてゐながらも、何と云ふ恐ろしい無慈悲な顏だらう!(もつとも前の美しい靑年の顏も、惚れ惚れするやうではあつたが慈悲の相は缺いてゐた)此の靑年の頭には少しばかりのちぎれた空穗(しいな[やぶちゃん注:ママ。])が枯草で卷き附けられてゐる。腰には粗(あら)い灰色の布(きれ)をまとひ、どんよりした鼠いろの翼をゆるゆると脅(おびや)かすやうに動かしてゐる。

 此の二人の靑年は離すことの出來ない伴侶(つれ)のやうに見えた。互に肩をもたせかけて、一人がその柔かな手を相手の骨ばつた頸に葡萄の房のやうに卷きつければ、一人の細長い指をした瘠せた手首は相手の女のやうな胸のまはりに蛇のやうに曲げられた。

 すると何だか聲がして、それはかう言つた、『戀と飢とがお前のまへに立つてゐる――これ雙生兒(さうせいじ)、生きとし生けるものの二つの礎(いしずえ)。

『生きとし生けるもの皆食を求めて動く、そして後繼者(あとつぎ)を生まんが爲めに食ふ。

『戀と餓と――その目的たるや一つである、自分の生命(いのち)も、他人(ひと)の生命(いのち)も――生きとし生けるものの生命(いのち)を絕(た)やさせまいとするにある。』

    一八七八年八月

 

[やぶちゃん注:「空穗(しいな)」歴史的仮名遣は「しひな」で「粃」「秕」と書く。殻ばかりで中身のない籾(もみ)を言う。]

通信員 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    通 信 員

 

 二人の友達が食卓(テエブル)によつて茶を飮んでゐた。

 すると突然街路(とほり)で消魂(けたゝま)しい騷ぎがおこつて、哀れな呻き聲や、烈しい罵詈(ばり)や意地の惡い笑ひ聲などが聞えた。

『誰れやらが打擲(ぶんなぐ)られてるぞ』と友達の一人が窓から覗きながら言つた。

『罪人か? 人殺しか?』と他の一人が訊(き)いた。『そりや誰でもかまはんが、無法(むはふ)に打擲(ぶんなぐ)らせちや置けない。行つて、助けてやらう』

『打擲(ぶんなぐ)られるのは人殺しぢやない』

『人殺しぢやない? ぢや泥棒か? 何だつてかまはん、彌次馬(やじうま)の手から救ひ出してやらう』

『泥棒でもないよ』

『泥棒でもない? ぢや持逃げした會計係か、鐡道の役員か、陸軍の御用商人か、露西亞文鄙の保護者(パトロン)か。辯護士か、保守黨の記者か、社會改良者か?……何だつていゝさ、行つて救つてやらうぢやないか』

『いや違ふ、打擲(なぐ)られてるのは新聞の通信員だ』

『通信員? あゝさうか。ぢや、まあ茶を喫(の)んでしまつてからにしよう』

    一八七八年七月

老人 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    老  人

 

 陰暗たる荒凉たる日は來つた……その身の衰弱、その愛する者の苦痛、老年の冷索(れいさく)と憂愁。汝が愛したものは、そのために献身的に盡したものは、すべて凋落しては碎け散つてしまふ。道はすべて下り坂である。

 今さら何をすべきだらう? 悲むべきか? 嘆くべきか? そんな事をしても自分にも他人(ひと)にも何の益もないであらう。

 曲(まが)つた凋(しを)れた樹の葉はだんだんと小さく少(すくな)くはなるけれども、その綠の色はやはり變らない。

 いざ、汝もまた縮(ちゞ)かまつて、汝自身のうちに、汝の追想(おもひで)の中に隱れよ。さうすれはその奧底に、汝の心の奧底に、汝の過ぎ去つた生活、汝にのみ理解の出來る生活が、美しい春の力と香ばしい未だなほ鮮かな綠のいろとをもつて、汝の前に輝き出るであらう。

 然し氣を附けるがいゝ……哀れなる老人よ、前途を見てはいけない!

   一八七八年七月

 

[やぶちゃん注:「冷索(れいさく)」冷たく、もの淋しいさま。]

二富豪 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    二 富 豪

 

 冨豪口スチヤイルドがその莫大な收入の中から子供の教育、病人の治療、老人の扶助に、巨萬の金を寄附すると言つて人の賞めるのを聞く度に、私は讃嘆し感動する。

 然しそれを讃嘆し、それに感動する時ですら、私は孤兒(みなしご)になつた姪をそのみすぼらしい小舍(こや)に引取つた貧しい百姓一家を思ひ出さずにはゐられない。

『もしカチカを家(うち)へ引取るとすると』と女房は言つた。『一文無しになつちまつて、汁に入れる盬だつて買へなくなりますよ』

『いゝやな……盬が無くつたつて食へるさ』と亭主の百姓が答へた。

 ロスチヤイルドは此の百姓を相距ること遠いと云はねばならぬ!

    一八七八年七月

 

[やぶちゃん注:「富豪口スチヤイルド」「Rothschild」はユダヤ系金融業者の一族で、イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(一七四四年~一八一二年)が、フランクフルトで金融業によって財産の基礎を形成し、その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等、ヨーロッパ各国に「ロスチャイルド財団」を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ―ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(一八七〇年)には、「ロスチャイルド銀行」による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、着実に欧州に於ける金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対し、隠然たる権力を有しているとされる。ちなみに私の好きなボルドーの「シャトー・ムルトン・ロートシルト」(Château mouton rothschild)はマイヤーの息子ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが一八五三年に購入し(「ローシルト」が「ロスチャイルド」のドイツ語読みとは私は不覚にも知らなかったのであった)、更に、やはり私のお気に入りのカリフォルニア・ワイン「オーパス・ワン」(Opus One)もナサニエルの曾孫のものと知るに及んで、何とも複雑な気持ちになっている。

「相距る」「あひへだたる」。]

空色の國 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    空 色 の 國

 

 おゝ、空色の國よ! おゝ、光明と色彩と、靑春と幸福の國よ! 私は夢に汝を見た。私は幾人(いくたり)かの仲間と華かに飾られた綺麗な小舟に乘つてゐた。白鳥の胸のやうに白帆はふくらんでゐた、風に翻へる流旗(はた)のもとに。

 仲間と云ふのは誰だか私は知らなかつた。けれども私自身のやうに、若い快活な幸福な人達だとは心底から感じられた!

 しかも私は彼等には目もくれなかつた。私はたゞまはりの金の鱗(うろこ)の波立つ果て知らぬ海を眺めた。頭上にも同じ窮(きはま)りなき空色の海が橫はり、太陽は嬉しげに勝ち誇つたやうに動いてゐた。

 我々の間には、時々諸神(かみがみ)の笑ひのやうによく透(とほ)る喜ばしいげな笑ひ聲が起つた!

 それから不意に誰かの脣(くち)から言葉が出た。不思議な美や感激した力に充たされた歌が出た……天(そら)もそれに應(こた)へ、まはりの海もそれに調子を合せて顫(ふる)へるやうに思はれた。……それからまた樂しい平穩にかへつて行つた。

 おだやかな波の上を輕く浮んで、我々の小舟は走つて行つた。風が走らせるのではなくて、我々自身の輕く波打つ心臟がそれを導いて行くのである。小舟は我々の行つて見たい方へ走つた、まるで生きた物のやうに從順に。

 我々は群島(しま)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に近づいた、紫水晶や綠柱石(エメラルド)などの寶石のきらきら光つてゐる半透明の仙島である。そのぐるりの海岸からは心を醉はす薰香が立ちのぽつてゐた、その或る島では薔薇や君影草(ヴアレイ・リリイ)の雨を我々に降らし、また或る島では紅の七色をした長い翼を持つた鳥のむれが舞ひあがつた。

 鳥のむれは我々の頭上に輪を描き、百合や薔薇は我々の小舟の滑らか舷(ふなばた)を滑つて、眞珠のやうな泡の中へ溶け込んでしまふ。

 そして花や鳥とともに、蜜のやうにスヰイトな音調が我々の方へ漂つて來た……その中には女の聲も聞えた……そして我々のまはりはすべて、天(そら)も、海も、高くあがつた帆も、舵のところでどくどく云ふ水も――すべて戀を語つた。幸福な戀を語つた!

 そして彼女も、我々のそれぞれの戀人もまた其處(そこ)にゐたのである……目には見えなかつたけれども。いま一時(ひとゝき)、そして見よ、彼女の眼は汝等に輝き、彼女の頰は汝等に笑みゆらぐであらう………彼女の手は汝等の手を取つて、永久の樂園(パラダイス)へと導くであらう!

 おゝ、空色の國よ! 私は夢に汝を見た。

    一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:「君影草(ヴアレイ・リリイ)」既出既注の単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の異名。鈴蘭は実際、英名の別名を「lily-of-the-valley」、則ち、「谷間の姫百合」とも呼ぶのである。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 牝牡(めを)

[やぶちゃん注:ここから以下は、本カテゴリの冒頭で述べた通り、「卷第四十 寓類 恠類」の後にある、短い「獸の用」のみを、便宜的にここで電子化注することとする。なお、この「獣之用」を以って「和漢三才圖會」の動物に関わる記載の私のオリジナル電子化注は、遂に、総てを終了することとなる。]

 

 

   獸之用

牝牡【臏母】

說文云畜母曰牝【和名米計毛乃】畜父曰牡【和名乎介毛乃】凡飛者曰雌

雄走者曰牝牡然亦通用雄狐綏綏則是走獸也雉鳴求

牝則是飛禽也凡鳥交接曰交尾獸交接曰遊牝【二共和名豆流

比】 淮南子云犬三月而生豕四月而生猨五月而生鹿

六月而生虎七月而生 春秋說題辭馬十二月而生

凡熊虎狐狸之聲曰嘷【音豪】牛鳴曰吼【吽同】犬鳴曰吠【音廢三字訓皆保由】

凡獸食蒭已久復出嚼之牛羊麋鹿皆然但其名異耳牛

曰※【齝同音鴟】羊曰齥【音泄】麋鹿曰齸【音益皆訓迩介加無】禽獸所食餘曰

[やぶちゃん注:「※」=「齒」+「同」。]

㱚【音殘】字从肉

以鼻動物曰鼿【音兀訓宇世流】

獸直前足坐曰蹲踞【俗云豆久波不】

尙書云中冬鳥獸氄毛【和名不由介】注云鳥獸皆生細毛自温

也毛落更生整理曰毨【音先】毛羽美悅之狀

 

 

   〔(けもの)〕の用

牝牡(めを)【〔音〕「臏母」。】

「說文」云はく、『畜〔(ちく)〕の母を「牝(め)」【和名「米計毛乃〔(めけもの)〕」。】と曰ひ、畜の父を「牡(を)」【和名「乎介毛乃〔(をけもの)〕」。】と曰ふ』〔と〕。凡そ、飛ぶ者を、「雌雄(しゆう)」と曰ひ、走る者を「牝牡(ひんぼ)」と曰ふ。然れども、亦、通用す。〔例へば、「詩經」に〕『雄狐〔(ゆうこ)〕綏綏〔(すいすい)〕』といふときは、則ち、是れ、走〔る〕獸なり。『雉(きじ)、鳴きて牝を求む』といふときは、則ち、是れ、飛〔ぶ〕禽〔(とり)〕なり。凡そ、鳥、交-接(まじは)るを、「交-尾(つる)む」と曰ひ、獸の交-接〔(まじは)〕るを「遊牝〔(つる)む〕」と曰ふ【二つ共に和名「豆流比〔(つるび)〕」。】。「淮南子〔(ゑなんじ)〕」に云はく、『犬は三月〔(みつき)〕[やぶちゃん注:以下、妊娠期間の月数。]にして生(こ〔を〕う)み、豕〔(ぶた)〕は四月にして生み、猨〔(さる)〕五月にして生み、鹿は六月にして生み、虎は七月にして生む』〔と〕。「春秋說題辭」に、『馬は十二月にして生む』〔と〕。凡そ、熊・虎・狐・狸の聲を「嘷(ほ)ゆる」【音「豪〔(コウ)〕」。】と曰ひ、牛の鳴くを「吼(ほ)ゆ」【「吽〔コウ/ク/イン/オン〕」も同じ。】と曰ふ。犬の鳴くを「吠(ほ)ゆる」【音「廢〔(ハイ)〕」。三字、訓、皆、「保由」。】と曰ふ。

凡そ、獸、蒭(くさ)[やぶちゃん注:草。馬や牛の飼料とする草であるが、その内、本来は乾燥させた干し草を指し、生のそれは「秣(まぐさ)」として区別していたらしい。]を食ひて、已に久しくして、復た出だして、之れを嚼〔(は)〕むを、牛・羊・麋〔(おほじか)〕・鹿、皆、然り。但し、其の名の異なるのみ。牛のを「※(にげか)む」[やぶちゃん注:「※」=「齒」+「同」。原典は『ニケカム』とルビする。反芻動物のそれは一般には「にれかむ」の読みが知られるが、「にげかむ」「にげがむ」の訓もちゃんとある。]【「齝」も同じ、音「鴟〔(シ)〕」。】と曰ひ、羊のを「齥(にげか)む」【音「泄〔(セツ)〕」。】と曰ひ、麋・鹿のを「齸(にげか)む」【音「益」。皆、訓「迩介加無〔(にげかむ)〕」。】と曰ふ。禽獸の食ふ所の餘(わけ)を「㱚〔(ざん)〕」【音「殘」。】と曰ふ。字は「肉」に从〔(したが)〕ふ[やぶちゃん注:「㱚」の旁(つくり)が「月」(にくづき)であることを指す。]。

鼻を以つて、物を動かすを、「鼿〔(こつ)〕」【音「兀〔コツ)〕」。訓「宇世流〔(うせる)〕」。】

獸、前の足を直〔(すぐにし)〕て坐〔(すわ)〕るを「蹲踞(つくぼ)う[やぶちゃん注:ママ。]」【俗に云ふ、「豆久波不〔(つくばふ)〕」。】と曰ふ。

「尙書」に云はく、『中冬、鳥獸、氄毛(ふゆげ)【和名「不由介」。】』〔と〕。〔その〕注に云はく、『鳥獸、皆、細毛を生じて自ら温〔むる〕なり。〔この〕毛、落ちて、更に生じて整理〔せる毛〕を「毨〔(せん)〕」【音「先」。】と曰ひ、毛羽〔の〕美悅の狀なり』〔と〕。

[やぶちゃん注:「說文」「説文解字(せつもんかいじ)」。後漢の許慎の著になる西暦一〇〇年頃に成立した現存する中国最古の字書。全十五巻。漢字を「扁 (へん)」と「旁 (つくり)」 によって分類し、その成立と字義を解説したもの。書名は「文字」を「説解」したという意で、略して「説文」と呼ばれる。部首は「一」に始り、「亥」に終る五百四十部に亙り、各部に属する文字は類義字の系列順で配列されてある。各字は、まず、秦代の小篆を掲げ、その古字がある場合は下に付記して(「重文」と称する)字体の変遷を示す。則ち、見出し字である小篆九千三百五十三字と、その重文千百五十三字が収められてある。漢字の造字法を「象形」・「指事」・「会意」・「形声」・「転注」・「仮借」の現在も分類として現役の「六書 (りくしょ)」 に分類し、各字について、その造字法と字義とを解説している。漢字の本質を説明した最古にして最も権威ある書で、甲骨文字が発見され、音韻論・語源研究の発達した今日にあっても、その解説は概ね正しいとされ、逆に本書があって初めてこれらの研究が進んだ。漢字の配列・分析に使われる「部首」や、以上の「六書」の発明と相俟って、中国の実証的学問研究の端緒を成すものとされる。テキストは宋初の校訂本が規準とされ、清代にはそれを校合した「説文」研究が盛んとなり、多くの注釈が生れた。中でも清代の考証学者段玉裁の「段注説文解字」(全三十巻・一八〇七年成立) が、強引な論証をも含むものの、最も精密なものとされている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

「畜〔(ちく)〕」人が何らかの目的を以って飼育する動物のみを指すが、それだと、そうでない動物の♀♂を「牝牡」と呼んではならないことになるので、これが厳密な意味での本来の原義という謂いであると言う意味で示してあるのである。

「米計毛乃〔(めけもの)〕」言わずもがなであるが、「牝獣(毛物)(めけもの)」の謂いであり、後の「乎介毛乃〔(をけもの)〕」も「牡獣」。

「〔例へば、「詩經」に〕『雄狐〔(ゆうこ)〕綏綏〔(すいすい)〕』といふ」「詩経」の「斉風」の「南山」に出る詩句(書誌情報は平凡社「東洋文庫」訳に拠った)。ここは、「♂のキツネが♀キツネを求めて、ゆるやかに身も軽く、水が流れるように野を走ってゆく」というさまを詠んでいる。詩全体は例えば、個人ブログ「raccoon21jpのブログ」のこちらの原文・訓読・現代語訳及び解説を見られたい。

「雉(きじ)、鳴きて牝を求む」これも実際には前の引用に合わせて「詩経」を念頭に置いていよう。同「邶風」の「匏有苦葉(ほうゆうくよう)」の詩句に「雉鳴求起牡」(雉は鳴き その牡(オス)を求め起(はじ)む)とあるからである。全篇は先の方のブログのこちらで読める。

『凡そ、鳥、交-接(まじは)るを、「交-尾(つる)む」と曰ひ、獸の交-接〔(まじは)〕るを「遊牝〔(つる)む〕」と曰ふ【二つ共に和名「豆流比〔(つるび)〕」。】』この部分、私は良安の割注が気に入らない。前の語はそれを動詞として訓じて訓読しているのであるから、割注の内の和名を名詞で示すというのは、そもそもおかしいからである。

「淮南子〔(ゑなんじ)〕」(「え」は呉音であるが、こう読まねばならない論理的理由は実は全くない)前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が学者を集めて編纂させた思想書。

「春秋說題辭」「春秋」に付会された「緯書(いしょ)」(儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物類の総称)の一つで、前漢末頃成立と推定されるもの。東洋文庫訳の書名注では、『一巻。無名氏撰』で、『経書をまねて、吉凶禍福や未来のことを予言した書物で』、「春秋」『に仮託した緯書の一つ』とするが、緯書の書名は三文字で附けられるのが一般的であると、個人サイト「学退筆談」の「『春秋説題辞』は「春秋説」の題辞にあらず」にあって、この書名は正しくない旨の批評が記されてある。

「吽」この字、「阿吽(あうん)」の「ウン」であるが、この「ウン」は仏教の呪言(じゅごん)での音であるので、採用しなかった。

も同じ。】と曰ふ。犬の鳴くを「吠(ほ)ゆる」【音「廢〔(ハイ)〕」。三字、訓、皆、「保由」。】と曰ふ。

「麋〔(おほじか)〕」これを「なれじか」と読み、トナカイ(馴鹿:鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus)とする場合もあるが、トナカイは現行では中国に分布せず、文字列から見ても、ここは「大型の鹿」の意でとるべきである。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麋(おほしか)附・雙頭鹿(大型のシカ或いはシフゾウ)」も参照されたい。

「字は「肉」に从〔(したが)〕ふ」「㱚」の旁(つくり)が「月」(にくづき)であることを指して謂っている。

「鼿〔(こつ)〕」『訓「宇世流〔(うせる)〕」』岩波書店「広辞苑」に「鼿(うせ)る」の見出しで載り、他動詞で活用未詳(四段・下一段活用の両説があるとする)で、『けものが鼻先でものをつき動かす』とあり、「和名類聚鈔」を出典例とする。調べてみると、「和名類聚鈔」の巻第十八の「毛群部第二十九 毛群體第二百三十五」に、

   *

鼿 「説文」云、『鼿【「五」「忽」反。宇世流。】以鼻動物也』。

   *

とある。

「尙書」「五経」の一つである「書経」の古名。「尚(とうと)ぶべき書」の意。夏・商(殷)・周の史官が当時記録したものを、周末に至って孔子が編纂したとされる君主や重臣の訓告を主とするものであるが、中には後世の偽作も含まれているとされる。

「整理〔せる毛〕」しっかりと、再度、生え揃った毛。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)/ 和漢三才図会巻第三十九 鼠類 電子化注~完遂

Itati

 

 

いたち   鼠狼  鼪【音生】

      𪕷【音谷】 地猴

【音佑】

      【和名以太知】

ユウ

 

本綱鼬狀似鼠而身長尾大黃色帶赤其氣極臭其毫與尾可作筆其肉【甘温有小毒】臭此物能捕鼠及禽畜亦能制蛇虺

△按鼬其眼眩耳小吻黒全體黃褐色身長而柔撓雖小隙竹筒反轉無不出能捕鳥鼠惟吮血而不全食之其聲如輾木音群鳴則以爲不祥或夜中有熖氣高升如立柱呼稱火柱其消倒處必有火災蓋群鼬作妖也

水鼬 本此一種常棲屋壁穴覘瀦池入水捕魚性畏蟾蜍如相見則鼬困迷又畏瓢簞故養魚池邊安瓢簞

 

 

いたち   鼠狼  鼪〔(せい)〕【音「生」。】

      𪕷〔(こく)〕【音「谷」。】

      地猴〔(ちこう)〕

【音「佑〔(イウ)〕」。】

      【和名「以太知」。】

ユウ

 

「本綱」、鼬、狀〔(かたち)〕、鼠に似て、身、長く、尾、大〔なり〕。黃色に赤を帶ぶ。其の氣〔(かざ)〕、極めて臭し。其の毫〔(がう)〕[やぶちゃん注:細い毛。]尾と與(とも)に筆に作るべし。其の肉【甘、温。小毒有り。】〔は〕臭し。此の物、能く、鼠及び禽〔(とり)〕・畜〔(けもの)〕を捕ふ。亦、能く、蛇・虺〔(まむし)〕を制す。

△按ずるに、鼬、其の眼、眩(かがや)き、耳、小さく、吻〔(くちさき)〕黒く、全體、黃褐色。身、長くして、柔〔かく〕撓〔(たをや)かなり〕。小〔さき〕隙〔(すき)〕・竹の筒と雖も、反轉して出でざるといふこと無し。能く、鳥・鼠を捕へて、惟だ、血を吮〔(す)〕ひて、全く、之れを食らはず。其の聲、木を輾(きし)る音のごとし。群鳴すれば、則ち、以つて不祥[やぶちゃん注:不吉の前兆。]と爲す。或いは、夜中、熖氣、有りて、高く升(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで、「火柱〔(ひばしら)〕」と稱す。其の消へ[やぶちゃん注:ママ。]倒るゝ處、必ず、火災、有りといふは、蓋し、群鼬、妖を作〔(な)〕すなり。

水鼬〔(みづいたち)〕 本(〔も〕と)、此〔の〕一種〔なり〕。常に屋壁の穴に棲みて、瀦池(ためいけ)を覘(ねら)い[やぶちゃん注:ママ。]、水に入りて、魚を捕る。性、蟾蜍(ひきがへる)を畏る。如〔(も)〕し、相ひ見るときは、則ち、鼬、困迷す。又、瓢簞〔(へうたん)〕を畏る。故に魚を養(か)ふ池邊に瓢簞を安(お)く。

[やぶちゃん注:食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指す。ウィキの「イタチ」等によれば、世界には十六乃至十八種が現生し、本邦には、一九六〇年代以降に飼育個体由来の北海道で野生化した北米原産の外来種アメリカミンク(ミンク)Mustela vison を除くと(良安の時代に合わせてこれは数えない)、以下の四種七亜種ほどが棲息する。中国産種はよく判らぬので示さないが、イタチ・オコジョ・イイズナ類の多数種が分布するようである。

ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入):日本固有種:チョウセンイタチMustela sibirica の亜種とされることもあったが、DNA解析により別種と決定されている)

ニホイタチ亜種コイタチ Mustela itatsi sho(屋久島・種子島個体群)

チョウセンイタチ Mustela itatsi coreana(対馬のみに自然分布。本州西部・四国・九州の個体群は外来侵入種で、これは一九四九年頃に船舶の積荷などに紛れ込んで朝鮮半島から九州に侵入したとも、また、同時期に毛皮業者が養殖のために持ち込んで脱走し、西日本を中心に分布を広げたともされる。ニホンイタチの棲息域を圧迫している)

チョウセンイタチ亜種ニホンイイズナ Mustela itatsi namiyei (青森県・岩手県・山形県(?):日本固有亜種。キタイイズナより小型で、日本最小の食肉類とされる。なお、ウィキの「イイズナ」によれば、『東北地方や信州では「飯綱(いづな、イイズナ)使い」「狐持ち」として管狐(くだぎつね)を駆使する術を使う家系があると信じられていた。長野県飯綱(いいづな)山の神からその術を会得する故の名とされる』。『民俗学者武藤鉄城は「秋田県仙北地方ではイヅナと称し』、『それを使う巫女(エチコ)〔イタコ〕も」いるとする』。『また』、『北秋田郡地方では、モウスケ(猛助)とよばれ、妖怪としての狐よりも恐れられていた』とある。)

チョウセンイタチ亜種キタイイズナ(コエゾイタチ)Mustela itatsi nivalis (北海道。大陸に分布するイイズナの亜種)。

オコジョ亜種エゾオコジョ(エゾイタチ)Mustela erminea orientalis(北海道及び千島・サハリン・ロシア沿海地域に分布)

オコジョ亜種ホンドオコジョ(ヤマイタチ)Mustela erminea nippon(本州中部地方以北:日本固有亜種)

以下、ウィキの「ニホンイタチ」を引く。『成獣の大きさはオスとメスで異なり、オスはメスより大きい。体長は、オス』で二十七~三十七センチメートル、メスで十六~二十五センチメートル、尾長はオスで十二~十六センチメートル、メスで七~九センチメートル。体重はオスで二百九十~六百五十グラム、メスで百十五~百七十五グラム。『毛色は個体により様々だが、躯体は茶褐色から黄褐色である。鼻筋周辺は暗褐色。尾の色は』体幹部『とほぼ同色』。『乳頭数は、胸部』にはなく、腹部に二対、鼠径部に二対で、合計八個』。『指趾数(指の数)は、前肢が』五『本、後肢が』五『本』である。『本種は冬眠は』せず、一『年中』、『活動し、その活動時間帯は特に定まっておらず、昼夜活動する。繁殖期以外は基本的に単独で行動する。本種の手足の指の間には蹼(みずかき)があり、泳ぎが得意である。厳冬期にも水に入り、潜ることもある。主な活動地域は川や湖沼、湿地、沢などの水辺であるが、水辺から離れた森林地帯にも生息しており、樹木に登ることもある』。『用心深く』、『後肢で』二『本足立ちして周囲を見回すことがある。この行動を』「目蔭(まかげ)」と称する。『巣は、既存の穴や隙間を使用する』。『メスの活動領域はオスの活動領域よりも狭く、オスの活動領域は複数のメスの活動領域にまたがる』。『食性は主に動物食で、ネズミや鳥、両生類、魚、カニ、ザリガニ、昆虫類、ミミズ、動物の死体など。また、ヤマグワやサクラ、ヤマブドウ、マタタビ、コクワ(サルナシ)の実などの植物質のものも食べる』とある。ここには挙げられていないが、本文にあるように、蛇類も有意に捕食するウィキの「イタチ」の「伝承」の項によれば、『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた』。江戸時代の百科辞典「和漢三才図会」に『よれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている』(本項のこと)。『新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を』、六『人で臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『また』、『キツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。『鳥山石燕の画集』「画図百鬼夜行」にも『「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり』、『イタチが数百歳を経て』、『魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている』(後掲する。先行する「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 貂(てん)(テン)」も参照)。『別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう』。『イタチを黒焼にして飲めば、こわばりなどに良いという伝承が長野県にある』。また、知られた怪奇現象に「かまいたち」があり、『何もしていないのに突然、皮膚上に鎌で切りつけたような傷ができる現象のことを指す』が、『かつては「目に見えないイタチの妖怪のしわざ」だと考えられていたが、現在では、乾燥した肌が衝撃を受けることで裂ける生理現象であると判明している。最近まで、「空気中にできた真空によって引き起こされる」と説明されていたが、科学的な根拠はない』。但し。『「かまいたち」は「構え太刀」が転じたもので、元来はイタチとは全く関係がない、とする説もある』とある。ウィキの「イタチ」にも、『伝承』の項で、『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。江戸時代の百科辞典』「和漢三才図会」に『よれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を』六『人で臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『またキツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。『鳥山石燕の画集』「画図百鬼夜行」にも『「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり』、『イタチが数百歳を経て』、『魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている』。『別説では』、『イタチが数百歳を経ると狢』(むじな)『になるともいう』とある。

「其の氣〔(かざ)〕、極めて臭し」所謂、「鼬の最後っ屁(ぺ)」である。イタチは犬や猫のように、肛門周辺に一対の臭腺を持っており。臭腺はマーキングの用途以外にも外敵に襲われた際に用いる。イタチは外敵と遭遇すると、この臭腺から強烈な悪臭を放ち、相手がひるんだ隙に逃げ出す。その悪臭は取れるまでに時間がかかり、嗅覚が優れている動物にとっては地獄のような苦しみであるという。

「虺〔(まむし)〕」マムシ亜科 Crotalinae(ここにはハブ類が含まれる)マムシ属 Gloydius のマムシ類。本邦産種は有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii と(但し、本種は中国・朝鮮半島にも棲息する)、一九九四年に対馬固有種の独立種として分割されたツシママムシ Gloydius tsusimaensisの二種のみであるが、中国にはマムシ属だけでも複数種が棲息する(中文ウィキの「亞洲蝮屬」(アジアマムシ属)を参照されたい)。また、「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇(はみ)」(マムシ)他の項も参考となるので見られたい。

「惟だ血を吮〔(す)〕ひて、全く、之れを食らはず」誤認。そんなことはない。この俗信について、Q&Aサイトの回答で、イタチの専門家ではないと言い添えられながら、『イタチが鶏小屋などに侵入すると』、『とりあえず』、『そこにいる鶏を全部殺して、そのうえで自分の食べる分を持ち帰るから』と思われ、その血だらけになった惨状を『あとから』、『人間が見ると』、『食べもしないのに』、『殺した様子が「血を吸った」ように見え』たものと思われるとあった。目から鱗の解説である。

「其の聲、木を輾(きし)る音のごとし」短いが、You Tube 駆除屋 CH氏の「イタチの鳴き声が聞けました。」がよい。

「夜中、熖氣、有りて、高く升(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで、「火柱〔(ひばしら)〕」と稱す」ウィキの「イタチ」に添えられてある、昔から、「何だか、不思議な絵だな」と思っていた鳥山石燕「画図百鬼夜行」の妖獣「鼬」の絵は、まさにこの「鼬の火柱」を形象化したものだったのだと私には思われて、腑に落ちた。

「水鼬〔(みづいたち)〕」これはまさに普通にイタチの習性である。良安は「本(〔も〕と)、此〔の〕一種〔なり〕」とするが、これをわざわざ上記のニホニイタチ以外のイイズナやオコジョ類の別な種に限定同定する必要を私は感じない(魚食に特化したイタチの仲間は本邦には、どうなんだろう、いない気がするが)。

「性、蟾蜍(ひきがへる)を畏る。如〔(も)〕し、相ひ見るときは、則ち、鼬、困迷す。又、瓢簞〔(へうたん)〕を畏る」孰れも由来不詳。ただ、御存じの通り、ヒキガエルは有毒物質を持ち、犬でさえも誤って噛みつくと、その毒(ブフォトキシン(bufotoxin:激しい薬理作用をもつものが多い強心配糖体の一種。主として心筋(その収縮)や迷走神経中枢に作用する)等)には激しく苦しむというから、イタチも学習していて、好んで捕食はしないであろうから、腑には落ちる(「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」の私の注を参照)。また、後者については、単なる思い付きであるが、瓢簞はよく磨くと光るが、イタチは光り物を嫌うという俗信は古くからあったからそれで説明可能かも知れない。

 以上を以って「和漢三才図会巻第三十九 鼠類」は終わっている。]

太平百物語卷五 四十六 獺人とすまふを取し事

 

   ○四十六 獺(かはうそ)人とすまふを取し事

 さぬきの國に山城屋甚右衞門といふ者あり。

 「一穴(ひとつあな)」といふ所に田地(でんぢ)を持ちける程に、常に下人を遣(つかは)して耕作をさせける。

 一日(あるひ)、每(いつも)のごとく、耕作に、孫八といふ下人をつかはしけるに、主人の子甚太郞とて、今年十一才なるが、此「一つ穴」に遊びゐたり。

 孫八、いふ樣、

「今日(けふ)は、高松の叔父君(おぢご)、御出(おんいで)ありて、父上、もてなし給ふに、何とて、内には居(ゐ)玉はぬや。はやはや、歸り玉へかし。」

といへば、此甚太郞、返答(いたへ)もせず、うちわらひ、

「相撲(すまふ)をとらん。」

といふ。

 孫八も、おかしながら[やぶちゃん注:ママ。ここは「ちょっと不審に思いながら」という現代語に近い用法であろう。]、

「いで、さらば、取申さん。」

と、

「無手(むず)。」

と組合(くみあひ)、僞りて、孫八、まけければ、甚太郞、悅び、

「今、一番。」

といふに、又、取て、まけたり。

 甚太郞、限りなく悅び、歸りぬ。

 孫八も黃昏(たそがれ)に歸りて、甚太郞にいふやう、

「扨々。今日は『一つ穴』にて、二番迄、相撲に負(まけ)申たり。無念にこそ侍るなり。」

と、戲(やはむれ)て申しければ、甚右衞門夫婦、いひけるは、

「今日は、高松の叔父、御出(おんいで)なれば、甚太郞は終日(ひねもす)、他行(たぎやう)せず。何をか、いふぞ。」

と申しければ、甚太郞もうちわらひ、

「孫八が、晝寐(ひるね)の夢をや、見つるならん。」

と嘲(あざ)ければ、孫八、ふしぎをなし、

「正(まさ)しく『一つ穴』にて相撲を取(とり)しが、扨は、聞(きゝ)およぶ、あの邊(へん)の獺ならん、惡(にく)き事かな。重(かさね)て出(いで)なば、打殺(うちころ)さん。」

と、いひて、明(あけ)の日も耕作に行(ゆき)けるが、案のごとく、又、甚太郞に化(け)して、

「すまふを取らん。」

と、いふ。

 孫八、

『扨は。昨日(きのふ)の獺ならん。』

と思ひ、

「心得たり。」

とて、頓(やが)て引組(ふつくみ)けるが、孫八、力量の者なれば、其儘、宙(ちう[やぶちゃん注:ママ。])に引提(ふつさげ)、かたへに有(あり)し岩角(いはかど)を目當(めあて)に、なげ付(つけ)ければ、頭(かうべ)を巖(いはほ)に打碎(うちくだか)れ、水の流るゝ事、一斗ばかりして、忽(たちまち)、獺となりて、死(しゝ)たり。

 孫八、うちわらひ、歸りて、甚右衞門夫婦に「かく」と語りけるが、其夜、孫八に物の化(け)付(つき)て、口ばしりけるは、

「扨々、情なや。わが夫(おつと)を、よくも、殺しぬ。われ、此敵(かたき)を取(とら)ずんば、何(いつ)までも、歸るまじ。惡(にく)や、惡や。」

と叫びしかば、甚右衞門夫婦、是におどろき、頓(やが)て、実相坊といふ修驗者(しゆげんしや)を賴みて、祈禱し、樣々に詫(わび)ければ、やうやうに、物の化(け)、落(おち)たり。

 然(しかれ)ども、孫八、心氣(しんき)つかれて、其後(そのゝち)は、力量もおとろへ、病心者(びやうしんもの)となりけるとかや。

[やぶちゃん注:本篇は既に二年前に「柴田宵曲 妖異博物館 河童の力」の注で電子化しているのであるが、今回は底本を原板本としたので、完全に一からやり直してある。こちらがより正確と心得られたい。

「獺」本作では、人を化かす妖獺としてのメイン・キャラクターとしての登場は、「卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」に続く二度目の登場である。そちらで妖怪としての「かわうそ」は注してあるので参照されたい。また、たまたま、その翌日に電子化注した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」も参照して戴ければ、幸甚である。

「一穴(ひとつあな)」地名として捜してみたが、見当たらぬ。しかし、この地名、作者の確信犯の意味深長な架空地名ではあるまいか? 諺に「蟻(あり)の一穴(いっけつ)天下の破れ」或いは「蟻の一穴」という成句があり、「大事はほんの些細なことから生じ、ちょっとしたことが原因で大変なことになる」の謂いであるからである。たかが獺の化けたものと相撲を取り、それが物の怪と知ってより、それをぶち殺した結果として、「ぶらぶら病」となった甚八は、まさにその諺と一致するからである。しかもこの語は「同じ穴の狢」などの語との相性もあって、一見、無関係のように見えても実は同類・仲間(特に悪事を働く存在)であることの喩えと通ずる。獺の連れ合いの牝が殺された牡同様に変化(へんげ)の妖術を持ち、甚八に憑くことが、まさしくそれを髣髴とさせるからでもある。]

2019/05/27

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 猬(むささび/のぶすま) (ハリネズミ)

Harinezumi

 

けはりねすみ  彙 毛刺

        蝟鼠

【音彙】

 

ヲイ

 

本綱猬頭觜似鼠刺毛似豪猪蜷縮則形如芡房及栗房

攅毛外刺尿之卽開其刺端分兩頭者爲猬如棘針者爲

䖶人犯之便藏頭足毛刺人不可得能制虎跳入虎耳中

而見鵲便自仰腹受啄物相制如此其脂烊鐵中入水銀

則柔如鉛錫

 

 

けはりねずみ  彙〔(い)〕 毛刺〔(まうし)〕

        蝟鼠〔(いそ)〕

【音「彙」。】

 

ヲイ

 

「本綱」、猬は頭・觜〔(くちさき)〕、鼠に似て、刺(はり)の毛、豪猪(やまあらし)に似る。蜷(ま)き縮(ちゞま)るときは、則ち、形、芡房(みづふき)及び栗(くり)の房〔(いが)〕のごとし。毛は攅(あつま)り[やぶちゃん注:密集して群がって。]、外に〔向きて〕刺〔(とげ)〕あり。之れに尿〔(ゆばり)すれば〕、卽ち、開く。其の刺の端、兩頭を分かつ者、「猬」と爲し、棘針のごとき者を「䖶〔(かい)〕」と爲す。人、之れを犯せば、便〔(すなは)〕ち、頭足、毛刺に藏(かく)して、人、得べからず。能く虎を制す。虎の耳の中に跳〔(をど)〕り入る。而〔(しか)〕も、鵲〔(かささぎ)〕を見れば、便ち、自ら、腹を仰けて、啄〔(くちばし)〕を〔甘んじて〕受く。物、相ひ制すること、此くのごとし。其の脂、鐵〔の〕中に烊〔(とか)〕し、水銀を入るれば、則ち、柔かにして、鉛(なまり)・錫(すゞ)のごとし。

[やぶちゃん注:ここはまずは、東アジアから北東アジアに分布し、現代では日本の一部地域にペット由来の外来種として定着している、哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科ハリネズミ属アムールハリネズミ Erinaceus amurensis と同定比定してよかろう。但し、日本では更新世(約二百五十八万年前から約一万年前)の堆積物からハリネズミ類の化石が見つかっていることから、太古には日本列島にもハリネズミが棲息していたものと推測される(ここはウィキの「アムールハリネズミ」に拠る)。広義のハリネズミ類(ハリネズミ亜科Erinaceinaeの仲間)は、ユーラシアとアフリカに分布し、現在、五属十六種がいる。体はずんぐりとし、背面には堅い針状毛を持ち、尾は痕跡的。手足は頑丈で、強大な爪を持つ。平地の農耕地・低木林・草原などに棲み、地上性・雑食性で、温帯に分布するものは、冬に冬眠をする。時珍は針の先の違いで二種を挙げているが、「棘針のごとき者」で「䖶〔(かい)〕」という名のそれをアムールハリネズミとすれば(同種は棘先が分かれてはいないだろうと思う)、「其の刺の端、兩頭を分かつ」「猬」とは何なのかはよく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「豪猪(やまあらし)」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豪豬(やまあらし)(ヤマアラシ)」を参照されたい。また、私の図入りの電子化注『栗本丹洲自筆(軸装)「鳥獣魚写生図」から「豪猪」(ジャワヤマアラシ)』も、是非、どうぞ! 但し、両者の棘(とげ)は使用属性が全く異なる。本ハリネズミのそれは自己防衛のための装置であるが、ヤマラシのそれは積極的な危険な攻撃用具として現に存在しているのである。

「芡房(みづふき)」「水蕗」で、スイレン目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox の異名。一属一種。ウィキの「オニバス」によれば、『アジア原産で、現在ではアジア東部とインドに見られる。日本では本州、四国、九州の湖沼や河川に生息していたが、環境改変にともなう減少が著し』く、『かつて宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている』。『植物』体全体に『大きなトゲが生えており、「鬼」の名が付けられている。特に葉の表裏に生えるトゲは硬く鋭い』ことから、ここに比喩として挙げたのである。なお、私たちが小さなころから写真で見慣れた、子供が乗っている巨大な蓮は、スイレン目スイレン科オオオニバス(大鬼蓮)属オオオニバス Victoria amazonica で、和名は酷似するが、別種である。

「之れに尿〔(ゆばり)すれば〕、卽ち、開く」って、人がってことなわけだけど、「ミミズに小便」式に考えると、恐(コワ)!!!

「虎の耳の中に跳〔(をど)〕り入る」虎、痛(イタ)!!!

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)(カササギ)」をどうぞ。

「物、相ひ制すること、此くのごとし」自然界の架空の相克関係を五行思想でこじつけているだけである。

「其の脂、鐵〔の〕中に烊〔(とか)〕し、水銀を入るれば、則ち、柔かにして、鉛(なまり)・錫(すゞ)のごとし」殆んど錬金術!!!]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(24) 「甲斐ノ黑駒」(2)

 

《原文》

 【神馬足跡】對馬ヨリ出デタル神馬ノ足跡ハ、同國與良村大字豆酘内院(ツヽナヰン)神崎ノ馬下(ウマオロシ[やぶちゃん注:底本ではルビの「ロ」が脱字であるため、後文と「ちくま文庫」版によって挿入した。])ト云フ海岸ノ巖ノ上ニ、數處一列ヲ爲シテ存在シ、此馬ノ洋海ノ出ス所ナルコトヲ暗示セリ〔津島記事〕。但シ馬下ノ「オロシ」ハ神ヲ降臨セシムルコトヲ意味スルカト思ハル。甲斐ノ黑駒ノ遺跡ニ至リテハ、太子ニ對スル崇敬ト伴ヒテ更ニ弘ク國内ニ分布セリ。【馬蹄石】先ヅ其本國ノ甲斐ニ於テハ、東山梨郡等々力(トヾロキ)村ノ萬福寺ノ門前ニ、太子ノ憩ヒタマヒシト云フ馬蹄石アリ。此寺今ハ眞宗ニシテモトハ天台宗、而モ聖德太子ヲ以テ開基トス〔本朝國語〕。四ツノ蹄ガ四ツナガラ鮮カニ現ハレ居ルト云ヘバ〔甲州噺〕、勢ノハズミニ打込ミタルモノニ非ズシテ、靜カニ且ツ確實ニ印シタル痕跡ナリ。同ジク東八代郡日影村駒飼宿(コマカウジユク[やぶちゃん注:ママ。])ノ駒飼石ニ至リテハ、五間ニ三間ノ石ノ面ニ二十一箇ノ足跡アリキ。上宮太子此地ニ於テ黑駒ヲ飼ヒタマヘリト傳ヘタリ。此石ハ享保年中笹子川ノ洪水ニ障リトナリテ多クノ民屋ヲ損ゼシヨリ、之ヲ割リテ川除ノ石堤ニ用ヰ〔甲斐國志〕、今ハ其片影ヲモ留メズ〔山梨縣市町村誌〕。其他東山梨郡加納岩村上下石森組ノ境、熊野權現ノ小山ニ馬蹄石、同郡松里村大字松里三日市場組ノ馬蹄石一名ヲ駒石、【駒形石】北巨摩郡穴山村黑駒ノ駒形石、北都留郡初狩村下初狩組カンバ澤山ノ馬蹄石ナドアレド、何レモ聖德太子ノ傳說ヲ伴ハズ。【降臨ト馬】穴山ノ駒形石ハ黑駒大神ノ社頭ニ在レドモ、此神ハ大汝(オホナムチ)ト建御名方トノ二尊ヲ祭リ、昔諏訪ノ神黑駒ニ乘リ此地ニ來リタヒシヨリ社ヲ立テ名ヲ定メタリト稱シ〔山梨縣市町村志〕、初狩ノ馬蹄石ハ數多ノ馬ノ蹂躪シタル跡ナリト云フ〔甲斐國志〕。黑駒ガ聖德太子ノ知遇ヲ忝クセシト云フハ大和ノ朝廷ニテノ事ナリ。富士往來ノ三日ノ外、後ニ鄕里ニ還リタリトモ見エザレバ、太子ノ口碑ノ甲斐ニ多ク存セザルハ寧ロ當然ナリ。【黑駒ノ塚】黑駒終焉ノ地ハ河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷ナリト謂ヒ、此村ノ金剛輪寺ハ亦太子ノ建立スル所ナリ。此谷ニモ黑駒ノ足形ノ石ノ上ニ遺ルモノアリ。之ヲ繫ギタリト云フ柊(ヒヽラギ)ノ樹ハ葉ノ端ニ刺無シ〔和漢三才圖會〕。攝津川邊郡長尾村ノ仲山寺モ太子創立ノ寺ナリ。境内ノ黑駒石ニハ四ツノ蹄ノ跡アリ。後世ノ爲ニ斯ノ如キ奇跡ヲ留メシナリ〔攝陽群談〕。大和ノ三井ノ法輪寺ノ巽ノ方ニハ、太子ノ召サレシ栗毛ノ駒ヲ葬ルト云フ栗毛ノ岡アリ〔大和國遊誌下〕。此ハ勿論黑駒トハ別ナルべキカ。播州斑鳩寺(イカルガデラ)ノ檀特山ノ路ニ、御駒ノ蹄ヲ留ムト云フ岩アリシハ、是レ亦日本ノ太子ニ托シタル靈石ナルガ如シ〔朝風意林所錄斑鳩寺緣起〕。

 

《訓読》

 【神馬足跡】對馬より出でたる神馬の足跡は、同國與良村大字豆酘内院(つゝなゐん)神崎の馬下(うまおろし)と云ふ海岸の巖の上に、數處、一列を爲して存在し、此の馬の洋海の出だす所なることを暗示せり〔「津島記事」〕。但し、馬下の「おろし」は、神を降臨せしむることを意味するかと思はる。甲斐の黑駒の遺跡に至りては、太子に對する崇敬と伴ひて、更に弘く國内に分布せり。【馬蹄石】先づ、其の本國の甲斐に於いては、東山梨郡等々力(とゞろき)村の萬福寺の門前に、太子の憩ひたまひしと云ふ馬蹄石あり。此の寺、今は眞宗にして、もとは天台宗、而(しか)も、聖德太子を以つて開基とす〔「本朝國語」〕。四つの蹄が、四つながら、鮮かに現はれ居ると云へば〔「甲州噺」〕、勢ひのはずみに打ち込みたるものに非ずして、靜かに、且つ、確實に印(しる)したる痕跡なり。同じく、東八代郡日影村駒飼宿(こまかうじゆく)の駒飼石に至りては、五間に三間[やぶちゃん注:五・〇九×五・四五メートル。]の石の面に二十一箇の足跡ありき。上宮太子、此の地に於いて黑駒を飼ひたまへりと傳へたり。此の石は享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]、笹子川の洪水に障(さは)りとなりて、多くの民屋を損ぜしより、之れを割りて、川除(かはよけ)の石堤に用ゐ〔「甲斐國志」〕、今は、其の片影をも留めず〔「山梨縣市町村誌」〕。其の他、東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野權現の小山に馬蹄石、同郡松里村大字松里三日市場組の馬蹄石、一名を駒石、【駒形石】北巨摩郡穴山村黑駒の駒形石、北都留郡初狩村下初狩組かんば澤山の馬蹄石などあれど、何(いづ)れも聖德太子の傳說を伴はず。【降臨と馬】穴山の駒形石は黑駒大神の社頭に在れども、此の神は大汝(おほなむち)と建御名方(たけみなかた)との二尊を祭り、昔、諏訪の神、黑駒に乘り、此の地に來りたまひしより、社を立て、名を定めたりと稱し〔「山梨縣市町村志」〕、初狩の馬蹄石は數多(あまた)の馬の蹂躪(じうりん)したる跡なりと云ふ〔「甲斐國志」〕。黑駒が聖德太子の知遇を忝(かたじけな)くせしと云ふは、大和の朝廷にての事なり。富士往來の三日の外、後に鄕里に還りたりとも見えざれば、太子の口碑の甲斐に多く存せざるは、寧ろ當然なり。【黑駒の塚】黑駒終焉の地は、河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷なりと謂ひ、此の村の金剛輪寺は亦、太子の建立する所なり。此の谷にも、黑駒の足形の、石の上に遺るもの、あり。之れを繫ぎたりと云ふ柊(ひゝらぎ)の樹は葉の端に刺(とげ)無し〔「和漢三才圖會」〕。攝津川邊郡長尾村の仲山寺(なかやまでら)も太子創立の寺なり。境内の黑駒石には四つの蹄の跡あり。後世の爲めに斯くのごとき奇跡を留めしなり〔「攝陽群談」〕。大和の三井の法輪寺の巽(たつみ)の方には、太子の召されし栗毛の駒を葬ると云ふ「栗毛の岡」あり〔「大和國遊誌」下〕。此れは、勿論、黑駒とは別なるべきか。播州斑鳩寺(いかるがでら)の檀特山(だんとくざん)の路に、御駒の蹄を留むと云ふ岩ありしは、是れ亦、日本の太子に托したる靈石なるがごとし〔「朝風意林」所錄「斑鳩寺緣起」〕。

[やぶちゃん注:「對馬」「與良村大字豆酘内院(つゝなゐん)神崎の馬下(うまおろし)と云ふ海岸」対馬の最南端に位置する長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)豆酘内院(つつないいん)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。海岸線は東側のみであるが、ネットでは「馬下(うまおろし)」という海岸は確認出来ないし、神馬伝承も不詳。識者の御教授を乞う。

「東山梨郡等々力(とゞろき)村の萬福寺」山梨県甲州市勝沼町等々力にある万福寺。推古天皇一二(六〇四)年創建で(聖徳太子の関わった創設伝説有り)、当初は法相・天台・真言の三宗兼学道場であったが、鎌倉時代に浄土真宗となった。境内に聖徳太子が乗用した黒駒の蹄の跡とする「馬蹄石」が現存するが、滝おやじ氏のサイト「巨石・滝・地形めぐりの記録とメモ」の「山梨県甲州市勝沼町綿塚 大石神社、等々力 萬福寺の馬蹄石」の記載によれば(馬蹄石の写真有り)、昭和三三(一九五八)年刊『勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」』の『万福寺の項によれば』、『馬蹄石』は『駒塚ともいう』。『長さ二間』(約三・六四メートル)、『広さ九尺』(約二・七三メートル)。『石の面は平らにして馬の蹄の跡四個を留む。伝説によると』、『聖徳太子甲斐の驪駒に乗り』、『富士山、駒ヶ岳に登り』、『還りて』、『この石に駐したりと』とあるとし、『さらに、町誌』』『によると』、『松尾芭蕉が「野晒紀行」に著した甲斐国回遊の道すがら、万福寺に立ち寄り、馬蹄石も見たと考えて、万福寺住職三車らの努力により、石の傍らに「行駒の麦に慰むやどりかな」の芭蕉句碑が建立され、地方俳人による句集「駒塚集」が刊行されたと』という。但し、現存するその「馬蹄石」は巨石研究家のサイト主が見ても、最早、上記のサイズより小さく、『万福寺の所在する扇状地面位置ではあり得ない大きさの礫で、角が丸くなっていますから転落岩塊ではなく、土石流運搬の礫だと思います』。『完全に地表に露出していて、境内の地表の上に乗っていて埋まっていません。また』上述の『句碑、馬蹄石、参道、本堂』の総合的な『配列も人工的で』あって、『この地点に』もともと『あったものでなく、別の地点から人工的に運んできたものと思います』。『念のため、境内の地質を見てまわったら、本堂脇に穴があってテフラ』(tephra:地学用語。噴火口から放出されて火山周辺や風下側の広い範囲に堆積した降下性火山砕屑物の総称)『が見えました』。『馬蹄石は、テフラ堆積後』、『現在位置に乗ったことにな』り、近くを流れる日川(ひかわ)の『氾濫による溢流堆積とは考えられない地形なので、人工移動と』する『より無い』と断じておられる。「四つの蹄が、四つながら、鮮かに現はれ居る」とあるが、現行の当該石の複数の写真を見ても、最早、それも認め得ない。

「東八代郡日影村駒飼宿(こまかうじゆく)の駒飼石」現在の山梨県甲州市大和町日影のこの附近が、旧甲州街道駒飼(こまかい)宿である。個人ブログ「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!」の『甲斐大和「笹子峠」を越えると本陣「駒飼宿」があった!』によって旧駒飼石(馬蹄石)のあったらしい位置が判る。則ち、示したグーグル・マップ・データの南の端の橋附近である。

「東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野權現」山梨県山梨市下石森と上石森の間となると、この中央附近であるが、熊野神社は見出せない。或いは画面北部分にある下石森の山梨岡神社に合祀されたか?

「同郡松里村大字松里三日市場組」山梨県甲州市塩山三日市場はこの附近

「北巨摩郡穴山村黑駒」山梨県韮崎市穴山町はここで、同地区内に御名方(みなかた)神社(黒駒神社)を現認出来る。「山梨県神社庁」公式サイト内の同神社の解説に、『「甲斐国志」に云ふ黒駒明神なり、社記に「古昔諏方ノ神、驪(くろ)駒(こま)ニ騎リテ来レリ因テ祠ヲ置キテ地名トス、祠後ノ山ニ馬蹄石アリ、駒形石ト呼ブ、又祠東ニ鎮座石アリ、昔鉾ノ木ト云フ処ヘ神與ヲ移シテ祭リシガ今ハ廃セリ今尚其地ニ神楽田、楔田ナド云フ名残レリ云云」』とあった(因みに「楔田」(くさびだ)というのは如何にも変。「禊田」(みそぎだ)の誤りではなかろうか?)。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の同神社のページ「馬蹄石」の写真が挙げられており、『黒駒大神の社の後ろに馬蹄石があり、駒形石と呼んでいる。昔 諏訪明神が黒駒に騎って来たのでこれを祀り、また駒ケ岳の黒駒もここに往来したという。(北巨摩郡誌)』(昭和二八(一九五三)年山梨民俗の会刊「甲斐傳説集」より)とある。

「北都留郡初狩村下初狩組かんば澤山」山梨県大月市初狩町はここ。東西に貫通する笹子川の南北に沢と峰が複数あり、特定不能。

「河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷」「金剛輪寺」大阪府羽曳野市駒ケ谷に「金剛輪寺址」として残る。同マップのサイド・パネルの写真の解説板によれば、実際には奈良時代後期の創建と推定されている。明治四(一八七一)年に廃寺となっている。「和漢三才圖會」の巻第七十五の「河内」に載る。以下、所持する原典(画像)から電子化し、訓読(一部の読みは私の推定)する。

   *   *

金剛輪寺   在駒之谷 名十六山安養院

 推古天皇祈願 聖德太子開基

 釋迦堂【座像四尺五寸】 十一靣觀音 藥師如来【共此太子之作也】

 三所權現社 辨財天

 聖德太子乘黑駒以調子丸爲舎人入于雲中至富士山還到河州磯長山時放駒於此谷其馬足形遺于石靣有之所馬繫柊樹有之葉耑無尖刺

   *

金剛輪寺   駒之谷に在り。十六山安養院と名づく。

 推古天皇の祈願。聖德太子の開基。

 釋迦堂【座像。四尺五寸。】。十一靣觀音。藥師如来【共に、此れ、太子の作なり。】。

 三所權現社。辨財天。

 聖德太子、黑駒に乘り、調子丸(ちやうじまる)を以つて舎人(とねり)と爲し、雲中に入りて、富士山に至る。還(また)、河州[やぶちゃん注:河内国。]磯長(しなが)の山に到りし時、駒を此の谷に放つ。其の馬の足形、石靣に遺りて、之れ、有り。馬を繫(つな)ぐ所の柊(ひいらぎ)の樹(き)、之れ、有り、葉の耑(はし)に、尖-刺(はり)無しと云々。

   *

「攝津川邊郡長尾村の仲山寺」兵庫県宝塚市中山寺(なかやまでら)にある真言宗紫雲山中山寺(なかやまでら)。寺伝では聖徳太子が建立したとされ、日本最初の観音霊場である。古くは「極楽中心仲山寺」と称されていた。「黑駒石」は公式サイトのこちらにも、『奥之院のほど近く、太子の愛馬黒駒の馬蹄跡が残る石がございます』とあるが、ネットで検索しても画像は見当たらない。

「大和の三井の法輪寺の巽(たつみ)の方」奈良県生駒郡斑鳩町三井の法輪寺(三井寺)の南東になる富郷(とみさと)陵墓参考地附近か。ここは「岡の原」と地元では呼ばれている。因みに円墳である。

「播州斑鳩寺(いかるがでら)の檀特山(だんとくざん)」兵庫県揖保(いぼ)郡太子町(たいしちょう)鵤(いかるが)の斑鳩寺であるが、柳田國男の言っている「檀特山」はその南東二キロメートルの位置の、現在の兵庫県姫路市勝原区下太田にある。ここ「太子町観光協会」公式サイト内「檀特山」の解説(そこをクリックすると、地図が移動するによれば、『弥生時代の頃、屋根筋の最高所に近いところで広い範囲に集落を築いていました。考古学では、高地性集落と呼んで注目されています。天下の名僧徳道上人の特化の由緒を持つ感動石の伝説もあり、また、その石に打たれて死んだという悪キツネの話もあります』。また、『行道岡・黒駒蹄跡』が檀特山から峰伝いに東北に少し行った位置にあり、ここは『太子行道』(こうどう)『の岡ともいいます。山頂に十畳ほどの岩があり、その表面にある無数のくぼみは、聖徳太子の駒の蹄跡と伝えられています。その傍らに昔は駒のつなぎの松がありました。この木が妙なる異香を放っていたので、異香留我(いかるが)の地名がついたとの言い伝えもあります』とあり「太子町」公式サイトのこちらの「行道岡・黒駒蹄跡」に、それらしい多数の穴の開いた岩の写真が添えられてある。

キヤベツ汁 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    キ ヤ ベ ツ 汁

 

 或る百姓の寡歸の一人息子に二十歲になる若者があつた、村中での一番の働き手であつたが、それが死んでしまつた。

 此の村の地主の奧樣が此の女房の不幸を聞き附けて、葬式の日に訪(たづ)ねて行つてやつた。

 女房は家(うち)にゐた。

 小舍(こや)の眞中(まんなか)の食卓(テエブル)の前に立つて、彼女はゆつくりと右の手を規則正しく動かして(左の手はだらりと垂れてゐた)、眞黑(まつくろ)になつた鍋の底から、薄いキヤベツの汁(スウプ)をしきりにすくつては飮んでゐた。

 その女房の顏は沈んで暗く、眼は赤く脹(は)れ上つてゐた……けれどもその樣子は寺院(おてら)にゐるやうにきちんとし、ちやんとしてゐた。

『まあ!』と奧樣は思つた。『こんな時にまだ食(た)べてゐられるなんて……この人達は何て感情(こゝろもち)が荒つぽいんだらう!』

 そしてそのをり、奧揉は自分が幾年前生後九ケ月になる娘を失くした時、悲しさのあまり、ペテルブルグの近傍にある大好きな別莊にも行かないで、一夏市街(まち)で過(すご)した事を思出した! その間女房はキヤベツ汁をすゝり續けてゐた。

 奧樣はとうとうこらへ切れなくなつて、『タチヤナ!』と呼んだ……『まあ! 驚いた! お前まあ息子(むすこ)の事を思はずにゐられるのかえ? こんな時にやつぱり物が食べたいのかえ? どうして汁(スウプ)なんか食べてゐられるのだらうね!』

『家(うち)のワアシヤは死んぢまひました』と女房は小聲で言つて、悲嘆の淚はまたもそのげつそり落ちた頰に流れた。『もう私(わし)も死んぢまひさうでございます、もう此の胸をかきむしられるやうでして。でも、汁(スウプ)はうつちやらかして置いちや勿體なうございます、これにはお盬が入(はひ)つとりますから』

 奧樣はたゞ肩を動かしたばかりで行つてしまつた。彼女には盬の價(あたひ)はわからなかつたのだ。

    一八七八年五月

 

キヤベツ汁、露西亞では盬に重税を課せられてゐるから、その寡婦が勿體ながつたのである。】

[やぶちゃん注:「とうとう」「死んぢまひました」は孰れもママ。「入(はひ)つとりますから」の「入(はひ)る」といふ語は「這ひ入る」の発音の一部が脱落した形の表記語であるから、歴史的仮名遣としては誤りではない。]

蟲 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 我々廿人ばかりが窓や開け放した大廣間にすわつてゐる夢を見た。

 その中には女も子供も老人もゐた。……珍らしくもない話が、騷々(さうざう)しく取交はされてゐた。

 突然鋭い騷音を立てゝ二寸ばかりの大きな蟲が廣間へ飛び込んで來た……飛ぴ込んで來て、二三度飛び廻つて、壁にとまつた。

 それは蠅か、山蜂かのやうであつた。その身體(からだ)は土色(つちいろ)であり、平つたいごつごつした翼も同じ色であつた。擴(ひろ)げた足には毛が生えてゐるし、頭は蜻蛉などに見るやうに大きくて角(かど)ばつてゐた。そしてこの頭も足も血潮に浸したやうに眞赤(まつか)だつた。

 此の奇怪な蟲は絕えずその頭を上下左右に振り、その足をばたばたさせてゐた……それから突然壁から飛立ち、ぶんぶんと部屋を飛廻つて、また止(と)まると再ぴその場を動かないで、身體中を厭(い)やな氣味の惡い工合に動かしてゐた。

 それは我々凡てに嫌惡、恐怖、戰慄の感をさへ起させた……我々の中には誰一人これまでこんなものを見た者はなかつた。我々は一齊(せい)に叫んだ、『此の怪物を追ひ出しちまへ!』そして、遠くからその方へ手巾(ハンケチ)を振つた……けれども一人として敢て近づいて行く者はなかつた……そしてその蟲が飛びはじめると、皆思はず身を避けた。

 一座の中でたつた一人蒼(あを)い顏をした靑年が、驚いたやうに我々一同を眺めた。彼は利肩をゆすぶつて、にやりとした、そして一體我々にどんな事が起つたか、何故(なぜ)我々がこんなに騷ぎ立つてゐるか一向譯(わけ)がわからなかつたのだ。彼自身は全く蟲をも見なければ、その翼の不氣味(ぶきみ)な音をも聞かなかつた。

 突然蟲は靑年をぢつと見込んだらしく。飛立つて彼の頭上へ落して行き、額の、眼の上のところを剌した。……靑年は微かに呻(うめ)いて、そして倒れて死んでしまつた。

 その恐ろしい蠅は直ぐに飛び去つた……その時はじめて我々は、我々を訪(おとづ)れたものが何ものであつたかを悟つた。

    一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:これは旧約聖書「列王紀」や、新約聖書でイエスを批判する者たちが口にするところの「Beelzebub」(ベルゼブブ)、ヘブライ語で「ハエの王」、所謂、「悪魔」であろう。]

施物 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    施  物

 

 或る大きな市街(まち)の近くの廣い大通を一人の病みほけた老人が步いてゐた。

 彼はよろよろ步いて行つた。彼の年と共に衰へた足は、止つたり引きずつたり躓(つまづ)いたりして、苦しげに力無げに動いてゐた、まるで他人の足でゝもあるかのやうに。彼の着物はぽろぼろになつてゐて、露出(むきだし)の頭は胸の上に垂れてゐた……彼は精も根もすつかり盡き果てゝゐるのだ。

 彼は路傍の石に腰をかけて、がつくり屈(かゞ)んで、膝の上に肘を突いて、兩手で顏を蔽うた。そして淚は曲げられた指の間から洩れて乾いた灰色の埃の上に滴(したゝ)つた。

 彼は昔の事を思出した。

 彼もまた健康で金持でつた事、それからその健康をこはしてしまつた事、その金を他人の爲めに、敵の爲め友達の爲めに蕩盡(たうじん)してしまつた事を思出した……そして今は、一塊の麺麭(ぱん)も持つてゐないのだ。凡ての人が彼を見棄てゝしまつた。友達の棄てゝ行つたのは敵よりも早かつた。……彼は施物(ほどこし)を乞ふまでに身を下(くだ)さねばならぬのだらうか? かう考へ時、彼の心は苦々(にがにが)しさと羞沁とに充たされた。

 淚は溢れに溢れて、點々と灰色(はひいろ)の埃(ほこり)を濡らした。

 突然誰れかゞ自分の名を呼ぶ聲を聞いて、彼はものうい頭(かしら)を舉げて、前に一人の知らない人物の立つてゐるのを見た。

 その顏は落着いて重々しげではあつたが、峻嚴(しゆんげん)ではなかつた。その眼は輝いてゐると云ふよりはつきりしてゐた。この眼附は人を見拔くやうではあつたが意地の惡いものではなかつた。

『君は財產をすつかり人にやつてしまつた』とその知らない人物は落着いた調子で言つた、……『然し、君はその善行を後悔してゐやしまいね?』

『後悔いたしはしません』と老人は溜息をして答へた。『けれども私は餓死しかけてゐます』

『若し乞食が君に手を出さなかつたなら』と知らない人物は續けた、『君は自分の慈善の心を證明(ため)して見る人間が無かつたらう。君は善行をする事が出來なかつたらう』

 老人はそれには答へないで、ぢつと考へ込んだ。

『爺さん、だから君も今は氣位(きぐらゐ)を高くしてゐないで』と知らない人物はまた言ひはじめた、『行つて手を出したがいゝ。君も他(よそ)の善人たちにその慈悲心を實證する機會を與へるがいゝ』

 老人は吃驚(びつくり)して眼をあげた……然し其知らない人物は、もう消え去つてゐた。そして遠方から一人の男がおなじ道を此方(こちら)へやつて來るのが見えた。

 老人はその男のところへ行つて手を出した。その男は冷たい眼色をして顏をそむけて、彼に伺も與へなかつた。

 然し其後から又一人通つた、そして其人は老人にほんの僅(わづか)の施(ほどこし)をしてやつた。

 かうして老人は貰つた銅錢で自分の麺麭(ぱん)を買つた、乞食して得た少しの食物(たべもの)は彼には旨(うま)かつた、そして心に何の恥づるところもなく、むしろ反對に平安(やすらかさ)と歡喜(よろこび)とが彼の心に神の惠みのやうに湧いたのであつた。

    一八七八年五月

太平百物語卷五 四十五 刑部屋敷ばけ物の事

 

   ○四十五 刑部(ぎやうぶ)屋敷ばけ物の事

 但馬の國に化者屋敷ありと專ら沙汰して、此家(いへ)に住む人なかりしが、木戶(きど)刑部と云(いふ)浪人、此よしを聞(きゝ)、

「我、行(ゆき)て住(すま)ん。」

とて、主從二人、住けるが、如何樣(いかさま)、人のいふに違(たが)はず、每夜每夜、一時(いつとき)[やぶちゃん注:二時間。]斗(ばかり)づゝ、家内(かない)震動して、偏(ひとへ)に大地震のごとし。

 刑部、心は武(たけ)しといへ共、其正体を見屆(みとゞけ)ざれば、力なく日を送りけるに、或夜、刑部が常に尊(たうと)みける智仙といふ僧、訪(とふら)ひ來(きた)られける。

 此僧は、道德、目出度(めでたき)人なりしかば、刑部、幸(さいはひ)と悅び、「しかじか」のよしを語る。

 智仙、聞玉ひて、

「いか樣、不審(いぶか)しき事にて侍る。我、今宵、此所に滯留して、樣子を見るべし。」

とて、一宿し玉ひけるが、每(いつも)の刻限にもなりしかば、刑部がいふに違はず、震動する事、冷(すさま)じかりし。

 智仙、つくづくこゝろを付て見給ふに、座(ざ)しゐられし所の疊、うねりしかば、其[やぶちゃん注:「その」。]高く疊の上(あが)る所を、

「じつ。」

と、おさへ玉ふに、さしも、今迄、騷(さはが)しかりしも、忽ち、治まりたり。

 時に智仙、小刀(こがたな)をとりて、疊をさし、刑部にむかひ、仰(おほせ)けるは、

「今宵は、はや、動くまじ。夜明(よあけ)てこそ樣子を正(たゞ)し玉へ。」

とて、其夜の明(あく)るを待ち、翌(あけ)の日、刑部、家來と共に、疊を上(あげ)、床(ゆか)の下を搜しみれば、數年(すねん)を經たる古墳(ふるづか)あり。

 洗ひてみれば、

『刄熊靑眼㚑位(じんゆうせいげんれいゐ』

といふ文字、幽(かすか)にありて、「眼」の字より、新(あらた)なる血、こぼれ居(ゐ)たり。

『扨は。夜前(やぜん)、智仙ひじりの小刀をさし玉ひける跡にや。』

と、刑部も奇異の思ひをなし、所に久しき百姓を招きて、此事を語るに、此者のいはく、

「むかし、此所に外記(げき)といへる人、住(すむ)で、人の爲に熊(くま)を、生(いき)ながら、血をしぼり取、殺しけるが、後難(こうなん)を恐れて、骸(なきがら)を土中(どちう[やぶちゃん注:ママ。])にうづみ、私(ひそか)に墳(つか)を築き吊(とぶ)らはれしに、猶も、其恨み、はれやらず、終に、外記を取殺(とりころ)しぬ。されば、其執心、此屋敷に留(とゞま)りて、夜な夜な、出(いづ)るといひ傳へしより、人、恐れて住(すま)ざりしが、ちか比(ごろ)、御身、住給ひしに、げにも。噂に、違ひ侍らず。」

と、委(くはし)く語れば、智仙、始終を聞玉ひ、

『不便(ふびん)の事。』

に、おぼして、則(すなはち)、二夜(や)三(さん)日が間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])、外記と熊の遠忌(ゑんき)を吊らはれければ、其後は、家鳴(やなり)・震動もやみて、何の事もなかりければ、此屋敷、永く、刑部が有(う)となりにけり。

[やぶちゃん注:「但馬の國」現在の兵庫県北部。

「遠忌」通常は「をんき(おんき)」没後に長い期間を経て行われる年忌。五十年忌以降の法会供養を指す。

「有(う)」所有。持ち分。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 䶉(たけねずみ)・鼯鼠(むささび/のぶすま) (タケネズミ・ムササビ・モモンガ)

Takenezumi

 

 

たけねすみ  竹㹠

 【音留】

 

本綱䶉出南方居土穴中食竹根之鼠也大如兎人多食

之味如鴨肉凡煮羊以䶉煮鼈以蚊物性相感也

――――――――――――――――――――――

むささひ

鼯鼠

のふすま

[やぶちゃん注:以下は原典では上記三行の下部に配されてある。]

△按鼯鼠毛色形畧似鼠而有肉翼

 也【詳于原禽類伏翼之次】

 

 

たけねずみ  竹㹠〔(ちくとん)〕

 【音「留」。】

 

「本綱」、䶉は南方に出づ。土〔の〕穴の中に居り、竹根を食ふ鼠なり。大いさ、兎のごとし。人、多く、之れを食ふ。味、鴨肉のごとし。凡そ、羊を煮るに、䶉を以つてし、鼈〔(すつぽん)〕を煮るに、蚊を以つてす。物性、相感〔するもの〕なり。

――――――――――――――――――――――

むささび

鼯鼠

のぶすま

△按ずるに、鼯鼠は、毛色・形、畧〔(ほぼ)〕鼠に似て、肉の翼(つばさ)有るなり。【原禽類〔の〕「伏翼〔(かはほり)〕」の次〔じ〕[やぶちゃん注:次第。当該項の解説。但し、これは「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」の項の誤り(「伏翼(かはほり)(コウモリ)」はその前項)。]に詳らかなり。】。

[やぶちゃん注:齧歯目ネズミ亜目ネズミ下目タケネズミ科タケネズミ亜科Rhizomyinae に属するタケネズミ(竹鼠)類。平凡社「世界大百科事典」によれば、中国中部及び南部からアッサム・マレー半島・スマトラにチュウゴクタケネズミ Rhizomys sinensis など三種が分布する。体長は二十三~四十八センチメートル、尾長は五~二十センチメートル、体重は一~四キログラム。体幹は太く、四肢が短くて、耳介と目が小さい。前足の爪、特に第三指の爪が長く、穴掘りに適応している。上下の門歯は大きく口外へ突出し、これは穴掘りにも使用する。竹の下に穴を掘り、その根を摂餌する。

「羊を煮るに、䶉を以つてし、鼈〔(すつぽん)〕を煮るに、蚊を以つてす。物性、相感〔するもの〕なり」「鼈」は潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科 Trionychinae に属するスッポン類(世界的には約十三属を数えるが、中国産では養殖食用種として著名なキョクトウスッポン属シナスッポン Pelodiscus sinensis がまず挙げられる(本邦にも生息するが、在来種ではないと思われる)。因みに本邦種は大陸にも棲息する同属のニホンスッポン Pelodiscus sinensis。但し、本邦種は在来個体群(大陸からの侵入・移入個体ではなく)のものとしてこれを Pelodiscus sinensis japonica として亜種と見る向きもある)。孰れも五行の性質から、肉を柔らかくするということを謂う。このスッポンとの相制については、「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「鼈」の「本草綱目」の引用にも、

   *

蚊を畏る。生きたる鼈、蚊に叮(く)はれ、遇して、則ち、死す。死したる鼈、蚊を得て煮るときは、則ち爛〔(ただ)〕[やぶちゃん注:煮崩れる。]る。蚊を熏〔(くん)〕ずるに、復た、鼈甲を用ひてす。物、報-復(むく)ふこと此くのごとし。異なるかな。

   *

とある。「物、報復ふこと」とは、蚊に刺されると死に、一緒に煮ると、その体を解かすという、正に鼈の天敵である蚊に対して、死んだ鼈の甲羅が、蚊を退治するための燻しに用いられるということは、本来、生時の一方向の「制」のベクトル(蚊が鼈を制する)でも、生死という位相が変じれば、逆のベクトルとしての「制」が発生するという、物質同士の互換性のある相互的因果応報があるということを指しているようである。

「鼯鼠」及び誤った「伏翼」については、上記リンク先の本文と私の注を参照。ムササビ・モモンガ・コウモリ類を中国の本草書が鼠類や鳥類と重複誤認するのは、その体型から判らなくはない。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 黃鼠(きいろねずみ) (ダウリアハタリス)

Kiironezumi

 

きいろねずみ 禮鼠 拱鼠

       鼲鼠 貔貍

黃鼠

 

ハアン チエイ

 

本綱黃鼠狀類大鼠黃色而足短善走極肥穴居有土窖

如牀榻之形者牝牡則所居之處秋時畜豆粟草木之實

以禦冬各爲小窖別而貯之村民以水灌穴而捕之味極

肥美也晴暖則出坐穴口見人則交其前足拱而如揖乃

竄入穴其皮可爲裘領性最畏鼠狼此鼠大原及沙漠等

北地有之遼人尤以供上膳爲珍饌

 

 

きいろねずみ 禮鼠 拱鼠〔(きようそ)〕

       鼲鼠〔(こんそ)〕

       貔貍〔(ひそ)〕

黃鼠

 

ハアン チエイ

 

「本綱」、黃鼠、狀、大鼠に類して、黃色にして、足、短かく、善く走る。極めて肥え、穴居して土の窖(あな)に有り。牀榻〔(しやうたふ)〕[やぶちゃん注:床(ゆか)寝台。長寝椅子。]の形のごとくなる者、牝牡、則ち、所居(しよきよ)の處なり。秋時、豆・粟〔(あは)〕・草木の實を畜(たくは)へて以つて冬を禦(ふせ)ぐ。各々〔(それぞれ)に〕小〔さき〕窖を爲し、別にして、之れを貯之(たくは)ふ。村民、水を以つて穴に灌(そゝ)ぎて之れを捕ふ。味、極めて肥美なり。晴〔れて〕暖〔かに〕して、則ち、出でて穴の口に坐す。人を見るときは、則ち、其の前足を交〔(まぢ)〕へ、拱(こまぬ)いて[やぶちゃん注:ママ。]揖〔(れい)を〕[やぶちゃん注:中国の昔の礼式の一つで、両手を胸の前で組み、これを上下したり、前にすすめたりする厳粛な礼法。]するがごとし。乃〔(すなは)〕ち、穴に竄(かく)れ入る。其の皮、裘(かはごろも)の領(えり)と爲すべし。性、最も鼠-狼(いたち)[やぶちゃん注:「鼬」。]を畏る。此の鼠、大原及び沙漠等の北地に、之れ、有り。遼人[やぶちゃん注:満州・シベリア・極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース語族に属する言語を母語とする狩猟民族であるツングース族。]、尤も以つて上膳に供して、珍饌と爲す。

[やぶちゃん注:齧歯目リス科 Xerinae 亜科 Marmotini 族に属するジリス(地栗鼠:所謂、地上性生活するリス類の総称)の内、最後の「遼人」の居住域から見て、Spermophilus属ダウリアハタリスSpermophilus dauricus と同定してよいかと思われる。英文ウィキの「Daurian ground squirrelを見ると、分布・生態がよく一致する。詳しくはそちらを参照されたい。]

箒木集 すゞしろのや(伊良子清白)

 

箒 木 集

 

 

 野中の井

 

野中にたつる碑に、

なれを傳へん人あらば、

男をこひてこの井より、

地獄に行きしとかくやらむ、

その碑はいつはりよ。

 

今こそ母が懺悔する、

むかしの罪を汝はきかず、

さはいへなれがこの水に、

はてし恨の眞情こそ、

母がしりたれこのはゝが。

 

汲まずなりたる桔槹、

石は草生にころげ落ち、

井筒もくちて村すゝき、

たけたかくこそかくしたれ、

のぞけば面わなづるまで。

 

いふぞよまゝ子まゝ母が、

まがりはてたるこゝろより、

つれ子のこひを遂げんとて、

なれをさいなみくるしめて、

舌の刃にころせしぞ。

 

なれはわが子をつゆこはず、

されど戀へりと人はいふ、

このまゝ母もしかいひぬ、

妹脊の契結べよと、

なれに强ひしもいくそ度。

 

こひに狂ひておろかにも、

死にしわが子をにくむとも、

あとをおひたるながこころ、

手をうち合せこの母が、

佛菩薩とも拜むなり。

 

 

  對 花 詞

 

ふかきまことのこの菊に、

こもれるものをいかなれば、

いひいでがたき世の中の、

千々にあまれることばもて。

 

 

  長 思 吟

 

やさしときみを思へども、

われはこひせじ長しへに。

 

こひするをりは短くて、

うれひのつくるときぞなき。

 

きみもこひすることなかれ、

こひしてやすきものやある。

 

花の姿のしほれんに、

いたまさらめや人みなの。

 

 

  妹脊の中

 

にごりはてたるうつし世は、

みなあさましく見ゆれども、

いもせの中のまごゝろは、

かみ代ながらに深くして。

 

こゝろのうちのかなしさを、

かたみに二人なぐさめて、

かたり暮さばなかなかに、

たのしかるらめうき世こそ。

 

綾もにしきもなにかせん、

いもせの中のへだてより、

袖になみだのたえざらば、

ふかきおもひに沈みつゝ。

 

いもせの中のかたらびは、

まづしかるこそ親しけれ、

物はたらはぬ折にこそ、

こゝろのまこと見えもすれ。

 

まづしきものゝ妹と脊よ、

なうらやみそとみ人を、

たからとたのむとみゆゑに、

うき世は波のさわぎつゝ。

 

ことばにいやをしらずとも、

なれら二人のまごゝろの、

なかよりいでしゑまひこそ、

えがたかりけれ人みなは。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年一月五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。本年十月四日を以って伊良子清白満二十一歳で、京都医学校四年生。

「桔槹」音は「ケツ(ッ)コウ」「キツ(ッ)コウ」であるが、ここは訓じて「はねつるべ」(撥ね釣瓶)である。なお、この第一篇「野中の井」は所謂、「継子の井戸掘り」譚をベースにしている。この「継子いじめ」の一類型については、「日本大百科全書」に以下のようにある。『「継子話」の歴史は古』く、『中国では古代の君主として著名な舜』『の生い立ちの史伝が「継子話」になっている。司馬遷』の「史記」(紀元前一世紀成立)に『詳しい。舜は継母に虐待され、堯』『王の』二『人の娘と結婚したあと、継母の実子の象(ぞう)の策略で殺されそうになる。倉の修理を言いつけられて倉に上ったところを下から火をつけられたり、井戸さらいをしろといわれ』、『井戸に入ると』、『生き埋めにされたりするが、妻の助言で』、『ことなきを得る。原拠と』する「書経」の当該『本文は伝わらないが、すでに』「孟子」(紀元前四世紀成立)に『みえる。舜自体、伝説的な存在で、この史伝はきわめて古い物語に由来するらしい。舜の物語を「継子話」としてまとめた俗講文学に、敦煌』文書「舜子至孝変文」(九五〇年成立)などがある』。『この「舜子変文」は、そのままの形式で、日本では「継子の井戸掘り」の昔話として知られているが、類型群としては、チベット語とモンゴル語で書かれた中世的な』「不思議な屍体の物語」の中の『「日光月光(にっこうがっこう)」の話や、古代的な』「観世音菩薩浄土本縁経」(但し、偽経とされる)の中の『「早離速離(そうりそくり)」の話などとも同一』の『範疇』『に属する。この』、『父親の留守中に継母が継子を亡きものにしようとする話は、日本では、鎌倉後期の』「箱根権現絵巻」や物語草子の「月日(つきひ)の本地」『などの本地物になり、昔話では「お銀小銀」として伝わっている。一つの範疇の「継子話」が、東アジアでは』実に二千五百年もの時間を『隔てて』、この原型が『生き続けていたことがわかる』とある。]

2019/05/26

ミッション・インポッシブル フォール・アウト

一昨日、横浜に頭を散髪に行く途中で無性に「ミッション・インポッシブル フォール・アウト」を見たくなって、二年振りにDVDを買いに行ったら、ニ店舗探しても単品無しで、シリーズ6作揃いセット(¥8400)しかなく、かなりムッときたが(初回は映画館で、Ⅱ以降は総てDVDを持っているからである)、仕方なく買った。CD同様、ネット配信で手に入るそれを買う人間も、化石に等しい時代となったようだ。
しかし、トム・クルーズはやっぱ! 半端なく凄いな!
特典ディスクの「フォール・アウト」のメイキング映像を見て、あの高高度ダイヴィング(「ヘイロウ・ジャンプ」(高高度降下低高度開傘)シーン)の実演と演技、ラストのヘリの追跡シークエンスでの総て自分独りで乗って操縦し、しかもしっかり演じているというのには、正直、たまげた。
彼のように、超危険なスタント・シーンをテツテ的にこなすことを「古武士」のように自己に課すという俳優というのは、スタッフらが口を揃えて言っているように、向後、そうそう出ないという気が確かにした。
クリストファー・マッカリー監督(彼による脚本も恐らくシリーズ出色の出来と思う)もトム・クルーズも生身で演ずることの覚悟を、シンプルに――観客(大衆)は「噓(作り物)を必ず見破る」――と言っている。
これはまた、世の総ての、ロクなことをしていない誰彼どもの座右の銘とすべき謂いだろう。

夏の海 すゞしろのや(伊良子清白)

 

夏 の 海

 

四里あまりある島村に、

舟を僦ひて渡り行く、

七月なかばの海の色、

藍の油にさもにたり。

[やぶちゃん注:「僦ひて」「僦」は「借りる」の意で、「雇(やと)う」の意でよく用いられ、ここも「やとひて」と読む。]

 

暑さを飛ばすまぜ風に、

席帆張りて舟子等が、

赤裸なるたくましさ、

櫓のかけ聲もおもしろく。

[やぶちゃん注:「まぜ風」南方から吹き来たる南風。「はえ」「まぜ」「ぱいかじ」などとも呼ぶ。但し。漁師たちはこれを天候変化の前兆として警戒する。

「席帆」「むしろほ」。]

 

こゝらあたりは荒磯の、

つんざきやぶる白濤に、

いはは抉られ削られて、

あやふやすがる松一木。

 

屛風のごとき絕壁の、

下は百千の貝殼に閉ぢ、

暴風の夜每に落ちくだけ、

碎けつもれる山の石。

[やぶちゃん注:「百千」「ももち」。

「貝殼」「かひ」或いは「から」であるが、断然、前者。

「暴風」「かぜ」と読んでおく。]

 

上は葛虆の垂れさがり、

かつておほなみのぼりけむ、

ところどころに獸の、

爪もてかきしごときあり。

[やぶちゃん注:「葛虆」音「カツルイ」で蔓草の総称である両字ともに「蔦葛(つたかずら)」のことであるから、ここは二字で「かづら」と読んでおく。]

 

かゝる磯にもいさり夫が、

魚見るためにしつらへし、

杉の板屋の板廂、

雨風いかにつらからん。

 

一里あまりも行くほどに、

靑松續く白濱に、

畫くが如き海士の家、

鷗もうかび人もよぶ。

 

四月なりけむこの浦の、

いそもの狩にまねかれて、

一夜いねたる村長の、

宿さへ近くめに見ゆる。

 

丘のいたゞき濱寺の、

庫裡の白壁日はさして、

松にかゝれる凌霄の、

蘿も花も搖ぎつゝ。

[やぶちゃん注:「凌霄」「りようせう(りょうしょう)」で落葉性の蔓性木本のシソ目ノウゼンカズラ(凌霄花)科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora のこと。夏から秋にかけて、橙色又は赤色の大きな美しい花をつけ、気根を出して、樹木や壁などの他物に付着して蔓を伸ばす。

「蘿」は「かづら」と呼んでおよう。]

 

丘の下には鰹つる、

彩舟あまたひきあげて、

船板穿つ大工らの、

鑿の音こそきこえたれ。

 

こゝをすぐればこの海の、

名にきこえたる難所にて、

今日はことさらしづけきも、

なほいさゝかのうねりあり。

 

潮の色は黑靑く、

沫をつくりて流れくる、

早瀨に舟をのせたれば、

さながら飛ぶがごとくにて。

 

しほに曲げられ矯められて、

かしら得あげぬ木々の幹、

石に抱かれ岩に匍ひ、

鳥の塒もなかるらむ。

 

陸のなごりかわだ底に、

うねくつゞく暗礁、

あはれ膽ある船長の、

しづめしふねもいく艘ぞ。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「陸」は「くが」と読みたい。]

 

おもへばなみもなみの音も、

祀らぬ鬼が水底に、

あるゝならずやその聲の、

さけびならずや舟人よ。

 

岬の鼻をうちめぐり、

わが島村にきて見れば、

浪は綠に山うつる、

夏の夕べのしづけさよ。

 

からりころりと櫓の音の、

水にひゞきて行くあとは、

一すぢのこる舟のあと、

入日のさすも花やかに。

 

澄みわたりたる夕汐の、

玉も拾はむそこ淸み、

いく群となきうろくづの、

舟を掠めてとくすぐる。

 

沖にむらむら雲湧きて、

やうやうせまる暮の色、

水に臨めるみ社の、

華表の奧に灯もともる。

[やぶちゃん注:「華表」「くわへう(かひょう)」で、ここは神社の鳥居を指す。「とりゐ」と読んでもいいが、だったら、「華表」と漢字表記してルビも振らぬのは、あざと過ぎる。]

 

松疎らなる岩山に、

折しも白く瀧見えて、

半ばのぼれる峯の月、

舟をさすこそうれしけれ。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年十二月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。本篇が底本の明治三十年の最後の詩篇である。個人的には好きな詩であるものの、ルビが一切ないのは確信犯であろうが、異様に、気になる。定型音律を用いている以上、孤高にして佶屈聱牙の詩人ならいざ知らず、素直に多くの民衆に読めることを心掛ける詩人たるべき彼にして、不親切、否、独善的な感じさえする。今の若い読者はそこら中で躓くぞ! 清白! だから敢えて無粋に注を挿入したんだ! なお、底本全集年譜によれば、前の「南海の潮音」(同年七月発表)との間の八月八日頃に、『靑年文』や『文庫』を介して文通のみの関係にあった、新進の新体詩人として頭角を現わしつつあった詩人・歌人の島木赤彦(明治九(一八七六)年~大正一五(一九二六)年:伊良子清白より一つ年上。当時は長野尋常師範学校最終学年で、翌年、北安曇郡池田会染尋常高等小学校の訓導となった。当時のペン・ネームは「塚原伏龍」「久保田山百合」。なお、彼が『アララギ』派の代表歌人となるのは明治四二(一九〇九)年以降)の訪問を受けている。]

太平百物語卷五 四十四 或る侍猫またを切りし事

Nekomata2 

   ○四十四 或る侍猫またを切りし事

 或侍【ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]ありて其名をしるさず。】朋友の方へ夜會(やぐはい[やぶちゃん注:ママ。])にゆかれけるに、樣々武邊の咄(はな)しをして後(のち)、厠にゆかれけるが、出(いで)んとするに、四方、皆、壁となりて、出口、なし。

『こはいかに。』

と思ひ、空を、

「きつ。」

と見るに、眼(まなこ)の光り、水晶のごとくなる者、此侍の頭(かうべ)を、

「しか。」

と、とらへて、虛空に上(あが)りぬ。

 されども、此侍、したゝか者にて、頓(やが)て、刀をぬき放し、

「はた。」

と、切付(きりつけ)たりければ、其儘、地にぞ落(おち)たり。

 あるじを始め、ありあふ人々、此音に驚き、出(いで)てみれば、侍、既に絕入(ぜつじゆ)しゐたりければ、急ぎ、顏に水を濯(そゝ)ぎて、呼起(よびおこ)しけるに、やうやう人心地つけば、

「いかゞし給ひける。」

と尋ぬるに、「しかじか」のよしをかたり、打(うち)もらしける事を無念がれば、人々、其邊(そのあたり)をうかゞひみるに、おほく、血(ち)、ながれたり。

「扨は。」

と、是を慕ひ求むれば、床(ゆか)の下に、血(のり)を引けり。

 頓て、床をこぢ放し搜しみるに、となり屋敷に久しく飼置(かひおかれ)たる古猫(ふるねこ)なり。

「扨こそ。此(この)『猫また』が所爲(しよゐ)。」

とぞ、人々、申合(あひ)けるとぞ。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。本文同ポイントで挿入した。挿絵は例の通り、国書刊行会「江戸文庫」版(国立国会図書館蔵本)を用いたが、この絵には猫又をひしぎ込んだ侍の上部の庭の部分に、

  おのれ

  生ては

  おか■

   物を

(三行目は「おかす」(おかず)か「おかさぬ」の「ぬ」の脱字か? 「■」は「ミ」(み)のようにしか見えず、上手く判読出来ない。識者の御教授を乞う)という、侍のオリジナルな台詞(本文にはない)があるのであるが、「底本の「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本の当該挿絵には、これはなく、空白である。再版で後から追刻したものか、或いは、旧蔵の持ち主が書き入れたものかは定かでない。

 既に「太平百物語卷四 卅二 松浦正太夫猫また問答の事」に「猫また」が出たが、余りにオーソドックスなので、つい注を忘れた。というより、猫又或いは猫の妖異や奇談については、私のブログでは無数に電子化注しているため、私の意識の中では猫の変化(へんげ)は余りに親し過ぎて注を必要としない状態なのである。ここでは改めて、総合的に纏まった注がしっかり出来ていると自身でも思い、話柄としてもよく結構されてある、「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」及び「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」の二例を挙げて、不親切のお詫びとしておく。]

2019/05/25

NECESSITAS_VIS_LIBERTAS! 薄肉彫 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    NECESSITAS_VIS_LIBERTAS!

 

      薄 肉 彫

 

 鐡のやうな顏をした眼附の鈍くすわつた脊の高い老婆が、大股にふんばつて、そして棒のやうに乾いた腕で今一人の女を前に押出してゐる。

 此の女は――大きた身體をして力がありさうに肥つてゐて、ヘラクレスのやうな筋肉をし、牡牛(をうし)やうな頭には小つぽけな頸(くび)が乘つてゐて、しかも盲目である――彼女もまた小さな瘠せた娘を前に押し出してゐる。

 此の娘だけは眼が見える。彼女は反抗して、ふり返つて、その綺麗な優しい手をふり舉げてゐる。その顏は生々としてゐて、性急さと大膽さとを現してゐる……彼女は從ふまいとしてゐる、押される方へ行くまいとしてゐる……でも紋女は屈從して、行かなければならないのだ。

   Necessitas_Vis_Libertas!

 氣が向いたら譯して見たまへ。

    一八七八年五月

 

Necessitas_Vis_Libertas、羅甸語。これを譯して見ると必然、力、自由となる。卽ち鐡のやうな顏をしたのが必然で、大女が力、小娘が自由だ。三つの槪念を三人の女の彫刻になぞらへたのである。】

薄肉彫、普通の彫像ではなくて、淺く浮彫にしたものを云ふ。】

ヘラクレス、希臘神話に出る半神の英雄、獅子と格鬪して苦もなく組伏せてしまふ大力者。それで大男のことを、あれはヘラクレスだなどと云ふ。】

[やぶちゃん注:二ヶ所のハイフンの位置は中央よりやや下位置であるが、ピンとくる活ハイフンが見当たらなかったので、この完全下部ハイフンで示した。また、ラテン語部分はゴシックでは痩せ細って見えてしまうので、太字にした。

 さて以上のラテン語であるが、この三つの単語は以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「氣が向いたら譯して見たまへ」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うので、以下に示しておく。

necessitas」(ネケッシタース)は①必然(的なこと)。②強制・圧迫。③境遇・立場。④危急・急迫・苦境。⑤繋がり・関係付ける力・情。

vis」(ウィース)①力・権力・勢力・②活動力・実行力・勇気・精力。③敵意としての武力・攻撃。④暴力・暴行・圧制・圧迫。⑤影響・効果。⑥内容・意義・本質・本性。⑦多量・充満。

libertas」(リーベルタース)①自由・解放。②自主・独立。③自由の精神・自立心。④公明正大・率直。⑤放縦・自由奔放・拘束のないこと。⑥無賃乗車券。

ツルゲーネフの「散文詩」はその作者不詳の素朴な挿絵が一つの良さでもあるのであるが、残念ながら本篇の挿絵は、非常に見づらい。私の中山省三郎訳の底本のそれは、左手の少女の画像が頗る見え難くなっている。両足は判別できるが、胴から上、特に頭部が全く不分明であるので、私の『トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) NECESSITAS, VIS, LIBERTAS」』で新たに掲げた、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の方の挿絵を見られたい。言っておくと、少女はひどく小さいのである。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 貂(てん) (テン)

Ten

 

 

てん   栗鼠 松狗

     【和名天牟】

【鼦同】

     黑貂【和名布

        流木】

 

本綱貂鼠屬大而黃黒色如獺而尾粗也其毛深寸許紫

黑色蔚而不耀用皮爲裘帽風領寒月服之得風更暖著

水不濡得雪則消拂靣如熖拭眯則出亦奇物也惟近火

則毛易脫毛帶黃色者爲黃貂白色者爲銀貂此鼠好食

栗及松皮故名栗鼠【高麗女直韃靼等諸胡國皆有】

△按貂在山中狀類鼬而身長大如獺毛色亦似鼬而胸

 腹褐色頰短而醜其皮爲鋒槍之鞘袋時珍以爲栗鼠

 蓋本朝謂栗鼠與貂其類不遠而異也【栗鼠乃鼠屬貂鼬屬】

 云老鼬變成貂然乎否能治眯【塵埃入于目中曰眯】

 

 

てん   栗鼠(りす) 松狗〔(しやうく)〕

     【和名「天牟〔(てむ/てん)〕」。】

【「鼦」同じ。】

     黑貂【和名「布流木〔(ふるき)〕」。】

 

「本綱」、貂は鼠の屬にして、大にして黃黒色、獺〔(かはうそ)〕のごとくにして、尾、粗なり。其の毛、深さ寸許り、紫黑色、蔚(しげ)りて[やぶちゃん注:「繁茂して」。緻密みみっちりと生えていることを言っている。]、耀(かゞや)かず[やぶちゃん注:光沢はない。]。皮を用ひて裘〔(かはごろも)〕・帽・風領〔(かざえり)〕に爲〔(つく)〕る。寒月、之れを服すに、風を得て〔も〕更に暖きなり。水に著〔(つけ)〕て〔も〕濡れず、雪を得て〔も〕、則ち、消ゆる。靣[やぶちゃん注:毛皮の表面。]を拂ひて〔は〕[やぶちゃん注:摩擦してみると。]熖〔(ほのほ)〕のごとく〔熱くなり〕、眯〔(び)〕[やぶちゃん注:目の中に入った塵(ごみ)。]を拭ひて〔は〕、則ち、〔それを〕出だす。亦、奇物なり。惟だ、火も近づくときは、則ち、毛、脫(ぬ)け易し。毛、黃色を帶ぶる者、「黃貂〔(きてん)〕」と爲し、白色なる者、「銀貂」と爲す。此の鼠、好んで栗及び松皮を食ふ。故に「栗鼠〔(りす)〕」と名づく【高麗・女直(ぢよちよく)・韃靼〔(だつたん)〕等の諸胡國、皆、有り。】。

△按ずるに、貂は山中に在り。狀、鼬〔(いたち)〕の類にして、身、長く、大いさ、獺〔(かはうそ)〕のごとし。毛色も亦、鼬に似て、胸・腹、褐(きぐろ)色。頰、短く、醜(みにく)し。其の皮、鋒-槍〔(やり)〕の鞘袋〔(さやぶくろ)〕と爲す。時珍、〔本「貂」を〕以つて、「栗鼠(りす)」と爲す。〔而れども、〕蓋し、本朝に謂ふ「栗鼠(りす)」と「貂(てん)」と、其の類、遠からずして、而〔れども〕異なり【「栗鼠」は、乃〔(すなは)ち〕、鼠の屬。「貂」は鼬の屬なり。】。〔或いは〕云ふ、「老〔いたる〕鼬、變じて貂と成る」と。然るや否や。能く眯〔(び)〕を治す【塵埃、目の中に入るを、「眯」と曰ふ。】。

[やぶちゃん注:食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属 Martes のテン類。テン属には、北アメリカに、アメリカテンMartes americana・フィッシャー(fisher)Martes pennantiの二種があり、ヨーロッパからアジアにかけて、クロテンMartes zibellina・マツテンMartes martes・キエリテンMartes flavigula・コウライテンMartes melampus coreensis(朝鮮半島南部。但し、捕獲例が二例あるのみ)など七種が棲息する。本邦には孰れも固有亜種の、ホンドテン Martes melampus melampus(本州・四国・九州自然分布。北海道・佐渡島へ移入。沖縄県には棲息しない)と、対馬にのみ棲息するツシマテン Martes melampus tsuensis が棲息する。小学館「日本大百科全書」によれば、『どの種も毛皮が美しいために乱獲され、一時は非常に減少したが、現在では世界各国とも保護策をとっている。また、クロテンは養殖もされている。体形はいずれも似ていて、イタチ』(食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela本巻掉尾が「鼬」である)『より大きく、四肢が長い。毛色は黄ないし黒褐色で、のどの部分が淡い。冬毛と夏毛で毛色が異なるものも多い。いずれも森林にすみ、昆虫や小動物のほか、果実も好む』。本邦産は『体長は雄で』四十五~五十『センチメートル、尾長』十七~二十三『センチメートル、雌はやや小さい。夏毛は全体に褐色で、耳からのどにかけて黄色、顔と四肢は黒い。冬毛は変異が大きく、キテン』(種名ではなく、毛色の有意な相違による呼称。ホンドテンは体色(冬毛)に東北地方などの主に寒冷地に棲息する全身が黄色の個体群と、四国・九州などの主に温暖地に棲息する黄褐色の個体群との、二つの色相がある。前者のように全体に美しい黄色を呈して頭と顔が白いものを「キテン」(黄貂)、地色は夏毛と殆んど変わらずに頭・顔・咽頭部が淡い褐色となるものを「スステン」(恐らくは「煤貂」)と呼ぶ。時珍の言う『白色なる者、「銀貂」と爲す』と言うのも、中国産種の異種ではなく、同一種の中の、そうした毛色の型位相を指している可能性が高い)『ように全体に美しい黄色で、頭と顔が白いものから、スステンのように地色は夏毛とほとんど変わらず、頭、顔、のどが淡い褐色となるもの』、『および』、『その中間型もあり、色相によって区別される別型と考えられている。対馬』『産の亜種ツシマテン』『の冬毛はスステンに似るが、頭、顔、のどは白い。テンの各型および亜種とも、四肢、とくにその先端はつねに黒いが、クロテンと違い』、『尾の先端は黒くない』。『テンは山地から平野部の森林にすみ、高山には少ないが、人里近くにもみられる。日中は樹洞などに潜み、夜間に活動する。雑食性で、昆虫、カエル、トカゲ、小鳥、ネズミなどの動物質のほか、果実も食べ、とくに秋にはノブドウ、アケビ、ムベなどをよくとる。木登りは非常に巧みである。繁殖期以外は単独で生活する。交尾は春から夏にみられ幅があるが、出産は』四~五『に限られ』一産で二~四子を産む。『夏にみられる交尾で』は『妊娠するかどうか』が『わかっていないが、胎児が発育を停止する妊娠遅延があるとも考えられ』ているという。『テンは、毛皮を利用するためと』、『夜行性』であることから、本邦では、『銃器によらず、とらばさみや箱わななどのわなで捕獲する。日本での捕獲数は年間』一『万頭、東北地方と群馬、長野、新潟、島根などの各県が多い。北海道と愛媛県は現在捕獲禁止としている』。『利用はおもにコート、襟巻などで、寒い地域のキテンが価値が高く、なかでも背の下毛が白い根白(ねじろ)が最高級とされ』、『ついで』、『下毛の赤褐色の根赤(ねあか)、黒褐色の根青(ねあお)』の順『となり、暖地のスステンは黒く染色して、より価値の高いクロテンの代用にされる程度である。また、テンは養鶏場や養魚場へ侵入して害を与えることもあり、これらの業者からは嫌われている』とある。なお、漢字「貂」の音は「テウ(チョウ)」で「てん」は訓である。現代中国語では「diāo」(ディアォ)であるが、中国では地方によりまた、朝鮮語音では「トン」と発音することから、本邦ではそれが訛って「てん」となったものと言う。

「貂は鼠の屬」誤り。テンは齧歯(ネズミ)目 Rodentia にあらずして、肉食(ネコ)目 Carnivora である。最後の珍しい良安の時珍への正当な批判も、言わずもがなの「其の類、遠からずして、而〔れども〕異なり」とやらかした部分で、ややズッコケている。但し、割注のと『「栗鼠」は、乃〔(すなは)ち〕、鼠の屬。「貂」は鼬の屬なり』は「栗鼠」は齧歯目リス亜目リス科 Sciuridae で、「鼬」は既に見た通り、食肉(ネコ)目であるから、正しい。

「獺〔(かはうそ)〕」食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra、本邦の日本人が滅ぼしたそれは、ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」を参照。

「風領〔(かざえり)〕」着衣の大きくとった防寒用の襟。

「高麗」(九一八年~一三九二年)は首都は開京(現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある開城(ケソン)市)。十世紀の最大版図時には、朝鮮半島の大部分に加え、現在の中国の元山市や鴨緑江まで及んだ。この名称は朝鮮半島を表す英語「Korea」の語源である。

「女直(ぢよちよく)」「女眞」(じょしん)に同じで、本来は民族名である「ジュルチン」「ジュシェン」での読みも一般的である。満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族が居住し、実効支配していた中国の北外。

「韃靼〔(だつたん)〕」「タタール」に同じ。本来は、モンゴリア東部に居住したモンゴル系遊牧部族タタールを指した中国側の呼称。「タタール部」は十一世紀から十二世紀にかけて、モンゴリアでは最も有力な集団の一つであり、また、モンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため「宋」では「タタール部」を「韃靼」と呼んだが,それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。十二世紀末から十三世紀初め、モンゴル部にチンギス・ハーンが出現し、モンゴル帝国が出現するに及んで、「タタール部」の力は衰えた。ここはやはり中国北部外の旧地を指す。

「胡國」古代より中国北方の異民族(夷狄(いてき))の国を呼んだ「野蛮な国」の意を含む蔑称。]

太平百物語卷五 四十三 能登の國化者やしきの事

 

   ○四十三 能登の國化者やしきの事

 能登の國に、化物屋敷ありて、おほく人を取りけるよし、專ら沙汰しける程に、後々は住(すむ)人もなかりしに、幾田八十八(いくたやそはち)といふ侍、おこの者にて[やぶちゃん注:「おこ」はママ。]、此屋敷を所望し、好みて住みけり。

 然れども、化物、更に出でざれば、八十八、笑つて、

「さこそあるべし。化物も人によりてこそ出(いづ)らめ。」

と、独(ひとり)嘲(あざけ)り居(ゐ)たりしが、ある夜(よ)、深更におよび、厠に行(ゆき)けるに、下(した)より長き毛の手にて、八十八が尻を、なでける。

「さればこそ。」

とて、能(よき)ほどに、なでさせ、頓(やが)て、引(ひつ)とらまへて、力に任せ、引(ひき)ければ、次第次第に長くのびけるが、空(そら)を[やぶちゃん注:厠内(かわやうち)の上方を。]、

「きつ。」

と見上ぐれば、屋根、板、めくれて、さもすさまじき頰(つら)だましゐの者、八十八を、

「はつた。」

と白睨(にらむ)。

 八十八も、同じく、にらみ付(つけ)、先(まづ)、此手を取(とつ)て、外に出(いづ)るに、『出(いで)じ』と力(りき)むを、八十八、大力量の者なれば、苦もなく引出(ひきいだ)しけるに、空より白睨(にらみ)し化物、其儘、落(おち)たり。

 能(よく)々みれば、此、化者が手なり。

 それより、兩方引組(ひつくみ)、上になり下になり、互に負(まけ)じと爭(あらそひ)しが、八十八、力や勝れけん、終に化者を組留(くみとめ)、やうやうに、さし殺しけるが、我身も所々に疵を蒙りけり。

 夜明けて、みれば、猿の劫(かう)經たるにてぞありける。

 其屋敷のうらに、年經りたる槇(まき)の木の有(あり)しを、怪しくおもひ、悉く、きらせ見るに、果(はた)して、樹上(じゆしやう/きのうへ)には、年來(ねんらい)取喰(とりくらひ)し人の屍(しかばね)、おほく有りしとぞ。

 八十八、此ばけ物を退治して後(のち)は、何の事もなかりければ、人皆(みな)、八十八が勇力(ゆうりき)不敵の程を、かんじける。

[やぶちゃん注:「おこの者」「烏滸(おこ)の者」。ここでは物好きな変人・奇人の意でとっておいてよい。「おこ」はなかなかに含蓄のある語で、総合的には「馬鹿げていて或いは滑稽で人の笑いを買う・誘うような様態」を指す語であるが、但し、それを確信犯として行う者の中には、なかなかに逆に賢いトリック・スターが有意に含まれる。ウィキの「烏滸」によれば、記紀に既に「をこ」もしくは「うこ」として『登場し、「袁許」「于古」の字が当てられる。平安時代には「烏滸」「尾籠」「嗚呼」などの当て字が登場した』。『平安時代には散楽、特に物真似や滑稽な仕草を含んだ歌舞やそれを演じる人を指すようになった。後に散楽は「猿楽」として寺社や民間に入り、その中でも多くの烏滸芸が演じられたことが』、「新猿楽記」に描かれており、「今昔物語集」(巻第二十八)や「古今著聞集」などの、平安から鎌倉時代にかけての説話集には、所謂、「烏滸話」と『呼ばれる滑稽譚が載せられている。また、嗚呼絵(おこえ)と呼ばれる絵画も盛んに描かれ』、「鳥獣戯画」「放屁合戦絵巻」は『その代表的な作品である』。『南北朝・室町時代に入ると、「気楽な、屈託のない、常軌を逸した、行儀の悪い、横柄な」』(「日葡辞書」)『など、より道化的な意味を強め、これに対して』、『単なる愚鈍な者を「バカ(馬鹿)」と称するようになった。江戸時代になると、烏滸という言葉は用いられなくなり、馬鹿という言葉が広く用いられるようになった』とある。平安期には既に「癡(痴)」を当てて「痴(を)こがまし」という形容詞が(「源氏物語」)、「宇治拾遺物語」には「痴こがる」という語も生まれている。

「槇(まき)の木」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus、マツ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata などを指す。前者は二十メートル、後者は三十メートルで幹の直径が一メートルを越える巨木に成長する個体もある。]

南海の潮音 すゞしろのや(伊良子清白)

 

南海の潮音

 

 

  春 の 夜

 

ともし火くらき春の夜の、

窓によりそひ書よめば、

心のもつれはるかぜの、

氷吹きとくおもひあり。

 

都にひとりのこりゐる、

こひしき妹もわがごとく、

まなびの業のひまなさに、

夜すがら書をよむらむ。

 

障子の紙にさらさらと、

散りくる花のおとすなり。

かゝる宵にはこひ人の、

よくわが宿を訪ねしか。

 

げにわすれてはなにとなく、

人まつさまのこゝちして、

いなわぎも子は今宵しも、

おとづれこむと契りしが。

 

わがよむ聲をきくまゝに、

かれが優しきこゝろより、

柴のをり戶をあけかねて、

門に立つにはあらざるか。

 

まどを開きてながむれば、

あるかなきかの月影の、

弱きひかりにほの見えて、

たゞたえまなく花ぞ散る。

 

ともし火かゝげまたもわれ、

書よみおれば門の邊に、

とひくる人のけはひして、

わが名をよぶはかのきみか。

 

されどあたりに音はなく、

くま笹がくれうねうねと、

一すじ白く行く水の、

たえつつゞきつ見ゆるのみ。

 

しばらく書をよむほどに、

またしも妹のこゑはして、

はては障子をうつ花の、

散りくるふ音となりにけり。

 

花はますます散りしきり、

月はいよいよおぼろなり。

夜もはやいたく更けぬらし、

妹のきたるはいつならむ。

 

 

  醉 歌

 

あまつみくには

さゝやけき、

ひさごのなかに

あるぞかし。

 

ちりのうき世を

いとひなば、

きたりてこゝに

あそびませ。

 

わかきいのちの

いつまでか、

白きおもわの

われらぞや。

 

げにわか人を

たとふれば、

ゆめよりあはき

春の夜や。

 

夜はのあらしを

知れよとは、

法のうたにも

をしへたり。

 

くるしきこひの

かなしさに、

つき日をすつる

ことなかれ。

 

まなびのもりに

わけいりて、

あらたにまよふ

ことなかれ。

 

たゞなにごとも

うちわすれ、

この一つぎを

くめよかし。

 

見よ桃靑は

句にかくれ、

また雪舟は

繪にかくる。

 

をかしからずや

この酒に、

君と二人が

かくれなば。

 

ほまれといふは

ちりひぢか、

くらゐといふも

あくたなり。

 

にほへる顏の

くれなゐに、

まされるたから

世にあらめやも。

 

 

  詩 人

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

玉をまろばすいと竹の、

きよきしらべをいとはしと、

荒野のすゑにたちいでゝ、

あらしの樂をきくならむ。

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

たかきくらゐのあて人の、

たまふさかづきをうけずして、

みどりしたゝるおく山の、

松の淸水をくむならむ。

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

錦のしとねしきつめし、

たまのうてなにのぼらずに、

あらゝぎ匂ひさ百合咲く、

岩の小床にぬるやらむ。

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

彌生のはるの都路の、

花のさかりをめでずして、

名もなき草のしら露に、

熱きなみだをそゝぐらむ。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年七月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「あらゝぎ」はここでは、「万葉集」「源氏物語」以来、愛されたキク目キク科キク亜科ヒヨドリバナ属フジバカマ Eupatorium japonicum の異名と採っておく。]

2019/05/24

おとづ れ ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    お と づ れ

 

 私は開(あ)け放(はな)した窓邊にすわつてゐた……朝早く、五月一日の朝早くである。

 日はまだ出ない。けれども。仄(ほの)かに白みそめて、暗(くら)い暖(あたゝ)かな夜は早や凉氣を帶びはじめた。

 霧はまだのぼらず、そよとの風もない。よろづの物は一色(ひといろ)に、まはりには深い靜寂(しづけさ)がある――けれども自然はやがて目覺(めざ)めることを思はせた。微風は鋭い濕つぽい露の匂ひを蒔き散らしてゐた。

 突然開け放した窓から輕い音立てゝ、大きな鳥が部屋の中へ飛び込んだ。

 私はびつくりして、それに眼を遣つた……鳥ではなかつた、身にぴつたり附いた長い着物を垂れて、翼をそなへた小さな女の姿であつた。

 彼女はすつかり灰色であつた、眞珠母(しんじゆぼ)いろの灰色であつた。たゞその翼の内側のみが、咲き初めた薔薇のやはらかな紅(くれなゐ)を帶びてゐた。君影草(きみかげぐさ)の花輪はその圓い頭のうち亂れた捲髮をとりかこんでゐた。美しい圓(まる)い額(ひたひ)には、二つの孔雀の羽根が蝶の觸角(しよくかく)のやうに面白く搖れてゐた。

 彼女は部屋の中を二三度飛び廻つた。彼女の小さな顏は笑つてゐた。大きな黑い明るい眼も笑ひを湛へてゐた。

 氣儘に飛んではふざけ廻るので、彼女の眼は金剛石(ダイヤモンド)のやうにきらきら輝いた。

 彼女は曠野(ステツプ)に咲く花の長い莖を持つてゐた。露西亞人が「皇帝の笏」と呼んでゐるもので、實際笏によく似てゐる。

 すばしこく私の上を飛びながら、彼女はその花を私の頭に觸れた。

 私は兩手をその方へ差しのぱした……けれども彼女は窓から飛び出して、また行つてしまつた……

 庭園(には)の紫丁香花(むらさきはしどい)の花の繁みの中で、斑鳩(じゆづかけばと)はその日のはじめの鳴聲を舉げて彼女を迎へた。彼女がはるかに消えてしまつたあたり、乳白の空はだんだんと紅味(あかみ)を帶びはじめた。

 私はおん身を知つてゐる、空想の女神よ! はからずもおん身は私を訪ねてくれた、若い詩人たちの許(もと)へ行く道すがらに。

 おゝ、詩歌(しいか)よ、靑春よ、女性の童貞の美よ! たゞこの瞬間に、お前たちは私の生涯に光輝(かゞやき)を與へてくれた、春のはじめの朝まだきに!

    一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:「眞珠母(しんじゆぼ)」アワビの貝殻の内側等に見られる真珠層の別名。真珠母(しんじゅぼ、英: mother of pearl)は、ある種の軟体動物(特に貝類)が貝殻の内側に形成する、外套膜から分泌された炭酸カルシウムを主成分とした光沢物質で無機物と有機物の複合物質である。干渉縞により、構造色(虹色)を呈する場合が多い。

「君影草(きみかげぐさ)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の別名。

「曠野(ステツプ)に咲く花の長い莖を持つてゐた。露西亞人が「皇帝の笏」と呼んでゐるもので、實際笏によく似てゐる」「曠野(ステツプ)」はステップ(ロシア語:степь /ラテン文字転写:stepʹ/英語:steppe)は中央アジアのチェルノーゼム(ロシア語:чернозём/ラテン文字転写:chernozyom/英語:chernozem/肥沃な黒土のこと)帯に代表される世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味で、学術的には、樹木のない平原で河川や湖沼から離れている様態を指す。通常は丈の低いイネ科 Poaceae 等の草が植生する。「皇帝の笏」の原文は「царским жезлом」で、「царским」は「ツアーリの」の原義から「豪勢な」の謂いで、「жезл」は権力や職権を表わす笏杖のことである。これは先行する神西清訳の「散文詩」の本篇の注で 学名 Verbascum thapus であることが明らかにされている。この Verbascum thapus とはシソ目ゴマノハグサ科モウズイカ(毛蕋花)属ビロードモウズイカで、名称はこの植物の毛深さに由来する(以下のリンク先の写真を参照)。ウィキの「ビロードモウズイカ」によれば、『ヨーロッパおよび北アフリカとアジアに原産するゴマノハグサ科モウズイカ属の植物である。アメリカとオーストラリア、日本にも帰化している』とあり、『この植物の大きさや形を元にした名前として、"Shepherd's Club(s) (or Staff)"(羊飼いの棍棒(または杖))』や『"Aaron's Rod"(アロンの杖)(これは、例えばセイタカアワダチソウのような、背の高い花穂に黄色い花を群がり付ける他の植物に対しても使われる))そして、他にも「何何の杖」は枚挙に暇がないくらい』多数あるとする。因みに、『日本では「アイヌタバコ」「ニワタバコ」などの異名がある』と記す。グーグル画像検索「Verbascum thapusを添えておく。皇帝の笏杖の意が何となく判る。

「紫丁香花(むらさきはしどい)」「ムラサキハシドイ」はモクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラックSyringa vulgarisの標準和名。花言葉には「青春の思い出」・「純潔」・「初恋」などがあり、ここは確信犯の描写であろう。なお、ハシドイの語源は不明だが、花が枝先に集まることから、「端集(はしつど)い」の略ともされるようである。グーグル画像検索「Syringa vulgarisをリンクさせておく。

「斑鳩(じゆづかけばと)」「數珠掛鳩」ハト目ハト科ジュズカケバトStreptopelia roseogrisea var. domestica。白色のものは手品等でお馴染みである。グーグル画像検索「Streptopelia roseogrisea var. domesticaをリンクさせておく。]

最後の面會 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    最 後 の 面 會

 

 曾て我々はたゞならぬ親しい友達であつた。……けれども不幸な日が來た……我々は敵となつて相分れた。

 多くの年は過ぎ去つた……そして彼の住んでゐる市(まち)へ來たとき、私は彼が瀕死(ひんし)の床に橫はつて、私に會ひ度がつてゐることを聞いた。

 私は彼を訪れて、彼の部屋(へや)へ入つた……二人の視線は出會つた。

 これが彼だとは思へなかつた。あゝ! 病氣は彼をこんなに迄したのか?

 黃色くなつて、皺が寄つて、すつかり禿げて、まばらな白い髯を生やして、特別な仕立方をした襯衣(しやつ)を着けたばかりで彼はすわつてゐた……彼は輕い着物の重みにすら堪へられないのだ。彼は忙しくその恐ろしく瘠(や)せ細(ほそ)つた嚙みへらされたやうな手を私に差しのべて、辛うじて二言三言わけの分らぬことを呟いた――それが歡迎の言葉か非難のそれかを誰か知らう? 彼の瘠せ衰へた胸は波打つて、その血走つた眼のどんよりした瞳には押し出された苦痛の淚が浮んでゐた。

 私の心は搔(か)き亂(みだ)された……私はその傍の椅子にかけて、その物凄(ものすご)い姿に思はず眼を落しながらも、同じく手を差出した。

 けれども私の手を握つたのは彼の手ではないやうに思はれた。

 二人の間に脊(せい)の高い無言の白衣(びやくえ)の女がすわつてゐるやうに思はれた。長い着物は彼女を頭から爪先まで包んでゐた。彼女の深い蒼(あを)い眼は空(くう)を見、その蒼い嚴(いか)めしい脣からは一語も洩れなかつた。

 彼女が我々の手を結ぴ合せたのだ……彼女が我々を永遠に和解させたのだ。

 然り……死が我々を和解させたのであつた.

    一八七八年四月

 

友人と云ふのは前に言つた[やぶちゃん注:「我が競爭者」の生田の註を見よ。]ネクラソフである。二人は靑年時代に共に活動したが、のち長らく反對の地位に立つてゐたのだ。――露西亞っでは死は女性と見られてゐる。】

[やぶちゃん注:中山省三郎氏訳にある「註」がより詳しくてよい。以下に引く。

   *

・最後の會見:ここで「嘗ての友達」といつてゐるのは、有名な民衆詩人ネクラーソフ(一八二一-七七)のことであつて、彼はツルゲーネフの長年の發表機關であつた雜誌「現代人」の主幹で、一八五〇年代に同誌の編輯に參加したチェルヌィシェフキイに對するツルゲーネフの反感、同じくドブロリューボフとの反目、一八六〇年同誌に掲げられた「その前夜」についてのドブロリューボフの批評に對する忿懣、さては一八六二年、長篇「父と子」を「現代人」ならぬ「ロシヤ報知」に發表したこと、この小説によってまき起された事件等によつて、二人は絕交したのであつた。然るに、この頃から、十年、十五年の月日が經つて、一八七七年の五月下旬、パリからペテルブルグに歸つたツルゲーネフは雙方の友人の斡旋によつて、病篤きネクラーソフを見舞つたのであつた。そのときの情景をネクラーソフ未亡人は次のやうに記してゐる。

「死ぬまへ幾許もない時に、二人はめぐり會ふ運命にあつたのです。ツルゲーネフは二人の共通の知人から、良人が不治の病床にあると聞いて、良人に會つて、和解をしようと希望されました。しかし、良人はあまりにも衰弱してゐましたから、うまくお膳立てをしてからでないと、お通し申すことが出來ません。ツルゲーネフは宅へいらして、もうまへの控室にお待ちでした。で、私が良人にむかつて『ツルゲーネフさんがあなたにお會ひしたいさうですよ』と申しましたら、良人は悲痛な笑ひ方をして『やつて來て、おれがどんな風になつたか見て貰はう』と答へました。そこで私が寢卷を着せて、もう自分では步けませんでしたから――肩を貸して、寢室から食堂に連れ出しました。良人はテーブルについて、ビフテキの汁をすすりました、――その頃はもう固形物はとれなかつたのです。良人はやせて、血の氣もなく、衰へて、――見るも怖ろしいほどでした。私は窓の外を覗いて丁度そこへツルゲーネフが見えたかのやうな振りをして申しました、『さあ、ツルゲーネフさんがいらつしやいましたよ』と。それから暫くすると、背が高くて、風采の立派なツルゲーネフはシルクハットを手にして、控室に隣つてゐる食堂の戶口にあらはれました。が、良人の顏を覗いたかと思ふと、さすがに驚いた樣子をして、固くなつてしまひました。一方、良人はと見ると、その顏は苦しさうな痙攣が通り過ぎて、いひ知れぬ心の激動と鬪ふ力もなくなつたやうに見えました……。彼はやせ細つた手をあげて、ツルゲーネフの方に別れの身振りをしましたが、良人はツルゲーネフに對して、どうしても話をする元氣がないと言ひたさうな樣子でした……。ツルゲーネフの顏もやはり興奮に歪んで居りましたが、彼は良人の方へ祝福の十字を切つて、そのまま戶口の方へ消えて行きました。この會見のあひだ、ひと言も二人の口にのぼりませんでしたが、二人ともその胸中はどんなであつたでせう。」

 この場合ネクラーソフが手をあげたのは、生理的にもはや話など出來ぬといふことを示すのか、或は不可能といふのではなく、「話したくない」の意味か……と或るジャーナリストがネクラーソフ未亡人に向つて愚かしい質問を投げたとき、暫く默想の後、やはり衰弱の極に達してゐたので、ああいふ仕草によつて別れの言葉を述べたのです、と未亡人が嚴然と答へたのは三十數年後の一九一四年であつた(エヴゲーニェフ・マクシモフの「ネクラーソフと同時代人」による)。

   *

 補足しておくと、文中、底本では「その頃はもう固形物はとれなかたのです」「彼はやせ細つて手をあげて」「エヴゲーニュフ」とあるが、先行する昭和二一(一九四六)年八雲書店版との対比によって誤植と判断されるので、それぞれ「その頃はもう固形物はとれなかつたのです」「彼はやせ細つた手をあげて」「エヴゲーニェフ」と訂正した。]

松籟潮聲 すゞしろのや(伊良子清白)

 

松籟潮聲

 

 

  新 曉

 

しづかに木々の、

つゆおちて、

いはほの苔も、

かをるとき。

むらさきうすき、

しのゝめの、

くものしとねに、

うまいして、

ねむるもきよき、

曉(あけ)のひめ。

靑ぞらとほき、

ひかしより、

黃金のくるま、

かゝやきて、

のぼらせたまふ、

朝日子の、

たかきすがたに、

はぢらひて、

かすみに隱れ、

きりにのり、

のこんの星を、

ともなひて、

雲路はるけく、

きえて行く。

 

[やぶちゃん注:「ひかし」はママ。]

 

 

  心のやみ

 

みわたすかきりは、

露おりて、

秋野にこよひは、

星くずおほし。

 

なにとてこゝまで、

さまよひきけむ。

家ゐをいでしも、

さやかに知らず。

 

いまわれしづかに、

思ひてみれば、

人こひそめしは、

まよひのはじめ。

 

まよひにしづめば、

こゝろはくらく、

くるしきもだへに、

やせおとろへぬ。

 

たのしき天國(あめ)とは、

こひしき人を、

見そめしをりより、

外にはあらじ。

 

この世もかのよも、

わが行く道は、

さみしくおぐらき、

冥府(よみ)にやあらぬ。

 

いのりもさゝげじ、

つとめもなさじ。

はかなき生命を、

こひにぞすてむ。

 

[やぶちゃん注:「かきり」はママ。]

 

 

  讀 書

 

今日插し初めし花櫛の、

まだ少女子のきみなれば、

わが讀むふみをなにぞとも、

知りたまはぬをうらまねど。

 

わがよむふみは紫の、

式部の刀自かつゞりたる、

よにもかなしくうら若き、

をとこ女のこひなれば。

 

わが口唇はうちふるひ、

よみさす聲もみだれつゝ、

熱き淚ははらはらと、

こぼれて書におつるなり。

 

あゝいかなればさばかりに、

深くもなげき給ふぞと、

戀しききみののたまはゞ、

うれしからむを一ことも。

 

[やぶちゃん注:「刀自か」の「か」はママ。]

 

 

  吹 笛

 

すかたみにくきくちなはの、

いかなればこそかくまでに、

わが吹く笛をしたふらむ。

 

たゞ一ふしのたけにさへ、

きれば七つの律呂(こゑ)をなす、

ふかきまことのこもれるに。

 

火焰はくてふくちなはの、

聲こそなけれこゝろには、

あつきうれひのなからめや。

 

いさきけよかししづかにて、

夕暮ふかき草原に、

なかためふかむしばらくは。

 

[やぶちゃん注:最終連の「すかた」「なか」「いさきけよ」(「潔氣よ」であろう)はママ。以上、示した全篇の清音語は、総てが、万葉調を匂わせるための確信犯と思われる。明治三〇(一八九七)年六月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

太平百物語卷五 四十二 西の京陰魔羅鬼の事

 

   ○四十二 西の京陰魔羅鬼(おんもらき)の事

 山城の國西の京に、宅兵衞といふ人、有(あり)。

 折しも、夏日(がじつ[やぶちゃん注:ママ。])のたへがたき比(ころ)、其近邊成(なる)寺に行(ゆき)て、方丈の緣にいで、しばらく納凉(なうりやう/すゞみ)してゐけるに、いと心能(こゝろよく)して、眠りを催しける時、俄に物の聲ありて、

「宅兵衞。宅兵衞。」

と、呼ぶ。

 宅兵衞、おどろき覚(さめ)て、起(おき)あがり、みれば、鷺(さぎ)に似て、色黑く、目の光る事、灯火(ともしび)の熾(さかん)なるが如くにして、羽をふるひ、鳴(なく)聲、人のごとくなり。

 宅兵衞、恐れて、法緣を退(しりぞ)き、窺(うかゞ)へば、翼をひろげて、羽(は)たゝきす、と見へし。

 頭(かしら)より、次第次第に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])て、終に、形は、失(うせ)けり。

 宅兵衞、奇異のおもひをなし、則(すなはち)、此寺の長老に語りて、樣子をとひけるに、長老、答へて、

「此所に、今迄、さやうのばけ物、なし。此比(このごろ)、死人をおくり來(きた)る事ありしが、假(かり)に納めおきたり。おそらくは、それにてやあらん。されば、始(はじめ)て新たなるしかばねの氣、變じて、如此(かくのごとき)もの、あり。是を名付けて『陰魔羅鬼(おんもらき)』といふよし、藏經(ざうきやう)の中(うち)に、のせ侍る程に。」

と仰せければ、宅兵衞、此よしを聞(きゝ)、

「さも侍る事にや。」

とて、いよいよ、あやしみ、おもひける。

[やぶちゃん注:「陰魔羅鬼(おんもらき)」「陰摩羅鬼」とも書く。ウィキの「陰摩羅鬼」によれば、『中国や日本の古書にある怪鳥』で、経典「大蔵経」(本篇最後の「藏經」はそれを指す)に『よれば、新しい死体から生じた気が化けたものとされる』。『充分な供養を受けていない死体が化けたもので、経文読みを怠っている僧侶のもとに現れるともいう』。『古典の画図においては鳥山石燕の画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)にも『描かれており、解説文には中国の古書』「清尊録」(宋の廉宣撰撰になる志怪小説集)からの『引用で、姿は鶴のようで、体色が黒く、眼光は灯火のようで、羽を震わせて甲高く鳴くとある』。この「清尊録」には『以下のような中国の陰摩羅鬼の話がある。宋の時代のこと』、『鄭州の崔嗣復という人物が、都の外の寺の宝堂の上で寝ていたところ、自分を叱る声で目を覚ました。見ると、前述のような外観の怪鳥がおり、崔が逃げると』、『姿を消した。崔が寺の僧侶に事情を尋ねると、ここにはそのような妖怪はいないが、数日前に死人を仮置きしたという。都に戻って寺の僧に尋ねると、それは新しい死体の気が変化して生まれた陰摩羅鬼とのことだった』とあり、本話はその全くの(捻りなしの)翻案であることが判る』(原文が「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の陶宗儀纂の「説郛」正篇巻第三十四の画像のこちらで読める)。『陰摩羅鬼の名の由来は、仏教で悟りを妨げる魔物の摩羅(魔羅)に「陰」「鬼」の字をつけることで鬼・魔物の意味を強調したもの、もしくは障害を意味する「陰摩」と「羅刹鬼」』(もとは破壊と滅亡を司る神であったが、仏教に取り入れられ、四天王の一人多聞天(毘沙門天)に夜叉とともに仕える護法善神となった)『の混合されたものとの説がある』とある。]

ケムール人の挑戦

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太平百物語卷五 四十一 力士の精盗人を追ひ退けし事

 

   ○四十一 力士の精(せい)盗人を追ひ退けし事

 因幡の國に、作㙒屋(さくのや)の何某(なにがし)とて冨(とめ)る人あり。

 或夜の事なりし。

 盗人(ぬすびと)、五人、押入(おしいり)て、家内(かない)の者を悉く引き縛り、亭主壱人を扶(たす)け[やぶちゃん注:縛り上げず。]、藏の内の案内をさせける。

 亭主、力なく、土藏に伴ひければ、銀箱(かねばこ)を五つ取り出だし、五人の盗人、壱つ宛(づゝ)、かたげ[やぶちゃん注:肩に担(かつ)いで。]出でんとせし時、俄に、藏の中(うち)、鳴動して、一人の力士、顯れいで、盗人等が前に立塞(たちふさが)りければ、五人の者ども、是をみるに、頭(かしら)は赤熊(しやぐま)にして、眼(まなこ)は金(こがね)のごとく光りて、其有樣、世に冷(すさま)じかりければ、盗人共は肝を消し、彼(かの)銀箱(かねばこ)を打捨(うちすて)、一さんに迯歸(にげかへ)りければ、藏の中(うち)も程なく靜(しづま)り、彼(かの)力士も見へざりけり[やぶちゃん注:ママ。]。亭主此体(てい)をみて、限りなくよろこび、頓(やが)て家内の者のいましめを解(とき)て、「しかじか」のよしを語りければ、亭主の老母、橫手(よこで)を打(うち)、

「それこそ。此家に先祖より持傳(もちつた)へし、力士の精魂ならめ。それならば、土藏の二階に有(ある)べし。心見(こゝろみ)に取出(とりいだ)し見玉へ。」

といふ程に、頓(やが)て取いだしみるに、此木像、汗をながして坐(おは)しけるが、兩足(りやうそく)をみれば、土も付(つき)てありし程に、

「扨は。此奇瑞に疑ひなし。」

とて、夫(それ)より厨子を結構し、此力士を納め、永く祝ひ尊(たうと)みけるとかや。

[やぶちゃん注:以下は原典ではベタのやや字が小さく、本文で二字分下げで、改行せずに一行で記されてある。]

 或る人の曰(いはく)、

「此力士は『鳥佛師(とりぶつし)』の作にて、其後も、奇瑞、ありける。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「赤熊(しやぐま)」兜の縅(おどし)や、能・歌舞伎で用いられる、赤く染めたヤク(ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク。野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniens。自然分布はインド北西部・中国西部(甘粛省・チベット自治区)・パキスタン北東部で本邦には棲息しないが、本邦ではヤクの尾毛が兜や槍につける装飾品や能や歌舞伎の装具として、古くから、特に武士階級に愛好され、江戸時代の鎖国下でも清を経由して定期的な輸入が行われていた。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう)(ヤク)」を参照されたい)の尾の毛、或いは、それに似た赤い髪の毛の飾り鬘(かつら)。

「橫手(よこで)を打(う)」つ、とは、思わず、両手を打ち合わせることで、意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた!」と思い当たったりしたときなどにする動作を指す。室町末期以降の近世語。

「鳥佛師(とりぶつし)」「鞍作止利・鞍作鳥(くらつくりのとり)」或いは「止利(とり)仏師」と呼ばれた飛鳥時代の代表的仏師の名。「日本書紀」によると、渡来人の司馬達等(しばたつと/しめだち)の孫で、坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈(くらべのたすな)の子。法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像(推古天皇三一(六二三)年)の作者として光背の銘文に名をとどめる。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事し、推古一四(六〇六)年には元興寺金堂の丈六像を造り、その功として大仁位に叙せられて水田二十町歩(ちょうぶ)(約二十ヘクタール)を賜ったといわれる。中国北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風を持ち、板耳・杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(もかけざ)などに特色を持つ。このような様式の仏像を「止利様(とりよう)」と称する(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2019/05/23

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(23) 「甲斐ノ黑駒」(1)

 

《原文》

甲斐ノ黑駒 駿府ノ猿屋ガ祕傳ノ卷物、サテハ江州小野庄ノ馬醫佐藤家ノ由緖書ノ外ニモ、聖德太子ヲ以テ馬ノ保護者トスル傳說ハ弘ク行ハレタリシガ如シ。古クハ天平神護元年ノ五月、播磨賀古郡ノ人馬養造人上(ウマカヒノミヤツコヒトガミ)ノ款狀ニ、此者ハ吉備都彥ノ苗裔、上道臣息長借鎌(カミツミチノオミオキナガノカリカマ)ノ後ナルニ、其六世ノ孫牟射志(ムサシ)ナル者、能ク馬ヲ養フヲ以テ上宮太子之ヲ馬司ニ任ジタマヒ、此ガ爲ニ庚午ノ戶籍ニハ誤リテ馬養造(ウマカヒノミヤツコ)ニ編セラルト稱セリ〔續日本紀〕。此君馬ヲ愛シタマフト云フコトハ久シキ世ヨリノ傳說ニシテ、難波ノ四天王寺ニ甲斐黑駒ノ影像ヲ安置シ〔台記久安二年九月十四日條〕、或ハ此馬ノ太子ノ御柩ニ殉ジタル物語ヲ傳ヘ〔元亨釋書〕、或ハ又秦川勝ガ黑駒ノ口ヲ取リテ太子ノ巡國ニ隨ヒマツリシ由ヲ言ヘリ〔花鳥餘情〕。而シテ猿屋ノ徒モ亦自ラ秦氏ノ末ナリト稱スルナリ。近世ニ及ビテモ大和ノ橘寺若狹ノ馬居寺、安房ノ檀特山小松寺等、太子ト黑駒トノ關係ヲ語リ傳フル例甚ダ多シ。【太子講】東國ニテハ武藏甲斐ノ間ニハ太子講ト稱スル月祭アリ。常陸北部ニテハ太子塚ト刻セシ石塔到ル處ノ路傍ニ在リ。此モ亦馬ノ斃レシ跡ナドニ造立スルコト、馬頭觀音勢至菩薩ノ立石或ハ駒形權現ノ祠ナドト其趣ヲ一ニセリ。陸中岩谷堂(イハヤダウ)町ノ太子ノ宮ノ如キモ、亦馬ノ祈願ノ爲ニ勸請セシモノナルべシ。【達磨大士】或ハ鎭守府將軍秀衡ガ奈良ノ都ノ俤ヲ移セシトモ傳ヘラレ、其地ヲ片岡ト稱シ岡ノ片岨ニハ太子ノ宮ト竝ビテ又達磨尊者ノ社アリキ〔眞澄遊覽記十〕。後世ノ俗說ニテハ達磨ニ御脚ガアルモノカナド云フニ、時トシテ馬ノ神ニ祀ラルヽハ珍シキ事ナリ。猿牽ノ仲間ニ在リテモ家藝ノ祖神トシテ達磨ヲ祀レリ。彼等ハ或ハ太子ノ調馬術モ亦片岡ノ飢人ヨリ學ビ得タマヒシ如ク說クナランモ、ソハ信ズべカラザル後世ノ附會ニシテ、其梶原ハ單ニ古代ノ駿馬傳說ガ聖德太子ト云フ日本ノ理想的人物ト因緣ヲ有セシ結果ニ他ナラザルべシ。最モ古キ記述ニ依レバ、太子ノ愛馬ハ四脚雪ノ如ク白ク極メテ美シキ黑駒ナリキ。推古女帝ノ第六年ノ始ニ、諸國ヨリ獻上セシ數百頭ノ中ニ於テ、太子ハ能ク此黑駒ノ駿足ナルコトヲ見現ハシタマフ。【黑駒巡國】同ジ年ノ秋太子ハ黑駒ニ召シ、白雲ヲ躡ミテ富士山ノ頂ニ騰リ、ソレヨリ信濃三越路ヲ巡リテ三日ニシテ大和ニ歸ラセタマフ〔扶桑略記〕。甲斐ノ黑駒ハ此馬ノ名ニハ非ザリシモ、黑駒ハ夙クヨリ甲州ノ名產ニシテ、且ツ駿逸ノ譽高カリシモノナリ〔日本書紀雄略天皇十三年九月條〕。【祥瑞】加之此毛色ノ馬ハ特ニ朝廷ニ於テ祥瑞トシテ迎ヘラルべキ仔細アリキ。例ヘバ聖武天皇ノ天平十年ニ信濃國ヨリ貢セシ神馬ノ如キハ、甲斐ノ黑駒ニヨク似テ更ニ髮ト尾白カリキ。其翌年ノ三月ニ對馬ノ島ヨリ獻上セシハ、靑身ニシテ尾髮白シト見ユ〔續日本紀〕。此等ハ何レモ聖人政ヲ爲シ資服制アルノ御世ニ非ザレバ、現ハレ來ラザル馬ニテ、始ヨリ凡人ノ乘用ニ供スべキ物ニハ非ザリシナリ。故ニ世治マリ天下平カニシテ之ヲ大内ノ庭ニ曳クコトヲ得レバ好シ。【神馬】然ラザルモノハ諸國ニ留マリテ永ク神遊幸ノ乘具ニ供セラレシナルべク、後世池月磨墨ノ二名馬ニ由リテ代表セラレシ二種ノ純色ハ、即チ馬ノ最モ神聖ナルモノト認メラレシ物ナルべシ。尤モ古史ニ見エタル神馬ト云フ漢語ハ、單ニ極端ニ結構ナル馬ト云フ意味ニ用ヰシモノカモ知レザレドモ、邊土ノ人々ニ至リテハ終ニ之ヲ以テ神ノ馬又ハ馬ノ神ト解シ、或ハ木曾ノ駒ケ嶽ニ於テ馬蹄ヲ印セシカトオボシキ土砂ヲ取還リ、或ハ樹ノ枝ナドニ懸リタル馬ノ尾ノ如キ一物ヲ持チ來リテ、厩ノ守護用トスル迄ニハナリタルナリ。

 

《訓読》

甲斐の黑駒 駿府の猿屋が祕傳の卷物、さては、江州小野庄の馬醫佐藤家の由緖書の外にも、聖德太子を以つて、馬の保護者とする傳說は、弘く行はれたりしがごとし。古くは、天平神護元年[やぶちゃん注:七六五年。]の五月、播磨賀古(かこ)郡の人、馬養造人上(うまかひのみやつこひとがみ)の款狀(かんじやう)に、『此の者は、吉備都彥(きびつひこ)の苗裔(びやうえい)、上道臣息長借鎌(かみつみちのおみおきながのかりかま)の後なるに、其の六世の孫(そん)、牟射志(むさし)なる者、能く馬を養ふを以つて、上宮太子(じやうぐうたいし)[やぶちゃん注:聖徳太子の異称。]、之れを馬司(むまのつかさ)に任じたまひ、此れが爲めに、庚午(こうご)の戶籍には、誤りて、「馬養造(うまかひのみやつこ)」に編せらる』と稱せり〔「續日本紀」〕。此の君(きみ)、馬を愛したまふと云ふことは、久しき世よりの傳說にして、難波(なには)の四天王寺に、甲斐黑駒の影像(やうざう)を安置し〔「台記(たいき)」久安二年[やぶちゃん注:一一四六年。]九月十四日の條〕、或いは、此の馬の、太子の御柩(おんひつぎ)に殉じたる物語を傳へ〔「元亨釋書」〕、或いは又、秦川勝(はたのかはかつ)が、黑駒の口を取りて、太子の巡國に隨ひまつりし由を言へり〔「花鳥餘情」〕。而して、猿屋の徒も亦、自ら、秦氏の末なりと稱するなり。近世に及びても、大和の橘寺(たちばなでら)、若狹の馬居寺(まごじ)、安房の檀特山小松寺(だんとくざんこまつじ)等、太子と黑駒との關係を語り傳ふる例、甚だ多し。【太子講】東國にては武藏・甲斐の間には、「太子講」と稱する月祭(つきまつり)あり。常陸北部にては、「太子塚」と刻せし石塔、到る處の路傍に在り。此れも亦、馬の斃(たふ)れし跡などに造立すること、馬頭觀音・勢至菩薩の立石(りつせき)或いは駒形權現の祠(ほこら)などと、其の趣を一(いつ)にせり。陸中岩谷堂(いはやだう)町の「太子の宮」のごときも、亦、馬の祈願の爲めに勸請せしものなるべし。【達磨大士】或いは、鎭守府將軍秀衡(ひでひら)が奈良の都の俤(おもかげ)を移せしとも傳へられ、其の地を「片岡」と稱し、岡の片岨(かたそは)には、「太子の宮」と竝びて、又、「達磨(だるま)尊者の社(やしろ)」ありき〔「眞澄遊覽記」十〕。後世の俗說にては、達磨に御脚(おんあし)があるものか、など云ふに、時として、「馬の神」に祀らるゝは、珍しき事なり。猿牽(さるひき)の仲間に在りても、家藝の祖神として達磨を祀れり。彼等は、或いは、太子の調馬術も亦、「片岡の飢人(きじん)」より學び得たまひしごとく說くならんも、そは、信ずべからざる後世の附會にして、其の梶原は、單に古代の駿馬傳說が聖德太子と云ふ日本の理想的人物と因緣を有せし結果に他ならざるべし。最も古き記述に依れば、太子の愛馬は、四脚、雪のごとく白く、極めて美しき黑駒なりき。推古女帝の第六年[やぶちゃん注:五九六年。]の始めに、諸國より獻上せし數百頭の中に於いて、太子は、能く此の黑駒の駿足なることを、見現はしたまふ。【黑駒巡國】同じ年の秋、太子は黑駒に召し、白雲を躡(ふ)みて、富士山の頂(いただき)に騰(のぼ)り、それより、信濃三越路を巡りて、三日にして大和に歸らせたまふ〔「扶桑略記」〕。甲斐の黑駒は、此の馬の名には非ざりしも、黑駒は夙(と)くより、甲州の名產にして、且つ、駿逸の譽(ほまれ)高かりしものなり〔「日本書紀」雄略天皇十三年[やぶちゃん注:四六九年。]九月の條〕。【祥瑞(しやうずい)】加之(しかのみならず)、此の毛色の馬は、特に朝廷に於いて祥瑞として迎へらるべき仔細ありき。例へば、聖武天皇の天平十年[やぶちゃん注:七三八年。]に、信濃國より貢(こう)せし神馬のごときは、甲斐の黑駒によく似て、更に、髮と尾、白かりき。其翌年の三月に對馬の島より獻上せしは、靑身にして、尾・髮、白しと見ゆ〔「續日本紀」〕。此等は何れも、聖人、政(まつりごと)を爲し、資・服・制あるの御世に非ざれば、現はれ來たらざる馬にて、始めより、凡人の乘用に供すべき物には非ざりしなり。故に、世、治まり、天下、平らかにして、之れを大内(おほうち)の庭に曳くことを得れば、好し、【神馬】然らざるものは、諸國に留まりて、永く、神、遊幸(ゆうこう)の乘具に供せられしなるべく、後世、池月・磨墨の二名馬に由りて代表せられし二種の純色は、即ち、馬の最も神聖なるものと認められし物なるべし。尤も、古史に見えたる「神馬」と云ふ漢語は、單に「極端に結構なる馬」と云ふ意味に用ゐしものかも知れざれども、邊土の人々に至りては、終(つひ)に之れを以つて「神の馬」又は「馬の神」と解し、或いは、木曾の駒ケ嶽に於いて、馬蹄を印(しる)せしかとおぼしき土砂を取り還り、或いは、樹の枝などに懸りたる馬の尾のごとき一物を持ち來たりて、厩の守護用とするまでにはなりたるなり。

[やぶちゃん注:「江州小野庄の馬醫佐藤家の由緖書」前段に登場(但し、私は不詳)。

「播磨賀古(かこ)郡」旧兵庫県加古郡。「風土記」では「賀古郡」と書かれてある。旧郡域には現在の加古郡(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。稲美町(いなみちょう)と播磨町のみ)の他に、その周縁の、加古川市の一部・高砂市の一部・明石市の一部が含まれる。

「馬養造人上(うまかひのみやつこひとがみ)」(生没年不詳)八世紀中頃の地方豪族。播磨国賀古郡の人で。天平神護元(七六五)年五月に外従七位下。その先祖は、ここに出る通り、第七代天皇孝霊天皇の皇子とされる吉備都彦の後裔、上道臣の一族息長借鎌(それは仁徳天皇(三一三年~三九九年)の頃で、一族は印南野(いなみの:現在の兵庫県南部の明石川と加古川及びその支流美嚢(みの)川に囲まれた三角状台地)に住んだらしい)で、その六世の孫の時、聖徳太子(敏達天皇三(五七四)年~推古天皇三〇(六二二)年)から馬司に任じられたため、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(天智九庚午(かのえうま)年(六七〇年)に作成された戸籍簿。古代に於いては一般の戸籍は六年ごとに作成され、三十年を経ると、廃棄される規定であったが、この「庚午年籍」は永久保存とされた。姓氏を正す原簿として重んじられた。戸籍が制度化されたの大化改新以来では整ったものとして最も古い戸籍で、各階層に、ほぼ全国に棉って施行されたものである)で誤って「馬養造」とされた。「印南野臣(いなみのおみ)」への氏姓変更を願い出て、許されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」と「ブリタニカ国際大百科事典」その他を綜合した)。

「款狀(かんじやう)」古代から中世にかけての古文書様式の一つ。古くは「申文(もうしぶみ)」と呼び、鎌倉時代頃から「款状」と言うようになった。「款」は「偽りなく誠を尽くす」の意。官人や僧侶などが、位階や官職の叙任・昇進を望むために自己の経歴・功績或いは祖先のことを書いた自薦文書。他に訴訟の趣旨を記した嘆願書をも、かく呼ぶ。

「續日本紀」天平神護元(七六五)年五月庚戌二十日の条に以下のように出る。

   *

庚戌。播磨守從四位上日下部宿禰子麻呂等言。部下賀古郡人外從七位下馬養造人上款云。人上先祖吉備都彥之苗裔。上道臣息長借鎌。於難波高津朝庭。家居播磨國賀古郡印南野焉。其六世之孫牟射志。以能養馬、仕上宮太子、被任馬司。因斯。庚午年造籍之日。誤編馬養造。伏願。取居地之名。賜印南野臣之姓。國司覆審。所申有實。許之。

   *

「秦川勝(はたのかはかつ)」(生没年不詳)六世紀末から七世紀前半にかけて活躍した厩戸皇子(聖徳太子)の側近。山背国葛野(現在の京都市)の人。葛野秦造河勝・川勝秦公とも書く。山背国の深草地域(京都市伏見区)及び葛野地域に居住する秦氏の族長的地位(太秦)にあり,その軍事力や経済力を背景に、早くから厩戸皇子の側近として活躍、「上宮聖徳太子伝補闕記」は、用明二(五八七)年の物部守屋の追討戦に「軍政人」として従軍、厩戸皇子を守護して、守屋の首を斬るなどの活躍を伝え、秦氏の軍事力が上宮王家の私兵として用いられたことが知られる。推古一八(六一〇)年には、来日した新羅・任那使人らの導者となった。また、秦氏の氏寺として蜂岡寺(京都市右京区太秦蜂岡町の広隆寺)を造営するが、推古三十年に於ける聖徳太子の病気回復(或いは追善供養)を契機として、推古十一年に太子から授かった仏像を安置するために建立したものと伝えられる。現存する伽藍は平安末期以降の再建だが、太子が河勝に授けた朝鮮伝来と伝えられる半跏思惟像(国宝)は有名。皇極三(六四四)年には、不尽(富士)川辺で大生部多(おおふべのおお)が常世神と称して虫を祭り、都鄙の人が、こぞってこれを信仰すると、民の惑わされるを憎んで、大生部多を打ち懲らしたという。これは神仙的な当時の民間信仰や、蘇我氏との関係で微妙な秦氏の政治的立場を議論する史料となっている。物部守屋を討った功により大仁、のちには小徳に叙せられた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大和の橘寺(たちばなでら)」既出既注

「若狹の馬居寺(まごじ)」福井県高浜町にある真言宗本光山馬居寺(まごじ)。本尊馬頭観音。ウィキの「馬居寺」によれば、『もと西光寺と号し、中世には東寺の末寺であったことが古文書から知られるが創建の事情・時期等については不明である。本尊の馬頭観音像は平安時代末期』、十二『世紀にさかのぼる作と見られ、遅くともその頃には寺観が整っていたものと見られる』。『寺伝では推古天皇』二七(六一九)年、『聖徳太子の開創と言い』、延宝三(一六七五)年成立の「若州管内社寺由緒記」にも『聖徳太子の創建を伝えるが、伝承の域を出ない。縁起によれば、「あるとき』、『太子は摂政の御役目を帯びて御愛馬』「甲斐の黒駒」に『召され、当地方御巡行の道すがら、馬を下り海辺に歩を進めて、しばし御休息をとられた。ちょうどそのとき』、『彼方』の『山上に御愛馬のいななく』の『を聞かれた。それと刻を同じくして、時ならぬ一大光明がそのあたりに輝くのを見』給い、「ここそ自分が日頃から求めていた霊地である」『として、太子自ら』、『馬頭観世音菩薩像を御刻みになり、堂を建て、ここにその像を安置し』た、とある。

「安房の檀特山小松寺(だんとくざんこまつじ)」千葉県南房総市千倉町大貫にある真言宗檀特山小松寺。本尊薬師瑠璃光如来。公式サイトも見たが、聖徳太子や黒駒との関係は記されていないが?

「太子講」聖徳太子を讃仰する宗教講、又は、大工・左官などの建築関係の職人たちが、それぞれ同業者集団として結束を図るために、聖徳太子を守護神として行う職業講。浄土真宗では、親鸞が和国の教主と讃えた聖徳太子の奉賛が盛んで、存覚(正応三(一二九〇)年~応安六/文中二(一三七三)年:かの覚如の長男。父に従って各地に布教するが、父と義絶・和解を繰り返した)の定めた太子講式に則って行われた。また、聖徳太子が寺院建築史上、大きな存在であったところから、江戸時代には、職人、殊に大工・左官・鍛冶屋・屋根葺・桶屋などが「工匠の祖」として祭るようになり,忌日の二月二十二日に「太子講」を行った(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「勢至菩薩」仏菩薩を十二支に割り当てた際に「午(うま)」年の守り本尊とされる。

『陸中岩谷堂(いはやだう)町の「太子の宮」』岩手県奥州市江刺区岩谷堂はここだが、「太子の宮」というのは見当たらない。地区外東北直近に玉崎駒形神社というのを見出せ、複数の資料を確認したところ、牛馬を守る守護神ではあるが、聖徳太子とは関係がないので、違う。

『「太子の宮」と竝びて、又、「達磨(だるま)尊者の社(やしろ)」ありき』仏法の布教を志した聖徳太子にして、その愛馬「黒駒」は、それに感応した「達磨大師」が「化身」したものだとする伝承がある。また、以下に出る「飢人」伝説の本性を達磨大師とする伝承もある(後注参照)

「片岡」「片岡の飢人」ウィキの「片岡山伝説」によれば、『片岡山伝説』『または飢人伝説(きじんでんせつ)とは』、「日本書紀」推古天皇の条に『収載された飛鳥時代の説話。聖徳太子と飢人(飢えた人)が大和国葛城(現在の奈良県北葛城郡王寺町)の片岡山で遭遇する伝説で』、『古代における太子信仰のひとつのあり方を示す伝説として注目される』。「日本書紀」のそれは、推古天皇二一(六一三)年十二月『庚午朔、聖徳太子が片岡(片岡山)に遊行したとき、飢えた人が道に臥していたので、姓名を問うたが返事がなかった』。『太子はこれを見て飲食物を与え、また、自分の衣服を脱いでその人を覆い』、『「安らかに寝ていなさい」と語りかけ、次の歌を詠んだ』。

   *

斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屢 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮

(しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢ゑて臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ)

   *

『翌日、太子が使者を遣わして』、『その人を見に行かせたところ、使者は戻って飢者がすでに死んでいたことを告げた』。『太子は大いに悲しんで、飢人の遺体をその場所に埋葬して墓を固く封じさせた。数日後』、『太子は、近習の者を召して「過日』、『埋葬した人は普通の人ではない。きっと真人(ひじり)にちがいない」と語り、墓を見に行かせた』。『使いが戻って来て』、『「墓を動かした様子はありませんでしたが、棺を開いてみると』、『屍も骨もありませんでした。ただ』、『棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた』。『太子は』、『再び』、『使者を遣わして、自分がかつて与えたその衣服を持ち帰らせ、以前のように身に着けた。人々は大変』、『不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した』(中略)。『ここで注目されるのは、この説話における「聖人」(聖・真人)の概念の多面的・重層的な性格で』、『第一に「ひじり」はもともと日本古来の古代宗教(古い形態の神道)における霊的能力者を意味していたのであるが、そこに中国の「聖」の概念が重ねられ』ていること、『「聖人」はまた、儒教における絶対的な帝王であり、仁を身につけ礼の実践に努める「君子」よりさらに上の、最高の道徳的人格者である』こと、『さらに』、『「聖人」はまた』、『仏教にあっては絶対者であるブッダ、すなわち悟りをひらいた仏の姿にほかならない』という点である。『そのうえ、「凡人に非』ずして、『必ず真人ならむ」や「聖の聖を知る、それ実なるかな」などの記述にみられるように、道教における「真人」、すなわち道の奥義(宇宙の根源)を悟り、自由の境地を得て仙人となった理想的人間像が重ねられ』ている。『「真人」はまた』、『仏教にあっては仏陀である』。『さらに、墓をみたら』、『死体がなかったという逸話は、神仙思想における「尸解」にかかわりをもっている』(そうそう。道家思想に於ける完全なる存在は「真人」と言うのだ)。『いったん死んだ様態を呈して墓から抜けて昇天するのは、不老不死を得た仙人』則ち、『「尸解仙」なのであり、これまた道教に深いかかわりを有している』(但し、この登仙法は最もレベルの低いものである)。『要するに、以上述べたような多面的・重層的な聖人性こそが太子にふさわしいものと考えられ、どの宗派や教義の立場からしても太子が聖人であるということを説話は示しているのである』。また、『この説話に対して後世、実は、この飢人こそ、禅宗の始祖として知られる』達磨大師(?~五二八年)『その人であったという話が付加される』(以下太字は私が附した)。『これは一見、はるか後の禅宗の徒による牽強付会のようにもみえるが、実は奈良時代末に敬明によって編まれた』「上宮太子伝」に『注記として記されたものであり、同時にこれは、太子が隋の南嶽慧思』(えし 五一五年~五七七年:天台智顗の師で、天台宗二祖とされる)『の生まれ変わりであるという説と密接にからんでいる』。『南嶽慧思は天台宗を開いた天台智顗の師であり、天台宗では第二祖とされる高僧で、特異の禅定と法華信仰をもって知られるが、その慧思が日本の王家に生まれ変わって太子となったという説が奈良時代末期の文献にみられる』。『そして慧思に日本への生まれ変わりを勧めたのが』、『当時インドより中国にやって来た達磨であるとされる。とするならば、片岡山での邂逅はこの』二『人の再会であったという意味が付託される』のである。まあ、『太子が用明天皇の皇子として飛鳥の地に誕生した時点においては』、『慧思はまだ中国に生存していたのであるから、「生まれ変わり」』など『ありえないわけではあるが、この説をさかんに普及させたのは』、『唐からの渡来僧として著名な鑑真の弟子たち、すなわち』、『唐より鑑真に同行した思託らをはじめとする律宗教団の人びとであったと考えられる』。『そして、最澄以降、天台宗が日本に定着していく過程で、この説は大きな役割を果たしたと考えられる』。『また、小野妹子が』、『太子の命により遣隋使として煬帝のもとに派遣されたとき、太子の命で』、『太子が未だ慧思であった際に用いた』「法華経」を『受け取りに出かけたという説もこれに加わる』。この「片岡山飢人説話」は、九『世紀初頭に薬師寺の僧景戒によって編纂された仏教説話集』「日本霊異記」上巻にも確認でき、『当時から広く知られた説話であったことがうかがわれる』。『同書の説話の末尾には「誠に知る聖人は聖を知り、凡夫は知らず、凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆ」と付言され』、「日本書紀」『記述の説話以上に仏教色の強い内容となっている』。『ところで』「日本書紀」に『おいては、太子の仏教上の師である高句麗僧の慧慈が、太子の死をしきりに悼み、また「聖なる人」「大聖」と述べているが、さらに「三宝を恭み敬いて、黎元の厄を救う、是実の大聖なり」と述べたことを』も『記している』。『ここにおける「聖」とは、上述のとおり解脱して悟りを得た者(仏)を意味しており、単に能力・識見にすぐれた人物というだけで』は『なしに、平安時代には救世観音の化身であるという説も生じるなど、常人を越えた異能の人として崇敬されている』。『こうした諸説が成立する背景としては、太子が日本仏教の興隆に深くかかわったという歴史的事実を踏まえていることは言うまでもないが、一方ではすでに』、「日本書紀」に記された時点で、殊更に『異能の人として書き記されていることと無縁ではないと考』えられるのである。『聖徳太子の活躍は、古代日本が律令国家として発展していく第一歩を踏み出した時期であり、推古天皇の摂政兼皇太子として朝廷権力の中枢にあって諸改革を進めた時期に相当している』。しかし、「日本書紀」の『記述では、太子の政治活動は』、『推古朝の前半期に偏っており、必ずしも後半期には充分に及んでいない』。『これについて、米田雄介は、聖徳太子の後半期の政治的社会的地位が前半期に比較して相対的に低下しているのではなく、太子は蘇我氏に擁されながらも、一方では蘇我氏に屈服していないという立場と目され、反蘇我氏の諸勢力のなかからも蘇我氏を統制しうる象徴的な存在としておおいに期待され、それゆえに脱世俗的な存在として聖化されたものであろうと推定している』。『聖徳太子伝説の形成により、太子に対する崇拝・信仰は時代が下るとともにさかんになっていった。摂津国の四天王寺や河内国磯長(大阪府南河内郡太子町)の「太子廟」などは古くより数多の参詣者を集める一種の聖地である』。『太子信仰の実例については枚挙にいとまがないが、鎌倉時代、浄土真宗の開祖とされる親鸞が仏教者として初めて公然と妻帯することを決意したのも』、『聖徳太子からの夢告によるものと』するのは頓に知られている。

「聖人、政(まつりごと)を爲し、資・服・制ある」「資・服・制ある」はよく判らぬ。「資」は食物を始めとした、総ての人民を養う豊かな財物の豊富な貯えか。「服」は総ての民草がその政道に心からほっとし、得心して従うことか。「制」は秩序ある世界を維持する仁徳に則った法制度か。

「大内(おほうち)」宮中。]

ユウ・ピイ・ウレフスカヤの記念のために ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    ユウ・ピイ・ウレフスカヤの

    記念のために

 

 荒凉たる勃加利(ブルガリヤ)の村、急に野戰病院にされた傾きかゝつた小舍のあまり賴りにならぬ屋根の下、汚い濕つぽい惡い臭のする藁蒲團の上に、彼女は二週間の其上(そのうへ)も窒扶斯(チブス)で死んだまゝ橫たへられてゐた。

 彼女は人事不省であつた、それに一人の醫者も彼女を見舞はなかつた。彼女が自分の動くことの出來る間看護してやつた病兵達が、代る代るその臭氣を放つ病床から起き上つて、こはれた土瓶の破片(かけら)に入れて水の數滴を彼女の乾いた脣に注ぎ込んだ。

 彼女は若くて美しかつた。上流社會にもてはやされて、高位高官の人達すら心を寄せた。婦人達は彼女を嫉み、男子達はその機嫌を取つた……その中幾人かは心の底から彼女を愛してゐた。人生は彼女に微笑を見せた。然し世には淚よりも惡い微笑がある。

 素直(すなほ)な優しい心……しかもかばかりの力、かばかりの献身! 助けを要する者を助けること……彼女はその外に幸福を知らなかつた……それを知らなかつた、決してそれを知らなかつた。その外のあらゆる幸福は彼女の傍を通り過ぎた。然し彼女は疾(と)くに心を決して、消し去る事の出來ない信仰の熱に燃えて、隣人のために身を献げたのだ。

 いかなる不滅の寶が彼女の胸深く、その心の奧底に藏(かく)されてあつたか、誰一人知る人はなかつた。今ではもとより誰も知る人はないであらう。

 あゝ、然しそれが何であらう? 彼女の犠牲は献げられた……彼女の事業は

完うされた。

 然し彼女の遺骸(なきがら)にさへも誰一人感謝の言葉を俸げなかつたことを考へると傷(いたま)しい思ひがする、彼女自身はすべての感謝の言葉を恥ぢ斥けてはゐたけれども。

 彼女が在天の靈よ、希(こひねがは)くは此の時を失したる花をその墓の上に置く私の大膽を許せ!

    一八七八年九月

 

ウレフスカヤ、一八七七年―七八年の露土戰爭中の出來事。健氣な露西亞の少女に對する讚美である。この篇は「その前夜」のエレナを思出[やぶちゃん注:「おもひだ」。]させる。】

[やぶちゃん注:生田の注記は余りに簡略に過ぎる。以下に私の一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の注を含むを引く(「〔は〕」は私が脱字と断じて補ったもの)。

   *

『ヴレーフスカヤ夫人をしのんで』 原稿には單に『ユ・ぺ・ヴェをしのんで』とあつて、發表の際にも遠慮して名は伏せられた儘であった。すなはちこの一篇は、男爵夫人ユリヤ・ペトローヴナ・ヴレーフスカヤ(J. P. Vrevskaja, 1841―1878)の思出に捧げられたもの。早く夫と死別した夫人は、一八七七年の夏折柄の露土戰爭に慈善看護婦を志願して戰地におもむき、翌七八年舊一月の末、ブルガリヤで病死した。トゥルゲーネフ〔は〕夫人と親しく、彼の氣持は次の手紙からも明らかである。――「お眼にかかってからといふもの、あなたが心から親しいお友達と思へてなりません。それに貴女と御一緒に暮したい氣持が、拂つても拂つても消えないのです。とは申せわたしのこの願ひは、思ひきつて貴女のお手を求めるほどに抑制のないものではありませんでしたし(さう、わたしももう若くはないし――)、その他にも色々なことが妨げになりました。そのうへ貴女が、フランス人の言ふ une passade(出來心)に心を許される方ではないことも、私はよくよく承知してゐましたから。」(一八七七年二月七日附)二人が最後に會つたのは、その年の夏にトゥルゲーネフが歸國した時で、すでに夫人が慈善看護婦を志願した後であつた。ちなみにこの作の日附も、從來四月と誤讀されてゐた。

   *

後の中山省三郎氏註にも、『ツルゲーネフとは昵懇の間柄であつた。ツルゲーネフの郷里スパッスコエを訪れたり、互ひに文學を語つたりするほどであつた』とある。因みに、二人は、二十七歳違いで、この書簡の一八七七年当時で、ツルゲーネフは六十三、ヴレーフスカヤは三十六歳であった。な彼女の名前のロシア語表記は Юлия Петровна Вревская(ラテン文字転写:Yulia Petrovna Vrevskaya)で、カタカナ音写するなら、「ユリア・ペトローヴナ・ヴレフスカヤ であろう。グーグル画像検索「Юлия Петровна Вревскаяをリンクさせておく。

「その前夜」一八六〇年に発表されたツルゲーネフの長編小説(原題:Накануне Nakanune)。友人同士の二人の青年、彫刻家のシュービンと将来の大学教授ベルセーネフは、ともに金持ちの貴族令嬢エレーナ(Елена:Elena)を恋している。彼女も二人に好意をもっている。ある日、ベルセーネフがロシアの大学に学ぶブルガリア独立運動の志士である友人インサーロフを連れてくる。インサーロフを知るに及んで、エレーナは彼を自分の夫に選ぶ。日常的な家庭生活の幸福を捨て、敢えて茨の道を選んだのであった。ブルガリアへの帰国の途中、インサーロフはイタリアで病死するが、彼女は夫の遺志を継ぎ、亡夫の祖国に赴いて独立運動に身を投じる。エレーナは行動的・情熱的な、来たるべき時代のロシア女性の理想像として描かれている。題名は農奴解放(一八六一年)の「前夜」の意である(ここは主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼫鼠(りす) (リス類)

Risu

 

 

りす  碩鼠 䶂鼠

    雀鼠 ※鼠

鼫鼠

    【此云栗鼠

    稱利須唐音】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「峻」-「山」)。]

 

本綱鼫鼠似鼠而大也居土穴樹孔中頭似兎尾有毛靑

黃色善鳴能人立交前兩足而舞好食栗豆與鼢鼠俱爲

田害鼢小居田而鼫大居山也又專食山豆根取其毛作

△按鼫鼠形色行勢乃此云栗鼠也【時珍以栗鼠爲鼦別名者不審】其狀

 色似鼠而大於鼠色淺於鼠尾粗大而長山中古樹穴

 在之毎好食栗柹葡萄之諸果性怕寒身輕如飛日温

 而腹滿則踞立于石上樹梢自被尾蔽身人畜於樊中

 齒勁如鐵故不用䥫綱則齒破脫去

 

 

りす  碩鼠〔(せきそ)〕 䶂鼠〔(しやくそ)〕

    雀鼠 ※鼠〔(しゆんそ)〕

鼫鼠

    【此れ、「栗鼠」と云ふ。

    「利須」と稱す〔は〕唐音〔なり〕。】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「峻」-「山」)。]

 

「本綱」、鼫鼠は鼠に似て、大なり。土〔の〕穴・樹の孔の中に居り。頭、兎に似て、尾に、毛、有り。靑黃色。善く鳴き、能く人のごとく立つ。〔→ちて、〕前の兩足を交へて舞ふ。好んで栗・豆を食ふ。鼢鼠(うころもち)と俱に田〔の〕害を爲す。鼢〔(うころもち)〕は小にして田に居り、鼫〔(りす)〕は大にして、山に居〔(を)〕るなり。又、專ら、山豆根〔(さんづこん)〕を食ふ。其の毛を取りて筆に作る。

△按ずるに、鼫鼠、形・色・行勢(ありさま)、乃〔(すなは)ち〕、此れ、云〔ふところの〕栗鼠なり【時珍は「栗鼠」を以つて「鼦〔(てん)〕」の別名と爲すは、不審〔なり〕。】。其の狀〔(かたち)〕・色、鼠に似て、鼠より大きく、色、鼠より淺し。尾、粗大にして長し。山中〔の〕古樹の穴に、之れ、在り。毎〔(つね)〕に好んんで栗・柹〔(かき)〕・葡萄の諸果を食ふ。性、寒を怕〔(おそ)〕る。身輕にして飛ぶがごとく、日〔(ひ)〕、温かにして、腹、滿つれば、則ち、石の上・樹の梢に踞-立(つくば)ふ。自〔(みづか)〕ら、尾を被(ひら)き、身を蔽ふ。人、樊〔(かご)の〕中に畜〔(か)〕ふ。齒、勁〔(つよ)く〕して、鐵のごとし。故〔に〕䥫綱〔(てつかう)〕[やぶちゃん注:鉄製の籠の意。「䥫」は「鐡」の古字。]を用ひざれば、則ち、齒〔にて〕破(やぶ)りて脫け去る。

[やぶちゃん注:齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科 Sciuridae のリス類。世界には五亜科五十八属二百八十五種が棲息する。樹上で暮らすリス類の他、地上で暮らすマーモット(リス科 Xerinae 亜科 Marmotini 族リス亜目リス科マーモット属 Marmota:主に山岳性であるが、平地に棲む種もいる。中国にはいるが、本邦には棲息しない)・プレーリードッグ(Marmotini 族プレーリードッグ属 Cynomys:北米原産)・シマリス(Marmotini 族シマリス属 Tamias:本邦にはシベリアシマリス Tamias sibiricus・エゾシマリス Tamias sibiricus lineatus が北海道に分布する)・イワリス(Marmotini 族イワリス属イワリス Sciurotamias davidianus:中国西部及び北部に棲息するが、本邦には分布しない)・ジリス(Marmotini 族の広汎な種群を指す)や、滑空能力のあるモモンガ(リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga)・ムササビ(リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista)もリスの仲間である「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」を参照。良安は「本草綱目」を形の上で踏襲してしまい、鳥類に分類する誤りを犯している)。リス類は、ほぼ全世界に分布する(但し、オーストラリア・南極大陸・ポリネシア・マダガスカル・南アメリカ南部、及び、一部の砂漠(サハラ・エジプト・アラビア)地帯は除く。ここまではウィキの「リス」及び、そのリンク先を多用してオリジナルに示した)。平凡社「百科事典マイペディア」他によれば、本邦には自然分布では、

リス科 Sciurinae 亜科 Sciurini 族リス属亜属ニホンリス Sciurus lis(別名ホンドリス)

リス属キタリス亜種エゾリス Sciurus vulgaris orientis

エゾシマリス(学名既出)

ムササビ(同前)

ニホンモモンガ(同前)

モモンガ属タイリクモモンガ亜種エゾモモンガ Pteromys volans orii

の六種が棲息する。最も見かけることの多いニホンリスは、体長十八~二十二センチメートル、尾長十五~十七センチメートル。冬毛は背面灰褐色で、耳の端毛は長い。夏毛は赤褐色で、四肢や体側は赤みが強い。北海道を除く日本各地に分布していたが、近年、九州では確認されていない。平地から亜高山の森林の樹上に棲み、朝夕に活動する。松類の種子・どんぐり・栗などを食べ、秋にはこれらを穴に貯えるが、冬眠はしない。一腹で二~六子を産む、とある。因みに、私の家の周辺に棲んでいて、今年は先代の子がやってきて、妻が庭の金柑を総て食われることを許容してしまった、

リス科ハイガシラリス属クリハラリス亜種タイワンリス Callosciurus erythraeus thaiwanensis

は台湾固有亜種で、ウィキの「タイワンリス」によれば、元来は『台湾に分布しており、日本では』、昭和一〇(一九三五)年に『伊豆大島の公園から逃げ出したのを皮切りに』(大島は現在、日本で最も個体数が多い地域と推定されている)、『神奈川県南東部、静岡県東伊豆町(熱川)・浜松市(浜松城)、岐阜県岐阜市(金華山)、大阪府大阪市(大阪城)、和歌山県和歌山市(友ヶ島・和歌山城)、長崎県、熊本県など』、『日本各地に観光用として放されたり、逃げ出したりして広く定着している』。『神奈川県の江ノ島では』昭和二六(一九五一)年に『伊豆大島から連れてきた』五十四『匹のタイワンリスを江ノ島植物園で飼育した。しかし、台風で飼育小屋が壊れたことで逃げ出し、弁天橋を渡って』、『鎌倉市内に入り込』み、『繁殖するようになったと言われている。また、鎌倉市内の個体については、別荘地で飼われていた個体が逃げ出し野生化したとする説もある』。一九八〇『年代になり、個体数が増えて分布が拡大したことで』、『在来種であるニホンリスと競合し、ニホンリスの地域的な絶滅要因になる可能性が懸念されている』。『コゲラやシジュウカラといった小鳥の巣がある樹洞の入り口をかじって広げ、中にいる雛や卵を食べる被害も報告されて』おり、『餌の少ない冬場などは』、『人家近くに現れることも多い。主に木の実を食べる。ツバキの蕾や収穫前の果実を食べることや、樹木の樹皮をはがして食べることがあり、食害が問題になっている地域もある。また地域によっては、電線や電話線をかじる、雨戸などの家屋をかじるといった被害も出ている』。『神奈川県鎌倉市では、民家の天井裏などに住み着き、庭の果樹をかじる、物干し竿を伝い歩きすることによって洗濯物を汚す、電線や電話線をかじるなどの被害が出ている』。『鎌倉市では』、一九九九『年からタイワンリスに対する餌付けを禁止し、捕獲作業を行っている。捕獲を開始してからは、年々捕獲数、被害相談件数ともに減少している』。『長崎県壱岐市や五島市(鬼岳山麓)では、植林したスギやヒノキの樹皮を食害したり、農園の果樹や農作物を食害したりする被害がでている。そのため、かご罠や捕獲檻などを使った駆除が行われている』。『伊豆大島では、島内で敷設されている送電線を、タイワンリスが渡ったりかじったりすることによる停電被害の未然防止のために、特別な皮膜で覆われたものに交換した』とある。二〇〇五年には遂に「外来生物法」による特定外来生物に指定されてしまったので、餌付けしたり、飼育することは全国的に禁じられている。『しかし、岐阜県岐阜市の金華山にはタイワンリスと遊べる「金華山リス村」が所在するほか、静岡県浜松市の四ツ池公園でも放し飼いにされているように、タイワンリスを観光的に利用しようという例はなおも存在している』とある。今年の私の家(うち)の金柑を偸みとって食う(ちょっと齧って全部は食わぬ贅沢な子じゃて)タイワンリスの「かんちゃん」(妻の命名)の写真(妻撮る)はこちら。好き好んで来日したのではない彼らを秘かに哀れと私は思うている。なお、世界的には都会でヒトを襲う凶暴な個体もなくはないようだが、人獣感染症の報告は未だ、ない。

「鼢鼠(うころもち)と俱に田〔の〕害を爲す」中国語の「田」は「田畑」を指すから、栽培穀物や栽培果樹を害するととるなら、強ち誤りではないが、リスとモグラ(モグラも畑地下にトンネルを作って「荒す」とは言えるものの、稲や根菜類を食性としないから実際には冤罪部分が甚だ大きい。民俗社会でモグラを害獣扱いしている誤りについては、既に「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼢(うころもち)・鼧鼥(モグラ・シベリアマーモット)で注した)を併置して田畑の害獣とするのは生物学的に誤りである。

「山豆根〔(さんづこん)〕」これは「本草綱目」の記載なので、マメ目マメ科クララ(エンジュ)連クララ属クララ Sophora flavescens であろう。本邦にも植生する。漢名「苦参」。和名は「眩草(くららぐさ)」で、根を噛むと、クラクラするほど苦いことに由来するという。ウィキの「クララ」によれば、『全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強い』。『アルカロイド』(alkaloid:窒素原子を含み、ほとんどの場合で塩基性を示す天然由来の有機化合物の総称)『のマトリン』(Matrine)『が後述の薬効の元であるが、薬理作用が激しく、量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては呼吸困難で死に至る。素人が安易に手を出すのは非常に危険である』。『根は、苦参(くじん)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があり、苦参湯(くじんとう)、当帰貝母苦参丸料(とうきばいもくじんがんりょう)などの漢方方剤に配合される。また、全草の煎汁は、農作物の害虫駆除薬や牛馬など家畜の皮膚寄生虫駆除薬に用いられる』。『なお、延喜式には苦参を紙の原料としたことが記されているが、苦参紙と呼ばれる和紙が発見された例が存在せず、実態は不明である』が、二〇一〇年の『宮内庁正倉院事務所の調査で「続々修正倉院古文書第五帙第四巻」の』一『枚目は和紙、手触りや色合いが』、『延喜式での工程や繊維の特徴を持ち』、二『枚目は苦参の可能性が高いと判断した』とある。但し、平凡社「世界大百科事典」によれば、本邦では全くの別種であるマメ目マメ科ミヤマトベラ(深山扉木)Euchresta japonica を「山豆根」と称し、特に前者の毒性が強いことから、注意が必要である。こちらは本州(茨城県以西)・四国・九州、及び、中国大陸に分布する(最近までは日本固有種とされていた)。本邦の漢方では、根を乾燥して「山豆根(さんずこん)」の名称で、口腔・咽喉の病気に用いていた、とある。

「其の毛を取りて筆に作る」洋画の絵筆の販売サイトの解説によれば、リスの毛は水彩筆に適した最高級の原毛で絵具の含みが優れているとし、リス毛は繊細で柔らかく、筆運びからして滑らかで、非常に多くの毛量をまとめた穂先は、絵具の含みが良く、長い線描も可能で、途中でパレットの絵具を含ませる必要がないとあり、この種の筆のもう一つの特徴は穂先が自然に揃うことである、とある。毛筆用にも使用されるようだが(昔の同僚の書道の先生は鼠の毛の筆も持っていた)、別のサイトでは現在ではリス毛は、主に最高級の化粧ブラシに用られるらしい。フェイス用など比較的大きな穂先をボリュームたっぷりに使うことで、特別な肌触りを示すと書かれてあった。何となく、梶井基次郎の「愛撫」の中の(リンク先は私の古い電子テクスト)、夢のシークエンスで、女が使う『猫の手の化粧道具』を思い出して、胸糞が悪くなってきた。

「鼦〔(てん)〕」次の独立項が「貂」で、そこでも良安はこれを問題にしている。]

太平百物語卷五 四十 讃岐の國騎馬の化物の事

 

   ○四十 讃岐の國騎馬の化物の事

 或る僧、さぬきの國丸龜より、三井(みゐ)といふ所へ行(ゆく)とて、「千代池(ちよいけ)の堤(つゝみ)」といふを夜中(やちう[やぶちゃん注:ママ。])に通りけるが、むかふの方(かた)より、騎馬の、おほく、いなゝき來(きた)る体(てい)の聞へければ、此僧、心に、

『あやしや、夜(よ)いたく更(ふけ)て、何方(いづかた)へ行(ゆく)人々にて有(あり)けるぞ。』

と思ひながら、靜(しづか)に進み行けるに、蹄(ひづめ)の音、次第次第に近くなりて、今は其間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])十間(けん)[やぶちゃん注:約十八メートル。]斗(ばかり)にもなるらん、とおもふ折節、向ふの方(かた)を、

「きつ。」

と見るに、音斗(ばかり)はなはだしくて、其あや[やぶちゃん注:ここは単に姿・形・シルエットの意。]、少(すこし)も、見へず[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。

『こは、ふしぎ。』

と、おもひながら、堤の上にかゝれば、かの騎馬、行過(ゆきすぎ)て、跡に、聞ゆ。

 此僧、いよいよあやしみ、思ふ樣、

『此堤より外(ほか)に行べき道、なし。あら、不審(いぶか)さよ。』

と、立留(たちとゞまり)て、能(よく)々きけば、堤の下(した)に、ありありと聞ゆ。

『さらば、行て見定めん。』

と、堤を下(くだ)りて見れ共、更に、見へず。

 しばらくして、又、上の堤に聞ゆ。

『扨は。』

と、上にあがりてきけば、いなゝく聲、下に、あり。

 下(した)へ、行けば、上に、音す。

 此僧、ふかく怪しみながら、今は、はや、すべきやうなく、志ざす方(かた)に行(ゆけ)ば、又、むかふの方(かた)に聞ゆ。

 追付(おつつき)てきけば、後(しりへ)に、あり。

 此僧、あきれて、四方(しほう)を見廻しければ、夜(よ)はゝや、東より白みて、ほのぼのと明渡(あけわた)りぬ。

 此僧、大きに仰天し、それより、三井にぞ、急がれける。

 後(のち)、能々きけば、古狐の、夜もすがら、徃來(ゆきゝ)の人を、かく、たぶらかしけるにてぞ有ける。

[やぶちゃん注:『さぬきの國丸龜より、三井といふ所へ行くとて、「千代池(ちよいけ)の堤(つゝみ)」といふを夜中に通りける』「千代池」は現在の香川県仲多度郡多度津町葛原に実在する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。丸亀城下(丸亀市内)はここの東北で直線でも三キロ半ほどしか離れていない。問題は「三井」で、このような地名を見出し得ない。方向から見て、南西方向の路次であるから、この延長線上で、「三」の附く古い地名は、恐らく、讃岐国旧三野郡の現在の三豊(みとよ)市三野(みの)町地区(取り敢えず最北の三野町大見をポイントしてある。広域の「三豊市」は現代になって統合で生まれた地名で元が「三野」の「三」由来であるから候補にはならない)と思われる。丸亀と三野のほぼ中間に千代池があることになるからである。万一、「三井」という地名が相応しい場所に別にあるとせば、御教授頂けると幸いである。

いさり舟 すゞしろのや(伊良子清白)

 

いさり舟

 

 

  う ま 追

 

菫はな咲くませ垣に、

もたれてひとりながめやり、

妹まつひまの手すさびに、

なびく柳をいくたびか、

ときつ結びつまたときつ。

 

むかひあはせの近ければ、

朝夕かほは見るものを、

さすがにいはですぎ行くを、

かたみに二人いひいでゝ、

うらみあひしもいくそたび。

 

めぐみも深きたらちねの、

父とはゝとのうせしより、

にはかに家はおとろへて、

あとにのこりしみなし子は、

うま追ふ賤におちぶれき。

 

契りし妹も人づまと、

淸きみさををかへぬれば、

人の心のつれなさに、

ひとり思にたえかねて、

袂もくつるうきなみだ。

 

草むらごとに蟲なきて、

夕風さむきさとのみち、

うまおひながら皈り行く、

尾花の末に松見えて、

これぞ昔のおのが家。

 

 

  

 

夕やけ雲の色そへて、

日影殘れる山の端の、

うすくれなゐに匂ふとき。

そよがぬ木々のひまとめて、

水より淡き大空に、

星の帝王(みかど)はのたまひぬ。

 

「あはれわが臣けふもまた、

鳥を塒におくりてよ。

雲をみ山にかへしてよ。

ふねを湊にあつめてよ。

菫つむ子をまつ母の、

そのふところにおくりてよ。」

 

のたまふまゝに三ツ二ツ、

四つ六つ五つつぎつぎに、

星のひかりのあらはれて、

空もせきまでなりし時、

淸き夢路の戶を開けて、

宇宙は皆安く眠り行く。

 

 

  あ る 夕

 

秋の夕べをかなしとは、

いかなる人か言初めし。

あゝわが如くいにしへも、

うせにしせこをこひわびて、

ひとりさびしき岸に行き、

水のながれにうらみけむ、

少女やかくもいひそめし。

 

 

  し ら 浪

 

春の夕べのさびしさに、

ひとり海邊にたちいでゝ、

こゝろともなく眺むれば、

みるめだになき荒いそに、

たれをか戀ひししら浪の、

とほき潮路をわたりきて、

よせてはかへしきてはうつ。

 

 

  行 く 水

 

ながれゆく水の、

    あとをおひて、

しばし語らむと、

    ふたりあゆむ。

 

空はれわたりて、

    いとしづかに、

星かげきらめく、

    ゆふぐれどき。

 

すぎこしうれひを、

    おもひいでゝ、

戀のかなしさに、

    袖をぬらしぬ。

 

されどもせめては、

    きみとあひて、

かたらひうるをぞ、

    さいはひとせむ。

 

みにしみわたれる、

    夕ぐれどきの、

えならぬけしきを、

    いかでわすれむ。

 

ながれ行く水の、

    あとをおひて、

かたりしゆふべを、

    いかでわすれむ。

 

 

  は る 風

 

あしのわか葉の、

    末かけて、

妹がそで吹く、

    うみのかぜ。

八重たちこむる、

    あまぐもの、

千さとのをちを、

    しのびきて、

さわらびもゆる、

    わかやまの、

尾上のまつに、

    吹きわたる。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年四月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

うもれ木 すゞしろのや(伊良子清白)

 

うもれ木

 

 

  かくれ家

 

笠松の枝さすかげに、

さゝやけき庵ぞたてる。

誰人かむすびかけけむ、

かやののき黑木の柱、

ゆがみたるまゝに削らず、

けづらねば蔦はひかゝり、

その蔦ぞ紅葉しにける。

柴の戶を鎖すしら雲、

草のやをかくす葎生、

勿來ぞといふにやあらむ。

人すむと見れば人なく、

人なしと見れば琴あり。

折しもやうしろの山ゆ、

草花の籠をかたへに、

くだり來る花の手弱女、

つひしらず姿ゆかしく、

よびとめてとはむとすれば、

立こむる夕べの霧に、

遠近の峯はかくれて、

うるはしき人の姿も、

見えずなりぬる。

 

 

  のこるうらみ

 

君のなさけを知らずして、

うかれ少女にうかれけむ、

おのが心のうたてさよ。

 

君はおもひにたへかねて、

深きうらみをのこしおき、

皈らぬ人となりにけり。

 

ませの白菊やゝ散りて、

むら雨さむき夕まぐれ、

君のひつぎは岡の邊の、

御寺の森にかくれ行く。

 

 

  須磨の浦かぜ

 

たく藻の烟うちなびく、

蘆の苫屋にあけくれて、

海士の少女とよばれたる、

昔の影のあと追へば、

 

澄む朝潮に影うつる、

花のすがたとうまれいで、

まつ吹風にふさふさと、

振分髮はながかりし。

 

須磨の浦曲の春の夜は、

月もおぼろに影かすむ、

汐汲車ひきつれて、

戀てふうさは知らざりき。

 

あゝ忘れじな貴人の、

たゞかりそめのたはぶれに、

鄙の少女の狹ごろもを、

ひかせ給ひし夢がたり。

 

つゞれを綾にぬぎかへて、

花の都ははるなれや、

霞のをくのたかどのに、

君と二人がゐならびつ。

 

錦をつゞり玉をのべ、

黃金をかざり花を布き、

燿きわたる高臺は、

雲もいざよひ霧も行く。

 

鶯なけば花も咲き、

月影させば虫うたふ、

簾を捲きて雪を賞で、

筧を引きて水を聽く。

 

庭の芙蓉花影に、

大和小琴をかきならし、

池の汀の藤浪に、

春ををしみし舟あそび。

 

髮を梳りつ眉を畫き、

臙脂の紅ころもの香、

黃金の指環あやの帶、

ひかるばかりに裝ひつ。

 

限もしらずときめきて、

影も足らへる望月の、

かけたることもあらざれば、

老いじとのみは願ひしか。

 

紫にほふ紫陽花の、

朝のあめに褪むるごと、

をとこ心のはかなさは、

君のなさけのつれなさよ。

 

梧の葉墜つる秋雨に、

袂はぬれて閨さむく、

孤雁わたる夕雲を、

ながめて遠きわが思。

 

つひに都をぬけいでゝ、

わが故鄕にきて見れば、

柳の絮は地に滿ち、

むなしく拂ふ春の風。

 

ひとり思にたへかねて、

磯べづたひもうきふしや、

花のかざしをなげやれば、

浪のまにまにうかび行く。

 

 

  こゝろの琴

 

春風吹きて、

わがむねに、

ひそめる琴は、

なりそめぬ。

 

こひのしらべは、

かなしくも、

またたのしくも、

きこゆかな。

 

君と逢ふひは、

うぐひすの、

さへづるごとく、

のどかにて。

 

ひとりぬる夜は、

秋雨の、

そゝぐがごとく、

さびしかり。

 

あゝ君の手に、

彈きそめて、

また君のてに、

すつるなよ。

 

 

  う ま 酒

 

葡萄の園にふさふさと、

垂れたる房をぬすみ行き、

酒をつくりしエジプトの、

むかしの人を誰か知る。

 

つくりし酒は美酒の、

こゝろの塵をはらふ哉。

ぬすみ心もかさなれば、

つひに牢獄(ひとや)につながれき。

 

今わがこひを酒として、

君を葡萄にたとふれば、

垂れたる房はうるはしく、

やさしき君の姿なり。

 

君のすがたをぬすみ見て、

たのしき戀にあそぶまに、

たびかさなればいつしかも、

憂苦(うき)の牢獄(ひとや)につながるゝかな。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年二月二十五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

2019/05/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(22) 「馬塚ハ馬ノ神」(4)

 

《原文》

 馬ノ神ノ信仰ハ必ズシモ死靈ニノミハ限ラレテアラズ。諸國ノ駒ケ嶽ニ活キタル神馬ノ往來ヲ見ルト云フ如ク、越前ノ穴馬谷(アナマダニ)ナドニモ穴ノ中ニ馬アリテ、時トシテ谷ノ口ノ鹽井ノ水ヲ來テ飮ムト云フ說アリ〔大野郡誌〕。【駒ト岩屋】多クノ巖窟ニハ駒ノ住ムト云フ口碑存セリ。甲斐西八代郡古關村大字瀨戶山中ノ栃木澤(トチノキザハ)ニハ、土人ガ駒ノ寢處ト稱スル岩穴アリ。夏ハ凉風ヲ起シ冬ハ暖風ヲ生ズル爲ニ、其中ノ草ノミハ夏枯レテ冬繁茂スト云ヘリ〔甲斐國志〕。今ナラバ蠶ノ種紙デモ藏シ置クべキ一ノ風穴ニ過ギザレドモ、昔ノ人ニ取リテハ濫ニ近ヅクべカラザル靈地ナリシナリ。【生駒】此等ハ所謂活馬(イコマ)ノ神ノ信仰ノ殘片ニシテ、起原頗ル古キモノナルべキモ、塚穴ヲ以テ悉ク葬處ト看做ス後世トナリテハ、追々ト此ヲモ死馬ノ幽靈ト考フルガ如キ傾向ヲ生ゼシガ如シ。多クノ馬塚ハ恐クハ掘ツテ見レバ何モ無ク、唯ノ祭場タル封土(モリツチ)ニ過ギヌナルべシ。馬ヲ一疋埋ムルハ決シテ容易ノ業ニ非ズ。故ニ塚ノ形ノアマリニ小サキ場合ノ如キハ、是非無ク馬骨ヲ集メテ之ヲ埋メタリナドト云フナリ。陸奧上北郡六ケ所村大字出戶ノ口碑ニ至リテハ更ニ一段ノ荒唐ヲ加フ。【巨馬】曰ク昔此村ニ常ノ馬ヲ四ツ五ツモ合セシホドノ大馬出現シテ、人ヲ追ヒ牧ノ馬ヲ食フ。其大馬ノ出デタル故ニ大字出戶、之ヲ捕ヘテ檢分セシ故ニ大字高架(タコホコ)、馬ノ形ガ平カナリシ故ニ大字平沼ノ地名ハ生ジタリ。【七座】又之ヲ射殺シテ埋メシ塚ヲ「七クラ」ト云フハ、馬ノ背長クシテ鞍ヲ七ツ置クホドナリシ故ナリトモ傳ヘタリ。【大骨】其後領主ノ命アリテ此塚ヲ發キ白骨ヲ取出シ見ルニ、背骨ノ周圍二尺ニ餘レリ云々〔眞澄遊覽記八〕。思フニ「ナヽクラ」ハ七座(ナヽクラ)ニシテ北斗七星ノ崇拜ニ基ク名ナルべシ。【妙見】龍馬ヲ妙見ニ配スルコトハ前ノ磐城相馬ノ例モアルナリ。此ノ如キ巨大ノ白骨ナルヲ、如何ニシテ鯨カ何カノ物ニ非ザルコトヲ確メ得タリシカ、怪シキ話ナリト言フべシ。此迄話ガ進ミテ來レバ、死馬ノ祟ヨリモ活馬ノ威力ノ大ナルコトヲ認メザル能ハズ。カノ奧州ノ蒼前神ノ神體タル白馬ハ立往生ヲセシ馬ナリト謂ヒ、或ハ猿牽ノ傳書ノ中ニ葦毛ハ死シテ復蘇リシ馬ナドト云フガ如キハ〔考古學雜誌二卷十號拙稿「勝善神」〕、恐クハ生死二樣ノ信仰ヲ調和セントシタル努力ノ結果ナランカ。【馬醫】猿牽ハ予輩ノ信ズル所ニテハ以前ハ馬醫ヲ兼ネ居タリ。【白樂天】而シテ理想ノ馬醫即チ伯樂ハ能ク死馬ヲ活スコトヲ得タリト信ゼラレシ故ニ、後世ノ俗人ハ又之ト誤解シテ白樂天ヲ崇拜シタリ〔猿屋傳書〕。薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨ノ馬頭觀音ハ、觀音ト稱シナガラ小サキ祠ニシテ其正體モ二箇ノ石像ナリ。昔玄心玄參ト云フ兄弟ノ馬醫アリ。串木野村ノ人トモ又市來(イチク)ノ者トモ謂フ。死馬ノ既ニ皮ヲ剝ガレタルヲ見テ、此馬尙生氣アリト言ヒ、紙ヲ以テ之ヲ包ミ藥ヲ飮マシムルニ馬忽チ蘇生ス。里人之ヲ見テ必ズ魔法ノ所爲ナラント思ヒ、後ノ害ヲ慮リテ兩人ヲ殺シ、而モ祟ヲ畏レテ之ヲ馬頭觀音ニ祀リタリ。其祭ノ日ハ六月十八日ニテ、夥シキ人馬遠近ヨリ參詣スト云フ〔三國名勝圖會〕。【馬神祭式】羽後南秋田郡北浦町附近ニテハ、以前ハ厩ノ柱ニ鳥居ヲ描キ置ク風習アリキ。馬醫ガ始メテ二歲駒ノ鍼ヲスル時ニ、其血ヲ以テ藁又ハ其駒ノ鬣ニ浸シ、此ノ如キ鳥居ヲ描キテ馬ノ神ヲ祭リシモノナリ〔眞澄遊覽記二十九〕。【鞍塚】近江阪田郡鳥居本村大字原ノ八幡山ノ麓ニ、馬塚鞍塚ノ二ツノ塚ト太子堂トアリ。【聖德太子】此山ノ寶瑞寺俗ニ八幡堂ト稱スル寺ノ緣起ニ依レバ、抑此八幡ハ聖德太子ノ勸請シタマフ所ナリトハ誠ニ驚クべキ事實ナリ。太子ハ何カノ都合ヲ以テ此邊マデ來テ佛敵ト戰ハレシガ、其戰場ニ於テ御乘馬ノ駿足斃レ死ス。【卒都婆】今モ路ノ側ニ有ル二ツノ塚ハ、即チ太子ガ其馬ト鞍トヲ埋メタマヒシ故跡ニシテ、塚ノ上ニ卒都婆ヲ立テヽ供養セシガ故ニ、此地ヲ一ニ又卒都婆ノ里トモ謂フ。然ルニ此馬ノ魂魄永ク留マリ、邑里ニ化現シテ人民ヲ惱マスコト甚シ。之ヲ患ヒテ天朝ニ奏聞スレバ、唯佛力ノミ其災ヲ止ムべシトアリテ、寶瑞寺ヲ建立シタマヒ、千僧ヲ聚メテ施餓鬼ヲ行ヒ且ツ馬千疋ノ布施アリ。【八月十五日】乃チ後ノ例ト爲ツテ八月十五日ニハ此供養ガ執行ハレ、年々馬千疋ノ用途ハトテモ此地方ニテ調ハヌ故ニ、太子ノ臣下ニ橘猪助法名ヲ道專ト云フ者、命ヲ蒙リテ奧州越路ニ下リ其馬ヲ集メタリ。【三人ノ子】道專ニ三人ノ子アリ。長男ハ太子ニ仕ヘ、次男ハ近江ニ下リテ右ノ施餓鬼ノ奉行人トナリ、更ニ奧ノ馬千疋ノ運上ヲ勤メタリト云フ。又一說ニハ、橘猪助ハ病馬ヲ治スルノ法ヲ太子ヨリ受傳ヘテ此村ニ居住ス。後ニ佐藤太郞兵衞入道多入ト稱セシハ實ニ此人ニテ、彥根ノ井伊家ニ奉公セシ佐藤宗兵衞ノ家ハ其子孫ナリト謂ヘリ〔淡海木間攫〕。今此緣起ノ中ニ、若シ眞實ノ部分アリトスレバ、ソハ佐藤ト云フ馬醫ノ家ニ太子ヲ開祖トスル馬ノ神ノ信仰ノ傳ヘラレシ事ト、其家ガ八幡堂ト結合シテ近村ヲ感化シツヽアリシ事グラヰナルべシ。馬醫ノ神馬ニ隨伴スルコトハ古キ慣習ナリ。【馬醫ハ神職】延喜式ヲ見ルニ、平野園韓神其他ノ官社ニ所謂櫪飼馬(イタガヒノウマ)ヲ奉獻スルニハ、必ズ馬寮附屬ノ馬醫ヲ差添ヘタリシモノナリ〔左馬寮式〕。其目的ハ途次ノ急病ナドノ用意ノミトモ思ハレズ、何カ格段ノ仔細アリシコトヽ見ユレバ、神馬ヲ重要視セシ古代ノ信仰ニ馬醫ノ干與シタルモノト想像スルハ不當ニハ非ズ。但シ後世盛ニ馬ノ死靈ヲ說クニ至リテ、之ニ雷同スルコトハ馬醫トシテハ少々見德ガ惡キ爲ニ、所謂白樂天ノ後裔ノミハイツ迄モ馬ノ死セザルコト、又ハ一旦死シタレドモ忽チ蘇生シタルコトナドヲ說キテ、彼等ガ地步ヲ占メントセシナランカ。何レニシテモ聖德太子ガ、僅カナル因緣ノ爲ニ馬ノ祖神トシテ擁立セラレタマヒ、其御馬ノ國々ヲ牽キ廻サルヽハ、思ノ外ノ事ナリケリ。

 

《訓読》

 馬の神の信仰は、必ずしも、死靈にのみは限られてあらず。諸國の駒ケ嶽に活(い)きたる神馬の往來を見ると云ふごとく、越前の穴馬谷(あなまだに)などにも、穴の中に馬ありて、時として谷の口の鹽井(しほゐ)の水を來て飮むと云ふ說あり〔「大野郡誌」〕。【駒と岩屋】多くの巖窟には駒の住むと云ふ口碑、存せり。甲斐西八代郡古關(ふるせき)村大字瀨戶山中の栃木澤(とちのきざは)には、土人が「駒の寢處」と稱する岩穴あり。夏は凉風を起し、冬は暖風を生ずる爲めに、其の中の草のみは、夏、枯れて、冬、繁茂す、と云へり〔「甲斐國志」〕。今ならば、蠶(かひこ)の種紙(たねがみ)でも藏(ざう)し置くべき一つの風穴(ふうけつ)に過ぎざれども、昔の人に取りては濫(みだり)に近づくべからざる靈地なりしなり。【生駒】此等は所謂、「活馬(いこま)の神」の信仰の殘片にして、起原、頗(すこぶ)る古きものなるべきも、塚穴を以つて、悉く葬處と看做す後世となりては、追々と此れをも死馬の幽靈と考ふるがごとき傾向を生ぜしがごとし。多くの馬塚は恐らくは掘つて見れば、何も無く、唯の祭場たる封土(もりつち)に過ぎぬなるべし。馬を一疋埋(うづ)むるは、決して容易の業(わざ)に非ず。故に塚の形の、あまりに小さき場合のごときは、是非無く馬骨を集めて之れを埋めたり、などと云ふなり。陸奧上北郡六ケ所村大字出戶(でど)の口碑に至りては、更に一段の荒唐(こうたう)を加ふ。【巨馬】曰はく、昔、此の村に、常の馬を四つ五つも合せしほどの、大馬(おほうま)、出現して、人を追ひ、牧の馬を、食(くら)ふ。其の大馬の出でたる故に大字「出戶」、之れを捕へて檢分せし故に大字「高架(たこほこ)」、馬の形が平かなりし故に大字「平沼」の地名は生じたり。【七座】又、之れを射殺(いころ)して埋(うづ)めし塚を「七くら」と云ふは、馬の背、長くして、鞍を七つ置くほどなりし故なり、とも傳へたり。【大骨】其の後、領主の命ありて、此の塚を發(あば)き、白骨を取り出だし見るに、背骨の周圍、二尺に餘れり云々〔「眞澄遊覽記」八〕。思ふに「なゝくら」は「七座(なゝくら)」にして、北斗七星の崇拜に基づく名なるべし。【妙見】龍馬を妙見に配することは、前の磐城相馬の例もあるなり。此くのごとき巨大の白骨なるを、如何にして鯨か何かの物に非ざることを確かめ得たりしか、怪しき話なりと言ふべし。此こまで話が進みて來たれば、死馬の祟りよりも、活馬(いきうま)の威力の大なることを認めざる能はず。かの奧州の蒼前神(そうぜんしん)の神體たる白馬は立往生をせし馬なりと謂ひ、或いは、猿牽(さるひき)の傳書の中に、『葦毛は死して、復た、蘇りし馬』などと云ふがごときは〔『考古學雜誌』二卷十號拙稿「勝善神(そうぜんしん)」〕、恐らくは生死(しやうじ)二樣の信仰を調和せんとしたる努力の結果ならんか。【馬醫】猿牽は予輩(よはい)の信ずる所にては、以前は、馬醫を兼ね居たり。【白樂天】而して、理想の馬醫、即ち、伯樂は能く死馬を活(いか)すことを得たり、と信ぜられし故に、後世の俗人は又、之れと誤解して白樂天を崇拜したり〔「猿屋傳書」〕。薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨の馬頭觀音は、觀音と稱しながら、小さき祠(ほこら)にして、其の正體も二箇の石像なり。昔、玄心・玄參と云ふ兄弟の馬醫あり。串木野村の人とも、又、市來(いちく)の者とも謂ふ。死馬の既に皮を剝がれたるを見て、「此の馬、尙ほ、生氣あり」と言ひ、紙を以つて、之れを包み、藥を飮ましむるに、馬、忽ち、蘇生す。里人、之れを見て、『必ず、魔法の所爲(しよゐ)ならん』と思ひ、後の害を慮(おもんぱか)りて、兩人を殺し、而も、祟りを畏れて、之れを馬頭觀音に祀りたり。其の祭の日は六月十八日にて、夥(おびただ)しき人馬、遠近より參詣すと云ふ〔「三國名勝圖會」〕。【馬神祭式(うまがみのさいしき)】羽後南秋田郡北浦町附近にては、以前は厩の柱に鳥居を描き置く風習ありき。馬醫が始めて二歲駒の鍼(はり)をする時に、其の血を以つて、藁、又は、其の駒の鬣(たてがみ)に浸し、此くのごとき鳥居を描きて、馬の神を祭りしものなり〔「眞澄遊覽記」二十九〕。【鞍塚】近江阪田(さかた)郡鳥居本(とりゐもと)村大字原の八幡山の麓に、馬塚・鞍塚の二つの塚と太子堂と、あり。【聖德太子】此の山の寶瑞寺、俗に八幡堂と稱する寺の緣起に依れば、抑(そもそも)、此の八幡は聖德太子の勸請したまふ所なりとは、誠に驚くべき事實なり。太子は何かの都合を以つて、此の邊りまで來たつて、佛敵と戰はれしが、其の戰場に於いて、御乘馬の駿足、斃れ死す。【卒都婆(そとば)】今も、路の側に有る二つの塚は、即ち、太子が其の馬と鞍とを埋(うづ)めたまひし故跡にして、塚の上に卒都婆を立てゝ供養せしが故に、此の地を、一つに又、「卒都婆の里」とも謂ふ。然るに、此の馬の魂魄、永く留まり、邑里(いうり)に化現(けげん)して、人民を惱ますこと、甚だし。之れを患(うれ)ひて、天朝に奏聞(そうもん)すれば、「唯(ただ)佛力のみ其の災ひを止(とど)むべし」とありて、寶瑞寺を建立したまひ、千僧を衆(あつ)めて施餓鬼を行ひ、且つ、馬千疋の布施あり。【八月十五日】乃(すなは)ち、後の例と爲つて、八月十五日には此の供養が執り行はれ、年々(としどし)馬千疋の用途は、とても此の地方にて調はぬ故に、太子の臣下に橘猪助(たちばなのゐのすけ)、法名を道專(だうせん)と云ふ者、命を蒙りて、奧州越路に下り、其の馬を集めたり。【三人の子】道專に三人の子あり。長男は太子に仕へ、次男は近江に下りて右の施餓鬼の奉行人となり、更に奧の馬千疋の運上を勤めたりと云ふ。又、一說には、橘猪助は、病馬を治するの法を太子より受け傳へて、此の村に居住す。後に、佐藤太郞兵衞入道多入と稱せしは實に此の人にて、彥根の井伊家に奉公せし佐藤宗兵衞の家は其の子孫なりと謂へり〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。今、此の緣起の中に、若(も)し眞實の部分ありとすれば、そは、佐藤と云ふ馬醫の家に太子を開祖とする馬の神の信仰の傳へられし事と、其の家が八幡堂と結合して、近村を感化しつゝありし事ぐらゐなるべし。馬醫の神馬に隨伴することは古き慣習なり。【馬醫は神職】「延喜式」を見るに、平野・園韓神(そのからのかみ)其の他の官社に、所謂、「櫪飼馬(いたがひのうま)」を奉獻するには、必ず、馬寮(めれう)附屬の馬醫を差し添へたりしものなり〔「左馬寮式」〕。其の目的は途次(とじ)の急病などの用意のみとも思はれず、何か格段の仔細ありしことゝ見ゆれば、神馬を重要視せし古代の信仰に馬醫の干與(かんよ)[やぶちゃん注:「關與」に同じい。]したるものと想像するは不當には非ず。但し、後世、盛んに馬の死靈を說くに至りて、之れに雷同することは、馬醫としては、少々、見德が惡き爲に、所謂、白樂天の後裔のみは、いつまでも馬の死せざること、又は、一旦、死したれども忽ち蘇生したることなどを說きて、彼等が地步を占めんとせしならんか。何れにしても、聖德太子が、僅かなる因緣の爲めに、馬の祖神(そしん)として擁立せられたまひ、其の御馬(おんうま)の國々を牽き廻さるゝは、思ひの外の事なりけり。

[やぶちゃん注:「越前の穴馬谷(あなまだに)」既出既注

「谷の口の鹽井(しほゐ)」前注のリンク先を見て貰いたいが、ここは嘗つてあった村落が九頭竜ダムの湖底に沈んでおり、そこから移した新しい「穴馬神社」もあるのであるが、そう考えるなら、この谷も、岩塩性の塩水井戸も湖底に沈んでしまっている可能性が高い。なお、馬は人間と同じく、汗をかく数少ない動物であり、発汗によって塩分が失われるため、塩水や塩を好む。

「甲斐西八代郡古關村大字瀨戶山中の栃木澤(とちのきざは)」現在の南巨摩郡身延町(ちょう)瀬戸はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「蠶(かひこ)の種紙(たねがみ)」蚕卵紙(さんらんし)。蚕蛾に卵を産み付けさせた紙。「蚕種紙」とも言う。半紙を十枚位合わせた厚地の和紙を用いる。蚕卵紙は、幕末から明治初年にかけて、当時のヨーロッパに微粒子病が蔓延して健全な蚕種を海外に求めたため、本邦の重要な輸出品となったが、この盛況は同時に蚕種の粗製濫造の弊害を激化し、輸出は明治八(千八百七十五)年頃から減少していった。蚕卵紙の生産は長野・埼玉・山形・群馬・福島の諸県に多く、その生産販売に関する者は富農層に多かった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。この洞窟は、その叙述から、夏冬の温度・湿度がある程度、一定であると考えられ、蚕卵紙の質を守るのによいということであろう。

「陸奧上北郡六ケ所村大字出戶(でど)」青森県上北郡六ヶ所村出戸おぞましいウラン濃縮工場の北直近である。巨大な人馬を襲う怪獣のような妖馬は、実に、今でこそ出現しておかしくない場所となってしまったのではないか?

「高架(たこほこ)」不詳。

「平沼」六ヶ所村の出戸のずっと南の方に、青森県上北郡六ヶ所村平沼高田の地名が残る。地図を西北方向に動かすと、田面木沼(たもぬぎま)の北に下っている平沼川も現認出来るから、この附近である。

『之れを射殺(いころ)して埋(うづ)めし塚を「七くら」と云ふ』不詳。この塚の位置は是非とも知りたいねえ。識者の御教授を乞う。さても、当然、矢で射殺したのだろうな。因みに、米軍内では有意な核事故に対して、縁起でもない不吉な軍事用コード・ネームがいろいろついているのはご存じか? 例えば――「巨馬」ならざる「Faded Giant」(消えた巨人)――或いは――Broken Arrow」(折れた矢)――だ。あそこは原子エネルギ再生施設で核兵器じゃないって? あそこにはフランスから厄介払いされたプルトニウムをふんだんに含む極めて危険な高エネルギ廃棄物が貯蔵され、再処理施設ではプルトニウムをそうしたものから抽出することになっている(が、一度も再処理なんかされていないんだ、机上の論理の再処理システムそのものが実は実際には出来ない相談なのだ)は知っているね? 而して、IAEA(国際原子力機関:International Atomic Energy Agency)が、現在只今、世界で一番、核兵器を有意に製造可能な国として最も警戒している国は、どこか、知っているかね? 朝鮮民主主義人民共和国? いやいや! 日本なんだよ! 日本が国内外に保有している「高エネルギ廃棄物」と呼んでいる物質はだね、その気さえあれば、即座に軍事転用されて、核兵器を多量に製造できるからなんだよ……

「北斗七星の崇拜」平凡社「世界大百科事典」によれば、「史記」の「天官書」などの記述によれば、北極星は「天帝太一神」の居所であり、この星を中心とする星座は、天上世界の宮廷に当てられて「紫宮」「紫微宮」と呼ばれ、漢代には都の南東郊の「太一祠」に於いて、しばしば「太一神」の祭祀が行われた。その後、讖緯(しんい)思想(前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。「讖」は未来を占って予言した文、「緯」は経書(けいしょ)の神秘的解釈の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いたもの。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた)の盛行につれて、後漢頃には「北辰北斗信仰」が星辰信仰の中核を成すようになり、「北辰」は「耀魄宝(ようはくほう)」と呼ばれ、群霊を統御する最高神とされた。これを受けた道教では、「北辰」の神号を「北極大帝」「北極紫微大帝」「北極玄天上帝」などと称し、最高神である玉皇大帝の命を受けて星や自然界を司る神として尊崇した。これは同時に、人間の命運は生年の干支で決まる「北斗」の中の「本命星」の支配下にあるとする考え方も定着し、「北斗神」が降臨し、行為の善悪を司察し、寿命を記した台帳に記入すると考えられるようになり、「庚申」や「甲子」の日に「醮祭(しょうさい)」(星祭(ほしまつり))をすることで、長寿を得、災厄を免かれるとも考えられた。この「北斗信仰」は早く日本にも流入し、平安以来、宮中での「四方拝」に天皇自らが「本命星」を拝し、その神名を称えた。また、「北斗信仰」は当時の密教でも重視され、北極・北斗の本地とされる「妙見菩薩」を祀る妙見堂が各地に建てられた、とある。

「磐城相馬の例」先行する、こちら

「此くのごとき巨大の白骨なるを、如何にして鯨か何かの物に非ざることを確かめ得たりしか、怪しき話なりと言ふべし」こういう皮肉を言うなら、柳田先生の嫌いな古墳が、どうして、発掘もされないのに、大昔の天皇の陵墓に非学術的に、あんなに、やすやすと同定比定されてきたんでしょうかね? そうそう、それに先生の嫌いな古墳の中でも民俗社会と接点を持たなくなった古墳なんぞは、考古学者が五月蠅く言う前に、先生が御存命の頃から不動産業者が完膚なきまでに、大方、破壊してしまいましたよ、よかったですねぇ、柳田先生。

「『考古學雜誌』二卷十號拙稿」「勝善神(そうぜんしん)」明治四五(一九一二)年六月発行の『考古學雜誌』発表。現在の「ちくま文庫」版の私が参考にしている、本「山島民譚集」の含まれている「柳田國男全集」第五巻に「勝善神」として載る。私は電子化する予定はない。悪しからず。

「薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨の馬頭觀音」現在、同地区の鹿児島県薩摩郡さつま町山崎の村社保食(うけもち)神社に合祀されて祀られてある。「鹿児島県神社庁」公式サイト内の当該神社の解説に、『由緒創建は不詳となっているが、往古、境内に飯富大明神が祀られており明治初年廃仏毀釈の時、郷社飯富神社に合祀され、馬頭観音堂及び其の付近の石塔を整理して保食神社と創建した』とあり、しかも何と、この神社、通称「馬頭観音」とあるのである。まずは、よかった。ちょっとその二像を見てみたい気がしてきた。

「串木野村」鹿児島県いちき串木野市

「市來(いちく)」上記地区のこの附近。但し、現行は「いちき」である。

「其の祭の日は六月十八日」現在も行われているかどうかは不明。

「近江阪田(さかた)郡鳥居本(とりゐもと)村大字原の八幡山の麓に、馬塚・鞍塚の二つの塚と太子堂と、あり」現在の滋賀県彦根市鳥居本町はここであるが、その南域外直近の彦根市原町にある原八幡神社の境内に「寶瑞寺」はあったものの、「サンライズ出版」公式サイト内の『歌枕に残る「不知哉川」』に、『聖徳太子建立の伝承を持つ永光山宝瑞寺がありましたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。その後、中興開山の墓石などわずかにその姿をとどめていましたが、近年の神社境内の整備に際して供養塔が建立されました』とあった。しかし、「原町マップ」PDF)を見ると、再建と思われるものの、同神社境内には「太子堂」があり、聖徳太子像が『二体安置されているお堂で、過去にこの町から出征され、戦死された方々の霊を慰めて』いるとし、さらに、宝瑞寺を偲ぶよすがとして「宝瑞庵」なるものがあって、『聖徳太子と守屋連』(もりやのむらじ)『との戦いで戦死した多くの人馬を供養するため』、『太子はこれを悼み』、『「馬塚・鞍塚」を築き』『供養』したという解説があり、同マップの右下には大きく『原八幡神社神馬』のイラストがあるから、伝承はしっかり残されていることが判った。ただ、考えてみると、この聖徳太子の馬が妖馬となって害を成すというのは、仏法布教に太子自身の伝承にとっては根本的に(寺院建立と祭祀によって鎮魂するという結末を迎えたとしても)玉に傷であって、私にはどうも腑に落ちない。これは或いはそれ以前の全く異なる馬に纏わる怨霊伝承があったものを強引に纏めてしまったものではないかとさえ思えてくるのである。

「橘猪助(たちばなのゐのすけ)、法名を道專(だうせん)と云ふ者」不詳。

「道專に三人の子あり。長男は太子に仕へ、次男は近江に下りて右の施餓鬼の奉行人となり、更に奧の馬千疋の運上を勤めたりと云ふ」「更に」三男が「奧の馬千疋の」実際的「運上」の差配「を勤めたりと云ふ」ではないのか?

「佐藤太郞兵衞入道多入」不詳。

「彥根の井伊家に奉公せし佐藤宗兵衞」不詳。

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨し、集大成したもの。全五十巻。三代式の一つ。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立し、康保四(九六七)年に施行された。

「平野」京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社。ウィキの「平野神社」によれば、『

平安京遷都から遠くない時期に創建されたものと考えられて』おり、「延喜式」の「神名帳」では、『山城国葛野郡に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている』とある。

「園韓神(そのからのかみ)」平安京宮内省内に祀られていた園神と韓神。園・韓神は平安京造営以前よりこの地にあり、帝王を守らんとの神託により、他所に移さずに祀られた。「延喜式」の「神名帳」には『宮内省に坐(いま)す神三座』として、『園神社・韓神社二座』とあり、孰れも官幣の大社であった。韓神は「古事記」の「上巻(かみつまき)」には、大年神(おおとしのかみ)の子と見えているが、園神は大物主神、韓神は大己貴神と少彦名神の二神で。これらの神は疫病から守る神ともされている。

「櫪飼馬(いたがひのうま)」「櫪」は「飼葉桶(かいばおけ)」或いは「馬小屋」「厩」の意で、放し飼いのものに対して、厩で飼養した、則ち、ここでは神馬として奉納するために特別に飼った馬を指す。既に出た「馬櫪神(ばれきじん)」への奉納馬。

「馬寮(めれう)」律令制の官司の一つ。「まりょう」とも「うまのつかさ」とも読み、唐名では「典厩(てんきゅう)」に当てる。左右二寮あり、厩にいる官馬の飼育・調教・御料の馬具・飼葉の穀草の配給・飼部(しぶ)の戸口の名籍(みょうじゃく:名簿。地位・姓名・年齢などを書き記したもの)を司った。職員には頭(かみ)一名・助(すけ)一名・大允(だいじょう一名・少允一名・大属(だいさかん)一名・少属一名の四等官の他、その下に、馬医二名・馬部(めぶ)六十名・使部(つかいべ)二十名・直丁(じきちょう)二名や、雑戸(ざっこ)の飼丁(しちょう)が所属した。後には令外の官として馬寮御監(みげん)や史生(ししょう)が置かれた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「見德」公的・準公的な意味での認識(ここでは「見栄え」)のこと。]

淸泉 すゞしろのや(伊良子清白)

 

淸 泉

 

 

  さゝの葉

 

君かさしたる盃を、

われもかへして酌みつれど、

敷かさなればおのづから、

さためがたくも成りにたり。

 

くれなゐ深くわが頰の、

もゆるばかりにおもふまで、

醉ひに醉ひたる折なれば、

物をもわかずなれるかな。

 

われはわすれぬ君ゆゑに、

都の空をあとに見て、

かゝる深山の奧ふかく、

 

柴かる賤とやつれしも。

われはわすれぬ夜もすがら、

花ちる陰にたゞずみて、

君かかきなす琴の音に、

こがれよりつるいにしへも。

 

 

  園生の淸水

 

園生の淸水ながれては、

君かみ他におつるとき。

花の姿のうつるやと、

にごしもやらぬわが心。

 

中の柴垣ひまあらみ、

ながれてくぐる眞淸水に、

せめて一夜はみをかへて、

君と相見んすべもがな。

 

 

  ふりわけ髮

 

今日や皈るとわが君の、

浦の洲崎にたちいでゝ、

松の葉越にわが船の、

見ゆるをいつとまつならむ。

 

松の老木にみをよせて、

わかれしあとをかたりなば、

つもるはなしのつきずして、

そこにぞやがて暮れぬべき。

 

ひいな飾りしわらはべの、

むかしのさまもわすれねど、

花にもまさるおもばせの、

今のすがたやいかならむ。

 

菫菜つまんと春の野に、

君をさそはゞそのかみの、

わらべあそびをそのまゝに、

うなづきますやはぢらはで。

 

あはれたらちの父母が、

ふりわけ髮のいにしへに、

結びたまひし妹と背の、

まことのちぎり結ばんと。

 

めさせ給ひし玉章に、

學のまどもあとにして、

都の空を立ちはなれ、

皈ると君は知りますや。

 

 

  峯のまつかぜ

 

みねの松風吹きたえて、

たぎち流るゝ瀧津瀨の、

音たちあくるあけぼのゝ、

谷閒がくれのひとついほ。

 

朝たちさわぐ群島の、

羽うつかぜに霧はれて、

みねのあなたにあかあかと、

のぼる朝日のうらゝかさ。

 

筧の淸水くみあげて、

口そゝぐまに我妹子の、

かしぐ朝飯のうす煙、

松の木のまに立ちのぼる。

 

手に手をとりてわぎ妹子と、

こゞしきみちを行きゆけば、

ふみもならはぬいにしへの、

わがみの上をしのばれて。

 

思へば君をわぎ妹子と、

はじめてよびしその折よ、

君はいたくもはぢらひて、

おもてを袖におほひしよ。

 

むかしはわれも九重の、

玉のうてなにときめきて、

雲の上なるまじらひに、

限もしらず榮えしが。

 

小柴かるてふ山がつの、

君のすがたを見てしより、

大内山をぬけいでゝ、

わりなき道にやつれてき。

 

山わけ衣袖さむみ、

なれてもつらき山賤に、

おのが姿をかへてより、

ひさしくなりぬいつしかに。

 

峰の妻木をこるひまに、

日影は西にかたふきて、

ひろひ集めし枯柴を、

背負ひて皈る谷のみち。

 

今日の一日もくれはてゝ、

谷の小川のさゝやぎも、

尾上の松のおとなひも、

夕暮ふかくなりにけり。

 

ゆあみも終へて我妹子と、

圍爐裏の焚火かこみつゝ、

へたてぬ中をかたりあふ、

わかかくれ家のたのしさよ。

 

[やぶちゃん注:本篇は明治三〇(一八九七)年二月十一発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。初篇「さゝの葉」の第一連終行の「さためがたく」はママ。]

水馴棹 蘿月(伊良子清白)

 

水 馴 棹

 

さゞれ浪こす磯崎の、

   淸き渚にほど近く、

濱の御殿と名によびて、

   玉の宮居ぞたてるなる。

 

塵だにすえぬ高殿に、

   小簾まき上げてすめ御子が、

あつささけさせ給ふなる、

   今年の夏もふけにけり。

 

軒の濱荻風見えて、

   夕べ涼しくなりぬれば、

月にうかれて皇子の、

   やがてひとりぞいでたゝす。

 

さすもさやけき月影に、

   濱の眞砂もかゞやきて、

御裳の裾をぬらしつゝ、

   しづかに浪もよするなり。

 

吹かせ給へる笛の音の、

   いよいよ淸くなりなべに、

おもほす事もなかるらむ、

   更くるもしらに行かすなり。

 

磯馴まつのかげ白く、

   蘆の花咲く岸の邊に、

海士の小舟ぞたゞよへる、

   淸き少女の棹とりて。

 

賤のをとめよその舟に、

   まろものせてとの給へば、

綾の御袖のま近きに、

   少女はいとゞかしこみて。

 

    *  *  *  *

 

浪のまにまに棹させば、

   吹くや御裳の風きよく、

夏をよそなる月影に、

   なびく玉藻も見ゆるなり。

 

吹かせ給へる笛の音は、

   ふけ行くなべに聲澄みて、

雲井に遠き久方の、

   月のみやこに通ふなり。

 

ちりのこの世は忘られて、

   げにおもしろき月のかげ。

あはれ少女よ二人して、

   千代もながめむすべもがな。

 

きくにかしこきすめみ子の、

   ふかきことばを賤の女は、

樟とる手さへわすられて、

   夢かとのみやたどるらむ。

 

    *  *  *  *

 

八重の潮路の末遠き、

   はなれ小島の松陰の、

蘆のとま屋にたゞ二人、

   海士の妹背ぞすまふなる。

 

浦邊づたひに妹と背が、

   あゆめる影もむつまじく、

手に手をとりて今日もまた、

   語らひながらかへり行く。

 

背なる男の子はふるびたる、

   笛とりいでゝ吹きなせば、

しめるか聲のたえだえに、

   さびしき節もきこゆなり。

 

思ひかけきや九重の、

   玉のうてなの笛の音を、

人げたえたる荒磯の、

   浪のしらべに合はすとは。

 

あはれ我妹子しばしきけ、

   一年夏のわびしきに、

大内山をあとにして、

   濱の御殿に行幸しぬ。

 

さやけき月のをかしきに、

   うかれいでたるその夕べ、

君と二人が船うけて、

   すゞみし折は夢なれや。

 

にわかに風の吹きあれて、

   雨さしそはる夜もすがら、

行ゑもしらず流れきて、

   いつしかつきぬ離れじま。

 

汐風さむき小衾に、

   語りあかしてしのぶれば、

わが故鄕の戀しくて、

   袖になみだのこぼれけり。

 

玉のうてなも百敷も、

   たかき位もわすられて、

昔の人にあらねども、

   賤の手業にやつれてき。

 

朝は山に妻木こり、

   夕べはうみに釣たれて、

いつしかすぐる年月を、

   馴るゝともなく馴れにけり。

 

君のこゝろのうれしさに、

   かたみにかはす眞心を、

結びそめたる妹と背の、

   戀てふ中となりにけり。

 

かゝる島邊にながれきて、

   二人くらすも前の世に、

君を戀ふてふ妹と背の、

   ふかき緣やありつらむ。

 

あはれわき妹子とことはに、

   流肌るゝ水のかはりなく、

ちぎりかはしてこの島に、

   二人くらさむ老ゆるまで。

 

こをうちきゝて少女子は、

   花のすがたもなまめきて、

ゑむもやさしきかほぼせに、

   くれなゐ深くにほふなり。

 

いま一ふしと吹きさすや、

   笛のしらべもいやすみて、

夕ぐれ淸き浦風に、

   磯うつ浪の音たかし。

 

とまやの軒にたゞずみて、

   海原遠くながむれば、

濱松が枝にいざよびて、

   今しものぼる月の影。

 

[やぶちゃん注:ここより明治三〇(一八九七)年パートに入る。四月に京都医学校三年に進級、また、この年中に刊行された医学校校友会会誌の創刊号の編集に加わっている。この年の十月四日で満二十歳。本篇は明治三十年一月十日発行の『靑年文』掲載。署名は「羅月」。

 第二連「すめ御子」の「すめ」は接頭語で、神や天皇に関わる語に付いて、尊(たっと)んで褒めたたえる意を添える。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 隱鼠(ぶたねずみ) (幻獣)

Butanezumi

 

ぶたねすみ 鼹鼠 偃鼠 鼠母 鼳【音菊】

隱鼠

 

本綱隱鼠在山林中而獸類非鼠之儔大如水牛形似猪

灰赤色脚類象而驢蹄口鋭胸前尾上白色有力而鈍性

畏狗見則主水災【梁書云倭國有山鼠如牛又有大蛇能吞之蓋日本未聞有如此者其何物耶】

 

 

ぶたねずみ 鼹鼠〔(えんそ)〕 偃鼠〔(えんそ)〕

      鼠母 鼰〔(けき〕【音「菊」。】

隱鼠

[やぶちゃん注:「〔(けき〕」の音には「ケキ」の他には「ギヤク」「キヤク」しかなく、音を「菊」とするのは不審である。「本草綱目」では反切で「古役」とする。「広韻」の反切は「古聞」であるから、これはこの「聞」を「菊」と良安が誤った可能性が考えられるか。

 

「本綱」、隱鼠、山林の中に在りて、獸の類ひにして、鼠の儔(ともがら)[やぶちゃん注:仲間。]に非ず。大いさ、水牛のごとし。形、猪に似る。灰赤色。脚、象に類して、驢〔(ろば)〕の蹄〔(ひづめ)〕。口、鋭く、胸の前・尾の上、白色。力、有りて、而〔れども〕鈍し。性、狗を畏る。〔この姿を〕見るときは、則ち水〔の〕災〔ひ〕を主〔(つかさど)〕る[やぶちゃん注:この動物が姿を表わすと甚大な水害が齎される。]【「梁書」に云はく、『倭國、山鼠有り、牛のごとし。又、大蛇、有り、能く之れを吞む』〔と〕。蓋し、日本に、未だ、此くのごとき者有るを聞かず。其れ、何物(〔も〕)〔なる〕や。】。

[やぶちゃん注:前「鼢(うころもち)」でフライングした通り、こっちについては幻獣(そもそもがだ! 時珍自身が「鼠の類じゃない」と言っているのだ!)としか言いようがないのだが、しかし、最後でなんと! 日本にこれに類した「山鼠」というのがいるっ言(つ)うじゃないの!?! ここまでくれば、取り敢えず、拘って調べるしかあるまい、と、「隱鼠」で画像検索を掛けると、一見、毛のない(実はある。後述)、上顎前歯二本がイヤミのように出歯った、なんとも「キモ可愛い」と言うしかない小さなネズミがワンサカ出てくるので、さらにこれを中文サイトで調べてみたところ、まさに「裸鼴鼠」とし、学名を「Heterocephalus glaber」としてあった。これは齧歯(ネズミ)目 Hystricomorpha 亜目ヤマアラシ顎下目デバネズミ科ハダカデバネズミ属ハダカデバネズミ Heterocephalus glaber と判明した(一属一種)ウィキの「ハダカデバネズミ」によれば(太字は私が附した)、分布はエチオピア・ケニア・ジブチ・ソマリアで、体長は十・三~十三・六センチメートル、尾長は三・二~四・七センチメートル、体重は九~六十九グラムで、『体表には接触に対して感度の高い細かい体毛しか生えていない』。『属名Heterocephalusは「変わった頭部、変な頭部」の意』で、『種小名glaberは「無毛の、毛のない」の意で』、『和名や英名(naked=裸の)とほぼ同義。口唇が襞状で』、『門歯の後ろで閉じるようになっており、穴を掘るときに土が口内に侵入するのを防いでいる』。『体毛が無いことや』、『環境の変動が少ない地中で生活するためか、体温を調節する機能がなく』、『体温も低い』。『完全地中棲』で、十匹以上二百九十匹以下(平均七十五~八十匹)もの、『大規模な群れ(コロニー』(colony)『)を形成し』て生活している。『後述するように』、『本種は哺乳類では数少ない真社会性の社会構造を持つ(哺乳類で真社会性を持つものは他に』同じデバネズミ科 Bathyergidae の『Cryptomys damarensis』(デバネズミ科 Fukomys 属ダマラランドデバネズミ Fukomys damarensis)『が知られる』『)。群れの中で』一『つのペアのみが繁殖を行い、群れの多くを占める非繁殖個体のうち』、『小型個体は穴掘りや食料の調達を、大型個体は巣の防衛を行う』。『門歯で穴を掘り、後肢を使い掘った土を後ろへ掻き出す』。『地表へ土を排出する際も、後肢を使い勢いよく』、『土を蹴り出す』。『複数の個体により』、『穴掘り・トンネル内の土の運搬・地表への土の排出を分担して行う』。六十 ~七十匹のコロニーでは、実に長さ約三キロメートルに『達する巣穴も確認されている』。『地中は温度の変動が少ないが』、『体温が低くなると』、『密集したり、逆に体温が高くなると』、『トンネルの奥へ避難する』。『植物食で、地下植物や植物の根を食べる』。『幼獣は成獣の排泄物も食べる』。『捕食者はヘビ類が挙げられ、掻き出した土の匂いを頼りに巣穴に侵入したり』、『土を掻き出している最中の個体を捕食する』。『群れの中でもっとも優位にある』一『頭の雌(繁殖メス)と』、一『頭または数頭の雄のみが繁殖に参加する。妊娠期間は』六十六~七十四日で、『飼育下では』八十『日の間隔を空けて』、『幼獣を産み』、一『回に最大』二十七『頭の幼獣を産んだ例がある』『野生下・飼育下でも年に』四~五『回に分けて』五十『匹以上の幼獣を産む』。『繁殖メスが死んだ場合は』、『巣内が平和であれば』、『複数のメスの性的活性が活発化するものの、そのうち』、一『匹のメスのみが急に成長し』、『争いも起こらず』、二~三『週間ほどで繁殖を行い』、『新しい繁殖メスになる』。『そのため』、『繁殖メスによる化学物質(フェロモン)が群れ全体に作用し』、『他の個体の繁殖が抑制されていると考えられ、集団で排泄を行う便所での尿や』、『巣内での集合場所で密着することで』、『フェロモンを発散している可能性が示唆されている』。『授乳は繁殖メスのみが行うが、幼獣の世話は群れの他個体も参加して行われる』。『飼育下の寿命は』十五『年以上で、繁殖メスでは最長で』二十八年二ヶ月の『生存記録もある』(これは齧歯類では特異的に驚異的長命と言える)。『巣の中で産まれた個体は同じ巣に留まってワーカーや繁殖個体になることが多いので、巣内で近親交配が繰り返されることになる。そのため』、『巣内の個体間の血縁度が非常に高くなる』。『これが本種の真社会性の進化を促したとする説がある(血縁選択による血縁利他主義の進化)一方で』、『親による操作説のほうが上手く説明できる証拠も示されており(女王による監視など)、議論が続いている』。『老化に対して』は『耐性があり、健康な血管機能を維持できる』。『その長寿の理由は議論されているところではあるが、生活環境が厳しい時に代謝を低下させる能力があり、それが酸化による損傷を防いでいると考えられる』。『その驚異的な長寿ゆえ、ハダカデバネズミのゲノム解析に努力が払われている』。『ハダカデバネズミは』癌『に対して高い耐性を示し、ハダカデバネズミに』癌『が発見されたことはなかった。このメカニズムは、一定のサイズに達した細胞群に新たな細胞を増殖させない「過密」遺伝子として知られているp16という遺伝子が』、癌『を防いでいるものである。ハダカデバネズミも含めたほとんどの哺乳類は、p16が活動するよりもかなり遅れた時期に活動する細胞の再生を阻害するp27と呼ばれる遺伝子を持っている。ハダカデバネズミにおいては、p16p27の共同作用が』、癌『細胞の形成の阻害としての二重防壁を形成している』。『ハダカデバネズミの産生するヒアルロン酸ががんに対する耐性の一因であるという報告もある。ハダカデバネズミのヒアルロン酸はヒトやマウスなどの他の哺乳類に比べ』、五『倍以上高分子で』、『さらに密度が高く、High-Molecular-Mass Hyaluronan (HMM-HA) と名付けられた。このHMM-HAのノックアウト、もしくはヒアルロン酸分解酵素の過剰発現により』、癌『感受性になることから、HMM-HAのがん耐性に対する関与が報告されている』。『現在では飼育個体においてハダカデバネズミの』癌『の症例が発見されている。ただし、この事はハダカデバネズミの高い』癌『耐性を否定するものではない』。さらに、二〇一七年四月に『科学誌『サイエンス』電子版に発表された研究結果によると、ハダカデバネズミは酸素がない環境で』十八『分も耐え、大きなダメージも残らなかったという』。『無酸素状態になった際、通常の酸素呼吸とは別の仕組みでエネルギーを生み出したとみられ』、『研究チームは「心臓病などで、無酸素状態になった際に起こる損傷を防ぐ治療につながる可能性がある」としている。チームはマウスとハダカデバネズミを使い、それぞれ酸素濃度が』五%と〇%(無酸素)の『状態において』、『様子を観察した。その結果、マウスはいずれの条件下でも間もなく死んだのに対し、ハダカデバネズミは酸素濃度』五%は五時間、無酸素下でも十八分間、『耐えることができた』。無酸素下では『心拍数は大きく低下し』、一『分間に』五十『回程度になったとい』い、また、『無酸素状態では、ハダカデバネズミの体内で糖類の一種の果糖が増えていることが確認できた。通常時のエネルギー源であるブドウ糖の代わりに』、『果糖を使って、脳や心臓といった生存に関わる組織にエネルギーを供給していると考えられる』とある(彼ら、侮れん!!!)。と言っても、サイズ、小さ! 本種のモデルになるには小さ過ぎるし、だいたいからして中国におらんて!……因みに、とある御仁はこれをかの「トトロ」の実在証拠とされておられたことを言い添えておく。但し、残念乍ら、私の尊敬する手塚治虫先生の追悼すべき記事に於いて、アニメーションをだめにしたとする批判(しかし概ねその理屈は正しいのだが)のみを語って平気の平左であった忌まわしい宮崎駿を私は永久に認めない人間である。悪しからず

「梁書」南朝梁の正史。盛唐の姚思廉撰。全五十六巻。六三六年頃の成立。記述は公平で、引用文以外は叙事に適した古文を用いている。梁代の研究に最も重要な書物とされる。当該箇所は「巻第五十四」の「列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎」の一節。太字は私が附した。

   *

倭者、自云太伯之後、俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絕遠。從帶方至倭、循海水行。歷韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至祁馬臺國。卽倭王所居。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。民種禾稻籥麻、蠶桑織績。有姜・桂・橘・椒・蘇、出黑雉・眞珠・靑玉。有獸如牛、名山鼠。又有大蛇吞此獸。蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射之中、蛇則死矣。物產略與儋耳、朱崖同。地溫暖、風俗不淫。男女皆露紒。富貴者以錦繡雜采爲帽、似中國胡公頭。食飮用籩豆。其死、有棺無槨、封土作塚。人性皆嗜酒。俗不知正歲、多壽考、多至八九十、或至百歲。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶兩三妻。婦人無淫妒。無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子重則滅其宗族。

   *]

薔薇 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    薔  薇

 

 八月の末……秋はもう迫つてゐた。

 太陽は沈みかけてゐた。はげしい驟雨(ゆふだち)が雷鳴(かみなり)も電光(いなびかり)も伴はないで、今しも此の廣野を颯と過ぎて行つた。

 家の前の庭園は夕紅(ゆふやけ)の光と雨後(うご)の行潦(にはたづみ)とにすつかり燃え立つて、水蒸氣をあげてゐた。

 彼女は客間の卓子(テエブル)に向つて、ぢつと思ひに耽つて、半ば開かれた扉から庭園(には)を眺めてゐた。

 私はその時彼女の心に思つてゐることを知つてゐた。私は彼女が暫しではあつたが烈しい苦鬪ののち、この瞬間に最早その打克つことの出來ない或る感情に屈服してしまつたことを知つてゐた。

 突然彼女は立上つて、急いで庭園(には)に出て行つて、見えなくなつてしまつた。

 一時間たつた……また一時間。彼女は歸らなかつた。

 そこで私は立上つて、外(そと)へ出て、彼女が通つて行つた並本道ヘ―其處を行つたに違ひない――向つた。

 あたりはとつぷり暮れて、もう夜(よる)になつてゐた。けれども步道(みち)の濡れれた砂の上に私は何だか圓いやうなものを認めた――それは暗を透してさへくつきり紅(あか)かつた。

 私は身を屈(かゞ)めた。それは鮮かな咲き立ての薔薇であった。二時間前彼女の胸に見たその薔薇であった。

 私はそつとその泥の中に落ちてゐた花を拾(ひろ)ひ上げて、そして客間に戾つて、それを卓子(テエブル)の彼女の椅子の前に置いた。

 するととうとう彼女も歸つて來た。輕い足どりで部屋一杯に橫ぎつて、卓子に向つて腰をかけた。

 彼女の顏は一層蒼(あを)く、また一層生々(いきいき)してゐた。いくらか小さく見える彼女の眼は嬉しさにどぎまぎしたやうに、伏目がちに忙しげにあたりを見廻してゐた。

 彼女は薔薇を見ると、それを取上げて、くしやくしやになつて汚(よご)れたむ花瓣(はなびら)を眺め、私を眺めた。そしてその眼は急にぢつと据わつて、淚が輝いた。

『何故(なぜ)泣くのです?』と私は訊(き)いた。

『まあ此の薔薇を御らんなさい。こんなになつてしまひましたわ』

 その時私は何か意味深いことを言はうと思ひ附いた。

『あなたの淚はその泥を洗ひませう』と私は意味ありげに言つた。

『淚は洗ひはしません、燒いちまひますわ』と彼女は答へた、そして壁煖爐(カミン)の方へふり向いて、消えかゝつてゐる焰(ほのほ)の中に蕎薇を投(な)げ込(こ)んだ。

『火は淚よりもよく燒きますわね』と彼女は氣輕に叫んだ。そして彼女の愛らしい眼は、やつぱり淚で輝いてはゐたが、氣輕に樂しさうに笑つた。

 私は思つた、彼女もまた火の中にゐたのであると。

    一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:「壁煖爐(カミン)」Kamin。ドイツ語「カミーン」で、壁に据え付けた煙突附きの暖炉を指す。これによって、本篇は「序」で生田が言っているドイツ人と思われる翻訳家(恐らくはヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange))のドイツ語訳を用いているものと判る。]

太平百物語卷五 卅九 主部隼太化者に宿かりし事

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太平百物語卷之五

   ○卅九 主部隼太(とのべはやた)化者に宿かりし事

 伊豫の國に主部隼太といふ者あり。

 川(かはの江(ゑ)といふ所より、松山に用ありて行(ゆく)とて、東空(しのゝめ)の比(ころ)、宿(たど)を立出(たちいで)て、道を急ぎけるが、凡(およそ)、四、五里も行とおもへば、俄に、日、暮たり。

 隼太、おもふ樣、

『日は未(いまだ)午(むま)の刻には過(すぐ)べからず。然(しか)るに、かく、日の暮ける事のふしぎさよ。』

とおもひ、向かふの方(かた)をみれば、農人(のふにん[やぶちゃん注:ママ。])の家(いへ)と見へて、灯(ともしび)の光、幽(かすか)に見へけるを便りて、表を叩きければ、内より、あやしげなる老女、立(たち)いで、

「たぞ。」

と答へしまゝ、

「さん候ふ。是は旅人にて候ふが、未(いまだ)日は高く侍ると思ひしに、俄に暮たり。此所に一夜(いちや)を明(あか)させたび候へ。」

といふ。

 老女、きゝて、

「子細候はじ。此方(こなた)へ入らせ玉へ。」

とて、頓(やが)て宿をかしけり。

 隼太、悅び、内に入りて休らひけるが、しばらくありて、隼太がふしける後(うしろ)の壁、

「めりめり。」

と。ゆるぎ出(いだ)し、そこらの柱より、臥居(ふしゐ)たる床(ゆか)に至るまで、殘りなくゆるげば、

「扨は、地震にや。」

と、暫くは、こらへけれども、次第次第に强くなりて、はや、臺所の方(かた)は、柱、たふれ、やね、落(おち)ければ、

「こは、いかに。」

と、迯出(にげいで)んとするに、納戶も崩れ、隼太が傍(そば)の柱も倒れかゝりて、天井、終に隼太が上に落たりければ、今は、なかなか動くべきやうもなくて、聲をばかりに泣(なき)さけび、

「やれ、人々よ、助け給へ。」

と、わめきければ、往來(ゆきゝ)の人々、これを聞付(きゝつけ)、立(たち)より見るに、とある三昧(さんまい)[やぶちゃん注:「三昧場(さんまいば)」。墓場のこと。本来は僧が中に籠って死者の冥福 を祈るため、墓の近くに設ける堂であるが、そこから転じて、墓所や葬場を指すようになった。]に、卒都婆木(そとばぎ)おほく、引かづき、泣ゐたりしかば、ありあふ人々、あきれ果て、やうやうに助けおこせば、隼太、茫然として、そこらをみるに、皆々、墓所(はかしよ)にて、「柱」と見しは、「そとば木」にて、「夜(よる)」とおぼへしも、其まゝ元の「日昼(につちう)」となりければ、隼太は大きに打驚(うちおどろ)き、もと來(き)し道に助け出(いだ)され、夫(それ)より、松山へは行かずして、引返(ひつかへ)し、川の江に歸りしとなり。

「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける。」

とぞ申し合(あひ)ける。

[やぶちゃん注:「川の江」現在の愛媛県四国中央市川之江町(かわのえちょう)(グーグル・マップ・データ)及びその周縁地区。松山へは実測で九十キロメートル弱。

「四、五里」川之江からだと、実測では四国中央市土居(どい)町(グーグル・マップ・データ)かその手前の土井町野田附近となる。

「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける」という種明かしは、何故、牡狐(おぎつね)が主部隼太を憎んだのかが示されておらず、不全である。]

太平百物語卷四 卅八 藥種(やくしゆ)や長兵衞(ちやうびやうゑ)金子(きんす)をひろひし事

   ○卅八 藥種や長兵衞金子をひろひし事

 泉州界(さかい)[やぶちゃん注:ママ。固有名詞地名の大坂の堺のこと。]に藥種屋長兵衞といふ人、有(あり)。

 生得(しやうとく)、律義(りちぎ)なる人にて、常に此所の天神を崇敬(そうぎやう)し、每朝(まいてう)、怠る事なく社參しけるが、或日の事なりし、每(いつも)のごとく、未明に起き出でて參詣し、神前にぬかづき、歸らんとせしが、道の傍(かたはら)に、淺黃縞(あさぎしま)のさい布壱つ、落(おち)てあり。取り上げ見れば、金子(きんす)なり[やぶちゃん注:ずしりと持ち持ち重りのするのは明らかに多額の金子が入っていると見たのである。]。

『こは、誰(たれ)人の落しつらん。』

とおもひながら、先(まづ)取歸(とりかへ)り、改め見れば、五十兩包(つゝみ)にして、二つあり。

 長兵衞、思ひけるは、

『我、はからずも大分(だいぶん)の小判を拾ひたり。これ、我(わが)幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に似たれども、落せし人の難義(なんぎ)[やぶちゃん注:ママ。]をおもへば、我(わが)悅びの十倍ならん。所詮、御(おん)奉行所へ訴へ、町中(まちぢう[やぶちゃん注:ママ。])に御觸(おふれ)を願ひ、辻小路(つぢかうじ[やぶちゃん注:ママ。])に札(ふだ)を出(いだ)さば、金主(かねぬし)出來(いできた)らん事は有(ある)まじ。』

と、おもひ定め居(ゐ)る所に、常々こゝろやすく出入する五介といふ者、來(きた)りければ、長兵衞、此事を五介に語るに、五介がいふやう、

「それは心得ぬ事かな。左程の金子を、落すべき物、ならず。まづ、其金子を見せ玉へ。」

といふに、頓(やが)で[やぶちゃん注:ママ。]取出(とりいだ)し見せければ、五介、能(よく)々見定め、大きに笑つていはく、

「これ、誠の小判なるまじ。御身、常々律義(りちぎ)なる人ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]狐のたぶらかしける物なり。見給へ、明日(あす)も、又、不思議あらん。若(もし)、さもなくば、誠の金子ならめ。先(まづ)、一兩日(りやうにち)御待(まち)あつて、奉行所へ訴へ玉へ。」

といふに、長兵衞も、

『いか樣。』

とおもひて、其日の訴へ、延引せり。

 翌(あく)れば、長兵衞、例のごとく、疾(とく)起出(おきいで)て、

『天滿宮(てんまんぐう)へ參らん。』

と思ひ、表の戶口を開けば、檜臺(ひのきだい)の上に、何やらん、杉原(すぎはら)にて包みたる物あり[やぶちゃん注:「檜臺」ヒノキ材を平たい台状に削り出した台板であろう。檜材は当時は高級品であった。「杉原」杉原紙のこと。播磨 国杉原谷(現在の兵庫県多可郡多可町)原産の和紙。コウゾを原料とした高級品で、奉書紙よりも薄く柔らかい。鎌倉時代以降、慶弔・目録・版画などに用いられ、贈答品としても重宝された。但し、近世には各地で生産された。]。

 長兵衞、あやしくおもひながら、取入置(とりいれおき)て、天神宮(てんじんぐう)へ參詣し、急ぎ、歸り、五介を呼寄(よびよせ)、此体(てい)を語りて、さし出(いだ)し、みせければ、五介、是をみて、

「さればこそ。」

と、まづ、杉原の包を明(あけ)て見るに、内には芥(あくた)に馬(むま)の糞(ふん)をつゝみ、砂にまじへて包み置きたり。

 五介、長兵衞にいひけるは、

「御覽候へ。昨日(きのふ)、わがいひしに違(たが)はず。是、狐の所爲(しわざ)に極(きはま)りたり。昨日の金子も、はやく出(いだ)し玉へ。久しくおかば、いかなる災ひかあらん。某(それがし)、何方(いづかた)へも捨(すて)まいらせ申さん[やぶちゃん注:「まいらせ」はママ。]。」

と、いふ。

 長兵衞、よろこび、頓(やが)て財布を取出、五介に渡し、

「能(よき)にはからひたび玉へ。」

と賴めば、

「御心安(こゝろやす)かれ。」

とて、金子百兩と檜臺とを受け取りて、出でける。

 長兵衞は心をやすんじ、

「災(わざはひ)あらじ。」

と悅びけるが、後(のち)に能(よく)々きけば、金子は誠の金子にて、檜臺と杉原包は、五介が金子を橫取(よこどり)せん爲(ため)の工(たくみ)なりとぞ聞へける。

 然(しかれ)ども、道に背(そむき)たる事なれば、此五介、俄に癩病(らいびやう)を煩らひ出(いだ)して、彼(かの)金子も、いつしか療治の爲に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])はて、次㐧に、形(かた)り、くづれ、剩(あまつさ)へ、狂氣となり、每日、町小路(まちかうぢ)を裸になりて、くるひ步(あり)きしが、終に、苦しみ、死(しゝ)ける。

 これを聞く人、

「誠に眼前の天罸(てんばつ)なり。」

とて、皆々、眉をひそめて、恐れあひけるとぞ。

 

 

太平百物語卷之四終

[やぶちゃん注:今回は本文ブラウザでの標題の不具合を考えて、タイトルの方にルビを配した。悪事の因果応報譚(それも差別されたハンセン病罹患という差別的な不快なそれ)を最後に附け足してあるが、これは偶発に基づく擬似怪談であって、差別助長の点も大きく働き、私は本書の中では特異的に全く評価しない。

「五十兩包(つゝみ)にして、二つあり」本書は享保一七(一七三三)年板行で江戸中期初めであるから、現在の一両は時代換算サイトでは九万円から十万円相当と考えられてあるので、九百万円から一千万円相当となる。

「癩病」現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(細菌ドメイン放線菌門放線菌綱コリネバクテリウム目 Corynebacteriales マイコバクテリウム科 Mycobacteriaceae マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「い予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は完全に解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように、単なる「言葉狩り」をしても、各人の意識の変革なしには差別は永久になくならない)。ともかくも、コーダの部分はハンセン病への正しい理解を以って批判的に読まれることを強く望むものである。]

2019/05/21

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼢(うころもち)・鼧鼥 (モグラ・シベリアマーモット)

Ugoromoti

 

 

うころもち 田鼠 鼹鼠

      隱鼠

【音焚】

     【別有名隱鼠

      者同名異種】

      【和名宇古

       呂毛知】

 

本綱鼢狀如鼠而大脚短尾長寸許目極小項最短其身

肥多膏黒色尖鼻甚強常穿地中而行能壅土成坌見日

月則死月令季春田鼠化爲鴐八月鴐爲鼠是二物交化

如鷹鳩然也鴐乃鶉類也伯勞化鼢櫛魚化鼢則鼢之化

不獨一種也

△按鼢狀似鼠而肥毛帶赤褐色頸短似野猪其鼻硬白

 長五六分而下觜短眼無眶耳無珥而聰手脚短五指

 皆屈但手大倍於脚常在地中用手掘土用鼻撥行復

 還舊路時仰食蚯蚓柱礎爲之傾樹根爲之枯焉聞人

 音則逃去早朝窺撥土處從後掘開從前穿追則窮迫

 出外見日光卽不敢動竟死又畏海鼠

肉【鹹寒】 治癰疽爛瘡痔瘻瘡疥小兒食之殺蚘蟲【皆燔之食】

 今俗用鼢手搔疥癬治者有所以也乎

――――――――――――――――――――――

鼧鼥

[やぶちゃん注:以下の二行分は原典では項目の下に一字空けで記載されている。]

 土撥鼠荅刺不花○本綱生西蕃山澤間穴土

 爲窠形如獺夷人掘取食之其皮可爲裘甚暖

 濕不能透

△按鼧鼥乃鼢之類而大者生西域

 

 

うころもち 田鼠 鼹鼠〔(えんそ)〕

      隱鼠〔(いんそ)〕

【音「焚〔(フン)〕」。】

     【別に「隱鼠」と名づくる有り。

     〔然れども、〕同名異種の者なり。】

      【和名「宇古呂毛知」。】

[やぶちゃん注:「うころもち」の「こ」には、原典、濁点の痕跡のようなものが見えなくもないが(ドット状の小点なので単なる汚損の可能性が高い)、清音表記も通していたので、「うころもち」とする。]

 

「本綱」、鼢、狀、鼠のごとくにして、大なり。脚、短く、尾の長さ寸許り。目、極めて小さし。項〔(うなじ)〕、最も短く、其の身、肥えて膏〔(あぶら)〕多し。黒色。尖りたる鼻、甚だ強し。常に地中を穿ちて行き、能く土を壅〔(よう)〕し[やぶちゃん注:塞ぎ。]、坌〔(ふん)〕[やぶちゃん注:ここは掘り返すことで生じたこんもりとした小さな盛り上がりを指す。]を成す。日月を見るときは、則ち、死す。「月令〔(がつりやう)〕」に、『季春[やぶちゃん注:陰暦三月。]、田鼠〔(もくらもち)〕、化して鴐(かやくり)と爲り、八月に、鴐、鼠と爲る』〔と〕。是れ、二物〔の〕交(こもごも)化して〔→すは〕、鷹〔と〕鳩〔とに〕然り。鴐は乃〔(すなは)〕ち「鶉〔(うづら)〕」の類ひなり。伯勞〔(もず)〕、鼢に化し、櫛魚〔(たびらこ)〕、鼢に化〔せば〕、則ち、鼢の化、獨り、一種ならざるなり。

△按ずるに、鼢、狀、鼠に似て、肥え、毛は赤褐色を帶ぶ。頸、短きこと、野猪(ゐのしゝ)に似て、其の鼻、硬く白く、長さ、五、六分にして、下の觜〔(くちさき)〕、短く、眼に眶(まぶた)無く、耳に珥(〔みみ〕たぶ)無く、而〔れども〕聰(みゝと)し[やぶちゃん注:耳がよい。「東洋文庫」は『聰(さと)い』と訳すが、原文に即した訳とは言い難いので採れない]。手・脚、短く、五指、皆、屈(かゞ)まり、但し、手の大(ふと)さ、脚より倍し、〔→す。〕常に地中に在りて、手を用ひて土を掘り、鼻を用ひて撥(ひら)き行き、復た、舊路に還る。時に仰(あをむ[やぶちゃん注:ママ。])きて、蚯蚓〔(みみず)〕を食ふ。柱礎、之れが爲めに傾き、樹〔の〕根、之れが爲めに枯るる。人の音を聞けば、則ち、逃げ去る。〔人〕、早朝、土を撥〔(あば)〕く處を窺〔ひて〕、後(しりへ)より掘り開き、前より穿〔(うが)ちて〕追ふときは、則ち、窮迫して、外に出で、日光を見るときは、卽ち、敢へて動かず、竟〔(つひ)〕に死す。又、海鼠(とらご)[やぶちゃん注:ナマコ。]を畏る。

肉【鹹、寒。】 癰疽〔(ようそ)〕・爛瘡・痔瘻・瘡疥〔(さうかい)〕を治す。小兒、之れを食へば、蚘蟲〔(かいちう)〕を殺す【皆、之れを燔〔(あぶ)りて〕食す。】。今、俗、鼢の手を用ひて、疥癬(ぜにかさ)、搔きて治すといふ者、所以(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])有るなり〔とする〕か。

――――――――――――――――――――――

鼧鼥〔(たはつ)〕

「土撥鼠〔(どはつそ)〕」。「荅刺不花〔(たうらふくは)〕」。[やぶちゃん注:以上は異名なので、ここで改行した。]

○「本綱」、西蕃〔(せいばん)〕[やぶちゃん注:明代から中華民国期にかけて、甘粛・四川・雲南地方の漢民族が隣接するカム地方(チベット東部地方。元・明代の地理史料では「アムド」(チベット高原東北部を構成する地方の一つ)とともに「吐蕃(とばん)」の「朶甘(だかん)」と一括して呼ばれた。現在は中華人民共和国チベット自治区東部・青海省東南部・四川省西部・雲南省北西部に分割されている)のチベット系民族を指して用いた蔑称。]の山澤の間に生ず。土に穴〔ほりて〕窠〔(す)〕を爲〔(つく)〕る。形、獺〔(かはうそ)〕のごとし。夷人、掘り取りて、之れを食ふ。其の皮、裘〔(かはごろも)〕に爲〔(つく)〕るべし。甚だ暖かにして、濕、透(とほ)すこと能はず。

△按ずるに、鼧鼥は、乃ち、鼢(うころもち)の類ひにして、大なり者〔なり〕。西域に生ず。

[やぶちゃん注:概ね(特に良安の記載)、哺乳綱トガリネズミ形目 Soricomorphaモグラ科 Talpidae のモグラ類と認識してよいが、この「鼢」は中国では全くの別な種をも指す(後述)ので注意が必要である。先に言っておくと、本邦での「モグラ」類の呼称は「うころもち」「うごろもち」の他にも、小学館「日本国語大辞典」の「うごろもち」の方言の部分によれば、「おごらもち」「おごろもち」「おもろもち」「おんごこもち」「んごろもち」が挙げられ、別見出しでモグラの異名として「うごろ」を挙げ、その方言に「おごろ」「おんごら」「おんごろ」を示す。他にも調べてみると「おんごろもち」「おぐろもち」「おぐらもち」など多様である。恐らく「うころ」「うごろ」は、「土地が有意に高く盛り上がる」の意の「うごもつ」「うぐもつ」(墳つ)が語源と思われ、その名詞形で既に「墳(うぐろもち)」が古くに存在するから(観智院本「類聚名義抄」(十一世紀末から十二世紀頃に成立した原本の鎌倉末期の書写。原撰本を増補改編した系統の一本)に所収)、モグラが持ち上げて形成された小さな、まさに土饅頭(墳)状のあれから生まれた名と考えて間違いない。

 まず、本邦産種を挙げる。ウィキの「モグラ」によれば、本邦には四属七種が棲息し、そのすべての種が日本固有種とされている。

Talpinae亜科Urotrichini族ヒメヒミズ(日不見)属ヒメヒミズ Dymecodon pilirostris(本州・四国・九州に分布。以下同じ)

頭胴長は約七~八センチメートルと、非常に小型。以下のヒミズと競合する生息域では個体数が減少する傾向にあり、現在では主に、ヒミズの進出し難い、標高の高い岩礫地に棲息している。はっきりしたトンネルは掘らず、落ち葉の下などで単独で生活している。一属一種。

Talpinae亜科Urotrichini族ヒミズ属ヒミズ Urotrichus talpoides(本州・四国・九州・淡路島・小豆島・対馬・隠岐など)

落ち葉や腐食層に浅いトンネルを掘り、夜間には地表も歩き回るという半地下性の生活を営んでいる。一属一種。

Talpinae亜科Talpini族ミズラモグラ(角髪土竜。因みに、本邦で「もぐら」を意味する、「土竜」は「もぐら」の掘ったトンネル部が竜のように見えたために当てられたものであろうが、中国では「地龍」と書いて「もぐら」に食われる「ミミズ」を指す語である。古い時代に「ミミズ」を示す「地龍」「土龍」が本邦に入ってきた際、穴のスケールから誤解して「もぐら」に当ててしまった可能性が高い)属ミズラモグラ Euroscaptor mizura(本州の青森県から広島県にかけて)

本州からしか発見されておらず、棲息数は少ない。

Talpinae亜科Talpini族モグラ属 Mogera(この属名和名は、これを命名記載したフランスの地質学者・古生物学者ニコラス・オーギュスト・ポメール(Nicolas Auguste Pomel 一八二一年~一八九八年:一八四八年命名で弘化五・嘉永元年に当たるが、彼は日本には来ていないものと思われる)が又聞きの日本語「Mogura」を聞き違えたか、記載の際にスペル・ミスしてしまったことで今日に至っている)アズマモグラ Mogera imaizumii(本州(基本的に中部以北であるものの、紀伊半島・広島県などに孤立した小個体群が棲息している)・四国(剣山及び石鎚山)・小豆島・新潟県粟島)

主に東日本に分布する。

モグラ属コウベモグラ Mogera wogura(本州(中部以南)・対馬・種子島・屋久島・隠岐など)

西日本に生息する大型種で、アジア大陸に近縁種が分布している。

モグラ属サドモグラ Mogera tokudae(本州(越後平野)・佐渡島)

農業基盤整備事業等による環境の改変のため、越後平野の主要な生息地が大型モグラの生息に不利な環境となり、小型種のアズマモグラが侵入するとともに、エチゴモグラは分布域を縮小しつつある。

モグラ属センカクモグラ Mogera uchidai(尖閣諸島)

一九七六年に採取され、一九九一年に新種認定された。模式標本は尖閣諸島に属する約四平方キロメートルしかない魚釣島の海岸近くの草地で捕獲された♀の一体で、それのみしか確認されていない。環境から見て、棲息数は非常に少ないと考えられているが、一九七八年に魚釣島に持ち込まれたヤギの大増殖による環境破壊のため、存続が危ぶまれている。

 以下、「モグラ」の汎論的記載。棲息域はヨーロッパ・アジア・北アメリカで、『南半球では確認されていない』。大きさは大型のTalpinae亜科Desmanini族ロシアデスマン属ロシアデスマン Desmana moschata では十八~二十二センチメートル、小型種では既に書いたヒメヒミズを見られたい。全体に、『体型は細長く、円筒形』で、一般には、『全身が細かい毛で覆われ、鼻先だけが露出している。触覚が発達し、鼻面や尾などに触毛がある』。やや細かに見ると、モグラ属の『モグラ類は短い体毛、ヒミズ類は粗い体毛と下毛、デスマン類は防水性の密な下毛と油質の上毛で被われる』。『主に森林や草原の地中に生息するが、デスマン類は水生で河川や湖に生息する』。『眼は小型で体毛に埋まり、チチュウカイモグラ』(Talpinae亜科Talpini族ヨーロッパモグラ属チチュウカイモグラ Talpa caeca)『などのように皮膚に埋もれる種もいる』。『明度はわかるものの、視覚はほとんど発達しない』。『ヒミズ類の一部を除き耳介はない』。『鼻面は長く管状で、下唇よりも突出する』。『鼻面には触毛を除いて体毛はなく、ホシバナモグラ』(Scalopinae亜科Condylurini族ホシバナモグラ属ホシバナモグラ Condylura cristata)『では吻端に肉質の突起がある』。『モグラ類は前肢が外側をむき』、『大型かつ』、『ほぼ円形で』、五『本の爪があり』、『土を掘るのに適している』。『これらは地下で穴を掘って暮らすための適応と考えられ』。『また、前足は下ではなく』、『横を向いているため、地上ではあまり』前足を効率よく運動させることが出来ない。但し、水辺での生活を好む『デスマン類では』、『前肢の指に半分ほど、後肢の趾の間には水かきがあり』、『指趾に剛毛が生え』、『水をかくのに』都合がいいように適応している。『陰茎は後方に向かい、陰嚢』は持たない。『単独で生活し、それぞれの個体が縄張りを形成する』。『主に周日行性で』一『日に複数回の活動周期がある種が多いが、デスマン類は夜行性傾向が強い』。『主に昆虫、ミミズなどを食べる』が、水辺を好む『デスマン類は魚類や両生類などの大型の獲物も捕食する』。『食物を蓄えることもある』。『年に』一『回だけ』二~七『匹』『の幼獣を産む』。『モグラは地下にトンネルを掘り、その中で』主に『生活する。ただし、掘削作業は重労働であるため』、『積極的に穴掘りを行うわけではなく、主となるのは』、『既存のトンネルの修復や改修である。地表付近にトンネルを掘ったり、巣の外へ排出された残土が積みあがるなどの理由で、地上には土の盛り上がった場所ができる。これを「モグラ塚」という』。『地中に棲むミミズや昆虫の幼虫を主な食物としている。多くの種に見られる狩猟法は、一定の範囲内に掘られたトンネルに』、『偶然』に出くわしてしまった『獲物を感知・採取するという方法である。そのため、モグラのトンネルは巣であるのと同時に狩猟用の罠と』も『なっている』。『モグラが地上で死んでいる例が時々見られ』ることから、『「太陽に当たって死んだ」とされ、モグラは日光に当たると死ぬと言われ』、ここでも、時珍も良安も口を揃えてまことしやかに「日光に当たると死ぬ」と記しているが、これは全くの誤りである。ろくに観察もせず、モグラは地中にのみ住み、地上には出てこない、だから、太陽に当たると死ぬ(陰陽五行説風に言えば完全な「陰気」の)生物と誤解されてきただけで、実際には、モグラはしばしば昼間でも地上に現われるのである。『人間が気付かないだけである。死んでいるのは、仲間との争いで地上に追い出されて餓死したものと考えられ』、『モグラは光を認識しないため、明るいところで飼育することも可能である』(実際に私も、熱帯魚用の水槽の中で飼育されていて、地表で餌を摂餌しているのを見たことがある)。『実際、モグラは非常な大食漢で、胃の中に』十二『時間以上』、『食物が無い』状態になると、『餓死してしまう。この特性を知らないでモグラを飼い、餌を与えきれずに死なせてしまうことが少なくない』。『なお、餌が手に入らなかった場合の対策として、唾液に麻酔成分が含まれており』(現行の知見では人間には無毒であるらしい)、『それによって獲物を噛んで仮死状態にして巣に貯蔵しておくという習性を持つものが存在する』。『地中での生活が主であるが』、『実は泳ぎが上手く、移動中やむなく水辺に当たった場合などは』、『泳いで移動をする』とある。

 さて、冒頭に述べた問題点に移る。同ウィキには実は、中国語では広義の「モグラ」類は「鼴」「鼴鼠」「鼢」「鼢鼠」と漢字表記するとあるのだが、学名としての「鼢」は、『齧歯目のモグラネズミ(モグラネズミ属 Myospalax)を指す』とあるのである(太字は私が附した)。これは体型がモグラに似ているものの、

齧歯(ネズミ)目ネズミ亜目ネズミ下目ネズミ上科メクラネズミ科モグラネズミ属 Myospalax

で全く縁遠い生物種なのである。しかも彼らは中国からモンゴル東部・シベリア南部にかけて八種も分布しているグーグル画像検索「Myospalaxを掲げておくが、「本草綱目」の時珍を始めとする中国の古い本草学者たちが「モグラ」と「モグラネズミ」を混同して可能性は高いしかし……だ……この画像群、凝っとよく見ていると、「モグラネズミ」の皮革は……、これ、如何にも暖かそうじゃないかい!? それに……よく肥えていてモグラより遙かにデカいぞ! 食いでもありそうじゃないかい?! 或いは「鼢」はやっぱり「もぐら」で、実は後に出る「鼧鼥〔(たはつ)〕」こそがこの「モグラネズミ」じゃないのか!?――と行ってメデタシメデタシと纏めたいところなのだが――「鼧鼥」――は残念ながら、別種である(後述)。

「別に「隱鼠」と名づくる有り。〔然れども、〕同名異種の者なり。」次の独立項「隱鼠(ぶたねずみ)」のこと。別名も「鼹鼠」が一緒で、他に「偃鼠」「鼠母」「鼰【音「菊」。】」おある。たまには句読点と記号だけのもので、お目にかけましょうか。

   *

「本綱」、隱鼠、在山林中、而獸類、非鼠之儔。大、如水牛。形、似猪。灰赤色。脚類象、而驢蹄。口鋭、胸前尾上、白色。有力、而鈍。性、畏狗。見、則、主水災【「梁書」云、『倭國、有山鼠如牛。又、有大蛇、能吞之。蓋、日本未聞有如此者。其何物耶。】。

   *

私が既に実在生物の同定比定をする気を始める前からなくしているのがお判り戴けましょうぞ。

「月令〔(がつりやう)〕」「礼記」の「月令」(がつりょう)篇(月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。そうした記載の一般名詞としても用いる)。以下は実は「鼠」の項に既に出て、既注なのだが、再掲すると、

   *

桐始華、田鼠化爲鴽、虹始見、萍始生。

   *

この「鴽」には東洋文庫訳では割注で、『家鳩もしくはふなしうずら』とする。ところが、既に電子化注した「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉(うづら)(ウズラ)」には「鴽」に良安は「かやくき」というルビを振っているのである(但し、そこでも東洋文庫版は『ふなしうずら』と訳ルビしてある)。現行ではフナシウズラは「鶕」で、鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名であり、「ウズラ」とはつくものの、真正のキジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica とは全く縁遠い種である。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみである。されば、そこで良安が「かやくき」と和名表記したそれは、種としての「フナシウズラ」ではないと私は考えた。「かやくき」は、調べてみると、「鷃」の漢字を当ててあり、これはウズラとは無関係な(この漢字を「うずら」と読ませているケースはあるが)、スズメ目スズメ亜目イワヒバリ科カヤクグリ属カヤクグリ Prunella rubida の異名であることが、小学館「日本国語大辞典」で判明した。しかも上記の「鶉」の次の項が「和漢三才図会」の「鷃(かやくき)」なのであった(但し、そこには『鷃者鶉之屬』(「本草綱目」引用)とはある)。この日中の同定比定生物の齟齬のループから抜け出るのはなかなかに至難の技ではある。軽々に比定は出来ない。なお、「田鼠」について、ミクシィのさる中国語に堪能な方の過去記事に、『中国で、「田鼠」が「もぐら」を指したことはないよう』だ、とあったのには、びっくりした。「本草綱目」にちゃんと出てるし、「礼記」の「月令」のこの「田鼠」がその片の言うように、現行中国語と同じ「東方田鼠」、大量発生して甚大な被害を齎す「野ネズミ」である、齧歯(ネズミ)目ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科ハタネズミ属オオハタネズミ Microtus fortis を指すのだとしたら、「礼記」の「月令」も地に落ちたもんだと私は思う。だったら、「月令」の注には、私だったら、「鴽」に化した後に全部狩り取って食べて仕舞えば、鼠害を免れしむと絶対に書くだろう。

「是れ、二物〔の〕交(こもごも)化して〔→すは〕、鷹〔と〕鳩〔とに〕然り」この全く異なった生物の、突然に発生する交換的化生説は、鷹と鳩との間に生ずる「それ」と全く同じこと(現象)である。これによって、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」の腑に落ちなかった箇所、則ち、そこの本文(「本草綱目」の引用のみ)の終りの箇所、

   *

蓋し、鷹と鳩とは「氣」を同じくし、「禪化〔(ぜんか)〕」する。故に得て、「鳩」と稱す。

   *

の意味が判然と腑に落ちた。やはり、鷹もある時、鳩になり、鳩もある時、鷹に変ずる、というのである。

「伯勞〔(もず)〕」私の好きな、スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず)(モズ)」を参照されたい。但し、そこにはこの化生についての言及はない。

「櫛魚〔(ふな)〕」「東洋文庫」訳はこの読みを『ふな』とするが、この熟語は狭義のコイ目コイ科コイ亜科フナ属Carassius を指してはいない。私の古い「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「※(たびらこ)」(「※」=「魚」+「節」)があり、その本文は以下である。

   *

「本綱」に、『※〔(たびらこ)〕は鯽〔(ふな)〕と同じくして、味、同じからず。功も亦、及ばず。狀、鯽〔(ふな)〕に似て、小さく、且つ、薄く、黑くして、揚赤[やぶちゃん注:赤みがかっているの意か。]。其の形、三つを以つて率と爲す。一つは前、二つは後、婢妾〔(ひせふ)〕のごとく、然り。故に婢と名づけ、妾と名づく』と。又、時珍曰はく、『孟詵〔(もうしん)の〕「※は是れ、櫛の化し、鯽は是れ、稷米〔(きび)〕の化して成る」と言ふは、殊に、謬説〔(べうせつ)〕なり。惟だ、鼢鼠(うくろもち)、※に化し、※、鼢鼠に化すとは、「霏雪錄〔(ひせつろく)〕」の中に嘗つて之れを書す。時珍も亦、嘗つて之れを見る。此れ亦、生生化化の理〔(とこわり)〕なり。鯽・※、子、多し。盡く、然るには、あらざるのみ』と。

△按ずるに、※は鯽に似て、脊、黑く、腹、白し。形、薄く匾〔(ひらた)〕く、やや團〔(まる)〕し。大抵、二、三寸ばかり。恰(あたか)も木〔(こ)〕の葉に似、又、櫛に似る。其の小なる者は、腹〔の〕尾に近き處、微赤〔にして〕、味、美ならず。鯽を襍(まじ)へて[やぶちゃん注:「混じへて」。混ぜて。]之れを販〔(ひさ)〕ぐ。或いは、腌(しほづけ)に爲して食ふ。蓋し、櫛及び鼢鼠、化して※と成るの兩説、並びに信じ難し。新たに池を掘り、雨水、春夏の陽氣を感ずるときは、卽ち鯽・※、自生して、牝・牡、有り。復た、一孕〔(ひとはらみ)〕に數百の*(こ)を生ず。鯉・鰌〔(どぢやう)〕も亦、皆、此くのごとし[やぶちゃん字注:「*」=「魚」+「米」。]。

   *

とあることから、本種は一応、淡水魚である、コイ科タナゴ亜科タナゴ属のアカヒレタビラAcheilognathus tabira subsp.2に同定した。これを変更するつもりは、今は、ない。グーグル画像検索「Acheilognathus tabira subsp.2をリンクさせておく。

「鼢の化、獨り、一種ならざるなり」モグラへの交換(推定。必ずしも双方向交換ではないのかも知れない)化生は複数の種(「鴽」・「伯勞」・「櫛魚」)がいるのだ、というのだから、スゴイノダ!

「海鼠(とらご)」勿論、あの棘皮動物門ナマコ綱 Holothuroidea のナマコ類である。本邦の民俗風俗を知っていれば、少しも唐突ではない。モグラは実は譚海 卷之三を田畑を食い(ここは誤認)荒らす(ここは正しい)害獣としてすこぶる嫌われたのである(今も畑地に風車を指す御仁らはその振動をモグラが嫌うと信じておられるということは、モグラをやはり害獣と考えておられるわけである)。私の古い仕儀だが、「耳囊 卷之四 田鼠を追ふ呪の事」をまず読まれたい。次に、私の『海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載』がよかろう。その「鼹鼠うち」(所謂、「もぐら打ち」の農耕行事)で、ナマコを用いて《害獣》とされてしまったモグラに対する本邦の民俗行事が明らかとなろう。次いで、『海産生物古記録集■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載』を読まれれば、まずは行事の理解は完璧と思う。更に興味のある方は、私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」を読まれんことをお薦めするが、ここまで来ても、何故、「ナマコ」なのかは、今一つ、判然としないかも知れない。私の敬愛する海洋生物生理学者であられる本川達雄氏の「世界平和はナマコとともに」(二〇〇九年阪急コミュニケーションズ刊)にも書かれてあるが、ナマコの持つ「サポニン」(saponin:広く植物界に存在するサポゲニンという多環式化合物と糖とが結合した配糖体で、「sapo」はラテン語で「石鹸」の意であり、発泡・溶血作用を持ち、対象個体の大きさによるが、小・中体型の動物体には有毒作用として働く)をモグラが嫌がるからという科学的説明はまず挙げられるものの、折口信夫の民俗学的考証によれば、「なまこ」の「なま」とは異界から来訪する「まれびと」、即ち、霊力を持つ神と認識されたものであると推理し(確かに、ナマコは一般人から見れば、目鼻を持たず、前後も不詳で、強烈な再生能力を持つ(半分に切っても、内臓を除去しても再生する。というより、自ら天敵から逃れるために、内臓を自ら吐き出したり、吹き出させたりする「吐臓」行動を行いさえする)から、そう考えても不思議ではない)から、折口の謂いは決して不思議ではなく、『モグラぐらい、簡単に撃退する力がある』と考えたとしても、強ち、的外れではないとは言える。

「癰疽」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きく、「疽」は深く狭いそれを指す。

「爛瘡」広義の皮膚の炎症疾患、蕁麻疹から激しい糜爛性皮膚炎までも指す。

「瘡疥」主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉をふいたような発疹が出来る皮膚病。数個以上できることが多い。顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。所謂、「はたけ」である。

「蚘蟲〔(かいちう)〕」線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(人回虫) Ascaris lumbricoides を代表とする、ヒトに寄生する(他の動物の寄生虫による日和見感染を含む)寄生虫類。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」を参照されたい。小児の心因性を含む各種の症状の主原因の一つとして、カイチュウは大いにその主因と考えられていた(実際にはカイチュウのはかなりの量が寄生しても無症状である)。

「疥癬(ぜにかさ)」皮膚に穿孔して寄生するコナダニ亜目ヒゼンダニ科Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominis によって引き起こされる皮膚疾患。

「鼧鼥〔(たはつ)〕」「土撥鼠〔(どはつそ)〕」「荅刺不花〔(たうらふくは)〕」齧歯目リス亜目リス科マーモット属シベリアマーモット Marmota sibiricaウィキの「シベリアマーモット」によれば、『生息地ではタルバガンとも呼ばれる』(「荅刺不花〔(たうらふくは)〕」は明らかにその漢音写であろう)。棲息地は中国の黒竜江省・内モンゴル自治区やモンゴル・ロシア(トゥヴァ共和国及びザバイカル)で、体長は五十~六十センチメートル、体重は六~八キログラムで、尾長は体長の五十%以下。体重は最大で九・八キログラムに達する。標高六百から三千八百メートルにある草原・ステップ・低木林・半砂漠などに棲し、『ペアと幼獣(分散前の個体と新生児)からなる家族群(環境が悪ければ不定的で』三~六『匹、環境がよければ』、十三~十八『匹に達する)を構成して生活する』、九『月から巣穴で』五~二十『匹が集まって冬眠するが、冬眠の期間は夏季の栄養状態や秋季の天候により』、『変動がある』。『食性は植物食で、主に草本を食べるが』、『木の葉なども食べる』、『捕食者はアカギツネ、ハイイロオオカミ、ヒグマ、ユキヒョウ、ワシタカ類などが挙げられる』。『冬眠から開けた』四『月に交尾を行』う。『妊娠期間は』四十~四十二日で、五『月下旬に』一『回に最大』八『匹(主に』四~六『匹)の幼獣を産む』。『生後』二『年で性成熟するが、通常は生後』三『年で分散する』。『モンゴルでは遊牧民が肉を食用とする』。『マルコ・ポーロも』「東方見聞録」の『中でタルタール人の食文化について「この辺り至る所の原野に数多いファラオ・ネズミも捕まえて食料に給する」と記述しており、この「ファラオ・ネズミ」はおそらくタルバガンだと考えられている』。『薬用とされることもあり、油が』、『伝統的に火傷や凍傷、貧血などに効果があるとされている』。『毛皮も利用され』る。『タルバガンは草原の地面に穴を掘るため、土壌の通気性を良くする役目を果たしていると』もされる。しかし乍ら、『腺ペストを媒介し、本種が原因とされるペストの流行で』一九一一年で約五万人が、一九二一年には約九千人が死亡している。『ペストに感染した本種の肉を』『人間が食べることでも感染する』。『そのため、生息地で衰弱したタルバガンの生体や死体を見つけても、近寄らない、触らない等の注意が必要である。また』、『現地の人に勧められても、タルバガンを食べない』ということも『必要で』あり、待遇への『心証を悪くしたくない』との理由から、『どうしても食べなければならない場合』には、『良く火を通してから、少量だけ』、『食べる』ことが肝要である。『モンゴルは数少ないペスト発生国であり、どこかで』、『毎年のように発生し、死者も出る。モンゴルではタルバガンが主な感染源とされて』おり、『ペスト患者が出ると、その感染拡大を防ぐために』、『集落や町全体を封鎖することも』、『度々』、『行われている。齧歯類全般、特に野生のものについては』『ペスト菌の保有を前提として』対処する必要がある。かのおぞましき日本の七三二『部隊は』、『タルバガンを生物兵器ペストノミの生産に利用した』事実が知られている。『毛皮目的の乱獲、ペストの媒介者としての駆除などにより』、『生息数は激減し』ており、一九九〇年代、生息数が一気に約七十%も『減少したと推定されて』おり、『モンゴルでは』一九〇六年から一九九四年の八十八年間に、少なくとも、一億二百四十万枚のシベリアマーモット毛皮が狩猟・調達されたとされる。『モンゴルでは法的に保護の対象とされているが、実効的な保護対策は行われていない』とある。

「獺〔(かはうそ)〕」本邦のそれは日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」を参照されたい。

「濕」湿気。]

忍ぶ戀 羅月(伊良子清白)

 

忍 ぶ 戀

 

やなぎの糸の下た蔭に、

戀ひしき妹の聲すなり、

こゝろの駒は狂へども、

流石に思ひとがめつゝ、

えも云び寄じ割なくも、

思ひを碎くばかりにて。

 

ものゝ歸さに妹が家の、

軒にしばしと佇ずめば、

よもやと思ふ妹はしも、

打ち笑みつゝも恥ひて、

窓のとぼそを鎖しけり、

けしき斗りは鎖しえで。

 

へたてぬ心知りつゝも、

何とてかくも隔てして、

むねにあまれる一端も、

明かさで仇に過すらん、

云ぬ戀路のなかなかに、

忍ぶ思ひのますものを。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月『新聲』掲載。署名は「羅月」。底本ではこれが同年(満十九歳)最後の詩篇。]

稻舟 すゞしろのや(伊良子清白)

 

稻 舟

 

花の姿もうちしをれ、

匂へるまみもいと重く、

ぬぐふ袂もくつるまで、

なげく少女や誰ならむ。

 

閨もるかぜもいと寒み、

火影もいたくまたゝきて、

いたはりしらぬ小男鹿の、

妻こふ聲もきこゆなり。

 

かくとも知らばいかで我、

契むすばむかの君に、

契むすびてうらむなる、

おのが心ぞうらまるゝ。

 

ひきてかへらぬ梓弓、

いで羽のくにを出てより、

うき藻の草のうきてのみ、

うき世の上をたゞよひつ。

 

人のこゝろの裏表、

かへすかへすも見るまゝに、

筆のすさびのをりをりは、

戀のあはれもかきやりつ。

 

文にそへたる姿繪に、

京わらべのさがなさは、

よしなし言の言草を、

うたひはやしつ嘲りつ。

 

その折なれやかの君の、

やさしかりつる一言に、

いなにはあらぬ稻舟の、

いなみかねけり契をも。

 

えやは知るべきかくとだに、

君の心のつれなさを、

つれなき折に見てしより、

春は物うくなりにけり。

 

多くはいはじかなしさを、

幸なきわれは末つひに、

秋よりさきにすてらるゝ、

扇のつまとなりけるよ。

 

やがて歸りし故鄕も、

思ふ思のしげゝれば、

枕につきし其日より、

病さらぼひぬかくまでに。

 

君と二人がかきやりし、

峯を殘んの月影は、

かなたの空にきえて行く、

おのが今はのすがたなり。

 

あはれ幸なき少女子が、

つれなき人をうらみかね、

きえてうせきときゝまさば、

はかなき我と思ひてや。

 

深きなげきやそはりけむ、

淚のつゆのいやますに、

はては思ひにたへかねて、

さぐりもよゝとなきそめぬ。

 

夜や更けぬらし燈火の、

またゝく影も細りつゝ、

遠くなり行く小男鹿の、

聲はきこえずなりにけり。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

太平百物語卷四 卅七 狐念仏に邪魔を入し事

 

   ○卅七 狐念仏に邪魔を入し事

 江戶牛込の片ほとりに、太郞市とて独り住(ずみ)の職人有(あり)けるが、淨土宗にて、殊に信心なる男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])なれば、朝暮(てうぼ)、佛前にむかひて、念仏、怠る事なし。

 或夜、いつものごとく、念仏して居(ゐ)たりしが、後(うしろ)より誰(たれ)ともなく、念仏を唱ふる者、あり。

 太郞市、

『たれやらん。』

とおもひ、後を見やるに、人、なし。

 又、念仏すれば、同じく申すほどに、

『扨は、わが心の迷ひならめ。』

と、一心不乱に申しければ、うしろの念仏、次第次第に大音(だいおん)になりて、後(とち)には十人斗(ばかり)も唱へける程に、太郞市、ふしぎに思ひ、急に、うしろを歸りみれば、何やらん、

「ばさり。」

と、物音して、目にさへぎる物は、なし。

『こは、いかに。』

と、おもひ、心ならねば[やぶちゃん注:ここは、「如何にも不気味にして心落ち着かぬので」の意。]、明(あく)るを待ちて、急ぎ、旦那寺に行(ゆき)、住持に「此よし」告(つげ)申せば、和尙、しばらく思惟(しゆい)して申されけるは、

「これ㙒干(やかん)[やぶちゃん注:妖狐。]の所爲(しわざ)ならめ。我、はからふ子細あれば、今宵、御身の方に、ひそかに、行(ゆく)べし。」

との仰せ、

「有がたし。」

とて、太郞市は悅び、かへりぬ。

 和尙、則(すなはち)、夜(よ)に入て、太郞市が宅(たく)に來(きた)られ、一間所(ひとまどころ)に隱れて、樣子を窺ひ居(ゐ)らるれば、太郞市、每(いつも)のごとく念仏しけるに、実(げに)も、太郞市がいふに違はず、うしろより、同音に唱ふ者、あり。

 始(はじめ)の程は、一、兩人の聲なりしが、後(のち)には數(す)十人の聲となりて、責(せめ)念仏[やぶちゃん注:鉦(かね)を鳴らしながら高い声で激しい調子に唱える念仏。ここのシークエンスでは鉦の音の幻聴音も入れた方が効果的である。]、しきりなりし所を、和尙、能(よく)々見すまし、此者どもが後(うしろ)に廻り、

「南無阿彌陀仏。」

と、一聲(ひとこゑ)、落ちかゝるやうに、大音聲(だいおんじやう)に申さるれば、此一聲に肝を消し、俄に狐の化(ばけ)を顯し[やぶちゃん注:元の狐の姿を露見させてしまい。]、飛がごとくに迯失(にげうせ)たり。

 和尙、

「さればこそ。」

と、太郞市にむかひ、申されけるは、

「此後(のち)、又も來(きた)るまじ。心やすく、念佛し玉へ。」

とて、歸寺(きじ)せられしが、狐ども、こりけるにや、それよりして、ふたゝび來らざりけるとぞ。

[やぶちゃん注:前にも「太平百物語卷三 廿二 きつね仇をむくひし事」で指摘したように、特異点の江戸ロケーションの怪談である。リンク先の話の浅草の一部が被差別民のアジールであったように、ここも江戸の東の辺縁である。やはり、この作者菅生堂人恵忠居士には何か江戸を忌避する意識が強く働いていると言ってよいように思うのである。

「江戶牛込」現在の東京都新宿区東部の地名であるが、当時は、谷の多い武蔵野(山手)台地からなる一帯で、古くより「牛込」の地域名は早稲田から戸山原方面にかけて呼称された広域地名で(この附近。グーグル・マップ・データ)、江戸市中の東端に当たり、東は、かく狐も住む野原であった。太郎市の家はその「片ほとり」とあるから、まさにその西の草原に近い位置にあったものと考えてよく、野狐も出入りし易かったのであろう。]

太平百物語卷四 卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事

Rokurokubi

  

   ○卅六 百々(どゞ)茂(も)左衞門ろくろ首に逢(あひ)し事

 若狹の國に百々茂左衞門といふ侍あり。

 或時、夜更(ふけ)て、士町(さぶらひまち)をとをられけるが[やぶちゃん注:ママ。]、水谷(みづのや)作之丞といふ人の、やしきの高塀(たかへい)の上に、女の首斗(ばかり)、あちこちとせし程に、怪しくおもひ、月影に、能く[やぶちゃん注:「よく」。]すかし見れば、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、作之丞召使ひの腰元なりしが、茂左衞門を見て、

「にこにこ。」

笑ひければ、茂左衞門、いよいよ、ふしぎをなし、持(もち)たる杖にて、頭(かしら)を、そと、突きたりしが、是に恐れて、迯吟(にげさまよ)ふ風情(ふぜい)にて、やがて、高塀の内にぞ、落(おち)たり。

 茂左衞門、深更(しんかう)[やぶちゃん注:深夜。]の事なれば、不審(いぶかし)ながら、其儘にして、歸宿しける。

 此腰元、能(よく)臥居(ふしゐ)たるが、

「あつ。」

と叫び、苦しみければ、傍(そば)に臥たる下女、此音に驚き覚(さめ)て、

「如何(いかゞ)し玉ひける。」

とゝへば、此腰元、胸、押(おし)さすり、語りけるは、

「扨も、恐しき夢を見侍る。每(いつ)も心安く旦那殿と語り給ふ百々茂左衞門殿の、此門前を通りたまふに行逢(ゆきあひ)しに、わらはを見て、嶲(たづさ)へ給ふ杖を以て、わが頭(かいら)を、さんざん、打ち給ふ程に、余り苦しく、堪(たへ)がたさに、にげ走ると思ひしが、夢にてこそ侍べりつれ。」

と語りける。

 此事、作之丞耳(みゝ)にも入(いり)しが、

「夢は、跡かたなき物なれば、さる事もあらん。」[やぶちゃん注:「夢などというものは、所詮、他愛もない、意味なき幻しのものであるから、そんなこともあるであろうよ。」。]

と、いひて止(やみ)けるに、其(その)翌(あけ)の日、茂左衞門、來り、世上の物語などして後(のち)、ひそかに、作之丞傍(そば)に寄(より)、腰元が事を、「しかじか」のよし、語りければ、作之丞も、此腰元が物語も、少(すこし)も違(たが)はねば、

『扨は。世にいひ傳ふ「ろくろ首」ならめ。』

と、淺ましく、不便(びん)の事に思ひて、ひそかに此女を一間に招き、「此よし」を告(つげ)しらせ、能(よく)々さとしければ、此女、いと恥かしき事におもひ、直(すぐ)に主人に御いとまをこひ、髻(もとゞり)おし切(きり)、尼となり、前生(ぜんじやう)のかいぎやう[やぶちゃん注:「戒行」。戒律を守って修行すること。]、拙(つたな)き事を歎きて、一生、佛に仕へ、身罷(まか)りけるとぞ。

[やぶちゃん注:以上は「轆轤首(ろくろくび)」譚では極めて多く見出される常套的な轆轤首譚の典型的な一つである。本書は享保一七(一七三三)年刊であるが、恐らく、最も古い本邦を舞台とした酷似する類型話は近世初期の怪談話の古形をよく伝える「曽呂利物語(そろりものがたり)」(著者未詳。寛文三(一六六三)年刊の全五巻から成る仮名草子奇談集)の「二 女のまうねんまよひありく事」(女の妄念迷ひ步く事)であろうし、それを受けた「諸国百物語」(著者未詳。延宝五(一六七七)年刊。「百物語」系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、この「諸國百物語」ただ一書しか存在しない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))の「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」が、総ての本邦を舞台とした本パターンの源流と言えるであろう。以降のヴァリエーションは私の「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」でかなり電子化して示してあるので参照されたい。最も新しい私の轆轤首の注記載は江戸前期の文人山岡元隣による怪談本(貞享三(一六八六)年刊の著者没後の板行であり、元隣は寛文一二(一六七二)年没であるから、彼の見解は「轆轤首」が盛んに変形される前の、その原型に近いものを考証していることから、見逃し難い内容を持つ)「古今百物語評判卷之一 第二 絶岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」であり、そこで元隣も明らかにしている通り、轆轤首のルーツは中国の「尸頭盤」「飛頭盤」である(私の注は中国の原典も示してある)。なお、こちらで、江戸イラストレーターで、主人公と同じ姓の百々敬子氏が描かれた本話の十一コマの漫画が見られる。

「士町(さぶらひまち)」侍町(さむらまち)。当時のそれは亀山城山麓の東から北西部及び反対の南から南西部にあったものと推定される(グーグル・マップ・データの亀山城周辺。以上の位置はグーグル・マップ・データの史跡配置及び「図説福井県史 近世四 城下町のかたち(一)」の記載に拠った)。]

2019/05/20

うかれ魂 すゞしろのや(伊良子清白)

 

うかれ魂

 

おくつきどころ小夜更けて、

おきそふ露の色寒く、

生ひしげりたる夏草に、

もゆる螢もかすかなり。

 

法の燈とてらすなる、

月の光も影更けて、

苔路を風の吹くなべに、

こゝらの墓もゆらぐめり。

 

うらさびまさる夜もすがら、

佛の御名を唱へつゝ、

おくつきのべにぬかづきて、

なげきかなしむをのこあり。

 

暮れ行く春にともなひて、

こゝにうもれしこひ妻を、

こがれこがれていつしかに、

もの狂はしくなりしとや。

 

ひとつ蓮葉(はちす)にゐならびて、

二世の契を結ばむと、

ほとけに禱みしちかひさへ、

妻はわすれていそぎけむ。

 

のこる恨の長くして、

御寺のにはにあかしつゝ、

こゝろのかぎりいのれども、

妻はふたゝび皈りこず。

 

あはれかなしやわが妻は、

ふたゞび世にはかへりこず。

われのみひとりのこりゐて、

はかなき戀にしづむなり。

 

かなしやあなとなき伏せば、

かすけき聲に遠くゆも、

さななげきそよわが背子と、

いふ聲風にたぐひきて。

 

見かへりすれば奧城の、

小草の陰ゆぬけいでゝ、

妻のおもわはまぼろしの、

たゞよふ中にうかぶなり。

 

ゆめかうつゝか戀妻は、

なげくをのこの手をとりて、

たまへとばかりあともなく、

おくつきのべにさそふなり。

 

うつし心もきえはてゝ、

ものもおぼえずなるなべに、

魂はむくろをぬけいでゝ、

雲井はるかにかけり行く。

 

一ひらくだる白雲に、

うちのせられて行くほども、

天津御空のあなたより、

淸淨き光のわきいでゝ。

 

雪にまがひてふりかゝる、

蓮の花もかぐはしく、

のどけき風に物の音の、

妙なるふしもきこゆなり。

 

白がね流す天の川、

みぎはに立ちてひれふれば、

まさごの上にいつ色の、

橋の姿もうつるなり。

 

天の羽衣匂ふまで、

おもわたえなる久方の、

天津少女にさそはれて、

玉のうてなを來て見れば、

 

たなびきかくす紫の、

雲の光もまばゆくて、

軒端をめぐるあし鶴の、

一聲高くひゞくなり。

 

けはひまぢかき御佛の、

あまねき法のみめぐみに、

障(さは)りの雨のあともなく、

迷ひの雲もはるゝなり。

 

をのこはものゝ尊さに、

ことばもなくておろがめば、

やさしき聲にみ佛は、

をのこも妻もきけよかし。

 

こゝは佛の國なれば、

心にかゝる塵もなし。

幾千代かけて妹と背の、

まことの契むすべかし。

 

こひしき妻と袖並めて、

淸淨きうてなの上ながら、

かたみにかたるうれしさは、

前の世いつかわすられて。

 

あくごもあらずあるほどに、

ほのぼのあくるいなのめの、

雲のまぎれにまぎれつゝ、

妻の姿はきえにけり。

 

うすく殘れる有明の、

月のひかりにながむれば、

おくつきどころ風吹きて、

見しはゆめぢか天津くに。

 

八重立つ峯のあなたより、

妻のおもわのあらはれつ、

よばむとすれば影きえて、

聲のみ背子とさけぶなり。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」(現在知られる本署名の初出)。全体のシチュエーションも対象映像も朧げで、私は今一つと感ずる。

 標題は「うかれたま」或いは「うかれだま」か?

 第二連初行「法の燈とてらすなる、」は「のりのともしとてらすなる、」か?

 第五連の「禱みし」は「たのみし」か?

 第二十一連頭の「あくご」は、悪意・邪意含んだ言葉、悪口・悪言の謂いか。

 以上、語彙も少し自己陶酔的に上すべってしまって、却って白ける気が私にはする。]

鄙の名月 蘿月(伊良子清白)

 

鄙の名月

 

ひよりを空にあらはして

西にこがるゝ秋のくれ、

まちし三五の夜の月は

今やさしでぬ木の間より、

 

あはれ都のうへ人は

さぞや今宵の月影に

高きうてなに宴(うたげ)して

玉の杯さしかはし

ろをたき女ども侍せて

月に思ひをよするらむ。

 

それとは變る鄙のさま

翁は山のかへるさに

畠(はたけ)の芋のいく本と

たをれる尾花さしそへて

家居をさして急くめり

鳴く蟲の音もよそにして。

 

いぶせき軒のはし近に

月の宴の心して

ゆふげの膳にい向ひつ

醉ふには足らぬ御酒にしも

晝の疲れにいと醉ひぬ

月も朧に見ゆるまで。

 

文にはくらきさと人は

深き思ひもまゝならず

うち見る外の遊びには

口になれたる伐木(きこり)歌

ふしたえだえに謠ふ也

月よりきよき心もて。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月『新聲』掲載。署名は蘿月。この一篇、伊良子清白にしては非常に珍しく、二ヶ所で仮名遣いの不審が見られる。まず、第二連「ろをたき女ども侍せて」の「ろをたき」は「﨟たき」で、正しい歴史的仮名遣は「らふたき」(発音・現代仮名遣でも「ろうたき」)である。また、第三連の「たをれる尾花さしそへて」の「たをれる」は歴史的仮名遣は「たふれる」である(但し、江戸時代より「たをれる」の表記は慣用的にはよく見られる。なお、第四連の「ゆふげの膳にい向ひつ」の「い向ひつ」の「い」は「居」ではなく、動詞を強調する接頭語「い」であるから、誤りではない。]

美人禪 蘿月(伊良子清白)

 

美 人 禪

 

麓におふる松杉の、

枝をかはしてきよらかに、

日蔭もらさず生ひ繁り、

涼しき風のまにまに、

菅なき笛の吹きすさぶ。

 

はるけき谷を流れくる、

水は幾谷落ちあひて、

幾度わきつあひつしゝ、

けしき磐根にくだかれて、

絃なき琴をかなでけり。

 

うき世を外のこの山邊、

おとのふ人もあばらやに、

住める共なくさしこめて、

のどかに暮す人やある、

見ゆる屋根こそ床しけれ。

 

軒端かたむき壁おちて、

僅にのこる庵のさま、

かくても人のあるなるや、

竹の編戶もとざゝねば、

 

まさしく住める人あらん。

あはれ住みいる人や誰れ、

まだうらわかき乙女子の、

麻の衣をまとへども、

ゆかしかりける名殘こそ、

靑き額にのこりけれ。

 

哀れいかにやかくばかり、

人目はなれし山里に、

色香たへなるさ乙女の、

浮世をすてゝわびしくも、

佛につかへまつるらん。

 

かれは悟りし身ならんも、

さすがに思ひ忍びてか、

形見の文かとり出でつ、

淨き衣の袖をしも、

ぬらし汚しぬ淚もて。

 

照りそう日蔭もらさじと、

枝をかはせる木々の音は、

浮世にたちし心しも、

物思ふ身はいかばかり、

哀れになどか埋るらん。

 

谷を流れて幾度か、

われつあひにし水の音は、

佛のつかふ身ながらも、

なき人かこつ心にも、

いかでかあだに過すへき。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年六月『新聲』掲載。署名は蘿月。]

太平百物語卷四 卅十五 三郞兵衞が先妻ゆうれいとなり來たりし事

Sennsaiyuurei

 

 

    ○卅十五 三郞兵衞が先妻ゆうれいとなり來たりし事

 河内の國に三郞兵衞とて、家、冨(とみ)さかへたる百姓あり。夫婦(ふうふ)の中もむつまじく、心豐かにくらしけるに、此女房、風の心地と煩ひ出(いだ)し、次第次第に重くなり、既に危(あやう[やぶちゃん注:ママ。])かりければ、三郞兵衞、かぎりなくかなしみ、枕下(まくらもと)に寄(より)て、口說きけるは、

「御身、若(も)し世を、はやふし玉はゞ、一人の幼子(やうじ/いときなき[やぶちゃん注:後者左ルビはママ。])、たれありて、養育せん。然(しか)れば、いかなる所へも遺(つかは)し、我は髻(もとゞり)を切(きり)て、世を遁(のが)れん。」

とぞ、かこちける[やぶちゃん注:「託ちける」で「嘆き訴えた」の意。]。

 女房、苦しき床(ゆか)の上に、目をほそぼそと開き、三郞兵衞が顏を、つくづぐうち守り、

「実(げに)や。うき世の習ひながら、假初(かりそめ)にやまふ[やぶちゃん注:ママ。]の床にふし、御身に先達(さきだち)まいらする事の淺ましさよ。去(さり)ながら、愛別離苦の理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])は、知識(ちしき)の御身にも遁(のが)れ玉はぬと聞(きく)なれば、必ず、なげかせ玉ふなよ。我を不便(びん)と思召(おぼしめさ)ば、其御心を改め給ひ、後(のち)の妻を御入(いれ)ありて、跡に殘りしうなひごを守立(もりたて)、此家を續きさしめたび給へ。穴(あな)かしこ、忘(わすれ)させ玉ふな。」

と、是れを此世の限りにて、朝(あした)の霜と消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])うせり。

 三郞兵衞は、妻が遺言の不便さに、取分(とりわき)、一子をいたはり育(そだて)けるが、其年も、いつしか暮(くれ)て、明(あけ)の年にもなりければ、一家(け)の人々、打寄(うちより)、とかく、後妻をすゝめける。

 三郞兵衞も、始めのほどは承引もせざりしが、

『一子の爲。』

と思ふより、ぜひなく、後妻を定めける。

 扨、吉日を擇(ゑら)み、一家(いつけ)の人々、打集(あつま)り、祝言(しうげん)の儀式を取り行ひけるが、三郞兵衞、

「用事をかなへん。」

と緣に出で、扨、内に入(いら)んとせし時、ふと、軒の方を見やれば、死失(しにうせ)たりし女房、窓の透間(すきま)より、座敷の体(てい)を、ながめ、ゐける。

 三郞兵衞、大きに驚き、思ふ樣、

『扨は。先妻、未(いまだ)成仏をなさで、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])に迷ひけるかや。末期(まつご)に後妻を入れよと勸(すゝめ)しを、誠の心ぞとおもひの外(ほか)、嫉妬の一念、はなれやらず、今宵の祝言をねたみ來たりし淺ましさよ。』

と思ひながら、さあらぬ体(てい)にて内に入しを、先妻のゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、これを夢にも、しらず。

 さて、ことぶき[やぶちゃん注:祝言の本式。]も濟(すみ)て、皆々、私宅(したく)に歸れば、三郞兵衞も、後妻もろ共、ふしどに入て、私(ひそか)に後妻に語りけるは、

「我、此度、おことをむかへし事、先妻がわすれ記念(がたみ)の一子、いはけなければ、御身を賴み參らせんと、かくは招き侍りぬ。是、わが心ばかりにもあらず、先妻、すでに遺言せり。然るに、今宵、御身と夫婦の語らひをなす事、眞実(しんじつ)は亡妻(ぼうさい[やぶちゃん注:ママ。])、恨みおもふやらん、宵より、外緣(そとゑん)に彳(たゝずみ)て、此座敷を見入(いれ)しを、我、慥(たし)かに、見屆けたり。然れば、御身の爲(ため)も、よろしからず。御痛(いた)はしく侍(さぶら)へども、今宵、すぐに御いとまを參らするなり。此事、穴(あな)かしこ、人に語り給ふな。」

と、泪(なみだ)にくれて申しければ、此女も三郞兵衞が餘儀なき物語に、いひ出(いだ)すべき言葉なく、さしうつぶひてゐたりしが、俄に氣色(けしき)かはりて、

「のふ[やぶちゃん注:ママ。]、いかに、三郞兵衞殿、只今の御言葉こそ、かぎりなく恨(うらめ)しけれ。我等、末期に申せしごとく、『後妻をはやく入れ給へかし』と、おもふ日數も移り行く。御心ざしは有難きに似たれども、一子が母のなき事をおもへば、悲しくさふらひて、うかびもやらず、夜每(よごと)には、此座敷の緣先まで愛子(いと)が安否を窺ひ來(く)る。然るに、今宵、後妻を迎へ玉ふ有りさま見參らせ、心の内の嬉しさ、なかなか、言葉に盡されず。もはや、此世のおもひ、はれ、速(すみやか)に成佛せん事、うたがひなし。何しに、嫉妬の心を懷き申べき。必(かならず)しも、此女性(によしやう)と夫婦になり、愛子(いと)を守立(まもりたて)たまふべし。わが爲には、月每(つきごと)の忌日(きにち)をとひてたび給へ。さらば、さらば。」

と、いふかとおもへば、後妻は、かしこに倒れふす。

 三郞兵衞は隨喜の泪にくれけるが、臥(ふし)たる女を呼(よび)おこし、有りし次第を語り聞(きか)せ、先妻が願ひに任せ、再び夫婦の酒、酌(くみ)かはしけるに、後妻の心、貞節にて、繼子(まゝこ)を、能く[やぶちゃん注:「よく」。]いたはり、育(そだて)けるほどに、其後は、亡妻がゆうれひも、きたらず、一子も、年經て、成長しければ、跡式(あとしき)を讓り与へ、わが身は、後妻諸共に隱居し、目出度く、世をぞ辞しけるとかや。

[やぶちゃん注:「河内の國」現在の大阪府の東部。

「はやふし玉はゞ」この「はやふし」はママだが、「早くす」の連用形の「早うす」の転訛表現であろう。「早々に去る」で「死ぬ」の忌み言葉として用いていると私はとる。「はや/ふす」で「早臥す」「早伏す」、同じく「早々に死ぬ」の忌み言葉とも考えたが、「伏す・臥す」にそうした「死ぬ」の一般的な換語用法を見出し得なかった。

「かこちける」「託ちける」で「嘆き訴えた」の意。

「知識(ちしき)」仏道に教え導く優れた導師たる名僧を指す。

「用事をかなへん」厠へ行ったのである。

「中有(ちうう)」既出既注

「いはけなければ」「幼(稚)け無し」は年端がゆかず、頼りない感じの意。

「今宵、すぐに御いとまを參らするなり」初夜の晩にこのような異常な理由から、彼女に非常に悪いが、一方的に離縁を申し渡すこととなったため、「參らす」という「やる」の謙譲語を用いて異例に表現しているのである。

「のふ」正しくは「なう」或いはそれの発音通りを表記した「のう」。感動詞で感嘆の声を示す語。「ああっ!」。

「いかに」感動詞で呼びかけの語。「もしもし!」。

「うかびもやらず」成仏することも叶わず。

「愛子(いと)」愛児の意の「愛(いと)し子(ご)」の約。広くは後に専ら「お嬢さん」の意で用いる、主に大坂言葉と認識されている「いとさん」「いとはん」(但し、後者の使用は明治以降であり、古くは男の子にも用いた)の原型であろう。寛政年間(一七八九年~一八〇一年まで)の並木五瓶一世・並木正三二世合作の「色盛八丈鏡(いろざかりはちじょうかがみ)」に使用例がある(一九八四年講談社学術文庫刊の牧村史陽編「大阪ことば事典」に拠る)が、本書は大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を版元とする享保一七(一七三三)年の新刊であるから、それより五十年以上も前に、既にこの「愛児」の意味の「いと」はあったことが判る。

「必(かならず)しも」「しも」は副助詞で、ここは単に特にその事柄を強調するために附したもの。

「跡式(あとしき)」「後職(あとしき)」。先代の家督・財産を相続すること、又は、その家督や財産。「跡目(あとめ)」に同じ。鎌倉時代以後に生まれた語である。]

2019/05/19

楊貴妃櫻 蘿月(伊良子清白)

 

楊貴妃櫻

 

霞も匂ふみよし野の、

  よし野の奧を分け入れば、

    おぼろ月夜にあこがれて、

      散り行く花もしづかなり。

 

五百重しきたつ白雲は、

  おのづからなる戶ざしにて、

    人は通はぬ岨かげを、

      谷水のみやもるならむ。

[やぶちゃん注:「五百重」は「いほへ(いおへ)」で「幾重にも重なっていること」を意味する万葉語。]

 

神さびたてる神杉の、

  こずゑの靑もしづかにて、

    菅生をわたるやま風も、

      すゞろにさむくひゞくなり。

 

たな引く雲のたえまより、

  あらはれわたる山ざくら、

    たわゝに咲けるひと本に、

      あたりの風もむせぶなり。

 

千年五百とせむかしより、

  花の色香のかはりなく、

    峯のかすみと匂ひては、

      谷間のゆきと消えにけむ。

 

尾の上ににほふ曙も、

  入日にくるゝ夕ばえも、

    吹くやあらしの五日ならで、

      尋ぬるものもなかるらむ。

 

あはれと手折る人もなく、

  たをりてめづるものもなき、

    この一もとはなかなかに、

      匂ふさくらの幸ならむ。

 

深山のはるとにほひつゝ、

  ちりもかゝらぬ一もとよ、

    世をはなれにし仙人の、

      あそぶ陰とや咲きぬらし。

 

谷の小川よこゝろあらば、

  花なさそひそ塵のよに、

    ながるゝ色にあこがれて、

      人やとひこむ花見にと。

 

こむる霞の色深く、

  さかりに匂ふ花の雲、

    木かげにたちてながむれば、

      空行く月もかげうすし。

 

蔦にうもるゝ岩が根の、

  苔のむしろをふみわけて、

    おりしく露をみだしつゝ、

      しづかにあゆむ手弱女は。

 

花の心をぬけいでゝ、

  しばしは月にうかるらむ、

    玉ともまがふおもばせに、

      かざす袂もにほふなり。

 

やなぎの糸のうち垂れて、

  雲にもにたる黑髮に、

    匂ふ一枝をたをりつゝ、

      簪花とかざす﨟たさは。

[やぶちゃん注:「簪花」は「かざし」と当て訓していよう。]

 

月の宮ゐのをとめ子も、

  たつの都のたをやめも、

    おもてやさしと思ふらむ、

      おのが姿にくらべ見て。

[やぶちゃん注:「たつの都」言わずもがな、「竜宮」。]

 

霞吹きとく山風に、

  つもるも惜しき袖の上の、

    花の吹雪をはらひつゝ、

      にほふ木かげをさしよりぬ。

 

「思へば久し八百とせの、

  むかしの夢をさながらに、

    花のうてなのうたゝねに、

      今宵も見つるやさしさよ。

 

散り行く花もとゞまりて、

  しばしは聞きねわが夢を、

    塵うちたえて天地の、

      ひゞきもねぶる頃なれば。

 

雲のころもをぬぎかへて、

  月のみやこをたちはなれ、

    もろこし人とみをかへて、

      ちりのうき世にまじりけむ。

 

御庭になびく靑柳の、

  いとながき日もあかなくに、

    秋の長夜をあかつきの、

      星のひかりにうらみけむ。

 

梶の葉風の吹きたえて、

  棚機のよの靜けきに、

    たかきうてなに居ならびて、

      二人ちかひし言の葉よ。

 

「天にありなばいかで君、

  翼ならぶる鳥となり、

    地にありなばいかでわれ、

      枝さしかはす木とならむ。」

 

夢のうき世のゆめさめて、

  玉の宮居にちりたてば、

    暮るゝ日影を慕ひつゝ、

      蓬がしまにいそぎけむ。

[やぶちゃん注:「蓬がしま」海上上空に浮かぶ仙界島「蓬萊山」のこと。]

 

幾はる秋の月はなに、

  ふりし昔を忍びつゝ、

    遠くうな原見わたせば、

      雲と水とをはてにして。

 

常世のくにの年長く、

  月日はこゝら積れども、

    君にわかれし夕べより、

      音信たえて聞えこず。

 

結びし夢をさながらに、

  ふたゝび見つるこゝちして、

    君のつかひと聞くからに、

      はふりおつるは泪なり。

 

いとまをつぐる仙人に、

  かたみとかざす黑髮の、

    黃金のかざし半より、

      折りてあたへついひけらく。

 

「契かたくばもろこしと、

  遠きとこ世とへだつとも、

    相見る折のなくてやは、

      まちてと君にことづてよ。」

 

汐みつ磯に舟出して、

  よもぎが島をたちはなれ、

    ゆくへいづこと白雲を、

      こぎ分けて行くわだの原。

 

落る夕日におくられて、

  さし出る月をむかへつゝ、

    しほの八百路の八汐路も、

      浪にまかせてわたりきぬ。

 

田子の浦曲に船はてゝ、

  大和島根を見わたせば、

    春やきぬらしうらうらと、

      天津御空もかすむなり。

 

髙みかしこみ天雲も、

  いゆきはゞかる不二のみね、

   ふもとに立ちてながむれば、

     千とせの雪に田鶴ぞなく。

 

春長閑なる東路の、

  八十の里わを行き行けば、

    雲雀は空にさへづりて、

      こてふは野邊にあそぶなり。

 

人こそ知らね久方の、

  天つ少女のおとしけん、

    琵琶の水海そひくれば、

      浪は絲ともきこゆなり。

 

袂をはらふ風かろく、

  志賀の山越こえくれば、

    柳さくらをこぎまぜて、

      都ぞ春のにしきなる。

 

若艸もゆる春日野の、

  飛火ののべを朝たちて、

    鈴菜すゞしろ分けくれば、

      大和國原見ゆるなり。

 

天の香久山うね火山、

  神代のまゝに霞みつゝ、

    かすみの奧にほのぼのと、

      匂ふよし野のやまさくら。

 

大和心と咲きいでゝ、

  世にふたつなき花さくら、

    一枝折らむと分け入れば、

      月は霞みて花ぞ散る。

 

やがて一夜を旅まくら、

  いは根の苔をむしろにて、

    匂ふ木陰の思ひねは、

      夢も花をやめぐりけん。

 

蓬がしまももろこしに、

  歸らむこともわすられて、

   花のうてなにやどらむと、

     塵のころもをぬぎすてつ。

 

國てふくにはさはあれど、

  日本にまさるくにやある、

    花てふはなはさはあれど、

      さくらにまさる花やある。

 

匂ふさくらの花のごと、

  たぐひまれなる敷島の、

    大和島根はむかしより、

      神のつくりし國ならじ。

 

神よりうけしこの國の、

  神の御末のすめらぎは、

    かしこき稜威萬代に、

      とつくにかけてかゞやかむ。

 

幾千代かけて住まばやと、

  花の梢にことどへば、

    吹きくる風におのづから、

      うなづく花もうれしくて。

 

咲き散る春のかはりなく、

  花のこゝろとみをかへて、

    月のみやこをいでしより、

      年の八百年すぎにけり。

 

ちかひしことばなになりし、

  折りたる簪花なになりし、

    まちてといひてことづてし、

      こゝろぞ今は恨なる。

 

今宵も見つるこの夢よ、

  ふりし昔の忍ばれて、

    花にもかたる一ふしは、

      やさしき思きはひなり。

[やぶちゃん注:最終行の「きはひなり」は意味不明。識者の御教授を乞う。]

 

うき世の塵にあこがれて、

  うつろふ色も知らざりき。

    神のみくにのこの月よ、

      さやかに心てらせかし。」

 

語りをはりて靜にも、

  匂ふ木陰をたちまへば、

    天の羽衣耀ぎて、

      月の散りくるごとくなり。

 

妙なる聲を谷間より、

  いらふ木魂の聲遠く、

    おのづからなる八重垣を、

        おりゐる雲ぞつくるなる。

 

世にしづかなる三吉野の、

  よし野の奧の春のよは、

    花の木の間にあこがれて、

      空行く月もやどるなり。

 

苔のむしろにおくつゆに、

  ぬれて立舞ふ﨟たさを、

    うらむか峯の夜嵐も、

      花の吹雪に吹きとぢて。

 

つらなる星の影きえて、

  月のひかりもうすれつゝ、

    花より白むあけぼのゝ、

      天の戶遠くあけそめぬ。

 

花のこゝろにかへるらし、

  妙なる聲のうちたえて、

    おりゐる雲もわかれつゝ、

      たち舞ふ影もきえにけり。

 

さへづりかはす百島の、

  聲をちこちにきこえ來て、

    花のこずゑをさし昇る、

      ひかりも高し朝日影。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年六月『靑年文』掲載。署名は蘿月。楊貴妃伝説を元に恐らくは徐福伝説などをハイブリッドし、またしても自在に空想を本邦に取材し、変わった幻想抒情詩に仕掛けているのだが、私は詩句自体の響きに酔っている嫌いが強過ぎて、今一つ。しかも展開自体にどうも破綻があるように思う。なお、「楊貴妃櫻」はサトザクラ(日本の固有種であるバラ目バラ科サクラ属オオシマザクラ Cerasus speciosa を主種として交配改良されたした品種原型と思われる)の園芸品種の和名ではあり、花は淡紅色で外部は色濃く、花は直径五センチメートルほどの八重咲き、先端は濃紅色で、奈良興福寺の僧玄宗が愛でたことからの名という(「同盟だからって、何? 僧侶でこれって何よ?!」って感じで、この坊主には私は興味はない)。芽は淡茶色を呈する種の和名ではあるが、ここでそれに限定する必要を私は感じない。]

勞働者と白き手の人 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    勞働者と白き手の人

        對  話

  勞働者。何だつてお前(めえ)は俺等(おいら)のところへやつて來たんだ? 何の用があるんだ? お前は俺等(おいら)の仲間ぢやねえ。……あつちへ行つてしまヘ!

 白き手の人。いや諸君、僕も君等の仲間なんだ!

 勞働者。なに仲間だつて! 途方もねえ! まあ俺の手を見ろ。どうだ穢(きた)ねえだろう。肥料(こやし)の臭ひや瀝靑(ちやん)の臭ひがすらあね――ところでお前のは眞白ぢやねえか。何のにほひがする?

 白き手の人。(手を差出して)嗅(か)いで見てくれ。

 勞働者。(その手を嗅いで)こりやどうだ! 鐡みてえな匂ひだが。

 白き手の人。さうさ、鐡なんだ。僕はまる六年間と云ふもの手錠を嵌(は)められてゐたんだ。

 勞働者。そりや何故(なぜ)だい?

 白き手の人。なに、そりや僕が君等の爲めになるやうに働いたからだ。壓迫されてゐる無智な連中を自由にしてやらうとして、皆に君等を壓制する奴等の

事を說き聞かせて、政府に反抗(てむかひ)したんだ。……すると奴等め、僕を縛りやがつた。

 勞働者。政府(おかみ)でお前(めえ)を縛つたつて? 何だつてまた反抗(てむかひ)なんかしたんだ!

       二 年 の 後

 第一の勞働者。(第二の勞働者に向つて)おい、ピヨトル! 一昨年(おとゝし)だつたか手前(てめえ)と話をした生白(なまつちろ)い手の野郞を覺えてゐるかい?

 第二の勞働者。うん覺えてる……それがどうした?

 第一の勞働者。ところでよ、あの野郞今日絞首(しめくび)になるつてんだ、その布告(おふれ)だ。

 第二の勞働者。また政府に反抗したんだね?

 第一の勞働者。反抗(てむかひ)したんだ。

 第二の勞働者。うむ!……ところでおい、ドミトリイ、一つ彼奴(あいつ)を絞(し)めた繩切れつ端を取つて來ようぢやねえか? そいつを持つてると家に福が來るつて言ふぜ!

 第一の勞働者。そいつあよからう。一つ遣つて見ようぢやねえか、ビヨトル。

    一八七八年四月

 

勞働者と白き手の人、所謂人民の中に行くこと、卽ち革命運動の徒勞を諷したもの。「處女地」の主人公ネヅダノフは革命運動に投じて、農民に說教したが、彼等は彼の言ふ事なんどてんで理解もせず、ただ一緖に酒を飮んだばかりである。ベアリングは革命運動にたづさはつた人達の失敗した農民を理解し農民に融合する事に、ドストエフスキイなどの方が成功したと言つてゐる。】

云々は民間迷信、ああ何等の悲痛な皮肉ぞ。】

[やぶちゃん注:「處女地」ツルゲーネフが一八七七年に発表した最後の長編小説。七十年代ロシア社会を風靡した「ヴ・ナロード」(в народ:「人民の中へ」)の人民主義運動の失敗を扱った作品。反動的・退嬰的な貴族を批判するとともに、急進的革命を皮肉を以って描いたことから、発表当時は左右両陣営から非難を浴びた。主人公は某公爵の庶子で、ペテルブルグ大学の学生にして理想主義的な詩人ネジダーノフ(Нежданов:ラテン文字転写:Nezhdanov)。

「ベアリング」イギリスの作家モーリス・ベアリング(Maurice Baring  一八七四年~一九四五年)。彼は、例えば、一九一〇年に「Landmarks in Russian Literature」(「ロシア文学に於ける画期的な出来事」)なお、本訳詩集は大正六(一九一七)年刊である。

「ベアリングは革命運動にたづさはつた人達の失敗した農民を理解し農民に融合する事に、ドストエフスキイなどの方が成功したと言つてゐる」この文章、日本語がおかしい。「ベアリングは」、『「革命運動にたづさはつた人達が失敗した」それに比べ、遙かに「農民を理解し』、『農民に融合する事に」ついての観点からみれば、「ドストエフスキイなどの方が」はるかに「成功した」』「と言つてゐる」という謂いであろう。

太平百物語卷四 卅四 作十郞狼にあひし事

 

   ○卅四 作十郞狼にあひし事

 大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)に、白粉(おしろい[やぶちゃん注:ママ。])屋作十郞といふ者あり。

 常に佛法をふかく信じけるが、一子、成人しければ、家の業(わざ)を讓りて、日本囘國にぞ出(いで)ける。

 既に西國の方(かた)は廻(めぐ)り仕舞(しまひ)、關東の方に赴きけるが、上總の國、「かぎりの山」といふ所にて、日(ひ)暮(くれ)ぬ。

 然(しかれ)ども、此麓には家居(いへゐ)もはかばかしく見へず。

『いざや、此山を過て[やぶちゃん注:「すぎて」。]、あなたに宿らん。』

とおもひつゝ、たどり行きしが、むかし、重保(しげやす)とかやいひし人の、

   我爲(わがため)にうき事見へばよの中に

    いまはかぎりの山に入なん

[やぶちゃん注:「見へば」はママ。以下同じ。「入なん」は「いりなん」。]

とよみけるよしを、つくづく思ひ出(いづ)るに付(つけ)て、いとゞ我身の上も心ぼそく覚へけるが[やぶちゃん注:ママ。]、元より、命のかぎりを修行する身なれば、足に任せて行く程に、しらぬ山路(やまぢ)をよぢ登り、山ぶところ[やぶちゃん注:「山懷」。]に入(いり)ぬれば、俄に身の毛だちて、物すごく、足の立所(たてど)も、しどろになりぬ。

 作十郞、心におもひけるは、

『我、浮世の除(ひま)をあけ、佛法修行(ぶつはうしゆうぎやう[やぶちゃん注:ママ。])に、身命(しんみやう)を擲(なげうつ)とおもひしに、未(いまだ)煩惱のきづな、切(きれ)ざるにや。』

と淺ましくて、心中(しんぢう)に慚愧(ざんぎ)し[やぶちゃん注:現在は「ざんき」と清音で読むのが一般的。現在は専ら、ただ、「恥じること」の意味で使われるが、本来は仏教語で、しかも「慚」と「愧(ぎ)」とは別の語である。「慚」は「自らの心に罪を恥じること」を、「愧」は「他人に対して罪を告白して恥じること」を指す。或いは「慚」は「自ら罪を犯さないこと」を、「愧」は「他に罪を犯させないこと」とも言う。]、日比(ごろ)、尊(とうと)み奉りし「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」を高らかに唱へて、猶、山ふかく步み行(ゆく)に、道の眞中(まんなか)に大石(たいせき)のごとくなる物ありて、動くやうに見へければ、近く寄(より)てみるに、さも冷(すさま)じき狼にて、眼(まなこ)をいからし、大き成(なる)口をひらき、控(ひかへ)ゐたり。

『こは、いかに。』

と跡(あと)を顧りみれば、いつの間にか來りけん、同じく、劣らぬほどの狼、金(こがね)のごとき眼(まなこ)を光らし、只一口(ひとくち)に喰はん勢ひなり。

 作十郞、前後にはさまれ、今は遁(のが)るべき道なければ、

『我(わが)命、すでに限りの山(やま)に究(きはま)れり。』

と觀念し、肩に掛(かけ)たる笈(おひ)をおろし、心靜(こゝろしづか)に、念佛、四、五遍、唱へ終はり、狼にむかひ、いふやう、

「汝、畜生なりといへ共、わがいふ事を能(よく)聞(きく)べし。われ、此度(このたび)、日本囘國に志し、大方に廻(まは)りしまひ、今、既に關東に赴く所に、圖らずしも、此山にして汝等に出合(いであひ)たり。元來、不惜身命(ふしやくしんみやう)の修行者(しゆぎやうじや)なれば、命は、露(つゆ)よりも猶、かろし。されども、祈願、全(まつた)からずして、おことらが腹中(ふくちう[やぶちゃん注:ママ。])に入らん事、是、一つの歎きなり。畜類ながら、心あらば、此理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])を聞分(きゝわけ)て、わが一命を助くべし。然(しか)るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、汝等が來世、畜生道を除(のが)るべき經文を誦して、報謝とせん。心なくんば、只今、餌食と(ゑじき)せよ。」

と、眼(まなこ)を塞(ふさぎ)て觀念しゐけるに、前後二疋の狼、さしも惡獸なれども、此理にやふくしけん、怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]、忽ち、頭(かうべ)をうなだれて、遙(はるか)あなたに退(しりぞき)しかば、作十郞、此体(てい)をみて、

「誮(やさし)くも聞き入れけるかや。今は心安し。」

とて、又、笈を肩にかけ、道を求めて過行(すぎゆけ)ば、雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ。

 夫(それ)より、やうやう山を越(こへ)て[やぶちゃん注:ママ。]、里に出[やぶちゃん注:「いで」。]、とある家に宿を乞ひ、山中(さんちう[やぶちゃん注:ママ。])の有樣を亭(あるじ)に語れば、あるじを始(はじめ)、家内の人々、橫手(よこで)を打(うち)、

「抑(そもそも)、此[やぶちゃん注:「この」。]ふうふ[やぶちゃん注:「夫婦」。オオカミの雌雄のペア。]の狼にあひたる者、一人も生(いき)て歸りし例(ためし)をきかず。殊に御身は、有難き桑門(よすてびと)かな。」

とて、いと念比(ねんごろ)に饗應(もてな)し、夜明(あけ)て、東に心ざし、終に日本國中、おもふまゝに修行して、近き比(ころ)、目出度、往生をとげられけるとかや。

[やぶちゃん注:「大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)」現在の大阪府大阪市中央区北久宝寺町(まち)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「北久宝寺町」によれば、『かつて船場に久宝寺という寺院があったことに由来するという説と、道頓堀川が開削された際に河内の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためという説の』二『つがある』とある。

「白粉(おしろい)屋作十郞」屋号通りの職種であるとすれば、白粉の製造業或いは問屋か。ウィキの「おしろい」によれば、日本では、七世紀頃に『中国から「はらや」(塩化第一水銀)、「はふに」(塩基性炭酸鉛)という白紛がもたらされ、国産化された』。『白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至る事例が多く、また日常的に多量の鉛白粉を使用する役者は、特にその症状が顕著であった(五代目中村歌右衛門など)。また、使用した母親によって胎児が死亡や重篤な障害を蒙る場合もあった(大正天皇の脳症も生母ら宮中の女性が使用していた鉛白が原因との説がある』『)。胸元や背中に至るまで、幅広く白粉を付けるのが昔の化粧法として主流であったからである。昭和九(一九三四)年には『鉛を使用した白粉の製造が禁止されたが、鉛白入りのものの方が美しく見えるとされ、依然かなりの需要があったという』とある。

「上總の國」「かぎりの山」不吉な名であるが、サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」によれば、現在の千葉県夷隅郡大多喜町筒森にある筒森神社(グーグル・マップ・データ)から見える山とし、「壬申の乱」で敗れた大友皇子(大化四(六四八)年~天武天皇元年(六七二)年:弘文天皇とも称するが、即位していたかは定かでない)は琵琶湖の近くで縊死して自害したことになっているが、別伝承として、密かに大津の都を遁(のが)れ、上総の地に落ち延びたとするものがあり、ウィキの「弘文天皇」によれば、『壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている』。特に千葉県の『君津市やいすみ市、夷隅郡大多喜町には、大友皇子とその臣下たちにまつわる史跡・口伝が数多く存在しており』、十七『世紀前半に書かれたと考えられている地誌』「久留里記」(編者未詳)や、宝暦一一(一七六一)年に『儒学者の中村国香が編纂した』「房総志料」『に記載がみえる』とある。サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」に齊藤弥四郎による、大友皇子と、その后妃十市皇女(とおちのひめみこ 白雉四(六五三)年?(大化四(六四八)年説もある)~天武天皇七(六七八)年:特に)の悲劇の伝承が語られてある(筒森神社の主祭神は十市皇女)ので、是非、参照されたい。また、そこでは、ここで「重保」(不詳。あり得そうなのは、賀茂重保(かものしげやす 元永二(一一一九)年~建久二(一一九一)年:京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(通称は上賀茂神社)神主で歌人としても有名。治承二(一一七八)年に藤原俊成を判者に迎えて「別雷社歌合」を開き、賀茂神社の歌壇を形成した)であろうが、以下に見る通り、これは彼の歌ではない)の作として後に出る和歌は、生き延びよ、と大友皇子から突き放された身重の十市皇女が、山中に分け入り、大多喜で一番高い石尊山(せきそんさん:前のリンクはグーグル・マップ・データ。ピークは千葉県君津市黄和田畑。東北一・九キロメートル位置に御筒大明神(筒森神社)が見える。国土地理院図では山名が確認でき、標高は八百四十七・八メートル)に辿り着いた際に詠んだとする

 わがために憂きこと見えば世の中に

   今は限りの山に入りなむ

一種であることが判る。作者が何故、このような錯誤をしたのかは不明。識者の御教授を乞う。

「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」通称で「大悲心陀羅尼」と呼ばれ、正式には「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(むげ)大悲心陀羅尼」と言ういい、「なむからたんのー、とらやーやー」という出だしで知られる、日本では特に禅宗で広く読誦される基本的な陀羅尼の一つ。陀羅尼とは、仏教に於いて用いられる呪文の一種で、比較的長いものを指す語。通常は意訳せずにサンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して唱える。以下に見る通り、これは経典中の一部分を抽出したもの。ウィキの「大悲心陀羅尼」によれば、『禅宗依用のものは最初の漢訳とされる伽梵達摩』(がぼんだつま/だるま:生没年不詳。中国名は尊法。唐代の西インド出身の訳経僧)訳の「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼經」の『陀羅尼の部分(当然のことながら梵語の音写)を取り出したものとされる』。「宋高僧伝」では『訳出を唐高宗の永徽年間』(六五〇年~六五五年)~顕慶年間(六六一年~六五六年)『と推測している。また』、『サンスクリット本は』存在せず、『偽経ともいわれる』とある。リンク先には全文の漢字表記と平仮名訓読文がある。

「狼」我々が絶滅させてしまった哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(カニス・ルプス・ホドピラクス:北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい。オオカミは雌雄のペアを中心とした平均四~八頭ほどからなる社会的な群れ(パック:pack)を形成し、群れはそれぞれ縄張りを持ち、特に大型の獲物を狩る時は雌雄のペアやそうした群れで狩うので、この挟み撃ちは決して架空ではない。

「不惜身命(ふしやくしんみやう)」仏道修行のためには身も命も惜しまず、死をも厭わない決意の謂い「法華経」の「譬喩品(ひゆぼん)」などにある語。

「怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]」怒り猛っていた表情や様子が、一転して変わって。

「雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ」先の牡牝の狼のそれぞれの遠吠えと読めるが、怪異のコーダの上手いSE(サウンド・エフェクト)である。

「橫手(よこで)を打(う)」つ、とは、思わず、両手を打ち合わせることで、意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた!」と思い当たったりしたときなどにする動作を指す。室町末期以降の近世語。

「桑門(よすてびと)」「太平百物語卷二 十七 榮六娘を殺して出家せし事」で既出既注。]

2019/05/18

新しき美(は)しき恋人

 

Kanade



六十二歳にもなって――新しい超弩級に美しい恋人が出来た! それも教え子夫婦の子だ!! これはヤバシヴィッチのヤブノヴィッチだ!!! これは政治的道義的大問題だ!!!! でも――凝と見詰め合って笑い合ったのだっツ!!!!! しかし――絶対の詩神(ミューズ)よ!!!!!! こればかりは!!!!!!! どうか許してくだされいぃっツ!!!!!!!!


[やぶちゃん注:今日、私の最も今に近しい教え子夫婦(ただちょっと教えただけなのだけれど。でも、私には確かな忘れ難い「教え子」である)と横浜で会食した。十ヶ月の彼らの娘に逢った――それはそれは……名立たる詩人たちに詩を作らせずんばならざる可愛い娘であった。それを語らずには、私は生きている価値がないほどに美(は)しき娘であったのだ!…………]

[やぶちゃん追記:思えば僕は生まれて、このかた、ほんとうの赤子抱いたことが――なかった……だから……彼女は――真に――ミューズ――であったのである…………しかし、よく見ると、私の眉間には皺が寄っている……でも……それは彼女が、ものを食べる時(僕は、今日、ただ一度だけれど、御夫婦に勧められて、彼女に匙で離乳食をも食べさせたのでもあったのであった)寄せる眉間の皺と全く同じではなかったか!?! それを見た時、私は宮澤賢治よろしく、『「この子」やそれに繋がる子らの「幸い」を私たちは確かに担って行かねばならぬのは――この私ら――ではないのか?』と、遅ればせながら、思うたのであった……

髑髏 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    髑  髏

 

 壯麗な、燦爛たる廣間。紳士淑女の群れ。

 すべての知は活氣附いて、談話(はなし)ははずんでゐる。……賑かな談話(はなし)の對照は或る有名な唱歌女(シンガア)である。彼等は彼女を神聖だ、不朽だと呼んだ。……『あゝ、實にすばらしいものだつた、彼女が昨日やつた最終の顫音(トリルレル)は!』

 すると突然――丁度魔法使ひの杖を振つたやうに――すべての頭から、すべての顏から、綺麗な皮膚の蔽ひが滑り落ちてしまつて、忽ち白々(しろじろ)とした髑髏があらはれ、むき出しになつた顎や齒齦(はぐき)鉛色に光つた。

 恐る恐る私はその顎や齒齦(はぐき)の動くのを見た。そのごつごつした骨の球が、ランプや蠟燭の光にきらめいたりぐるぐる廻つたりするのを見た。又その球の中に他の一壮層小さな球が廻つてゐるのを見た。それは何の意味も無い眼の球だ。

 私は恐ろしくて自分の顏に觸れないように、また鏡にも向はないようにしてゐた。

 髑髏はやつぱりぐるぐる廻つてゐる。……そして初めのやうな騷ぎをして、小さな紅(あか)い布(きれ)みたやうな舌を剝き出された喬の間からべろべろ覗かせながら喋(しやべ)つてゐる、『實にすばらしい、實に及びもつかぬ.不朽な……さうだ、不朽な……唱歌女(シンガア)のやつたあの最後の顫音(トリルレル)は!』

    一八七八年四月

 

唱歌女(シンガア)、オペラの歌うたひ、柴田環、原信子などと云ふ人がそれに當る。】

顫音は音樂上の言葉、聲をふるはせて長く引つぱる唱ひ方をいふ。】

[やぶちゃん注:「顫音(トリルレル)」恐らく生田はこの篇を「序」に出る「ヰルヘルム・ランゲ」(ドイツ人と思われる翻訳家ヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange 一八四九年~一九〇七年)か)のドイツ語訳を元にしているものと思われる。トリル(trill:音楽用語。「音をふるわす」の意で、装飾音の一種。通常は略して「tr.」と記入のある主要音と、その二度上の補助音とを交互に急速に反復することを指し、主要音から始まるのが普通。三度以上の音程とそれを行う場合は「トレモロ」(イタリア語:tremolo)と呼ぶ)はドイツ語で「Triller」(発音カタカナ音写:トゥリラァ)と書くから、生田はこれを綴り字から、かく音写したものと思われるからである。

「柴田環」三浦環(みうらたまき 明治一七(一八八四)年~昭和二一(一九四六)年)は日本で初めて国際的な名声を得たオペラ歌手で、十八番(おはこ)であったプッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)の「蝶々夫人」(Madama Butterfly:一九〇四年初演)の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名であった。東京生まれ。元の姓は「柴田」で、明治三三(一九〇〇)年の東京音楽学校入学直前に父の勧めで陸軍軍医藤井善一と結婚して「藤井環」と称したが、後、離婚(明治四〇(一九〇七)年)し、大正二(一九一三)年に柴田家の養子であった医師三浦政太郎と再婚した。本書は大正六(一九一七)年六月刊であるが、彼女は三浦と結婚後、「三浦」姓を、終生、名乗っていたようである。詳しくは参照したウィキの「三浦環」を読まれたい。

「原信子」(明治二六(一八九三)年~昭和五四(一九七九)年)は国際的なオペラのソプラノ歌手。青森県八戸市出身で明治三六(一九〇三)年から三浦環に師事した。大正七(一九一八)年には「原信子歌劇団」を結成し、浅草で大衆的なオペレッタを次々と上演、田谷力三・藤原義江らとともに、所謂、「浅草オペラ」の一時代を築いたが、翌大正八年に突然の引退宣言をし、本格的にオペラを学ぶために渡米、マンハッタン・オペラに出演する幸運に恵まれ、その後、カナダを経由してイタリアに留学、そこでサルヴァトーレ・コットーネ(Salvatore Cottone)に師事し、また、プッチーニやピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni 一八六三年~一九四五年:オペラ作曲家・指揮者)の知遇も得た。一九二八年(昭和三年)から一九三三年までの間、日本人で初めてミラノの「スカラ座」に所属し出演した。昭和九(一九三四)の帰国後は「原信子歌劇研究所」を創設、晩年まで、声楽家として多くの著名な歌手を育てた。詳しくは参照したウィキの「原信子」を読まれたい。孰れも今や、却って「註釋」に注が要るものとなってしまった。]

雀 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 私は獵から歸つて、庭園の並木道を步いてゐた。犬は前を走つてゐた。

 突然犬は刻み足になつて、獲物を嗅(か)ぎ附けたやうに忍んで步き出した。

 私は並木道を見遣つて、嘴(くちばし)の黃色(きいろ)な頭(あたま)の上に毧毛(わたげ)の生えた一羽の子雀を認めた。巢から落ちたのだ(風はひどく並木の樺の樹をゆすぶつてゐた)そして其處にぢつとすくんだ儘、彼はまだ生え切らない翼を徒らにばたばたさせてゐた。

 犬がそつとそれに近づいて行つた時、突然直ぐ傍らの樹から、喉の黑い親雀が丁度小石のやうに犬のつい鼻先きに飛び下りた。そして全身ぶるぶる顫へながら、あはれな絕望の叫びを舉げて、彼は齒列(はなみ)のきらめく開いた口の方ヘ二三度飛びかゝつた。

 彼は助けようと思つて、身をもつて雛をかばつたのだ……けれども其の小さな全身は恐怖のために戰(をのゝ)き、其の聲は怪しう嗄(しわが)れてゐた。恐ろしさに氣を失ひながらも、彼は身を投げ出したのだ!

 彼の眼には犬はどんなにか大きた怪物(くわいぶつ)に見えたに違ひない。それでも、彼は安全な高い枝に止まつてゐる事は出來なかつた……その意志よりも强い力が彼を飛ぴ下りさせたのだ。

 私のトレソルはぢつと立止つてゐたが後退(あとしざ)りした。……彼もまた此の力を認めたに違ひない。

 私は急いで面食(めんくら)つてゐる犬を呼んで、敬虔の念に打たれて立去つた。

 さうだ、笑つてはならない。私はこの小さな悲壯(ヒロイツク)な鳥に對して、その愛情の衝動に對して、たしかに敬虔の念に打たれた。

 私は思つた、愛は死よりも死の恐怖よりも强い。たゞそれに依つてのみ、愛に依つてのみ、人生は維持され、進步するものであると。

    一八七八年四月

 

、ツルゲエネフの愛と云ふ思想を最もよく現したもの。彼の厭世主義の特質は人生の虛無を說くと共に、愛のみを眞實としたところにある。】

さゞれ石 しづ子(伊良子清白/女性仮託)

 

さゞれ石

 

 

  ゆ め

 

浮世の中の物ことを、

 さやかに見する夢こそは、

  浮世の中を隈もなく、

   うつせし神のうつしゑを、

    示すしはしの業ならめ。

 

犯せる罪も祕事も、

 さながら見ゆるかしこさよ。

  闇とは云へとなかなかに、

   あやめも分かぬ夜半こそは、

    心をてらす光なれ。

 

 

  梅の一枝

 

餘りにいものこひしきに、

 軒端の梅の一枝を、

  手折りて贈るわりなさよ。

 

いはぬはいふにいやまして、

 深きおもひのあるものを、

  戀とはいもの知らさらむ。

 

 

  ほの見しかげ

 

ほの見し影のしたはれて、

 かくまで人のこひしきは、

  いかなる故の在やらむ。

 

をかしきおのが心かな。

 こひしきからにこひしきを、

  何今さらにあやしまむ。

 

 

  おのが心

 

かなしと君はの給へど、

 つらしと君はの給へど、

うらむ君よりうらまるゝ、

 おのが心のくるしさを、

あはれと君もくめよかし。

 

 

  あ ざ み

 

神より享けしそのまゝの、

 わが眞心をいつはりて、

  ゑまひの色に咲きもせば、

   針ある草と知らずして、

    人やつむらん花あざみ。

 

 

  別れのあと

 

わかれのあとのさびしさは、

 よそへて何を君と見む。

園生の花を君と見ば、

 つれなき風にちりもせむ。

空行く月を君と見ば、

 あへなく雲にかくるらむ。

君のこゝろのやさしさは、

よそへむものもなきものを、

 なにおろかにも思ひけむ。

 

 

  櫻とすみれ

 

おつれば一つ土なるを、

 さくら董と花ゆゑに、

  へだてあるこそうらみなれ。

  夜すがら何をかたるらむ、

  野川に星のかげ見えつ。

ひゞきは松の音にかよふ。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年四月『靑年文』掲載。署名は特異的に女性仮託で「しづ子」である。]

禿筆餘興 伊良子暉造(伊良子清白)

 

禿筆餘興

 

 

  玉 章

 

おぼろに匂ふ春の夜の、

月の光も影更けて、

ねられぬ夜半の小衾に、

はかなく物を思ひつゝ。

 

思ひあまりてきえぎえの、

閨の燈火かゝげつゝ、

かくとはすれど玉章に、

おつるなみだをいかにせむ。

 

思へばむかし君とわれ、

櫻をかざし月をめで、

春の長日も秋の夜も、

みじかしとこそ契りしか。

 

いなみてもなほたらちねの、

ことわり過ぎしかなしびに、

思はぬ人を見てしより、

たのしき夢は破れてき。

 

草刈る賤にみをなして、

埴生の小屋に住ふとも、

君と二人が暮しなば、

玉のうてなにまさるらむ。

 

おもてにゑみをよそひても、

うらにはうきをつゝみつゝ、

心もとけぬ朝ゆふは、

都もひなにことならず。

 

常盤の松のとはにこそ、

きよき操もちかひしが、

うつろふ花のときのまに、

かはるこゝろを思ひきや。

 

久しきあとのかたみにと、

二人うつしゝ面影も、

かはらで殘るうつしゑよ、

かはる心をうらむらむ。

 

うつゝも夢もあはぬみは、

ねてもさめてもくるしきに、

君とへだてのうき雲は、

なみだの雨とそゝぐなり。

 

君がたまひし玉章は、

ことわり深くきこえたり、

うらむみよりもうらまるゝ、

心を君ははからずや。

 

つま重ねにし小夜ごろも、

こはいひとかむすべもなし、

君をし思ふまこゝろは、

たゞ末かけてかはらじな。

 

筆ををさめてうちぬれば、

誰しのべとやをしふらむ、

關の戶近き梅が香の、

枕に深くかをるなり。

 

 

  百合と蝶

 

姉と妹がうちつれて、

あそぶ野川の片岸に、

一もと咲ける百合の花。

 

妹の少女うれしげに、

母がめでますこの花の、

一枝はつどに手折りてむ。

 

姉の少女はとゞめつゝ、

ねぶるこてふのさむるまで、

靜けき夢なやぶりぞよ。

 

二人ながむる水のもに、

花はちりてぞうかびける、

うかぶを蝶もしたひつゝ。

 

世に情ある少女子が、

かふき言葉を咲く花と、

蝶はいかにや思ひけむ。

 

 

  

 

櫻狩してかへるさの、

山の下遣道わがくれば、

谷をへだてし藁やより、

樓織るおさの音ぞする。

 

折しも月のをかしきに、

笛とりいでゝ吹きなせば、

藁やのはたはとだえして、

岸に少女ぞたてるなる。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月二十五日発行の『文庫』第二巻第四号掲載。署名は本名の伊良子暉造。

「かふき言葉を咲く花と、」の一句意味不祥。「歌舞伎」では、今一つ、私は意味が採れぬ。識者の御教授を乞う。]

2019/05/17

二つの四行詩 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    二つの四行詩

 

 昔、一つの町があつた。その町の人達は詩を熱愛してゐたので、何週間も立派た新しい詩が現れないで過ぎると、かやうな詩の不作(ふさく)を公(おほやけ)の不幸と考へた。

 そんな時には、彼等は一番惡い着物を着て、頭に灰をふりかけ、群をなして廣場に集まつて、淚を流して、叡等を見捨てた詩神(ミユウズ)を悲しみ訴へるのであつた。

 或るかうした不幸な日に、靑年詩人のヂユニアスは、悲嘆に暮れてゐる公衆の押し合ひへし合ひしてゐる廣場にやつて來た。

 急ぎ足で彼は此の爲めに造られてゐる高壇(フオーラム)にのぼつて、一つの詩を朗讀したいとの合圖をした。

  係官(リクタア)は直ぐに束桿(フアシイズ)を振廻した。『しツ! 謹聽!』と彼らは聲高く叫んだ。群集は片唾(かたづ)を呑んで靜まり返つた。

『友よ! 同志よ!』とヂユニアスは高いが、然し、あまり落着きのない聲ではじめた――

 

  『友よ! 同志よ 詩神(ミユウズ)を愛する者よ!

   汝等、美と優雅(みやび)とを崇(あが)むる者よ!

   暫しも憂愁(うれひ)に心を惱まさるるなかれ、

   汝等の心の願ひは滿たされん、然して光は暗を逐ひやらん。』

 

 ヂユニアスはやめた……すると彼に應(こた)へて廣場の八方から叱聲(ヒツス)や嘲笑のどよめきが起つた。

 彼に向つた顏は皆憤激に燃え、眼は皆忿怒にきらめき、腕は皆舉げられて、威嚇(ゐかく)の拳(こぶし)を振つた。

 「彼奴(あいつ)、あんなことで我々をごまかさうと思やがつたんだ!』と怒の聲が怒鳴つた。『あの下らない平凡詩人(へぼしじん)を高壇(フオーラム)から引きずり下せ! 馬鹿者を引つ込ませろ! この馬鹿野郞にや腐れ林檎と腐れ玉子で澤山だ! 石を取つてくれ――そこの石を!』

 ヂユニアスは一目散に高壇(フオーラム)を飛下りて逃げ出した。……けれどもまだ家へ行き着かないうちに、熱狂した拍手喝采や讃嘆の叫聲やどよめきを耳にした。

 不思議に堪へず、ヂユニアスは、人に氣附かれないやうに注意して。(荒れ狂つた獸(けもの)を怒らすのは危險であるから)廣場へ引返した。

 そして彼は何を見たか?

 群集の上高く、彼等の肩の上に、平たい黃金の楯に乘つて、紫の寬袍(クレミス)を纒ひうち靡く髮に月桂冠を頂いて立つてゐたのは彼の競爭者なる靑年詩人ヂユリアスであつた。……そしてまはりの群衆は叫び立てた、『萬歲! 萬歲! 不朽のヂユリアス萬歲! 彼は我々の悲みを、我々の非常な苦みを慰めた! 彼は蜜よりも甘い、鐃鈸(にょうばち)の音よりも調子のいゝ、薔薇よりも匂はしい、蒼空よりも淸らかな詩を我々に與ヘた! 彼を凱旋式をして連れて行き、彼の靈妙な頭に香(かう)の柔かな匂ひを注ぎかけ、彼の額を棕梠(しゆろ)の葉でしづかに煽ぎ、彼の足もとに亞剌比亞のあらゆる沒藥(もつやく)の香りをふり撒け! ヂユリアス萬歲!』

 ヂユニアスは熱狂して讃歌を叫んでゐる者の一人のところへ行つた。『市民の方、私(わたし)に敎へて下さい! ヂユリアスは一體どんな詩で貴下方を喜ばせたのです! 私は殘念にも彼が詩を讀んだときに廣場に居合はさなかつたんです! どうか御忘れでなけりや私に云つて聞かして下さい!』

『あんな詩がどうして忘れられるものですか!』と問はれた人は力を籠めて答へた。『私をどんな人問だと思つたんです! まあ聞きなさい――聞いて喜びなさい、一緖に喜びなさい!』

『詩神(ミユウズ)を愛する者よ!』かく、かの崇(あが)められてゐるヂユリアスははじめたのだ……

 

  『詩神(ミユウズ)を愛する者よ! 同志よ! 友よ!

   美と優雅(みやび)と音樂を崇(あが)むる者よ!

   汝等の心を暫しも憂愁(うれひ)に脅かさるゝなかれ!

   願ひてし時は來れり! 然して晝は夜を逐ひやらん!』

 

『君、すばらしい詩ちやないか!』

『こりや驚いた!』とヂユニアスは叫んだ。『そりや私の詩ぢやないか! ヂユリアスは私が詩を讀んだ時に群集の中にゐたに違ひない、それを聞いて、一二句言ひ廻しを變へて、しかも拙(まづ)くして繰返したのだ!』

『ははア! わかつた……貴樣はヂユニアスだな』と彼の呼び止めた市民は顏を蹙(しか)めて言つた。『貴樣は嫉妬深い奴だ、でなきや馬鹿だ!……まあ考へて見ろ、みじめな奴、ヂユリアスが「然して晝は夜を逐ひやらん!」と歌つたのはどんなに莊嚴(そうごん)だか。それに貴樣のは何だ、「然して光は暗を逐ひやらん!」だつて、馬鹿な、何の光だ? 何の暗だ?」

『然しそれは同じ事ぢやありませんか?』とヂユニアスは言ひはじめた……

『もう一言(ひとこと)言つて見ろ』とその市民は彼を遮つた、『俺は皆(みな)を呼ぶぞ……皆は貴樣を八つ裂きにしつちまふぞ!』

 ヂユニアスは賢くもさからはなかつた。するとその話を聞いてゐた白頭の老人が此の不幸な詩人のそばへ寄つて、彼の肩に手を置いて言つた、

『ヂユニアス! お前は自分の思想を歌つた、然し時機(とき)がよくなかつた。彼は他人(ひと)の思想を歌つた、然し時機(とき)がよかつた。そこで彼は成功した。その代りお前には良心の慰安(なぐさめ)が殘されてゐる。』

 然し我々のヂユニアスの良心が全力を盡して(實を云へばあまり成功はしなかつたが)傍(かたはら)に押し除(の)けられてゐる彼を慰めてゐる間に――遠方では、稱讃と歡呼の叫びの中に、紫金(しこん)に輝く太陽の勝利の光輝(かゞやき)に包まれて、額に月桂樹(ロオレル)の影を帶び、沒藥の香ひの雲に取圍まれ、あだかも本國へ凱旋する皇帝のやうに、重々しげにまた誇らはしげに、ヂユリアスの毅然たる姿は悠然と動いて行つた……そして棕梠(しゆろ)の長い枝は彼の前に上つたり下つたりしてゐた、あだかもその靜かな戰(そよ)ぎ、愼(つゝ)ましやかな會釋(ゑしやく)によつて、魅せられてゐる市民の心に絕えず湧き返るかの讃嘆の情を云ひあらはさうとするかのやうに!

    一八七八年四月

 

二つの四行詩、この篇は羅馬時代のこととして書いてある。】

詩神、ミユウズは希臘神話にある、本來は音樂や踊や歌唱を司る女神でクリオ、ウラニア等九人である。】

フオラムは古羅馬心公會堂である。】[やぶちゃん注:「フオラム」はママ。]

【リクタアは羅馬の役人。】

束桿は棒を束ねた中に斧鉞を包んだもので、羅馬の高官の權力の標とされてゐたもの。】

[やぶちゃん注:「ヂユニアス」原文は「Юний」。これはラテン語の「Junius」で、これは恐らく実在した古代ローマの風刺詩人・弁護士であったデキムス・ユニウス・ユウェナリスDecimus Junius Juvenalis(五〇年?~一三〇年?)がモデルであろう。暴虐であったローマ帝国第十一代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスTitus Flavius Domitianus(五一年~九六年)治下の荒廃した世相を痛烈に揶揄した詩を書き、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の格言で有名な詩人である(但し、この格言は誤解されており、ユウェナリス自身の謂いは、腐敗した政治の中で、堕落した生活を貪る不健全な人(=肉体)に、健全な魂と批判精神を望むものであった、ということはあまり知られていない)。ちなみに彼は「資本論」にも言及されている。

「高壇(フオーラム)」英語「forum」の音写「フォーラム」。ドイツ語も同じ綴りだが、「フォールム」で以下の原語に近い。元はラテン語の「Forum」(フォルム)で古代ローマ都市の天上のない集会場・公共広場のこと。

「係官(リクタア)」ラテン語の「Lictor」(リクトル:英語も同じ綴り。ドイツ語では「Liktor」となる)。古代ローマに於ける役職の一つで、インペリウム(ラテン語:Imperium:古代ローマにあってローマ法によって承認された「全面的命令権」のこと)を有する要人の護衛を主な任務とした護衛武官を指す。

「束桿(フアシイズ)」このルビはラテン語の「fasces」(ファスケース:「束」を意味するラテン語「fascis」(ファスキス)の複数形の英語読みであろう。通常は、斧の周りに木の束を結びつけた一種の身分表象のための所持具を指す。ウィキの「ファスケス」によれば、『古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトル』(前注参照)『が捧げ持った権威の標章として使用され』、二十『世紀にファシズムの語源ともなった。日本語では儀鉞(ぎえつ)や権標、木の棒を束ねていることから』、『束桿(そっかん)などと訳される』とある。

「叱聲(ヒツス)」ルビ不審。しかし、思うに、このルビ、英語の「hysteric」の語幹部を名詞のように使用したものではなかろうか? 和声英語では「ヒスを起こす」という謂い方が今も生きているからである。なお、以上のカタカナのルビ附けの音写から見て、生田は「序」で述べた、イギリスの翻訳家コンスタンス・クララ・ガーネット(Constance Clara Garnet)の英訳をここでは底本に用いているように思われてくるのである。

「寬袍(クレミス)」長寛衣の意の「クレミス」なる外国語は不詳。識者の御教授を乞う。

「ヂユリアス」原文は「Юлий」。これはラテン語の「Julius」で、ローマ人にはありがち名であり、私は特定人物ではなく、「ユニウス」の詩の剽窃をする者としての「ユニウス」に似せた名と捉えている。

「鐃鈸(にょうばち)」楽器のシンバル。

「棕梠(しゆろ)」限定すると、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus であるが、ヤシ科 Arecaceae に属する種群を纏めて指す語でもあり、ここはそちらがよい。

「亞剌比亞」「アラビア」。

「沒藥(もつやく)」ムクロジ目カンラン科ミルラノキ(コンミフォラ)属 Commiphoraの棘を持つ低木から分泌される、赤褐色のゴム樹脂。「ミルラ」(myrrh)とも呼ばれる。アラビア語 「murr」(苦い)が語源で、苦いが、かぐわしい香りを有する。おもな種類に「ヘラボール」と「ビサボール」があり、「ヘラボール没薬」はエチオピア・アラビア・ソマリア原産のモツヤクジュ Commiphora myrrha から、「ビサボール没薬」はそれによく似た外見のアラビアモツヤクジュ Commiphora erythraea からそれぞれ得られる。モツヤクジュは樹高三メートル以下で、乾燥した岩場に植生する。モツヤクジュが自然に割れたり、樹皮を叩いて傷をつけたりすると、樹液が分泌され、空気に触れて固まったものを集めて没薬とする。没薬は古くから珍重され、中東や地中海地域では高価な香料・香水・化粧品の原料のほか、塗布剤や防腐剤に使用された。中世ヨーロッパでも貴重だったが、今日では安価で、主に歯磨き剤・香水・精油の原料及び医薬品の保護剤として利用される。軽い殺菌・収斂・駆風作用を持ち、胃腸内のガスを排出させる駆風薬や口腔内の炎症を和らげるチンキ剤として使用される。没薬から抽出した精油は香りの強い香水の原料になる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

太平百物語卷四 卅三 孫六女郞蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

Jyorougumo

   ○卅三 孫六女郞蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

 作州高田に孫六とて、代々、家、冨(とみ)、田畠(たばた)、數多(あまた)持(もち)たる鄕士(がうざぶらひ)ありけるが、本宅より十五丁斗(ばかり)[やぶちゃん注:一キロ六百三十六メートルほど。]を放(はな)れて、別埜(したやしき)をしつらひ、折ふしは此所に行(ゆき)て、心をなぐさめける。

 折しも水無月[やぶちゃん注:陰暦六月。]なかばにて、殊なふ夏日(かじつ/なつのひ)堪(たへ)がたかりければ、每日こゝに來りて、納凉(なうりやう/すゞみ[やぶちゃん注:前者はママ。])しけるが、竹緣(ちくゑん)に端居(はしゐ)して、床下(しやうか/とこのした)を流るゝ水の淸きに、こゝろをすまして、かくぞ詠じける。

  せきゐるゝ岩間の水のすゞしさを

   わがこゝろにもまかせつるかな

[やぶちゃん注:「ゐるゝ」はママ。]

 あまりに心能(よく)おぼへて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、そよ吹(ふく)風に睡眠(すいめん[やぶちゃん注:ママ。])の催しけるに、何國(いづく)よりか來りけん、年の比(ころ)五十(いそじ[やぶちゃん注:ママ。])斗なる女、身には五色(ごしき)の衣裳を著し、孫六が前に來たる。

 孫六、あやしく思ひ、

「いかなる人ぞ。」

と尋ければ[やぶちゃん注:「たづねければ」。]、老女のいはく、

「我は此あたりに住(すむ)者なり。御身、常々此所に來りて、四季おりおりの[やぶちゃん注:ママ。]詠(ながめ)も無下(むげ)ならず。殊更、今の御口ずさみを聞まいらせ、一人の我が娘、御身をふかくおもひ焦(こが)れ侍るなり。子をおもふ親のならひ、あまり不便(びん)に候へば、情をかけてやり給へ。いざや、わが住(すむ)方に伴ひ參らせん。いざゝせ玉へ。」

といふに、孫六も怪しながら、心そゞろに伴ひ行(ゆけ)ば、大き成(なる)樓門に至りぬ。

 内に入れば、所々に大小の門戶(もんこ)ありて、遙に奧の方(かた)に至り、むかふをみれば、其結構、こと葉に述(のべ)がたし。

 老女、孫六に向ひ、

「しばらく、爰に御待あれ。」

といふて、おくに、いりぬ。

 孫六、心におもふやう、

『こは、そもいかなる人の住家(すみか)やらん。心得ぬ事かな。』

と、且(かつ)、うたがひ、且、あやしみゐる所に、十六、七斗なる、さも美しき女の、身には錦の羅(うすもの)に、五色に織(おり)たる綾をまとひ、髮はながくて、膝(ひざ)をたれ、いと、たをやかに、只一人、步み來(きた)る。

 孫六、此体(てい)をみるより、心も消入(きへいり[やぶちゃん注:ママ。])、玉(たま)しゐ[やぶちゃん注:ママ。]も空に飛(とぶ)心地して守り居(ゐ)ければ、頓(やが)て孫六が傍(そば)に寄(より)、少(すこし)面はゆげに打ゑみていひけるは、

「誠に。御身をしたひ參らせ事は、はや、幾(いくばく)の月日也(なり)。其念力(ねんりき)の通じまいらせ、かく、まみへける嬉しさよ。今よりして、夫婦となり、行末久(ひさ)に、契りてたばせ候へ。」

と、おもひ入て[やぶちゃん注:「いりて」。]申にぞ、孫六、答へて申しけるは、

「誠に御心ざし有がたく候へども、我等如きいやしき身、などて、夫婦となり申すべき。其上、我は定(さだま)る宿(やど)の妻、あり。此事、おもひも寄(より)奉らず。いつしか見參らせし事もなきに、白地(あからさま)なる御志、疎(おろそ)かには承らず。夫婦の緣こそ拙(つたな)くとも、御心ざしは、忘れ奉らず。」

と、いと眞実(まめやか)に斷りければ、此姬(ひめ)、恨みたる顏(かほ)ばせにて、

「扨々、心づよき仰(おほせ)かな。我、御身を焦(こがれ)し事、母人、不便に覚し召(めし)、御身の別埜(したやしき)に來り玉へば、いつも緣のほとりまで行(ゆき)給ひ、御身の傍(そば)を放(はな)れ玉はず。然るに、一昨日(おとゝひ)の暮方、わが母を、御身、烟筒(きせる)を以(もつ)て、打ち殺さんとし玉ひしを、辛じて、命、助(たすか)り歸り玉ふ。加程(かほど)に心を盡し給ふも、子をおもふ心の闇(やみ)ならずや。角迄(かくまで)切なる我思ひを、晴(はら)させ玉へ。」

と、かきくどけば、孫六も岩木(いはき)ならぬおもひながら、元來、正直なる男なれば、所詮、わが一生そひはつる事もならぬ身の、かく、止(や)ん事なき御息女に、一夜(ひとよ)の枕をかはさんも、本意(ほんゐ[やぶちゃん注:ママ。])ならず。いろいろにすかし申せど、

「兎角、御身に、はなれず。」

と、すがり付(つけ)ば、孫六、今は、もて扱(あつか)ひ、あなた此方と逃げるとおもへば、有(あり)し家形(やかた)は消(きへ)うせて、元の竹緣にてありければ、孫六、忙然と[やぶちゃん注:ママ。]あきれ、

『夢か。』

と思へど、覚めたる氣色(けしき)もなく、

『正(まさ)しき事か。』

とおもへば、露(つゆ)形(かたち)も、なし。

 餘りのふしぎさに、從者(ずさ/めしつかひ)を呼(よび)て、

「われ、此所に假寢(かりね)せしや。」

とゝへば、

「さん候ふ。半時(はんじ)[やぶちゃん注:現在の一時間。]斗も御寐(ぎよしん)なり候ふ。」

と、いふ。

 孫六、奇異の思ひをなし、あたりを能(よく)々見廻せば、ちいさき女郞蜘[やぶちゃん注:ママ。]、そこらを靜(しづか)に、步みゆきぬ。

 上の方(かた)を見やれば、軒には數多(あまた)の蛛ども、さまざまに巣をくみて、歷然たり。

 孫六、つくづく案じみるに、一昨日(おとゝひ)の暮方(くれかた)、烟筒(きせる)にて追ひたりしも、陰蛛(ぢやらうぐも)なり。

「扨は。此蛛、我が假寢の夢中に、女と化(け)し、われをたぶらかしけるならん。恐しくも、いまはしき物かな。」

とて、從者(ずさ/めしつかひ)にいひ付(つけ)て、悉く、巣をとらせ、遙(はるか)の㙒辺[やぶちゃん注:「のべ」。]に捨(すて)させければ、其後は、何の事もなかりしとかや。

[やぶちゃん注:「女郞蜘(ぢやらうぐも)」節足動物門 鋏角亜門蛛形(クモ)綱蛛形(クモ)目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata。ご存じのこととは思うが、非常に攻撃的でしかも視力も低く、交尾の際に相手の♂を餌と誤認して捕食してしまうこともある。ウィキの「ジョロウグモ」によれば、『視覚はあまりよくないため、巣にかかった昆虫などの獲物は、主に糸を伝わる振動で察知するが、大型の獲物は巣に近づいて来る段階で、ある程度視覚等により捕獲のタイミングを整え、捕獲している。巣のどこにかかったのか、視覚では判別しづらいため、巣の糸を時々足で振動させて、そのエコー』(echo:反響振動)『により、獲物がどこに引っかかっているのか調べて近づき、捕獲している。捕獲された獲物は、毒などで動けないよう』に『処置をされたあと、糸で巻かれて巣の中央に持っていかれ』、『吊り下げられ』て『数日間かけて随時』、『捕食される。獲物は多岐にわたり、大型のセミやスズメバチなども捕食する。捕食は頭から食べていることが多い。成体になれば、人間が畜肉や魚肉の小片を与えても』、『これも食べる』。『雄は雌の成熟前から雌の網に居候し、交接のタイミングを待つ』、『交接の』八十%『以上は雌の最終脱皮をしている間に行われ、それ以外では』、『雌の摂食時に行われる。これらの時期は、雌の攻撃性が弱くなっているため、雄も安全に交接を行える』からである(それ以外の目的もある。後述される)。『他方で複数の雄と交接した雌では、その卵塊の』八十%『が最初に交接した雄の精子で受精したものであることがわかっており、雌が成体になる最終脱皮を交接の機会とすることはその意味でも有効である』。『雌の網には複数の雄が見られるが、これらの雄の間で闘争が行われることも知られる。先入の雄はそれ以降に侵入しようとする雄を排除しようと行動し、体格が違う場合は』、『大きい方が勝つ。同程度の場合、闘争が激化し、噛み付くことで足を奪われる雄が珍しくない。闘争の結果』、『振り落とされた雄が網に引っかかり、それを雌が食べてしまう例も見られる』。『また』、『ジョロウグモでは、交接した雄がそのまま網に居残ることが知られる。これはより多くの子孫を残すため、交接相手の雌と他の雄との交接を防ぐ目的での行動と考えられている。同属の別種では雄は』一『頭の雌との交接で全精子を消費することが知られている。本種もそうであれば、交接した雄が他の雌を探しに行く意義はなくなる』とある。

「作州高田」当時の美作国真島郡勝山(現在の岡山県真庭市勝山(グーグル・マップ・データ))にあった勝山城は、別名を高田城と称したから、その附近である。

「鄕士(がうざぶらひ)」江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した者。武士の身分のまま農業に従事した者や武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、いざという時には軍務に従った。郷侍。

「いざゝせ玉へ」「いざ」感動詞で誘いを示し、「させたまへ」尊敬の助動詞「さす」の連用形に尊敬の補助動詞「たまふ」の命令形で、この全体の形で連語としてよく使用され、「~なさいませ・お出掛けなさいませ・~お出でなさいませ」という尊敬の意を以って相手を誘(いざな)って行動を促す意を表わす。

「もて扱(あつか)ひ」この場合は「取り扱いに困る・持てあます」の意。]

勿來の關 伊良子暉造(伊良子清白)

 

勿來の關

 

利根の松原一夜ねて、

駒もいなゝくいなの原、

葉山しげ山ほのかにも、

知らぬ筑波も見なの川。

 

霞の浦のうらうらと、

浪もしつけき鹿島潟。

ぬれ行くほどに日も暮れて、

勿來の關のゆふまぐれ。

 

花の木かげに駒とめて、

はらふもしばし袖の雪。

うたひいでたる武夫が、

三十一文字のやまと歌。

 

春もくれ行く東路の、

誰が關守のゆるしけむ。

風を勿來とおもひしに、

みちも袂に散るやまさくら。

 

ほこを枕にうたひけむ、

もろこし人も思はれて、

君がこゝろのゆかしさは、

千代のあとまで匂ひけり。

 

たが薄墨のなごりかも、

寫しとめたるこのかたよ。

かきて流しゝ水莖も、

ふりし昔をしのぶ草。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月三日刊行の少年園刊『詞藻 新體詩集』に前の「月下吹笛」とともに掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

月下吹笛 伊良子暉造(伊良子清白)

 

月下吹笛

 

袖引きとめて關守が、

とめしつらさをなさけにて、

花にやどかる須磨の里、

今宵は笛にあかさばや。

 

蘆分小舟棹とりて、

浪のまにまに漕ぎくれば、

網手かけたる海士が軒、

小松がくれに月さしぬ。

 

しばし岸根に舟とめて、

手折るも一枝吹風に、

散るや木末のひまとめて、

月も洩れくる磯さくら。

 

霞にくもるはるの夜は、

須磨も明石も名のみにて、

ほのかに見ゆるいさり火に、

今宵は速きあは路しま。

 

故鄕人はうらむとも、

一よはゆるせ笛竹の、

天つ御空に通ふらむ、

雲もたゞよふこゝちして。

 

おぼろに匂ふ夜もすがら、

すみ行くものは調にて、

あはすもゆかしおのづから、

波のつゞみに松の琴。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月三日刊行の少年園刊『詞藻 新體詩集』に次の「勿來の關」とともに掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

髙根の雲 蘿月(伊良子清白)

 

髙根の雲

 

昇る朝日の影そへて、

    玉のいさごもいちじるく、

光かゞやく九重の、

    雲井のにはの朝ぼらけ。

百の司の袖とめて、

    こゝら御階のさくら散る。

 

霞のほらの名におひて、

    かすみこめたる大内の、

やまの尾上をうちわたす、

    みどりも深き老松の、

ぅれ吹く風に友鶴の、

    朝聲ゆたにきこゆなり。

 

ふとしきたてる宮柱、

    黃金しろがねちりばめて、

とばりの錦くれなゐの、

    八汐織りかく色深く、

すきもれ來てはそら焚の、

    けぶりぞ遠くかをるなる。

 

いでたち給ふ大君の、

    御衣の袖のまばゆきに、

豐榮のぼる朝日子の、

    玉の御階にさしそへて、

おりゐる雲もほのぼのと、

    御空に遠くわかるなり。

 

つゞれの袂かた布きて、

    若草もゆる御園生の、

あしたの露にひれ伏して、

    御門をまてる少女子が、

かたへにそへし妻琴も、

    なかばは塵にうづもれて。

 

やなぎの髮もなよやかに、

    黃楊の插櫛さしそへて、

霞を洩るゝ夕月の、

    ひかり耀くおもばせは、

木末の花もあこがれて、

    眞袖のうへに散くなり。

 

ほのぼの匂ふ大宮の、

    御庭のあたり吹風に、

御けしの袂はらはせて、

    のらすもかしこき大君の、

玉の御聲のま近きに、

    いよいよ少女はぬかづきて。

 

「きゝてや少女なれをしも、

    こゝによびしはよそならず。

一とせ風のこゝちして、

    やまふの床につきしより、

こゝらのくすし集へても、

    朕がなやみはかひなくて。

 

久しき世より皇國の、

    しづめとなりし大神の、

夢のたゝぢにつげましゝ、

    大御をしへの言のはよ。

さめてのあとも尊きに、

    なれをばこゝによびにたり。

 

こやうつくしの少女子や、

    神のをしへのさながらに、

朕がしるなる卷美之(まきみし)の、

    安兒名(あこな)にあらばなやみさへ、

やがていゆでふ一さしを、

    はやもきかせよ琴とりて。」

 

「あはれかしこき御言はや、

    塵にうもるゝこの琴も、

ためしまれなる大君の、

    御階の下にかなでなば、

神の彈くなる音にいでゝ、

    のこるほまれとなりやせむ。

 

かしこまりぬ」といらへつゝ、

    きざしの下の圓座に、

つもれる琴の塵ひぢを、

    はらふもしばし手弱女が、

玉にもまさるおゆびもて、

    妙なる音にひきいでぬ。

大宮人もそでなめて、

    百のつかさもうちつらね、

妙なる聲にきゝほれて、

    うつるもしらに春の日の、

日影もたかくなるなべに、

    しらべも深くなりまさる。

 

ま垣にすがる夕霜に、

    みだるゝ蟲のこゑ細く、

しでうつ五日もうらさびて、

    遠のきぬたをさながらに、

うらむる靑もうちそへて、

    御けしの露をさそふなり。

 

松のうれ吹く浦風に、

    千鳥しばなく聲もして、

糸よりほそく春雨の、

    軒端そぼふるあはれさは、

むせぶ調もたえだえに、

    ぬらさぬ袖やなかるらむ。

 

うつし心もかきくれて、

    むねのゆらぎもます程に、

くるし氣をさへうちそへて、

    たまりかねたる白玉の、

つゝむにあまる袖のうへ、

    君も司もくづをれて。

 

「あまりに琴のかなしきに、

    たえもやしなむ玉の緖の、

たゆるばかりに露けきを、

    いざ彈きかへておもしろく、

をゝしき歌をきかせよ」と、

    君の御言もしめりつゝ。

 

こを聞くなべに手弱女は、

    花の姿もうちしをれ、

いらへもしらに沈みつゝ、

    かくると見れば細襷。

ゆるむか糸をひきしめて、

    かはる調に彈きいでぬ。

 

五百津いは瀨を流れきて、

    瀧はも淵におつるらむ。

八百の潮路をわたりきて、

    浪はも岸に碎くらむ。

木の葉吹きまく山おろし、

    吹くにもにたり音たかく。

 

百千の鍛工ひとときに、

    うつらむ太刀の響して、

弦五日たかき鳴弭の、

    をゝしき聲もそふなべに、

をさまる塵もうち舞ひて、

    御空の雲もまよふなり。

 

こゝろたはれて諸人の、

    御階の床を音たてゝ、

御前もしらにたち舞へば、

    あやの袂の追風に、

かとりの絹のひまとめて、

    こゝらの蝶もあそぶめり。

 

高き御座をおりたちて、

    あやにかしこき大君も、

にほふ御衣の雲の袖。

    かへさせ給ふ折しもや、

少女が彈ける妻琴の、

    いとはたちまちたちきれぬ。

 

さながらきれし妻琴の、

    しらべはたえてこゝら散る、

花の袂もをさまれば、

    なみゐる臣の聲もなく、

あたり靜けくなり行きて、

    御庭に風の音たかし。

 

御心たけき大君の、

    たかき御聲におどろきて、

あふげばかはる御けしきに、

    御衣の袖にあらゝけく、

はらはせ給ふかしこさは、

    なぐさめまつる臣もなし。

 

きざしの下の手弱女は、

    きれたる琴をかき抱き、

さぐりもよゝとなげきつゝ、

    おりたち給ふ大君の、

御裾のあたりひれ伏して、

    うらみを絲にかこつなり。

 

か黑き髮もふりみだれ、

    插頭の櫛もちりぼひて、

花の姿もうつろへば、

    玉の御劍霜散りて、

一すぢ寒き稻妻の、

    ひらめきわたる折しもや。

 

たちまち空に雲わきて、

    あやめも分かずなるなべに、

はたゝく神もなりわたり、

    天津日影もかくろひて、

篠つく雨のたきつ瀨に、

    あたりは見えず成りにけり。

 

すさぶ嵐も吹そひて、

    とばりの錦ちりぢりに、

散り行くあとは百敷の、

    玉の宮居もあらはにて、

黃金の柱くだけつゝ、

    御垣のかべもくづるなり。

 

百千の寶散りぼひて、

    こひぢと成れる庭もせの、

土はらゝかしふりいでゝ、

    なゐさへいたくなるまゝに、

半ばくづれし大殿は、

    西に東にゆらめきて。

 

しづむ入日の色寒く、

    荒野の原となりぬれば、

あへなき花のときめきも、

    いづれのがれぬ秋風に、

夕をまたぬかげろふの、

    夢のみあとに殘るらむ。

 

高根の嵐吹くなべに、

    かをりも妙に花ふりて、

むらさき匂ふ空もせの、

    豐はた雲の上たかく、

琴をかたへに耀ぎて、

    天津少女ぞたてりける。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年一月十日発行の『靑年文』掲載。署名は蘿月。伊良子清白数え二十、この年の十月四日で滿十九となった。京都医学校二年生。「卷美之(まきみし)の」「安兒名(あこな)」という名は知らぬが、なかなか面白い幻想時代詠ではある。]

野末の菊 伊良子暉造(伊良子清白)

 

野末の菊

 

 

 友人の山陽にあそぶを送る

 

暮れ行く秋にあこがれて、

  都の空をたちはなれ、

君が行きますこの門出。

   軒の柳のくりかけて、

     しばし留めむすべもがな。

 

尋ねますらむ歌枕、

  君がこゝろのゆかしさは、

三十一文字にから歌に、

   その言の葉のいろ深く、

     匂はぬ折もなかるらむ。

 

友なき宿もあるものを、

  村雨そゝぐさびしさに、

ぬるゝ袂をくりかへし、

   君を思ひてうたゝねの、

     結ぶ夢路やいかならむ。

 

千草にさやぐ霜白く、

  空行く月も更けにけり。

歸る家路や寒むからじ、

   今宵はこゝに宿りませ、

     かたり明かさむ夜もすがら。

 

 

 茅屋夜坐

 

秋吹風も芭蕉葉に、

  二聲三聲音信れて、

    この菅の根の長き夜を、

      今宵はとはむ友もなし。

 

あれ行くまゝにまかせてし、

  そのませ垣のへだてなく、

    うばらの花の匂ひきて、

      襤褸の袖に通ふなり。

 

壺なる酒もつきにけり、

  虫のなく音も更けにけり、

    肱をまくらにいざやまた、

      夢のこのよの夢を見む。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十二月二十五日発行の『文庫』第一巻第六号掲載。署名は本名の伊良子暉造。この年、十八歳最後の発表詩篇。

「音信れて」「おとづれて」。

「菅の根の」「すがのねの」は万葉以来の枕詞。単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex(種が多く、世界で二千を超え、本邦でも変種を含めて二百種を超える)の菅(すが/すげ:同属の内、和名に付随するものでは総て「スゲ」)の根は、長く乱れ、蔓延(はびこ)ることから、「長(なが)」・「乱る」・「思ひ乱る」に、また、同音「ね」の繰り返しで「ねもころ」(懇ろ)に掛かる。

「ませ垣の」「まがき」に同じ。「籬垣」「笆垣」で、竹や木で作った目の粗い低い垣根。多く庭の植え込みの周りなどに設ける。目が粗いから後の二行に続く。

「うばら」「茨」。「いばら」。棘を持ったバラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属 Rosa のノイバラ Rosa multiflora やテリハノイバラ Rosa luciae の野生種の野薔薇(野茨)の類い。]

2019/05/16

太平百物語卷四 卅二 松浦正太夫猫また問答の事

Matuurusyoudayu

 

 

   ○卅二 松浦正太夫猫また問答の事

 備中に松浦正太夫といふ侍あり。常に武勇を逞(たくまし)ふして、甚(はなはだ)殺生を好み、おほく獸(けだもの)の命(いのち)を取事、數年(すねん)なりし。

 一夜(あるよ)の事なりき。

 いつものごとく、夫婦、奧の間に臥居(ふしゐ)けるに、女房、俄に物に襲(おそは)れ、わなゝきければ、正太夫、おどろき覚(さめ)て、其体(てい)をみるに、居間を、手足にて、這步(はひあり)き、口ばしり、いひけるは、

「扨も、御身は情なき者かな。われ、おことの爲に仇(あだ)となりし事もなきに、能(よく)も殺せし。此恨み、はれやらねば、今、汝が妻の皮肉に入たり[やぶちゃん注:「いりたり」。]。見よ見よ、十日の内には責殺(せめころ)さんぞ。」

と、正太夫を白眼付(にらめつけ)ければ、家内(かない)の者は此体(てい)を見て、恐れあへるぞ理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])りなる。

 され共、正太夫は心剛(こゝろがう)なる男なれば、打笑つて、いはく、

「おのれ、今、わが妻に取(とり)つき、樣々に口ばしれども、我、今迄殺せし惡獸(あくじう)、かぎりなければ、いかなる獸(けだもの)やらんもしらず。我、常に殺生を好むといへども、あへて咎(とが)なきを、殺さず。まづ、おのれは、何といふ獸(けだもの)ぞ。名乘るべし。」

と、いふに、伏したる女房、

「すつく。」

と、立(たち)、

「何。咎なきは殺さぬとや。われは、生駒八十介(いこまやそすけ)殿に、久しく育てられし、猫なり。昨日(きのふ)の暮方(くれがた)、何心なく緣先に伏(ふし)ゐたりしを、おこと、後(うしろ)に來たりて、情なくも、さし殺しぬ。かく、無罪の殺生をしながら、何とて、僞るや。」

と、

「はつた。」

と、ねめ付(つく)れば、正太夫、これを聞き、大きに怒つていふ樣、

「扨は。己(おのれ)は八十介が家の古猫(ねこ)なるや。おのれこそ、ちかき比(ころ)、さまざまに變化(へんげ)して、人を惱ませし事、限りなし。我、此事を慥(たしか)に、知る。此故に、昨暮(さくぼ)、折を得て、害しぬ。然るに、其恨(うらみ)をなさんため、妻を苦しめ、殺さん事、甚(はなはだ)以て、いはれ、なし。誠(まこと)、恨みをなさんとならば、など、我に付て仇を報ぜんや。」

と、いへば、答へていふやう、

「我も左はおもへど、おこと、心剛なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、いかに窺へども、其間(そのひま)を得ず。此故に、妻に付し。」

と、いふ。

 正太夫、笑つていはく、

「畜生なればとて、比興至極の仕業(しわざ)かな[やぶちゃん注:「比興」は卑怯の意がある。]。既に己(おのれ)が產(うみ)たる子猫、八十介(やそすけ)方に數多(あまた)あれども、咎(とが)なければ、殺さず。然るに、恨みなきわが妻を苦しめ殺さん事、人間の道にして、殊にはづる所なり。よしよし、我が妻を殺すならば、我、又、汝の產たる子猫ども、なぶり、さいなみ、殺すべし。我、是れを殺す心はなけれども、おのれ、道に違(たが)ふゆへに、われ、又、止む事を得ざるなり。」

と、理を盡していひければ、俄におどろく風情にて、

「あら、かなしの仰せやな。然らば、御身の妻を殺すまじ。子共が命を助け玉へ。」

と、身をちゞめ、歎きしかば、正太夫、打點頭(うちうなづ)き、

「さあらば、遺恨をはらして、此所を、はやはや、離魂(りこん)すべし。我、汝が爲に成仏得脫(じやうぶつとくだつ)の法事をなして得さすべし。然るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、前生(ぜんしやう)の惡行(あくぎやう)、滅して、仏果を得べし。」

と、いひければ、

「扨々、有難きおほせやな。われ、畜生と生まれながら、人間に近付(ちかづき)、其家の寵愛ふかしといへども、更に恩顧を、しらず。剩(あまつさへ)年經るに從ひ、變化(へんげ)自在をなす。妙所(みやうしよ)に至れば、人を苦しめ、たぶらかす。是れ、倂(しかしながら)、わが生得(しやうとく)の因緣なれば、奈何(いかん)ともする事、なし。必ず、年經りたる猫は、われに限るべからず。然るに、今、有り難き示しによつて、邪氣偏執(へんしう)の角(つの)も折れぬ。必ず、御言葉を違(たが)へ玉はず、畜生道を遁(のが)るべき法事をなしてたび玉へ。今は、いとまを申なり。」

と、いひも終らず、緣先へ、

「つかつか。」

と出る[やぶちゃん注:「いづる」。]、と、おもへば、妻は、かしこに倒れしを、人々、助け抱き入(いる)れば、むかふの方の叢(くさむら)に、火の魂(たま)、飛(とん)で、炎(ほのほ)を顯はし、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])うせぬ。

 それより、正太夫は約束のごとく、跡を念比(ねんごろ)に吊(とぶら)ひやりければ、其後(そのゝち)は、何の災(わざはひ)もなくして、此正太夫、次第に立身しければ、

「扨は。此猫が佛果を得たる有難さに、災(わざはひ)變じて、此家(いへ)に幸(さいはひ)を守るならん。」

と、皆(みな)人、いひあへりけるとなり。

[やぶちゃん注:「備中」現在の岡山県西部。

「松浦正太夫」不詳。

「生駒八十介」不詳。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 麝香鼠(じやかうねづみ)(ジャコウネズミ)

Jyakounezumi

 

 

じやかうねすみ

麝香鼠

 

△按肥州長崎有異鼠俗呼曰麝香鼠大如家鼠之小者

 而喙尖毎出庭砌厨下竊食物其體有臭氣而不可近

 猫亦惡臭不欲捕之其香雖不似于麝而有謂靈猫號

 麝香猫對之名爾矣近世來於外國惟有長崎未蕃息

 于余國者何耶

 

 

じやかうねずみ

麝香鼠

 

△按ずるに、肥州長崎、異鼠、有り。俗に呼んで「麝香鼠」と曰ふ。大いさ、家鼠の小さき者のごとく、喙〔(くちさき)〕、尖る。毎〔(つね)〕に庭〔の〕砌〔(みぎり)〕[やぶちゃん注:軒先の雨滴の落ちる際(きわ)。]・厨〔(くりや)の〕下に出でて、食物を竊〔(ぬす)〕む。其の體〔(からだ)〕、臭〔き〕氣〔(かざ)〕有りて、近づくべからず。猫も亦、臭きを惡〔(にく)〕みて、之れを捕ることを欲さず。其の香、麝に似ずと雖も、「靈猫」を謂ひて「麝香猫」と號〔(なづ)〕くる有〔るを〕、之れに對して〔も〕名づくるのみ。近世、外國より來たり、惟だ、長崎に〔のみ〕有りて、未だ、余國に蕃息〔(はんしよく)〕[やぶちゃん注:繁殖。]せざるは何ぞや。

[やぶちゃん注:モグラ(食虫類)の仲間である哺乳綱獣亜綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ属ジャコウネズミ Suncus murinusウィキの「ジャコウネズミ」を引く。『ネズミ類ではないことを強調するため』、種名の「スンクス」で呼ばれることも多い。なお、『英文学の翻訳で齧歯目のマスクラット』(齧歯(ネズミ)目ネズミ科ハタネズミ亜科マスクラット属マスクラット Ondatra zibethicus:英名「Muskrat」。アメリカ合衆国・カナダに自然分布し、ヨーロッパ・ロシア・日本などに移入。沼などに棲息する三十センチメートルほどの大型の黒いネズミで臭腺(肛門腺)を有する)『をジャコウネズミと翻訳していることがままあるため、注意を要する』。『東南アジア原産だが、アフリカ東部やミクロネシア等にも人為的に移入している。日本では長崎県、鹿児島県及び南西諸島に分布するが、長崎県及び鹿児島県の個体群は帰化種、南西諸島の個体群は自然分布とされているが』、『はっきりとしていない』。サバンナや『森林、農耕地、人家等に生息する』。体長十二~十六センチメートル、尾長六~八センチメートル、体重は♂で四十五~八十グラム、♀で三十~五十グラム。♀よりも♂の『方が大型になる。腹側や体側に匂いを出す分泌腺(』麝香『腺)を持つことからこう呼ばれる』(良安も書いている通り、かなり臭いらしい)。『吻端は尖る。尾は太短く、まだらに毛が生え、可動域は狭い』。『食性は肉食性の強い雑食性で昆虫類、節足動物、ミミズ等を食べるが』、『植物質を摂取することもある。よく動くが、その動作は機敏とは言い難い。繁殖形態は胎生で』、一『回に』三~六『匹の幼体を出産する。子育ての時には』、『幼体は別の幼体や親の尾の基部を咥』(くわ)『え、数珠繋ぎになって移動する(キャラバン』(caravan)『行動)』(キャラバン行動は生後五日から二十二日齢辺りまでしか見ることができないと飼育者の記事にあった。動画は短いが、mekadalab氏の「ジャコウネズミhouse shrew / キャラバン行動Caravan behaviorpart 1)」がよく、FLY MEDIA氏の「毛の生えたムカデ? よく見て ネズミのキャラバン」(中国のものを転載しているようだが)も必見)。『日本産のものを亜種リュウキュウジャコウネズミ』(Suncus murinus temmincki)『とする説がある』。『人間の貨物等に紛れて分布を拡大しており、アフリカ東部やミクロネシアなどにも分布する。日本に分布する亜種リュウキュウジャコウネズミの起源は古く、史前帰化動物と考えられている』。「吐く実験動物」として『利用される。実験動物としてイヌ、ネコなどは嘔吐するが』、『大型であり、ウサギ、ラット、マウスは小型で飼育しやすいが』、『嘔吐しない。ジャコウネズミは小型で、薬物や揺らすことで吐くため』、『嘔吐反射の研究に用いられるようになった。『肝硬変の実験のためエタノールを与えて飼育している際、吐いているスンクスを発見し』、『応用されることとなった』。『台湾では、人家の近くによく見られ「銭鼠」とよばれる』とある。

「靈猫」食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ(麝香猫)類の異名。ジャコウネコは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ)(ジャコウネコ)」を参照。但し、ジャコウネコは本邦にいないし、先生も含めて、当時、見たことがある人は、まず、おりません。私でさえ六十二年の間、一度もジャコウネコもジャコウネズミも生で生きたそれを見たことはないのです。そういう状況下でこういう風に判ったように記載するのは、あんまり意味を持たないと私は思うのですがね、如何ですか? 良安先生?]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 食蛇鼠(へびくいねづみ)(フイリマングース)

Hebikuhi

 

へびくいねすみ

食蛇鼠

[やぶちゃん注:「へびくいねすみ」の「い」はママ。]

 

△按唐書云罽賔國貢異鼠其喙尖尾赤色能食蛇

 凡蛇毎好食蛙及鼠而復有食蛇鼀食蛇鼠

[やぶちゃん注:「鼀」は原典では「黽」の上部が「土」であるが、意味(「カヘル」とルビする)と「東洋文庫」訳の使用漢字から、これで示した。]

 

 

へびくいねずみ

食蛇鼠

 

△按ずるに、「唐書〔(たうじよ)〕」に云はく、『罽賔〔(けいひん)〕國[やぶちゃん注:「東洋文庫」割注に『カシミール。西域の国名。印度の北部にあった』とある。]、異鼠を貢ぐ。其の喙〔(くちさき)〕、尖り、尾、赤色、能く蛇を食ふ』〔と〕。

 凡そ、蛇、毎〔(つね)〕に、好んで、蛙及び鼠を食ふ。而るに、復た、蛇を食ふ鼀(かへる)、蛇を食ふ鼠、有り。

[やぶちゃん注:蛇を食うとする記載と、尖った口吻部、また、貢献されたのがインド北部(但し、中国南部にも棲息する。後注参照)であることから、食肉目マングース科エジプトマングース属フイリマングース Herpestes auropunctatus に同定してよい。「蛇食鼠」は江戸時代に既にマングースの異名として本草書に載る。ウィキの「フイリマングース」によれば、ミャンマー・中国南部・バングラデシュ・ブータン・ネパール・インド・パキスタン・アフガニスタン・イランを原産地とし、現在では西インド諸島・ハワイ・フィジー・プエルトリコ・日本(沖縄本島・奄美大島)などに外来種として人為移入されて分布する。頭胴長は二十五~三十七センチメートルで、体重は三百グラムから一キログラム。『雌の方が小型』で、『近縁のジャワマングース』(Herpestes javanicus:ベトナム・カンボジア・ラオス・タイ・マレーシア・インドネシア原産)『と比べて、体は全体的に小さい』。『体形は細長く、四肢が短い』。『体色は黒褐色から黄土色』。『雌雄ともに肛門付近に臭腺があって悪臭を放つ』。『見た目が似ているため、テンやイタチ類、ニホンアナグマと間違われることがある』。『農地、自然林、湿地、草地、海岸、砂漠、都市などの開放的な環境を好む』。『原産地は温暖な気候で』摂氏十~四十一度が『生息に適した環境温度と考えられている』。『行動圏は』二~十八『ヘクタールで雄の方が広く、重複する』。『他の同程度の大きさの哺乳類と比べて行動圏は非常に狭いため、必然的に生息密度は高くなる』。『雑食性で哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫、果実まで何でも食べる』。『日本に定着しているフイリマングースの消化管内容物と糞の解析から、昆虫類が主な餌資源であることが判明している』。『木を登ったり、穴を掘ったりする行動はしない』。『水を避ける傾向があり』、『水深』五センチメートル以深の『水には積極的に入らない』。一~九月に『交尾し、妊娠期間は』七『週間程度』で、三~十一月の間に、年二回、出産し、一度に二、三匹の『仔を産む』。『寿命は』二『年以下』。『かつてはインドネシアやマレーシアに分布するジャワマングース』(Herpestes javanicus)『と同種として分類されていたが、DNA解析によって別種であることが判明した』。『フイリマングースのタイプ標本地はネパール』。『このようにマングース類の分類は、科学的な検証がなされないまま、かなり混乱してきた歴史がある。沖縄に導入されたマングースも、ジャワマングースとして同定されていただけでなく、ハイイロマングース(Herpestes edwardsii)やインドトビイロマングース(Herpestes fuscus)とする諸説が混在していた』。『中国のレッドリストでは危急種に指定されている』。『西インド諸島を始めとする世界各地の島々では大規模なサトウキビ農園の害獣となるネズミ類を駆除するため、生物的防除の一環としてフイリマングースが導入された』。『最初に導入されたのはジャマイカであり』、一八七二『年に』九『頭のフイリマングースが持ち込まれた』。『フイリマングースはネズミ駆除以外にも、毒蛇の天敵としても注目された』。『毒蛇対策としてフイリマングースが導入された地域は、西インド諸島のマルティニーク、セントルシア、アドリア海の島々などがある。日本の南西諸島でもネズミ対策』『に加えて、ハブ対策』『を目的として導入された。その時点ではマングースが素早い身のこなしでハブを攻撃するだろうと考えられていた』。『沖縄本島では』一九一〇『年に、動物学者の渡瀬庄三郎の勧めによって、ガンジス川河口付近で捕獲された』十三~十七『頭の個体が那覇市および西原町に放たれた』。『また、続いて』一九七九『年には沖縄本島から奄美大島へ導入が行われた』。二〇〇九『年には鹿児島市でも生息が確認されたが、実際は』三十『年以上前から生息していたと考えられている』。『渡名喜島、伊江島、渡嘉敷島、石垣島にも導入されたが、定着しなかった』。『フイリマングースは水が苦手で泳ぎがうまくないため、定着した島から別の島へ自力で移動することはほとんどない』。『しかし、近年では定着地の周辺の島々で、物資に紛れ込むなどの原因で非意図的な分布拡大が起きている。カウアイ島では』二〇〇四『年に、サモアでは』二〇一〇『年に目撃例がある』。『フイリマングースは少なくとも世界の』七十六もの島嶼に『定着している』。『ただし、世界の島々に定着しているマングース全てがフイリマングースであるとは限らず、フィジー諸島ではフイリマングースとは別種のインドトビイロマングースの定着が遺伝子解析から明らかになっている』。『害獣対策として期待されたフイリマングースだが、実状はあまり毒蛇やネズミを食べなかった』し、『フイリマングースの手が届かないような場所を住処とする、樹上性のクマネズミ』(ネズミ科クマネズミ属クマネズミ Rattus rattus)『が増加してしまった』。『一方で、その地域の自然を代表する希少な生物が捕食されてしまい、生態系が破壊される』深刻な『事態になっている』。『生態系だけでなく、経済社会や人間の健康にも大きな影を落としている。例えば、その獰猛な食性のために沖縄本島では養鶏に甚大な被害を与え、関係者を悩ませて』おり、『さらに、マンゴー、タンカン、バナナ、ポンカンなどへの農業被害も報告されている』。『また、フイリマングースは人間にとって危険な病気をばらまくことにも関与して』おり、『人獣共通感染症のレプトスピラ症』(細菌ドメインのスピロヘータ門スピロヘータ綱レプトスピラ目レプトスピラ科 Leptospiraceaeに属するグラム陰性菌のレプトスピラ(Leptospira)やレプトネマ(Leptonema)及びツルネリア(Truneria)の病原株を原因とする急性熱性疾患症状を呈する感染症で重症型での死亡率は五~五十%とされる)『の原因となる病原性レプトスピラを媒介』し、『西インド諸島では』。『狂犬病ウイルスの媒介が問題視されている』とある。勝手な人の思い込みで移入されたものであって彼らには何の罪はない。何とも可哀想である。

「唐書〔(たうじよ)〕」「新唐書」唐代の正史。五代の後晋の劉昫の手になる「旧唐書(くとうじょ)」と区別するために「新唐書」と呼ぶが、単に「唐書」と呼ぶ場合はこちらを指す。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰。全二百二十五巻。一〇六〇年成立。「列伝第一百四十六上 西域上」に、貞観年中の記載に、

   *

處羅拔至罽賓、王東向稽首再拜、仍遣人導護使者至天竺。十六年[やぶちゃん注:六四二年。]、獻褥特鼠、喙尖尾赤、能食蛇、螫者嗅且尿、瘡卽愈。

   *

とあるのを指すか。

「鼀(かへる)」この漢字は特に「蟾蜍(せんじょ/ひきがえる)」、則ち、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属 Bufo のヒキガエル類を指す。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 蟨鼠(けつそ)・鼵(とつ)(前者はトビネズミ)

Ketuso

 

 

けつそ

蟨鼠

 

本綱蟨頭目毛色皆似兎而爪足似鼠前足僅寸許後足

近尺尾亦長其端有毛一跳數足止卽蟨仆

[やぶちゃん注:「數足」は「本草綱目」では「數尺」。訓読ではそう訂する。]

孔叢子云北方有獸名蟨食得甘草必齧以遺蛩蛩駏驉

二獸見人來必負蟨以走二獸非愛蟨也爲其得甘艸以

遺之蟨非愛二獸也爲假足也蛩蛩【一名卭卭】靑色似馬獸也

駏驉【一名距虛】似驘而小獸也

――――――――――――――――――――――

【音突】

[やぶちゃん注:以下は原典では、上記項目の下に一字空け三行で載る。]

本綱首陽山西南鳥與鼠同穴其鳥曰䳜狀如

家雀而黃黒色其鼠曰鼵如家鼠而色小黃尾

短鳥居穴外鼠居穴内【圖見山禽部】

 

 

けつそ

蟨鼠

 

「本綱」、蟨、頭・目・毛色、皆、兎に似て、爪・足、鼠に似る。前足、僅か寸許〔り〕。後足、尺に近く、尾も亦、長く、其の端に、毛、有り。一跳び、數尺にして、止るときは、卽ち、蟨(つまづ)き、仆〔(たふ)〕る。

「孔叢子」に云はく、『北方に獸有り、「蟨」と名づく。甘草を食ひ得る〔も〕、必ず、齧りて、以つて、遺(のこ)す。「蛩蛩〔(きようきょう)〕」・「駏驉〔(きよきよ)〕」、二獸、人〔の〕來たるを見ては、必ず、蟨を負ひて、以つて、走る。二獸、蟨を愛するに非ず、其れ、甘艸を得て、以つて、之れを遺すが爲めなり。蟨〔も亦〕二獸を愛するに非ず、〔その〕足を假りんが爲めなり。蛩蛩【一名「卭卭〔(きようきよう)〕」。】は靑色、馬に似たる獸なり。駏驉【一名「距虛」。】は驘〔(らば)〕に似て、小獸なり』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

【音「突」。】

「本綱」、首陽山の西南に、鳥と鼠と穴を同〔じうす〕。其の鳥、「䳜〔(よ)〕」と曰ひ、狀、家雀に似て、黃黒色。其の鼠、「鼵」と曰ひ、家鼠のごとくにして、色、小〔(すこ)し〕黃。尾、短し。鳥は穴の外に居し、鼠は穴の内に居す【圖、山禽部に見ゆ。】。

[やぶちゃん注:齧歯(ネズミ)目ネズミ上科トビネズミ科 Dipodidae のトビネズミ(跳鼠)であろう。ウィキの「トビネズミ」によれば、トビネズミ科には十一属三十種が属し(ミユビトビネズミ属 Jaculus・イツユビトビネズミ属 Allactaga 等)、体長は四~二十六センチメートルで、『北アフリカから東アジアにかけて、砂漠などの乾燥地帯に生息する。後ろ足が長く、二本足で立ち、カンガルーのように跳躍して移動する』。『一跳びで』三メートル『程度』、『跳躍できる』(時珍は跳躍距離を約一「尺」(三十センチメートル)とするが、機械的に体長を最小の四センチメートルとして比例計算すると、飛距離四十六センチメートルになり、時珍は体調をさらに小さい約一「寸」(三センチメートル)とするのだから腑に落ちる範囲である)。『体長と同程度の長いヒゲをもつ。高く飛び上がったとき以外は、このヒゲが地面に触れており、障害物や食物の有無など』、『地表の様子を触覚から探知している。夜行性であり、気温の高い昼間は地中に掘った巣穴の中で休み、涼しくなった夜間に外に出て、食物を摂る。主な食物は植物の若芽、根、種子などである。乾燥した環境に強く、ほとんど水分を摂らずに生活できる。体内の水分消費を最小限にするよう、尿は濃縮され、強い酸性を示す』とある。なお、今一つ、本文記載によく似た現生種として齧歯目ウロコオリス下目 Anomaluromorphaトビウサギ科トビウサギ属トビウサギ Pedetes capensis がおり(一属一種)、形状や運動性能及び植物食の強い雑食性もぴったりなのだが、残念ながら、トビウサギはアフリカ大陸東部と南部にしか棲息しない。

「孔叢子」「くざうし」とも読む。孔子やその弟子の言行を書き記した書で全三巻。漢の孔鮒の編とされるが、後世の偽作。

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza

「蛩蛩〔(きようきょう)〕」「卭卭〔(きようきょう)〕」「駏驉〔(きよきよ)〕」「距虛」中文サイトを見ると、孰れも伝説上の獣とし、一説に相互に区別がつかないほど似ているとも、同一の獣ともあり、この蟨鼠のこととともに記されある、というか、概ね、どこもその記載ばかりである。「百度百科」の「蛩蛩距虚」などには、明らかに比翼鳥よろしく、左右に半身状態で寄り添う二匹で一匹の奇体な四足獣の図像さえ掲げられてある(これ)。但し、次注も参照。

「驘〔(らば)〕」雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜である奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら)(ラバ/他にケッティ)」参照。ところが、そこには「牡牛、馬と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「驢」と爲す」とある。ウシとウマの間に出来るとする「驢」などという交雑種は昔も今も存在しないのだが、どうも「驢」とこの「」は字が似通っていて怪しいのだ。

「鼵」鳥鼠同穴ときて、以下の通りに実在地名まで出されても、ここに至っては、比定同定する気は私には全くない。悪しからず。検索しても中文サイトでもそれらしい奴らは見えてこない。

「首陽山」周初に伯夷・叔斉が隠れて餓死したと伝えられる山。その所在地は山西省永済市南の雷首山の他、諸説ある。

「䳜〔(よ)〕」「鵸鵌」に同じい。次注リンク先を参照。

「圖、山禽部に見ゆ」「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵸鵌(三ツがしらの鳥)(三頭六尾の雌雄同体の妖鳥)」の図を指している。何をか謂わんや、だ。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 䶄鼠(まだらねずみ) (ハツカネズミ品種ジャパニーズファンシーマウス)

Madaranezumi

 

 

まだらねずみ 䶃【音含】

【音平】

 

本綱【一名䶃】有班文

△按近頃有三色鼠常色有白與柹班以爲珍物或有染

 成僞者但如鼨鼠豹文者未聞出于本朝

 

 

まだらねずみ 䶃【音「含」。】

【音「平」。】

 

「本綱」【一名「䶃」。】、班文、有り[やぶちゃん注:「班文」は「斑文(紋)」の良安の書き癖。]。

△按ずるに、近頃、三色の鼠、有り。常の色に白と柹〔(かき)〕との班〔(まだら)〕有り、以つて珍物と成す。或いは、染め成して僞る者、有り。但し、「鼨鼠〔(とらふねずみ)〕」の豹文のごとき者、未だ本朝に出ることを聞かず。

[やぶちゃん注:これは正に先行する鼠」で注した、ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus の白黒斑(まだら)の変異体或いはそのように改良した品種であろう。そこでウィキの「ハツカネズミ」の「実験用マウス」の項の最後から引いた通り、『日本でも、江戸時代から白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。ニシキネズミとも呼ばれる。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とあり、これは現在、正確には「ジャパニーズファンシーマウス」(japanese fancy mouse)と呼ばれ、俗に「パンダマウス」とも呼ばれており、画像と本挿絵とが、よく一致する。グーグル画像検索「japanese fancy mouseを見られたい。

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 火鼠(ひねずみ) (幻獣)

Hinezumi

 

ひのねすみ 火浣布【用皮作之】

火鼠

 

本綱火鼠出西域及南海火州其山有野火春夏生秋冬

死鼠產于中甚大其毛及草木之皮皆可織布汚則燒之

卽潔名火浣布

 

 

ひのねずみ 火浣布〔(くわくわんぷ)〕

      【皮を用ひて、之れを作る。】

火鼠

 

「本綱」、火鼠、西域及び南海〔の〕火〔の〕州〔(しま)〕に出づ。其の山、野火、有り、春夏、生じ、秋冬、死〔(や)む〕[やぶちゃん注:終熄する。]。鼠、〔その〕中に產す。甚だ大きく、其の毛及び〔かの地の〕草木の皮、皆、布に織るべし。汚(よご)れるときは、則ち、之れを燒けば、卽ち、潔〔(きよ)〕し。「火浣布」と名づく。

[やぶちゃん注:南方の火山中に棲息するとする鼠の幻獣。「火浣布」は「火で浣(あら)う布」の意で、中国で石綿(オランダ語 asbest(アスベスト)/英語 asbestos(アスベストス:蛇紋石や角閃石が繊維状に変形した天然の鉱石で無機繊維状鉱物の総称)のことを、この火鼠の毛で織った布と称して名づけたもの。お馴染みの「竹取物語」にも「かくや姫」が「右大臣あべのみむらじ」に出す難題として「もろこし」にあるという「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)」を要求して、怪しい中国人に依頼して大金を以って手に入れるも、「かくや姫」の目の前で美事に焼けて灰となっている。中国では、周の穆(ぼく)王(紀元前九七六年~紀元前九二二年)が西戎(せいじゅう)を征伐した際、西戎がこの布を献上したという話が「列子」(戦国時代の道家の思想家列子(名は禦寇(ぎょこう))作とされる書であるが、現行本は前漢末(紀元前後)から晋代(二六五年~四二〇年)にかけて書かれた偽作と考えられている)に見え、後漢の政治家梁冀(りょうき ?~一五九年)は火浣布の衣装を着けて宴席に臨み、わざと酒で汚したうえ、火に投げこませ、衆目を驚かせたという。しかし、魏の文帝(曹丕(そうひ)/在位:二二〇年~二二六年)は「そのようなものが存在するはずはない」と自身の文学書「典論」の一節に記し、「典論」は次代皇帝の明帝(曹叡/文帝曹丕長男/在位:二二六年~二三九年)によって石に刻まれたが(石本と呼ぶ)、数年経って、西域からこの「火浣布」の献上があったため、天下の笑いものとなったという。本邦では、平賀源内が明和元(一七六四)年に石綿で同様な織物を製して「火浣布」と名づけた(以上は複数の百科事典他を参考にした。因みに本「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の成立で、源内のそれは五十二年後のことである)。]

東方の傳說 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

     東 方 の 傳 說

 

 誰かバグダツドで宇宙の太陽ヂヤフアルを知らない者があらう?

 何十年も昔のこと、或日ヂヤフアルは(彼はまだ靑年であつた)バグダツドの

郊外をぶらぶら步いてゐた。

 突然嗄(しやが)れた叫び聲が彼の耳に附いた。誰かゞ懸命に助けを呼んでゐるのだ。

 ヂヤフアルは同年配の靑年の中で思慮分別の備(そなは)つてゐるので聞えてゐたか、彼の心は慈悲深く、またその膂力(りよりよく)を恃(たの)んでゐた。

 彼は聲する方へ馳せ附けて、一人の弱々(よわよわ)しい老人が、二人の追剝(おひはぎ)に市(まち)の城壁に壓(お)し附けられてゐるのを見た。

 ヂヤフアルは劍を拔いて、惡漢に飛びかゝつて行き、一人を殺し、他の一人を追つ拂つた。

 かうして救はれた老人に、救つてくれた人の足下に跪(ひざま)づいて、その着物の裾(すそ)に接吻しながら叫んだ、『勇ましい若い衆、貴下のお志(こゝろざし)はきつとお酬いします。私(わし)は見かけこそみすぼらしい乞食だが、それは見かけだけで、私(wし)はたゞの人間ぢやない。明日(あす)の朝早く本市猫場(ほんいちば)にお出でなさい。泉水のところで待つてゐませう。私(わし)の言ふ事をゆめ疑ひなさるな』

 ヂヤフアルは考へた、『成程此人は見かけは乞食だ。然しどんな事だつてあり得るものだ。一つ試(ため)して見よう』それで彼は答へた、『御老人、承知しました、まゐりませう』

 老人は彼の顏をぢつと見て、そして行つてしまつた。

 翌朝、まだ日の出ぬうちに、ヂヤフアルは市場へ出かけた。老人は泉の大理石の窪みに臂を附いて、ちやんと彼を待つてゐた。

 彼は無言のまゝヂヤフアルの手を取つて、高い壁でぐるりと圍まれた小さな園の中へ連れて行つた。

 比の園の眞中(まんなか)の綠の芝生の上には一本の奇妙な樹が生えてゐた。

 それは扁柏(サイプレス)に似てゐたが、たゞその葉は空色をしてゐた。

 三つの果實が――三つの林檎が――上の方に曲つた細い枝になつてゐる。一つは中位の大きさで、長くて、乳白色(にうはくしよく)をしてゐた。二つめのは大きくて、圓くて、鮮紅色(せんこうしよく)をしてゐた。三つめのは小さくて、皺ばんで、黃色がかつてゐた。

 風も無いのに樹はさらさら鳴つてゐた。風鈴のやうな鋭い悲しげな音である。まるで樹がヂヤフアルの來たのを知つてゐるかのやうだ。

『お若(わか)い衆(しう)!』と老人は言つた、『此の林檎の中どれか好きなのを取りなされ。若し白いのを取つて食(た)べれば、貴下(あなた)は人間中で一番賢い人になれる。紅いのを取つて食べると、猶太人口スチヤイルドのやうな金持になれる。また黃色なのを取つて變べれば、お婆さん達に好かれる。さあどつちかに定(き)めなされ! ぐづぐづしてはゐられない。一時間の中に林檎は凋(しぼ)んで、この樹もひとりでにしんとした地の底に沈んでしまふから』

 ヂヤフアルは首(かうべ)を垂れて考へ込んだ。『どうしたものかしら?』と彼は小聲で言つた、自分自身に相談するやうに。『餘り賢くなると多分生きてゐるのが厭(い)やになるだらう。誰よりも金持になると人に嫉(ねた)まれるだらう。さうだ、三つめの

しぼんだ林檎を取つて食べた方がよからう!』

 そこで彼はそのやうにした。すると老人は齒の無い口で笑つて言つた、『賢い若い衆だ! お前は一番いゝのを選んだ! 白い林檎がお前に何の役に立つ? それでなくてもお前はソ口モンよりも賢いのだ。紅い林檎も用はあるまい……それが無くたつて金持にやなれる。たゞお前の富は誰も嫉(ねた)みはしないものだが』

『御老人、話して下さい』とヂヤフアルは昂奮して言つた、『祝福せられたる我が囘教(ケエリフ)王の尊き母君は何處にお出でになりますか?』

 老人は恭しく腰を屈(かゞ)めて、若者にその道を示してやつた。

 誰かバグダツドで、宇宙の太陽、偉大たる、高名なるヂヤフアルを知らない者があらう!

    一八七八年四月

 

東方とは小亞細亞から波斯阿拉比亞[やぶちゃん注:「ペルシヤ」・「アラビア」。]等をさす。アラピアン・ナイトの舞臺になつてゐる土地が東方だと思へばよい。支那は極東だ。】【バクダツド、アラビアン・ナイトでお馴染の土地。囘教王はこの地にゐた。】

太人ロスチヤイルド、有名な世界的大富豪、その家は歐洲各國にまたがつてある。】

ソ口モン、舊約聖書にある玉樣、賢人ダピデ王の子で、賢人である。】

囘教王の母、基督教の聖母マリアに當る。】

[やぶちゃん注:◎「膂力(りよりよく)」現代仮名遣「りょりょく」と読む。本来は背骨の力、そこから、全身の筋骨の力の意となる。

「ヂヤフアル」原文は“Джиаффара”で、ラテン文字表記に直すと“Dzhiaffara”である。この詩のエピソードは「アラビアン・ナイト」第十九話にある「三つの林檎の物語」に想を得ているものと思われ(話は全く異なり、三つの林檎の役割も違うが、リンゴが葛藤のシンボルとして登場する点では共通する)、「ジャッファル」が、その主人公由来であるならば、同じ「アラビアン・ナイト」第九百九十四夜から第九百九十八夜「ジャアファルとバルマク家の最後」に、その悲劇的な最期も描かれているところの、実在したヤフヤー・イブン=ジャアファル(ibn Yahya Ja'far 七六六年?~八〇三年)である。アッバース朝の宰相ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男で、父ヤフヤー・兄ファドルとともに、アッバース朝第五代カリフであったハールーン・アッ=ラシードに仕えた人物である。

「扁柏(サイプレス)」球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科イトスギ属 Cupressus のイトスギ類を指す。]

磯馴松 蘿月(伊良子清白)

 

磯 馴 松

 

もしほの煙末きれて、

  いさり火遠き磯さきの、

    松の村立ほのかにも、

      三保の浦曲のうらづたひ。

 

綾につゝめる玉のごと、

  おぼろに匂ふ春のよの、

    月のひかりをしるべにて、

      淸き渚をそひ行けば。

 

雲井にたかき不二の根の、

  雪よりしろき白浪に、

    ころもの袖をぬらしつゝ、

      しづかに立てる少女あり。

 

人まつさまのしかすがに、

  うれひの雲はかゝれども、

    月のおもわの淸けさは、

      うき世の塵のあともなし。

 

晴るゝ御空によそひして、

  みどりも深き和妙の、

    衣のそでもにごらかに、

      こぼるゝ色もにほひつゝ。

 

つげの玉櫛さしかへて、

  か黑き髮をけづりつゝ、

    かたへに匂ふ一枝を、

      簪花に手折る﨟たさよ。

 

こゝろみだれてちる浪は、

  袖に裳裾にくだけつゝ、

    玉ゆりこぼす白玉を、

      はらふもしばしそぼぬれて。

 

折しも浦のあなたより、

  妙なる聲にわか人の、

    わき妹と速くよびかけて、

      少女の方にさし寄りぬ。

 

霞のころもすき見えて、

  色香たえなるした染の、

    花にもたぐふおもばせに、

      あたりの風も薰りつゝ。

 

世にふさはしき妹とせの、

  袂つらねて行く影を、

    うらむか沖津白浪も、

      中のへだてに打よせて。

 

葦間にねぶる葦田鶴の、

  夢よりさむる聲もして、

    羽がきひくゝなるまゝに、

      二人も遠くなりにけり。

 

鹽げに匂ふ花貝の、

  咲ける眞砂にあとつけて、

    袂もかをる浦風に、

      松を洩れ來る聲聞けば。

 

「三とせの春はゆめなれや、

  しのぶもゆゝしすめらぎの、

    月のみやこのたか殿に、

      君がかへしゝ舞の袖。

 

うれ吹く風に散る花の、

  雪をめぐらす一さしに、

    うつし心もかきくれて、

      天津御空に迷ひつゝ。

 

軒にかゝげし玉だれの、

  小簾のほのかに見てしより、

    うごき初めたるわが心、

      君のすがたにあこがれて。

 

こゝらかきやる藻鹽草、

  拾ふみるめもまれなれば、

    葦吹く風のそよとだに、

      君のかへしはなかりけり。

 

まれらに逢はむことをなみ、

  尋ねぞわたる思ひ森の、

    夢のうき橋うつゝにも、

      ゆかしき人を忍びつゝ。

 

まごゝろごめて天地に、

  いのるも久し七かへり、

    ならの社に引く注繩の、

      朽ちても君はつれなくて。

 

つれなき君を戀ひわびて、

  やまふの床につきしより、

    いそぐ冥途はうらまねど、

      魂や迷はむ人ゆゑに。

 

千束につもる錦木の、

  形見とながす水莖に、

    君がたまひし玉章よ、

      いく藥えしこゝちして。

 

かたみとかはす言の葉に、

  とけし心は見えながら、

    結ぶ契を知らずして、

      夢に逢ひしもいくそたび。

 

逢はぬを逢ふにかへてまし、

  うらむる程はうれしきに、

    君がわびつるこひ草の、

      さはりも繁き人がきを。

 

わきてながるゝ中川の、

  中の逢瀨は絕えはてゝ、

    わたるにぬるゝ露けさは、

      袂に浪もかゝりつゝ。

 

心ひかるゝ靑柳の、

  思ひみだれて君とわれ、

    末の契にあこがれて、

      月の都をぬけいでぬ。

 

星の林にふな出して、

  行くもはるけき空の海、

    くもの浪だつ明暮も、

      人やりならぬ旅のそら。

 

千々の寶も百敷も、

  玉のみやこもふりすてゝ、

    塵のうき世にいそぎつゝ、

      田子の浦邊に舟はてつ。

 

あふげばたかき不二の根の、

  ふもとの野べの草がくれ、

    君と相見るうれしさに、

      習はぬ賤にみをかへて。

 

いばらからだち軒もせに、

  こゝらこめたるいぶせさは、

    洩るゝに如き月影の、

      さやけきよはもくらくして。

 

末の松山浪こえて、

  さゝれは巖と成りぬとも、

    契るまことはかはらじと、

      かたみに深くちかひつゝ。

 

埴生の小屋の明くれも、

  君のこゝろのやさしさに、

    つゞれも綾のこゝちして、

      年の三とせも暮れはてぬ。

 

いつまで老いむ塵の世に、

  はしきわぎ妹もあるものを、

    かへるにつらき久方の、

      こひしきものは故鄕の。

 

行衞も見えず立こむる、

  天津御空の八重がすみ、

    靉靆く方に聲もして、

      鴈金遠くわたるなり。

 

雲井にまよふ白雲も、

  なが故鄕にかへるらむ、

    いぬるか行くか春風の、

      御空に吹くもこひしくて。

 

妹よ」とさそふ羽衣に、

  なみだのみをのたえまなく、

    さぐりもよゝとなげきつゝ、

      沈むが聲もかすかにて。

 

折しもかゝる一ひらに、

  月の光はかきくれて、

    うき雲まよふ遠近の、

      あやめもわかず成りぬれば。

 

さながらまがふ稻妻に、

  雲井のあたり見るほども、

    まばゆく匂ふ紫の、

      千々の光のわきいでゝ。

 

雪にたぐびてふりまがふ、

  御空の花もかぐはしく、

    妙なる琴もきこえきて、

      二人は見えずなりにけり。

 

しのゝめしらす橫雲の、

  磯山遠く立ちわかれ、

    沖の片帆の影見えて、

      浪路はるかに明け初めぬ。

 

のぼる朝日もさしそへて、

  てるばかりなる羽衣の、

    うれ吹く風になびきつゝ、

      二ひらかゝる磯馴松。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十二月十日の『靑年文』掲載。署名は蘿月(現在知られる本署名の初出。「竹取物語」を中心に「天の羽衣」伝承などを隠し素材としつつ、心機一転、物語詩の創作を志し、自由に飛翔させようとした文語定型詩と思われる。悪くはないが、描写に酔い過ぎていて、構成と展開の具体な映像が今一つ鮮明でない恨みがある。

「和妙」「にきたへ(にきたえ)」(後世に「にぎたへ」と濁音化)。「織り目の細かい布」「打って柔らかくして晒した布」を指す万葉語。

「簪花」「かざし」と訓じていよう。

「葦田鶴」「あしたづ」。葦間の鶴。

「花貝」種としては先行する「草枕」の私の注を参照されたいが、ここは単に美しい砂浜に寄せる貝(貝殻)でよい。

「小簾」「をす」小さな簾(すだれ)。或いは「お」を美称ととって、簾。「おす」は誤読の慣用読みなのでとらない。

「みるめ」緑藻植物門アオサ藻綱ミル目ミル科ミル属ミル Codium fragile。「見る目も稀なれば」に掛ける。

「いく藥えしこゝちして」「いく」は「幾」であろうが、「生く」を掛けていよう。

「靉靆く」「たなびく」。]

熱血餘韻 伊良子(伊良子清白)

 

熱血餘韻

 

凱旋門とは、

何事ぞ。

戰勝會とは、

なに事ぞ。

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來らず、

國民よ。

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來るらむ、

言はずとも。

今日しも謳ふ、

その歌よ、

今年も暮れて、

また暮れて、

また來む春は、

その歌も、

いかなる歌に、

かはるらむ。

うれしかるらむ、

今日の日は、

しかはあれども、

國民よ。

うれしき事は、

なかなかこ、

悲しき事と、

知らざるか。

遼東千里、

武夫の、

かばねはいかに、

朽つるらむ。

勃海灣外、

ますらをが、

功績はいかに、

のこるらむ。

山川草木、

かはらねど、

かはりしものは、

世のさまよ。

かはりし樣は、

誰がためぞ。

いつか忘れむ、

忘るべき。

恨ぞのこる、

あるたい山、

黑龍江を、

さかのぼり、

しべりやかけて、

ひたぜめに、

攻めて進まむ、

遠くとも。

花さきにほふ、

その春も、

秋と荒さむ、

時のまに、

敵の城樓に、

朝日子の、

御旗をたてゝ、

その下に、

まこと謳はむ、

凱旋を。

まこと祝はむ、

戰勝を。

死ぬも生くるも、

國のため、

よしや死ぬとも、

益荒雄が、

千度百度、

いきかはり、

護國の鬼と、

あらはれて、

雨に嵐に、

荒浪に、

碎きて見せむ、

敵の城。

刀はよしや、

持ずとも、

こゝろの劔、

とぎすまし、

日本をのこと、

知らざるか。

枕を蹴て、

おきたてば、

夢なりけりな、

思ひ寐の、

さめてあとなき、

その夢も、

夢と思ふな、

國民よ。

今日しも謳ふ、

凱旋門、

今日しも祝ふ、

戰勝會。

夢にあらずや、

これこそは。

軒にかゝげし、

日の丸の、

御旗の風の、

聲を聞け、

「血汐に染まで、

止むべしや、

その血しほこそ、

北極の、

深雪を染むる、

血汐なれ。」

鍊兵場の、

かなたより、

ひゞく喇叭の、

こゑを聞け。

「火にも水にも、

氷にも、

いかでかはらむ、

このしらべ、

進軍喇叭、

その外に。」

凱旋門とは、

何事ぞ、

戰勝會とは、

何事ぞ、

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來らず、

國民よ。

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來るらむ、

言はずとも。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月二十五日の『もしほ草子』掲載。署名は姓のみの「伊良子」。前の『文庫』の「暉造の詩」発表から十日後の別雑誌への投稿であるから、やはり相応の自信作の愛国憤激の叙事的詩篇として読める。「日清戦争」は、この年の三月上旬に日本が遼東半島全域を占領して実質上の日本の勝利となり、三月三十日に「日清休戦条約」が、四月一七日に「日清講和条約」が調印(五月八日発効)したが、四月二十三日にロシア・フランス・ドイツが清への遼東半島返還を要求(所謂、「三国干渉」)、五月四日に伊藤内閣が遼東半島返還を閣議決定し、翌日に三国へ通達した。五月二十九日、日本軍が割譲された台湾北部への上陸を開始し、六月十七日、日本は台湾に台湾総督府を設置、八月六日、「台湾総督府条例」によって台湾に軍政が敷かれていた。本篇には欧米列強の圧力に対する憤り、特に北の遠望にロシアへの敵愾心を剥き出しにしている。十八歳の熱血日本浪漫主義者の面目というところだが、どうも憤怒の言葉ばかりが上滑りし、「暉造の詩」の闡明を意識し過ぎ、気張り過ぎて却って中身が羅列の空という感じがする。

「凱旋門」この年の五月下旬に「日清戦争」勝利を祝うために日比谷に巨大なハリボテの「凱旋門」が建造されている。長さ約百十メートル、中央に三十メートル越えの塔が立ち、前後に貫通門のアーチが付随するが、木造の基礎に全体を杉の葉で覆ったチャチなものであった。サイト「日本の凱旋門 ハリボテの帝国」の「日比谷の凱旋門(日清戦争)」に写真と絵がある。建造計画を伝える『東京日日新聞』の記事が同年五月二十一日で、リンク先の最後にある、作家『樋口一葉も、凱旋門を取り壊す当日、慌てて見学に行きました。しかし、たまたま天皇の還御の行列に当たり、ようやくたどり着いところ』、「やがて凱旋門ちかく來れば、もはや取崩しに取かゝれりとおぼしく、取おろしたる杉の葉など、こゝかしこに山とつまれぬ。さしも大きなるものを、時のまにいかで取づし得べき。櫻田門に向ひし方(かた)計(ばかり)は杉の葉なごりなく成て、組あげたる材木のみいと高々とあほがれる」(日記「水の上」同年六月一日の条。所持する小学館の全集を参考に独自に引いた)『という状況で、ほとんど木材しか見られませんでした』とあるから、実際に建っていた期間は十日未満であったと思われる。

「あるたい山」西シベリアとモンゴルに跨るアルタイ山脈。モンゴル語で「金の山」を意味する。

「敵の城樓に」「かたきのしろに」と読んでいるか。]

2019/05/15

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 水鼠(みづねずみ) (ミズネズミ)

Mizunezumi

 

 

みつねすみ ※【音沉】

水鼠

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「沉」-「氵」)。]

 

本綱水鼠似鼠而小食菱芡魚蝦或云小魚小蟹所化也

△按?水鼠也有溪澗狀小色稍白或灰黃赤斑而善走

 水食水草魚蝦

著聞集云安貞比豫州矢野保浦有島名黒島離人家凡

一里許有漁人名桂硲大工一日網數百匹之鼠而鼠皆迯

失焉平日彼島鼠多而食瓜菜故無敢作圃是海中之鼠

所爲矣一異也

――――――――――――――――――――――

氷鼠 東方朔云生北荒積氷下皮毛甚柔可爲席臥之

 却寒食之已熱

 

 

みづねずみ ※【音「沉〔(チン)〕」。】

水鼠

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「沉」-「氵」)。]

 

「本綱」、水鼠は鼠に似て、小さく、菱・芡(みづふき)・魚・蝦〔(えび)〕を食ふ。或いは云はく、小魚・小蟹の化する所なり〔と〕。

△按ずるに、※は水鼠なり。溪澗〔(けいかん)〕[やぶちゃん注:渓谷。谷川。]に有り。狀、小さく、色、稍〔(やや)〕白或いは灰黃〔に〕赤斑して、善く水を走る。水草・魚・蝦を食ふ。

「著聞集」に云はく、『安貞の比〔(ころ)〕[やぶちゃん注:一二二八年~一二二九年。鎌倉幕府第三代執権北条泰時の治世。]、豫州矢野保の浦に、島、有り。黒島と名づく。人家を離るること、凡そ一里許り。漁人、有り。「桂硲(〔かつら〕だに)の大工」と名づく。一日〔(あるひ)〕、數百匹の鼠、網〔(あみ)するも〕、鼠、皆、迯〔(に)げ〕失〔せたり〕。平日〔より〕彼〔の〕島に〔は〕鼠、多くして、瓜・菜を食ふ故、敢へて圃(はたけ)を作ること無〔けれど〕、是れ、海中の鼠の所爲〔(しよゐ)〕か。一〔つの〕異なり』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

氷鼠〔(こほりねずみ)〕 東方朔〔(とうばうさく)〕が云はく、『北荒〔(ほくくわう)〕の積氷の下に生ず。皮毛、甚だ柔かなり。席〔(むしろ)〕と爲すべし。之れに臥して、却つて寒〔く〕、之れを食ひて、熱を已(や)む。

[やぶちゃん注:「水鼠」はちゃんと実在し、和名もそのままである。齧歯(ネズミ)目Rodentia の中でも、多くのものが水生に適応しているネズミ科ネズミ科ミズネズミ亜科 Hydromyinae のに属するミズネズミ類で、実に十三属約二十種からなる。オーストラリア・ニューギニア・フィリピンに分布し、体の大きさは変異に富み、体長八~三十五センチメートル、尾長は八~三十五センチメートル、体重は十七グラムから一キロ三百グラムと幅広い。臼歯は単純で鉢形を呈し、上下顎(じようかがく)の第三臼歯はないか或いは痕跡的である。水生に特化した種では後足に蹼(みずかき)が発達している(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。中でも代表的な種はミズネズミ属オオミズネズミ Hydromys chrysogaster(オーストラリアミズネズミ・ビーバーネズミの別称もある)で、オーストラリア東部・タスマニア及びニューギニアに分布している。ウィキの「オオミズネズミ」によれば、頭胴長二十九~三十九センチメートル、尾長二十三~三十五センチメートル、体重六十五グラムから一キロ二十五グラムにも達する。『幅が広く水かきの発達した後脚、灰色がかった褐色の毛皮、豊かな頬ヒゲ、先端が白い太く黒味がかった尾を持つ。 耳は普通のネズミに比べ、体の割に小さめ』である。『住環境として常に水が豊富にある地域を必要とし、それも完全に手付かずの環境より、ある程度』、『人間の手が入った環境を特に好む』。『巧みに泳ぐ事が出来、その様子から時折』、『カモノハシ』(哺乳綱原獣亜綱単孔目カモノハシ科カモノハシ属カモノハシ Ornithorhynchus anatinus)『と誤認される事がある』。『食性は肉食。主に淡水性の巻貝や小魚、時にカエル、カメ、水鳥やハツカネズミ、コウモリを捕食する。カラスガイ』(斧足(二枚貝)綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ超科イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata 或いは同属)『などは捕まえた後、陽だまりの岩の上に置いて、太陽光による熱射で殻が開き、中身が取り出しやすくなるのを待つ習性がある』とある。英文ウィキの同種の画像をリンクさせておく。オーストラリアでは「Rakali」(「ラカリ」か)と呼ばれている。但し、本邦には棲息しないので、良安が行っているのは単なるドブネズミ(齧歯目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus以外の何者でもない。ドブネズミは下水の周りや河川・海岸・湖畔・湿地など、湿った環境を好む。水中に飛び込んで巧みに泳ぐことも出来る(但し、通常は人家から遠く離れた場所ではあまり見られない)。

「菱」双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica

「芡(みづふき)」「水蕗」でスイレン目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox の異名。一属一種。ウィキの「オニバス」によれば、『アジア原産で、現在ではアジア東部とインドに見られる。日本では本州、四国、九州の湖沼や河川に生息していたが、環境改変にともなう減少が著し』く、『かつて宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている』。なお、私たちが小さなころから写真で見慣れた、子供が乗っている巨大な蓮は、スイレン目スイレン科オオオニバス(大鬼蓮)属オオオニバス Victoria amazonica で、和名は酷似するが、別種である。

「小魚・小蟹の化する所なり」あちゃあ、時珍先生、やらかっしゃいましたねぇ。

「著聞集」鎌倉時代に伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」の別名。以下は最終巻である「巻第二十 魚虫禽獣」の中の「伊豫國矢野保の黑島の鼠、海底に巢喰ふ事」であるが、かなり端折って、自分勝手に纏めてしまった引用である。私は既に「諸國里人談卷之五 黑嶋鼠」詳細な電子化注をしているので、総てはそちらを参照されたい

「桂硲(〔かつら〕だに)の大工」う~ん、「古今著聞集」原典では「かつらはざまの大工」なんですけど、良安先生? 上記リンク先でも注しおいたが、新潮日本古典集成の「古今著聞集 下」(昭和六一(一九八六)年刊/西尾・小林校注)の頭注によれば、『島内に住み、大工を兼業していた漁師か。伝未詳』とある。

「是れ、海中の鼠の所爲〔(しよゐ)〕か」上記リンク先の原文にある最後の箇所、『すべて、かの島には、鼠、みちみちて、畠のものなどをも、みな、くひ失しなひて、當時までもえつくり得侍らぬとかや。陸(くが)にこそあらめ、海の底まで鼠の侍らん事、まことにふしぎにこそ侍れ』であるが、言い方がちゃんとした纏めになっていない。「陸にこそ鼠はいるというのは普通のことであるけれども、まさか、海にまで鼠がおるなどと申すことは、これ、まっこと、不思議なことで御座るのじゃて」である。

「氷鼠〔(こほりねずみ)〕」「氷鼠」の標題が大きくもなく、そのまま本文に続いているのはママ。特異点ではある(或いは良安はこの存在を疑問視した可能性もあるか)。以下の「積氷の下」というのを北の氷山のある海域と採り、皮が敷皮となるとするなら、食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris かなぁと私は無責任に夢想するのだが、しかし、「獵虎」(海獺)は既に「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ)(ラッコ)」で独立項だし、思うに、宮澤賢治に「氷河鼠(ひょうがねずみ)の毛皮」という童話があり(リンク先は「青空文庫」のそれ)、例の仮想のベーリング行の列車に乗ってイーハトヴを出発した人々の話である。賢治は「銀河鉄道の夜」でラッコを登場させているから、「氷河鼠」はラッコではあり得ないということだ。賢治はラッコを「氷鼠」なんて言わない。だから、ラッコじゃないと言える。……何、笑ってんの?……賢治はあんたより遙かに科学者なんだよ?……そんじゃさ! 因みに、実は「氷鼠」の和名異名を持つ生物が現存するんだけど、知ってた? あんた? 齧歯目ヤマネ科ヤマネ属ヤマネ Glirulus japonicus だよ! こりゃ、私も雪山で逢ったことがあるけれど、これもまた、納得の和名じゃあねえか! それにこれなら、「積氷」を「積もった雪」に読み換えるなら、候補としてもいいじゃないか! だははは! しかし、北方種で毛皮が採取出来るとなると、他の候補も挙げられそうだ。例えば、齧歯目ネズミ科ハタネズミ亜科マスクラット属マスクラット Ondatra zibethicus(アメリカ合衆国・カナダに自然分布。ヨーロッパ・ロシア・日本等に人為移入)や、齧歯目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科ヌートリア科ヌートリア属ヌートリア Myocastor coypus がいるな(南アメリカを原産地とするが、毛皮を取るために人為移入したものが野生化して北アメリカ・ヨーロッパ・日本を含むアジアに分布)。しかしだ、マスクラットやヌートリアは明代の中国にはおらんし、その周縁にもおらんのや! されば、彼らは退場やて! というわけで、私は「氷鼠」は架空の「鼠」と結論づけたい。大方の御叱正を俟つ、がね。

「東方朔〔(とうばうさく)〕」(紀元前一五四頃~紀元前九二頃)は前漢の文人。字(あざな)は曼倩(まんせん)。平原厭次(現在の山東省恵民県)の人。諧謔・風刺の才に優れたことから、武帝に寵愛されたものの、政治的信頼は得られなかった。西王母の仙桃を盗んで食べ、仙人となって八千年の長寿を得たなど、数々の神仙的逸話で知られる。

「北荒〔(ほくくわう)〕」中国の国境外の未開地。

「積氷」ツンドラか流氷か。

「席〔(むしろ)〕」敷物。

「之れに臥して、却つて寒〔く〕、之れを食ひて、熱を已(や)む」まあ、「氷鼠」だからね……。]

太平百物語卷四 卅一 女の執心永く恨みを報ひし事

太平古物語卷之四

   ○卅一 女の執心永く恨みを報ひし事

 備後の國尾道に小左衞門といふ者(ひと)あり。代々、冨有(ふゆう)の家にてありける。

 其親を觀勇(くはんゆう)と申せしが、此觀勇の父、故なくして、竹といひし召遣ひの女を、罪なきに罪におとし、剩(あまつさへ)、食物(しよくもつ)をたちて、なぶり殺しにせられけるが、此竹、死せんとせし時、苦しき眼(まなこ)を開きて、いひけるは、

「此恨(うらみ)、必ず、此家(いへ)のあらんかぎりは、おもひしらせん。」

と叫びて果(はて)しが、其死㚑(しりやう)、觀勇が父に付(つい)て、終に殺しけるに、猶も、末期(まつご)の言葉のごとく、又、觀勇をも惱(なやま)しける。

 觀勇、次第によはり、今はの限りとなりて、一子小左衞門を招きて申しけるは、

「われ、常に佛神(ぶつじん)を祈り、此災(わざはひ)を遁(のが)れんとすれ共、終に又、竹が爲に命を失ふなれば、汝、此家を相續し、能(よ)く能く佛神を信じ、貧しきものに慈悲を与へ、此災を遁るべし。」

と云終(いひおは)りて、死しけり。

 小左衞門、ぜひもなくなく[やぶちゃん注:ママ。「是非も無く」と「泣く泣く」を掛けたものととっておく。]、父を㙒邊におくり、追善殘る所なくして、一周忌をも念比(ねんごろ)に營み侍りしが、其翌(あけ)の朝、座敷に出(いで)て、前裁(せんざい)を詠(なが)め居(ゐ)けるに、疊より壁・柱等(とう)に至る迄、血、おほく、ながれかゝりてあり。

 小左衞門、

『こは、いかに。』

と思ひながら、私(ひそか)にこれを拭(のご)ひ取りて、家來の者にも、ふかくかくし居たりしが、次の日、何となく居間をみるに、爰(こゝ)も又、疊より板數に至るまで、夥しく、血に染(そみ)たり。

 小左衞門、大きにあやしみ、今は力なく、家來を招きて、「しかじか」のよしを語れば、家内(かない)の者、おどろき、其邊(そのあたり)見るに、血の付たる所、少しもなければ、此よしをいふに、小左衞門、腹を立(たて)、

「何条(なんでう)、これほどに血の付たるを、汝抔(なんぢら)が眼(め)には見へざるや[やぶちゃん注:ママ。]。はやく、拭(のご)ひ取るべし。」

と、いふにぞ、是非なく、小左衞門が差圖(さしず)に任(まか)せ、爰(こゝ)かしこ、ふけば、小左衞門、みて、

「雜巾(ざうきん)までも血にしたゝりぬ。取替(とりかへ)て、拭(のご)ふべし。」

と、いふ。

 元來、血なければ、雜巾も、ぬれず。

 されども、主命、(しうめい[やぶちゃん注:ママ。])黙(もだ)しがたく、取かへて、ぬぐへば、又、臺所に出(いで)て、同じく、前の如くに、いひ付(つけ)ぬ。

 それより、日每に、かく、いひ付けるまゝ、家來の者ども、あきれはて、

「こは、只事ならず。偏へに昔の竹が遠恨(ゑんこん/とをきうらみ)ならめ。」

と、私(ひそか)におそれ合(あひ)けるが、後(のち)には家來の者も、次第に疎み去(さり)て、終には小左衞門一人となり、自身、家内をふき廻りしが、日每に、血かさ、增(まさ)りて、小左衞門が座する所も、皆々、血に染(そみ)ければ、衣類にも、こぼれかゝりしを、

「ひた。」

と、引きさき、捨てぬ。

 此よし、一家(いつけ)[やぶちゃん注:一族の親類縁者。]の人々、聞きて、淺ましくおもひ、訪ひ來たれば、小左衞門いはく、

「誠に一類とて、能(よく)ぞ尋(たづね)給ひける。御志しは過分ながら、御らんのごとく、家内(かない)、血に漲(みなぎ)りて、尺寸(せきすん)の間(ま)も坐(ざ)し給ふ所、なし。早く歸り給ふべし。」

と、いふ。

 然(しかれ)ども、他(た)の人々、更に一滴も、血をみる事、なく、只、小左衞門が目にのみ、家内、何方(いづかた)も、血ならずといふ事なし。

「此上は、とに角に、小左衞門、心に背(そむ)かんも、いかゞなり。」

とて、皆々、歸りしが、余り、痛ましくて、食物(しよくもつ)、奇麗(きれい)にこしらへさせ、使(つかひ)の者にいはせけるは、

「此器物(うつはもの)は、能(よく)々改め、淸淨(しやうじやう)にさふらふ。きこし召(めし)候へ。」

と、つかはしければ、小左衞門、悅び見て、

「實(げに)々、奇麗なる食物かな。」

とて、少々、喰(くらひ)ける内に、はや、血、こぼれかゝりぬれば、もはや、喰ふ事、叶はず。

「淸めすゝがん事も、此方(こなた)にては思ひもよらず。」

とて、皆々、歸しぬ。

 かくする事、既に一年斗(ばかり)にして、終に、やせ衰へて、身まかりぬ。

 子孫なければ、其家(そのいへ)、斷絕しけり。

 誠に、無罪の者を殺したる恨(うらみ)によつて、親子三代、とり殺しけるこそ、恐ろしけれ。

[やぶちゃん注:以下は、全体が明らかに少し小さな字で書かれてあって、しかも全体が本文文字で二字分(ぶん)下に記されてある(ブログ・ブラウザの不具合を考えて引き上げてある)。無論、本文同様、実際には改行はなく、ベタで書かれてある。]

 或人のいはく、

「世上に『播磨の皿(さら)屋しき』といひ傳へしは、実は、此所の事なりける。」

とぞ。

[やぶちゃん注:実は原本では本文標題は「卅四」と誤記している。流石におかしいので訂した。またしても(「太平百物語卷三 廿八 肥前の國にて龜天上せし事」にもあった)最後の添書きが何とも面白い装置として働いている。殺された下女の名は「竹」で、これは「播州皿屋敷」の「菊」に応じており、「播州皿屋敷」のみならず、現存する皿屋敷譚の最古のもの(但し、そこでは皿ではなく、主君から拝領した五つ一組の鮑の貝盃)とされる、室町末期に永良竹叟(ながらちくそう)が書いた「竹叟夜話」(天正五(一五七七)年成立)の作者の名前と書名にも響き合う。食事を与えずに、なぶり殺しするというのは、「食物」で「皿」と縁語になっており、それが実際に後半分では血がしたたる「器物」=「皿」として行間に浮かび上がるのである。しかも、作者が最後の添書きで言いたかった真相はと言えば、

元の話は実は

――「皿」屋敷――ではなく

――「血」まみれの――「血」屋敷

であったのだ!……という「チョン!」(「血」一画目の点)という柝(き)が入って終わる、なかなかに手の込んだ仕掛けなのである。私は幼少期よりかねがね、「皿屋敷」譚の、例の、「一ま~い、二ま~い、……」という皿数えの声の妖気というのが、何と言うか、所謂、怪異の鋭い迫力としては、いやに間延びしていて、上質の怪奇シークエンスとは思えないと感じ続けてきた。寧ろ、「皿屋敷」譚の読者・観客の期待部分は、下女を猟奇的にいたぶって惨殺するシークエンスなのではないかとさえ思っているのである。本話のそれは、「罪なき罪」と、前振りの動機部分を思いっきりよくカットし、飢えさせた上で嬲り殺しとする残虐の極致という点でしっかりとそこをも押さえあり、血に塗(まみ)れた屋敷が小左衛門にのみ現出するというマクベス夫人もびっくりの、重篤な精神疾患か脳梅毒のような幻覚と、そのために遂に物を食うこと出来なくなって飢えたままに無残に衰弱死するという顚末は、「皿屋敷」より遙かに残虐でしかも怪異に富んでいて、よい、と思うのである。]

愚物 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    愚  物

 

 一人の愚物があつた。

 長いこと彼は平和に滿足に暮してゐた。ところが自分が世間からつまらぬ愚物だと目せられてゐると云ふ噂がだんだんと彼の耳へ入つて來出した。

 そこで愚物は悲しくたつて、どうしたら此の面白からぬ噂の跡を絕やしてしまへるだらうかと打沈んで思案しはじめた。

 とうとういゝ思ひ附が彼の鈍い小さな頭腦(あたま)にふいと浮んだ……そこで早速彼はそれを行(や)つて見る事にした。

 街(まち)へ出ると一人の友達が彼に出會つて、或る有名な畫家を賞めそやした……

『待ちたまへ!』と愚物は叫んだ、『その畫家はずつと前に時代後(じだいおく)れになつてゐるんだ……君はそれを知らないのか? まさか君がさうだとは思はなかつた……君はすつかり時勢に後れてゐる」

 その友達は驚いて、直ぐ愚物に同意した。             ゛

『僕は今日すばらしい。書物(ほん)を讀んだよ!』とまた違つた友達が彼に言つた。

『待ちたまへ!』と愚物は叫んだ、『君はそれでよく恥しくないのかね。あの書物(ほん)は一文の價値(ねうち)も無いんだ。誰だつてずつと前に讀み捨てたものなんだ。君やそれを知らんのか? 君や全く時勢後れだよ」

 此の友達も驚いて、愚物に同意した。

『何てすばらしい男だらう、僕の友建のNN(なにがし)は!』と三人目の友達が愚物に言つた。『實際鷹揚(おうよう)な男だよ!』

『待ちたまへ!』と愚物は叫んだ。『NN(なにがし)は有名な惡黨だ! 親戚中を騙(かた)り步いた奴だ。そりや誰でも知つてる事だ。君は全く時勢に後れたね!』

 此の三番目の友達も驚いて、愚物に同意してその友達を捨てた。かうして誰であらうが何であらうが。自分の前で賞められるものなら、愚物はきつと例の返答をした。

 時によると彼は非難の調子でかう附け足した、『ぢやまだ君はオーソリチイを信じてゐるのか?』

『意地の惡い惜々しい奴だ!』友達は愚物の事を言ふやうになつた。『然し何と云ふ頭腦(あたま)だらう!』

『そして何と云ふ辯舌だらう!』と他の者は附け足すのであつた、『さうだ、たしかに天才だ……』

 つひには或る雜誌の主筆が愚物に評論欄を引受けてくれと言つて來た。

 そこで愚物は例の態度例の表白を少しも變へないで、何事をも何人をも批評するやうになつた。

 今や、曾つてはオーソリチイを擊破した彼が、自らオーソリチイとなつた。そして靑年は彼を尊敬し、彼を畏(おそ)れた。

 可哀想(かあいさう)な靑年はさうする外に何をする事が出來よう? 元來、人は何人をも尊敬してはならぬ筈だ……がこの場合には、若し人が彼を尊敬しなければ全く時勢後(じせいおく)れになつてしまふのだ!

 臆病者の間には幾多の愚物が時めいてゐる。

    一八七八年四月

 

愚物、當時の文學界に對する諷刺である。何處でも批評家にはこんな愚物が多いと見える。】

NN、[やぶちゃん注:間の読点はママ。]羅甸語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]のNomen nescio の略語、名前知らずの義、人の名前を舉げたくない場合に用いる。】

オーソリチイ、權威者の義である。】

[やぶちゃん注:「Nomen nescio」は「ノーメン・ネスキオー」と発音し、「Nomen」はラテン語で「名」、「nescio」は「知らない・認識しない」の意。生田が訳す通り、匿名にした「何某(なにがし)」的謂い。]

廢社晚秋 伊良子暉造(伊良子清白)

 

廢社晚秋

 

神杉に、

雲たちまよひ、

山の井に、

紅葉ぞうかぶ、

秋くれて、

やしろは荒れぬ。

古すだれ、

蝙蝠とびて、

神鈴を、

啄木鳥ならす。

かしは手に、

山ひここたへ、

山彥を、

月ぞきくなる。

狐火か、

峰のおちこち、

旅人の、

心なやます。

たえかねて、

行かむとすれば、

朽ちはつる、

谷のかけ橋、

はらはらと、

木の葉みだれて、

梟のなく。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月二十五日の『文庫』第一巻第四号掲載。署名は本名の伊良子暉造。前の「暉造の詩」発表の次号(十日後)のそれであるから、相応の自信作の詩篇として読める。幻妖世界への積極的な踏み込みがなかなかよいが、鏡花的域を出てはおらず、滝沢残星秋暁もそう感じたかななどと思ったりする。

暉造の詩 伊良子暉造(伊良子清白)

 

暉造の詩

 殘星ぬしの評言に付きて、憤激する所あり乃ち一詩を作る。

 

いづれか早きざれかうべ。

丈夫いつ迄存生へむ。

血あり肉あり歌はずば、

歌ふべき日はなかるらむ。

 

暉造生れて十九年。

ミユーズの神に招かれて、

詩國の放に來てしょり、

あと見かへれば早や三年。

のぼる山路を越えかねて、

 

人のつゑのみすがりしよ。

堂々六尺ますらをの、

女々しきことをしてけりな。

 

なみだに破れよ古硯。

男子生れてこのなみだ。

岩をも透すわが望。

人生殘す三十年。

 

諸君しばらく待ちたまへ、

暉造これより奮ひ立ち、

天地の聲をふところに、

登りて見せむ魁に。

 

血あり肉ある暉造は、

日本をのこの一人なり。

劔をぬきてうそぶけば、

風に聲あり硏ぐべし。

 

硏き硏きてひからずば、

たふれて止まむざれかうべ。

ざれしかうべを見給はゞ、

かの暉造がかばねなり。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月十五日発行の『文庫』第一巻第三号に掲載。署名は本名の伊良子暉造。木村喜代子氏の論文「伊良子清白」(昭和四〇(一九六五)年(?)。「Osaka Shoin Women's University Repository」所収のもの(但し、部分)がPDFでダウン・ロード可能)に、この詩篇についての記載があり、「殘星」は『滝沢秋暁の号。秋暁は長野県の人。上野美術学校に通い』、『『少年文庫』の編集をしていた』とある。彼については「秋和の里 清白(伊良子清白)(初出形)」で注したのを再掲すると、『上田市関連ソング 「秋和の里」について』に、『明治の末期、日本の文学界きっての文人滝沢秋暁(本名』は彦太郎。『文庫』派)『が種々の事情で東京の文学界を去り、故郷秋和村(現上田市秋和)に隠遁していることを知った文学界駆け出しの伊良子清白が、越後出張のおり』、『表敬訪問』して『歓迎され』、『秋暁の家に泊めてもらうことになった。そのお礼にと後日贈った詩である』とある。記者で作家の滝沢秋暁(しゅうぎょう 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は、早くから『少年文庫』などに投稿し、明治二十年代から小説「田毎姫」・詩「亡友の病時」・評論「勧懲小説と其作者」「地方文学の過去未来」などを発表、明治二八(一八九五)年には『田舎小景』を創刊したが、画道を志して上京、『少年文庫』の記者となった。しかし翌年、病を得て帰郷、家業の蚕種製造に従事する傍ら、小説「手術室の二時間」などを発表した。著書に「有明月」「愛の解剖」「通俗養蚕講話」などがある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。伊良子清白より二歳年上である。さて、木村氏の論文には、『近年、みすず書房より刊行された河井酔茗夫人島本久恵氏の著書『長流』(全八巻)には文庫派詩人の群像が描かれているが、そのうち主に四巻・五巻には清白について詳しく書かれている。それを読むと、詩への情熱に燃える清白と、生活に忠実な清白が入れかわり立ちかわり現われてくる。そういう清白を島本氏は』「漂泊の人」『という代名詞を以て呼んでいる。いま少し、彼の』「漂泊ぶり」『を辿ってみよう』と述べられた後に以下のようにある(一部、拗音・促音が小文字になっていないのを直した。注記号は省略した)。

   《引用開始》

 明治二十八年『文庫』㐧一号に発表した短詩五篇長詩一篇[やぶちゃん注:不審。「草枕」(四篇構成)・「四季の鳥」(四篇構成)・「初花を指すから、短詩八篇長詩一篇である。]に対して残星が「詞意共にいみじき作と見たれども先人踏襲の跡あるは、少し憾むべき事ならずや」と評した。また同誌㐧二号に発表した詩四篇[やぶちゃん注:「花籠」(四篇構成)を指す。]に対しても残星が「老練服すべし、又曰く毎度ながら君が他に私淑するあるを惜む、堂々たる六尺の男子豈に永く他が胯下[やぶちゃん注:「こか」。股の下。股座(またぐら)。]に堪ふべけんや」との評を下したが、清白はそれに対して『文庫』㐧三号に、「残星ぬしの評言に付きて憤激する所あり乃ち一詩を作る」[やぶちゃん注:ママ。]と前置して、「暉造の詩」を発表している。

   《引用終了》

として、本篇の最終第五・六・七連を引用された上で(引用は新字表記(「劒」は「剣」)。但し、句読点が一切ないこと、最終連中二行「のたふれて止まむざれかうべ。」/「ざれしかうべを見給はゞ、」が「たふれて止まむされこうべ」「されしかうべを見給はゞ」と異なっている。またある一部も異なるが、それは後述する)

   《引用開始》

 この詩には詩への焦燥と発奮を制しかねている若き清白の姿が歴々と現れてくる。が、その後、京都の医学校に在学中、河井酔茗に次のような手紙を書いている。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は全体が二字下げであるが、ブログ・ブラウザの関係で引き上げた。]

親愛なるわが友よ、われは君の懇篤なる忠告によりて豁然開悟するところありき。君よ君よわれは永久に詩を廃せざるべし、われの詩才なきはいふもはづかし、されど、詩才なきに失望して詩を廃するがごとき愚をなさゞる可し、われは自己の力に安んじ悠々として詩にあそぶこと夫れ山水にあそぶがごとくならむ、われはますます刀圭[やぶちゃん注:「たうけい(とうけい)」でもと「薬を調合するための匙」を指し、転じて医術・医者の意となった。]の業に勉むべし、詩は以て其余暇の雅具に供せん、あゝわれはおろかなりし、他人と競争せんとして其力足らざりしをかなしみしは、詩人たらんと欲して其才なきをかなしみしは、今や煩悩のこゝろをいでて菩提のさかひに近づくを得たり(後略)

 ここには最早、あの若き清白の姿は見られない。しかし、彼はこの書簡に於いていうように詩を「余暇の雅具に供」したのであろうか。否、彼は文学を専攻するため上級学校へ進もうとし、そのため父と争ったこともあり、この手紙を書いて後、明治三十三年一月には、遂に文学に専念するため家業の医業を継ぐことを弟の道寿に譲り、上京した。尤も、その時も、生計の道は飽くまで医業に求めていたのであるが……。彼は古典より現代に至る小説、翻訳もの、新体詩などあらゆる文学に関心を寄せている一方、実際に京都在住時代には『少年文庫』を主として、『よしあし草』『青年文』『もしほ草紙』などに作品を寄せ、上京してからは『明星』の編輯に携わっている。彼はまたよく詩を論じたようである。例えば、明治三十三年一月三日の浜寺(大阪府)の鶴の家に於ける『よしあし草』の新年会の席上、彼は鏡花の幻覚を取り上げ、それを医学上から立論して、それはのちの語り草となったりしていることや、また同年二月二十一日付鉄南宛書簡は彼が与謝野鉄幹と、万葉や業平、西行より新体詩に至るまで議論したことを伝えていること、あるいはまた、その年の八月十六日には酔茗の本郷の下宿で溝口白羊と会い、白羊は抒情詩、彼は叙事詩の立場で詩を論じているなどである。

 しかし、明治三十七年頃より、清白は父の浪費や病院事業の困難という事情の下で、だんだん文庫から離れてゆく。同年八月二十一日付の酔茗宛の手紙は、旅先の米子より送られたものであるが、そこで彼は詩から遠のきつつある我が身の寂しさを語っている。

[やぶちゃん注:同前。]

(前略)近頃の心の悶えは一入に御座候へかかる価なき生活は或る罪悪をつくりつつあるにひとしく候、(略)職業は授けられたるものに候へば、之を避くるは神の意志に背くものに候、ソレ故小生はいかにしてか心の安きを得んと苦しみ居候、(略)文庫にも怠り居候はさきにも申し上げ候通り心の衰へたる為に候、若うして力無きは笑ふべききはみに候(後略)

 しかしそれから半年後、明けて明治三十八年初頭には「月光日光」「漂泊」を創作し、九月には「淡路にて」「戯れに」「花柑子」「かくれ沼」「安乗の稚子」を『文庫』に発表する。これらはすべて、『孔雀船』に収められた彼の代表作である。ちょうど六月に彼は結婚しており、彼にとってこの年は会心の年であったに違いない。そしてそれまでの仕事の集大成という意味で、彼は二百編近くの作品の中から十八篇を自ら厳選して、詩集を発刊する計画をした。それが明治三十九年五月に刊行された、彼にとって唯一の詩集―彼の名声を高めたのはこの一冊の本である―『孔雀船』であるが、彼はその刊行に先立ち、四月二十九日、在京詩作生活に終止符を打って島根県の浜田へ細菌検査所検査主任として赴任する。そして翌年七月の「七騎落」の発表を最後に、完全に詩壇を去ったのである。[やぶちゃん注:以下、略。]

   《引用終了》

なお、本文中の「鉄南」について木村氏は、『堺の覚応寺の嗣子で、本名河野通該、当時錦西小学校の教師をしていた。『よしあし章』の同人』と注しておられる。「溝口白羊」(明治一四(一八八一)年~昭和二〇(一九四五)年)は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」によれば、大阪出身で、本名は駒造。早稲田大学専門部法律科卒。『文庫』などに詩を発表して注目されたが、「不如帰の歌」など多くの流行小説の通俗詩化に励み、詩壇を離れた。詩集「さゝ笛」(明治三九(一九〇六)年、詩文集「草ふぢ」(明治四十年)、編書に尼港(にこう)事件(ロシア革命後の大正九(一九二〇)年三月から五月にかけてアムール川河口の港町ニコラエフスク(尼港)で駐留していた旧日本軍や在留邦人約七百人及び資産家階級のロシア人数千人がバルチザン(不正規軍)に虐殺された事件。ソ連政府は事件後、責任者を処刑し、賠償を求めた日本は北樺太を保障占領した。ここは朝日新聞掲載の「キーワード」に拠る)の記録「国辱記」(大正九(一九二〇)年)などがあるとある。清白より四つ歳下である。木村氏の論文によって本篇を十全に味わうことが出来た。心より感謝申し上げる。

 なお、第六連「硏ぐべし」はママであるが、「風かぜにこゑあるとぐべし」では韻律がおかしい。しかも次の連の頭の「硏き硏きてひからずば、」では明らかに「みがきみがきて」と読んでいると読めるから、この「硏ぐべし」は初出時の誤植ではなかろうか? 因みに、木村喜代子氏の論文「伊良子清白」の引用では、「研くべく」となっている。暫くママで示しておく。

「存生へむ」「ながらへむ」。

「魁に」「さきがけに」。]

ひと雫 伊良子暉造(伊良子清白)

 

ひ と 雫

 

流れてたえぬいくすぢの、

川はいづこにおつるらむ、

大うな原のひとしづく、

千々の川こそこもるらめ。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

花籠 伊良子暉造(伊良子清白)

 

花 籠

 

 

  春 か ぜ

 

君がためにと駒たてゝ、

一枝折りつる靑やぎの、

いとの心は知らねども、

名殘やをしきはる風も、

行衞したひてゆるやかに、

君が小枝のうへぞ吹く。

 

 

  きよき心

 

すむも濁るもすがたのみ、

神のをしへし一すぢの、

すぐなる道をたどりなば、

濁り行く世もにごりなき、

淸きこゝろのかはらめや。

 

 

  旅ごろも

 

深きゆかりのありつらむ、

きみと契りしうれしさに、

たのむ緣もいつかまた、

門出をおくる御軍の、

兄子がきまする旅ごろも、

もつれがちなる片糸の、

針のはこびもおそくして。

 

 

  しほり戶

 

鴈のおとづれ末かけて、

契るまことはかはらじと、

きみが贈りし玉章を、

枕にむすぶうたゝねの、

夢もゆかしき閨のうち。

こゝろもあやに栞戶を、

おしあけ方にながむれば、

いとゞ思の結ぼれし、

軒のやなぎのうち解けて、

君のかざしに手折りけむ。

もとの心をわすれずに、

かをるもうれし梅のはな。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年九月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

2019/05/14

怪力亂神

今さら乍ら言っておく。

あの孔子が「怪力亂神を語らず」と言ったのは取りも直さず孔子が「怪力亂神」が好きだったからである。今の中国人も日本人もそれを全く理解していない。いや――孔子は「怪力亂神」が現実を支配していることを実は痛いほど理解していたのだ。

私は

「歌」を歌うという時、恐らく自分は「無原罪」だと思っている「彼等」を、そうさ、私は何処かで何時も胡散臭く感じている――

私は

私は「私」という呪縛から離れたいといつも考えている。だから「私」から解き放たれることは永遠に――来ない――ということも理解して「は」いる…………

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(21) 「馬塚ハ馬ノ神」(3)

 

《原文》

 【鞍掛松】越後西蒲原郡峯岡村大字平澤ノ馬塚ハ、土人ハ之ヲ鞍掛松トモ稱ス。昔上杉謙信此地ニ來タリシ時、其愛馬暴カニ病ミテ死ス。因ツテ之ヲ埋メテ塚ノ上ニ松ヲ栽ヱタリト云フ〔越後野志十一〕。此話ノ武州馬引澤ノ駒繫松トヨク似タルコトハ誰シモ心附クべキナリ。鞍掛松ノ名モ偶然ニハ非ザルニ似タリ。之ニ由リテ案ズルニ、多クノ馬塚ノ由來ニハ單純ナル記念ト云フ外ニ信仰アリ。肥後八代郡宮原町大字拵(カコヒ)ニテハ、街道ノ傍ニ一所ノ馬神ヲ祀レリ。【榎】豐臣秀吉島津征伐ノ途次、村雨ト云フ愛馬ノ斃レタルヲ、此處ニ埋メテ印ニ榎ヲ栽ヱタリ。里人之ヲ馬ノ神ト崇敬シテ永ク往還ノ馬ノ爲ニ其平安ヲ祈願スル風習アリキ〔肥後國志〕。【固有名詞】此等ノ口碑ヲ比較スルトキハ、固有名詞ノ必ズシモ大ナル要素ナラザリシコトヲ知ルニ足レリ。岩代河沼郡若宮村大字牛川牛澤ノ名馬塚ハ、曾テ佐瀨上總ト云フ地侍アリテ、最愛ノ駿馬ヲ新地頭ノ蒲生殿ニ取ラルヽヲ惜シミ、馬ヲ殺シテ身モ亦自殺セシ、其馬ノ塚ナリト傳ヘラル〔新編會津風土記〕。【御靈】此話一ツノミヲ聞ケバ、如何ニモ尤モラシキ中世ノ武邊咄ナレドモ、過去三百年ノ間、土地ノ百姓ノ信仰生活ト交涉セシ點ハ、恐クハ右ノ「ローマンス」ノ中心ヨリハ遠キモノニテ、人及ビ馬ノ怨恨ト、之ニ基ク馬ノ祟ト云フコトニ重キヲ置キシ傳說ナルべシ。【馬ノ祟】此一條ノ如キハ、所謂御靈信仰ノ起原即チ邪神(アシキカミ)又ハ荒神(アラフルカミ)ノ思想ト緣遠クナリタル人々ニハ少シク信ジ難キコトナランモ、馬ガ死シテ村里ニ災シタリト云フ例ハイクラモ有ルナリ。【祝神】例ヘバ讃岐三豐郡莊内村大字箱ニ於テハ、昔八幡宮ノ神馬屢夜出デテ畠ノ物ヲ荒スニ困リ、浦人某ナル者之ヲ殺シタルニ、忽チ心亂レテ病ニ羅リ、後ニハ一村ニ祟ヲ蒙ムル者多カリシカバ、終ニ馬骨ヲ取集メテ馬神塚ヲ築キ、之ヲ馬神ト祀リテ漸ク其患ヲ免レ得タリ〔西讃府志〕。備後絲崎ノ絲崎八幡宮ノ境内ニ馬出(ウマダシ)馬神ト云フ祠アリ。【大豆ノ忌】昔此八幡宮ノ神馬モ同ジ惡癖アリテ、夜ナ夜ナ田畠ノ大豆ヲ喰ヒケルヲ、土地ノ者過リテ之ヲ打殺セシニヨリ祝神ト祀リタリ。此故ニ絲崎谷ニテハ決シテ大豆ヲ栽培セズ。之ヲ犯ス者ハ祟アリキト云フ〔三原志稿〕。【泣祭】常陸鹿島郡大同村ノ六月十五日ノ泣祭ナルモノモ、本來馬ノ靈ヲ弔フノ目的ヲ以テ營マレ、事ノ始末ハ頗ル馬引澤ノ葦毛ノ話ト相似タリ。【馬ノ首】或年此村ノ淖田(フケタ)ノ泥ノ中ニ陷リテ一頭ノ馬死ス。其後此田ヨリ馬ノ面ニ似タル害蟲發生シテ耕作ヲ荒シ、祈禱其效ヲ奏セザリシ餘ニ、或ハカノ馬ノ祟ニハ非ズヤト心附キ、馬ヲ祭ルコトヽナリテヨリ始メテ蟲ノ出ルコト熄ミタリ。故ニ每年六月望ニ一村休業シ、鉦太鼓ニテ大聲ニ泣キ廻ルト云フコトナリ〔日本宗敎風俗志〕。蟲送リニ鉦鼓ヲ鳴ラスコトハ弘ク行ハルヽ風習ニテ、一般ニハ害蟲ヲ戰場ニ歿シタル者ノ亡靈ノ所爲ナリトス。【實盛】實盛ノ祭ナルモノ即チ是ナリ。勿論馬ニ限リシコトニハ非ズ。【馬ト蝗】併シ伊勢大神宮ノ御神田(ミカンダ)ノ神事ニ、舞ヲ舞フ祝(ハフリ)等ノ手ニ持ツ御田扇ニハ馬ヲ描キ、之ヲ以テ熱病ノ患者ヲ扇ゲバ熱ガ醒メ、又之ヲ以テ田ヲ扇ゲバ蝗(タムシ)ガ附カズト云フヲ見レバ〔本朝俗諺志五〕、古クハ馬ト田ノ蟲トノ間ニ何カノ關係アリシナラン。蓋シ此等ノ馬ドモハ素ヨリ名モ無キ田舍者ナルニ、而モ猶斯バカリノ威靈ヲ行フコトヲ得タリシナリ。況ヤ天下ノ駿足ノ身ノ果ニ至リテハ、其憤怨ノ勢ハ到底之ヲ推測スルコト能ハズ。【磨墨】磨墨(スルスミ)ハ馬ノ最モ不遇ナル者ナリ。池月ナカリセバ能ク一代ニ雄視スルコトヲ得タリシナランニ、由ナキ主取ガ基トナリテ、生キテハアラユル壓迫ヲ受ケ、終ニ狐崎ノ悲運ニ殉ジタリト云フナリ。要スルニ化ケズシテハ居リ難キ馬ナリ。【賴政】似タル例ヲ引クナラバ、源三位賴政ガ平家ノ爲ニ奪ハレントセシ木下ト云フ名馬モ、死シテ後山城葛野郡木島明神ノ附近、寶金剛橋(ハウコンガウバシ)ノ南ノ田中ニ神塚ヲ築キテ祭ラレタリ。木島明神ノ名モ木下ヨリ出ヅト云フ雜說マデ古クヨリアリシモ〔臥雲日件錄長祿二年閏正月二十五日條〕、夫ハ勿論ノ誤リニシテ、社ノ東ニ在リト云フ養蠶社(コカヒノヤシロ)コソ或ハ此馬ノ神ナランカト謂フ〔都名勝圖會〕。【亡念ト馬】又誰ガ唱ヘ始メタルカ知ラズ、此馬ハ賴政ニ退治セラレシ鵺(ヌエ)ノ生レ變リニシテ、彼ガ一家ノ滅亡ヲ招クノ源トナリシモ、昔ノ怨ミヲ馬ト成リテ報イタルナリト云フ噂サヘアリシナリ〔臥雲日件錄同上〕。

 

《訓読》

 【鞍掛松】越後西蒲原郡峯岡村大字平澤の馬塚は、土人は之れを「鞍掛松」とも稱す。昔、上杉謙信、此の地に來たりし時、其の愛馬、暴(には)かに病みて死す。因つて之れを埋(うづ)めて塚の上に松を栽ゑたりと云ふ〔「越後野志」十一〕。此の話の、武州馬引澤の「駒繫松」と、よく似たることは誰しも心附くべきなり。鞍掛松の名も、偶然には非ざるに似たり。之れに由りて案ずるに、多くの馬塚の由來には、單純なる記念と云ふ外に、信仰あり。肥後八代郡宮原町大字拵(かこひ)にては、街道の傍に一所の馬神を祀れり。【榎】豐臣秀吉、島津征伐の途次、村雨(むらさめ)と云ふ愛馬の斃れたるを、此處(ここ)に埋めて、印(しるし)に榎(えのき)を栽ゑたり。里人、之れを馬の神と崇敬して、永く、往還の馬の爲めに其の平安を祈願する風習ありき〔「肥後國志」〕。【固有名詞】此等の口碑を比較するときは、固有名詞の、必ずしも大なる要素ならざりしことを知るに足れり。岩代河沼郡若宮村大字牛川牛澤の名馬塚は、曾つて、佐瀨上總(さぜのかずさ)と云ふ地侍(ぢざむらひ)ありて、最愛の駿馬を新地頭の蒲生殿(がもうどの)に取らるゝを惜しみ、馬を殺して、身も亦、自殺せし、其の馬の塚なり、と傳へらる〔「新編會津風土記」〕。【御靈】此の話、一つのみを聞けば、如何にも尤もらしき中世の武邊咄(ぶへんばなし)なれども、過去三百年の間、土地の百姓の信仰生活と交涉せし點は、恐らくは、右の「ローマンス」の中心よりは遠きものにて、人及び馬の怨恨(ゑんこん)と、之れに基づく馬の祟(たたり)と云ふことに重きを置きし傳說なるべし。【馬の祟(たたり)】此の一條のごときは、所謂、御靈(ごりやう)信仰の起原、即ち、「邪神(あしきかみ)」又は「荒神(あらふるかみ)」の思想と緣遠くなりたる人々には少しく信じ難きことならんも、馬が死して、村里に災ひしたり、と云ふ例は、いくらも有るなり。【祝神(いはひじん)[やぶちゃん注:読みは「ちくま文庫」版に拠る。]】例へば、讃岐三豐(みとよ)郡莊内村大字箱(はこ)に於ては、昔、八幡宮の神馬、屢々、夜(よ)出でて畠の物を荒すに困り、浦人某(なにがし)なる者、之れを殺したるに、忽ち、心亂れて病ひに羅り、後には一村に祟を蒙むる者、多かりしかば、終に馬骨(ばこつ)を取り集めて、馬神(うまがみ)塚を築き、之れを馬神と祀りて、漸く其の患(うれひ)を免れ得たり〔「西讃府志」〕。備後絲崎(いとさき)の絲崎八幡宮の境内に「馬出馬神(うまだしばじん)」[やぶちゃん注:読みは「うまだしうまがみ」では如何にも締まりがないと私が感じたのでかく読んだ。]と云ふ祠あり。【大豆の忌(いみ)】昔、此の八幡宮の神馬も、同じ惡癖ありて、夜な夜な、田畠の大豆を喰ひけるを、土地の者、過(あやま)りて、之れを打ち殺せしにより、祝神と祀りたり。此の故に、絲崎谷にては、決して、大豆を栽培せず。之れを犯す者は祟ありきと云ふ〔「三原志稿」〕。【泣祭(なきまつり)】常陸鹿島郡大同村の六月十五日の「泣祭」なるものも、本來、馬の靈を弔ふの目的を以つて營まれ、事の始末は頗る馬引澤の葦毛の話と相ひ似たり。【馬の首】或年、此の村の淖田(ふけた)の泥の中に陷りて、一頭の馬、死す。其の後、此の田より、馬の面(つら)に似たる害蟲、發生して、耕作を荒し、祈禱、其の效を奏せざりし餘りに、「或いは、かの馬の祟には非ずや」と心附き、馬を祭ることゝなりてより、始めて、蟲の出ること、熄(や)みたり。故に、每年六月望(もち)に、一村、休業し、鉦・太鼓にて大聲に泣き廻ると云ふことなり〔「日本宗敎風俗志」〕。「蟲送り」に鉦鼓を鳴らすことは弘く行はるゝ風習にて、一般には、害蟲を戰場に歿したる者の亡靈の所爲(しよゐ)なりとす。【實盛】「實盛の祭」なるもの、即ち、是れなり。勿論、馬に限りしことには非ず。【馬と蝗(たむし)[やぶちゃん注:「いなご」と読まなかったのは以下の本文のルビに拠る。]】併し、伊勢大神宮の「御神田(みかんだ)の神事」に、舞を舞ふ祝(はふり)等の手に持つ「御田扇(おんたあふぎ)」には、馬を描き、之れを以つて熱病の患者を扇げば、熱が醒(さ)め、又れを以つて田を扇げば、蝗(たむし)が附かずと云ふを見れば〔「本朝俗諺志」五〕、古くは、馬と田の蟲との間に、何かの關係ありしならん。蓋し、此等の馬どもは、素より名も無き田舍者なるに、而も猶ほ、斯(か)くばかりの威靈(いりやう)を行ふことを得たりしなり。況んや、天下の駿足の身の果てに至りては、其の憤怨(ふんゑん)の勢ひは、到底、之れを推測すること、能はず。【磨墨(するすみ)】「磨墨(するすみ)」は馬の最も不遇なる者なり。「池月(いけづき)」なかりせば、能く一代に雄視することを得たりしならんに、由(よし)なき主取(あるじとり)が基(もと)となりて、生きては、あらゆる壓迫を受け、終に狐崎の悲運に殉じたり、と云ふなり。要するに、化けずしては居り難き馬なり。【賴政】似たる例を引くならば、源三位賴政が平家の爲めに奪はれんとせし「木下」と云ふ名馬も、死して後、山城葛野(かどの)郡木島(このしま)明神の附近、寶金剛橋(はうこんがうばし)の南の田中に神塚を築きて祭られたり。木島明神の名も「木下」より出づと云ふ雜說まで古くよりありしも〔「臥雲日件錄」長祿二年閏正月二十五日條〕、夫(それ)は勿論の誤りにして、社の東に在りと云ふ養蠶社(こかひのやしろ)こそ、或いは、此馬の神ならんか、と謂ふ〔「都名勝圖會」〕。【亡念(まうねん)[やぶちゃん注:「妄念」に同じい。迷いの心、執着心のこと。]と馬】又、誰が唱へ始めたるか知らず、「此の馬は賴政に退治せられし鵺(ぬえ)の生れ變りにして、彼が一家の滅亡を招くの源となりしも、昔の怨みを、馬と成りて報いたるなり」と云ふ噂さへ、ありしなり〔「臥雲日件錄」同上〕。

[やぶちゃん注:「越後西蒲原郡峯岡村大字平澤の馬塚」現在の新潟県新潟市西蒲(にしかん)区峰岡はここだが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「新潟県埋蔵文化財包蔵地一覧表」PDF)を見ると、この地区の東北にある西蒲区竹野町(まち)内に遺跡番号「644」として種別「塚」とあり、名称を「馬塚(観音塚)」というのがある(成立年代は室町時代とする)。また、峰岡地区(激しい飛地状態)の狭間の福井という地区には柳田國男の嫌いな「山谷(やまや)古墳」という古墳も見出せる。いやいや、竹野町には「菖蒲塚古墳」や「隼人塚古墳」もある、と言うより、この周辺には古墳がかなりある。これらの孰れかか、名称からは、ズバリ、竹野町の「馬塚」ではなかろうか? にしても、謙信絡みなのに、今に伝承していない(少なくともネット上では見当たらない)のも不審ではある。

「暴(には)かに」「暴」には「俄かに・突然」の意がある。

「肥後八代郡宮原町大字拵(かこひ)」熊本県八代郡氷川町宮原はあるが、しかし、「氷川町」公式サイトのこちらで、氷川町栫字桑原に「馬之神(かこいうまのかみ)」が現存することが判った(写真有り)。その解説によれば、天正一五(一五八七)年、『豊臣秀吉は島津氏を攻撃するため』三十七『カ国の兵を動員しました』四月十九日、『野津の阿弥陀路を経て氷川を渡り、勝専坊で休息をとった後』、『村はずれまで来た時、愛馬「村雨」が歩けなくなりました。そのため』、『秀吉は馬を乗り換えて出発しました。「村雨」はその付近に葬られ、その後「馬之神」として祀られるようになりました』とある。

「豐臣秀吉、島津征伐」前注でも示したが、ウィキの「九州平定」によれば、天正一五(一五八七)年四月十日、筑後高良山、十六日には肥後隈本(現在の熊本県熊本市)、十九日には肥後八代(熊本県八代市)に到着しているから、史実上なら、その期日となる。『秀吉の大軍の到来に対し、高田(八代市高田)に在陣していた島津忠辰は』、『これを放棄して薩摩国の出水(鹿児島県出水市)にまで撤退し』ている。秀吉はさらに四月二十五日に肥後佐敷(熊本県葦北郡芦北町)、二十六日に肥後水俣(熊本県水俣市)と進み、四月二十七日に『島津方の予想を上回る速さで秀吉が薩摩国内に進軍すると、出水城(出水市)の城主島津忠辰、宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の城主島津忠長らが降伏した』。『秀吉は、薩摩の浄土真宗勢力を利用するために本願寺(当時は摂津国天満に本拠を移転)の顕如をともなっていた。これにより』、『獅子島(鹿児島県出水郡長島町)の一向門徒の協力を得て、島津方の意表を突く迅速さで出水・川内の地に達したのであ』った。四月二十八日に小西・脇坂・九鬼勢が『平佐城(薩摩川内市平佐町)に攻撃を仕掛けたが、ここで』、『城主桂忠詮の反撃にあった(平佐城の戦い)。このとき、平佐城の井穴口を守る原田帯刀が寄手大将小出大隅守の弟九鬼八郎を弓で射とめ、また、城内の女たちや子どもたちも懸命にはたらくなど善戦して、双方、相当数の犠牲者を出した。これが島津方の最後の抵抗となった』とある。

「岩代河沼郡若宮村大字牛川牛澤」福島県河沼郡会津坂下町牛川村附近

「佐瀨上總(さぜのかずさ)」「会津坂下ぶらっと散歩」(会津坂下町観光物産協会製作か)のこちらのページの「牛沢館(うしざわだて)跡」に、『坂下厚生病院前より南へJR只見線の踏切を渡り、約』二キロメートル『の牛川地区の牛沢集落に』『芦名氏家臣の館跡』があるとあり、『曹洞宗大徳寺の北側の一帯が牛沢館跡だが、宅地化の』ため、『館としての形跡は留めていない』。「会津鑑」『には、牛沢地区には二氏による居住があったことが記述されて』おり、その一つが『牛沢村柵』で、『佐原右馬允包盛』(さわらうまのすけあきもり)『が築き、天正』(一五七三年~一五九一年)の頃は、『蒲生氏家臣佐瀬上総守』(さぜかずさのかみ)『が住んでいたとあ』り、『佐瀬氏の末裔の方は会津若松市』に今も『在住』されておられるとある(太字は私が附した)。「さぜ」の濁音はこのページに拠った。

「祝神(いはひじん)」「ブリタニカ国際大百科事典」では、「いわいがみ」を見出しとし、小山梨県から長野県にかけて、本家・分家関係にある数戸乃至十数戸の家々が合同で祀る神で、「いわいでん」とも「いわいじん」とも呼ばれる。集落の一隅のこんもりと茂った森の中に小さな祠を設ける場合が多く、一般に祭神は稲荷・春日・津島・天神などが多い。同族神の典型と考えられ、祭日は春は二月と四月、秋は 十一月に集中していて、日本の伝統的な氏神祭の祭日とほぼ一致しているとし、平凡社「百科事典マイペディア」では「いわいがみ」を見出しとし、長野・山梨・兵庫などに見られる同族神で、「いわいじん」「祝殿(いわいでん)」とも呼ぶ。集落内の森などに祠(ほこら)を建て、数戸から十数戸の同族の家が、一族の守護神として祀る。祭神は稲荷が多く、他に春日・天神・八幡などと雑多である、とある。

「讃岐三豐(みとよ)郡莊内村大字箱(はこ)」「八幡宮」香川県三豊市詫間町(たくまちょう)箱にある箱崎八幡宮であろう。

「備後絲崎の絲崎八幡宮」広島県三原市糸崎(いとさき)の糸碕(いとさき)神社(地名とは漢字表記が異なるので注意)。「馬出馬神(うまだしばじん)」本文で注した通り、読みは私の勝手な読みであるので注意。しかし、現行では、同神社名と、この「馬出馬神」ではヒットしない。もう祀っていないのだろうか?

「絲崎谷」上の三原市糸崎の後背部には、別に広島県三原市糸崎町が広がるが、グーグル・マップ・データの航空写真で見られると一目瞭然、丘陵部で、多数の谷があることが判る。

『常陸鹿島郡大同村の六月十五日の「泣祭」』現在の茨城県鹿嶋市荒井・津賀・武井附近の、この画面上一帯が旧大同村であったと推測される。太平洋に面し、北浦の東岸に位置する。鹿嶋市教育委員会社会教育課のサイト「鹿嶋デジタル博物館」の、「立原の泣き祇園(市無形文化財)」によれば、現在は、旧大同村の北に接する立原地区で「立原の泣き祇園」として残っていることが判る。『「泣きぎおん」とはその昔』、『深い田にはまって死んだ農耕馬を悼み』(ともに娘も死んでいる)、その馬の命日とされる旧六月十五日に『供養するようになったのが始まりとされています』。現在では七月十五日に近い休日に『行われています』。『かつてはお神輿のような棺箱を担いで』、『「じゃらんぼ遺跡」をお参りしました。棺箱は実際にお葬式で使われていたものです』とある。リンク先には四分の動画があり、より詳しい内容と、現在の祭りの様子が見られる(それによれば、今は泣き真似はしないそうである。それはちと淋しい)。同サイトに「じゃらんぼ遺跡」もあり、その説明によると、『鹿嶋市大字和の立原地区に所在する水田の中の小さな塚で』、『史跡内には』「延宝六(一六七八)年六月十五日」と刻まれた『石碑が建っています。この史跡は』『「泣きぎおん」にかかわるもので』、『大昔は』、『北浦に堤防がなく、長雨が降り続くと』、『水があふれ出し、田んぼは泥深くなり大変でした』。『そのような時、立原村の農民の馬が深みにはまり、抜け出すことができず、ついに沈んで絶命したと伝えられ、以後立原村(大字和)では、馬が亡くなった旧暦』六月十五日を「立原の泣き祇園」の日と『決め、葬式のじゃらんぼ行列を装い、泣きながらお墓に詣でる祭事を行っています』とあった。動画では、その石碑は「虫供養と書かれた観音石像」とあり、柳田國男が後で言う通り、この馬塚には「虫送り」も習合していることが判る。さらに、この行列が現在も鉦と太鼓を先頭に配して、鳴らしながら行くのは「虫送り」と同じで、それはある意味、《葬儀の再演》を行って霊を鎮めることが目的と判ることから、この「じゃらんぼ」という一見奇妙な名は、その葬儀の鉦鼓の音の「ジャラン、ボン」であろうことが推定される。

「馬の面(つら)に似たる害蟲」恐らく、先端から後端(翅の端まで)が約一・三センチメートルにも及ぶ、昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目オオヨコバイ科 Bothrogonia 属ツマグロオオヨコバイ Bothrogonia ferruginea ではないかと思われる。同種は背面に大きな黒い楕円形の斑紋があり、これは見ようによっては、馬の目のように見えるからである。

「日本宗敎風俗志」ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。

『「蟲送り」に鉦鼓を鳴らすことは弘く行はるゝ風習にて、一般には、害蟲を戰場に歿したる者の亡靈の所爲(しよゐ)なりとす」「實盛の祭」ウィキの「虫送り」によれば、『虫による害は、不幸な死をとげてしまった人の怨霊と考える御霊信仰』『に関係した』、『「害のあるものを外に追い出す」呪』(まじな)『いの一つである。神社で行われる紙の形代に穢れを移す』『風習との共通性が見られる』。『春から夏にかけての頃(おもに初夏)、夜間』、『たいまつを焚いて行う。また、藁人形を作って悪霊にかたどり、害虫をくくりつけて、鉦や太鼓を叩きながら行列して村境に行き、川などに流すことが行われる地域もある。地域によっては』、『七夕行事と関連をもって行われる』。「平家物語」でも『知られる平安時代末期の平氏武将・斎藤実盛(斎藤別当実盛)は、篠原の戦いのさなか、乗っていた馬が田の稲株につまずいて倒れたところを』、『源氏方の敵兵に付け込まれ、討ち取られてしまったため、その恨みゆえに』、『稲虫(稲につく害虫)と化して稲を食い荒らすようになったという言い伝えが古くから存在した』。『そのため、稲虫(特にウンカ』(浮塵子:半翅(カメムシ)目ヨコバイ亜目 Homoptera に属する種群の内、イネの害虫となる体長五ミリメートルほどの小型の昆虫類を指す)『)は「実盛虫(さねもりむし)」』『とも呼ばれ、主として西日本では、実盛の霊を鎮めて稲虫を退散させるという由来を伝え』、『この種の「虫送り」を指して「実盛送り(さねもりおくり)」または「実盛祭(さねもりまつり)」と呼んでいる』(主に近畿・中国・四国・九州での呼称である)。『かつては全国各地に数多く見られたが、農薬が普及するに連れて害虫の脅威が低減したことに加え、過疎化、少子高齢化、米価の下落などによる農業の衰退と、その結果としての担い手不足も大きく影響し、次第に行わない地域が多くなっていった』。『火事の危険などを理由に取り止めた地域もある。現在行われているものも、原形を留めるものは少ないといわれている』。『農業と地域社会に深く関わる伝統行事であるため、その保存には農業および地域社会の活性化と維持が不可欠で、大きな課題となっている』。同行事の異名には「虫流し」「田虫(たむし)送り」「稲虫(いなむし)送り」「虫追い」「虫供養」等がある。

「伊勢大神宮の」「御神田(みかんだ)の神事」最も知られているのは「磯部の御神田(おみた)」の祭儀を指すか。三重県志摩市の伊勢神宮内宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)に伝わる民俗芸能の田楽。ウィキの「磯部の御神田」を読まれたい。また、内宮近くにある猿田彦神社の「御田祭(おみた)」もある。キタヰ氏のブログ「神宮巡々2」の「御田祭[おみた](猿田彦神社)」が写真が豊富で、よい。

「祝(はふり)」現代仮名遣「ほうり」。ここは神道に於いて神主・禰宜(ねぎ)の次位にあって神に仕える者の意。

「御田扇(おんたあふぎ)」「御田扇 馬」で検索したが、画像が見当たらない。

「磨墨(するすみ)」既出既注であるが、ここでのウィキの「磨墨塚」をリンクさせておく。

「池月(いけづき)」既出既注であるが、ここでウィキの「生食(ウマ)」をリンクさせておく。同名馬の漢字表記は「生食」「生唼」「生月」「生喰」がある。これらは風流な「池月」に対して、生き物を喰らうほどに獰猛な馬の意である。

「狐崎」静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」がある(グーグル・マップ・データ)。ここで梶原一族は襲われて、滅亡した。私の「北條九代記 梶原平三景時滅亡」を参照されたい。

『源三位賴政が平家の爲めに奪はれんとせし「木下」と云ふ名馬』「平家物語」の「巻第四」の「競(きほふ)」の中に出る、頼政の嫡子仲綱が所有していた鹿毛(かげ)の名馬を平宗盛が執拗に望み、手に入れると、馬にひどい仕打ちをし、仲綱をも侮辱した。これによって頼政は平家打倒の挙兵をする決意を密かに固めた、といった展開を示す部分である。サイト「学ぶ・教える.COM」の「平家物語」の原文・現代語訳を併置するこちらと、こちらで読める。

「山城葛野(かどの)郡木島(このしま)明神の附近、寶金剛橋(はうこんがうばし)の南の田中に神塚を築きて祭られたり」「木島明神」京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社。通称を「木嶋(このしま)神社」「木島神社」「蚕(かいこ)の社(やしろ)」とも。「寶金剛橋」は不詳。]

マアシヤ ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    マ ア シ ヤ

 

 幾年か前、私がペテルブルグに住まつてゐた時分、橇(そり)を雇ふやうな事がある每に、私はその馭者と話をすることにしてゐた。

 とりわけ私は、近在の貧乏な百姓で、自分達の食料や地代を儲ける氣で、茶色に塗つた橇(そり)とみすぼらしい馬とをもつて首都に出て來てゐる夜の馭者と話すのが好きだつた。

 或日、私はかうした馭者を雇つた……彼は二十歲(はたち)ばかりの脊(せい)の高い頑丈な立派な男で、碧い眼と赤い頰とをもつてゐた。ブ口ンドの髮は眉深(まぶか)にかぶつたぼろぼろな小さな帽子の下から、小さな渦を卷いてはみ出してゐた。こんな幅の廣い肩の上にどうしてそんな小さな破れ襯衣(しやつ)が着られたのであらう!

 けれどもその馭者の綺麗(きれい)な髯の無い顏は悲しげに打沈んでゐた。

 私は彼に話しかけた。彼の聲にも悲しい調子が籠つてゐた。

『君、どうかしたのか?』と私は訊(き)いた。『何故(なぜ)沈んでるんだね? 何か心配事でもあるのかい?』

 若者は直ぐには返事もしなかつた。『はい、旦那、お察しの通りで』と彼はとうとう言つた。『こんな情無い事は又とありません。家内(かない)が死んぢまつたんで』

『可愛がつてゐたんだらうね……そのお神さんを?』

 若者は私の方には向かないで、ほんの一寸頭を下げた。

『可愛(かあい)がりましたとも、旦那。もうそれから八月(やつき)になりますが……忘れられませんや。始終それが殘念でなりません……まつたくですよ! 何だつて死なゝきやならなかつたんだか? あんなに若くて丈夫だつたのに!……たつた一日で虎列拉(コレラ)にやられてしまひました』

『いゝお神さんだつたんだね?』

『そりや旦那!』と不憫(ふびん)な男は深い溜息を吐(つ)いて、『どんなに二人は仕合せでしたか! それに私の留守(るす)に死んじまつたんです! 此市(こゝ)でそれと聞いた時にやもう葬られてゐましたんで。直ぐに村へ驅け附けましたが。家(うち)に着いた時にやもう眞夜中(まよなか)過ぎでした。小舍(こや)へ入つて、部屋の眞中に立つた儘、そつと「マアシヤ! マアシヤや!」つて呼んで見ましたが、蟋蟀(こほろぎ)が啼いてるばかり……その時にや私や泣き出して、土間(どま)にべつたりすわつて、拳(こぶし)で地面(ぢべた)を打(ぶ)ちました……

そして私や言ひました……『この胴慾(どうよく)な土(つち)め! 貴樣は彼女(あいつ)を呑んぢまつたな……さあ俺も呑んぢまヘ!――あゝ、マアシヤ!』

「マアシヤ!」と彼は急に沈んだ聲で附け足した。そして手綱を持つたなりで兩眼の淚を袖で押し拭ひ、それを振(ふる)ひ、肩を縮めて、もう一言(ひとこと)も言はなかつた。

 橇を下りた時、私は彼に賃金の外に幾らかの酒手をやつた。彼は兩手で帽子を取つて丁寧にお辭儀をして、一月の寒氣(さむさ)を含んで灰色の霧のかゝつた寂しい街路(まち)の一體に積つた雪の上を、ゆつくりと曳いて行つた。

    一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:最後の「マアシヤ!」が通常の鍵括弧なのはママ。生田の確信犯であると私は思う。ちょっとしたことだが、非常な効果を与えている。個人的にこの一篇は非常に忘れ難い。]

世の終 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    世 の 終

 

       夢

 

 私は露西亞の或る荒野(あらの)の一軒しか無い百姓家(や)にゐるやうに思つた。

 部屋(へや)は廣くて低く、窓が三つ附いてゐる。壁は白く塗られてあつて、家具一つ無い、家の前は荒凉(くわうりやう)たる原で、だんだんと傾斜してゐる。單調な灰色の空がその上に寢臺(ベツド)の天蓋(キヤノピイ)のやうに垂れ下つてゐる。

 私きりではない。部屋の中にはまだ十人ばかりゐる。皆あたりまヘの人達で素朴な風をしてゐる。無言で、足音を忍ばせて、彼等は行きつ戾りつしてゐる。互に避け合つてはゐるが、絕えず心配さうに目を見交す。

 何故(なぜ)此の家へ來たか、一緒にゐるのはどんな人だか誰も知つてゐる者はない。どの顏にも不安と絕望とが見える……いづれも交(かは)る交(がは)る窓に寄つては、外から何か來(く)るのを待つてゐるやうに熱心に見廻す。

 それからまた不安氣に步き廻る。中に一人小さな子供がゐて、一本調子の細い聲で始終『お父さん、こはいよ!』としくしく泣きながら言ふ。この啜り泣(なき)で私の胸もわくわくして來て、私も恐(こは)くなり出した……何が恐(こは)いのか? 自分でもわからない。たゞ或る大きな、大きな災難が次第に近(ちかづ)いて來ることだけ

は感じられる。

 子供は矢張り泣きやまない。あゝ、此處から免(のが)れたい! どうも息苦(いきぐるし)い! 欝陶しい! 重苦しい……でも免れることは出來ないのだ。

 天(そら)は經帷子(きやうかたびら)のやうだ。それに風一つない……空氣は死ぬかどうかしたのだらうか?

 突然子供は窓に驅け寄つて、例の哀(あは)れつぽい聲で叫んだ、『あれ! あれ! 地而が落つこちた!』

『なに? 落つこちた?』實際、つい今迄は家の前には野原があつたのに、今は、家は大きな山の頂に立つてゐる! 地平線は墜落(つゐらく)し、陷沒(かんぼつ)して、家の直ぐ前は險しいまるで削り取つたやうな暗い絕壁になつてゐる。

 我々は皆窓に押寄せた……恐ろしさに我々の心は凝結した。『彼處(あすこ)だ! 彼處だ!』と私の隣にゐた者が囁いた[やぶちゃん注:「あすこ」はママ。]。

 そして見よ、遙か遠い地極(ちきよく)に添うて何ものかゞ動き出した、小さな圓い丘らしいものが舉(あが)つたり墜(お)ちたりし出した。

『海だ!』と云ふ念が同時に我々一同の胸に閃いた。『それは直ぐに我々を呑んでしまふだらう……だがどうしてこんなに高く來るものか! 此の絕壁の上まで!』

 けれどもそれは高まる、見る間に高まつて來る……もう遠方には起伏してゐるきれぎれの丘はない……打連つた恐ろしい一脈の波濤が全地平線を抱き込んでゐる。

 波濤は引(ひつ)さらひ、引(ひつ)さらつては、我々めがけて押寄せて來る! 地獄の闇黑(くらやみ)の中に渦卷いてゐる氷のやうな颶風(ぐふう)に乘じて逆卷き來る。あらゆるものは震撼した――かの轉がり來る塊の中には、雷のはためき、數限りなき喉から洩れる魂消(たまぎ)る叫喚があつた……

 あゝ! 何たる怒號(どがう)慟哭(どうこく)であらう! 地面そのものが恐ろしさに怒號してゐのだ……

 世の終り! 一切のものゝ終り!

 今一度子供は啜り泣いた。私は仲間の者につかまらうとしたその時、既に我我は殘らずその眞黑(まつくろ)な氷のやうな轟く波に壓(お)し潰され、葬られ、呑み込まれ、引つさらはれてしまつた!

 暗黑……永遠の暗黑!

 息もつげないで、私は目を覺ました。

    一八七八年三月

 

[やぶちゃん注:「呑み込まれ、引つさらはれてしまつた!」は底本では「呑み込まれ引つさらはれてしまつた!」であるが、「呑み込まれ」で行末であり、読点が組めなかったものと判断し、特異的に添えた。

「颶風(ぐふう)」強く激しい風。暴風。]

太平百物語卷三 三十 小吉が亡妻每夜來たりし事

Kokitibousai

 

 

   ○三十 小吉が亡妻每夜來たりし事

 伊賀に小吉といふ者あり。

 年比(としごろ)、都に通ひて商ひをしけるが、上京(かみぎやう)彌次(やじ)兵衞といふ者の女(むすめ)、みめ美(よか)りしを、いつのほどよりか、人しれず、契りけるに、後(のち)々は親々もしりて、幸(さいはひ)と、ゆるし、与へければ、小吉、かぎりなくよろこび、夫(それ)より、伊賀に連下(つれくだ)り、いよいよ、夫婦(ふうふ)の交(まぢは)り厚く、偕老同穴のかたらひ、又、類(たぐ)ひなかりしかば、一家(いつけ)の人々も共に悅び、次㐧に、家、はんじやうしけるが、此女房、只(たゞ)かり染(そめ)に煩ひ出し、日每に病(やまひ)おもりて、今ははや、賴[やぶちゃん注:「たのみ」。]すくなふ[やぶちゃん注:ママ。]見へければ、小吉、いとかなしくて、晝夜(ちうや)傍(そば)をはなれず。

 醫療・祈禱、心を盡しけれ共、生者必滅(しやうじやひつめつ)の理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])り遁るべきにあらずして、終に空しくなりければ、小吉は、人めも打忘れ、書口說(かきくど)きけるは[やぶちゃん注:「搔口說」の当て字。]、

「誠に御身に心を通(かよは)して、互におもひ思はれまいらせ、『頭(かしら)に霜をいたゞく迄』と、連理の契り、枝、朽ちて、かく、あへなく成玉ふ上は、我、存命(ながらへ)て何ならん[やぶちゃん注:「ながらへ」は「存命」二字へのルビ。]。はや、追付(おつつき)參らせ、死出(しで)三途(づ)をも、誘(いざな)ひ申さん。」

と、「既に自害」と見へしを、人々、あはて、おしとゞめ、樣々に諫(いさめ)ければ、小吉も今は詮方(せんかた)なく、それより、一間に閉籠(とぢこも)り、一向、人にも出合(いであは)はず、明暮(あけくれ)、亡妻をのみ、乞(こひ)したひければ、一人の老母をはじめ、一族の人々、打寄(うちより)て、

「かくては、行末、如何あらん。」

と氣をいためけるが、或夜、小吉がふしどに、物語する体(てい)の聞へしまゝ、老母、 あやしく思ひて、

「そ。」

と、のぞき見るに、小吉、一人にて、他人なし。

 其子細をきけば、偏(ひとへ)に死失(しにうせ)たる女房と、かたらふ体(てい)なりしが、小吉が聲のみして、亡妻の姿も聲もなかりしが、それよりして、每夜每夜、かくの如くにて、小吉は、身体(しんたい)瘦衰(やせおとろ)へ、次㐧次㐧に弱りはてければ、樣々の醫療又は有驗(うげん)の山伏を請(しやう)じ、祈り、加持すといへども、更に驗(しるし)もなければ、老母の歎き、いはん方なく、一家(いつけ)の人々、打ち寄(うちより)て、

「如何(いかゞ)せん。」

とぞ、煩ひける。

 然(しか)るに、其比(そのころ)、都(みやこ)北山に、道德堅固の律僧、おこなひすまし坐(おは)しけるを聞出(きゝいだ)し、一門の人々、急ぎ、彼(かの)所に行(ゆき)て、ありし次㐧を語り、御祈禱(ごきたう)を願ひ申ければ、此僧、始終を聞玉ひ、

「誠に痛はしき事なれば、祈禱をして參らせん。まづ、病人の樣体(やうだい)を見るべし。」

とて、此人々と打連(うちつれ)て、伊賀に立越(たちこへ[やぶちゃん注:ママ。])玉へば、老母を始め、一家中(いつけぢう)、

「こは、有難し。」

と請じ奉れば、頓(やが)て小吉が病下(びやうか)に至り、其有樣をつくづく御覽じ、小吉に仰有(おほせあり)けるは、

「誠(まこと)や。御身、近比、愛室(あいしつ)に後(おく)れ玉ひしに、猶も、亡魂、御身に付そひ玉ふとやらん。いと、しほらしき事にこそ侍れ。然(しかれ)ども、未(いまだ)其虛実、分明(ぶんみやう)ならず。是を正しく知るに、われ、一つの靈符(れいふ)あり。今宵、亡妻來り給はゞ、此(この)封(ふう)ぜし物を、折能(おりよく)出(いだ)し見せ玉ひ、『いかなる物や此内にある。さして見玉へ』と問(とひ)玉へ。眞實(しんじつ)、おことの妻ならば、必(かならず)知つて、答へ玉はん。若(もし)又、答(こと[やぶちゃん注:ママ。])ふる事、能はずんば、㙒干(やかん)[やぶちゃん注:妖狐。]・魔魅(まみ)[やぶちゃん注:人を誑(たぶら)かす魔物。]の類(たぐ)ひ、御身を、たぶらかし申なり。御身とても、此内(うち)を見玉ふ事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。」

とて、能々[やぶちゃん注:「よくよく」。]封じて、小吉に渡し玉へば、小吉、御符(ごふう[やぶちゃん注:ママ。])を押(おし)いたゞき、

「誠に有難く侍(さぶ)らふなり。恥かしながら、亡妻、在世に申かはせし事さぶらへば、死しても我に付そひ侍る事、更に疑ひなく候へ共、御示(しめ)しに任(まか)せ、猶も試み申さん。」

とて、其夜(よ)を待ちける。

 案のごとく、妻のゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。]、每(いつも)の刻限に來りて、打かたらふ。

 時に、小吉、いひけるは、

「誠に御身死すといへども、猶、我に付添玉ふ心ざしの有難さよ。其心、弥々(いよいよ)実(まこと)ならば、此(この)封ぜし内に、いかなる物や、ある。敎へ玉へ。」

と、かの幽㚑(ゆうれい)が前にさしおけば、此幽㚑、急に飛(とび)のき、身をふるはし、

「あら、いまはしの物や。はやはや、取捨(とりすて)たび玉へ。」

と、いと苦しげに聲ふるはし、邊りへ更によりつかねば、次の間(ま)に窺(うかゞ)ひ居玉ふ律僧、

「さればこそ。」

と、水晶の珠數(じゆず)、

「さらさら。」

と押(おし)もみ、「惡魔悉除(あくましつじよ)の法」を修(しゆ)せられければ、忽(たちまち)、白狐(びやくこ)と化(け)して、搔消(かきけす)やうに、失(うせ)にけり。

 小吉、このあり樣を見て、茫然とあきれたる所に、律僧、たち出、さとして仰(おほせ)けるは、

「御身の妻は、とく、成仏して中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。意味は既注。])には居玉はず。然(しか)るに、御身、愛執(あいしう[やぶちゃん注:ママ。])の心、ふかきゆへ、㙒干(やかん)の見入て[やぶちゃん注:「みいりて」。]、かくは惱し申たり[やぶちゃん注:「惱」には「なや」のルビのみで「ま」を落としてしまっている。]。今より惑(まどひ)を解(とき)て、本心に元づき玉はゞ、一家(いつけ)の相續、且(かつ)は、先祖・眼(ま)のあたりなる老母への孝心ならめ。」

と、さまざまに敎誡(きやうかい)し玉へば、小吉も、心の闇はれて、此間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])、迷ひの雲、淸朗(せいらう)として、秋の月のくまなきに逢(あへ)るが如くなりければ、日を經て快復し、家業をつとめ、老母をいたはり、亡妻の跡をも吊(とふら)ひければ、次㐧次㐧に繁昌し、目出度く、さかへける、となり。

「誠に有り難き御僧(おんそう)の行跡(ふるまひ)かな。」

とて、聞(きく)人、尊(とうと)みけるとかや。

 

 

太平百物語卷之三終

[やぶちゃん注:一読、お判りと思うが、これは明の瞿佑(くゆう)作の志怪小説集「剪燈(せんとう)新話」の中の、知られた一編「牡丹燈記」を下敷きに妖狐譚にずらし、しかもハッピー・エンドに改変したものである。今は近代の三遊亭円朝作の「牡丹燈籠」がよく知られるが、江戸時代にはこの「牡丹燈記」が非常に好まれ、多くの翻案(私の「諸國百物語卷之四 五 牡丹堂女のしうしんの事」を参照。「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集である。但し、著者・編者ともに不詳である)や怪談話の粉本とされ、井原西鶴・浅井了意・山東京伝・鶴屋南北・柳亭種彦らによって盛んに小説や戯曲に改作されている。]

妹とわれ 伊良子暉造(伊良子清白)

 

妹とわれ

 

行くを追ひつゝ追はれつゝ、

 姿やさしきわぎ妹子の、

  うつや扇の追かぜに、

   こゝろみだれて飛ぶ螢。

 

小草のかげに忘れたる、

 ほたるの籠をうしろより、

  袂の中にさし入れつ、

   かたを叩きてわぎ妹子よ。

 

里の小川の丸木橋、

 わたりわづらふ手をとりて、

  危ぶみながらとめくれば、

   背負ひ給ひてわが兄子よ。

 

渡り終へてもなかなかに、

 はなしかねたる妹が手の、

  おゆびに光る色見れば、

   昨日贈りしわが指輪。

 

草の枕のゆくりなく、

 旅路のはなにあこがれて、

  手折り初めてしきのふ今日、

   いつの日にかは離るべき。

 

貌あからめてうちかくす、

 妹が袂を引きとめて、

  いかでいく日もとまらばや、

   あすは五月雨ふれよかし。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年九月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

初花姬 伊良子暉造(伊良子清白)

 

初 花 姬

 

袂はなみだ裾はつゆ。

ぬれこそ勝れ君故に、

たづねわづらふ大井川、

霧にもくもる夕月の、

ほのかに招く花薄。

嵯峨野の奧の燈火は、

君がおはする菴ならむ。

 

更け行く月をながめつゝ、

しぼるにあまる袖時雨。

柴の折戶にさしよりて、

火影洩れ來る隙間より、

しばしは内をすかし見つ。

君を尋ねてみやこより、

初花ひめがまゐりたり、

三位の卿はおはさずや。

 

常ならぬ身にみごもりて、

形見をやどす一人子も、

ふりすて給ふわが君の、

心はつゆも恨まねど、

よしなき戀にあこがれて、

消えなむ果ぞ朽惜しき。

のがれ給ひし墨染の、

衣の袖も知らずして。

 

いそげど遠き法の山、

修むる道のさはりとや、

姬のうらみもよそにして、

心づよくも思ひ絕ち、

細りはてたる燈火も、

袂の風にかき消しつ。

千々の思にたえかねて、

みだれ勝なる鐘の音、

いとゞ淚に咽ぶらむ、

經讀む聲もしめるなり。

 

落ち行く月に誘はれて、

西ヘ西へとたどる身の、

この世からなるみつ瀨川、

かへらぬ水に任せつゝ、

やがて消えなむうたかたの、

きえぬ恨をのこしおき、

莟の中のひとり子の、

さかりの春も知らずして、

手折りし人の無情さに、

ところがらなる嵐山、

冥路をかけて散りて行く、

初花ひめぞ哀なる。

柵むものもなみの上、

行衞も知らぬなき人の、

魂はいづこをまよふらむ。

 

嵐ぞとざす高野やま、

峰の松風の音澄みて、

眞如の月のかげ淸し。

谷の小川のそば傳ひ、

御寺をさして歸るらむ、

閼伽汲む桶にさし添へし、

櫁の花のふたつみつ、

ころもの色も墨染の、

綾の故にひきかへて、

いかなるうきやこもるらむ。

 

菅の小笠に竹のつゑ、

旅にやつれしわらべ子の、

法師の袖をひきとめて、

こゝの御寺に源の、

三位の卿はおはさずや、

父をたづねてはるばると、

習はぬ旅も辿り來て、

母が遺しゝ言のはの、

世に亡きあとの恨をも、

聞えまつらむわが願、

いかで一めは父上に、

あはし給へといふ貌を、

夕ぐれながらすかし見て、

思はず立てし一聲に、

父よとばかり縋る手を、

物をも言はずふりすてつ、

心のうちはいとし子よ。

 

鳥部の山の夕まぐれ、

苔むすつかにぬかづきて、

かきくどきつゝ童子の、

いのる姿を見かへりて、

袖をしぼる旅僧は、

いかなる人の果ならむ。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年八月二十五日の『文庫』第一巻第一号掲載(『少年文集』を引き継いで改題)。署名は本名の伊良子暉造。不学にして、本篇、如何なる物語を素材としているか不詳である。識者の御教授を乞う。苅萱道心(石動丸)説話の変形譚の一つか?]

四季の鳥 伊良子暉造(伊良子清白)

 

四季の鳥

 

 

  

 

雉子なく野の朝霞、

  人くと來なく鶯の、

こゑをしるべにきてみれば、

  空に雲雀もさへづりて。

 

 

  

 

古巢にこもる鶯の、

  老聲のみか水鷄なく、

野澤の月に時鳥、

  なく初聲もきこゆなり。

 

 

  

 

鴫たつ澤の夕まぐれ、

  うづらの床に月澄みて、

秋風淸くかりがねの、

  遠くわたるも見ゆるなり。

 

 

  

 

鳰の通路こほりゐて、

  千鳥しばなく島陰に、

ねぶれる鴛鴦の一つがひ、

  いかにとけたる中ならし。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年八月二十五日の『文庫』第一巻第一号掲載(『少年文集』を引き継いで改題)。署名は本名の伊良子暉造。

「雉子」私の「和三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)(キジ)をどうぞ。綿の注で学名その他生態を詳しく説明してある。以下、同じ。

「鶯」「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす)(ウグイス)」

「雲雀」和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」

「水鷄」和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞(クイナ・ヒクイナ)

「時鳥」和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)(ホトトギス)」

「鴫」和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷸(しぎ)(シギ)」

「うづら」「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉(うづら)(ウズラ)」

「かりがね」「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)(ガン類)」

「鳰」「にほ」(現代仮名遣「にお」)。鸊鷉(かいつぶり)の古名・異名。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)(カイツブリ)」を見られたい。

「千鳥」「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)(チドリ類)」

「鴛鴦」韻律から「をし」(現代仮名遣「おし」)と訓じているものと思う。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)(オシドリ)」。]

2019/05/13

太平百物語卷三 二十九 狩人熊を殺して發心せし事

    ○二十九 狩人(かりうど)熊を殺して發心せし事

 いよの國に、和田八といふ狩人あり。鐵砲、殊に能(よく)うちけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、外の狩人よりは、おほく、獸(けだもの)を取りける。

 或日、いつものごとく、山に分入(わけいり)、狩をしけるが、大きなる巖(いはほ)のうちに、熊の伏居(ふしゐ)たるを見付出(いだ)し、

『能(よき)仕合(しあはせ)かな。』

と、おもひ、頓(やが)て、鐵砲に火をうつさんとせし時、かの熊、和田八を、

「きつ。」

と見て、其儘、兩手をあはせ、又、わが腹をおしへ[やぶちゃん注:ママ。「教(をし)へ」であろう。熊が腹を手で指したのであろう。]、身をもだへ、いたく苦しむ体(てい)なりしが、和田八、元來、無骨の者なれば、なじかは用捨(やうしや[やぶちゃん注:ママ。この字の場合は歴史的仮名遣では「ようしや」でよい。」])すべき、終に、うち殺して肩に引かけ、歸りけるが、女房、和田八をみるより、其儘、かき付、むさぶり付く程に、

『こは狂氣せしにや。』

と思ふ所に、女房、俄に口ばしり、

「扨々、おことは情をしらぬ者かな。われ、子を孕(はらみ)て、既に產落(うみおと)さんとせし所を、御身、見付て、うちころさんとす。我、是を知るといへども、臨產(りんざん)、身重くして、迯(にぐる)事、叶はず。此故に、無事を敎へて、命を乞(こへ)ども、敢て免さず、是非なく、殺されたり。われ、此恨み、何ぞ盡(つき)んや。」

と、いひて、三返斗[やぶちゃん注:「さんべんばかり」。]、かけ廻(めぐ)り、其儘、かしこに、倒れふす。

 和田八、此体(てい)をみて、

『扨は。熊が執心、女房につきて、苦しめけるよ。』

と、おもひ、まづ、熊の腹を裂(さき)てみるに、果(はた)して、子熊一疋、胎中(たいちう)にありしが、死せずして飛出たり[やぶちゃん注:「とびいでたり」。]。

 和田八、流石(さすが)に、あはれを催し、此子熊を、さまざまいたはりしが、乳(ち)なければ、ぜひなく、三日目に、死(しゝ)たり。

 然(しか)れども、和田八が、少しの慈愛に、感じけるにや、熊の執心、はなれて、女房、本心になりければ、和田八、大きによろこび、有し[やぶちゃん注:「ありし」。]次第をいひきかせ、始て佛心にもとづき、夫婦諸共(もろとも)、髻(もとゞり)を切(きり)、熊親子をはじめ、是まで打ちころせし獸(けだもの)の菩提のため、諸國行脚して、道心堅固に終りけるとぞ。

 誠に、此熊こそ、夫婦の者が「善知識」なりけると、有がたかりし因緣なり。

[やぶちゃん注:「いよの國」「伊豫國」で現在の愛媛県。

「熊」四国には食肉目クマ科クマ亜科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus が棲息するが、絶滅の危機に見舞われており、現在、保全が行われている(九州では既に絶滅してしまった)。

「無事を敎へて」この「無事」は「臨產(りんざん)、身重くして、迯(にぐる)事、叶はず」ということ、即ち、「なすべきことがないこと」、抵抗したり、逃げたりすることが出来ないということ、を指していよう。

「善知識」仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指す。サンスクリット語の「善き友」「真の友人」の漢訳。]

草枕 伊良子暉造(伊良子清白)

 

草 枕

 

 

  旅がらす

 

旅よりたびの旅烏、

    今日は山路になりにけり。

  檜原松原こまつ原、

      みちは迷ひぬ日は暮れぬ。

 

 

  笠やどり

 

ひと村雨の笠やどり、

 ほの見し人のゆかしさに、

結びとめたる靑柳の、

 糸はほどかで別れ行く。

 

 

  淸 き 渚

 

匂ふ花貝さくら貝、

 ぬるゝ袖貝きぬた貝、

 きよき渚のおもしろや、

 しばしは洗へ沖つなみ。

 

 

  三島が浦

 

小松がくれに船とめて、

 浪も靜けきゆふまぐれ。

三島が浦をながむれば、

 うのゐる岩の彼方より、

もしほ燒くらむ立つけぶり。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年八月二十五日の『文庫』第一巻第一号掲載(『少年文集』を引き継いで改題)。署名は本名の伊良子暉造。

「花貝」標準和名では斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科カノコアサリ亜科ヌノメガイ属ハナガイ Placamen tiara がいる。表面は灰白色乃至淡黄色で、殻長一・八センチメートルほどの円形を成し、十条ほどの輪条の強い隆起を成し(和名はそれを花びらに譬えたもの)、数条の放射状の点列も持つ。能登半島・房総半島以南からインド洋に見られ、水深十~五十メートルの浅海の細かな砂地に棲息する。グーグル画像検索「Placamen tiaraを示しておく。但し、私は(私は貝類収集家である)この板状隆起を美しいとはあまり感じないし、これを「匂ふ花貝」とは形容しない。ところが、この「花貝」は、別に次の「さくら貝」類(次注参照)の異名でもあるのである。それなら、私はこの一行が文句なしに受け入れられる。

「さくら貝」標準和名では、マルスダレガイ目ニッコウガイ科ニッコウガイ科Nitidotellina 属サクラガイ Nitidotellina nitidula を指す。同種は北海道南部から九州以南までと、朝鮮半島及び中国沿岸に分布し、潮間帯から水深十メートル潮線下の内湾の砂泥底に棲む。殻長は三センチメートル、殻高は一・八センチメートル、殻幅は6ミリメートルに達する。殻は楕円形を成し、扁平・薄質の半透明で、殻表は光沢を持ち、桜色、稀れに白色を呈する。殻頂から後腹の隅にかけて、やや濃い色帯を放射する。左殻を下にし、斜め横になって砂泥底に潜って長い水管を出す。グーグル画像検索「Nitidotellina nitidulaをリンクさせておくが、但し、一般に「桜貝」と呼ばれるのは本種に限るものではなく、同科の近似種が多く、古来、それらが一緒くたにされて詩歌の題材となっている。それらは、ニッコウガイ科Tellinidae Pinguitellina 属ミガキヒメザラPinguitellina pinguis・シボリザクラPinguitellina robstaJactellina 属ゴシキザクラ Jactellina obliquistriataLoxoglypta 属のミクニシボリザクラ Loxoglypta compta・ハスメザクラ Loxoglypta transculpta・サクラガイと同属のNitidotellina 属のカバザクラ Nitidotellina iridella(サクラガイによく似る。但し、外洋砂浜性)・ウズザクラ Nitidotellina minuta・キザクラ Nitidotellina soyoae・ハツザクラ Nitidotellina pallidulaMoerella 属のモモノハナガイ(エドザクラ)Moerella jedoensis(サクラガイによく似るが、やはり外洋砂浜性)・トガリユウシオガイ Moerella culter・テリザクラ Moerella iridescens・リュウキュウザクラ Moerella philippinarum・ユウシオガイ Moerella rutilaTellinides 属のヒラザクラ Tellinides ovalis・ヘラサギガイ Tellinides timorensisAngulus 属のクモリザクラ Angulus vestalioidesCadella 属のトバザクラ Cadella lubrica などが挙げられ、また紅色が強く、長い、同じニッコウガイ科のPharaonella 属のベニガイ Pharaonella sieboldii やトンガリベニガイ Pharaonella rostrata 等でさえも「桜貝」と呼ばれていた可能性が高い。

「袖貝」まず、腹足(巻貝)綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目スイショウガイ(ソデガイ・ソデボラ)科Strombidae に属するもので、殻口の外唇が外方へ張り出している種を「袖貝」と呼ぶ。褐色で白斑が並ぶ殻長八センチメートルほどの Euprotomus 属マイノソデガイ Euprotomus aurisdianae などが代表種であるが、広くはスイショウガイ科Strombidae に属する全体をも指し、殻長六センチメートルほどの、紡錘形で褐色のシドロガイ Strombus vittatus japonicus や、イモガイ(新腹足目イモガイ科 Conidae 或いはイモガイ亜科 Coninae 又はイモガイ属 Conus に属するイモガイ類)に形が似ている殻長六センチメートルほどの、スイショウガイ科ソデボラ属亜属 Conomurex マガキガイ Strombus luhuanus 等が含まれる。孰れも房総以南に分布し、熱帯に種類が多い。グーグル画像検索「Strombidaeをリンクさせておくが、但し、斧足(二枚貝)綱原鰓亜綱クルミガイ目シワロウバイ超科シワロウバイ(ロウバイガイ)科Nuculanidae に属する二枚貝のSaccella ゲンロクソデガイ Saccella confusaYoldia 属エゾソデガイ Yoldia johann 等を指す場合もある(孰れのリンクも当該学名のグーグル画像検索)。思うに、伊良子清白の言うそれは、後者の二枚貝類かも知れない。ビーチ・コーミングでは前者の巻貝類のそれらは、そうそう拾えるものではないからである。但し、次注最後も参照されたい。

「きぬた貝」房総半島以南と、台湾・中国大陸南岸の潮間帯下部から水深二十メートルの砂泥地に棲息する二枚貝の斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科キヌタアゲマキ科キヌタアゲマキ属キヌタアゲマキ Solecurtus divaricatus か(リンク先は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」)。但し、お馴染みの、腹足(巻貝)綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae のタカラガイ類をかく呼ぶこともある。拾えれば嬉しいが、タカラガイ類もそうそう拾えぬ。しかし、映像的にはその方がいいし、前行が二枚貝であるから、ここを孰れも巻貝ととった方がヴィジュアル的にはいい。

「三島が浦」不詳。識者の御教授を乞う。この年は四月に京都医学校(現在の京都府立医科大学)に入学しているが、前に述べた通り、五月に大阪湾に近い河合酔茗宅を訪ねており、また、夏季休業中には父政治のいた三重県北牟婁郡相賀村(現在の三重県北牟婁郡紀北町相賀)に帰っており、ここも一部が海に近い。一つ、三重県志摩市(大王町)の志摩半島の南東の熊野灘側にある岩礁三島山(さんとうさん/さんとうざん)(岩礁が三つに分かれて突き出た格好になっている)があるが(グーグル・マップ・データ)、この時期に彼が志摩半島を旅した事実は年表からは窺えない(例えば、夏休みに政治のところから行った可能性はあろう。ただ、「さんとうがうら」では韻律は悪い)。]

荒野 伊良子暉造(伊良子清白)

 

荒 野

 

一むら薄穗にいでゝ、

人さし招く夕まぐれ。

古井のわたり雁がねの、

なくなる聲もあはれなり。

 

野中の末に一本の、

松の木立も物さびて、

佛をまつる草の菴、

いつの昔のあとならむ。

 

黑みはてたるみ佛は、

ねずみのはみし跡見えて、

かべにかけたる蜘蛛(さゝがに)の、

果がきをはらふ者もなし。

 

苔蒸す塚は並べども、

手向の水のあともなく、

露のやどりと成はてゝ、

訪ひくるものは嵐のみ。

 

かくも荒れたるこの菴の、

かくもさびしき夕暮に、

露けき草にそぼぬれて、

たゝずむ人や誰ならむ。

 

長き黑髮ふりみだし、

靑きころもをまつはりて、

やせたるおもは何となく、

凄き姿に見ゆるなり。

 

かしらにともす灯の、

むねの炎の燃え上り、

物狂はしき聲立てゝ、

彼方こなたを叫ぶなり。

 

敏鎌を硏ける三日月の、

光は細くきらめきて、

雲をかすめて星影の、

かすけき色も見ゆるなり。

 

さゝやく蟲の聲高く、

夕霧うすくたちこめて、

朽ちたる橋をくゝり行く、

水音遠く聞ゆなり。

 

荒れたる菴のそば近く、

松の木立にさしよりて、

のろひの聲のいや高く、

乙女は釘をうち初めぬ。

 

女心の一すぢに、

恨みし人やあるならむ。

いかりの眼血にあへて、

槌音高くひゞくなり。

 

いつしかかゝる村雲に、

月の光はかきくらし、

靑き炎の飛ぶ見えて、

人の姿はうせにけり。

 

血汐の紅葉あと古りて、

奧城どころ霜寒く、

形見に殘るものとては、

ざれしかうべのたゞ一つ。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年七月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。夕暮れに佇む女の姿は呪詛の「丑の刻参り」のそれであるが、牛の刻でないのは、しかし、問題はない。彼女自身がこのいずれかの塚に纏わる亡霊だからである。]

鐘樓守 伊良子暉造(伊良子清白)

 

鐘 樓 守

 

なびく尾花の未遠く、

 雁金おつるこの夕、

入相告る鐘の音は、

 いかに悲く聞ゆらむ。

 

うしろの松の林より、

 まどかに月の影さして、

 まへの小川の水の面に、

黃金の色もうかぶなり。

 

花の都をはなれ來て、

 この山里にさすらへば、

月の光は隈なくて、

 くもるはおのが心なり。

 

戀しき人におくれては、

 たどるうき世のいとはしく、

この山寺にのがれ來て、

 心ほそくも暮らすなり。

 

年老いませし母上に、

 事ふる爲の業なれば、

富みたる人にへつらひて、

 惠をうくることもなし。

 

緖綱にぎりて二つ三つ、

 今も撞きたるこの鐘を、

草葉のかげにわぎ妹子は、

 いかにうれしく聞くならむ。

 

泪はらひて中空の、

 月の鏡をながむれば、

兎のかげをゆびざしゝ、

 妹がおもわも見ゆるなり。

 

くらく成り行く灯の、

 火影に見えし面影を、

袖引きとめてわぎ妹子と、

 よばむとすれば夢にして。

 

淸き心を墨染の、

 ころもに包む隙なくて、

おとしかねたる黑髮の、

 かはる色こそうたてけれ。

 

鐘撞きをへてながむれば、

 尾花の末のほのぐらく、

うき世の中のさま見せて、

 一ひらかゝる月の雲。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年七月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。「事ふる爲」は「事舊るため」で「言い古された孝行のための在りがちな理由」の意であるが、だからと言ってそれが、已然形接続の原因・理由の接続助詞「ば」を伴って「富みたる人にへつらひて」「惠をうくることもなし」に繋がる論理的整合性は必ずしもあるとは言えず(ないわけではないが、腑に落ちる程度のものを私は想起し得ない)、読んでいて私はこの連で大きく躓いた。寧ろ、恋人に先立たれてしまった絶望から、「富みたる人にへつらひて」「惠をうくることも」にも興味が失せており、しかし「年老いませし母上」がいる以上、無為に生きるわけにはいかないから「事ふる爲の業」として、頼み込んで、山寺の修行僧となり、しかも特別に(寺の小坊主は無償で働くのが当たり前)雀の涙ほどの給金を「母のため」と頼み込んで(相応に人格のある僧なら慈悲で或いは請け合うやも知れぬが、普通はこれもまずあり得ない)恵んで貰っている、という意味でとるしか(私には)ない。しかし、これは近世や近代でもちょっと考えにくく(都合がよすぎる)、どうも現実離れした感じがして、今一つ、私の胸には、青年の撞く鐘の音は、響いてこない。

2019/05/12

太平百物語卷三 廿八 肥前の國にて龜天上せし事

 

   ○廿八 肥前の國にて龜天上せし事

 肥前の大村は、多く、鯢鯨(くじら)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を取(とつ)て業(わざ)とする所なり。いつも、十月のころは、鯨、おほく集(あつま)るゆへ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、りやうし、專ら、出て[やぶちゃん注:「いでて」。]、これを取(とる)。

 一年(ひとゝせ)、例のごとく、網を下(おろ)し、小舩(せうせん)、數多(あまた)漕列(こぎつら)ねて、互に其業をはげみけるが、一日(あるひ)、むかふの方に、しき浪、逆だちて、いついつよりも、殊に冷(すさま)じかりければ、

「すはや、大くじらならん。」

とて、

「我、おとらじ。」

と舟(ふね)を飛し[やぶちゃん注:「とばし」。]、東西に散亂(さんらん)し、南北に走りて、一、二の銛(もり)をぞ爭ひけるに、程なく、海上(かいしやう)、治(おさま)りて、いと靜(しづか)なりければ、

「こは、ふしぎ。」

と思ふ所に、俄に、海陸(かいりく)、震動して、雷(いかづち)の音、天地も崩るゝ斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]なりしが、其たけ、三丈斗[やぶちゃん注:九メートル超。]なる、さも冷(すさま)じき異形(ゐぎやう[やぶちゃん注:ママ。])のもの、顯れ出(いで)たり。

 人々、これを見るよりも、

「あら、おそろし。」

といふ程こそあれ、我も我もと、舟をはやめて、迯吟(にげさまよ)ひしが、此(この)異形の者、次第に陸(くが)に上(あが)り、むかふの山にかけ上(のぼ)る、と、見へし、天より、黑雲(くろくも)、おほひ、稻光(いなびかり)、すさまじくして、雲に分入[やぶちゃん注:「わけいり」。]のぼりしが、雨の降(ふる)事、車軸(しやぢく)をなし、雷(いかづち)の音、百千なれば、皆々、經(きやう)・念佛(ねんぶつ)して泣(なき)かなしむ所に、程なく、空、晴(はれ)、雲、おさまれば、いかづちも止(やみ)て、海、又、靜(しづか)なりしかば、人々、甦(よみがへ)りたる心地して、其日のりやうは、やみにける。

 後に、能(よく)々聞(きけ)ば、劫(ごう)つもりたる龜(かめ)、形を變じて天上(てんじやう)するにてありしとかや。

[やぶちゃん注:以下は、全体が明らかに少し小さな字で書かれてあって、しかも全体が本文文字で二~三字分(ぶん)下に記されてある(ブログ・ブラウザの不具合を考えて引き上げてある)。無論、本文同様、実際には改行はなく、ベタで書かれてある。]

 或(ある)人のいはく、

「龜、劫をつみて、天にのぼらんとする時、さまざまの蟲魚(ちうぎよ)、此龜に取つき、共に上(のぼ)らん事をねがふゆへに、此[やぶちゃん注:「この」。]妨(さまた)げ、龜が身にせまりて、龜、天上する事を、あやまつ。此ゆへに、けしき冷(すさま)じくして、他のうろくづをおそれしめ、天上すれば、此災難を、のがるゝ。」

とぞ、語られ侍りき。

 かゝる事もあるにや。猶、ぜひの眞僞をしらず。

[やぶちゃん注:最後の追記か評言のような部分は、本書の中では特異点であって、この話をかなり以前に聞き書きし、それから有意な後、この話をある人にしたところ、こうした、より詳しい亀昇天の仕儀に関わる話を聴いた、という〈体裁〉に見えはする。しかし、総ては基本的に作者の創作であるとする見解に立つならば(中国や日本の先行書籍に種本はある)、これは荒唐無稽な怪奇現象に対して、見かけ上、論理的に納得し得るような異譚を添えて、閉じられたこの怪談世界の中では信じられそうなニュアンスを与え、またそうした変化球で読者を飽きさせないようにする一種の作者の構成上の仕掛けともとれなくもない。だとすれば、この正体不明の菅生堂人恵忠居士、あなどれない、なかなかの作家だと思う。少なくとも私はこの追記を甚だ面白く読んだから、私に対しては作者の装置は充分に機能したと言える。

「肥前の大村」肥前国彼杵(そのぎ)地方を領した大村藩の藩庁があった現在の長崎県大村市の海辺が舞台(グーグル・マップ・データ)。しかし、この大村地区が面している大村湾、これ、地図を見ても判る通り、非常に広い湾(南北約二十六キロ、東西約十一キロ、面積約三百二十一平方キロメートル)ながら、西側を西彼杵半島、南側を琴の尾岳山麓、東側を多良岳山麓に囲まれ、さらに湾口を針尾島が塞いでおり、北西の外洋と繋がる佐世保湾(佐世保湾の外海との湾口も最大でも一キロメートルほどで広くはない)との繋がりは、針尾島西岸の針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)と東岸の早岐瀬戸だけで、極めて閉鎖的な海域であり、鯨が来るとしても、そんな大きなものは入ってこないように思われた。そこで、調べて見たところが、個人ブログ「amebatoysの佐世保ブログ」の「東彼杵でなぜ鯨?」で、「東彼杵は、大村湾にしか面していないのに、なぜ鯨料理が有名なのですか? 大村湾にも鯨はいたのですか?」というコメントに対する答えが書かれてあり、そこに、大村湾内でも鯨がかつては獲れたとあり、何よりも江戸初期、この大村地区の北西の彼杵地区に捕鯨基地があったとあったのである。鯨料理が名物なのは、『江戸時代初期に彼杵に九州で最初の捕鯨基地を作られたことに、由来するそうです』。『当時』、『くじらの宝庫であった五島灘や対馬海峡で捕えたくじらを』、『彼杵港から九州各地へ運んだことから、くじらの流通拠点として』、『にぎわうようになりました』。『捕鯨産業によって発展した東彼杵では、今も』、『くじらは郷土料理として』、『人々に愛され続けているとのことです』とある。さすれば、本書の作者は、大村に行ったことはなく(私もないが)、しかし、鯨の肉が大村湾の海辺の地区からもたらされる事実のみを知っていて、そこに見たことはない巨大な海の生き物、鯨がやってくるのだ、それが獲れるのだ、と早合点したとすれば、非常に腑に落ちるのである。

「鯢鯨(くじら)」通常は「鯨鯢」で「ゲイゲイ」と読み、「鯨」が♂の、「鯢」が♀のクジラを指す熟語である。

「しき浪」「頻波」「重波」「敷波」などと書き。次から次へと、頻(しき)りに寄せて来る波のこと。

「一、二の銛(もり)」一番銛を争うこと。一番銛で死なない場合、二番銛が打たれ、それが致命傷となれば、二番銛にも他に優先する所有権が生じよう。

「迯吟(にげさまよ)ひし」前にも出たが、当て訓としては不審。「吟」にはこのシーンに相応しい意味では「泣き叫ぶ」があるが、「彷徨(さまよ)う」の意はない。どうも筆者の固着した誤った思い入れに基づく用字のように思われる。

「蟲魚(ちうぎよ)」国立国会図書館蔵本底本の「叢書江戸文庫」版では「蠱魚」としてママ注記もないが、「蠱」には「むし」の意は第一義にあるものの、そこでは「穀物につく虫」或いは「食器につく虫」という限定がつくので「蠱」ではおかしい。この場合の「蟲」は中国の本草学で言うところの、広い意味のそれで、昆虫を含む無脊椎動物全般から、後に「魚」がつくからそれを除き、脊椎動物の爬虫類(架空の「龍」等の類を含む)や両生類まで包含したものである。国立国会図書館の活字本「徳川文芸類聚」でも「蟲魚」である。]

醉茗ぬしに贈る 伊良子暉造(伊良子清白)

 

醉茗ぬしに贈る

 

磯打つ浪も靜かにて、

    光長閑き春の日に、

       君が菴を訪ひ來れば、

  門邊の柳ふしなびき、

      まねく姿ぞなつかしき。

 

茅渟の浦曲をそこはつと、

    こゝやかしこの名所に、

       昔のあとを尋ねつゝ、

  ふみゆくまゝに打とけて、

      語らふ夜半の樂しさよ。

 

君と一目は見つれども、

    十年の友の心地して、

       さながら明す眞心を、

  誰にか見せむ梅の花、

      色をも香をも君ぞ知る。

 

橋のやなぎの打そよぎ、

    糸にひかるゝたび衣、

       顧盻(かへりみ)がちにとめくれば、

  君の姿も見えなくに、

      へだつ霞ぞうらみなる。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年六月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。「淸きながれ」で注したように、伊良子清白が初めて大阪府堺市北旅籠町に住んでいた河井酔茗を訪問したのは、実にこの年の五月のことで、これはその忘れ難き邂逅へのオードである。

「茅渟」「ちぬ」。「茅渟の海」は「古事記」に既に登場する古語で、和泉・淡路の両国の間の海の古名。則ち、現在の大阪湾一帯を指す。当時、酔茗のいた堺市北旅籠町はこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「浦曲」「うらわ」或いは「うらま」で海岸の湾曲した所。「うらま」という読みは「万葉集」で「うらみ(浦囘)」を表記した万葉仮名「宇良未」の「未」が後世になって「末」と誤写され、それを「うらま」と訓じてしまって生じた読みであるから、「うらみ」がよい。

「そこはつと」不詳。しかし、これは後の続きから見て、副詞の「あれやこれやと」の意の「そこはかと」の誤字・誤植ではなかろうか。

「顧盻(かへりみ)」音「コケイ」でこれは、「顧眄」(こべん・こめん)と同じで(「盻」は「振り返る」、「眄」「見回す」の意)、振り返って見ることを謂う。]

伊勢櫻 伊良子暉造(伊良子清白)

 

伊 勢 櫻

 

春とはいへど名のみにて、

 花にうかるゝ人もなく、

 ちるや櫻のちりぢりに、

 君も臣下もおのがじゝ、

 こゝろごゝろになり弭の、

 響を聞くぞあはれなる。

頃は文正十四年、

 彌生なかばの朝ぼらけ。

 衞士のたくなる篝火の、

 かなたに起るせめ鼓、

 よせによせたるつは者は、

 音に聞えし羽柴勢。

城のあろじと聞えたる、

 富田の朝臣のぶ高は、

 かねて心を德川の、

 淸きながれに通はして、

 安濃津のしろにたてこもり、

 小勢ながらも守りたまふ。

衆寡勢敵せねば、

 あはれ賴みし城さへに、

 今日か明日かとなりにけり、

 信高あそん今はとて、

 城の大手にいで給ひ、

 彼方をきつとながめたり。

折こそあれやしとやかに、

 あらはれいでし女武者、

 箙にかざす伊勢ざくら、

 花にも似たる面影や、

 いづれをいづれ白月毛、

 駒に任せて步まする。

女ながらも武士のつま、

 長刀片手にかいこみて、

 群がる敵に割つて入り、

 かけ立蹴立つる馬煙、

 矢たけ心の春風に、

 花をちらして馳せめぐる。

味方はこれに勵まされ、

 小勢ながらも鐡石の、

 義勇に刀向ふ敵もなく、

 夜すがらはげしき戰に、

 今はかちたり安濃津城、

 夜はほのぼのと明け初めぬ。

ふるき昔をとひ來れば、

 松杉くらきした蔭に、

 眞白妙にもさきいでゝ、

 昔しながらの花の色、

 かざせし人の俤を、

 にほふもうれし伊勢櫻。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年五月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。かなり具体な歴史詠であるが、史実と照らして、致命的な誤りが激しいのが難

「こゝろごゝろになり弭の」「弭」は「はず」で「ゆはず」、弓の両端の弦をかけるところを言う。所謂、弦の張り具合を確かめて鳴弦させるシーンを「なり弭」と言いつつ、一方で、「籠城している兵たちが、どうなることかとそれぞれに心々の内に不安をかかえているであろう『はず』に違いない」を掛けたものであろう。

「文正十四年」「文正」は「ぶんしやう(ぶんしょう)」であるが、文正は室町時代の「応仁」の前で、しかも二年までしかない。ここに語られるのは、「関ヶ原の戦い」の前哨戦の一つである「安濃津城(あのつじょう)の戦い」(現在の三重県津市にあった津城(つじょう)の別名。ここ(グーグル・マップ・データ))あるから、慶長五(一六〇〇)年のことである。元号といい、年数字といい、不審だが、以下に示す本篇のヒーロー富田信高が秀吉に仕えたとされる天正十六年辺りを伊良子清白は誤認したものか。ウィキの「富田信高」によれば(太字下線は私が附した)、富田信高(とみたのぶたか ?~寛永一〇(一六三三)年)は近江国で生まれで、継室の宇喜多忠家の娘(宇喜多秀家の養女)が本篇に登場する女武者である(名は伝わらない)。父富田一白(信広・知信とも称した)が羽柴秀吉に仕えて側近になったことから、天正一六(一五八八)年から信高も関白秀吉に仕えた。文禄三(一五九四年)、従五位下・信濃守に叙任され、文禄四(一五九五)年に父が伊勢安濃(あの)郡に二万石を加増されるが、一白はこれをそのまま信高に分知(武家の「知」行の一部を親族に分与すること。「分地」とも言う)している。慶長三(一五九八)年、秀吉が亡くなり、翌慶長四年には『父が隠居し』、『家督を継いだ。信高は安濃津城主』五『万石(』六『万石とも)の大名となった』。その後、慶長五(一六〇〇)年六月、『徳川家康が上杉討伐の軍を起こすと、信高も』三百『名の家臣を率いて従軍し、榊原康政の軍勢に属した』。『遠征途中の』七月十二日に』は石田三成が挙兵するが、『小山評定において』、『他の諸将と同様、家康に与力することを決意する。富田氏は三成と同じく近江衆であるが、信高や一白は』、『もともと三成とは不和であったという』。『家康は、交通の要衝にある安濃津城を確保するために、信高と伊勢上野城主分部光嘉に先行して帰還し、防備を固めるように命じた』。八月一日、『信高と光嘉は下野小山から急ぎ出立し、東海道を進んで池田輝政の三河吉田城に到り、兵船数百を借りて三河湾を渡った。途中、伊勢湾を海上封鎖する西軍の九鬼嘉隆の兵船に遭遇して乗り込みを許したが、嘉隆とは懇意だった信高は西軍に属するために東軍から離脱したと欺いて、虎口を脱し』ている。『伏見城を攻略していた西軍は、伊賀方面から伊勢路に向けて大軍を進出させ、すでに近くまで迫っていた。光嘉は自らの居城である上野城は守るに足りないと判断して、同城を放棄し、信高の居城・安濃津城に合流』、『東の門を守った。信高は東軍に籠城の状況を伝え、急ぎ家康に西上してもらうように要請しようとしたが、西軍・九鬼勢の海上封鎖により』、『東軍との連絡は絶たれており、孤立した状態となっていた。鍋島勝茂の軍勢に包囲される松坂城の城主古田重勝も、僅かだが』、『兵力を割いて、援軍は城の南郭を補強した。結局、信高は兵』千六百名(千七百名とも)『と共に籠城した。対する西軍は毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、宍戸元続、吉川広家ら総勢』三『万にのぼった。ところが、いち早く安濃津城を攻撃しようとした長束正家の軍勢は、浜に上陸した数千の信高の兵船を見て、東軍本隊の到着と誤認し』、『鈴鹿・亀山の山中に潰走』、『後でこの間違いに気付いて戻ってくるが、信高はこれを夜襲で撃破して気勢を上げた』。八月二十三日(グレゴリオ暦九月三十日)、『安濃津城攻防戦が開始された。』二十四日、『西来寺』(現在の三重県津市内)『が兵火で焼けて町屋まで延焼』したが、『この機に乗じて西軍は城壁を上り始めたので、信高と光嘉は城から打って出て反撃した』。『光嘉は奮闘したが、宍戸元続と戦い、双方が傷を負って退いた。信高も自ら槍を振るって戦ったが、群がる敵兵に囲まれた。そこへ単騎、若武者が救援に駆けつけて危機を脱した。それは「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」』『と刮目された』、この「若武者」こそが実は本篇に登場する信高の妻なのであった(引用元にある月岡芳年の絵「教導立志基三十一 富田信高」をリンクさせておく)。『しかし』、『戦いは劣勢で、二の丸、三の丸が陥落し、詰城に追い込まれた』。二十五日、『敵が総攻撃に移るなかで、信高は城門を開いて突撃』し、五百余りの敵を『余を討ち取って』、『寄せ手を撃退し』、『再び』、『城に籠もった』。二十六日、『これ以上』、『戦いを継続するのは困難であると判断した信高』は『矢文を投じて和議を請うたとも』、『決戦が迫って戦いを切り上げようとした毛利秀元が木食応其を仲介として講和を成立させたとも』、『吉川広家の降伏勧告を信高が容れたとも』『伝わるが、いずれにしてもこの日に開城することが決まり、城を明け渡して、信高は一身田町の高田山専修寺で剃髪して出家し、高野山に奔った』(本篇の「今はかちたり安濃津城」は籠城戦の一齣の勝利という意で、場面をそこで現代の景にずらしているのであろうが、一見、史実と一致しないように読めてしまうのはやはり難がある)。『関ヶ原の役が東軍の勝利で終わると、家康より』、『二心無き旨を賞され、失った所領を復して本領が安堵されたほかに、伊勢国内に』二『万石を加増され』、慶長一三(一六〇八)年には『伊予板島城に転封となり、これが宇和島藩』十『万』千九百『石』『とな』ったが、その直後にここに出るヒロインの夫人がよかれと思って行ったある行為が元で(これには複雑な人間関係があるが、本詩篇とは無関係なので略す。リンク元を読まれたい。処分の背景自体にも実は別な真相があるらしい)。『信高は改易に処され』、『陸奥磐城平藩の鳥居忠政に預けられ、岩城に蟄居』となり、そのまま亡くなっている。

「彌生なかば」冒頭の「春」からして、おかしい。これは「安濃津城の戦い」の本格的な攻防戦が成された、上記の八月二十四日、グレゴリオ暦で一六〇〇年十月一日のシークエンスである。或いは、後の軍記風の読み物や近代の講談などで、こうしたシチュエーション改変が行われていたものかも知れない。

「衞士」「ゑじ」。

「羽柴勢」豊臣秀頼は幼少であるが、秀吉死後の羽柴宗家二代当主であるから、まあ、かく言ってもおかしくはない。

「衆寡勢敵せねば」「衆寡敵せず」(多数と少数で相手にならない)に「勢」(「いきおひ」と訓じておく)を挟み込んだもの。

「箙」「えびら」。矢を挿し入れて腰に付ける箱形の容納具。

「伊勢ざくら」特定の種名ではない。

「白月毛」「しろつきげ」。白みがかった月毛(葦毛(一般に想起する馬の毛色ととってよい)でやや赤みを帯びて見えるもの)。

「矢たけ心」「矢竹」(矢の竹で出来た主幹の矢柄・篦(の))に「(彌(いや))猛(た)け心(ごころ)」を掛ける。

「眞白妙にも」「ましろ/たへにも」。]

處世法 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    處 世 法

 

『若し君が敵を手ひどく苦しめ、迫害してやらうと思ふなら』とある狡獪な老漢が私に言つた、『君は君自身の持つてゐると思ふ缺點や惡德を以て罵つてやり給へ……大に憤慨して、罵つてやり給ヘ!

『さうすればまづ君がその惡德を有つてゐないと思はせる。

『次ぎには君の憤慨は噓(うそ)でなくてすむ……且つまた君は自分の良心の的(まと)となるのを避け得られる。

『たとへば、君が變節者ならぱ、君の敵を信念の無い奴と罵り給ヘ!

『若し君が卑屈な性質(せいしつ)なら、口を極めて、彼は奴隷だ……文明の、歐羅巴の、社會主義の奴隷だと罵つてやり給へ!』

『非奴隷主義の奴隷とも言へるか知ら』と私は氣を引いて見た。

『左樣(さやう)、さうも言へる』と老獪な奸物はうなづいた。

    一八七八年二月

 

文明の奴隷云々、西歐主義者は露西亞の國粹主義者によつて排斥された。彼等は自國を又なきものに思つて、丁度我國の靑年會の會員等が一等國だとか東洋の盟主だとか云つて誇るやうに、未開の自國を尊しとし、反つて文明を排斥した、そして歐羅巴から來るもの凡てを拒んだ。ツルゲエネフ自身は西歐主義者、文明の使徒として終始した、彼が故國の人望を恢復するに長年月を要したのはその爲めである。】

[やぶちゃん注:「狡獪」は「かうくわい(こうかい)」で、「狡猾」に同じく、悪賢いこと・ずるく立ち回るさまの意。]

滿足せるもの ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    滿足せるもの

 

 一人の靑年が首都(みやこ)の街(まち)を喜び躍つて行く。彼の舉動は敏捷できびきびしてゐる。眼は輝き、脣は微笑し、昂奮した顏は氣持のいゝ紅(あけ)を潮(てう)してゐる……彼は渦足と喜びとで一杯になつてゐるのだ。

 何事が彼に起つたのか? 彼は遺產を得たのか? 昇進したのか? 情人に出逢ひに急いでゐるのか? それとも單に旨い朝飯を食(た)べて、健康の感じ、滿腹の感じが身體中に漲つてゐるだけなのか? 波蘭土王スタニスラウスが、彼の頸にその美しい八稜十字の勳章を懸けてやつたのでもなからう?

 否。彼はある友人に對して誹謗(ひぼう)をこしらへ出して、それを懸命に擴めて步き、今その同じ醜聞を外の友達の口から聞いた、そして――彼自身もそれを信ずるに至つた

 あゝ、この瞬間に於て、此の愛すべき有爲の靑年は、いかに滿足して、またいかに善良でさへもあつたらう!

    一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:ここでの太字部に限っては、底本では「ヽ」ではなく、「○」である。

「波蘭土王スタニスラウスが、彼の頸にその美しい八稜十字の勳章を懸けてやつたのでもなからう?」「波蘭土」は「ポーランド」と読む。「スタニスラウス」国王自由選挙(ポーランド・リトアニア共和国の末期に於ける選挙王制(国王を血統上の権利ではなく、個人的資格によって選ぶための選挙制度。一五七二年から一七九一年まで行われていたが、一七九一年に成立した五月三日憲法によって廃止され、後、一七九五年時の「ポーランド分割」で国家自体が消滅してしまった)によって選ばれた、同国最後の国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(Stanisław August Poniatowski 一七三二年~一七九八年/在位:一七六四年~一七九五年)のこと(関係性は後述する。但し、本詩が書かれた時点より百年前後も前の古い話である)。中山省三郎氏訳の「註」に、『その頃の最も低い文官勳章であつたスタニスラフ勳章と、ポーランドの王スタニスラフとをかけた洒落』とある。Подгорный(Podgornyy)氏のサイト「ロシア学事始」の「ロシアの勲章」の「聖スタニスラーフ勲章 орден Святого Станислава」によれば、一七六五年、『ポーランド王・リトアニア大公スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキにより創設された。正式名称は』「聖殉教者司教スタニスワフ勲章」(order Świętego Stanisława Biskupa Męczennika)で、『たまたま王の名と同じ、ポーランドの守護聖者である聖スタニスワフを守護聖者とした』。百『人という人数制限が設けられ、しかも』四『世代にわたって貴族であることが条件とされた』。しかし『創設されてわずか』三十『年後にはポーランド・リトアニアそのものが消滅したが』、一八〇七年に『ワルシャワ大公国の勲章として復活』するも、『これまた』、一八一三年に『消滅している』。一七六五年から一八一三年までの間に千七百六十二人もの人が叙勲(騎士団員と称された)されており、百人という『人数制限が事実上』、『無視されていたことになる』。一八一五年にも『会議王国の勲章とされた』。但し、『あくまでも会議王国の勲章であり、ロシア帝国の勲章ではな』かった。一八三一年、『皇帝ニコライ』Ⅰ『世により』、『事実上』、『会議王国が廃止され、ロシア帝国に統合され』、『これに伴い、聖スタニスワフ勲章もロシア帝国の勲章とされ』た。『ゆえに、聖スタニスワフ勲章(ロシア語では聖スタニスラーフ勲章)はその後も存続するわけだが、ポーランドの勲章としては認識されていない。帝政ロシアのすべての勲章の中で、最下位に位置づけられた』(中山氏の註通り)。一九一七年、『ボリシェヴィキー政権により廃止された』とある。グーグル画像検索「聖スタニスラフ勲章」で「美しい」(とは私は思わないが)「八稜十字の勳章」が見られる。]

『汝は愚者の審判を聞かざるべからず……』プウシキン  ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    『汝は愚者の審判を聞か

     ざるべからず……』 プウシキン

 

『汝は愚者の審判を聞かざるべからず……』お、我等の偉大なる詩人よ、卿(おんみ)は常に眞實を語つた。今度も亦卿(おんみ)は眞實を語る。

『愚者の審判(しんぱん)と群集の笑ひと』……誰か此の二つを知らなかつた者があらう?

 此の凡てを人は堪へることが出來る、また堪へなければならぬ。自分の力を信ずる者はそれを輕蔑するがいゝ!

 然し世には一層殘酷に心を衝き通す打擊がある……或人は出來る限りの事をした、懸命に、親切に、正直に働いた。……然も正直な人々は嫌惡をもつて彼から顏をそむける、正直な顏は彼の名を聞くといづれも憤怒(ふんぬ)に燃え上る。『行つてしまヘ! 其處を退(ど)け!』と正直な若者は聲々に彼を罵る。『おれ達はお前にもお前の仕事にも用はない。お前はおれ達の居處(ゐどころ)を汚す。お前はおれ達を知つてはゐない、理解してはゐない。……お前はおれ達の敵だ!』

 かやうな人はどうすべきであらうか? 仕事を續けるがいゝ。自分を是認しようとしてはならぬ、より正しい判斷を求めようとさへしてはならぬ。

 曾て百姓は麺麭(ぱん)の代用物、黃民の常食なる甘藷(かんしよ)を齎した旅人を呪つた……彼等は旅人が差出した貴い贈物(おくりもの)をその手から打落して、泥の中へ投げて足で蹂躙(ふみにじ)つた。

 今彼等はそれで生きてゐる、しかもその恩人の名前さへも知らない。

 それでいゝのだ! 彼等に彼の名前が何であらう? 彼はよし名前は顯れずとも、彼等を餓ゑから救つてゐるのだ。

 我々は我々の齎すものが眞に立派な食物であるやうに氣を附けさへすればいいのだ。

 愛する者の脣(くち)に上る苦(にが)い不當な非難……然しそれもまた堪へられる……

『私を打て! 然し私の言葉を聽け!』とアゼンスの將軍はスパルタ人に言つた。

『私を打て! 然し健かに滿腹してゐよ!』と我々は言はなければならぬ。

    一八七八年二月

 

汝は愚者の審判を聽かざるからず  これはブウシキンの詩「ある詩人に寄す」中の一句、原詩は「おお、詩人よ、汝の民衆の愛顧を切望するな、賞讃者の喝采の聲は息の如く消え去るべし、愚者は汝を審判すべし、群衆は汝を嘲るべし、されど冷然として努力せよ、よし汝の手何等の慰めも與へられずとも云々」と云ふのである。】

アレクサンドル・プウシキン、露西亞の國民的詩人、露西亞の新文學の創建者である。その母は波得大帝の黑奴イブラヒム・ハンニバルの孫であつたから、黑人の血を享けてゐる。一七九九年に生れ、一八三七年決鬪によつて斃れた。はじめバイロンの影馨を受け、のち自己の新境地を拓いた。代表作は韻文小説「オネエギン」其他「高加素の囚人」「ボリス・ゴヅノフ」等の詩、「大尉の娘」(邦譯あり)等の小説もあるトルストイ、ドストエフスキイ皆プウシキンを尊敬した。ツルゲエネフもさうで、また屢々散文のプウシキンとも呼ばれたものである。――この篇はツルゲエネフの後年の大作がいづれも冷淡に迎へられ、作者其人も故國人に反感を抱かれてゐた事を考へて讀まねばならぬ。】

[やぶちゃん注:「甘藷(かんしよ)」はサツマイモのことで、ここはジャガイモで、誤訳。訳すなら「馬鈴薯」とすべきところ。

「アゼンス」アテネのこと。英語“Athens”(アセンス)の当時の日本語読みらしい。

「波得大帝」初代ロシア皇帝ピョートルⅠ世(Пётр I Алексеевич 一六七二年~一七二五年/在位:一六八二年~一七二五年:全名はピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ(Пётр Алексе́евич/ラテン文字転写:Peter Alexeyevich Романовы))のこと。

「黑奴イブラヒム・ハンニバルの孫」アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Alexander Sergeyevich Pushkin  一七九九年~一八三七年)はモスクワ生まれで、父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族であったが、母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバル(Абрам Петрович Ганнибал/Abram Petrovich Gannibal(ファースト・ネームは Hannibal 或いは Ganibal とも表記し、別にイブラヒム・ハンニバル(Ибрагим Ганнибал/Ibrahim Hannibal)とも呼ばれた) 一六九六年~一七八一年)はピョートルⅠ世にアフリカから黒人奴隷として連れてこられたが、皇帝から寵愛され、少将・軍事技術者・タリン(バルト海東部のフィンランド湾に面する、現在のエストニア共和国の首都)総督となったエリート軍人であった。

「高加素の囚人」「高加素」は「コーカサス」のこと。]

2019/05/11

ブログ・アクセス1220000突破記念 梅崎春生 囚日

[やぶちゃん注:本作は昭和二四(一九四九)年四月発行の『風雪』別冊第二号に発表され、後の同年十月に刊行された単行本小説集「ルネタの市民兵」に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 以下、少し、事前に言っておくべきことと、語注をネタバレにならぬように附す。

 初っ端から躓く若い方がいるかとも思われるので、最初に言っておくと、冒頭(二段落目)に登場する「水野国手」の「国手」は名前ではなく、「水野医師」の謂いである。「国手」は「こくしゅ」で、「国を医する名手」の意味であって、「名医」或いは「医師の尊称」である。但し、この語には別に各種の技芸に於ける「すぐれた名人」、中でも特に「囲碁の名人」を指すことがあり、梅崎春生は囲碁が好きであったから、以下は想像だが、この水野医師も実在のモデルがおり、その人物は囲碁仲間で、しかも相応な囲碁力を持っていて、職業は医師であったという、読者には伏せた楽屋落ちの含みをも持たせてあるのかも知れない。なお、正直、私自身、この語を使ったことはない。因みに「国手」の由来は、原始人氏のブログ「原始人の見聞」の『「国手(こくしゅ)」の由来』によれば、春秋時代を対象とした史書「国語」(著者は「春秋左氏伝」の著者とされる魯(紀元前十一世紀~紀元前二五六年)の左丘明であると言われているものの定かではない。但し、古くから本書は「春秋左氏伝」の「外伝」であるとする説が唱えられており、「漢書」の中では「国語」のことを「春秋外伝」という名称で記している)、の『中に「晋(しん)の平公(へいこう)が病気になった時、秦(しん)の景公がこれを聞き、医師を遣わして診察をさせたことがあった。その際に趙文子(ちょうぶんし)という人が』、『「一国の王様を治療するのだから医が国に及ぶ訳ですね」と申し上げると、景公は「全くその通りだ。上医は国を救い、その次のものは人を救うものだ」と答えた」とあり、それから名医のことを「国の病を治すほどの名手」だと尊敬して「国手」と呼ぶようになったという』とある。

 また、本作の、特に前半部には、そのロケーションや登場人物の特異性と、書かれた時代の限界性とから、差別的な言辞・表現・描写がかなり出現する。また、登場人物の不適切にして差別用語をも含む感懐が語られる場面もある。また、現行では、患者に対して差別的であると同時に当該疾患を示すのに医学的にも不適切であるという理由から、廃止されて新たに改称されたり、今は使われることが少ない旧疾患名も出てくる。それらについては、批判的視点からの読解をなされるようにお願いする(ネタバレになりそうな具体的なそれらについての語注は作品の最後に後注として置いておいたので、読後に、必ず、読まれたい)

 「エレクトロンのアトム」というのは「電子」を意味する“electron”(或いは“elektron”)、「原子」を意味する“atom”で、恐らく登場人物は原子構造の模型に於ける電子殻(でんしかく:electron shell)、所謂、原子核を取り巻く電子軌道或いはその複数の集まりをイメージしたものであろう。この人物、もとは相応の知識人かとも思われる。

 「麻葉模様」(あさばもよう)は、基本形は正六角形の幾何学模様である。グーグル画像検索「麻葉模様」をリンクさせておく。

 「焮衝(きんしょう)」とは、身体の一局部が赤く脹れて、熱を持って痛むこと。「炎症」に同じい。

 「配給」とあるが、戦後の配給制度(米穀通帳による米分配販売配給が減衰する時期)は本作が発表された翌昭和二十五年から二十六年(一九五〇年~一九五一年)頃までは未だ残っていたのである。

 因みに言っておくが、私は、本作を非常に高く評価している。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1220000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年5月11日 藪野直史】]

 

 

   囚  日

 

 敷地が数万坪もあるというこの脳病院には、数百人の気の狂った人がいるという話であった。比較的軽症の人々は、敷地内の農耕にでていて、鍬(くわ)を使ったり収穫をはこんだりする姿が、遠くに見えた。重症の患者たちは、みな病棟に閉じこめられていた。空模様の面白くない午後であった。鉛色に垂れた雲のしたに、コの字型の病棟が、道をはさんでいくつも建っていた。

 水野国手に案内されて、病棟のなかをつぎつぎ、私たちは見て廻った。水野国手は白い清潔な診察着をつけ、廊下をゆっくりと先にたってあるいた。時々たちどまって、病室の患者と問答をかわし、私たちを振返って、その患者の病状をしずかな声で解説した。

 頑丈な扉のついた病室ばかりの棟があった。扉には銃眼に似た刳抜窓(くりぬきまど)があり、内部がのぞけるようになっていた。発作のはげしい患者などが、ひとりひとりそこに入っていた。扉の厚さは五寸ほどもあった。なかをのぞくと、布団にくるまって寝ていたり、またいきなり起き上って、顔を窓のところに持ってきたりした。そして訴えることは、訴えのなかだけで論理が通っていて、私たちの世界とは、ある一点ですさまじくかけ離れていた。この廊下には、動物の檻(おり)のようなにおいが、うっすらとただよっていた。麻痺性痴呆や、躁欝病や、分裂病の患者たちであった。そういう患者を、ひとりひとり見てゆくうちに、見ているこちらが狂っているのではないか、という錯覚に私はふと落ちたりした。廊下は乾いているにもかかわらず、踏むスリッパは、なにか濡れたものを引きずるような音をたてた。

 女ばかりの病棟があつた。

 うすぐらい一室の扉のかげに、わかい裸体の女が、顔を膝に埋めてうずくまっていた。一片の衣類もつけぬその裸体は、つめたく均勢がとれていて、むしろ陶器じみた白さであった。一切の物音から遮断されたかのように、それは身じろぎもしなかった。

 廊下の角に、いきなり声をあげてうたい出す女がいた。小刻みに身体をゆすり、身振りを交えながら、私たちのあとを追ってきた。女の顔は忘我的な陶酔のいろを濃く浮べ、瞳は色情をふくんで軽やかにうごいた。これほどたのしそうな歌声を、私は長い間、聞き忘れていたような気がした。

「躁病の爽快感情ですね」あるきながら水野国手が静かに言った。「あのひとは、発作が起きそうになると、自分で判って、進んで入院してくるのです。発作にも周期がありましてね、もう何回目の入院でしたかしら」

 眉をひそめた生真面目な表情で、忙しげに廊下の端をすりぬけてゆく中年の女もいた。襟(えり)には手巾(ハンカチ)をあて、歳にしては地味すぎる着物を、引き詰めるように着ていた。付添いの女かと思うと、これも患者なのであった。

 廊下をひとめぐりして、もとの入口にもどってくると、私たちは靴をはき、道をよこぎつて、また次の病棟に移って行った。その道をあるいていたり、入口の石段に腰かけて休んでいたりする男たちが、あれが軽症患者なのか、看護人なのか、私には見分けがつかなかった。私自身にしても、水野国手と同道でなかったら、他からはどう見えるかは判らなかった。その考えは幾分、私の心を寒くした。しかしそんなことを感じるのは、私だけであるらしく、数万坪のこの区域内に居住する人々は、おおむね他人の生き方に無関心なふうであった。放心とか黙殺というのではなく、もっとつめたく澄んだ無関心が、ここ全体を支配していた。

 大きな病室がつらなっている病棟では、ひとつの病室に、十人も十五人もいて、思い思いの姿勢で、じっと動かなかった。布団をかぶって寝ているのもいたし、壁に倚(よ)ったままにぶい眼を私たちにむけるのもいた。みな欝然として表情をなくし、自分の世界にとじこもっているようであった。病室をでて、中庭に休んだり、なんとなく廊下をゆききしているのも少しはいた。その一人は、私たちが廊下にふみ入ったとたんから、水野国手のそばにくっついて歩きながら、しつこく同じことばを操りかえしていた。

「ねえ。よその病棟にうつして呉れませんか。ここは面白くないですよ。ねえ。お願いしますよ」

 十秒ほどの間隔をおいて、同じ言葉を同じ抑揚で、まるで同じところを廻転するレコードのように、この男は早口に発音するのであった。しかし男の顔には、その語調ほどの切実な表情はうかんでいなかった。相手にされなくても、ただその言葉を、飽きず繰りかえすだけであった。

「ねえ。よその病棟にうつして呉れませんか。ここは面白くないですよ。ねえ。お願いしますよ」

 気持の重さをやや感じながら、私も水野国手のあとをあるいた。先に立つ水野国手の襟足は、わかわかしく脂肪をのせていて、なにか疲れを知らぬ、つよい精気のようなものが感じられた。医者という職業人が、ほとんど例外なくもつ、あの肉体的な感じであった。曲角の病室にくると、また水野国手は立ちどまって、廊下から部屋のなかに、しずかな声で話しかけた。

「どうだね。加減は?」

 話しかけられた男は、入口近くのすぐ下にうずくまり、布団をからだにぐるぐる巻きつけ、茸(きのこ)のように首だけを出していた。こちらに顔をあげて、のろのろとなにか答えた。男の答える言葉は、ひどく辛そうであった。唇のあたりに、亡友の死霊が憑(つ)いていて、どうしても離れず、それがいろんなことを命令するというのであった。

「……今朝からも、芋を食うな、食うちゃならん、と命令するもんですから、どうしても食べられんで、朝食も昼食も、まだすこしも食べずにおります……」

 くるしそうな声で、とぎれとぎれ言いながら、その男は片掌をあげて、黄色く褪(あ)せた唇の辺をはらうようにした。男の眼は、内側に折れまがったような暗い光をおびて、ちらちらと水野国手にむいて動いた。顔色は不自然なほど黄色で、すこしむくんでいた。自分の症状を正確にはなすことで、自分の苦痛をすこしでも柔らげることが出来るかのように、男はくるしそうに掌をふりながら、質問にこたえて、くぎりくぎり発音した。

「……なんと言ったらいいか……ここらあたりに……霧のような……もやもやとして……エレクトロンのアトムのような……そんな形になって……それがしょっちゅう私のここのところを……」

 男の指はふるえながら、しきりに唇の辺を探るふうにうごいた。水野国手の肩ごしに、私はその男を、そして身体に巻きつけた布団の柄を見おろしていた。その布団は、ところどころ生地がやぶれ、うすくなった綿が、ちぎれた旗のように垂れさがっていた。布もひどくよごれ、褪色(たいしょく)していたけれども、それはたしかに、青い地に白の麻葉の模様であった。その色調や模様と同じものが、とつぜん記憶の中からよみがえって、つよく私の心を射た。

(――ああ、あれは石狩の布団とおなじ模様ではないか――)

 まぎれもなく、同じ布地の布団であった。その布団を、まとめて千五百円でしか引取れないという古道具屋に、私は二千円で買えと、しつこく言いつのっていた。それは一週間ほど前のことであった。立合っていたわかい刑事は、腕組みをしたまま、にやにや笑っていたし、老人の古道具屋は、布団と本箱と古外套など合せて、六千円以上はだせないと、古物商特有の声を殺した口調で、頑固にくりかえした。

「コミじゃ困るんだ。別々に値をつけて」

「別々にしても、布団は千五百ですよ。結局は同じ値でさ。旦那」

 これらの品物の持主が私でないことを、ほんとの持主は警察に行っていて、当分戻る見込がないから、品物を処分していることを、この老人は知っているらしく、自分の言値をさらに動かす気配は見せなかった。その布団であった。その布団と同じ模様が、この怨霊(おんりょう)に憑かれた狂人の身体をくるんでいたのである。

「ええ。ええ」

 この男はほとんど泣きだしそうな声で、水野国手の質問にこたえていた。

「……それは、それは判っておりますが、それでも、なんだか、必ずたたりがあるような気がして……」

 声がだんだん小さくなって、そのまま麻葉模様に、顔をくるしそうに埋めた。もうなにも開いて呉れるなと、言っているように見えた。

「分裂病の病状としても、まだ初期ですから、幻覚じゃないかと言うと、あんな具合に反応するのですが――」

 廊下をあるきだしながら、水野国手が低い声で言った。

「これが進むと、すっかり自分の妄想の世界に入りこんでしまって――」

 つぎの大きな部屋には、私たちが廊下を通っても反応を示さない、うずくまったままの患者が何人も住んでいた。それらはなにか鉱物のように、ばらばらに孤立した感じであった。水野国手の指が、それらを漠然と指さした。

「ついには、あんな具合に、感情が鈍磨荒廃して、全く無為の状態になってしまったりするのです」

「――みんなああいう風になるのかね?」

 暫(しばら)くたって私の連れが、そんなことを聞いた。

「それが多いんだね」

 病棟の入口までもどってきたので、スリッパを靴にはきかえながら、水野国手はすこし陰欝な調子になってこたえた。

「彼等が閉じこもっている世界が、どんなものであるか、これは誰にも判らないんだよ。分裂病患者は、同一人に対して、愛と憎しみといったような、正反対の気持を同時に感じたり、また同時に泣くことと笑うことが出来たりするんだ。医者の方で、両価性と名付ける特性なんだが――」

 石階を降りて、鉛のような雲のいろを映した道に、私たちは出た。水野国手は道ばたにしばらく佇(たたず)んで、くろずんだ病棟の列をながめていた。

「――もう、こんなものですよ。あとの病棟も、同じようなものですよ」

 すこし経(た)って、水野国手がぼんやりと私にそう言った。その端麗な顔には、ふしぎな退屈の色が、つよく浮んでいた。それは、私の気持で、そう見えたのかも知れなかった。長い廊下をつぎつぎにあるいて、異様な緊張が私に持続していたにも拘らず、ある退屈感が私の胸に重くひろがっているようであった。なにかしなければならないことを、やり残しているような、そしてそれを忘れて思い出せないような、へんにはっきりしない気分が、鈍く私を押しつけてきた。

「ええ。もう結構です。これで大へん勉強になりました」

「――医局に行って、脳外科手術の器械などごらんに入れますか」

 もとの静かなはっきりした態度になって、水野国手がそう言った。

 本館にむかってあるくとき、すれちがって水野国手に頭を下げる軽症患者の、三人にひとりは、前頭部の両側に、うすい傷痕をつけていた。水野国手はいちいち会釈をかえしながら、また時には声をかけたりした。

「ちかいうちに、ここで演芸会をやりますよ。見にきて下さい」

 水野国手はそんなことを私に一言った。この病院のなかだけでやる会で、患者ばかりが出演する劇もあるそうであった。それを聞いたとき、焮衝(きんしょう)に似た感じが、私の胸の底をはしった。

「患者だけでもやれるのかい?」と私の連れが聞いた。

「やれるさ。軽症の患者だから」水野国手は連れの方をむいて答えた。「精神病というと、なにもかも僕らと違うと、君はかんがえているんだろう」

 本館の裏口から、看護婦がふたり、話しながら出てきた。背景が暗いので、それらは白く鮮かに浮き上って見えた。私たちはその方向へあるいた。

 

 郵便局によるために、新宿で私は連れの友人に別れた。別れると直ぐ、郵便局へゆくのも物憂くなって、また戻って友人の姿をさがしたが、人混みにまぎれてもう見当らなかった。この友人が水野医師と知合いで、今日見学に私を伴ってくれたのである。

 狭い鋪道の人混みを、私は反対の方角へのろのろ動きだした。人の進みが、いつもよりのろいような気がした。大きな建物が、ところどころ曇天をくぎっていて、その谷間にあたる小さな店に、おいしそうな麺麭(パン)がたくさん積まれていた。買おうかな、とふと思い、立ち止りかけたが、うしろから押されるまま、ずるずると通りすぎた。身体の芯(しん)が疲れているようで、気持を強く保つものが、私から失われているらしかった。はっきりしたあてもなく、大通りをそれて、私は横町にあゆみ入った。

 ある喫茶店に腰をおろして、私は珈琲(コーヒー)をのんでいた。珈琲はへんに甘たるかった。この契茶店は、両側の壁に椅子をならべてあるから、客たちはそれぞれ壁を背にして向きあうようになっていた。七八人の客がばらばらに腰かけていた。脚を組んだり頰杖をついたり、飲物を飲んだり莨(たばこ)をすったりしていた。鉢植の葉の影が、黄色の壁におちていた。お互につながりを持たぬ人々がかもしだす、ある一つの感じがそこにあつた。客が出て行ったり、新しく入ってきたりすると、その感じは揺れうごくが、やがて水面が波紋を消して倒影をとりもどすように、またもとの感じがたちかえってきた。

 遠くから流行歌が聞えていた。何かの具合で、聞えたり聞えなくなったりした。聞いたことがあるような節だと思うと、それはあの躁病の女がうたった同じ歌であつた。すると濡れたように重いスリッパの感じが、私によみがえってきた。つづいて私は唇に死霊がついた男の顔を思いうかべた。あの顔はむくんで、この喫茶店の壁のような色をしていた。とぎれとぎれにしゃべる声が、耳のそばで聞えるような気がした。

 そうだ、ととつぜん思い出した。あの男の口調が、なにか心にからみついたのも、私の故郷の訛(なま)りがそこにあったからであった。実際に聞いていたときに、なぜ私はそれに気が付かなかったのだろう。あの時、鼓膜にだけとどまっていたものが、今になって意識にのぼってきたのは何故だろう。

 あの病院は配給の関係上、患者を都民に限っていたから、あの男も私と同じ故郷から東京にでてきて、まだ訛りもとれないうちに発病して、そして病院に収容されたにちがいあるまい。どんな経歴の男か知るよしもないが、あまりゆたかでない証拠には、あれは公費患者の病棟であったし、そしてあの布団も、破れ目から綿がちぎれかけていた。布団の麻葉模様も、大きな汚れた蜘蛛のような形に見えた。

(布団まで売り払らったというのも、下獄の決心をしたからに相違ないのに、なぜ今となって、保釈をたのむような気持になったのか?)

 あの布団や道具をみんな整理して金に換えてくれと、最初に面会に行ったとき石狩は、直ぐ私に頼んだのであつた。留置場の食事は充分でないので、他から補充するために金を必要とするのかも知れなかったが、布団まで売る気持というのも、五年や七年の下獄を覚悟したからにちがいなかった。それだのに係りの刑事から、本人が保釈をつよく希望しているという連絡があったのは、昨日のことであった。その時私は、石狩の部屋で売れのこつたがらくたの中から持ってきた、彼の小説原稿をばらばらと拾い読みしていた。それはこういうところであった。主人公が暗い夜、北陸のある町をあるいている時、うしろから歩いてくる二人の男の会話を、ふと聞くともなく聞く場面であった。

 

「ええ、もう気持が駄目かと思った――」

「逃げれはよかったんだよ――」

「ええ、ほんとに逃げたいと思ったんです……だが――」

 くるしそうなほそい声だった。

「だがもなにもないよ、実行だけだよ此の世で通用するのは。逃げたいと思ったら逃げれはよかったんだ!」

 

 電話口にたって、保釈にかんする刑事の連絡をきいたとき、私ははげしい昏迷のようなものを感じた。

「保釈って、そんな簡単にできるものかしら。本人はどう言っているんです?」

 石狩が犯した罪というのは、強盗なのであった。一度は二三町離れた医者の家で、妻女をおどして六千円盗り、一度は四五軒はなれた家に入って、千円ほど盗ったというのであった。両方とも主人が留守の家であった。医者の家では、夜中に主人が往診にでかけるのを見すまして、玄関から押入ったのであり、あとの方は、主人が社用で遠方に出張していて、妻女と子供だけの留守宅であった。そのどちらも、彼は浴衣がけで、玄関にちやんと下駄を脱いで入って行った。面を覆うという細工もしなかったから、顔の特徴も見覚えられてしまっていた。すぐ近所に押入るというのに、覆面もしないというのは、なんという無計算だろう。しかもまるで招かれた客人のように、玄関にきちんと下駄をそろえて、捕縛されるのを予定しているようなふるまいであった。

「あなたにただそう連絡してくれという本人の話なんです」

 電話の声はそれだけであった。電話を切って部屋に戻ってきて、莨(たばこ)をいらいらと吸いつけながら、私はかんがえていた。

(――保釈で出てきて、何をやろうというつもりだろう、あの男は)

 保釈で出るとしても、いずれ刑の執行をうけねばならぬから、身の自由な期間もごく短い筈であった。それを石狩が知らぬわけがない。また保釈願いを出したとしても、再犯の危険なしとして、許されるかどうかは判らないことであった。そういう可能性のすくない保釈にまでたよって、束(つか)の間(ま)の自由を得たいというのは何だろう。警察に面会に行ったとき、留置場から刑事部屋へ呼出されてきた石狩の、くらい不気味な感じの眼を、私は思いだしていた。それはごく特徴のある眼のいろであった。

「うちには知らさないで」押しつけるような低い声でそう言った。「絶対にうちには知らさないで呉れ。心配させても仕様が、ないんだから」

 友人か誰かに会いたければ連絡しようか、と私が言ったとき、石狩はそれが聞えなかったのか、眼を宙に外(そ)らして、とつぜん早口で別のことを言った。

「あ。僕はやましくないんだよ。やましい気持はない」

 石狩の両親は、北陸のちいさな町にいて、鍼灸(はりきゅう)を業としていることを、私は聞いていた。父親は盲人であるし、母親もほとんど視力がなくて盲人に近く、だからそこの台所なども、よその家の台所とちがって、器物や棚の配置が、手探りに便利なように出来ているということであった。視力の欠けた者同士が、一緒になれるものかどうか、石狩の話を私はふと疑ったけれども、台所の話では、それは本当なのかも知れなかった。そういえば彼と相知ってから、私がよんだ七八篇の彼の小説はことごとく、ほとんど生理的な暗さに満ちていた。出生のくらさを底に秘めているようであった。そして近頃のものほど、その傾向がつよかった。光からわざと自分をしめ出すような作品が多かった。その頃から石狩は、自分の行手にくらい罠(わな)を感じていたのかも知れなかった。しかし石狩にとっては、小説そのものも暗い罠である筈であった。あの無計画な衝動に身をまかせたことが、彼にあっては、あのような小説を書き綴ることと、どう違うのだろう。違うと誰が言いきれるだろう。

 しかし石狩が、自分はやましくないと早口で言ったとき、私は聞えないふりをして、窓の外を眺めていた。しばらくして、金が要るかと私が聞いたとき、石狩は直ぐ、その時は自分の布団や道具を売払ってくれ、と私にこたえた。それは始めから考えていたような口振りであった。だから私はその日、刑事といっしょに石狩の部屋にゆき、古道具屋を呼んで、売れるものはみな売払った。復讐に似た感じが私にあった。古道具屋に、もすこし値良く買えと言いつのったのも、石狩の為をかんがえた訳(わけ)ではなかった。石狩が多くの金を得ようと得まいと、私の気持に関係はなかった。

 値段の折合いがついて、私たちは外に出た。古道具屋はリヤカーに荷をつんで、先をあるいた。布団はその一番上にのせられてあった。麻葉模様が白い蜘蛛の形にかんじられたのも、その時であった。私はあるきながら、金を刑事に手渡し、石狩にわたして呉れるようにたのんだ。石狩を逮捕したのは、このわかい刑事である。石狩にちがいないと目星をつけて、この刑事は四晩つづけて石狩の部星の窓のしたに、見張りをしていたということであった。あるきながら刑事はその時の話をした。

「二度やったんだから、また必ずやると思ってね。夜の九時頃から暁方まで、植込のなかに四晩張込みましたよ」

「その四日間は、彼は外に出なかった訳ですね」

「出なかったね。しかしあれはどうも変でしたよ。四晩とも、あれは三時ごろまで起きていてね。なにしてるかと思って、ときどきそっと窓から覗(のぞ)いてみたんだが――」

 石狩は机の前にすわって、本も読まず何も書かず、ただ眼をひらいたまま、いつ見てもじっとしていたという。何時間も何時間も、同じ場所にすわったまま、どんなことを石狩はかんがえていたのだろう。あの特徴のあるくらい眼を見ひらいたまま、彼が見ていたのはどんな世界なのだろう。それはもう救いというものがない世界にちがいなかった。今日脳病院で、ほとんど外界に反応をみせない分裂病患者をみたとき、私がすぐ思いうかべたのは、深夜の部屋にすわって、壁をながめている石狩のすがたであった。その石狩のすがたは、実際に私が見たわけでないにもかかわらず、眼底に鮮烈に浮き上っていた。あの時の刑事のかんたんな叙述が、私の胸にやきついていたのだ。

「――どうもあの眼は変だね。木莵(みみずく)の眼みたいな感じがしてね……」

 私はその日、刑事と途中でわかれると、心を決めて、その足で郵便局へ行った。そして石狩の実家あてに、電報を打った。そうすることに、気持の抵抗がない訳ではなかった。しかし家に知らせるなという石狩の言葉も、彼の根源のところではなにも意味がないのではないか。そう自分に言いきかせることで、私は電文を一字一字したためた。郵便局の備えつけのペンは、先が割れていて、粗悪な頼信紙はざらざらとささくれ立った。石狩がいま避けようとしている実家とのつながりを、この電文が一挙にむすびつけてしまうのだと、私は考えた。あるいはこのことが、彼の唯一の救いになるのかも知れない。しかしそう思うことは、私にひどく苦しかった。自分で嘘をかんがえていると思った。そして自分がそのつながりの中にいることが、私の心を重くした。私の気持は、ひどく退屈しているときの感じにそっくりであった。発信人の名前をしるすときに、ためらうものがあって、私は私の名を書かなかった。石狩の件について話があるから、あの警察まで来てくれ、という意味をつづり、名前は書かなかった。盲目の両親は、この電報をうけとって、どうやって読むのだろう。だれか晴眼のひとにたのんで、読んでもらうのだろうか。発信者のないこの電文を、ふた親はどういう心の状態でうけとるのだろう。それを想像したとき、軽い悪感(おかん)が身体をとおりぬけるのを私は感じた。

 

 石狩が保釈をのぞんでいる旨の電話を、あの刑事から受けたとき、まず私の頭にきたのは、親が上京したにちがいないということであった。しかし電話口で私がただしたところによると、その様子はなかった。それが私をすこし不安にした。電報は五六日前に、実家にとどいている筈であった。しかし盲人ゆえ、仕度に手間どるのであろうし、付添いの晴眼者も必要なのだろう。まだ上京していないとすれは、石狩のいまの心を揺り動かしているものは何だろう。あの時布団まで売払ったというのも、身の果てをそこに感じたからではなかったか。

(――両親に知らせてくれるな、と言った石狩の気持を、どう考えたらいいのか?)

 実刑を宣告され、執行されるときになれは、原籍地に通知がゆくことは、すぐ考えられることであった。あるいは石狩は、保釈で出る機会をつかみ、別の身の果てをかんがえているのかも知れないと思ったとき、強い疼(うず)きのようなものが私の心に起った。それはあの日、石狩の布団を売払ったときの気持にも似ていた。あの時の石狩の口吻(こうふん)は、直ぐ金が必要というのでもなさそうであった。いずれ機を見て金にかえてくれという語調であった。それにもかかわらず私は即日、刑事に立合いをたのみ、追っかけられるように一切を古道具屋に渡してしまった。そうすることによって、石狩がおちた罠の食いこみ目を、更に決定的にするかのように。すべて断ち切らせることで、彼の不幸が不幸でなくなるかも知れぬと、気持の表面だけでそのとき私は考えたが、しかもその足で、私は郵便局に行って電報を打ったのであった。それ以後は一度も石狩に面会しに行っていない。なにもかも放ったままであった。そういう自分の行動を、私は論理づけてとっている訳ではなかった。追われるように私はそうしていた。

 坂田という友人が、石狩に面会しての帰りだといって訪れてきたとき、先ず私が聞いたのはそれであった。

「保釈のことをなにか言ってたかね」

「そんなことも言っていた」

「どういうつもりだろうな、あれは。どうも判らない。おれはやましくない、と言やしなかったかい。おれのときは言ったけれど――」

「やましくなければ、保釈をねがわないだろう」

 坂田は考え考え、吟味するような口調で言った。坂田とはそんな言い方する男であつた。坂田は私と石狩の共通の友人で、どこかの小役人をつとめていた。

 この時私は脳病院で、この病室は不愉快だから変えてくれと、執拗(しつよう)に水野国手につきまとっていたあの患者を、ふと考えていたのである。あんなに執拗に言っていても、あの患者は常住それを感じているのではなく、医師の顔をみたとき、そんなことを思いついて繰り返しているにすぎないと、水野国手の説明はそうであった。石狩がその類だと思うのではなかった。ただ留置場が石狩にとって不愉快な場であるとしても、保釈で出てきた社会が、彼にとって不愉快な場でないとは、断言できないことである。むしろそれが不愉快な場であることは、彼が身をもって実験ずみの筈であった。

「保釈もあきらめさせるがいいだろうな。薄情のようだけれど」

「そうだな。それも相談してからだろう。おふくろさんも丁度上京したし――」

 今日坂田が石狩と面会していたとき、母親が刑事部屋にたずねてきたというのであった。そしてそこで始めて、石狩の犯罪を知った訳だった。それだけ言うと、坂田は口をつぐんで私を見た。つめたいものが身体を走りぬけるような気がした。

「今日出京してきたという訳だね」

「おふくろさんは眼が見えないということを、君は知ってるか?」

 知っていると私が答えると、坂田はなにか面白くなさそうな表情でうなずいた。

 坂田が帰ったあとで、私は気持がひどくだるい感じがした。退屈感に似たしらじらしさがあった。坂田が私のところに寄ったのは、石狩の伝言があったためだった。私に話したいことがあるから、一度来てくれという伝言であった。その言葉が、坂田だけとの面会中に話されたのか、母親が加わってから話されたのか、言わないままに坂田はかえって行った。母親が来ない前の言葉なら、母親が来たということで、意味がなくなったかも知れないとも考えたが、また新しく私に話したいことが出来たのかも知れなかった。私は石狩にかかわりを持つ自分を、微かにうとむ気分におちながら、また逆に、駆りたてられるような落着かぬ気持にもなった。

 身仕度をし、私は新宿にでて行った。そしてはっきりしない心持のまま、そこらをあるいた。あるきながら眼についた店で、ふくらんだ麺麭(パン)を三個買い求めた。石狩のところに直ぐ面会に行こうと、釣銭を待ちながら、ぼんやり私は考えていた。しかしこの麺麭も、石狩に食べさせようというはっきりした気持ではなかった。街では広告塔のような方向から、流行歌のにごった旋律がながれていた。あの脳病院の帰りに、横町の喫茶店に寄った日を、私はふと思いだした。

 ――脳病院だってあの喫茶店だって、似たようなものさ。

 人混みを縫って駅の方にあるきながら、そんなことを私は思った。その中にいる人たちが、お互に無関心で生きているという相似を、私はあの日も感じていたのであった。無関心で生きているというのも、ひとりひとりが他からは理解されない世界を、ひとつずつ内包しているせいなのだろう。その世界がだんだん歪んできて、この世の掟や約束を守れなくなると、人は脳病院に入ったり、刑務所に入ったりするのだろう。

 警察まで、電車で一時間かかった。警察は広い鋪装路に面した古い建物であった。玄関の脇から入り、逃亡防止の金網塀に沿ってすすむと、狭い廊下のむこうが刑事部屋であった。時刻が夕方であつたから、面会できるかどうかは判らなかった。あのわかい刑事がいれば、取計ってもらえるかも知れなかった。私は廊下に立ち、すこし背伸びして、部屋のなかをのぞいた。薄暗い部屋のなかには七八人の人間がいるらしかったが、眼の慣れない私には、よごれた硝子窓を通して、それはちらちら動く影であった。その影がしだいに私の限界に形をさだめてきて、私は机にむかって椅子にかけた小さな人影をとらえた。それは小さく黒い姿であつた。ある予感が私の胸をついた。

(石狩の母親か?)

 すこし背を曲げて机にむかっていた。そばに立っているのは、あの若い刑事に似ていた。視線をそこに定めたまま、私は身体をすこしずつずらせて、刑事部屋の扉のところまで来た。扉は半開きになっていた。押すとギイと軋(きし)んで、そこらにいる三四人が私の方を見た。椅子のそばに立っているのは、やはりあの刑事であった。

「あ、ちょっと」

 ちらと私の方を見て、手で制するようなしぐさをした。それも無意識でやったような軽いそぶりであった。椅子にはひとりの老女がかけていた。閾(しきい)に立って私はそれを見た。老女の手の指は机の上の白いものに触れていた。顔は半分伏せるようにして、眼のあたりは暗く影に沈んでいた。机上の白いものは、用箋じみた紙であった。横窓から入る夕方のあわい光がそこに落ちていて、紙面には黒い点のようなものが無数にちらばっていた。老女はその上に指をまさぐらせながら、顔をそこに近づけるようにした。

 ――点字電報だ、と私は直覚した。とたんに身体のどこかがばらばらに散らばるような不快な感覚が、私をはしって抜けた。それは石狩の母親にちがいなかった。そしてそれが、石狩の父親からの電報であることがすぐ胸にきた。すると紙の上にちらばった点々が、急におそろしいものとして、私の眼にせまってきた。老女の細い指が、確めるようにそこを動いた。

(このまま、帰ってしまおうか。石狩に会うのはこの次にして――)

 麺麭のつつみを振ったまま、私はそう考えた。ひとつの帰結をこういう形で見ることが、私に堪え難い感じを起させたのであった。ある無残な感じが、凝結してそこにあった。しかしそれは私の罪でもなければ、誰の罪でもなかった。老女の盲(めし)いた横顔から眼をそむけて、私は身体をうしろにずらした。

 

[やぶちゃん後注:「麻痺性痴呆」「進行性麻痺」「進行麻痺」という疾患名もあるが、一般人は「痴呆」にのみ目が行って心因性精神疾患と誤認する傾向があるので、ダイレクトであるが、「脳梅毒」の方が誤解を受けない病名であると私は思っている。脳実質が梅毒トレポネーマ(細菌ドメインのスピロヘータ門 Spirochetesスピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属梅毒トレポネーマ Treponema pallidum)に侵されることによって発症する病気。梅毒に罹患してから数年から数十年ほどを経て後、梅毒の第二期及び第三期に出現する梅毒性脳膜炎(例外的に脳脊髄液に病的変化が認められるだけで他の症状を殆んど示さない無症候性神経梅毒もある)。第二期の場合は発熱・意識混濁・譫妄(せんもう:中・軽度の意識障害に加え、幻覚・妄想・運動不安などが加わった精神状態を指す)などの急性脳炎症状が強く出現し、第三期になると、他に性格変成・認知障害などの精神症状が強く現われ、正常な思考が不可能となり、末期は痴呆状態となる。完治は期待出来ない場合が多い。大正六(一九一七)年に野口英世が患者の脳からトレポネーマを発見し、疾患の原因究明に役立ったのみでなく、精神病に対する理解やその疾病分類学に大きく貢献した。進行麻痺は、嘗つては、精神科入院患者の二十%をも占め、統合失調症(後注参照)に次ぐ位置にあったが、梅毒罹患防止対策の進歩とともに患者数が減少し、日本では現在、殆んど発生することがなくなっている(以上は複数の百科事典を参考にして記載した。以下の二つも同様である)。著名人では哲学者のニーチェ、画家のヴァン・ゴッホ、小説家ギ・ド・モーパッサン等が高い確率でそれに罹患していたと考えられている。

「躁欝病」現行でも一般人や医師(患者や家族に判り易いため)もこの病名を現役のように用いているが、これは最早、病名としては古称であって、現在は「双極性障害」(Bipolar disorderと呼ぶ。有意な躁状態の時期と抑鬱状態の時期との病相を循環する精神疾患である。原因は外因性(或いは身体因性)・内因性・心因性(或いは性格環境因性)と多様であるが、一部の発症事例では遺伝的素因の可能性も指摘されている。

「分裂病」現在は「統合失調症」と呼び、「精神分裂病」の呼称は今は廃されており、使用してはならない。本邦では永く、かく呼ばれてきたが、もっとひどい呼称では「早発性痴呆」もかなり命脈を保った。思考・知覚・感情・言語・自己の感覚及び行動に於ける他者との歪みによって特徴づけられる症状を持つ精神疾患名(というか、原因(推定)や症状・病態遷移・器質的変化などによって明らかに異なる疾患の場合があるように見えることから「統合失調症候群」という方が私は正しいと考えている)。一般的には幻聴・幻覚・異常行動などを伴うが、罹患者によって症状は多種多様である。遺伝と環境の両方が関係しているが、現在では遺伝的要因の影響が大きいと考えられているものの、不明で、現代医学の一つの大きな壁とされる。欧米語の「スキゾフレニア」(英語:Schizophrenia/フランス語:Schizophrénie/ドイツ語:Schizophrenie)も元はギリシャ語由来の「schizo(分離した)+ phrenia(精神)」であるが、新称は、古くからの精神科医の本症状の観察の共通項である「思考の途絶」(思考が自分の意志に反して突如絶たれてしまうように感じられること)と「自生思考(じせいしこう)」(相互に無関係な考えが次々と浮かんでくることで思考が全く纏まらなくなったり、自身の意志ではなく、ある考えが自然に浮かんできて、それが異常な連想で以って繋がって拡大してゆく(関係妄想))という病態に基づいた新語として変更されたものである。ウィキの「統合失調症」によれば、本邦では当該疾患への理解が進まず、『患者の家族に対して』も『社会全体からの支援が必要とされておりながら、誤った偏見による患者家族の孤立』『も多く、その偏見を助長するとして』、『患者・家族団体等から、病名に対する苦情が多』くあり、『また、医学的知見からも「精神が分裂」しているのではなく、脳内での情報統合に失敗しているとの見解が現』わ『れ始め、学術的にも分裂との命名が誤りとみなされて』、二〇〇二年の「日本精神神経学会」総会で、『Schizophrenia に対する訳語を統合失調症にするという変更がなされた』とある。

「脳外科手術の器械」本作冒頭では「脳病院」とあり、後の病院内の様子からも判る通り、ここは精神病院であって、脳外科の専門病院ではない。但し、脳外科医はおり、脳外科の術式も行なうから、手術道具はあるということである。従ってここで言う「脳外科手術」というのは、この当時、精神疾患に有効とされた脳に対する外科的外部的術式を行う器具を指していることが判る。さすれば、時代的に見て、その「器械」とは、極めて高い確率で、かのおぞましい呪われたロボトミー(lobotomy:前頭葉白質切断術)の器具がそこにはあった可能性がある。まぶたの下から、単純な細く長いアイスピック状の器具(Orbitoclast当該の英文ウィキの画像)をハンマーで叩いて前頭葉まで打ち込み、それを左右に回すようにして、前頭葉を視床から切り離すという驚くべき粗野にして乱暴な術式である。かつては、統合失調症・双極性障害その他の精神疾患の内の重篤な患者に対して、抜本的な治療法として盛んに実施された。その歴史を辿ると、一九三五年、ポルトガルの神経内科医アントニオ・エガス・モニス(António Caetano de Abreu Freire Egas Moniz 一八七四年~一九五五年)が精神病患者に反復的な思考パターンを引き起こすと思われる神経回路を遮断するため、前頭葉前皮質に高純度のエチルアルコールを注入する手術を行なった。モニスはやがて脳内白質を切断する専用の器具を開発し、前頭前野と視床を繋いでいる神経線維の束を、物理的に切り離した。手術の結果にはばらつきがあったが、当時は興奮・幻覚・暴力・自傷行為などの症状を抑える治療法が他に殆んどなかったことから、この術式が広く行なわれるようになった。一九三六年、アメリカの脳神経科外科医ウォルター・フリーマン(Walter Jackson Freeman II 一八九五年~一九七二年)と同ジェームズ・ワッツ(James Winston Watts 一九〇四 年~一九九四年)が改良を加え、一九四〇年代にはごく短時間で行なえる術式を開発、多くの患者に実施した。ロボトミーを受けた患者の大部分は、緊張・興奮などの症状が軽減したものの、無気力・受動的で、意欲の欠如や集中力の減衰、さらには全般的な感情反応の有意な低下などの症状が多く現われた。しかし、こうした副作用は一九四〇年代には広く報じられず、長期的影響はほぼ問題視されなかった。それどころか、ロボトミーが幅広い成功を収めたという理由から、モニスは一九四九年にノーベル生理学・医学賞を受賞してさえいる。しかし、一九五〇年代半ば(昭和三十年前後)に入って、精神疾患患者の治療や症状緩和に有効な向精神薬が普及すると、ロボトミーは殆んど行なわれなくなった(ここは主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「前頭部の両側に、うすい傷痕をつけていた」間違えては困るが、これは前に注したロボトミーの手術痕ではない。「電気痙攣療法(Electro Convulsive TherapyECT)を複数回受けたその痕である(ネット上にはこれをロボトミーの手術佷と断定する記載を複数見かけるのであるが、私の認識する限り、この位置から切開したり、器具を挿入する術式を私は知らない。そうだと言う医師がおられれば、是非、御教授頂きたい)。ウィキの「統合失調症」によれば、『薬物療法が確立される以前には』、麻酔なしで行う、過酷な『電気痙攣療法(電気ショック療法)が多く用いられてきた。これは左右の額の部分から』百ボルト『の電圧、パルス電流を脳に』一~三『秒間』、『通電』することで、痙攣を『人工的に引き起こすものである』。『電気』痙攣『療法の有効性は確立されている』『が、一方で』、『有効性の皆無も臨床実験で報告されて』も『いる』。また、嘗つて電気痙攣療法が『「患者の懲罰」に使用されていたこともあり』(私は昭和四五(一九七〇)年の新聞連載記事(私は中学二年)で、その当時でも、この電気ショックによるサディズム的傷害懲罰行為が行われていた事実があったことを読んで、激しい憤りを覚えたのを忘れない。恐らく、その当時の切抜きは今も書庫の底に眠っているはずである)、『実施の際』、『患者が』痙攣『を起こす様子が残虐であると批判されている』。『稀に電気』痙攣『療法が脊椎骨折等の危険性があるため、現在では麻酔を併用した「無痙攣電気』痙攣療法」(修正型(modified)電気痙攣療法:mECT)が『主流である。しかし、副作用や無痙攣電気』痙攣『療法の実施の際には、麻酔科医との協力が必要であることなどからして、実質的に大規模な病院でしか実施できない。現在では、この治療法は主力の座を薬物療法にその座を譲ったものの、急性期の興奮状態の際などに行われることもある』。『NICE』(イギリス国立医療技術評価機構)『は「現在の根拠では、ECTを統合失調症の一般的管理としては推奨することはできない」として』、『ECTは全ての治療選択肢が失敗したか、または差し迫った生命危機の状況のみに使われるべきであるとしている』とある。]

乞食 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    乞  食

 

 私は道を步いてゐた……老衰した乞食が袖を引いた。

 血走(ちばし)つて淚ぐんだ眼、蒼い脣、ひどい襤褸(ぼろ)、膿(う)んだ傷(きず)……あゝ、何たる忌はしい貧窮が此の悲慘な人間に食ひ込んだのであらう!

 彼はむくんで赤くたつた汚ない手を私に差出した。彼はうめいて、ぶつぶつと施しを乞うた。

 私は衣囊(かくし)を殘らず探しはじめた……財布も無い、時計も無い、ハンケチすらも無い……何一つ持つて出なかつたのだ。それに乞食はまだ待つてゐる……彼の差出した手はぶるぶる顫(ふる)へてゐる。

 はたと當惑して、私は此の汚ない顫(ふる)へる手をしつかり握つた……『君、宥(ゆる)してくれ、僕は君、何も持合せてゐないんだ』

 乞食はその血走つた眼を私に向け、蒼い脣に微笑を含んで、彼の方でも私の冷たい指を摑(つか)んだ。

『そんな事を、貴下(あなた)』と彼は呟いた、『これも有難いので。これも施物(ほどこし)でございます、旦那』

 私もまた彼から施物(ほどこし)を得たのを感じた。

    一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:本篇を読む都度、今の私はユン・ドンジュ(尹東柱)氏の詩「ツルゲーネフの丘」を思い出さずには、おれない。こちらを見られたい。ハングルの原詩と私の教え子が訳して呉れた邦訳を載せてある。]

我が競爭者 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    我が競爭者

 

 私は一人の競爭者や持つてゐた。事業や、官職(つとめ)や、戀愛上の競爭者ではなかつたが、たゞ二人の意見はどんな問題にも一致しないので、二人が出會ヘぱ果てしもない議論が起つた。

 二人は事每に爭つた。藝術や、宗教や、科學に就いて、地上や墓の彼方(かなた)の生活に就いて、とりわけ墓の彼方の生活に就いて。

 彼は正敎信者で、且つ狂熱家であつた。或る時彼は私にかう言つた、『君は何でも嗤わら)

ふが、若し僕が君より前(さき)に死んだら、きつと他界(あのよ)から君のところへ來る……その時君がなほ嗤(わら)ふかどうか見たいものだ』

 そして事實彼は私よりも前(さき)にまだ若くて死んだ。けれども歲月(としつき)は移(うつ)つて、私は彼の約束、彼の脅喝(けふかつ)を忘れてしまつた。

 或る夜、私は床に就いたが眠れなかつた。と云ふより眠る氣がしなかつたのだ。

 部屋の中は暗くも明るくもなかつた。私はいつか灰色の薄明(うすあか)りをぢつと見入つてゐた。

 すると不意に二つの窓の間に私の競爭者が立つてゐて、靜かに悲しげに、頭を上下に振つてゐるやうに思はれた。

 私は恐れなかつた、驚きもしなかつた……けれども少し起き上つて、肘(ひぢ)を突いて、その思ひがけない幻影を一層鋭く打見やつた。

 その幻影はやはりうなづいてゐる。

『さあ?』と私はとうとう言つた、『君は勝ち誇つてゐるのか、悔い憾(うら)んでゐるのか? どうだね――警(いまし)めるのか責めるのか?……或はまた自分が間違つてゐたとか、二人共間違つてゐたとか知らせに來たのか? 君はどんなことを經驗したのか? 地獄の責苦か? 天國の愉樂か? せめて一言(こと)でも話したまヘ!』

 けれども私の競爭者はたゞの一言も言はないで、相變らず悲しげに穩(おだや)かに頭を上下に振つてゐるばかりだ。

 私は笑つた……彼は消えてしまつた。

    一八七八年二月

 

正教、露西亞の國教、希臘より傳はつた基督教である。ツルゲエネフは獨逸哲學に心醉した懷疑主義者だつたから、死後の生活について信じ得なかつたのである。この篇は「祈禱」などと比較して考へれば一層よくわかる。――競爭者と云ふのはネクラソフではないかと思はれる。ネクラソフはロシアで最も廣く讀まれた傾向詩人で、彼は詩を實利主義の奴隷となし、「乾酪は一片のプウシキンの全集より尊し」と叫んだ。だから藝術の自由を說くツルゲエネフとは合はなかつたのである。ネクラソフの代表作は長篇詩「露西亞にて幸福に生くる者は誰ぞ」「露西亞の婦人」等で、西歐にもよく知られてゐる。】

[やぶちゃん注:「祈禱」本書の終りから二番目のずっと先の作品なので、若い人のために『トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 祈り』をリンクさせておく。

「ネクラソフ」ロシアの詩人で雑誌編集者であったニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフ(Николай Алексеевич Некрасов/。ラテン文字転写:Nikolai Alekseevich Nekrasov 一八二一年~一八七八年)。一八四七年、故プーシキン(後注)が創刊した雑誌『同時代人』の発行者の一人となり、革命的民主主義の機関誌として、その地位を確立させたが、一八六六年に同誌が発行禁止処分にされたため、一八六八年に『祖国の記録』誌の発行権を買収、死ぬまでその編集と発行に当たり、進歩思想運動の合法的機関とした(ここまではウィキの「ニコライ・ネクラーソフ」に拠った)。ツルゲーネフ(一八一八年~一八八三年:六十四歳で没)より三つ歳下であるが、五十六で亡くなった。本「散文詩」(“Стихотворение в прозе”:ラテン文字転写“Stikhotvoryeniye v proeye”)は一八八二年十二月に雑誌“Вестник Европы”(Vestnik Evropy:『ヨーロッパ報知』)に“SENILIA”という標題で発表したものが原型(その後の経緯や改題等の詳細については、私の「ツルゲーネフ 散文詩 中山省三郎譯 (全83篇)」の冒頭注を参照されたい)。

「乾酪」チーズ(cheese)。

「プウシキン」ロシアの詩人・作家でロシア近代文学の嚆矢とされるアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Alexander Sergeyevich Pushkin  一七九九年~一八三七年)。妻絡みの決闘による傷で亡くなった。その経緯はウィキの「アレクサンドル・プーシキン」を参照されたい。]

太平百物語卷三 廿七 紀伊の國かくれ家の事

Kiinokunikakurega


 

   ○廿七 紀伊の國かくれ家(が)の事

 泉州岸和田に、志賀右衞門(しがへもん[やぶちゃん注:ママ。])といふ者あり。若年の比(ころ)ほひより、志(こゝろざし)誮(やさ)しき[やぶちゃん注:「優しき」に同じい。]男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])にて、諸國を經廻(へめぐ)り、神社佛閣、或は、名勝古跡を尋(たづね)る事を樂しみけるが、一年(ひとゝせ)、熊㙒山(くまのさん)の方に赴(おもむき)ける時、紀伊の國、日高の郡(こほり)を通りしが、実(げに)、秋の日のならひにて、おもひの外に暮(くれ)かゝり、殊更、小雨そぼふり、何となく、物あはれなりければ、

    こさめふる秋のゆふべのきりぎりす

     たえだえになる聲ぞかなしき

と、口ずさみければ、一入(ひとしほ)、こゝろもしめり行くほどに、

『今宵は此あたりに宿をこひ、一夜(ひとよ)を明(あか)さばや。』

と、おもひしに、近きあたりには家居(いへゐ)も見へず。

「いかゞせん。」

と、たどり行に、少し道の傍(かたはら)なる小高き所に、家一軒、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、志賀右衞門、よろこび、

「いざや、これに行きて、宿をからん。」

と、あぜ道をつたひて、五、六丁斗(ばかり)[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十五メートル弱。]も行とおぼへて、彼(かの)所に至り、やがて、案内をこひ、「しかじか」のよしをいひければ、内より、三十斗(みそじばかり[やぶちゃん注:ママ。])の女、立ちいで、志賀右衞門を、つくづく、みて、

「旅人(たびびと)にて渡らせたまふかや。一夜のほどは、かしまいらせん。此方(こなた)へ入らせ玉へ。」

と、いと心よく、いひければ、志賀右衞門、よろこび、内に入、家内(かない)を見るに、此女の外、人、一人も、なし。

 志賀右衞門、ふしぎをなし、あるじの女にむかひ、

「見申せば、召しつかひ玉ふ人もなく、御つれあひもましまさぬは、御他行(おんるす)にもや。」

と尋ぬれば、女、打ゑみ、いひけるは、

「われ、元より、夫(おつと)なし。夫なければ、子といふ者も、さぶらはず。一生、寡(やもめ)にて侍(はん)べる[やぶちゃん注:ママ。]。」

といへば、志賀右衞門、重ねて、いふ。

「此所には、續く家居も見へざるに、若き女性(しやう)[やぶちゃん注:「にやしやう」。]の、獨(ひとり)住(すみ)玉ふ事こそ、不審(いぶか)しけれ。これ、必(かならず)、僞(いつは)りならめ。眞(まこと)を明(あか)させ玉へ。」

といふに、女、いよいよ打わらひ、

「何(なに)しに僞りまいらせん[やぶちゃん注:ママ。]。我、常は獨住[やぶちゃん注:「ひとりずみ」。]といへども、用ある時は、これなる箱の内より、呼出(よびいだ)し遣(つか)ひ侍るなれば、つれづれもなく、まして、不自由も、さふらはず。」

と、いふにぞ、彼(かの)箱をつくづく見るに、わづか、方四寸ばかりなる、いと古びたるなり。

 志賀右衞門、大きに笑ひ、

「こは。そも、我を無骨(ぶこつ)の男とおもひ、あるじの御方(おかた)の戲(たはむ)れをこそ宣(のたま)へ。われ、先ほどより、何とやらん、物さびしく侍らへば[やぶちゃん注:ママ。]、何にても、あつ物にして与へ玉へ。これぞ御芳志ならん。」

と、いふ。

 女のいはく、

「実(げに)。さにこそ侍らん。一樹(いちじゆ)の陰(かげ)、一河(いちが)の流れも、他生(たしやう)の緣にてさふらへば、何をがな參らせ度(たく)は候へども、はかばか敷[やぶちゃん注:「はかばかしき」。]物も侍らはず。我、常に蕨(わらび)を好みて、食物(しよくもつ)とし侍る。これを与へ參らせん。」

とて、かの箱の上を、

「ことこと。」

と叩きければ、内より、二十(はたち)斗の女、忽然と顯はれ出でたり。

 亭(あるじ)の女の、いふ。

「今宵、客人(まらうど)あり。なんぢは、急ぎ、わらびをしつらへて、參らせよ。」

と、いへば、此女、點頭(うなづい[やぶちゃん注:ママ。])て、納戶(なんど)に入る。

 又、箱をたゝけば、十四、五才の童子、穴の中より出たりしを、

「汝は、客人に茶を煮て、まいらすべし。」

と、いふに、これも應じて、納戶に行(ゆく)。

 暫くして、彼(かの)女、わらび餅を持出(もちいで)、志賀右衞門が前に置く。

 志賀右衞門、此有樣をみて、大きにあやしみ、

『これ、人間にあらじ。此餅を喰(くは)ん事、如何(いかゞ)ながら、若(もし)、喰ずんば、いかなる事やあらん。』

と、心ならず喰(くひ)ければ、童子、同じく、茶を持來(もちきた)る。

 これも、力なく飮(のみ)ければ、亭主(あるじの)女、二人の者に、いふ樣、

「今は、はや、用、なし。休むべし。」

と、いへば、二人共に、頓(やが)て、彼(かの)箱に、入りぬ。

 志賀右衞門、奇異の思ひをなし、亭女(ていぢよ/あるじ)にむかひ、いふやう、

「われ、數年來(すねんらい)、諸國を廻(めぐ)り侍るといへ共、終にかゝる奇術を見ず。御身は、そも、いかなる人にてましませば、かゝる奇特(きどく)をなし給ふ。願(ねがは)くは御物語(ものがたり)候ひて、我(わが)冥闇(めいあん)を、はらさせ給へ。」

と、いへば、亭女(ていぢよ)のいはく、

「是、妖術なり。されども、御身の爲に、更に害なし。我、此所に住(すむ)事、百餘年、御身のごとく、道に迷ひ來(きた)る人、これまで、四人なり。此術をあながちに問ふ人、其内、二人ありて、力なく、命(いのち)を取。二人は問はずして、命、全(まつた)く、歸しぬ。」

と語れば、志賀右衞門も、其言葉の恐しさに、再び、とはず。

 とかくして、夜(よ)も明方ちかくなりければ、亭女のいふ。

「もはや、夜(よ)も望白(あけなん)とす。これより、徃來(わうらい)の巷(ちまた)まで、おくり屆け參らせん。御身、此所へ來(き)し事、『假初(かりそめ)に五、六丁』と思へど、すべて人倫の道路、四方、すでに五十里[やぶちゃん注:百九十六キロメートル強。]あり。夜前(やぜん)、わが家(いへ)の方(かた)を見上(みあげ)玉ふゆへに[やぶちゃん注:ママ。]、通力(つうりき)を以て、招きたり。されば、今、御身、人力[やぶちゃん注:「じんりよく」。]にて出玉はん事、努(ゆめ)々おもひもよらず。」

とて、志賀右衞門が腰に、手をかくる、と見へし、やがて、徃來の道に出たり。

 志賀右衞門は、茫然として、跡を見かへれば、遙かの樹木(じゆぼく)生茂(おひしげ)りたる山のみ幾重(いくへ)もかさなり、彼家(かのいへ)とおぼしき物は露斗(つゆばかり)も見へざれば、偏(ひとへ)に夢の覚(さめ)たる心地して、夫(それ)より、熊㙒山にまふで侍りしとかや。

 ふしぎなりし事共なり。

[やぶちゃん注:数百年を生きた妖術を使う女と紀伊とくれば、泉鏡花の「高野聖」、はたまた、日高郡にして夫はなくして一生が寡婦(やもめ)と不思議なことを呟くところは、即座に安珍・清姫の「道成寺説話」を想起させる(因みに私はサイトに特設ページ「――道成寺鐘中――Doujyou-ji Chroniclを持つ程度に同説話にはフリークである)。少なくとも作者の意識の中には後者が面影として映じているものと私は読む。

「泉州岸和田」現在の大阪府岸和田市(グーグル・マップ・データ)。

「志賀右衞門」挿絵を見る限り、二本差しで武士である。因みに、挿絵は時制を合わせずに、登場人物を総て登場させている。但し、不思議な箱は大き過ぎる。

「何とやらん、物さびしく侍らへば」何となく、小腹がすいて御座れば。

「あつ物」ちょっとした煮物或いは熱い汁物。恐らくは、彼女の夕食の余り或いは残り物をイメージしたものかと思われる。

「これぞ御芳志ならん。」「それこそ今の拙者にとって、まっこと、ありがたきお心遣いと申すものに御座る。」。

「望白(あけなん)とす」これはとてもいい風流な当て訓ではないか。]

姬百合 伊良子暉造(伊良子清白)

 

姬百合

 (醉茗ぬしの百合の泪につゞき侍りて)

 

「やよ言問はむ   姬百合よ。

    たれに見せむと  うるはしき、

 花のすがたを   さやかなる、

    水のかゞみに   うつすらむ。」

    *  *  *  *

「こととふ人の   おろかさよ。

    誰のためにか   かざるべき。

 君が手折りて   かの人に、

    おくり給はむ、  ためにとて。」

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年三月の『少年文庫』掲載(前の同様の字配の「常盤の前」と併載)。署名は本名の伊良子暉造。特異な和歌のような分かち書きはママ。添え辞にある河井酔茗の「百合の泪」(ゆりのなみだ)は不詳。こういうものは河井酔茗のそれと併置してこそ評価出来るものであると思う。]

常盤の前 伊良子暉造(伊良子清白)

 

常盤の前

 

櫻はなさく高殿に、

      琴かきならしあそびしも、

    月影淸き秋の夜に、

        笛吹きすさびあそびしも、

          今はむかしとなりにけり。

  よそほひ飾りしあともなく、

        綾もにしきも色うせぬ。

    かはるこの身は恨まねど、

           いとし三人をいかにせむ。

     *  *  *  *

 伏見の野路はくれはてゝ、

       見渡すかぎりはるばると、

     雪ふりつもる夕まぐれ、

         いづこの誰れに宿からむ、

           かるべき宿もあらなくに。

   松の下蔭雲散りて、

         すさぶ嵐の音凄し。

     ひゆるこの身はいとはねど、

           いとし三人やさむからむ。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年三月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。特異な和歌のような分かち書きはママ。

「常盤の前」源義朝(保安四(一一二三)年~平治二月三日(一一六〇年二月十一日))の側室で、かの源義経の実母である常盤御前(ときわごぜん 保延四(一一三八)年~?)。義朝との間に今若(後の阿野全成(仁平三(一一五三)年~建仁三(一二〇三)年:鎌倉幕府開幕後も有力御家人として将軍家に仕えたが、正治元(一一九九)年に頼朝が死去し、甥の頼家が将軍職を継ぐと、全成は、実朝を擁する舅北条時政及び義兄弟の義時と結び、頼家一派と対立するようになった。建仁三(一二〇三)年五月十九日の子の刻に先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し、御所に押し込め、同月二十五日に常陸国に配流され、六月二十三日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年)・乙若(義円(久寿二(一一五五)年~治承五(一一八一)年:異母兄の頼朝が挙兵すると、その指揮下に合流し、父である義朝から一字を採って義円と改名、治承五(一一八一)年、叔父源行家が尾張で挙兵すると、頼朝の命により、援軍としてその陣に参加した。墨俣川河畔にて平重衡らの軍と対峙(「墨俣川の戦い」)したが、この時、義円は単騎、敵陣に夜襲を仕掛けようと試みるも失敗し、平家の家人(けにん)高橋盛綱と交戦の末、討ち取られた。享年二十七)・牛若(義経(平治元(一一五九)年~文治五(一一八九)年:享年三十一)の三人(詩篇中の「三人」は「みたり」と読もう)に子を設けた。近衛天皇の皇后九条院藤原呈子の奥向きの召使いであったが、源義朝の側室となった。「平治の乱」(保元元(一一五九)年)で敗れた義朝が殺されると、常盤は平氏の追及を逃れて、三児を連れ、大和国に隠れた(本篇は現在の二月中旬のその折りの歴史詠である)。しかし、結局、平氏に捕らえられた母を助けるために六波羅に自首し、許された。この時、平清盛の妾となったとも伝えられる。のち一条大蔵卿藤原長成に嫁している。]

落花 伊良子暉造(伊良子清白)

 

落 花

 

須磨でらの、

わたりなるらむ。

かき鳴らす、

ことの音ぞする。

しほ干かた、

とほくなるらし、

いそ千どり、

こゑのはるけさ。

ゆめさめて、

ねながら見れば、

まどしろく、

ひるよりあかし。

ゆきふりて、

つきやてるらむ、

月さえて、

ゆきやてるらむ、

つきとゆき、

いづれがあかき。

このゆきの、

ひかりたのみて、

このつきに、

こゝろうかれて、

あまおとめ、

ことや彈くらし。

小夜ころも、

たもとかさねて、

しばらくは、

まくらを取れば、

いつしかに、

ことは絕えたり。

いそ千どり、

こゑもきこえず。

あまおとめ、

かへり行くらし、

いそちどり、

とほくなるらし。

ゆき分けて、

つきやめづらむ。

ゆきめでゝ、

つきに鳴くらむ。

いつしかに、

ことの音ぞする。

いそちどり、

またきこゆなり。

あまおとめ、

かへり來ぬらし、

いそ千どり、

ちかくなるらし、

ゆきしろく、

つきぞさえたる、

つきしろく、

ゆきぞさえたる。

まくら邊に、

音するはなに、

しづけさを、

やぶりてきこゆ。

かりかねの、

なきつれ行くか、

こひびとの、

おとづれ越しか、

かりがねの、

なきつれくるは、

たがために、

ことづてすらむ。

ふるさとに、

おくれるふみか、

ふるさとゆ、

おくれるふみか、

ふるさとに、

おくれるふみも、

ふるさとゆ、

おくれるふみも、

おしなべて、

なみだなるらむ。

こひびとの、

おとづれこしは、

誰をしのぶ、

こゝろなるらむ。

くさまくら、

むすばむとてか、

たびころも、

あひ見むとてか、

またもおと、

びゞききこえぬ。

まくら邊に、

おとするはなに、

くしき聲と、

細戶にあくれば、

なかそらの、

つきぞかすめる。

くれたけも、

のきのしのぶも、

おしなべて、

かたをも見せず、

眞しろたえ、

うづもれてけり。

流れ來る、

かけひのみづも、

ぬののごと、

しろくそゝげり。

ふかみどり、

こけむすいはも、

またまなす、

ましろにてれり。

ゆめにやと、

おもへばかをり、

ゆきにやと、

おもへど消えず。

いまぞ知る、

まどのあかきは、

ゆきならで、

はなにありけり。

ことの音と、

おもひしこゑは、

磯なれまつ、

びゞくなりけり。

千どりかと、

きゝたるこゑは、

さゞなみの、

おとにありけり。

まくら邊に、

おとづれたるは、

ちるはなの、

ひゞきなりけり。

はるの夜の、

つきのひかりの、

やうやうに、

うすらぎ行きて、

みねのてら、

かねの音すれば、

しのゝめの、

あは路しまやま、

たえたえに、

なみとはなとの、

いろぞ分かるゝ。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年三月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。三箇所出る「あまおとめ」の表記はママ。

「またまなす」「眞珠成す」。]

2019/05/10

犬 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 部屋(へや)の中には私達二人、犬と私と……戶外(そと)には恐ろしい嵐が吹き荒(すさ)んでゐる。

 犬は私の前にすわつて眞面(まとも)に私の顏を見守つてゐる。

 私もまた犬の顏を見てゐる。

 犬は何か言ひたげにしてゐる。彼は默つてゐる、言葉が無いのだ、自分で自分がわからないのだ――けれども私は彼の心を知つてゐる。

 私は此の瞬間(しゆんかん)に彼にも私にも同じ感情があつて、私達の間には何の差別も無いことを知つてゐる。私達は同じ生物だ、何方(どちら)にも同じ顫(ふる)へる火花(ひばな)が燃え輝いてゐるのだ。

 死はその冷たい廣い翼(つばさ)を羽搏(はばた)いて落して來る……

 かくて萬事休す!

 誰かその時私達二人の心に燃えた火花の差別を立て得ようぞ?

 いな! 互に見交す二人は獸と人間ではない……

 互にぢつと見交してゐる眼は同等な物の眼である。

 獸(けもの)にも人間にも、同じ生命が恐れ戰(をのゝ)きつゝも互に寄り添うてゐる。

    一八七八年二月

 

老婆 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    老  婆

 

 私は廣い野を一人步いて行く。

 突然背後(うしろ)に輕い用心深さうな足音が聞えた……誰かゞ從いて來る。

 振返つて見ると、灰色の襤褸(ぼろ)を纒うた小さな腰の曲つた老婆だ。襤褸(ぼろ)の中からは黃色な、皺の寄つた、鼻の尖つた、齒の無い顏ばかりが覗いてゐる。

 私は傍へ寄つた……老婆は立止つた。

『お前は何だ? 何が欲しいのか? 乞食かお前は?施與(ほどこし)を貰ひ度いのか?』

 老婆は答へない。私はその方に身を屈(かゞ)めて見て、老婆の兩眼とも一種の鳥に見られるやうに半透明な白い薄皮(うすかは)で蔽はれてゐるのに氣が附いた。彼女の眼はそれに依つて鋭い光から保護されてゐるのだ。

 けれどもこの老婆にあつてはこの薄皮(うすかは)が動かないで、瞳(ひとみ)も蔽うてゐる……それで私は彼女が盲目であると推した。

『施興(ほどこし)をくれろと云ふのか?』と私はもう一度聞いて見た。『何故(なぜ)お紛は私に從(つ)いて來(く)るのだ?』

 けれども老婆はやつぱり返事をしないで、かすかに身顫(みぶる)ひした。

 私は身を返して步き出した。

 するとまた例の輕い規則正しい忍び足とも云はゞ云はれる足音がする。

『また婆めが!』と私は思つた、「何故(なぜ)私にくつゝいて來るんだらう?』けれども私は直ぐにひそかに附け加へた。『大方目が見えないものだから道に迷つて、私の足音について人里へ出ようとするんだらう、てつきりさうだ』

 けれども一種異樣な不安の念がだんだん私の心を捕へた。老婆は私に從(つ)いて來るばかりではなくして、右へ左へ私を動かして、私は知らず識らずその命令に服してゐるのだと思ひ出(だ)した。

 けれども私は矢張り進んで行く……然し見よ、私の行手には黑く廣いものが……穴のやうなものがある……『墳墓!』と云ふ考へが頭に閃いた。『老婆は彼處(あそこ)へおれを追ひ込まうとしてゐるんだ!』

 私は急に振返つた。老婆はまたも私と對(むか)ひ合つた……然(しか)も今は目が見える! 老婆は大きな殘忍な不氣味な目で……摯鳥(ラウプフオーゲル)の目で私を見てゐる……私も彼女の顏を、彼女の目をきつと見た……と、また例の不透明な膜、また例の盲(し)ひた鈍い顏附……

『あゝ!』と思つた、「此の老婆はおれの運命だ。人閒の免(のが)れられない運命だ!』

『免れられない! 免れられない! いや、それは狂氣!……免れなけりやならぬ!』そこで私は違つた方向に向つた。

 私は急いだ……けれども矢張り後からはまたかの輕い足音がばたばた近づく……前にはまたかの暗い塚穴(つかあな)。

 また他の方に向ふ……また後にはおなじ足音、前には同じ恐ろしい黑鮎。

 追はれてゐる兎のやうに向きを變へて何方へ走つても……駄目だ、駄目だ!

『待てよ!』と私は考へた。『一つ誑(だま)してやらう! 何處へも行くまい!』そして私は直ぐ樣地面にすわつた。

 老婆は私より二步許り後に立止つた。音は聞えなかつたが、其處にゐるのを感じたのだ。

 不圖(ふと)向うの例の黑鮎を見やると、漂うて私の方へ這つて來る!

 ああ神よ! 私は見返る……老婆は私をぢつと見て、齒のない口を歪(ゆが)めて冷笑してゐる。

『免れられない!』

    一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:「摯鳥(ラウプフオーゲル)」「摯鳥」は「シチョウ」(現代仮名遣)で爪と嘴を持ち、他の鳥をそれで攫(つか)み噛み殺して食う強い獰猛な肉食鳥、所謂、鷲・鷹等の猛禽類を指す。ルビの「ラウプフオーゲル」は「猛禽類」の意のドイツ語“Raubvögel”(カタカナ音写:ラオプフォーゲル)である。かく振っているからには、この一篇は「序」で生田春月が示した「ヰルヘルム・ランゲ」のドイツ語訳をもとにしているものと判る。一部で見かけ上では改行判断がつかない箇所は中山省三郎氏の訳に準じた(向後もその仕儀で行き、一々この注は附さない)。]

藁屋 伊良子暉造(伊良子清白)

 

藁 屋

 

村のはづれのやま下に、

椎の木小陰をよすがにて、

あはれにすめる宿ありき。

屋根の古藁苔むして、

見るだにいとゞ荒たりき。

 

門にはきよき水ながれ、

せ戶には狹き畠ありき。

おみなはいでゝ衣あらひ、

おきなはいつも耕して、

その日その日を送りにき。

 

ほかにひとりの少女子の、

いともやさしき孫ありて、

町にいでゝは花を賣り、

村にかへれば花を採り、

かくて二人をなぐさめき。

 

村の人らの折々に、

つかれ休めに立よれば、

三人はいともうれしげに、

茶などくみつゝくさぐさの、

話にときを移しにき。

 

話にきけば少女子の、

父はいくさに討死し、

はゝは一昨年世をさりて、

わすれ形見に殘りしは、

花うる少女一人のみ。

 

少女はいとゞ幼くて、

まだ十一の春なれば、

二人はことにうつぐしみ、

むかふの町を朝ごとに、

花をうらせてすぐすとぞ。

 

かゝる話をきゝしより、

幼心にいとほしく、

父に乞ひては米送り、

はゝにこひては衣をやり、

三人をいたくめぐみにき。

 

はづれながらも近ければ、

あるは少女と花をつみ、

あるは媼のはなしきゝ、

朝な夕なにおとづれて、

あそばぬ日とてあらざりき。

 

さるを都にいと永く、

くらして今年きてみれば、

ふりし藁屋は人もなく、

椎の木高くたてるのみ。

門の小川は水かれて、

背戶の畠には草おひぬ。

あはれ三人はいかなれば、

この山陰をよそにして、

遠くいづちに移りけむ。

 

[やぶちゃん注:これより、明治二八(一八九五)年パートに入る。この年の十月四日で伊良子清白満十八歳となる。明治二十八年一月三日発行の『少年園』掲載。署名は本名の伊良子暉造。彼らしいしみじみとした物語風の一篇である。]

明月 伊良子暉造(伊良子清白)

 

明 月

 

内日刺(うちびさす)、花の都(みやこ)のたか殿(どの)に、うま酒(さけ)のみて、絲(いと)聞(きゝ)て、秋(あき)の長夜(よなが)をよもすがら、浮(うか)るゝ人も、日(ひ)のもとの御國(みくに)のみ民。眞萩散(まはぎちる)、花野(はなの)の露(つゆ)にぬれぬれて、筒(つゝ)とり持(もち)て、太刀(たち)帶(はき)て、秋(あき)の長夜(ながよ)をよもすがら、守(まも)れる人も、日のもとの御國(みくに)のみたみ。

かくばかり、へだてある世(よ)をへだてなく、うかるゝ人も、守(まも)れるも、ひとつに照(て)らす、秋(あき)の夜(よ)の月の心(こゝろ)やいかならむ。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年十二月六日発行の『國民新聞』掲載。署名は本名の伊良子暉造。日清戦争中であることを考えれば、まず、外地で守備兵として徹宵歩哨する日本兵へを想起した慰問詩であろうが、一種の歴史詠の現代風今様として読んでも別段悪くはない。こうした散文形式は伊良子清白の詩篇では異色。「筒」は小銃。当時の陸軍の主力はボルト・アクションの村田単発銃。なお、本篇が底本の「未収録詩篇」の明治二十七年(伊良子清白満十七歳)のパートの最後である。]

やま彥 伊良子暉造(伊良子清白)

 

や ま 彥

 

紅葉かつ散る夕まくれ、

谷の細道乙女子は、

夕日せおひて歸り來ぬ。

走りて行きて又ゆきて、

あとなる母をながめつゝ、

かたみにみてる松茸を、

出しては入れつ又出しつ、

かぞヘかぞへてうれしげに、

やさしき歌をうたふなり。

うたひながらも母さまよ、

あれ聞き給へはゝ樣よ、

かしこに聞ゆるうたの聲、

妾のうたににたりけり。

去年の長月あねさまに、

おしへて給ひしこの歌に、

よくもにたりと乙女子は、

手をうち叩きうちたゝき、

いとうれしげに母さまよ、

よびてよよびてかの人を、

よびてよ母よかの人を、

妾のうたふこのうたを、

うたへる人は姉ならむ。

櫻のはなの咲く頃に、

わかれまつりし姉ならむ。

よびてよよびてあね樣を、

あね樣かしこにおはすなり。

呼びて呼びてとむつかるを、

母はすかしつ姉さまは、

追いや遠きいや遠き、

遠き國へと行きましぬ。

遠きくにへと行きまして、

こゝにはたえてあらぬなり。

あらぬをなれはいかなれば、

姉よ姉よとしたふらむ。

されども孃よ姉さまは、

明日にもならばかへりなむ。

明日にもならば土產(ミヤ)もちて、

かへりますらむ姉さまは、

よい子よ孃もひとりして、

あそべといへば乙女子は、

つむりふりつゝ姉さまは、

かしこの谷におはすなり。

かしこの松の下陰に、

きのこたづねておはすなり。

わらはは行かむかの谷に、

この籠もちて姉さまに、

見せなばいかに多(サハ)なりと、

たゞへますらむ母さまよ、

行かむ行かむとむつかるを、

母はとゞめてかなしげに、

かしこに聞ゆる歌聲は、

なれのうたへるうたなれど、

姉のうたへるうたならず、

木魂におとする山彥の、

こたふる聲のひゞくのみ。

まことや孃やが姉さまは、

道いや遠きいや遠き、

遠き國なる久方の、

あまつ國へと行きまして、

天津御神のそのそばに、

その歌うたひておはすらむ。

おはすなるらむうれしげに、

よい子よ孃もひとりして、

あそべといへば乙女子は、

いとあやしげにいく度か、

悲む母を見あげつゝ、

わらはの姉のゆきませし、

天つ御國はいづこかと、

問ひつゝつむり傾けて、

わらはも行かむその國に、

つれてゆきてよ母樣よ、

つれてつれと乙女子の、

せくをすかしつ諸共に、

かなしき歌をうたふなり。

かなしき歌もいつしかに、

遠くなり行く谷陰を、

おくれて歸る村鴉、

時に友やまつならむ、

あとなるものはまた先に、

さきなるものはまたあとに。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年十一月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。「たゞへますらむ母さまよ、」の「たゞへ」はママ。]

花賣り 伊良子暉造(伊良子清白)

 

花 賣 り

 

いとも長閑けき春の目に、

少き乙女のたゞひとり、

都大路のをちこちを、

花よ花よとあはれにも、

行きつ戾りつよばふなり、

朝とくよりもくるゝまで。

 

みち行く人のをりをりに、

きのふまでこしなが母の、

こぬはいかでと尋ぬれば、

いとかなしげに乙女子は、

淚うかべてなかなかに、

たえていらへもせざりけり。

 

されど乙女はやさしげに、

花よ花よといつ見ても、

來らざる日はなかりけり、

おなじ大路をたゞびとり、

行きつ戾りつしかすがに、

こゑはあはれにかれがれて。

 

さるを乙女はこのころは、

あはれいかにやしたりけむ、

たえてくることなかりけり、

小瓶の花はうるはしく、

きのふもけふもをとゝひも、

さかり久しくさきぬれど。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年十月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。十一年後の明治三六(一九〇三)年二月発行の『文庫』初出の「花賣」(手を加えて「孔雀船」に収録)があるが、無論、全くの別物である。]

兵士の朝鮮に行くを送る 伊良子暉造(伊良子清白)

 

兵士の朝鮮に行くを送る

 

雲さわぎ龍かもいまく、

雨くろし神かもおつる、

鴨みどり川水にごり、

碧ひづめ花ぞ散り布く、

ふるひたち行けや益荒雄、

千速ぶる神の御國の、

しき島のやまと魂、

示すべき折こそ來つれ、

ふるひたち行けや武夫、

劍太刀おとなりびゞき、

空高くこま嘶けり、

これぞげに醜の御盾ぞ、

思ひやれ新羅のむかし、

見ても知れ筑紫の嵐、

そのかみのいさを忍べば、

醜の支那なにかはあらむ、

碧蹄のから山おろし、

不知火の神の御いぶき、

今もなほむかしのまゝぞ、

いざやゝよ支那の奴子等、

神代より鍛へ鍛へし、

大和だまいやとぎすまし、

日本太刀斬味見せむ、

見よや見よ豐島牙山、

荒磯の岩根にくだけ、

朝露の消えてぞ失せし、

これぞ實に御國の稜威、

行けや行け日本益荒雄、

箱崎や松浦の沖ゆ、

百船の對馬の海ゆ、

黑船ははやいで行けり、

水行かば水つくかばね、

山ゆかば草むすかばね、

大君のへにこそ死なめ、

これぞ實に日本武夫、

さゝらがた錦の御旗、

唐山のみ山颪に、

おし樹てゝ攻めても行けや、

鴨みどり川水にごり、

碧びづめ花ぞ散り布く、

行きて行きて攻めても崩せ、

支那の大城。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年九月三日発行の『少年園』に掲載されたもの。署名は本名の伊良子暉造。愛国少年の戦意高揚詩。この年、朝鮮で内紛が起こって日・清はその事実上の覇権を窺っていた。ウィキの「日清戦争」によれば、この年の一月上旬に『重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の下で蜂起し』、『農民反乱が勃発』、『自力での鎮圧が不可能な事を悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も』「天津条約」『に基づ』き、六月二日に『日本人居留民保護を』名目と『した兵力派遣を決定』、三日後の六月五日に『大本営を設置した。日清双方による部隊派遣を危惧した朝鮮政府は』、急遽、『東学党と和睦し』六月十一日までに『農民反乱を終結させると』して、『日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし、日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないとして』十五『日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると』、二十四日、『日本は単独で改革を行う旨を宣言』、『これが最初の絶交書となった。同時に日本の追加部隊が派遣され』、六月三十日の『時点で清国兵』二千五百『に対し』、『日本兵』八千『名の駐留部隊がソウル周辺に集結』、七月九日、『同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、内政改革を主張する日本側の間で開かれた再度の会談も決裂し』、十四日、『日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており』、七月十六日に『日英通商航海条約を結ぶ事に成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌』『日に清国との開戦を閣議決定し』た、とある。かくして七月十九日に日本海軍は初の聯合艦隊を編成し、同七月二十三日には日本軍が、事実上、朝鮮王宮を占領して(四日後の二十七日に第一次金弘集政権成立し、第一次「甲午改革」が開始される)興宣大院君を擁立、その二日後の七月二十五日には日本海軍と清軍の「豊島沖海戦」が(事実上の「日清戦争」の勃発)、七月二十八日には陸戦「成歓・牙山の戦い」が行われ、八月一日を以って、日本と清が相互に公式の宣戦布告をしている(最終的終結は日本の勝利後に割譲された台湾での日本の行政機構が樹立した翌年一八九五年十一月三十日とする)。

「碧」音律から「あを」と読んでいるか。

「ひづめ花」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属ウマノアシガタ Ranunculus japonicus のことであろう。因みに、キンポウゲ(金鳳花)は別種ではなく、このウマノアシガタの八重咲きの品種(Ranunculus japonicus f. pleniflorus)を指す和名である。

「益荒雄」「ますらを」。以下、老婆心乍ら、読みを附す。

「千速ぶる」「ちはやぶる」。

「武夫」「もののふ」。

「劍太刀」「つるぎたち」。

「嘶けり」「いななけり」。

「醜の御盾」「しこのみたて」。古代の楯には威嚇のための醜悪な鬼面や妖獣の装飾を施した。

「新羅」「しらぎ」。

「碧蹄のから山おろし」「碧蹄(へきてい)の唐山(からやま)おろし」で、文禄・慶長の役における合戦の一つである「碧蹄館(へきていかん)の戦い」を想起させている。文禄二年一月二十六日(一五九三年二月二十七日)に朝鮮半島の碧蹄館(ピョクチェグァン。現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り、漢城(現在のソウル)目指して南下する提督李如松率いる約二万の明軍を、小早川隆景・宇喜多秀家らが率いた約二万の日本勢が迎撃し、打ち破った戦い(ここはウィキの「碧蹄館の戦い」に拠った)。

「不知火の神の御いぶき」「不知火」は「しらぬひ(しらぬい)」。これは「筑紫」の枕詞であり、或いは神宮皇后の三韓征伐を想起しているものか。よく判らぬ。

「いざやゝよ」「いざや」「やよ」孰れも感動詞。

「奴子等」「やつこら」。

「神代」「かみよ」

「日本太刀」「やまとだち」と訓じておく。

「斬味」「きれあぢ」。

「豐島牙山」明治二七(一八九四)年七月二十五日、宣戦布告前に発生した、朝鮮半島中部西岸牙山湾の西にある豊島(現在の韓国京畿道安山市檀園区豊島洞)沖で発生した日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋水師(北洋艦隊)の間での「豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)」と、先に注で出したその三日後の二十八日の陸戦「成歓・牙山の戦い」両方を指していよう。次が「荒磯の岩根にくだけ、」と「朝露の消えてぞ失せし、」で対句になっているからである。

「實に」「げに」。

「稜威」「りようい」でもおかしくはないが、きっちりとした音律からは「みいつ」と当て訓した方がよい。天皇の威光。「みいつ」はその意から「御厳(みいつ)」とし、本熟語の読みとなったものである。

「箱崎」福岡市東区南部(現在の福岡県福岡市東区箱崎町一帯)。豊臣秀吉は九州征伐の際にここに本陣を構えた。

「松浦」「まつら」と読んでおく。肥前国の郡名で現在の佐賀県と長崎県の北部の一帯を指した。対馬等の島嶼を除くと、日本列島の中で中国大陸や朝鮮半島に最も近い。

「百船」「ももふね」或いは「ももぶね」。沢山の船を意味する万葉以来の語。

「日本武夫」「やまともののふ」。

「さゝらがた」「細形」。細かな文様を丁寧に織り出した織物。前の「万葉集」の「水行かば」等と同じく、これは「日本書紀」の「允恭紀」の歌謡「ささらがた錦の紐を解き放けて」を念頭に置いたものであろう。

「唐山のみ山颪に」「からやまの/みやまおろしに」。「み」は美称(ここは音調整序のため)の接頭語。

「おし樹てゝ」「おしたてて」。]

2019/05/09

會話 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    會  話

      「ユングフラウも

      フインステラアルホルンも

      未だ曾て人間の足に踏まれしこと

      なし」

 アルプスの最高峰……峨々たる懸崖の連續……山脈の眞中(まつたゞなか)。

 山の上には淺綠の澄み渡つた默せる空。身に沁み渡る烈しい寒氣。かたい、輝く雲。その雲を貫いて聳える氷に鎖され風に吹きはらはれる陰暗(いんあん)たる峯。

 地平線の兩端には二人の巨人が立つてゐる。ユングフラウと、フインステラアルホルンとである。

 ユングフラウはその隣人に言つた、『何か新しい事がありますか? 貴下(あなた)は私よりよく見えるでせう。下界には何があります?』

 幾千年は過ぎ去った。たゞ一瞬である。するとフインステラアルホルンは雷(かみなり)の轟くやうな聲もて答へる、『地は深い雲に蔽はれてゐる……まあ待ちなさい!』

 再び幾千年は過ぎ去つた。たゞ一瞬である。

『さあ、今は?』とユングフラウが問ふ。

『今度は見える。下界は何處もまだ元の儘だ。靑い水、黑い森、灰色の積み重つた石。そのまはりには虫共がやつぱり這(は)ひ廻(まは)つてゐる。そら、例のまだ一度もお前や私を汚し得ないあの二足動物のことさ』

『人間のことですか?』

『さうだ、人間のことだ』

 幾千年は過ぎ去つた。これたゞ一瞬である。

『さあ、今度は?』とユングフラウが問ふ。

『蟲共は減つて來たやうだ』とフインステラアルホルンは雷鳴(とゞろき)の聲もて答へる。

『下界は明るくなつた。水は減(ひ)いて、森は疎(まば)らになつた』

 またも幾千年は過ぎ去つた。たゞ一瞬である。

『今度は何が見えます?』とユングフラウが問ふ。

『此の我々の周圍(まはり)は綺麗(きれい)になつたやうだ』とフインステラアルホルンが答へる、

『けれども彼方(あちら)の方は谷間(たにま)に矢張(やつぱり)斑點(しみ)がある、元のやうに何だか動いてゐる』

『さあ今度は?』また幾千年過ぎ去つた後、――卽ち一瞬の後、ユングフラウが問ふ。

『もうよくなつた』とフインステラアルホルンが答へる。『何處を見ても。すつかり眞白(まつしろ)で、綺麗になつてゐる……何處(どこ)も彼處(かしこ)も雲だ、雲と氷だ。何も彼(か)も凍つてしまつた。もうよくなつた、靜かになつた』

『よろしい』とユングフラウは言つた。『ところで貴下私達は大分喋(しやべ)りました。もう寢る時分です』

『さうだ、寢る時分だ』

 そして巨大な山は眠り入つた。そして澄み渡つた蒼空(あをぞら)も、永遠に沈默した大地の上に眠り入つた。

    一八七八年二月

 

ユングフラウ、處女峯の義、少女が嶽とでも云ふべきか。】

フインステラアルホルン、黑鷲峯の義、共に獨逸語。ツルゲエネフがこれを書いた時分には、未だ一人の此二峯を踏破する者が無かつたのである。一八九〇年に至つてはじめて登山者が山頂を究める事に成功した。】

[やぶちゃん注:標題の後の添え辞は実際には繋がった一文「ユングフラウもフインステラアルホルンも未だ曾て人間の足に踏まれしことなし」であるが、底本では二行で全体が、かく字下げになっていることから、ブログ・ブラウザでの不具合を配慮して、かく処理した。

『地は深い雲に蔽はれてゐる……まあ待ちなさい!』の鍵括弧閉じるは、底本では存在しない。読んでいて躓くので、特異的に挿入しておいた。

「何だか動いてゐる」は底本では「何だ動かいてゐる」である。激しく躓く。明らかに誤植のレベルとしか見做せないので、ここは特異的にかく訂した。例えば、後のロシア語原典から訳しておられる中山省三郎氏の訳でも、この台詞は『「僕たちの身のまはりは綺麗になつたやうだ。」フィンステラールホルンが答へる、「けれどあの遠く谿間にはやはり斑點(しみ)がある、そして何だか動いてゐるよ。」』であるから、私の仕儀は問題ないと判断する。

淸きながれ 伊良子清白

 

淸きながれ

 (をこがましけれど醉茗ぬしに倣ひて)

 

たにの細道とめくれば、

松のした陰ゆく水の、

岩が根づたひさらさらと、

たゆまずやまず流るなり。

 

苔よりそゝぐこゝちして、

しづくしたゝる谷かげの、

いはが根づたひさらさらと、

たゆまずやまず流るなり。

 

松のあらしにうづもれて、

こゑはをりをりたえぬれど、

水のこゝろは一すぢに、

にごれるときもなかりけり。

 

嵐ふきたつあしたにも、

あめふりそゝぐゆふべにも、

水のこゝろはさらさらと、

おとににごりもなかりけり。

 

松葉かく子のうた聲も、

つま木おふ子の笛の音も、

水のこゝろはへだてなく、

ともにひゞきていと淸し。

 

まつの嵐や散しけむ、

水のこゝろやさそひけむ、

描きながれをそひゆけば、

流れぬ花もなかりけり。

 

行きてかへらぬま淸水も、

やどりて去らぬ夕月も、

きよき心はなかなかに、

ひとつなるらんとこしへに。

 

あはれ濁れる世の人よ、

きてもとはなむ深山なる、

岩が根づたひさらさらと、

松のした陰ゆくみづを。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年八月『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。満十七歳。「醉茗」は河井酔茗(明治七(一八七四)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は又平。大阪府堺市生まれ)で、伊良子清白より三つ年上であったが、同じ投稿仲間で、やはりこの年に詩「亡き弟」が『少年文庫』に掲載され、以後、『文庫』(『少年文庫』の改題)の記者として、明治四〇(一九〇七)年に退くまで詩欄を担当した。酔茗を清白が初めて訪問したのは実にこの翌年の五月のことであった。河井酔茗・横瀬夜雨・伊良子清白という『文庫』派の前史の一齣とも言うべき一篇である。]

から猫 伊良子暉造(伊良子清白)

 

か ら 猫

 

日影のどけき園のうち、

露ににほへる深見くさ、

玉のうてなとてふてふは、

いと樂げにねぶりけり。

 

玉のうてなとてふてふの、

眠れるさまをから猫は、

いともをかしく怪しげに、

うちながめてぞ居たりける。

 

ながめながめてゐたりしが、

やがてあしもて追ひにけり。

追はるゝやがててふてふは、

遠くかなたに行きにけり。

 

行けば追ふなりから猫も、

蝶こよこよとまねぎつゝ、

よべばくるなりてふてふも、

追はるゝこともわすらへて。

 

來ればおひつゝ追へばまた、

蝶こよこよとまねくなり。

招きつ追ひつ唐猫は、

いと樂げにあそびけり。

 

くりかへしつゝ唐猫は、

招きつ追ひつゐたりしが、

蝶はつかれて眠りけり、

おなじうてなの花のへに。

 

猫もつかれて眠りけり、

日影のどけき園のうち、

玉のうてなとてふてふの、

ねぶれる同じした陰に。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年七月『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

ツルゲエネフ・生田春月訳「散文詩」始動 /巻頭引用・序(生田)・「田舍」

[やぶちゃん注:底本は大正六(一九一七)年六月十八日新潮社刊の生田春月譯・ツルゲエネフ「散文詩」を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認する形で電子化する。

 私は既に本ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」に於いて、中山省三郎訳(彼のそれは挿絵附きのサイト一括(私のオリジナル注附)版(も作製している)・神西清訳(第一次及び第二次改訳)・上田敏訳をオリジナル注を附して電子化しているが、今回、伊良子清白の全詩篇電子化の作業中にハイネの訳詩を調べる内、たまたまこの生田春月の訳本を国立国会図書館デジタルコレクションで発見、発見した以上は、私の偏愛するイヴァン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(ラテン文字転写:Ivan Sergeevich Turgenev 一八一八年~一八八三)のそれ(「散文詩」は「猟人日記」に次いで私の若き日からの愛読書である)を電子化せずんばならず、と決したものである。

 生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)鳥取県(現在の米子市)生まれ。本名は生田清平(きよひら)。十歳の頃から詩作を始め、白井喬二らと回覧雑誌を作る。小学校在学中に家業が破産し、高等小学校を二年で中退し、朝鮮など各地を流浪するなかで、『文庫』などに投稿、明治四一(一九〇八)年七月、満十六歳の時に上京、同郷の新進気鋭の評論家生田長江(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)宅の玄関番兼書生となる(生田長江(縁戚関係はない)とは出版トラブルや長江の病気(ハンセン病)等の関係から、後に不仲と成り、疎遠となった)。英語・ドイツ語などを独学し、明治四四(一九一一)年には二年前から投稿していた『帝国文学』にほぼ毎号のように詩が連載され(主催者小林愛雄が彼の詩才を認めたことによる)、詩によって初めて報酬を得るようになった。大正三(一九一四)年には『青鞜』同人の西崎花世と結婚、大正六年に第一詩集「霊魂の秋」を、翌年「感傷の春」を刊行、詩人としての地位を確立した。以後、詩人・作家・翻訳家として活躍し、翻訳では特にその研究に生涯を棒げた「ハイネ詩集」始めとして二十五冊の訳書があり、他の詩集に「春月小曲集」「夢心地」「自然の恵み」等がある。作家としての作品には「相寄る魂」がある。昭和五年五月十九日午後十一時過ぎ、神戸発別府行の汽船菫丸から播磨灘(小豆島近く)で覚悟の入水自殺を遂げ、三十八歳の生涯に終止符を打った(以上は所持する昭和五六(一九八一)年(改訂版)彌生書房刊廣野晴彦編「定本 生田春月詩集」の年譜等に拠った)。

 但し、生田自身が序で述べている通り、これは推定でドイツ語及び英語からの重訳である。生田はドストエフスキイ「罪と罰」(共訳)やゴーリキー「強き恋」等があるが、ロシア語はできなかったものと思われる。

 傍点「ヽ」は太字で示す。踊り字「く」は正字化した。

 詩篇ではよほどのことがない限り、注は附さない。上記に示した電子化の中でさんざんやってきたからである。但し、底本の巻末に配された「註釋」に記されたものは、前倒しで、それぞれの詩篇の後に【 】で附した。底本の元の註はこんな感じ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)であるが、非常に読み難いので、各語の注を分割し、標題や二重線・ダッシュを略して示した。【二〇一九年五月九日始動 藪野直史】]

 

 

……讀者が此の「散文詩」を一息に讀過しないやうにと望みたい。でないと、その結果は恐らく退屈を來して――そして「歐羅巴の使ひ」はその手から取落されてしまふであらう。むしろ一篇づつ讀んで頂きたい、今日はこれ、明日はあれと云ふ風に――さうしたならば、多分その中から何物かゞその胸に刻み込まれるであらうと思ふ……

         ツルゲエネフの書翰から

 

[やぶちゃん注:以上は見開き表紙の次の次ページに、枠で囲まれて記されてある。]

 

 

     

 

 ツルゲエネフの散文詩は詩の衣裳をまとうた哲學である。近代文學の生んだ最も警拔な詩である、しかして又此の憂鬱な露西亞の天才の一生の懺悔である。その中にはツルゲエネフの全作品を一貫してゐる凡ての特色がコンデンスされてゐると云つてよい。さればこの小篇は既に屢々多くの人によつて譯せられた。今此の飜譯は、徒らに屋下屋を架するものかも知れない。たゞ私一個としては此の我が熱愛する詩集の譯書を、自ら出すべき機會を與へられたのを感謝するだけである。そして私の志したのは、これに詩的な流麗な日本文の着物を着せて、眞に散文詩の名に背かざらしめんとするにあつたが、これは私にとつては不遜な無謀なことだつたかも知れない。

 一體、既に屢々譯出せられた書を更に飜譯する者は、多くの利益を有すると共に、またそれに劣らぬ不利を有する。先人の教を受けるのはその利益で、的確な譯語を先入に占められ、なるべくそれを套襲しまいとて苦心をして、反つて無理を來す如きはその不利な點である。曾て、獨人ストロトマン、そのシエレイの詩集(ポエズム)の譯本に序して、先人の勞力をどれ位の程度に利用すべきかの問題を論じて、多くの場合外國詩家の語句を最もよく自國語もて現はす言葉はたつた一つしか無い、故に後人がその虛榮心若くはその義務の誤解によつて、先人の的確な譯語を避けることを妥當ならずとし、自分が先人を凌駕し得ないと思ふ限りは躊躇なくそれを利用した事の告白を恥ちず、自分の譯がどれ位な程度に獨立性を有するかは、これを批評家に一任すると言つた。私もまたその通りである。(なほ此問題に就いては、既に批評家の注意が向けられるぺき時となつてゐると思ふ)從つて私の飜譯が卓越した先人上田敏氏、篤實なる仲田勝之助氏、草野柴二氏等の譯に負ふところ多きは言ふ迄もない。然しながら、先人と意見を異にした點ももとより尠くはない。

 此の譯書のテキストとしたのは、ヰルヘルム・ランゲ及びコンスタンス・ガアネツトの西歐語譯で、遺憾ながら重譯である。なほ卷末に解題と註釋とを添ヘたのは、年若い讀者諸君の手引にと思つての老婆心に過ぎない。

 

  一 九 一 七 年        譯   者

 

[やぶちゃん注:「コンデンス」condense。凝縮すること。濃縮すること。

「ストロトマン」ドイツの詩人・作家・翻訳家アドルフ・シュトロートマン(Adolf Strodtmann 一八二九年~一八七九年)。ハイネの研究者としても知られる。

「シエレイ」イングランドのロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley 一七九二年~一八二二年)。ゴシック・ロマン「フランケンシュタイン」(Frankenstein:正しくは“Frankenstein: or The Modern Prometheus”。一八一八年に匿名で出版)で知られるメアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley 一七九七年~一八五一年)は彼の妻。

「ヰルヘルム・ランゲ」ドイツ人と思われる翻訳家にヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange 一八四九年~一九〇七年)がいるが、彼か。

「コンスタンス・ガアネツト」日本では「ガーネット夫人」の呼称で知られる、イギリスの翻訳家コンスタンス・クララ・ガーネット(Constance Clara Garnett  一八六一年~一九四六年)。十九世紀ロシア文学、特にチェホフ・ツルゲーネフ。トルストイの作品の名訳で知られ、英米文学・日本文学に大きな影響を与えた。

 この後に「目次」が入るが、省略する。]

 

 

   ツ ル ゲ エ ネ フ 作

    散  文  詩   生 田  春 月譯

 

 

   第 一

  【一八七八年】

 

    田  舍

 

 七月終りの日。このあたり一千ヹルストは露西亞、我が鄕國。

 一體の碧色(みどりいろ)が空中(そらぢゆう)に漲つて、唯一片の雲切れがその面に半ば漂ひ、半ば消えて行く。風もなく、暖かで……空氣はしぽり立ての牛乳(ミルク)のやうだ!

 雲雀(ひばり)は囀り、野鳩(のばと)はくくと啼く。聲も立てず燕は空を飛び交ふ。馬は嘶いたり、ものを嚙んだりする。犬は吠えもしないで尾を振り乍らじつと立つてゐる。

 畑や乾草(ほしくさ)の匂ひ、樹脂(タアル)や獸皮(けがは)の匂ひもほのかにする。麻はすでに滿開で、重苦しい芳香を放つてゐる。

 深いけれどなだらかに下りてゐる谷。兩側には大きな頭をした幹の下で裂けてゐる楊柳の並木がある。小川はこの谷を走つてゐる。その底の小石はきらきらする波間にふるへて見える。遙かの遠方の天と地との境界には大河の靑い筋が輝いてゐる。

 この谷に添うて一方にはきちんとした物置や、ぴつたり戶のしまつた小さな納屋がある。他方には樅(もみ)の樹造りの板葺小舍(いたぶきごや)がが五つ六つある。どの屋根にも鳩小舍のついた高い柱が立つてゐて、どの戶口の上にも鬣の短い鐡製の馬が見える。瑕(きず)だらけな窓硝子(まどがらす)は虹の七色に輝き、窓の扉には花瓶が描かれてゐる。どの家の前にも小さな腰掛が一つづゝきちんと置かれ、小高いところには猫が日向(ひなた)ぼつこをして、逍き通つた耳をそぱたてゝゐる。高い敷居の向には凉しさうな暗い外房(そとべや)が見える.

 私は馬衣(うまかけ)を擴(ひろ)げて谷の外側(そとがは)に橫はつた。あたりには息づまるばかりの香ひを放つ刈り立ての草が積み上げられてある。拔目のない農夫達はその草を小舍の前に擴げて、もつと日光に乾(かわか)して、それから納屋に收めようと云ふのだ。その上ならばよく寢られることであらう。

 積草(つみぐさ)の中からは縮れ髮の子供の頭がのぞいてゐる。鷄冠(とさか)のある鷄は乾草(ほしぐさ)の中に蠅や小さな甲蟲を探す。まだ鼻の白い子犬は網のやうになつた草の中にころげ廻つてゐる。

 ブロンドの髮の毛をした若者達はさつぱりした上衣に帶を低くしめ、重たい靴を穿いて、馬具をはづした車に寄りかゝつて、白い齒を光らして、冗談を言ひ合つてゐる。

 丸顏の若い女が窓から覗(のぞ)いて、若者の冗談や、乾草の中で子供達のふざけ廻つてゐるのを笑つてゐる。

 今一人の若い女は逞しい腕でもつて濡れた大釣瓶を井戶から汲み上げてゐる……釣瓶(つるべ)は搖れ動いて、光つた長い滴(しづく)を底へ垂らしてゐる。

 私の前には新しい縞の袴(はかま)と新しい靴とをつけた婆さんが立つてゐる。

 日に燒けた瘠せた頸には大きな空洞(くうどう)の玉を三列に卷いて、赤い玉を染めた黃色な手拭で白髮頭(しらがあたま)を包み、それが曇つた眼の上にすべり落ちてゐる。

 けれどもその老眼には人を迎へる笑ひがあり、その皺の寄つた顏中には笑みをたたへてゐる。この婆さんは七十臺には手が屆いてゐるに違ひない……それでも未だ昔の美しい面影は窺はれる。

 日に僥けた指をひろげて、婆さんは右手に穴倉から出したばかりの冷たいクリイム入りの牛乳の椀を差出してゐる、椀の外側は雫(しづく)で蔽はれて眞珠の紐を垂れたやうである。左手の掌には溫い麺麭(ぱん)の大きな塊(かたまり)を私に持つて來て、『旅のお方、ようこそお出でになりました、どうぞこれを召上つて下さい!』と云ふやうだ。

 雄鷄が俄かにうたひ出して、忙しげに羽搏(はゞた)きすると、小舎に閉ぢ籠められてゐた犢(こうし)が懶(ものう)げにそれに答へる。

 『こりやすばらしい燕麥(からすむぎ)だ!』と私の馭者の言ふのが聞える……あゝ、廣々とした露西亞の田舍の滿足よ、平和よ、豐饒(はうねう)よ!深い平和よ、幸福な生活よ!

 すると何がなしにこんな考へが浮んで來た、コンスタンチノオプルの聖(セント)ソフイア寺院の圓頂閣(ゑんちやうかく)の上に十字架を建てようとか、その外我々都會の者が懸命(むき)になつてゐる事が、此處で我々に何の價値があらうぞ!

    一八七八年二月

 

ヹルスト[やぶちゃん注:“верста”の訳語。約一・〇七キ口メートル。]、露西亞の里程で、一哩[やぶちゃん注:一マイル。一キ口八百五十二メートル。]の三分の二に當る。】

コンスタンチノオプル、昔のビサンチン、今の土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。現行も正しい漢字表記はこれ。]の首府。この結末は、當時アクザコフ[やぶちゃん注:思想家コンスタンティン・セルゲーエヴィチ・アクサーコフ(Константи́н Серге́евич Акса́ков/ラテン文字転写:Konstantin Sergeyevich Aksakov 一八一七年~一八六〇年)父セルゲイは小説家、弟イヴァンは評論家・詩人として孰れも知られる。]等のスラヴ主義者、國粹主義者が盛んに此地の領有を說いていたこと、及び露西亞が多年宗教上政治上の關係からダアダネルス海峽た土耳其の土地に垂涎してゐることを念頭に置いて讀まれたい。】

聖ソフイヤ寺院云々、囘教徒なる土耳人の手から取り返さうと云ふのである。】

太平百物語卷三 廿六 高木齋宮なんぎに逢し事

 

   ○廿六 高木齋宮(たがきいつき)なんぎに逢(あひ)し事

 大坂に高木齋(たがきいつき)といふ陰陽師(おんやうじ)あり。毎年(まいねん)、春の比(ころ)、江戶に下り、諸高家(かうけ)の御(おん)屋敷に出(いで)入して、卜筮(ぼくぜい/うらかた)の功、甚(はなはだ)驗(しるし)ありければ、御歷々も、したしく仰せ下されける。

 一年(ひとゝせ)、例のごとく吾妻に赴きける時、相摸領(さがみりやう)を通りけるが、折節、殘暑つよかりしゆへ、道、はかゆかずして、駅舍(ゑきしや/はたごや[やぶちゃん注:「ゑき」はママ。])ならぬ百姓の家に宿(やど)を乞(こひ)、從者(ずさ/めしつかい[やぶちゃん注:ママ。])と共に留(とま)りけるが、夜(よ)も五更[やぶちゃん注:凡そ現在の午前三時から午前五時、又は午前四時から午前六時頃に相当する。寅の刻。シチュエーションから前者で採る。]に近き比ほひ、女の聲にて、

「あつ。」

と、一聲(ひとこゑ)、さけびしが、其後(そのゝち)は、何(なに)の沙汰も、聞へず。

 齋(いつき)、あやしくおもひ、いとゞ寢がたく、便(べん)に出(いづ)るふぜいにて[やぶちゃん注:厠に行くふりをして。]、臺所の方(かた)に出(いで)て樣子を窺ふに、家内(かない)、よく寢入(ねいり)て、何(なに)の事もなければ、心を安んじ、又、もとの臥床(ふしど)に入らんとせしが、何やらん、足にあたれば、手を下(おろ)して、探りみるに、女の生首なり。

 齋(いつき)、大きに仰天し、四方をよくよく見廻(みまは)しけるに、乾(いぬひ[やぶちゃん注:ママ。「乾(いぬゐ)」は南西。])の方(かた)の壁、人の出入(いでいり)する程、切(きり)ぬきたり。

『こは。只事(たゞごと)ならず。我、此事を亭(あるじ)に告(つげ)なば、却(かへつ)て、僉義(せんぎ)むつかしからん。』

と思ひ、しらぬ体(てい)にて、ふしどに入しが、灯(ともしび)にて、わが身をみるに、着物の裾、又、手足にも、血、おほく付(つき)たり。

 齋(いつき)、心におもふ樣、

『明(あけ)なば、此事、せんぎあらんに、わが着類(きるい)に血の付(つき)たるを見るならば、定めて、我が仕業(しわざ)といはん事、必(ひつ)せり。所詮、こよひの内、忍びて迯出(にげいで)ばや。』

と思ひ定め、從者(ずさ)をひそかに呼び起し、此よしを告(つげ)しらせ、取(とる)物も取(とり)あへず、足をばかりに迯出(にげいで)、其夜(そのよ)のうちに三里ばかりの道を過(すぎ)て、藤澤まで、のがれ出たりしに、跡より追來(おいく[やぶちゃん注:ママ。])る人もなくして、夫(それ)より、事ゆへなく武州にくだりけるとぞ。

「其後は如何(いかゞ)なりけんも、しらず。」

と、聞(きく)人、咄(はな)せし兩人、一度に汗をぞ拭(のご)ひける。

[やぶちゃん注:前に訝しく思った通り、ほら、これも話に江戸は出るが、江戸じゃあ、ない。なお、場所は特定可能だ。最後の部分で、高木らが泊まったのは、藤沢宿の西の手前三里(十二キロメートル弱)附近であることが判る。藤沢宿の前は平塚宿であるが、旧東海道を実測すると、平塚宿と藤沢宿間は丁度、十二キロメートル強である。だのに、彼らは平塚宿に泊まらずに通過したと考えねばならない。問題はしかし、平塚宿を過ぎるとすぐに相模川があることである。しかも江戸時代の東海道の相模川(現在の馬入橋ばにゅうばし)付近で、この辺りの相模川を馬入川とも呼ぶ)には橋はなく、渡し舟によって渡河しなくてはならなかった。とすれば、未明に百姓家を抜け出したとして、そんな早朝では渡し舟は運航していないはずだ。さすれば、かれらは前日に馬入川を越えていたと考えねばならぬ。しかも馬入川川畔なら、舟止めの際のための仮泊まりの施設はあったろうから、そこは過ぎていたと考えると、この附近(グーグル・マップ・データ)、現在の茅ヶ崎市の西部辺りがロケーションではなかろうか(ここからは藤沢宿まで凡そ十キロメートル前後でドンブリで「三里」は腑に落ちる)なお、当時、公的には宿場以外の場所で旅人が宿を借りることや、そういう旅人に宿を提供することは禁じられていた。ただ、緊急避難的には黙認されていたし、そういう事実もある。例えば、私の「耳囊 卷之九 不思議の尼(あま)懴解(さんげ)物語の事」などが、そのよいケースである(ここでは全くの道途の何でもない茶店の主人が尼に店へ一泊の宿りを許している)。但し、あくまでこれは非合法で、たとえそれが江戸の高家の覚え目出度い陰陽師だろうが、公には許されることではない。彼が詮議(せんぎ)を受けることを恐れた一つの理由の中には、そうした一見、つまらない理由もあるのであると私は考えるべきであると思う。因みに、あまりよく知られていないと思うので言っておくと、例えば、江戸時代の旗本は実は不自由窮りなく、形式上では彼らは将軍直参の軍兵であるからして、幕府の許可なく、江戸市中の外に物見遊山や旅をしたりすることは勿論、江戸以外の地の親族の家に泊りに行くなどということさえ実は厳に禁じられていたのである。なお、本話は、最早、ゴースト・バスターのチャンピオンたるかの安倍晴明の遺伝子の欠片(かけら)もない情けない陰陽師といい、女の叫び声と生首と血糊(それが確かに衣服や手足に現認される点で怪異が現実を侵犯している)、そして、不気味な壁の大きな黒々と開いた穴(異界への通路か。私の好きなラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft 一八九〇年~一九三七年)の名短編「エーリッヒ・ツァンの音楽」(The Music of Erich Zann:一九二二年)を思い出した)という小道具、はたまた一貫して怪異の理由が最後まで明かされない設定といい、上質の真正怪談の要素満載の佳品である。

「高木齋宮(たがきいつき)」「たがき」はママ。本文で「高木齋(たがきいつき)」と「宮」が落ちているのもママ。思うに、本書に出る人名は孰れも読みが妙である。これは怪談集であることと関係があるのかも知れない。万一、同姓同名の人物がいた場合、或いはそれを指弾されて出版禁止になることもあろう。さすれば、読みを一般的でない形で附すことによって、これは架空の人物であることを示して、そうした難を避ける意味合いがあるとも言えるのかも知れない。

「陰陽師(おんやうじ)」ウィキの「陰陽師」の「近世における官人陰陽師の再興と民間陰陽師の興隆」を引いておく。『秀吉が薨じ、慶長』五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で『西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡鶏冠井(かいで)村(現京都府向日市鶏冠井町)・寺戸村(同寺戸町)、葛野郡梅小路村(同府京都市下京区梅小路)・西院村(同右京区西院)、紀伊郡吉祥院村(同南区吉祥院)にわたる計』百七十七『石』六『斗の知行を与えられて宮中へ復帰し』、三年後の慶長八(一六〇三年)に『江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家』二『家(賀茂・安倍)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂家の分家幸徳井家を再興させ』、二『家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した』。『この動きを得て、土御門家勢力は天和』二(一六八二)年に『幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、幸徳井家を事実上』、『排除して』、『陰陽寮の諸職を再度』、『独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、更にその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧みられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって有職故実の研究対象の一分野とされるようになっている』。『各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原家、地域派生の嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた』。ただ、貞享元(一六八四)年、『幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで』八百二十三『年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約』七十『年後の宝暦』五(一七五五)年、『土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている』。『その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された天保暦は、不定時法の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている』とある。

「高家(かうけ)」江戸幕府の職名。老中支配で、勅使接待・伝奏御用・京都名代・日光名代・伊勢名代など、朝廷・公家関係の儀式典礼を司った。畠山・由良・大友氏など、中世以来の名家や、日野・中条氏など公家の分家が多く、大名に準じた官位を受けた。慶長期(一五九六年~一六一五年)に大沢基宿(もといえ:持明院流)、続いて吉良義弥(よしみつ):足利氏庶流)が伝奏御用を勤めたのが始まりとされ、以後、次第に増加していった。江戸後期には二十六家が数えられる。役高千五百石、家禄は五千石の畠山氏を筆頭に一千石台が多く、品川氏の三百石に至る。孰れも世襲で、原則として他の役職に就くことは許されなかった。この内、若年や老年などの理由で非役の家を表高家と称して区別した。高家肝煎(きもいり)は二~三名が選任され、京都名代を勤めたもので、役料八百俵が支給され、その成立は享保期(一七一六年~一七三六年)頃と考えられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「卜筮(ぼくぜい/うらかた)」「うらかた」は元来は「占形」「卜兆」で亀卜(きぼく/かめうら)の結果として、その表面に現れた亀裂の形を指したが、後に「占方」と書いて、占術をすること或いはそれを仕事とする人を指すようになった。

「足をばかりに」原典も「江戸文庫」も「徳川文芸類聚」も「足をはかりに」であるが、濁音化した。前のケースと同じく、限定で「ただひたすらに足を動かすことばかりを頼りとして」の意であるからである。]

2019/05/08

お前ら! 何様の「記者」だッツ! (大津市の保育園児事故保育園会見に臨んだ糞(クソ)記者共へ)

異様に腹が立った!
大津市の保育園児事故の保育園の会見で質問した連中はジャーナリストとして、全員が最下劣だ!
上司に言われて行った若い記者ばかりだろうが(画像をよく見ると、私の推理は正しいことが判る! 俺はちゃんと見ているぞ! 画面の「端」までな!)、今晩、あの映像とお前らが質問している自身をしっかり反芻してみろ!
お前ら総て!
報道記者の資格は――一千年――全く「なし」だ!
馬鹿どもガッツ!!
教えるべき先輩がいなかったことを、あの世で怨むがいい!!! 去れッツ!!!!

太平百物語卷三 廿五 惡次郞天狗の栖に至る事

Akujitengusumika

   ○廿五 惡次郞天狗の栖(すみか)に至る事

 土佐の國に惡次郞とて、家、冨(とみ)さかへ、心武(こゝろたけ)き者ありしが、常に朋友に語りけるは、

「世に化物ありといへども、われ、此年月(としつき)、三昧(さんまい)をはじめ、あらゆる深山幽谷(しんざんゆうこく)、すべて、あやしとおもふ所は、何國(いづく)ともなく、子(ね/九ツ)・丑(うし/八ツ)・寅(とら/七ツ)の比(ころ)ほひまで、每度、うかゞひ步(ある)くといへども、ばけ物、又は、ゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。]にあひたる事、なし。是、皆、おく病者の『おそろし』とおもふ心より、おこる事なり。」

と、あざ笑ひ、いひけるが、一日(いちじつ)、熟友(じゆくゆう)[やぶちゃん注:馴れ親しんだ友人。]岩(いは)八といふ者、これも不敵の男なりけるが、惡次郞宅(たく)に來たりていひけるは、

「御身、常に變化(へんげ)といふ者なし、といふ。聞き給はずや、讃岐の國白峰(しらみね)の奧には、慥(たしか)におそろしき化物ありて、見たる者、數多(あまた)ありと沙汰す。さも、有べき所なり。」

と語りければ、惡次郞、わらひて、

「それも又、臆病者のいふ事なり。必ず、信じ玉ふな。」

といへば、岩八、重(かさね)て、

「いや。われも、かやうの事、信ずる者に、あらず。されども、此事は僞りならずおもへば、御身を伴ひ行(ゆき)て、其眞僞(しんぎ/まこといつはり)を糺(たゞ)し申さんとおもふは、いかに。」

と申ければ、惡次郞がいふ。

「とても何國(いづく)へ行(ゆき)しとて、化物はなきに極(きはま)りぬれども、御身、さほどにおもひ玉はゞ、なぐさみながら、參らん。」

とて、頓(やが)て岩八を誘(いざな)ひ、未(まだ)白(ほのくら)きに旅立(たびだち)て、道を急(いそぎ)けるが、其日の暮がたに、彼(かの)白峰の麓につきぬ。

 まづ、山の氣色(けしき)を見上(みあぐ)るに、木々の梢も冬枯(ふゆがれ)て、木(こ)の葉まじりに降(ふる)時雨(しぐれ)、いとゞものわびしかりければ、惡次郞も、

「折から。」

と、いひ、

『山の姿、するどふして[やぶちゃん注:ママ。「鋭くして」。人を寄せ付けぬように屹立しているという感じで。]、いか樣、世にばけ物といふものあらば、此山にこそ。』

と、おもひて、岩八諸共(もろとも)、分上(わけのぼ)れば、山の半(なかば)に至りて、あやしげなる叟(おきな)一人、杖にすがり出(いで)ていふ樣(やう)、

「私殿(わどの)は、いづくの人やらん。此山は、むかしより、おそろしき變化(へんげ)住(すん)で、日本(につほん)無双の魔所なり。然(しか)るに、夜(よ)に入りて、是より先へ行(ゆき)玉はゞ、必(かならず)、御身達、生きて歸る事、あたはじ。兩人共に、はやく歸り玉へ。」

といふ。

 惡次郞、答へて、

「誠に御志し、有がたく候。われらは、其化物に逢(あは)ん爲、遙(はる)々、此山に來りたり。其化者の住家(すみか)は未(いまだ)遠く侍るやらん。願くは敎へ玉へ。」

といふ。

 叟のいはく、

「行(ゆき)給はゞ、命の限りなるべし。此山にまよひ入りし人、むかしより、一人も、生きて歸りし例(ためし)を、見ず。われは、誠は、人間に、あらず。此山に、年を經る、榎木(ゑのき)の精魂(せいこん)なり。穴(あな)かしこ、我(わが)言葉を信じて、留(とゞま)り玉へ。」

と、いふか、とおもへば、消(きへ)うせぬ[やぶちゃん注:ママ。]。

 岩八、始終を聞(きゝ)、惡次郞が袖をひかへて、いふやう、

「只今、叟のいふ所、一理なきにしもあらず。よしなき事に、あたら、命を捨てん事、更に益なし。いざ、歸り玉はずや。」

といふ。

 惡次郞、うちわらひ、

「扨々、臆したる岩八殿の言葉やな。御身、すでに心の乱れたり。其弱き所より、一心、轉倒(てんどう)して、物の形も變化(へんげ)すれ。我におゐては[やぶちゃん注:ママ。]、いかに恐ろしくとも見屆(みとゞけ)ずしては、えこそ歸るまじ。おことは、是より、下山あるべし。左樣に臆せし人を伴ひては、我(わが)爲(ため)もよろしからず。」

と、苦々しく恥(はぢ)しめければ、岩八、わらつて、

「これ、戲言(たはごと)なり。実(まこと)の心にあらず。扨々、御身は賴母(たのも)しく手づよき御心かな。われ、甚(はなはだ)滿足せり。此上は何國(いづく)までも御供(おんとも)せん。」

といふにぞ、惡次郞も、

「さこそ侍らん。」

とて、猶、山ふかく入に[やぶちゃん注:「いるに」。]、むかふの方より、十四、五なる童子壱人、來り、惡次郞を見て、

「莞爾(につこ)。」

と笑ひ、

「わが主人(しゆじん)、御身を今朝(けさ)より待(まち)玉ふ。いざゝせ玉へ。」

といふ。

 惡次郞、

『扨は是れ、化物のけんぞくならん。』

と思ひ、

「こは、過分に候。案内し玉へ。」

とて、岩八諸共、打連(うちつれ)ゆけば、むかふに大きなる樓門あり。

 童子にいざなはれて内に入ば、化者の大將とおぼべて[やぶちゃん注:ママ。「覺えて」。]、座上(ざしやう)に居(ゐ)る。

 其形(かた)ち、頭(かしら)に天冠(てんぐはん)のやうなる物を戴き、身には錦をまとひ、手に大き成[やぶちゃん注:「なる」。]羽團(うせん)を持(もち)、ゆうゆうとして、又、冷(すさま)じ。

 それより、數多(あまた)のけんぞく、左右に列(つらな)る。

 いづれも、異形(いぎやう)の姿にて、次第次第に行義(ぎやうぎ)をなす。

 惡次郞、岩八にむかひ、

「こは、珍敷(めづらしき)見物(けんぶつ)かな。」

とて、まづ、座に着(つけ)ば、彼(かの)大將、靑眼(せいがん)を光らして、いはく、

「聞及(きゝおよ)びし惡次郞とは、和殿よな。今朝(けさ)より、汝を待(まつ)事、久しかりき。汝、此山の麓に來たりし時は、既に日暮(ひぐれ)たり。それより、此所まで、道の程(ほど)、凡(およそ)六里に餘れり。これを越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])て、今、爰(こゝ)に來(きた)る。其刻限を思ふ時は、今、汝が心に、夜(よる)なるや、晝なるや。又は、何(なに)の刻(こく)にて侍るや。試みに、是を、聞(きか)ん。」

といふに、惡次郞、始て心付(こゝろづき)、四方(しほう)をみれば、日中(につちう)なりしほどに、あきれて、返答もなく、拜謝す。

 時に、傍(かた)への化物、頭(かしら)に三つの角を生(おひ)たるが、いふ。

「いかに惡次郞が『世にばけ物なし』と嘲(あざ)けるに、幕下(ばつか)の者共、變化(へんげ)して、惡次郞を、もてなせ。」

と、いへば、

「承(うけたまは)り候。」

とて、末座(ばつざ)にひかへしけんぞくども、五人、十人、立出(たちいで)て、化ける事こそ目ざましけれ。

 或は、其尺(たけ)一丈斗(ばかり)の婆(うば)となれば、忽ち、五、六才の童子となり、六尺有餘(ゆたか)の古(ふる)入道とぞ見へし、いとやさしき女と、なる。

 あるは、若衆(わかしゆ)と見れば、大髭(ひげ)の奴(やつこ)となり、盲人(もうじん/めくら)かとおもへば、衣冠正しき相人(さうにん)也。

 其(その)自由轉變(じゆうてんべん[やぶちゃん注:ママ。])、心、言葉にも、及ばれず。

 惡次郞は、是を少しもおそれずして、いと面白き事におもひ、余念なく見入(みいり)ければ、大將のいふ。

「いかに、惡次郞、これにても、化物は、なきや。」

と、いへば、惡次郞も、今は閉口して、いふやう、

「御身は、そも、いかなる御人なれば、かく、おほくのけんぞくを集め、自在の變化(へんくは[やぶちゃん注:ママ。])をなさしめ給ふ。願(ねがはく)は語り玉へ。」

といへば、大將の、いふ。

「我(われ)、此所に久しく住(すむ)で、世中(よのなか)に、我慢(がまん)・放逸、或は、僞りを以て、人を苦しめ、正しき人に惡事をすゝめ、非義・惡行(あくぎやう)、類(たぐひ)なき者をいましめ殺す。天狗の首領(しゅりやう/かしら)なり。汝、さのみ、惡心はなしといへども、常に武邊を好み、髙慢甚(はなはだ)しきゆへ、わがけんぞくを假(かり)に汝が友の岩八と變化(へんげ)させ、此所に招きよせたり。それなる岩八と思ふも、わが眷屬なり。見よや、見よ。」

といふほどに、ふり歸りみてあれば、実(げに)も、岩八にはあらで、さも冷(すさ)まじき天狗となりければ、さしも動ぜぬ惡次郞、身の毛だちて、おそれ入(いる)。

 時に、岩八天狗、いひけるは、

「今、大將の仰(おほせ)のごとく、惡行、又は、汝が如き我慢の者、皆、われらに命じて、かくのごとし。是れ、見よや。」

とて、左の方(かた)の戶口をひらけば、其數(かず)何百人ともしらぬ人の、皆、引(ひき)さかれて死(しゝ)けるが、山のごとくに積上(つみあげ)たり。

 其中(そのなか)に、出家・侍(さぶらひ)・山伏あり、俗もあれば、女あり、老若(らうにやう)貴賤、かぎりなく、臭穢(しうゑ)は滿(みち)て、ほうちやくしければ、惡次郞、大きに驚き、

『今は、わが身も、かくや、ならん。』

と、屠所(としよ)の羊(ひつじ)の心地して、おもはず、諸神(しよじん)に祈誓をかけ、猶も、不動の眞言を數(す)十遍(へん)、丹誠(たんせい)をこらし、唱へければ、さしも、今まで勇(いさみ)けるけんぞくども、五躰(ごたい)を縮め、苦しみけるが、大將の天狗、大音(おん)上(あげ)、

「しばらく、經文の讀誦(どくじゆ)を、やめよ。汝、只今の有樣におそれ、始て、佛神(ぶつしん)にこゝろざし、功德(くどく)廣大なる不動尊の眞言を誦するによつて、ふしぎに危命(きめい)を免(まぬ)かれたり。今よりして、我慢の心を飜(ひるがへ)すべし。」

と、惡次郞がゑり髮(がみ)つかんで、上(あが)る、と見へし、彼(かれ)が居宅(ゐたく)の廣緣(ひろゑん)にぞ、落(おち)たりける。

 家内(かない)の人々、此音に驚き、出(いで)てみれば、惡次郞なり。

「こは、いかに。」

と内に舁入(かきいれ)、さまざま、いたはり、介抱せしかば、程なく本心となりて、妻子を始め、家内の者に、有(あり)し次第を語りきかせ、先非(せんひ)を悔(くひ)て、夫(それ)より、我慢の鉾(ほこ)もおれ[やぶちゃん注:ママ。]、偏(ひとへ)に佛神(ぶつじん)の冥慮(みやうりよ)をぞ尊(たふと)みけるとなり。

[やぶちゃん注:冒頭に掲げた挿絵は国書刊行会の「江戸文庫」の左右に分離した挿絵をトリミングして近くに並べたものである。本話は朋友岩八が実は……という部分、現代人でも気づかない読者が多いのではないかと思う。怪談のオリジナリティから言うと、この時期としてはかなり上質な捻りと言える。

「惡次郞」読みは「あくじらう」であるが、標題から本文まで一貫して「次郎」には読みを振っていない。

「三昧(さんまい)」墓地・墓守堂・火葬場のことを指す。恐らく忌言葉としての言い換えであろうが、本邦では仏教で心を一つの対象に集中して動揺しない状態を指す「三昧」を、早く平安(始まりは奈良後期か)以来より、火葬場・墓地及び死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂(三昧堂)をかく呼んだ。

「熟友(じゆくゆう)」「江戸文庫」版は『塾友』とするが、採らない。「徳川文芸類聚」版は「熟友」。本文注した「馴れ親しんだ友人」の意は一般的とは言えないが、私には違和感のある熟語とは感じられない。

「讃岐の國白峰(しらみね)」天皇家の怨霊のチャンピオン崇徳院の陵として有名で、彼は怨念を以って大魔縁・大天狗となったと伝承されているのを作者は完全に意識している。現在の香川県坂出市青海町(おうみちょう)にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「崇徳院」から引くと、「保元物語」によれば、『崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し』、『極楽往生を願い、五部大乗経』(「法華経」・「華厳経」・「涅槃経」・「大集経」・「大品般若経」)『の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証』(あかし)『にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑って』、『これを拒否』、『写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って』、『写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け』、『夜叉のような姿になり、後に生きながら』、『天狗になったとされている。崩御するまで』、『爪や髪は伸ばしたままであった。また』、『崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めているのにも関わらず』、『血が溢れてきたと言う』。後代、朝廷では、国家的規模の危機を迎えた時には必ず白峰陵に使者を送り、崇徳院の霊の鎮魂を行ってきている。あまり知られていないが、太平洋戦争勃発の折りも、崇徳院がアメリカ方に着かぬようにと侍従を使者として陵墓に送り、祀っているはずである(そんなの嘘だと!? だったら、だから負けたんじゃねえか、と返すだけだね)。なお、本書は享保一七(一七三三)年板行で、かの上田秋成の名作「雨月物語」の巻頭を飾る、大天魔の天狗と化した崇徳院と眷属の烏天狗が西行の眼前を跳梁する名篇「白峯」があるが、同作品集の刊行は安永五(一七七六)年で、本話よりも後のことである。

「なぐさみながら」気晴らしの楽しみがてら。

「未(まだ)白(ほのくら)きに旅立(たびだち)て、道を急(いそぎ)けるが、其日の暮がたに、彼(かの)白峰の麓につきぬ」悪次郎の家が土佐のどこにあったか知らぬが、当日の曙に立って、十二時間ほどで白峯に着くというのは、少し解せない感じがする。海編辺を東に迂回してはこの時間では無理であろうし、四国山地を山越えするのも、この時間内では無理な気がする。例えば、現在の高知駅を起点として、現在の大歩危・小歩危を抜ける最短コースをとったとしても、試算実測で百キロメートルを有に超える。江戸時代には一日かけて四十キロメートルを歩くのは常識とされるが、これは幾らなんでもあり得ない。まあ、さっさと着いて貰わないと読者は困るわけだけれど、作者は四国に地誌に不案内だったのではあるまいか?

「折から。」「いやぁ、ちょっとね、天気も雰囲気も、確かに慄っとしはするわな。」というニュアンス。

「われは、誠は、人間に、あらず。此山に、年を經る、榎木(ゑのき)の精魂(せいこん)なり」と言っているが、という訳では、あるまい。榎の精霊なら、岩八が天狗の化けた偽物であることを見抜くはずだからで、この翁(おきな)も烏天狗の一人の化けたものであり、偽岩八の後の反応も含めて、その総てが実は周到に波状的にセットされた、逆に悪次郎の自己肥大を完成させ、白峯の奥の魔所へ誘い込むための心理的策略、罠、ブービー・トラップ(booby trap)なわけである。別に複式夢幻能的な擬似展開の面白さをも作者は狙っているのかも知れない。

「袖をひかへて」袖を引いて(留まるように仕向けて)。

「天冠(てんぐはん)」仏や天人がつける宝冠。但し、挿絵では、如何にもな閻魔大王然とした対象として描かれ、被っているそれも冥官のそれっぽいのは、絵師が後のシークエンスの、戸の向う側に展開する罰せられた群衆の地獄絵のようなそれに引かれたからであろう。

「大き成[やぶちゃん注:「なる」。]羽團(うせん)」ウィキの「大天狗」によれば、『天狗の羽団扇』(はねうちわ)は、『天狗の中でも、大天狗または力の強い天狗が持つとされる団扇』で、『羽団扇自体が強力な通力を有すとされる。自身か、もしくは眷属の羽を献上させ』、『羽団扇にすると言われる。羽団扇』一『本で、飛行、縮地、分身、変身、風雨、火炎、人心、折伏、等何でも自由自在だという。また、ただ持って座っているだけで妖魔退散の効果があり、時には武器と同じように悪獣悪鳥等に打ち付けて使うこともあるとされる』。『この様に、様々な奇跡を起こすとされる団扇であるが、特に恐れられたのが天狗によっておこる火事であり、天狗の団扇は火を煽り』、『火勢を強め、自在に操るために使われるものと信じられてきた。そのため、天狗を祀る神社では天狗が火事を起こさないように火伏の神として祀られていることがある』。『天狗の羽団扇の羽の数は奇数で束ねられ』、十一『枚とされるが、社寺によっては』九『枚』或いは十三『枚などとされている所もある』。『尚、天狗を祀る社寺の幕紋には団扇の形をしているものが多いが、そのほとんどは棕櫚の葉の紋であり、天狗の羽団扇とは関係がない。天狗の羽団扇と混同されがちなので注意が必要である』とある。

「冷(すさま)じ」「凄まじ」。

「行義(ぎやうぎ)」「行儀」。この場合は、首魁から命ぜられた立ち居振る舞い。

「幕下(ばつか)」ここは首魁の直属の家来・配下の意。

「相人(さうにん)」狭義には人相見の意であるが、ここは広義の文人の意であろう。

「我慢」これは仏教の煩悩の一つである、強い自我意識に基づく「慢心」を指す。

「非義」正しき人としてやってはならない道に背いた悪い行い。義理に背いた行い。

「臭穢(しうゑ)」鼻を塞がんばかりの腐敗した穢(けが)れた臭気。

「ほうちやく」「逢着」であろう。ある対象に強烈に向き遇わされることを指す。

「屠所(としよ)」獣を殺傷して人為のために解体する屠殺するための場所。

「不動尊の眞言」不動明王を示す真言。通常知られるのは、「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」(総ての諸金剛に礼拝する! ああっ!)で、長い真言では「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」や「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」(総ての諸金剛に礼拝する! 怒れる憤怒の尊よ! 破砕せよ! ああっ!……!)などである(ウィキの「不動明王」に拠る)。

「冥慮(みやうりよ)」人智を超えた、はかり知ることの出来ない神仏の無限の思慮。]

あさの小蝶 伊良子暉造(伊良子清白)

 

あさの小蝶

 

花のゑまひのひらけたる、

牡丹のうへにねる小蝶、

ひぬまの露にそぼちつゝ、

いかなる夢や結ぶらん。

 

吹としもなき朝東風に、

おのが羽がひをはらはせて、

長閑に霞む園のうち、

いとも靜に夢むらん。

 

朝日の光さしそひて、

紅匂ふ花びらの、

濃染のいろも深見草、

いと麗はしく見えにけり。

 

ぬれて輝やく羽衣の、

小蝶の袖の朝露は、

黃金の玉かあらぬかと、

見まがふまでに照りそひぬ。

 

折しも蝶はうらうらと、

匂ふ朝日にさそはれて、

かをれる花の床のへを、

そぼちながらに起きいでぬ。

 

おのが羽風にひらひらと、

しばしがほどは花のへを、

むつれ戲れめぐりしが、

やがてかなたに舞ひゆきぬ。

 

行衞は友のあたりかも、

そよと吹くる追風に、

花のかをりを身にしめて、

遠くかなたに舞ひゆきぬ。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年六月『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

小蝶 伊良子暉造(伊良子清白の本名)

 

小 蝶

 

有明月の影きえて、

ほぼのあくる園のうち、

いづこにかげを休らへん、

董のとこも散りうせぬ。

垣根をつたふ小流の、

音も細りてたえだえに、

なり行くさまのさびしさよ。

 

おもへばかなし過ぎし夢、

花にうかれし其頃は、

溢るゝこびをうつたふる、

乙女のゑみもみしものを。

日影てりそふ前の園、

かすまぬ歌もきゝつるに、

今はそれさへよそにして。

 

友とむつみし唐猫も、

見すてゝ今はよりもこず。

やどゝ定めし野べの花、

散りてむかしのあともなし。

ときどきすぐるうなゐ子が、

蝶こよこよと招くのみ。

かなしきものぞおのがみは。

 

見渡すかぎりわかみどり、

おふるばかりに成にけり。

あれあれ見ゆるあの梢、

むかしとまりしあとなるを、

今はあだなる鳥のこゑ、

友よびかはしうたふなり。

うらやましきはよその空。

 

されどうらまじうらむとも、

かへらぬものをいかにせん、

榮花のゆめはいつしかに、

すぎゆくものといにしへの、

かしこき人ものたまひき。

めぐるははやし風ぐるま、

風にまかせてわれいなん。

 

朝日はいでぬいざいなん、

ふりにしあとはしたはじよ。

野べはにほひぬいざゆかん、

いかで榮華をうらむべき。

われをむかふる久方の、

天津御空の神にます、

ものあるべきやいざや人。

 

[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年三月『少年園』(日本最初の本格児童雑誌とされる雑誌。創刊は明治二一(一八八八)年)掲載。署名は本名の伊良子暉造。伊良子清白十七歳。年譜によれば、この発表の三月に京都の清浄華院(しょうじょうけいん:現在の京都市上京区にある浄土宗の寺。ここ(グーグル・マップ・データ))に独りで下宿を始め、翌月四月に私立医学予備校に入学している。]

(題不明) 正暉(伊良子清白) (現在確認し得る彼の最も古い十五歳の時の詩篇)

[やぶちゃん注:以下、底本の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻の「未収録詩篇」の電子化に入る。この「未収録」というのは、明治三九(一九〇六)年左久良書房刊の伊良子清白の唯一の単行詩集「孔雀船」(リンク先は私のサイト内の初版本全電子化)と、清白生前に彼自身の校閲に成る昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の孰れにも収録(再録が殆んどであるが、推定で後者には新録(未発表で新潮社版に載せた詩篇)が含まれるものと思われる)されなかったものを、平出氏が編年順に載せたものである(但し、一部の、改変して上記二書に載せた原型詩篇については、既に本ブログ・カテゴリ「伊良子清白」で電子化したものがあり、それは注してリンクさせ、省略する)。底本に従い、編年で電子化する。]

 

(題不明)

 

をしめど鳥もなき過ぎて

かすかにびゞくかねの音

くれよとばかりいたづらに

いまはつけつゝあはれやな

あとだにとめよ

はるのくれ

 

[やぶちゃん注:明治二五(一八九二)年『輕文學』第二号掲載。伊良子清白満十五歳、三重県尋常中学校三年の時の作品。『輕文學』は同中学校の同人誌。題が不明であるのは、底本の編者平出隆氏が初出誌を発見出来ず、転載に拠ったためである。底本全集第二巻の年譜によれば、詩作自体がこの年に始まったと推定されてある。……ああ……まるで……グレン・グールドの「ゴルトベルグ変奏曲」ではないか…………

「つけつゝ」は「名残を感じさせながら」の謂いか。]

狩人のうた 伊良子清白 /昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」(「孔雀船」からの再録分を除く)全詩篇電子化注完遂

 

狩人のうた

 

つぐみさへづり鷹遊び

鹿も小鹿もかけり飛ぶ

森をくぐりて行く時ぞ

しく時もなしたのしみは

 

梢に妹のとまりなば

つぐみの如く射てあてん

小鹿のかけり身はかろく

えとめぬ妹ぞ走り行く

          (以上三篇ウーランド)

 

[やぶちゃん注:最後の「(以上十五篇ハイネ)」は昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の本篇最後に記されてあるもの。本篇は明治三六(一九〇三)年九月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(二)(UHLAND より)」の下に、標題無しの一篇(新潮社版「伊良子清白集で」先の「森を穿ちて」に改題)と「ひばり」・本「狩人のうた」の三篇から成る。これらはドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)の訳詩。私はドイツ語が解せず、幾つかのドイツ語の単語で検索を試みたが、残念ながら、見出せなかった。初出は、「森をくぐりて行く時ぞ」が「森を穿ちて行く時ぞ」と、「小鹿のかけり身はかろく」が「小鹿のあみちかろらに」が有意な異同。

 なお、本篇を以って新潮社版「伊良子清白集」は終わっている。]

ひばり 伊良子清白 (ウーラント訳詩)

 

ひばり

 

羽音をたてて翔り行く

鳥よ雲雀よ渡り鳥

或は牧場を橫ぎりつつ

或は木立を掠(かす)めつつ

 

鬨(とき)をつくりて大方は

空の彼方にとび去りぬ

一羽ぞ歌もほがらかに

ここに羽ばたく胸の内

 

[やぶちゃん注:本篇は明治三六(一九〇三)年九月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(二)(UHLAND より)」の下に、標題無しの一篇(新潮社版「伊良子清白集で」先の「森を穿ちて」に改題)と本「ひばり」・「狩人のうた」の三篇から成る。これらはドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)の訳詩。私はドイツ語が解せないが、幸いにして「ひばり」のドイツ語でフレーズ検索することで、原詩“Die Lerchen”(一八四三年作)を見出だせた。こちらである。初出は「一羽ぞ歌も面白く」が有意な異同。]

森を穿ちて 伊良子清白 (ウーラント訳詩)

 

森を穿ちて

 

森を穿ちてうかれ行く

われはおそれず山賊(やまだち)も

戀しき胸ぞわが寶

惡しきやからもあさり得じ

 

繁みの下(もと)にざわつくは

何ぞ? 山賊(やまだち)? 人殺し?

戀しき妹ぞ飛び來たる

心地死ぬべくかき抱く

 

[やぶちゃん注:本篇は明治三六(一九〇三)年九月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(二)(UHLAND より)」の下に、標題無しの一篇(本「森を穿ちて」である)と「ひばり」・「狩人のうた」の三篇から成る。底本親本の昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」では、「狩人のうた」の末尾に、「(以上三篇ウーランド)」と後書きする。従ってこれらはドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)の訳詩である。ネット上にはドイツ語の詩篇テクストが散見されるが、私はドイツ語が解せないので、原詩は不詳。初出に有意な異同はない。]

春 伊良子清白 (ハイネ訳詩)

 

 

浪は輝き流れ去る

春の景色の美しさ

牧の少女の岸近く

優なる花環編みて居り

 

めぐむ泉はかをりつつ

春のけしきの美しさ

深き胸よりもれいでて

「誰れに贈らんわが花環」

 

若武者岸をうたせ行く

花はづかしき其風情(ふぜい)

心いたみぬ少女子は

彼方に靡く羽印(はねじるし)

 

泣きぬ滑りて行く水に

優なる花環流しやる

よぶは鶯戀の歌

春のけしきの美しさ

         (以上十五篇ハイネ)

 

[やぶちゃん注:最後の「(以上十五篇ハイネ)」は昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の本篇最後に記されてあるもので、例のダイヤ型の大小を用いた変わった十字架状の装飾記号が三つ縦に打たれ後の、「さうび百合ばな」以下、以上に電子化した詩篇群を指している。しかし、この後書きは正しくなく、「さうび百合ばな」の前の三篇「山彥」「金」「牧童」もハイネの訳詩である。しかも、奇体な装飾記号で分離されている以上、ハイネを知らない殆んどの読者は「山彥」「金」「牧童」を、総て、妙に日本離れしたハイカラなロケーションや表現だなあとは思えども、ハイネの詩とは思わない。これの添書きは正直、私には甚だ不審にして不快な印象を与えることを述べておく。

 本篇は明治三六(一九〇三)年十一月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(四)(Heine より)」の下に、「綠の牧場」「車に乘りて」「われの言葉を」「心を痛み」及び本「春」の五篇からなる。原詩は不詳。初出には私は有意な異同を認めない。]

心を痛み 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

心を痛み

 

心を痛み舟の上

われら二人は坐るなり

夜は靜かに海遠く

われ等二人は泛(うか)ぶなり

 

月の光の影浴(あ)びて

くろき島こそ橫はれ

可愛しき響物のおと

霧のをどりもゆらぎつつ

 

彌(いや)面白く愛(めづ)らしく

物のけしきぞなりまさる

されどわれらは味氣なく

沖べはるかに泛ぶなり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年十一月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(四)(Heine より)」の下に、「綠の牧場」「車に乘りて」「われの言葉を」・本「心を痛み」・「春」の五篇からなる。本篇は一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)の“Lyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第XLIII歌(第四十三歌)である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は「夜は靜かに海遠く」が「夜は靜に海遠く」、「月の光の影浴(あ)びて」が「月の光の影浴て」、「可愛しき響物のおと」が「可愛(かな)しき響物の音」となっている。

 生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を国立国会図書館デジタルコレクションの大正一四(一二五)年春秋社刊生田春月訳「ハイネ全集 第一巻」(「詩の本」)の「抒情插曲」パートから示す。春月のそれは第「四十二」歌とする。

 

 

  四十二

 

ふたりは仲よく手をとつて

輕い小舟に乘つてゐる、

夜はしづかに凪ぎはよい

沖へ沖へと舟は出る。

 

幽靈島はうつくしく

月のひかりにかすんでゐる、

たのしい音色(ねいろ)が洩れて來て

霧はをどつて波をうつ。

 

音色はいよいよ冴えわたり

霧はいよいよ飛びまはる、

けれどそこへはよらないで

沖へ出て行くやるせなさ。

 

   *]

われの言葉を 伊良子清白 (ハイネ訳詩)

 

われの言葉を

 

われの言葉を君解(と)かず

君のことばをわれとかず

ただ解きえたりきみとわれは

穢(きた)なき糞(まり)を見てし時

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年十一月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(四)(Heine より)」の下に、「綠の牧場」「車に乘りて」・本「われの言葉を」・「心を痛み」・「春」の五篇からなる。原詩不詳。初出は三行目が「ただ解きえたりきみとわれ」となっており、「糞」にルビはない。]

車に乘りて 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

車に乘りて

 

車に乘りて夜もすがら

君と行きけりくらやみを

いだきつ戲(ざ)れつ微笑(ほゝゑ)みつ

胸と胸とを押しよせて

 

されど其夜のあけしとき

われ等のおどろきいかなりし

二人の中に旅路行く

盲アモルは坐りけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年十一月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(四)(Heine より)」の下に、「綠の牧場」・本「車に乘りて」・「われの言葉を」・「心を痛み」・「春」の五篇からなる。本篇はPDサイト「PD図書室」のこちらの昭和一〇(一九三五)年二十四版新潮文庫刊生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)譯「ハイネ詩集」の訳によるなら、一八二六年初版一八三〇年再版の詩集“Reisebilder”(「帰郷」)の第七十四歌であるが、ドイツ語が解らない私の力では原詩は捜し得なかった。「盲アモル」(めくらアモル)は以下の生田の後注を参照。以下に生田の上記リンク先のそれを示す。

   *

 

  七十四

 

夜つぴてわたしたちは二人きり

郵便馬車で旅をした

互の胸にもたれてやすんだり

ふざけ散らしたり笑つたり

 

ところがとうと夜が明けたとき

いとしい人よ、二人はどんなに驚いたか?

二人の間にはすわつてをつた

戀アモオルが、あの盲目の旅人が

(獨逸では無賃の乘客をも盲目の旅人といふ)

 

   *]

綠の牧場 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

綠の牧場

 

綠のまきば森のうへ

夏の夕べぞたそがるる

黃金(こがね)の月は大空(おほぞら)に

薰り放ちててらすなり

 

なくや蟋蟀(こほろぎ)水近く

水のおもてぞゆらぐなる

水打つ音とその呼吸と

靜けき夜を破りつつ

 

小川の岸にただ一人

はしき少女ぞ浴みする

腕(ただむき)頸(うなじ)白々と

月の光に輝きて

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年十一月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(四)(Heine より)」の下に、本「綠の牧場」・「車に乘りて」・「われの言葉を」・「心を痛み」・「春」の五篇からなる。本篇はPDサイト「PD図書室」のこちらの昭和一〇(一九三五)年二十四版新潮文庫刊生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)譯「ハイネ詩集」の訳によるなら、一八二六年初版一八三〇年再版の詩集“Reisebilder”(「帰郷」)の第九十七歌であるが、ドイツ語が解らない私の力では原詩は捜し得なかった。

 生田春月の訳を同上ページの「帰郷」パートから示す(但し、漢字の一部を正字化した。)。

   *

 

  九十七

 

夏の夕は落ちて來た

森と綠の牧場の上に

靑い空からは黃金の月が

匂はしい光を投げてゐる

 

河のほとりには蟋蟀(こほろぎ)が鳴き

水はさらさら音立てる

旅人はそのせゝらぎに聞き惚れてゐる

靜かななかに一つの呼吸(いき)の音

 

その河邊にはただひとり

美しい妖精(エルフ)が水に浸つてゐる

白いかはいゝ腕(かひな)と頸(くび)を

月の光にてらさせて

 

   *]

2019/05/07

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼨(とらふねずみ) (ハツカネズミの変種か品種か?)

Torahunezumi

 

 

とらふねすみ 鼮【音亭】

 

【音終】

 

チヨン

 

本綱鼨鼠【郭璞云】大如掌其文如豹漢武帝會獲得以問終

軍者

△按廣博物志云竇攸治爾雅舉孝廉爲郎世祖與百寮

 大會時得鼠身如豹文熒有光澤世祖異之問羣臣莫

 知攸對曰名鼮問何以知之攸曰見爾雅詔案視書如

 其言又辛怡諫爲職方有異鼠豹首虎臆大如拳怡諫

 以爲鼮鼠而賦之韋若虛曰此說文所謂鼨鼠豹文而

 形小一座敬服

 

 

とらふねずみ 鼮〔(てい)〕【音「亭」。】

 

【音「終」。】

 

チヨン

 

「本綱」、鼨鼠は【郭璞〔(かくはく)〕云はく、】、大いさ掌のごとく、其の文、豹のごとし。漢の武帝、會(たまたま)獲〔(と)〕り得て、以つて、終軍に問ひただせし者なり。

△按ずるに、「廣博物志」に云はく、『竇攸〔(とういう)〕、「爾雅」を治め、孝廉〔(かうれん)〕に舉げられ、郎たり。世祖、百寮と大會〔(だいくわい)〕す。時に、鼠を得。身は、豹のごとく、文〔(もん)〕、熒〔(ひか)〕り、光澤有り。世祖、之れを異〔(あや)し〕みて羣臣に問ふ。知るもの、莫し。攸、對〔(こた)へ〕て曰はく、「鼮〔(てい)〕と名づく。」〔と〕。問ふ、「何を以つて之れを知るや。」〔と〕。攸、曰はく、「『爾雅』に見〔ゆ〕る」と。詔〔(みことの)〕りして、書を案(うかゞ)ひ視(み)せしむ〔に〕其の言のごとし。又、辛怡諫〔(しんいかん)〕、職方〔(しよくはう)〕[やぶちゃん注:官名。地図を司り、四方からの貢献物を取り扱った職。]を爲〔(な)〕せるとき、異鼠有り、豹の首、虎の臆〔(むね)〕、大いさ、拳(こぶし)のごとし。怡諫、以つて「鼮鼠〔(ていそ)〕なり」と爲〔(な)〕し、之れを賦〔(ふ)せり〕。韋若虛が曰はく、「此れ、『說文』に所謂〔(いはゆ)〕る、『鼨鼠〔(しふそ)〕』なり。豹の文にして、形、小さし」と。一座、敬服す』〔と〕。

[やぶちゃん注:これは思うに一つの候補としては、ただでさえ白・灰・褐色や黒色と体色が変異に富む、ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus の白黒斑(まだら)の変異体或いはそのように改良した品種ではないかと思われる。ウィキの「ハツカネズミ」の「実験用マウス」の項の最後に、『日本でも、江戸時代から白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。ニシキネズミとも呼ばれる。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とあるからである。これは正確には「ジャパニーズファンシーマウス」と呼ばれ、俗に「パンダマウス」とも称されているものらしい。ぶち斑ではないが、候補の一人として挙げてやる資格はあると思う。しかし乍ら、後の独立項で「䶄(またらねすみ)」という悩ましいものが出、それの方が、実は遙かに上記の品種に合致するので、そこで再度、考察し、或いは、この注もその後に改稿することとなるやも知れぬ。悪しからず。さらに、中文サイトで「豹文鼠」として「百度百科」に写真が挙げられているものがあるにはあるのだが、この後ろ足で立った、薄鼠に白い斑のこの子(腹部は真っ白)、いくら調べても、学名が出てこない。顔を見てみると、鼠というよりは、栗鼠っぽい。有袋類の仲間のようにも見えてくるが、こんなのはいない(と思う)。ともかくも、この子は確かに、遙かにこの挿絵にそっくりではあるこの子の学名がお判りの方は、是非とも、御教授を乞うものである。【2019年5月9日取消線挿入・追記】柳田國男を中心に私の電子化で私が判らなかった事柄について多くの貴重な御教授を下さるT氏が、この最後の部分の私の不審を完全解明して下さった! 「百度百科」の画像のその子は、オーストラリアにしか生息しない有袋類のフクロネコ(袋猫。ウィキの「フクロネコ」をリンクさせておく)なのであった! T氏は中でも獣亜綱後獣下綱有袋上目フクロネコ形目フクロネコ科 Dasyurinae 亜科 Dasyurini 族フクロネコ属 Dasyurus の内の、英文ウィキ他から以下の四種を候補として掲げられ、Dasyurus geoffroii(英名:Western quoll/和名:オグロフクロネコ)
Dasyurus hallucatus(英名:Northern quoll/和名:ヒメフクロネコ)
Dasyurus maculatus(英名:Tiger quoll/和名:オオフクロネコ)
Dasyurus viverrinus(英名:Eastern quollsi/和名:フクロネコ)
特に、三番目の「オオフクロネコ」=「Tiger quoll」(訳すなら「虎袋猫」。以下同じ)、別名「the spotted-tail quoll」(斑入りの尾を持った袋猫)「the spotted quoll」(斑入り袋猫)「the spotted-tail dasyure」「the tiger cat」がそれらしいとされ(「quoll」も「dasyure」も「フクロネコ」の意)、さらに《
決定打》として、中文サイトの「澳洲动物图片集3」の画像内に「百度百科」と全く同じ写真が見出せることをご指摘戴いたのである(やってくれちゃいましたね「百度百科」!)。上記リンク先の画像を見ても、この写真の生物はネズミではなく、間違いなく、有袋類のフクロネコ科のフクロネコであることはもう間違いない。T氏に心から感謝申し上げる。

「郭璞云はく」東洋文庫訳には割注で郭璞の「爾雅注疏(じがちゅうそ)」からの引用とする。「爾雅」は字書で全三巻・十九編。撰者未詳。周代から漢代の諸経書の伝注を採録したものとされる。「爾雅注疏」は同書の書名注に、『十一巻、晉の郭璞』『注、北宋の刑昺(けいへい)疏。『爾雅』の注釈書。大変すぐれたもので、後世の人々から注疏の手本とされている』とある。

「漢の武帝」(紀元前一五六年~紀元前八七年)は漢の第七代皇帝。本名は劉徹。

「終軍」(?~紀元前一一二年)は人名。字は子雲。ウィキの「終軍」によれば、『若くして漢の使者となった』とする。『若い頃から学を好み、弁舌や文章に優れていたことで郡中でも有名だった』。十八『歳にして博士弟子に選ばれ、長安へ行くこととなった。徒歩で関所を通過する際、関所の役人が戻ってくる時のための割符を渡したが、終軍はそれを捨ててしまった』。『長安に到着すると』、『上書して建策をし、武帝は彼を認めて謁者給事中に任命した』。『武帝が雍に行き』、『五畤』(ごじ:天地の神五帝を祀る神聖な場所を指す)『を祀った際、白麟を捕らえた。また、横に伸びた枝がもう一度木にくっついているという奇妙な木が見つかった。武帝が群臣にそれが何の兆候であるか尋ねたところ、終軍は今に異民族が漢に降伏してくるという兆候だと答えた。武帝はこの兆候を元に』、『改元して元号を元狩と名づけた。数ヵ月後、越と匈奴の王が降伏してきたため、人々は終軍の言うとおりだと言った』。『博士徐偃という人物が、各地の風俗を巡察する使者となった際に皇帝の命令と偽って』、『膠東と魯国で塩と鉄を作らせたと言う事件があった。御史大夫張湯が彼を死罪にしようとしたが、徐偃は反論し、張湯は論破できなかった。そこで武帝は終軍に徐偃を詰問させ、徐偃を論破した』。『終軍は各地を視察する使者になり、皇帝の節を奉じてかつて通過した関所を通った。関所の役人は彼の顔を見て「この使者は以前に割符を捨てた学生ではないか」と驚いた』という。『終軍は匈奴に使者を出すという話を聞くと、自ら使者となることを願い出た。武帝は彼を諫大夫とした』。『その後、南越が漢と和親を結ぶと、武帝は終軍を南越に遣わし、王に長安への入朝を勧めさせようとした。終軍は「長い紐をいただければ南越王をつないで連れてきましょう」と言った』。『終軍は南越王を説得し、王は国を挙げて漢に従うこととしたが、南越の宰相である呂嘉は降伏を欲せず、挙兵して王や漢の使者を殺し、終軍も死んだ』。『終軍は死亡した時に二十数歳であり、世間では彼を「終童」と呼んでいた』とある。……puer eternus……プエル・エテルヌス……

「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)撰になる古今の書物から不思議な話を蒐集したもの。全五十巻。

「竇攸〔(とういう)〕」後漢の文人政治家らしい。

「孝廉〔(かうれん)〕」先の前漢の武帝期に定められた官吏登用科目。毎年、郡国から「孝」であるもの(「挙孝」)、「廉」(正直で私欲のないこと)であるもの(「察廉」)を推薦させるもので、宣帝の時、「挙孝廉」・「察廉」と改称された。後漢の和帝の時、郡国の人口十万人以下は三年に一人、二十万人以下は二年に一人、二十万人は年一人、以上、累増して百二十万人では年に六人と孝廉の人数が制限され、さらに順帝時代には孝廉は四十歳以上とし(のちに廃止)、また、課試の制も設けられた(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「世祖」後漢王朝の初代皇帝光武帝(紀元前六年~紀元後五七年)。

「百寮」朝廷に仕える官僚の総称。

「大會〔(だいくわい)〕」総見。

「時に、鼠を得」総見は戸外で行われたものとは思われるが、禁裏内の人工的な広場である。ということは、この鼠は野鼠ではなく、家鼠である可能性が濃厚である。

「辛怡諫〔(しんいかん)〕」唐代の文人官僚。中島敦の「山月記」(中唐の李景亮「人虎傳」原作)の主人公李徴と同じ出身地(そこでは正確には生地ではなく長く住んだ地)隴西の出で、殿中侍御史内供奉に昇った。

「賦(ふ)」中国の韻文の一体。形式としては対句を用いて句末に適宜押韻するものであるが、一句の字数や一篇全体の句数の規定はない。「楚辞」の流れを引くもので、比喩などを用いず、感じたことをありのままに詠むことを眼目とする。

「韋若虛」東洋文庫訳によれば、これは「韋」ではなく盧若虛(ろじゃくきょ)の誤りとする。同割注によれば、『唐の人、官は集賢院学士』とある。盛唐の文人官僚と思われる。

「說文」「説文解字」。後漢の許慎の著になる西暦一〇〇年頃に成立した現存する中国最古の字書。全十五巻。漢字を扁 (へん) と旁 (つくり) によって分類し、その成立と字義を解説したもの。書名は「文字」を「説解」したという意で、略して「説文」と呼ばれる。部首は「一」に始り、「亥」に終る五百四十に亙り、各部に属する文字が類義字の系列に配列されてある。各字は、まず秦代の小篆を掲げ、その古字がある場合は下に付記して(重文と称する)字体の変遷を示す。小篆九千三百五十三字・重文千百五十三字が収められてある。漢字の造字法を「象形」・「指事」・「会意」・「形声」・「転注」・「仮借」の現在も分類として現役の「六書 (りくしょ)」 に分類し、各字について、その造字法と字義とを解説している。漢字の本質を説明した最古にして最も権威ある書で、甲骨文字が発見され、音韻論・語源研究の発達した今日にあっても、その解説は概ね正しいとされ、逆に本書があって初めてこれらの研究が進んだ。漢字の配列・分析に使われる「部首」や、以上の「六書」の発明と相俟って、中国の実証的学問研究の端緒を成すものとされる。テキストは宋初の校訂本が規準とされ、清代にはそれを校合した「説文」研究が盛んとなり、多くの注釈が生れた。中でも段玉裁の「段注説文解字」(全三十巻・一八〇七年成立) が、強引な論証をも含むものの、最も精密なものとされている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

※1※2(「※1」=「鼠」+「离」/「※2」=「鼠」+「曷」)(つらねこ) (小鼠が咬み連なった連鎖群)

Turaneko

 

つらねこ  ※2※1【玉篇音離愛】

 

※1※2

      【和名豆

       良祢古】

リイアイ  【豆良者連也

       祢者鼠也古

       者小之通稱】

[やぶちゃん注:「※1」=「鼠」+「离」。「※2」=「鼠」+「曷」。下部の最初の別称は字が逆転しているので注意。良安も本文末の割注で注意を喚起している。

 

△按本綱※1※2小鼠也相啣而行也【秦記及草木子】群鼠數萬相

 啣而行以爲鼠妖卽此也【玉篇與本草文字上下也】

 

 

つらねこ  ※2※1【「玉篇」。音「離・愛」。】

 

※1※2

      【和名「豆良祢古」。】

リイアイ  【「豆良」は「連(つら)なる」

       なり。「祢」は「鼠」なり。

       「古」は「小」の通稱たり。】

[やぶちゃん注:「1」=「鼠」+「离」。「2」=「鼠」+「曷」。下部の最初の「玉篇」所収とする別称は字が逆転しているのであるが、これは「玉篇」の誤字であろう。何故なら、そこに出る音の順序が「2」のそれだからである。「1」は現代中国語で「」(リィー)で「離()」と、「2」は「ài」(アィ)(別に「」(イエ)もあるが)で「愛(ài)」と、現在の拼音(ピンイン)でも完全に一致するからである。

 

△按ずるに、「本綱」、『※1※2は小さき鼠なり。相ひ啣〔(か)〕んで行くなり。【「秦記」及び「草木子」。】〔に〕「群鼠、數萬、相ひ啣んで行きて、以つて鼠妖〔(そよう)〕を爲す」といふは、卽ち、此れなり』【「玉篇」と「本草〔綱目〕」の文字、上下なり。】』〔と〕。

[やぶちゃん注:「※1※2」はネズミの種名ではない。中文サイトで調べても、「広韻」に「小鼠が互いに銜(くわ)え合って行くことである」とあり、「康熙字典」でも「小鼠で、それが相い銜(くわ)えて行く」の意と記す。「本草綱目」の以上は「巻五十一 下」の「獸之二」の「鼠」の「附録」の中の一節で出、その原文は、

   *

※1※2【音「離・艾」。孫愐云、「小也。相啣而行。」。李時珍云、『按「秦記」及「草木子」皆載、「群數萬相啣而行以爲鼠妖者」卽此也。』。

   *

である。「艾」は「ヨモギ・尽きる・美しい」の意の漢字で拼音はやはり「ài」である。なお、ネズミではないが、ネズミに似て見える哺乳綱獣亜綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ属ジャコウネズミ Suncus murinus には親の尾に噛み付き、その子に子が噛み付いてそれが繰り返されて一続きになった集団で移動するキャラバン(caravan)行動が知られ、この図はそれを想起させる(「麝香鼠」は独立項が後にある)。

「玉篇」六朝の梁の字書。五四三年成立。顧野王(こやおう)撰。元は全三十巻。日本では古くは「ごくへん」とも呼んだ。原本は中国では唐から宋の間に殆んどが散逸してしまい、日本に一部の写本が残っているに過ぎない。五百四十二の部首を立て、それらに一万六千九百十七字を配属させ、各字について反切による発音と字義を記したもの。漢字字形の分類による字書という点で、後漢の許慎の「説文解字」(一〇〇年頃成立)の体裁に倣うが、分類法はやや異なり、字数も約二倍で、字義も諸書を引用して詳しくなっている。現在通行しているそれは一〇一三年に南宋の陳彭年・呉鋭らが編した増修本「大広益会玉篇」(「重修玉篇」)である。しかしこれは字数は増えたものの、字解部分が極めて簡略となってしまっていて、原本とは面目を異にするものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「秦記」東洋文庫版の書名注に、『中国北西の秦国の地方』誌で、全『十一巻。南朝の宋』(劉宋(四二〇年~四七九年)のこと)『の裴(はい)景仁撰』で、『梁』の『席恵明』が『注』したもの、とある。

「草木子」東洋文庫版の書名注では、『『草木子』か。四巻。明の葉子奇(ようしょうき)撰。天文・地紀・人事など八編に分かって詳細に故事などを引いて説明したもの』とある。但し、中文サイトで調べると、※1※2の文字はなく、恐らくは時珍は「巻之三 上」にある以下の鼠の異常な大群移動の事例を指しているのではないかと思われた。

   *

乙未年中[やぶちゃん注:前の条に「至正」という元の年号が出るから、これは至正一五(一三五五)年のことと思われる。]。江淮間群鼠擁集如山。尾尾相銜度江。過江東來。湖廣群鼠數十萬。度洞庭湖望四川而去。夜行晝伏。路皆成蹊。不依人行正道。皆遵道側。其羸弱者走不及。多道斃。

   *

こりゃ、確かにレミング(ネズミ目ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科レミング族 Lemmini)の大移動(未だに大昔の少年雑誌のトラウマの図解を鵜のみにして「レミングは集団自殺する」と信じている人はまさかおるまいな? そういう重傷者は直ちにウィキの「レミング」を読むに若くはない。一瞬で全快する。そこには、『この誤解が広まった一因として』一九五八年の『ウォルト・ディズニーによるドキュメンタリー』(!!!)映画「白い荒野」(原題“White Wilderness”)『が挙げられる』。『このドキュメンタリーでは、レミングが崖から落ちるシーン』『や、溺れ死んだ大量のレミングのシーンがあるが、カナダ放送協会のプロデューサー、Brian Vallee』による一九八三年の『調査によって』、それらは、あろうことか。『意図的に崖へと追い詰め』、『海へと飛び込ませ』て撮影したという『事実が明らかになった』とあるぞ!)並みに「鼠妖」だわ。

太平百物語卷三 廿四 闇峠三つの火の魂の事

Kurayamitouge


 

   ○廿四 闇(くらがり)峠三つの火の魂(たま)の事

 越中の國冨山に源八といふ者ありし。年比(としごろ)、諸國へ丸藥を賣(うり)に廻(まは)りしが、一年(ひとゝせ)、「大和路に行く」とて、折しも五月中旬(さつきなかば)、いとあつかりしが、くらがり峠にかゝりければ、日は、はや、暮(くれ)ける。

 源八、おもふやう、

『われ壱人、夜(よ)に入りて行(ゆか)ん事、用心もいかゞなれば、上なる驛舍(はたごや)に一宿せん。』

とて、道を急ぎけるが、此峠は日中にても、ほの闇(ぐら)きに、まして、黃昏(たそがれ)に過ぎければ、物のあやめも、さだかならず。

 弥(いよいよ)心ぼそく、たどり行所に、向ふの方(かた)より、鞠(まり)の大きさ成(なる)火の玉、壱つ、まろび來(き)しほどに、源八は、いとおそろしくおもひ、

『いかゞせん。』

と身をもだへけれ共、すべき樣なく、傍(かたはら)に身をちゞめて居けるが、間もなく、源八がそば近くへ、こけきたり、忽ち、弐つにわれて、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])し、と、おもへば、俄に、女の泣(なき)さけぶ聲して、何(いづ)く共(とも)なく、顯はれ出(いで)たり。

 あとより來(きた)る二つの火の玉、同じくわれて、消ゆる、と、おもへば、二人の男、こつぜんとしてあらはれたりしが、此女を互に奪ひとらんと爭ひ、兩手を左右へ引合(ひきあふ)ほどに、此女、いと苦しく堪(たへ)がたき有樣にて、一聲(ひとこゑ)さけびて、息たへたり。

 二人の男は、互に刀ぬきそばめ、暫く戰ふとぞ見へし。

 終に、兩方、さしちがへて、彼(かの)女の上に、倒れ死す。

 源八、始終を見るに、肝たましゐも身にそはず、足をばかりに、一さんに迯(にげ)のび、やうやう、とある家にかけつき、表(おもて)を、あらけなく叩きければ、

「何事やらん。」

と亭主(あるじ)かけ出(いで)見れば、源八は、戶口にたふれ、絕入(ぜつじゆ)しゐたり。

 亭主、やうやう呼びいけ、其ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]を尋(たづぬ)れば、源八、額の汗おし拭(ぬぐ)ひ、胸おしさすりて、ありし次第を委(くはし)くかたれば、亭主は手を打(うち)、

「されば候。ちかき比(ころ)、何某(なにがし)がむすめの、みめよかりしを、二人の男、戀こがれ、

『妻にせん。』

とて互に心を盡し爭ひけるが、此女も二人の男のこゝろざし、いづれ、切なる事なれば、なびかん事も片糸(かたいと)の、心みだれて詮方(せんかた)なく、

『よしや。今は是迄。』

とおもひつめ、書置(かきおき)こまごま認(したゝ)め、終に、渕(ふち)に身を沉(しづ)め果(はて)たりしが、二人の男、此よしを聞(きゝ)、

『此上は世にながらへて何かせん。』

と、互に差(さし)ちがへて、失(うせ)ける。其執心、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])に迷ふて、此峠の麓に、每夜每夜、出づると、頃日(このごろ)、專ら、沙汰しけるに、正(まさ)しく、今宵、逢玉(あひたま)ひける、ふしぎさよ。」

と語れば、源八、哀(あはれ)を催し、

「誠に切なるおもひかな。いざや、此人々の妄執をはらさん爲、吊(とぶら)ひをなさばや。」

とて、亭(あるじ)[やぶちゃん注:ママ。]とともに、通夜(よもすがら)、仏前にむかひつゝ、

「南無幽㚑成等正覚出離生死頓證菩提(なむゆうれいじやうとうしやうがくしゆつりしやうじぼだい)。」

と囘向(ゑかう)し、夜明(よあけ)て、南都の方(かた)に赴きける、となり。

[やぶちゃん注:所謂、「菟原処女(うないおとめ)」を確信犯で下敷きとした哀切なる怪談である。「菟原処女」は「妻争い伝承」の主人公で、求婚した二人の男たちも後を追って死ぬ悲譚として知られる。彼女は摂津菟原(うはら)郡(現在の兵庫県の六甲山南麓)に住んでいた美少女で、菟原壮士(うないおとこ)と血沼壮士(ちぬのおとこ)の二人から求婚されて悩み、遂に生田川に身を投げて死に、二人の男もその後を追った。「万葉集」で高橋虫麻呂や大伴家持らに詠われ、「大和物語」や謡曲「求塚」、森鷗外の「生田川」の題材ともなった(ここの解説は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。ここでは特に、最初の女の火の玉が二つに割れるシーンが、生前の彼女の煩悶を映像的に象徴的処理となっており、非常に優れた演出効果をあげている点に着目すべきであろう。男たちの火の玉が割れるのも、男たちの出現のプレ演出なのではなく、二つに引き裂かれた女の魂へそれぞれの半分が執心として飛び、相互に戦う男の修羅の執心の半分がぶつかり合うという、多層的な構成と私は読む。挿絵も小さな中で、本文では示されない樹上に逃げた源八を描いて、パースペクティヴを出しつつ、女の亡霊と火の玉四つを添えて、小さなフレームの中乍ら、よく描けていると思う。

「闇(くらがり)峠」(実は原典では本文を含めて「峠」に「とうげ」とルビを振っている。歴史的仮名遣は「たうげ」が正しいので読みをカットした)今の「暗峠(くらがりとうげ)」。奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある峠(グーグル・マップ・データ)。標高四百五十五メートル。ウィキの「暗峠」によれば、この不吉に響いて、ここでのロケーションとしては最適の名称「くらがり」の『起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」、「鞍換へ」あるいは「椋ケ嶺峠」といったものが訛って「暗がり」となったとする異説もある。上方落語の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返ることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られている』とあり、また、『峠の頂上には小さな集落があり、茶店もあ』って、『この付近の路面は江戸時代に郡山藩により敷設された石畳となっている。この』現在も五十メートルほど設置されて『ある』(今は『コンクリート舗装』)『石畳は、暗峠が急坂であることから、参勤交代で殿様が乗った籠が滑らないようにするために敷かれたもので』、『国道に指定されている道で』、『石畳状の路面を呈するものは、国内で唯一この暗峠のみである』とある。さらに、『江戸時代に暗峠の村に大和郡山藩の本陣が置かれ、参勤交代路になって』おり、『同時代に刊行された』「河内名所図会」には、『「世に暗峠という者非ならん……(中略)……生駒の山脈続て小椋山という。故尓椋ケ根の名あり、一説尓は此山乃松杉大ひ尓繁茂し、暗かりぬればかく名付くともいう。」と記されている。また、「大阪より大和及び伊勢参宮道となり、峠村には茶屋旅舎多し」とも記されており、江戸時代後期は庶民の伊勢参宮道となり、旅籠や茶屋が立ち並び賑わっていた』とあるので、源八の「上なる驛舍(はたごや)に一宿せん」という謂いは氷解する。ここで彼は「くらがり峠」を登り切って、その峠にある公的に認められた宿屋で一泊しよう、と考えたのである。

「こけきたり」「轉(こ)け來たり」で、「転がってきて」の意。「こけ」は「轉(こ)く」(自動詞・カ行下二段活用)の連用形。

「足をばかりに」原典も「江戸文庫」版も「徳川文芸類聚」版も総て「足をはかりに」であるが、濁音化した。限定で「ただひたすらに足を動かすことばかりを頼りとして」の意であるからである。

「あらけなく」「なし」は「無し」ではなく、形容詞・形容動詞の語幹などの性質・状態を表す語に付いて複合形容詞を作り、その意味を強調するもので、「甚だしい」の意の接尾語である。則ち、「ひどく荒々しく、乱暴に」の意。

「絕入(ぜつじゆ)」失神。

「呼びいけ」「呼び生け」で、蘇生させ、正気にに戻させ、の意。

「片糸(かたいと)の」枕詞で多様な語にかかるが、片糸は縒(よ)り合わせるてこそ強靭な糸となるが、それだけでは切れやすいことから、縁語的に「絶ゆ」や「乱る」にかかり、ここは後者である。彼女選択が双方の男との糸(結びつき)を「絶つ」ことになるのとも美事に縁語的に響き合っており、この語彙を選んだ作者の力量が窺える部分でもあると言えよう。

「中有(ちうう)」(歴史的仮名遣は「ちゆうう」でよい)仏語。衆生が死んでから次の縁を得るまでの間。「四有(しう)」の一つ。通常は輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。ここでの三人の魂は、その煩悶や執心によって次の縁を得られずに、幽体となって現世の時空を彷徨っており、それは最も救い難い最悪の「中有」の状態にあると言えるのである。

 

に迷ふて、此峠の麓に、每夜每夜、出づると、頃日(このごろ)、專ら、沙汰しけるに、正(まさ)しく、今宵、逢玉(あひたま)ひける、ふしぎさよ。」

と語れば、源八、哀(あはれ)を催し、

「誠に切なるおもひかな。いざや、此人々の妄執をはらさん爲、吊(とぶら)ひをなさばや。」

とて、亭(あるじ)とともに、通夜(よもすがら)、仏前にむかひつゝ、

「南無幽㚑成等正覚出離生死頓證菩提(なむゆうれいじやうとうしやうがくしゆつりしやうじぼだい)」「南無幽㚑」(南無幽靈)は、正法(しょうぼう)への導きをするための幽霊への呼びかけ。「成等正覚出離生死頓證菩提」(成等正覺出離生死頓證菩提)は、本来は、修行者である菩薩が正しい修行を経、その結果として、輪廻転生の愚かな生死の無限ループの束縛から離脱し、解き放たれて(「出離生死(しゅつりしょうじ)」)、速やかに解脱・悟達し(「頓證(とんしょう)」)、一切平等で正しい悟りを完成すること(この階梯全体が「成等正覺(じょうとうしょうがく)」)、即ち、真の仏の悟りを開くこと、成仏すること(「菩提」)を指す。ここもそれと同じことを亡霊に諭しているのである。この回向文(えこうもん)は、私は謡曲「通小町(かよいこまち)」で全く同じそれを知っている。小原隆夫氏のサイト内の「通小町」の詞章を見られたい。]

なれをこひずと 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

なれをこひずと

 

なれをこひずときみはいふ

その言の葉の何あらん

面ばかりをながむれば

よろこばしさぞきはみなき

 

なれを憎むと紅(くれなゐ)の

その唇は語るなり

接吻せよわれを物言はで

さらば心のなぐさまん

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」「頰は靑ざめて」「使」「老いたる王の」「墓場の君の」「うきをこめたる」「戀はれつこひつ」「夕となりぬ」・本「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は恐らく、一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)の“Lyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第XI歌である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は終わりから二行目の「接吻」に「キス」とルビする以外は異同はない。

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を国立国会図書館デジタルコレクションの大正一四(一二五)年春秋社刊生田春月訳「ハイネ全集 第一巻」(「詩の本」)の「抒情插曲」パートから示す。春月のそれは第「十二」歌とする。

   *

 

  十二

 

おまへはわたしを愛しない、わたしを愛しない、

愛しなくともかまはない、

おまへの顏さへ見てをれば

わたしはうれしい、王樣のやうに。

 

おまへはわたしを憎んでゐる、憎んでゐる、

それをおまへのあかい小さな口は言ふ!

でもその口がキスにと差出されさへすれば

それでわたしは滿足する。

 

   *]

夕となりぬ 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

夕となりぬ

 

夕となりぬ日は暮れぬ

霧は海路(かいろ)をかくしけり

浪異(け)しからずさざらぎて

白きすがたの見えぞする

 

潮搔き分けて海の精

わが居る岸に來りけり

縑(かとり)の衣(きぬ)のひまもれて

しろき乳房のこぼれつつ

 

われを抱(いだ)きつ抱(だ)き籠めつ

心に傷をおはせけり

あはれ﨟(らふ)たき乙姬よ

あまりに强しなが腕は

 

「なれを抱(だ)くなり腕(ただむき)に

力を籠めていだくなり

今宵の風の寒ければ

あたたまらんと思ふなり」

 

薄墨色の雲間より

月は靑くものぞきけり

あはれ﨟(らふ)たき乙姬よ

なれがまなこはぬれぞます

 

「濡れはまさらずわがまなこ

もとよりかくはしめるなり

波をかづきていでし時

まみに雫のおきしゆゑ」

 

鷗悲しみ波いかり

海の景色のかはりけり

あはれ﨟たき乙姬よ

荒く搏(う)つなりなが心臟(むね)は

 

「荒く搏つなりわが胸は

うつなり荒くわが心臟は

切なる愛のそのために

こひしきなれのそのために」

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」「頰は靑ざめて」「使」「老いたる王の」「墓場の君の」「うきをこめたる」「戀はれつこひつ」・本「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は一八二六年初版一八三〇年再版の詩集“Reisebilder”(「帰郷」)の第XⅣ歌(第十四歌)である。原詩は恐らくこちら(今回はInternet Archive の原詩集の当該詩篇の画像)ではないかと思う(私はドイツ語が出来ないので悪しからず)

「縑(かとり)」「かたおり(固織)」の音の縮約。絹織物の一種で、細い糸で目を細かく固く織った薄い絹布を指す。反対語は「絁(あしぎぬ)」。

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を国立国会図書館デジタルコレクションの大正一四(一二五)年春秋社刊生田春月訳「ハイネ全集 第一巻」(「詩の本」)の「帰郷」パートから示す。春月のそれは第「十二」歌とするので、思うに初版を底本とするか。

   *

 

  十二

 

夕闇がだんだん迫つて來て

霧は海一面を蔽うてしまつた

波は不思議な音立てて

白い柱を立ててゐる。

 

人魚は波から海邊に上つて來て

わたしの傍(うしろ)に來てすわる

そのましろな胸を美しく

紗衣(うすもの)の下からのぞかせて。

 

彼女は息さへ出來ぬほど

わたしをしつかりかきいだく――

これはあんまりきついぢやないか

ねぇ、美しい人魚さん!

 

『わたしはあなたをこの腕で

力いつぱい抱きますわ、

あなたのお胸であたたまりたいの

あんまり寒い夜ですもの』

 

月はだんだん蒼ざめて

くらい雲間に照つてゐる、

おまへの眼はだんだん曇つて濡れてくる、

ねぇ、美しい人魚さん!

 

『だんだん曇つて濡れて來るのぢやありません、

わたしの眼はもとから濡れて曇つてゐるのです、

水の中から出てまゐつた身ですもの

眼の中に雫が殘つてゐるんです』

 

鷗は悲しげに鳴きさけび

海はさかまき吼え立てる――

おまへの胸は大さう動悸が打つてるよ、

ねぇ、美しい人魚さん!

 

『わたしの胸は大そう動悸が打つてます、

ええ、あなたが仰しやる通りだわ、

大層あなたを愛してゐますもの

ねぇ、かはいらしい人間さん!』

 

   *

「ぇ」の小文字表記はママ。]

戀はれつこひつ 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

戀はれつこひつ

 

戀はれつこひつ君とわれ

世はことごとく亡びけり

亡びしものの隙(ひま)よりぞ

愛の我が火はたちのぼる

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」「頰は靑ざめて」「使」「老いたる王の」「墓場の君の」「うきをこめたる」・本「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)のLyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第XLV歌(第四十五歌)のアスタリスク群の配された前の半分である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は以下。

   *

 

戀はれつこひつ

 

戀はれつこひつ君とわれ

世はことごとくくずれけり

くずれしものの隙(ひま)よりぞ

愛の我が火はたちのぼる

 

   *

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を国立国会図書館デジタルコレクションの大正一四(一二五)年春秋社刊生田春月訳「ハイネ全集 第一巻」(「詩の本」)の「抒情插曲」パートから示す。春月のそれは第「五十」歌とし、伊良子清白と同じく上記の原詩の前半分の訳である。ということは詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”、或いは、その中の“Lyrisches Intermezzo”にはやはり改稿版があるということなのだろうか)。

   *

 

  五十

 

わたしはおまへを愛する、昔も今も!

世界がくだけて落ちる日は

木端微塵(こばみじん)の破片(かけら)から

わたしの戀の熖が燃えあがる。

 

   *]

うきをこめたる 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

うきをこめたる

 

うきをこめたる物語

夏の夜更けて語らへば

艶(えん)にかなしく戀人は

悌(おもかげ)にして來りけり

 

「魔術の國を默(もだ)しつつ

たどるは二人妹と背よ

月の光はさやかにて

鶯の歌ひびくなり

 

をとめうごかずなりぬれば

ひざまづきたりもののふも

やがて巨人はあらはれぬ

をとめは怯(は)ぢてのがれけり

 

手負ひて騎士はたふれたり

巨人は蹌踉(よろほひ)かへり行く」

仇になききそ物がたり

根無草にはあらずかし

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」「頰は靑ざめて」「使」「老いたる王の」「墓場の君の」・本「うきをこめたる」・「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)の“Lyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第XLVII歌(第四十七歌)である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は第二連初行が、「魔術の國」が「魔術の園」となっていること、第三連初行が「をとめうごかずなりつれば」であること以外は有意な異同(掲げた後者は朗読上から)のを認めない。但し、前者は原文の単語が“Zaubergarten”(ツァウバーガルテン)であるから、「呪術の園(庭)」「魔術の庭(園)」が相応しく、以下に示すように生田春月もそう訳している。しかし「國」とスケールを大きくしたのは伊良子清白の確信犯であろう。後の巨人の出現は「庭」や「園」より「國」が相応しいから。

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を国立国会図書館デジタルコレクションの大正一四(一二五)年春秋社刊生田春月訳「ハイネ全集 第一巻」(「詩の本」)の「抒情插曲」パートから示す。春月のそれは第「四十六」歌とする)。

   *

 

    四十六

 

わたしの戀はあはれつぽく

くらい光をはなつてゐる、

夏の夜かなしいしんみりした

昔話を聞くやうに。

 

『魔法の園にただふたり

戀人同士がさまようてゐる、

夜鶯(うぐひす)たちは歌うたひ

月の光りはかゞやいてゐる。

 

處女は石像のやうに靜かに立つてゐる

騎士はその前に跪いてゐる、

その時曠野の巨人がやつて來て

處女はおそれて逃げてしまふ。

 

騎士が血みどろになつて斃れた時に

巨人は家(うち)へよろよろ歸つて行く』――

わたしが葬られてしまふとき

この昔話は終るだらう。

 

   *]

2019/05/06

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(20) 「馬塚ハ馬ノ神」(2)

 

《原文》

 【巖ト塚】又馬石ニ對シテ馬塚又ハ名馬塚ト云フ塚モ諸國ニ多シ。此ハ獨リ馬石ニハ限ラズ、石ノ無キ土地ニ於テ塚ヲ以テ石工代フルハ常ノ例ニシテ、鷄石ニ鷄塚、烏帽子岩ニ鳥帽子塚、休石ニ休塚、鉢石ニ鉢塚等多クハ皆然リ。【名馬磨墨】馬塚ノ有名ナルモノハ尾張丹羽郡羽黑村大字羽黑ノ磨墨塚(スルスミヅカ)。此ハ其附近ニ梶原某ト云フ武士ノ居住セシ爲ニ起リタル說ラシク、塚ノ上ニ一樹ノ梅ノ栽エラレタル迄モ箙(エビラ)ノ梅ノ故事ニ附會シタリ〔犬山名所圖會〕。【太夫黑】讃岐木田郡牟禮村大字牟禮ニハ義經ノ愛馬太夫黑ノ墓アリ。屋島戰捷ノ後佐藤嗣信ノ追善ノ爲ニ大刀一振ト共ニ此馬ヲ志度寺(シドデラ)ニ寄進ス。志度寺ニハ厩無リシカバ此村ノ極樂寺之ヲ預カル。後ニ嗣信ノ墓前ニ赴キテ死スト傳ヘラル〔讃岐三代物語〕。下總印旛郡船穗村大字船尾ニモ名馬塚アリ。末ダ其由來ヲ知ラズ。出羽ノ莊内領塔ノ腰山ノ麓ニ小サキ祠アリテ馬頭觀音ノ石像ヲ祀ル。酒井家ノ先代大乘院殿ノ召サレシ大河原毛ト云フ名馬ノ塚ナリ。【馬ノ墓地】此ヨリ此處ヲ御召馬ノ葬處ト定メラル〔三郡雜記下〕。備前邑久郡國府村大字福里ニ馬塚アリ。盛衰記ノ勇士海左介(ウンノサスケ)ナル者ノ名馬ヲ埋ム。【馬シカ】左介此馬ニ騎リテ海上ヲ馳騁セシガ、或時沖ニテ馬鹿(ウマシカ)ト云フ物ニ遭ヒテ、其馬傷ツケラレ歸リ來リテ死スト云フ〔和氣絹上〕。馬鹿ト云フガ如キ妙ナ怪物此世ノ中ニ在リヤ、我ハ幸ニシテ未ダ知ラザルナリ。蒲冠者範賴ノ乘馬ハ虎月毛ト名ヅク。亦一ノ名駿ナリ。九州征伐ノ折菊池家ノ先祖之ヲ拜領ス。數代ヲ經テ此馬猶堅固ナリ。後五百石ノ祿ヲ宛行ヒテ休息セシム。寬永年間ニ至リ齡五百餘歲ニシテ歿ス。【名馬ノ塚】野送ノ伴ヲスル者一千人、其馬ノ墓碑極メテ宏大ナル者殘存スト云フ〔阿州奇事雜話一〕。名馬ノ爲ニ墓ヲ築クト云フ傳說ハ決シテ新シキモノニ非ズ。現ニ播磨ノ古風土記ノ記事ニモ、飾磨郡胎和里(イワノサト)ノ船丘ノ北邊ニ馬墓及ビ馬墓地アリト見ユ。昔ノ昔大泊瀨天皇ノ御世ニ、尾治連(ヲハリノムラジ)等ガ先祖長日子ナル者、死スルニ臨ミテ最愛ノ妾ト馬トヲ葬ルコト吾ニ准ゼヨト遺言ス。故ニ第二ノハ其女、第三ノ墓ハ馬ヲ埋メタルモノナリ。【池ト馬】後世ノ國司ニ上生石(カミオフシ)太夫ナル者アリ、馬墓ノ邊ニ池ヲ構ヘタリトアリ。自分ハ此話ヲ以テ、或史學者ノスルガ如ク、古キガ故ニ之ヲ史實ナリトハ視ルコト能ハズ。殊ニ丘ヲ船丘ト謂ヒ、又馬塚ニ據リテ池ヲ築クト云フガ如キハ、後代ニモ類例多キ龍神ノ信仰ヲ表示スルモノナリト言フコトヲ得。

 

《訓読》

 【巖(いはほ)と塚】又、「馬石」に對して、「馬塚」又は「名馬塚」と云ふ塚も諸國に多し。此れは獨り馬「石」には限らず、石の無き土地に於いて、塚を以つて、石工、代ふるは常の例にして、「鷄石(とりいし)」に「鷄塚」、「烏帽子岩(ゑぼしいは)」に「鳥帽子塚」、「休石(やすみいし)」に「休塚」、「鉢石(はちいし)」に「鉢塚」等、多くは、皆、然り。【名馬磨墨(するすみ)】馬塚の有名なるものは、尾張丹羽郡羽黑村大字羽黑の「磨墨塚(するすみづか)」。此れは、其の附近に梶原某(なにがし)と云ふ武士の居住せし爲めに起りたる說らしく、塚の上に一樹の梅の栽えられたるまでも、「箙(えびら)の梅」の故事に附會したり〔「犬山名所圖會」〕。【太夫黑(たいふぐろ)】讃岐木田郡牟禮(むれ)村大字牟禮には、義經の愛馬太夫黑の墓あり。屋島戰捷(せんしよう)の後(のち)、佐藤嗣信(つぐのぶ)の追善の爲めに、大刀一振りと共に、此の馬を志度寺(しどでら)に寄進す。志度寺には厩(うまや)無かりしかば、此の村の極樂寺、之れを預かる。後に、嗣信の墓前に赴きて死す、と傳へらる〔「讃岐三代物語」〕。下總印旛(いんば)郡船穗村大字船尾にも名馬塚(めいばづか)あり。末だ其の由來を知らず。出羽の莊内領、「塔の腰山」の麓に、小さき祠(ほこら)ありて、馬頭觀音の石像を祀る。酒井家の先代、大乘院殿の召されし「大河原毛(おほがはらげ)」と云ふ名馬の塚なり。【馬の墓地】此れより、此處(ここ)を御召し馬の葬處(そうしよ)と定めらる〔「三郡雜記」下〕。備前邑久(おく)郡國府村大字福里に馬塚あり。「盛衰記」の勇士、海左介(うんのさすけ)なる者の名馬を埋(うづ)む。【馬(ウマ)シカ】左介、此の馬に騎(の)りて、海上を馳騁(ちてい)せしが、或る時、沖にて「馬鹿(ウマシカ)」と云ふ物に遭ひて、其の馬、傷つけられ、歸り來りて死すと云ふ〔「和氣絹(わきぎぬ)」上〕。「馬鹿(ウマシカ)」と云ふがごとき、妙な怪物、此の世の中に在りや、我は幸ひにして未だ知らざるなり。蒲冠者(かばのかんじや)範賴の乘馬は「虎月毛(とらつきげ)」と名づく。亦、一つの名駿(めいしゆん)なり。九州征伐の折り、菊池家の先祖、之れを拜領す。數代を經て、此の馬、猶ほ堅固なり。後(のち)、五百石の祿を宛行(あてが)ひて、休息せしむ。寬永年間[やぶちゃん注:一六二四年から一六四五年。]に至り、齡(よはひ)五百餘歲にして、歿す。【名馬の塚】野送(のべおく)りの伴(とも)をする者、一千人、其の馬の墓碑、極めて宏大なる者、殘存す、と云ふ〔「阿州奇事雜話」一〕。名馬の爲めに墓を築くと云ふ傳說は、決して新しきものに非ず。現に播磨の「古風土記」の記事にも、飾磨郡胎和里(いわのさと)の船丘(ふなをか)の北邊に、馬墓(むまばか)及び馬墓地(むまぼち)あり、と見ゆ。昔の昔、大泊瀨(おほはつせ)天皇の御世の[やぶちゃん注:第二十一代雄略天皇の「日本書紀」での名。在位は安康天皇三年から雄略天皇二十三年で、機械換算では西暦四五六年から四七九年。]、尾治連(をはりのむらじ)等(ら)が先祖、長日子(ながひこ)なる者、死するに臨みて、「最愛の妾(めかけ)と馬(むま)とを葬ること、吾に准ぜよ」と遺言す。故に、第二のは其の女、第三の墓は馬を埋めたるものなり。【池と馬】後世の國司に上生石(かみおふし)太夫なる者あり、馬墓の邊(へ)に池を構へたり、とあり。自分は此の話を以つて、或る史學者のするがごとく、古きが故に之れを史實なり、とは視ること能はず。殊に丘を「船丘」と謂ひ、又、馬塚に據(よ)りて池を築く、と云ふがごときは、後代にも類例多き、龍神の信仰を表示するものなり、と言ふことを得。

[やぶちゃん注:『尾張丹羽郡羽黑村大字羽黑の「磨墨塚(するすみづか)」』現在は愛知県犬山市大字羽黒字摺墨地内にある「磨墨塚史跡公園」となっている(グーグル・マップ・データ)。そのサイド・パネルの画像の中の下から二番目の「磨墨塚」の案内板の解説を電子化しておく(アラビア数字は漢数字に代えた)。

   *

 「磨墨」と「池月」という二頭の名馬を持っていた源頼朝は、梶原景季(梶原景時の嫡男)に「磨墨」、佐々木高綱に「池月」を与えた。

 「磨墨」を有名にしたのは、一一八四年(寿永三年:平安時代)の宇治川の合戦(木曽義仲との戦い)での、景季と高綱の先陣争いである。

 頼朝の死後、鎌倉幕府の内紛で敗れた梶原景時は鎌倉から追放され、京に逃れる途中、駿河国狐崎(現静岡県清水)で息子景季、景高ら肉親、郎党とともにことごとく非業の死を遂げた。この時、鎌倉にいた景高の一子豊丸はまだ幼少で、乳母隅の方の手にあった。その家族は羽黒にゆかりのある隅の方と七家臣に守られ、「磨墨」を伴ってこの地に落ちのびてきたといわれている。

 豊丸はこの地で成人して梶原景親を名乗り、現興禅寺の付近に館を構え、羽黒城を築城したといわれる。羽黒城は、以後約三百八十年間にわたって梶原氏の居城として栄えた。「磨墨」は墨の方が亡くなるのと時を同じくして死に、この地に葬られたと伝えられている。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

同案内板の中の右上にある「磨墨にまつわる伝説」という記事(前と同じ仕儀で記号の一部を書き変えた)。

   *

 磨墨塚より北へ約五百メートル。名鉄小牧線を挟んだ所に恩田島という地名がある。ここには恩田森と呼ばれる鎮守の森があり、稲作の神や疫病・厄災除けの神様を祀った恩田社がある。

 この地名については、磨墨がこのあたりで死に、馬頭[やぶちゃん注:「うまがしら」。]が背負って磨墨塚の所までおぶって運んだという言い伝えから、「おった」がなまって「おんだ(恩田)となったという伝説が残っている。

 また、江戸時代に書かれた『正事記』や『尾張徇行記』には、磨墨を葬った際に目印として塚に植えられた一株の姥桜があったという記述があるが、現在では枯れて残っていない。

   *

案内板にも出ている「犬山視聞図会(いぬやまみききずえ)」は、「国文研データセット簡易Web閲覧」のこちらで全篇が読めるが、こちらに「磨墨塚」周辺の挿絵が見られる。右頁中央の田の中にある「するすみ塚」がそれで、左頁下方の同じく田の中にある「御田社」というのが、上記の「恩田社」であろう。

「其の附近に梶原某(なにがし)と云ふ武士の居住せし爲めに起りたる」先のグーグル・マップ・データのサイド・パネルの「磨墨塚」の上の「羽黒城址」の案内板を見ると判るように、「磨墨塚」の解説にある通り、この羽黒城は建仁元(一二〇一)年頃、正治二(一二〇〇)年二月の「梶原景時の変」で梶原一族は大方が滅ぼされたが当主梶原景時の次男であった景高の子である豊丸(幼名)が、彼の乳母であった「お隅の方」の出であったここに落ち延びた(その時に「磨墨」を伴っていたとする)。豊丸はこの地で成人して梶原景親を名乗って羽黒城を築き、後、織田信長に仕えて三百石の領主となった梶原景義(景親から数えて十七代目)まで、実に約三百八十年の間、この辛くも生き延びた梶原氏は、この羽黒城城主である続けたのであった(景義は天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」で殉死し、跡目のなかった羽黒梶原氏はここで断絶して城も荒廃したと記す)。柳田國男が持って回った言い方をしているのは、この地は本来の梶原氏の出身地ではないからである(本来の梶原氏は相模国鎌倉郡梶原が発祥地)。これは既に「犬山視聞図会」(実は柳田國男が引用している「犬山名所図会」の別タイトルである)「磨墨塚」の挿絵の下部にも、この伝承はこの羽黒梶原氏のことを磨墨の持ち主であった知られた梶原景時嫡男景季の話に牽強付会させてしまった誤りである旨のキャプション風の記事が書かれており、柳田國男のこれも直接にはそれを受けたものであろうと思われる。なお、景時失脚と不審な滅亡に至る経緯を御存じない方は、私の「北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ」及び、その続きの「北條九代記 梶原平三景時滅亡」を読まれたい。景時が京に上ろうとしたのは、不穏な動きなどではなく、恐らくは公家方の武家仕えとして被官し、一族を守ろうとしたに過ぎず、最期となった駿河国清見関(現在の静岡市清水区)近くで、偶然、居合わせたとする地侍や相模の飯田家義らと狐崎で騒擾から合戦となったというのも、如何にも怪しいのであって、この時の駿河国守護は北条時政であったし、景時失脚の火種となった流言の発信源とされる女官阿波局(源実朝の乳母)も時政の娘であり、総てが権力志向の強かった時政が陰で仕組んだ大きな謀略の可能性が濃厚なのである(その野望を肥大させ過ぎた時政もまた、子の義時と政子によって政治的に破滅させられるわけだが)。

「箙(えびら)の梅」寿永三(一一八四)年の春、源平両軍の「生田の森の合戦」の際、既に源氏方についていた梶原源太景季(一説には父景時ともする)が、梅の枝を矢を入れて背負う箙に挿して戦い、功名を挙げたという故事で、神戸市の生田神社の境内にその遺跡がある。

「太夫黑(たいふぐろ)」現代仮名遣では「たゆうぐろ」。平家一門氏のブログ「治承・寿永の覚書」の「屋島・太夫黒の墓」によれば、佐藤継信(彼の名はこうも書く。後注参照)の『死後』、彼『を供養するために義経から志度寺に寄進された義経の愛馬、太夫黒』は、『後白河法皇から賜ったもの、または岩手県千厩町産で藤原秀衡に献上されたものを義経がもらったと』も『いわれています』。『その名の通り』の『黒毛の馬』で、『黒毛は最上の毛並みの色』とされ、『献上の馬として珍重されたそうで』、『鵯越の逆落としも、義経がこの馬に乗って行っています』。『当時の馬は』、『今のサラブレッドよりかなり体高が低かったようですが、小回りが利いて俊足と』され、『ちなみにサラブレッドの体高は百六十センチメートル『強ですが、太夫黒は』百三十九センチメートル。寄進後は『大切に飼われていたようですが、ある日』、『事件が起こります』。『それが「太夫黒の涙」というお話です』。『太夫黒』が、『ある日』、『ふと』、『いなくなってしまいました』。『寺の人たちは探しますが、いっこうに見つかりません』。『人の言葉がわかるという馬だけに、道に迷った訳でもないと』、『みなで言い合いながら探しましたが、待てど暮らせど』、『帰ってきません』。『大勢で探した結果、太夫黒は継信の墓に寄り添うように倒れているのが見つかりました』。『寺の人たちはすぐさま手当てをしましたが、もう首も上げられないほど弱っていて、前夜からの雨で体も冷たくなっていました』。『寺の人が首の辺りを数度撫でてやると、太夫黒の目からはらはらと涙がこぼれ落ちたそうです』。『太夫黒はそのまま息を引き取りました』。『哀れに思った寺の人たちは、太夫黒を継信の墓の傍らに埋めてやったということです』(現在の墓の写真有り)。

「讃岐木田郡牟禮(むれ)村大字牟禮」佐藤継信と太夫黒の墓は、ここに出る「志度寺」(「しどうじ」とも呼ぶ。香川県さぬき市志度にある真言宗補陀洛山清浄光院志度寺(グーグル・マップ・データ以下同じ)。)にはない。また「志度寺」のある「村の極樂寺」という寺も現存しない(少なくとも現在の志度(かなりの広域)の地区には極楽寺という名の寺院はない同地区の南にある、さぬき市長尾東に真言宗紫雲山宝蔵院極楽寺ならあるが(志度寺から南に直線で七キロ位置)、この附近が志度村であった過去はない模様である)。現在の香川県高松市牟礼町牟礼にある真言宗眺海山円通院洲崎寺(すさきじ)にある。ウィキの「洲崎寺」によれば、『源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると』、『戦災により』、『当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり』、『戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり』、『毎年』三月十九日には『慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている』とある。因みに、現在の志度寺から太夫黒が洲崎寺へ向かったとすれば、実測で七キロメートル弱。

「戰捷(せんしよう)」戦さに勝つこと。

「佐藤嗣信(つぐのぶ)」ウィキの「佐藤継信」から引く。佐藤継信(久安六(一一五〇)年?或いは保元三(一一五八)年?~元暦二(一一八五)年三月二十二日)は『源義経の家臣』で、「源平盛衰記」では『義経四天王』の一人に『数えられる。奥州藤原氏の家臣・佐藤基治の子』。治承四(一一八〇)年、『奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行』し『、義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした』「吾妻鏡」の元暦二(一一八五)年二月十九日の『条によると、義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、一人の僧侶を招き』、『千株松の根元に葬った。また御幸供奉の時に後白河院から賜り、毎回戦場で乗っていた名馬「太夫黒」を僧侶に与えた』とあり、「吾妻鏡」の記者は『「これは戦士を慈しむ手本である。これを美談としない者はない。」と書いている』。「平家物語」では、『継信は平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受け』、『戦死したとされているが』、「吾妻鏡」では、教経は「一ノ谷の戦い」で『すでに戦死した事になっている』。「源平盛衰記」によれば、享年二十八とするが、佐藤氏の菩提寺である福島県福島市にある真言宗医王寺の『継信の石塔には享年』三十六『とある』。また、『高松市牟礼町洲崎寺に継信と太夫黒の墓がある』。「源平盛衰記」では、『継信は義経の乳母子とされている』。「平家物語」巻第十一「嗣信最後」における継信の最期の様子を以下に簡略に示す(名の表記は「継信」とする)』。『屋島の戦いにおいて、王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。なかでも源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことは』御座いませぬ。『しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは元より期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です」と答えて亡くなった。義経は鎧の袖を顔に押し当てさめざめと泣き、近くに僧がいないか探させ、その僧に大夫黒という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは』、『皆』、『涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べた』とある。『出身は奥州信夫郡(現在の福島市飯坂地区)で、佐藤氏の居館「大鳥城」が舘の山公園として存在する。継信、忠信兄弟が奉ってある佐藤氏の菩提寺・医王寺には、伝武蔵坊弁慶の「笈」(県重要文化財)とされるものや、伝継信所用とされる「鞍」(市重要文化財)が残されている。また、寺の敷地内には継信・忠信の母乙和御前の悲しみが乗り移って、花が咲く前につぼみが落ちてしまうという「乙和の椿」がある』。『医王寺にある継信・忠信の石塔(墓)は「粉にして飲むと体が強くなる」という言い伝えにより、薬として利用され、石塔の半ばほどが大きく削り取られている』(以下、継信の後裔の話が延々と続くが、失礼ながら興味がないので省略する)。「吾妻鏡」の記事だけは掲げておきたい。同日(元暦二(一一八五)年二月十九日癸酉(みずのととり))の条は長いので、当該箇所の前の部分から前後をカットして示す。

   *

又廷尉【義經。】昨日終夜。越阿波國與讚岐之境中山。今日辰尅。到于屋嶋内裏之向浦。燒拂牟禮。高松民屋。依之。先帝令出内裏御。前内府又相率一族等浮海上。廷尉【著赤地錦直垂。紅下濃鎧。駕黑馬。】相具田代冠者信綱。金子十郎家忠。同余一近則。伊勢三郎能盛等。馳向汀。平家又棹船。互發矢石。此間。佐藤三郎兵衛尉繼信。同四郎兵衛尉忠信。後藤兵衛尉實基。同養子後藤新兵衛尉基等。燒失内裏幷内府休幕以下舍屋。黑煙聳天。白日蔽光。于時越中二郎兵衞尉盛繼。上總五郎兵衞尉忠光【平氏家人。】等。下自船而陣宮門前。合戰之間。廷尉家人繼信被射取畢。廷尉太悲歎。屈一口衲衣葬千株松本。以祕藏名馬【號大夫黑。元院御厩御馬也。行幸供奉時。自仙洞給之。毎向戰場駕之。】。賜件僧。是撫戰士之計也。莫不美談云々。

○やぶちゃんの書き下し文

又、廷尉【義經。】、昨日終夜、阿波國と讚岐との境の中山を越え、今日、辰の尅、屋島の内裏(だいり)の向ひの浦に到りて、牟禮(むれ)・高松の民屋を燒き拂ふ。之れに依つて、先帝、内裏を出でしめ御(たま)ふ。前内府[やぶちゃん注:平宗盛。]、又、一族等(ら)を相ひ率いて、海上に浮ぶ。廷尉【赤地錦の直垂(ひたたれ)、紅下濃(くれなゐすそご)[やぶちゃん注:鎧縅(よろいおどし)に於いて、上を紅色に薄くし、下に向かうにつれ、次第に濃く配色してあるものを指す。]の鎧を著し、黑馬に駕す。】、田代冠者信綱・金子十郞家忠・同余一近則(よいちちかのり)・伊勢三郞能盛等を相ひ具し、汀(みぎは)へ馳せ向ふ。平家、又、船に棹さして、互ひに矢石(しせき)[やぶちゃん注:弓矢と弩(いしゆみ)の石。]を發(はな)つ。此の間、佐藤三郞兵衞尉繼信・同四郞兵衞尉忠信・後藤兵衞尉實基・同養子後藤新兵衞尉基淸等、内裏幷びに内府の休幕以下の舍屋を燒失す。黑煙、天に聳え、白日の光を蔽ふ。時に越中二郞兵衞尉盛繼・ 上總五郞兵衞尉忠光【平氏の家人(けにん)。】〕等、船より下りて、宮門の前に陣して合戰するの間、廷尉が家人繼信、射取られ畢(をは)んぬ。廷尉、太(はなは)だ悲歎して、一口の衲衣(なふえ)を屈して、千株松(せんじゆまつ)の本(もと)に葬むる。祕藏の名馬【「大夫黑」と號す。元は院の御厩の御馬なり。行幸に供奉の時、仙洞より之れを給はる。戰場に向ふ每(ごと)に之れに駕(が)す。】を以つて、件(くだん)の僧に賜ふ。是れ、戰士を撫(ぶ)するの計らひなり。美談とせざる莫(な)し、と云々。

「下總印旛(いんば)郡船穗村大字船尾」「名馬塚(めいばづか)」千葉県印西(いんざい)市高花にある「千葉ニュータウン 高花第二団地」の公式サイト内の「周辺地域散策」のページの「源頼政伝承」というコラムがあり、そこには南東に接する地区にある『結縁寺』(千葉県印西市結縁寺にある真言宗晴天山結縁寺(けちえんじ))『の東南』三百メートル『の山林には、宇治平等院の境内で自害したといわれている源頼政の首を埋めた場所として伝えられている頼政塚があります』。『頼政は、死に際して家臣に「吾が首を持ち』、『東国へ向かって行け。吾が止まらんと欲する処に行かば』、『首が重くなって動かなくなるであろう。そこに塚を築いて首を葬れ」と遺言したとされており、家臣達は東国へ向かい、急に首が重くなり』、『動けなくなった所がこの辺りだったと伝えられています』。『結縁寺の鎮守である熊野神社石段の手前には、頼政の遺徳を慕って伊勢の国から訪れた女性が入定したと伝えられている入定塚があります』。『また、結縁寺の西南にあるのが、頼政の首を運んできた馬を葬ったといわれている名馬塚で、時折馬の好物である人参が供えられているそうです』とあった。現在の千葉県印西市結縁寺の、この山林附近(グーグル・マップ・データの航空写真)が頼政塚であろう。実際の寺院としての結縁寺はここから北西三百メートル位置にある。そこの西南というと、この附近かと思われる「千葉県森林インストラクター会」の「㉛草深の森から結縁寺 首都圏近郊に残る貴重な里山景観」(PDF)のコース紹介に、『草深の森駐車場①スタート。広場の分岐を左へ進み、大日塚の碑②に立ち寄る。時計回りに進むとスギ、サワラ林の針葉樹の森、クヌギ、コナラの広葉樹の森となり、シラカシの林を過ぎると広場を経て駐車場へ戻る』。『車道を横断して右へ行き、団地の手前を左折すると気持ちの良い林内の道となる。突き当りを左折し道なりに進むと高架橋がありその下を行くと松崎台公園③に達する。公園を抜け、林縁沿いの道を行くと舗装路にあたる。この道では野草観察を楽しむことができる』。『そこを左折し坂を上りきったところに源頼政伝説の頼政塚④がある。さらに進んで突き当りを右折し、しばらく進むと左側に頼政の首を運んだ馬を葬ったといわれる名馬塚⑤。少し戻って左折すると結縁寺への道。坂を下ったところに池があり、その奥に結縁寺⑥。道なりに少し行ったところに熊野神社と入定塚⑦がある。そのまま気持ちの良い里山の道を歩いていくと草深の森から来た道に出会うのでその道を引き返す』とあって、「名馬塚」の写真(「結縁寺世話人会」による解説板の画像)も添えられてあるから、現在でも位置が確認出来ることが判る。解説板には、『結縁寺の西南にあたるこの地に頼政の首を運んできた名馬を葬ったといわれる名馬塚です。以前はお堂が建てられており、その中に納められていたと伝えられています』。『塚のそばには、刻像塔や文字塔の馬頭観音が数十基あります』とあるのである。或いは、グーグル・ストリート・ビューで見られるかと思って、周辺を探ってみたが、私のネット環境ではフリーズが多発してだめだった。ともかくも今も「名馬塚」は安泰であることは判ったので、それでよしとしたい。

『出羽の莊内領、「塔の腰山」』不詳。類似した山名を見出せない。

「酒井家の先代、大乘院殿」法名の「大乗院」から出羽庄内藩の第二代藩主酒井忠当(ただまさ 元和三(一六一七)年~万治三(一六六〇)年:彼の法名は大乗院載誉勇哲政運)のことと判明した。

「大河原毛(おほがはらげ)」不詳。読みは推定。

「備前邑久(おく)郡國府村大字福里に馬塚あり」『「和氣絹(わきぎぬ)」上』引用箇所を国立国会図書館デジタルコレクションの「吉備群書集成 第壹輯」の「和氣絹」のここの画像で確認出来た。ここに出る地名からは岡山県瀬戸内市長船町(おさふねちょう)福里(ふくり)と考えられる。調べて見たが、「馬塚」は見当たらない。しかしこの話、全体設定から細部に至るまで、不思議な強い作話性を感じさせる話ではある。「源平盛衰記」は前半を活字本で所持するが、当該箇所がどこなのか、それが私の所持する版本にあるのかも判らない。次注に繋げる。

「馳騁(ちてい)」馬を走らせること。一つ思うのは、無論、これは馬が疾駆出来る砂浜海岸の汀、浅瀬、比較的硬質地盤の干潟、潮の少し満ちた折りの岩礁帯を指していると読むわけだが、とすれば、『沖にて「馬鹿(ウマシカ)」と云ふ物に遭ひて』という謂いが不審である。それに目を瞑って、前者のような環境を馬が走っていて「其の馬」が「傷つけられ、歸り來りて死す」という事実があり得るとすれば、そこで想定出来る実在の海産生物の一つはウミヘビ(彼ら一部の毒はコブラの持つ毒よりも強いとされる)である。しかし、性質のおとなしい彼らが馬に咬みつくことは、まず、考えられない。そもそもロケーション岡山県瀬戸内海ではウミヘビ自体がまず見られることはない。とすれば、馬を昏倒させ、しかも、浅瀬までやってくる、瀬戸内海までやってくる「馬シカ」「馬鹿」とは何か? 次に考えたのは、アカクラゲやカツオノエボシの巨大個体である。しかし、余程の大型固体ならばまだしも、毛の生えた馬の身体にその強烈な刺胞を、馬の命を奪うまで打ち込むことは難しいのではないかと思う。さすれば、残るは一つ、サメである。一九九二年三月、松山沖の瀬戸内海でタイラギ漁の潜水夫が襲われて命を落とした(現在も行方不明)ケースは私には記憶に新しい。潜水服の一部に残存していた歯から、ほぼ間違いなく軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias に襲われたものと考えられている。馬の四足や腹部を中型のホオジロザメ等の獰猛な鮫が咬みつけば、これは致命的な損傷足り得ることは言うまでもない。私はまた、相応に大きなサメを、鮫を知らない人間が見たら、「馬鹿(ウマシカ)」と表現するとしても、強ち、違和感がないと感ずる人間である。それは柳田國男が言うように、「妙な怪物」「此の世の中に在りや、我は幸ひにして未だ知らざるなり」と如何にもな「馬鹿」にするような微苦笑するものではないと私は考える。まあ、大方の御叱正を俟ちはしよう。

「蒲冠者(かばのかんじや)範賴」源頼朝の異母弟にして義経の異母兄である源範頼(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年?)。

「虎月毛(とらつきげ)」馬の毛色の一種としての一般名詞でもある。白みを帯びた赤毛の中に虎斑(とらふ)のあるものを謂う。「まだらつきげ」とも。

「九州征伐」ウィキの「源範頼」によれば、寿永三(一一八四)年八月、『範頼は九州進軍の任を受ける。出陣の前日に範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る。この時代において馬は貴重品であり、また頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられた事から、遠征の重要性が理解できる。また』、『九州進軍は平氏討伐ではなく、頼朝と対立・平氏を援助する西国家人を鎮圧し、平氏を瀬戸内方面に孤立させる事である。参加した武将は北条義時・足利義兼・千葉常胤・三浦義澄・八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員・和田義盛・工藤祐経・天野遠景など頼朝軍の主力武士団を揃えた』。『備前国藤戸の戦いにて』、『佐々木盛綱の活躍で平行盛』の『軍に辛勝し、長門国まで至るが』、『瀬戸内海を平氏の水軍に押さえられていることもあって、遠征軍は兵糧不足などにより進軍が停滞した。この事から、範頼の戦での能力は低いといわれるが、実際は頼朝が、範頼軍の食糧問題を解決する前に出発させた事が原因であるとされる。その理由として』三『万もの軍勢を京に長く滞在させることで、食糧や治安に問題がおきる事を避けたためといわれ』ている。『範頼は防長』(ぼうちょう:現在の山口県全域を指す広域呼称)『から』、十一~十二月『にかけて』、『兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など窮状を訴える手紙を鎌倉に次々と送る。それに対し』、『頼朝は食料と船を送る旨と、地元の武士などに恨まれない事、安徳天皇・二位尼・神器を無事に迎える事、関東武士たちを大切にする事など、細心の注意を書いた返書を送っている。特に安徳天皇の無事は重ねて書き送っている』。文治元(一一八五)年一月二十六日、『豊後国の豪族・緒方惟栄』(これよし)『の味方などを得て、範頼はようやく兵糧と兵船を調達し、侍所別当の和田義盛など勝手に鎌倉へ帰ろうとする関東武士たちを強引に押しとどめ』、『周防国より豊後国に渡ることに成功。九州の平氏家人である原田種直を』二『月に豊前の葦屋浦の戦いで打ち破り、さらに博多・太宰府に進撃した。これにより、長門国彦島(下関市)に拠点を置く平氏は背後を遮断されたことになり、平氏の後背戦力は壊滅したのと同じであり、平氏は援助も隠れる場所すらも失い、ただ彦島のみを拠点とせざるをえなくなった』。『同年』『二月、頼朝から出撃の命を受けた義経が屋島の戦いで勝利』したが、『範頼は頼朝に窮状を訴える手紙の中で、四国担当の義経が引き入れた熊野水軍の湛増が九州へ渡ってくるという噂を聞いて、九州担当の自分の面子が立たないとの苦情も書いている』。しかし、三月二十四日の「壇ノ浦の戦い」で以って平氏は滅亡することとなったのであった。

「菊池家」ウィキの「菊池氏」によれば、平安末期の『院政時代』、『全国の在地支配層は、こぞって中央の有力者に荘園を寄進してその庇護を受け、院の武者として勢力を拡大しようとした』。第四『代菊池経宗』や次代の『菊池経直が鳥羽院武者と記録されていることからも、菊池氏がその例に漏れなかったことが推定される。このころまでに菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力として定着拡散して行ったことが分かる』。『平家台頭後は日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると』、『菊池氏は平家の家人と化したが』、治承四(一一八〇)年に『源頼朝が兵を挙げると』、翌養和元年、第六代『菊池隆直は』、「養和の乱」を『起こして』俄然、『平家に反抗した。隆直は翌年』、『平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として』「治承・寿永の乱」(源平合戦)に『従軍し』はし『たものの』、「壇ノ浦の戦い」に及んで、『源氏方に寝返り』、幕府『御家人に名を連ねた』。しかし、『源平の間を揺れ動いたことで』、『頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた』のであった。さらに鎌倉時代になると、第八代菊池能隆が「承久の乱」で『後鳥羽上皇方に』組み『したため、北条義時によって所領を減らされ』ており、また『乱後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置して、西国の押さえとした』。なお、第十代『菊池武房は元寇に際して、鎌倉幕府から博多に召集され、一族郎党を率いて』、『元軍と戦闘を交え』、『敵を討ち取っ』ている。このように『菊池氏は、伝統的に源平勢力と』、『一定の距離を保ち』、『在地勢力の勇としての意地を見せてきたが、鎌倉幕府に衰えが見られるようになると』、『朝廷とのつながりを深め』、第十二代『菊池武時は後醍醐天皇の綸旨に応じ、元弘三/正慶二(1333)年には、『阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗をさそって』、『鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって』、『善戦むなしく』、『鎮西探題館内で戦死し』ている。『武時の遺志は嫡男』であった第十三『代菊池武重に引き継がれ』、「建武の新政」『成立後、楠木正成の推薦もあって肥後守に任じられた。武時の武功は高く評価され、その庶子菊池武茂・菊池武澄・菊池武敏らも叙任を受け』ている。

「齡(よはひ)五百餘歲にして、歿す」ウヘエ!!!

「尾治連(をはりのむらじ)」尾張氏に同じい。

「長日子(ながひこ)」天孫族の祖の一人とされる天火明命(あめのほあかり)のこと。ウィキの「天火明命」を参照されたい。

「上生石(かみおふし)太夫」不詳。]

太平百物語卷三 廿三 大森の邪神往來を惱ませし事

 

Oomorinojyasin

 

   ○廿三 大森の邪神(じやじん)往來を惱ませし事

 甲斐の國身延山(しんゑんざん[やぶちゃん注:ママ。])の麓に大きなる森あり。樹木、年經りて、大木(たいぼく)、あまた有。

 其中に、槐(ゑんじゆ)の木の、太さ、五人の兩手をして、漸(やうやく)およぼすほどの、たけ、五、六丈斗(ばかり)なる、すさまじき大木あり。

 其傍(かたはら)に社(やしろ)有けるが、旅人(りよじん)、日暮(ひぐれ)て此前を通れば、祟りをなしけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、おろかには通りがたし。

 若(もし)、通らで叶はざる人は、結構なる器(うつは)物・衣類又は金銀等(とう)を、此槐の木の許(もと)へ、供(そな)へ、禮拜(らいはい)すれば、難なし、といひ傳ふほどに、人々、おそれて、日暮(ひぐれ)ては、人跡絕(たへ)たり。

 然るに、茂次(もじ)といふ百姓、用の事ありて、他所(たしよ)に至りけるが、母おや、急病のよしを告越(つげこし)けるに、茂次、常々、孝心なりければ、大きにおどろき歎き、取物(とるもの)も取あへず、わが家に急(いそぎ)けるに、途中にて、ふと、おもひ出(いだ)しけるは、聞及(きゝおよ)ぶ大森の社の前を通らでは、歸る事、叶はず。

 日は、はや、暮に向(なんなん)とす。

 然(しかれ)ども、宝器(ほうき)か金銀を供へずしては、通る事、おもひもよらず、此道を除(のぞ)かんとすれば、既に三里の道を廻る。急病なれば、廻り歸らん事も淺まし。

「いかゞせん。」

と案じ煩ひけるが、

「所詮、此森の御社(おんやしろ)に御斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])を申さんに、子細はあらじ。」

と覚悟して急ぎけるに、初夜(しよや)の比(ころ)ほひ、大森のやしろに至る。

 茂次、かの槐の木の許にうづくまり、地に平伏して祈りけるは、

「われ、今日(こんにち)、母親が急病によつて、心いそぎ、御供物(ぐもつ)を失(しつ)せり。重(かさね)て宝器を捧(ささげ)奉らんに、此所を御ゆるしありて、通さしめ玉へ。」

と、実(げ)に余義[やぶちゃん注:ママ。](よぎ)なく斷(ことはり)申して、夫(それ)より、一さんにかけ行所に、俄に土風(つちかぜ)、

「さつ。」

と、一しきりして、後(うしろ)より、甲冑(かつちう)を着たる者、大勢、追來(おいきた[やぶちゃん注:ママ。])り、

「茂次、まて。」

とぞ、のゝしりける。

 茂次、

「南無三宝。」

と身をちゞめけるに、程なく追付(おつつき[やぶちゃん注:ママ。])、いふ樣、

「汝は今、われわれが魁(さきがけ)の神に供物(ぐもつ)を參らせずして過(すぐ)る事、甚(はなはだ)以て、いはれなし。急(いそひ[やぶちゃん注:ママ。])で宝器を渡すべし。若(も)し、さもなくば、命をとらん。」

と、いふ。

 茂次、色を正しくして、

「されば候ふ、わが母おや、既に死せんとす。此ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に心いそぎて供(ぐ)物を失せり。重ねて宝器を捧げんに、此度は、ぜひ、ゆるし玉へ。」

と、さめざめと歎きければ、其中に、年老たる者の、いはく、

「誠に、此者、助けがたしといへども、いか樣、僞(いつは)るまじきつらたましゐ[やぶちゃん注:ママ。]なれば、此度(たび)は、ゆるすなり。必ず遠からぬうち、供物(ぐもつ)を捧ぐべし。」

とて、皆々、引き具し、歸りしかば、茂次、辛きいのちを助(たすか)り、やうやう宿に歸り、母親が末期(まつご)にあひ、追善、事すみて後(のち)、彼(か)の大森の邪神(じやじん)の事を委(くはし)く語りければ、有(あり)あふ人々、舌をふるはし、いよいよおそれあへりしが、

『其儘に捨て置きては、後難も如何(いかゞ)。』

とおもひながら、茂次、元來、家、まづしければ、これに心を苦しめけるが、

「兎角、供物(ぐもつ)も分限(ぶんげん)相應なれば。」

とて、やうやうして、鳥目(てうもく)五百文こしらへ、彼(かの)大森に持參し、打(うち)しほれて申しけるは、

「我(われ)、家、貧しければ、おほくの寶(たから)、心に任せず。是式(これしき)ながら、指上(さしあぐ)るなり。仰(あふ)ぎ願はくは、あはれみをたれ玉ひ、ゆるさしめ玉へ。」

と、槐の木(こ)の許に、五百文を置(おき)て歸らんとせしに、又、冷風(りやうふう)、一しきり吹(ふき)來つて、以前の邪神(じやじん)、顯はれ出(いで)、大きに怒つていはく、

「かゝるかるがるしき供物(ぐもつ)を參らせて魁神(くはいしん[やぶちゃん注:ママ。])をかるしむるや。いで、物見せん。」

とて、大き成[やぶちゃん注:「なる」。]土(つち)の鍋(なべ)を取いだし、眞中(まんなか)に引(ひき)すへ、茂次を取て打こみ、柴(しば)・薪(たきゞ)を持(もち)はこび、既に烹(に)ころさんとす。

 茂次は、いと淺ましく、苦しき事におもひながら、今は覺悟を究(きは)めて、日比(ひごろ)念じ奉りし不動明王の眞言(しんごん)を唱へていたりしが、はや、薪に、火、うつりて、次第に、炎、燃上(もへあが[やぶちゃん注:ママ。])りしが、俄に、夕立(ゆふだち)降りしきりて、此火を打消(けし)、忽然(こつぜん)として、赤き童子壱人、顯はれ、此者どもをさんざんに打(うち)ちらし、茂次を鍋より助け出(いだ)し、彼(かの)土鍋(どなべ)は、遙(はるか)の谷になげ捨(すて)、

「今は故障(さはり)なし。汝が供へし供物(ぐもつ)を、持歸(もちかへ)るべし。」

とて、一つの筥(はこ)を取(とつ)て、茂次に渡し、引出し給ふとおもへば、程なく、我が家に歸り着(つき)ぬ。

 茂次は夢の覚めたる心地して、かの筥を明(あけ)みれば、金子(きんす)千兩、ありけり。

『こはいかに。』

と思ひながら、

「返すべき方(かた)もなく、我(わが)物ならねば、つかふべきにもあらず。」

とて、ふかく、かくし置(おき)けるが、其夜、夢中(むちう)に、彼(かの)童子、あらはれ出、

「それ成[やぶちゃん注:「なる」。]金子は、汝が常に親に孝ありしを以て、天より与へ玉ふなり。必ずうたがふべからず。」

と、あらたに示現(じげん)を蒙(かふむ)りければ、夫(それ)より、心定(こゝろさだま)り、有(あり)がたくおし戴き、わが物となしけるが、次第次第に冨貴(ふうき)になりて、今に榮へ侍るとぞ。

[やぶちゃん注:「甲斐の國身延山(しんゑんざん])」現在の山梨県南巨摩郡身延町と早川町に跨る身延山(みのぶさん)。標高千百五十三メートル。ここには日蓮宗総本山身延山久遠寺がある。ここで筆者が「しんゑんざん」と音で振っているところからは、背景に日蓮宗の影(筆者が日蓮宗信者であったか、或いは日蓮宗に相応の親和性を持っていたということ)を見ることが出来ると私は思う。高橋俊隆氏の「蓑夫(身延)」についての論考によれば、『「みのぶ」の語源は山の姿が蓑を着た人が蹲踞した姿に似ているいう説があります。また、この近辺に蓑を作る人が多く住んでいたことから「蓑夫」(みのふ)と呼ばれたといいます。ほかに、蓑父とも書かれ、「蓑生」(みのうふ)ともいいます。(町田是正著「『身延山秘話外史』一五七頁)。『報恩抄』(一二五〇頁)の末尾には「自甲州波木井郷蓑歩嶽」とあります。いずれにしましても、『波木井殿御報』(一九二四頁)にある「みのぶさわ」は、『新訂身延鏡』(一九頁)にある「蓑夫の沢」にあたります。つまり、「蓑夫」・「蓑歩」を「身延」としたのは、日蓮聖人の改名によるということです。「蓑夫」を「身延」と当て字されたのは、文永十二年[やぶちゃん注:一二七五年。]二月十六日に「此所をば身延の嶽と申す」とのべていることから、入山されてまもないころに「身延」と当て字されていたことがわかります。日蓮聖人が入山される以前は「みのぶ」と呼ばれていたことは明らかで、その語源は「蓑」に関連していたことがわかります。「身延山」(しんえんざん)と呼称するのは、日蓮聖人がこの地において九年のあいだ「心やすく」生活することができた、とのべたことから、心身ともに安穏に法華経の人生をおくれたという、延命長寿の願いがこめられています』とある。

「槐(ゑんじゆ)の木」落葉高木マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum。ウィキの「エンジュ」によれば、『中国原産で、古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている。和名は古名』「えにす」が『転化したもの』。『街路樹や庭木として植えられる。葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は』四~七『対あり、長さ』三~五『センチの卵形で、表面は緑色、裏面は緑白色で短毛がありフェルトのようになっている。開花は』七『月で、枝先の円錐花序に白色の蝶形花を多数開き、蜂などの重要な蜜源植物となっている。豆果の莢は、種子と種子の間が著しくくびれる。また木質は固く、釿(ちょうな)の柄として用いられる』とある。私の記憶によれば、大木になり、寿命も長い木であることから、中国(植生としては華北に適する)では古来より霊や神の宿る木として伝奇や志怪小説にしばしば登場するし、古代から街路樹としても馴染みのある樹種であり、特に長安等の首都の官庁街に植えられたことから高位高官或いは仁政の象徴でもあった。知られた作品では、中唐の伝奇小説で、主人公の侠客淳于棼(じゅんうふん)が夢の中で蟻の国へ行き、国王の娘婿となり、南柯郡太守に任命されて三十年を過ごす異類婚姻譚である、李公佐の撰の「南柯(なんか)太守伝」(八〇二年成立)であろう。主人公が冒頭で昼寝するのはまさに槐の木の下であった。なお、博物誌や文化史的な槐については、寺井泰明氏の詳細を極めた論文「槐の文化と語源」があり、「桜美林大学学術機関リポジトリ」のこちらからダウン・ロード(PDF)出来る。

「五、六丈」十五メートル強から十八・一八メートル。

「初夜(しよや)」元は仏語で、一昼夜を六分した六時(晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)の一つ。戌の刻で、現在の午後八時から午後九時頃。「初更」「甲夜」も同じ。本来はその時刻に行なう勤行を指した。

「土風(つちかぜ)」土埃(つちぼこり)を吹き上げる風。特に春先に吹くそうした風を指し、俳句の春の季語ともなっていたから、ここは暗にシークエンス時制を示す効果も持っているのかも知れない。小学館「日本国語大辞典」には、「つじかぜ」(辻風)が、「じ」・「ぢ」の音の混同によって「つぢかぜ」と書かれ、「土を巻き上げながら吹く風」という語源俗解が加わって生じたものか、ともあった。その場合は、殊に旋風(つむじかぜ)を指すこととなるが、ここの怪異の出来(しゅったい)について見るならば、旋風の方が映像的効果はより高くなるように思われるものの、『「さつ」と、一しきりして、後(うしろ)より、甲冑(かつちう)を着たる者、大勢、追來(おいきた[やぶちゃん注:ママ。])り』というリズムにはちょっと合わず、大仰に過ぎる。

「南無三宝」「なむさんぼう」と濁るのが正しい。仏語の連語で、「三宝」は「仏」・「法」・「僧」の三つを指す。「三宝に帰依し奉る」の意で、三宝に呼びかけて、仏の救いを求める言葉。一種の感動詞として現代でもよく使用される。

「魁(さきがけ)」首魁(しゅかい)。親分。槐の邪神には多数の眷属がいるようだ。

「供物(ぐもつ)」かく濁音でも呼称する。

「分限(ぶんげん)相應」その人物が置かれている地位・境遇に相応した相対的な違いがあることを謂う。

「鳥目(てうもく)」銭(ぜに)の異称。また、一般に金銭の異称。江戸時代までの銭貨は中心に穴が空いており、その形が鳥の目に似ていたところからかく称する。

「五百文」本書は享保一七(一七三三)年板行であるから、江戸中期(一七〇〇年頃から一七五〇年頃まで)で、一文は二十円程度、一両は八万円ほどで、「五百文」は現在の一万円相当に当たる。母の葬儀を出した直後の、しかも貧しい茂次にとってはこれはまさに相応の大金である。

「赤き童子壱人」「不動明王」には八大童子或いは三十六童子又は四十八使者と呼ばれる眷属がいるともされるが、実際にはその内の、「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」と「制吒迦童子(せいたかどうじ)」を両脇侍とした三尊形式(不動明王二童子像或いは不動三尊像と称する)で絵画や彫像に表わされることが多い。この場合、不動明王の右(向かって左)に制吒迦童子が、左(向かって右)に矜羯羅童子を配置するのが普通で、矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表わされるものが多く、制吒迦童子は対照的に金剛杵(こんごうしょ)と金剛棒(いずれも武器)を手にし、悪戯小僧のように表現されたものが多い。ここに登場するのは制吒迦童子が相応しい

「一つの筥(はこ)を取(とつ)て、茂次に渡し、引出し給ふとおもへば、程なく、我が家に歸り着(つき)ぬ」ここにも瞬時に茂次の身体が家に移動している怪異を読み取らねばならぬ。

「千兩」先の換算に従えば、実に八千万円!

「示現(じげん)を蒙(かふむ)りければ」「示現」は神仏が不思議な霊験・奇跡を現わすことで、ここでは茂次の夢に確かに疑いようのない、再度の制吒迦童子の顕現と新たな諭(さと)しを授かったので。]

墓場に君の 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

墓場に君の

 

墓場に君のねぶる時

くらき墓場に眠る時

われはゆかまし土の下

われは抱かまし戀人を

 

冷たく靑く動かざる

きみを接吻(キス)しつ肌觸れつ

さけびつ泣きつをののきつ

むくろとわれも成りにけり

 

丑滿時を面白く

亡者はさめてをどるなり

二人はたたずとどまりて

われはその子の腕に倚る

 

くるしくたのしくさまざまに

亡者はおきぬ審判(さばき)の日

われら二人は何かあらん

物におそれずねぶるなり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」「頰は靑ざめて」「使」「老いたる王の」・本「墓場の君の」・「うきをこめたる」・「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)の“Lyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第XXX歌(第三十歌)である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は最終連が、

   *

にがくたのしくさまざまに

亡者はおきぬ審判(さばき)の日

われら二人は何あらん

物におれずねぶるなり

   *

であるが、終行の「おれず」は「おそれず」の脱字(誤植)であろう。

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を示すが、今まで使っていたPDサイト「PD図書室」のこちらのものには致命的な誤植があることが判ったので、新たに見出した国立国会図書館デジタルコレクションの、大正一四(一二五)年春秋社刊の生田春月訳「ハイネ全集 第一巻」(「詩の本」)の「抒情插曲」パートから起こした。春月のそれは第「三十四」歌とする)。

   *

 

  三十四

 

いとしい人よ、もしもおまへが墓場へと

くらい墓場へ行くならば、

わたしはそこに下りてゆき

おまへの身體(からだ)にまつはらう。

 

接吻(きす)し、はげしく抱きつかう、

しづかな、冷たい、靑ざめた子よ!

わたしはよろこんで、ふるへて、はげしく泣かう、

わたしも死骸になつちまはう。

 

眞夜中ごろにをめいて立ち上り、

死人は群れてたのしく舞ひをどる、

ふたりは墓にとゞまつて

わたしはおまへの腕に寢る。

 

審判(さばき)の日、死人の群れは立ち上り、

苦みに歡びにみな叫びあふ、

ふたりは何を苦しまう

しづかにもたれてよこたはる。

 

   *]

老いたる王の 伊良子清白 (ハイネ訳詩)

 

老いたる王の

 

老いたる王(きみ)のおはしけり

心は重し髮皤(しろ)し

老いて便(びん)なき其王(きみ)は

若き妃(きさき)を娶(めと)りけり

 

美少の小姓仕へけり

心はかろし髮明(あ)かし

若き妃の曳きたまふ

袴の裾を捧げけり

 

むかしの歌を君知るや

樂しく悲しきその歌よ

彼等ふたりは死ににけり

かくもふたりは愛しけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」「頰は靑ざめて」「使」・本「老いたる王の」・「墓場の君の」・「うきをこめたる」・「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇の原詩は私には判らなかった。初出は第二連終行が「袴の裾をかつぎけり」である以外は、有意な異同を認めない。]

使 伊良子清白 (ハイネ訳詩)

 

使

 

とくとく起(た)てよわがしもべ

鞍おけ駒に飛び騎(の)れよ

野こえ山こえまつしぐら

デユンカス王の城に驅(かけ)れ

 

口取童見ゆるまで

厩(うまや)のかげにしのぶべし

かくて毛(け)見(み)せよこやつこを

「いづれの姬ぞ花嫁」と

 

「髮(くし)褐(かち)いろの子」といはば

こまに鞭うちとくかへれ

「黃金の髮の子」といはば

急がでかへれのどやかに

 

綱賣る家にたちよりて

てごろの繩をもとめこよ

こまをうたせよ物言はで

ゆるらゆるらに歸りこよ

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」「頰は靑ざめて」・本「使」・「老いたる王の」・「墓場の君の」・「うきをこめたる」・「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇題名は「使」(つかひ)と訓じておくが、本篇の原詩は私には判らなかった。初出は第三連初行が「褐(かち)のおもての子」といはゞ」である以外は、有意な異同を認めない。なお、初出の「褐(かち)」とは、紺よりもさらに濃い、殆んど黒色に見紛う藍色のことを指す。「かち」は「勝ち」に通ずることから、縁担ぎで、武士の武具の染め色や、広く祝賀の際に用いられた。「勝ち色」「かち」「かちんいろ」「かついろ」。]

2019/05/05

太平百物語卷三 廿二 きつね仇をむくひし事

 

太平百物語巻之三

   ○廿二 きつね仇(あだ)をむくひし事

 江戸淺草の片ほとりに、常心(じやうしん)といへる同心者(どうしんじや)、住みけり。又、品川に巨作(こさく)といふ隱者(ゐんじや)ありしが、常々したしく交(まじは)りける。

 一夜(あるよ)、巨作、常心がいほりに訪(とぶら)ひきたり、四方(よも)山の物語してゐけるが、夜も更(ふけ)ければ、

「一宿し給へ。」

といふに、巨作も外ならねば、

「仰せに任すべし。」

とて、常心と通夜(よもすがら)、世上の物語して、他事(たじ)なく樂しみゐけるに、夜半すぐるころ、いづくともなく、大石(たいせき)を礫(つぶ)て打(うつ)ほどに、

「こは、何事やらん。」

と、兩人共におどろく所に、いよいよ、きびしく打(うち)ければ、常心、今はたまりかね、表に出(いで)んとするを、巨作、引きとめ、

「あのごとく、しげく石打(いしうつ)所へ御出(いで)あらば、怪我あるべし。無用。」

といふに、常心、氣づよき僧なれば、

「何ほどの事候はん。」

と、戶口をひらき、飛出(とびいづ)るに、目にさへぎる者、一人も、なし。

 石うつおとも、やみければ、

「扨は。わが出(いで)しにおそれて、迯(にげ)たるならん。」

とて、内に入りて、巨作に「かく」と告(つげ)て、ふしぎをなし居(ゐ)けるに、又々、きびしく打(うつ)音しきりなれば、常心、大きに腹をたて、

『にくき奴原(やつばら)がふるまひ哉(かな)。壱人なりとも、つかまへん。』

と、おもひ、戶口に待ちうけ、しげく打ける所を、

「遁(のが)さじ。」

と飛出るに、世上、靜まりて虫の聲、かすかなり。

 常心も、こゝろは武(たけ)しといへども、相手なければ、詮方なく、興覚(けうざめ[やぶちゃん注:ママ。])、内に入りければ、巨作もあきれ果(はて)、

「如何樣(いかさま)、これは變化(へんげ)のわざと覚(おぼへ)たり。今宵は、兩人、ねぶらずして守(まも)り居(ゐ)ん。」

と、互に心を配りけるが、しばらくありて、表の方(かた)に、大勢の聲として、

「いかに、巨作よ。石打(いしうつ)事のおそろしきや。常心なくば、打殺(うちころ)さん物を。」

と、

「どつ。」

と、わらふて、うせければ、常心、巨作にむかひて、

「御身、心に覚へありや。」

とゝへば、巨作がいはく、

「されば、今日(こんにち)、此許(このもと[やぶちゃん注:ママ。])へ參る折節、堤の上に、狐の二疋、晝寐(ひるね)をして居たりしに、折節、酒きげんにて、小石を二つ三つ、あてゝおどしけるが、其仇にも侍るやらん。」

といふ。

 常心、きゝて、

「さればこそ。其返報なり。穴賢(あなかしこ)、㙒干(やかん)・貍(たぬき)の類(たぐ)ひ、かりにも、おどし玉ふべからず。」

と、堅く誡めければ、巨作も、殊の外、後悔し、夜明(よあけ)て、常心に謝禮して品川に歸りけるとかや。

[やぶちゃん注:面白いことに、これが本書の初めての江戸をロケーションとした怪談であり、しかもこの後に江戸を舞台としたものは実は「卷四」の「卅七 狐念仏に邪魔を入し事」一つないここまでは圧倒的に西国(それも各地。鎌倉は特異点であるが、江戸ではない。主君が登ったのは江戸であるが、それを全く描写していない)をロケ地とした怪奇談で、この後も実は概ねそうなのであるのは、本書が大坂の板元であることにも由来はしようが、どうもこの特異的な偏り方には、私は、作者菅生堂人恵忠居士なる人物の何らかの思い(江戸に対する強い忌避感情)が隠されているように思われてならない。

「同心者(どうしんじや)」間違えて読む人は居るまいが、ここは無論、出家した「道心者(だうしんもの)」の謂いである(世俗を捨てて仏道に専心する者とは世俗からスポイルされた者である)。こういう言い間違いは私は珍しいと思う。御覧の通り、歴史的仮名遣が異なるし、「道心」を「同心」とは一般でも書かないし、辞書にも載らない。さてもかつてのフロイディストであった私は、これと前の江戸を殊更に忌避しているのを絡めると、これはまさにフロイトの謂う「言い間違い」行為なのではないか? 「道心」とすべきところを町奉行配下で江戸市中の犯罪等を取り締まった「同心」(その場合は「町方」)と誤って書いたのは、この正体不明の作者菅生堂人恵忠居士なるあやしげな人物が、実は文字通り、江戸で何らかの犯罪を犯して所払いされた者、或いは犯罪を犯して逃げてきた者だったために、意識の中に捕まることを恐れた同心のイメージが、かく書き間違えをさせてしまった……なんてえのは、如何(いかが)? てへ、ペロ!

「淺草」浅草の一部は当時の被差別民が多く居住した地域でもあった。この「常心」なる人物が、そうした中の一人であった可能性もあろう。

「品川」「巨作(こさく)」という名(絵師か何かの名前みたように私は感ずる)、江戸の外れのそこで「隱者(ゐんじや)」(世俗を忌避した存在である)という設定も、何だか、ぶっとんでいて、この設定自体が、噂話、則ち、事実めいた怪談、まさに大江戸の都市伝説(urban legend)の条件から外れているように思われてならない。但し、品川は江戸の辺縁、相対的な意味での都会と田舎の境界的空間ではあったのだから、物理的な意味で隠棲地として不当であると言いきれるわけではない。

「外ならねば」外でもない親しい常心の慫慂であり、実際、今から品川に帰るとなると、深夜も過ぎるので。

「㙒干(やかん)」狐。一つ、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)」でもどうぞ。]

頰は靑ざめて 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月訳)

 

頰は靑ざめて

 

頰は靑ざめてぬれはてて

われはゆめみぬ姬皇子(ひめみこ)を

綠したたる菩提樹の

かげに二人は抱きけり

 

「少女よなれを愛すなり

願はずわれはなが父の

黃金の笏(しやく)もみくらゐも

かしこき珠のかうぶりも」

 

をとめはいひぬ「甲斐ぞなき

墓場の下にねぶる身ぞ

されども君のこひしさに

夜な夜なわれは來るべし」

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」「きみとわが頰の」・本「頰は靑ざめて」・「使」・「老いたる王の」・「墓場の君の」・「うきをこめたる」・「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)の“Lyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第XLII歌(第四十二歌)である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は有意な異同なし。

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を、PDサイト「PD図書室」のこちらから引用させて貰う(但し、歴史的仮名遣の誤り(生田本人の仕儀かも知れぬが)を訂し、漢字の一部を正字化した。引用元の底本は昭和一〇(一九三五)年二十四版新潮文庫刊生田春月譯「ハイネ詩集」。春月のそれは第「四十七」歌とする)。

   *

 

  四十七

 

あをざめた頰を淚に濡らしながら

王女が夢にあらはれる

二人は菩提樹の木かげにすわり

心ゆくまでむつみ合ふ

 

《あなたのお父樣の黃金の笏(しやく)も

玉座も金剛石(ダイヤモンド)の冠も

わたしはちつともいりません

かあいらしいあなたさへわたしのものならば》

 

『とてもそれは』と王女が言ふのには

『わたしは夜を待ちかねて

あまりにあなたの戀しさに

墓を出て來る身ですもの』

 

   *]

ヴェトナムの子らに日本語を教え始めた

昨年来、妻が『朝日新聞』の配達をしているヴェトナムの若者に日本語会話をボランティアで教えているのだが、今年度はヴェトナムから三人来たので、私も今日から手伝うことになった。今日が初日で、今日は十八歳のタイ君。読み書きは思っていたより驚くほど上手だが、最初、会話が思うようには疎通しない。しかし二時間も経つと、なかなかに楽しく話し合えるようになった。
七年前に高校教師を辞めて、もう人に「国語」を教えることはないと思っていたけれど、無償のこれは――ともかく――いいね――純粋に楽しい。

きみとわが頰の 伊良子清白 (ハイネ訳詩/参考・生田春月訳)

 

きみとわが頰の

 

きみとわが頰のふるる時

ともに淚は流れけり

かたみに胸をおせしとき

ともに焰はさわぎけり

 

あつき焰にもえたちて

淚のたきは落つるなり

諸手にきみを抱きなば

われは死ぬべし戀ゆゑに

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、「さうび百合ばな」・本「きみとわが頰の」・「頰は靑ざめて」・「使」・「老いたる王の」・「墓場の君の」・「うきをこめたる」・「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)の“Lyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第Ⅴ歌である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は異同なし。

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を、PDサイト「PD図書室」のこちらから引用させて貰う(但し、漢字の一部を正字化した。第二連三行目のダッシュは引用元では「--」であるが(原詩のこの箇所は“Und wenn dich mein Arm gewaltig umschließt –”)、邦訳詩として「--」では異様に過ぎるので、通常ダッシュに恣意的に代えた。引用元の底本は昭和一〇(一九三五)年二十四版新潮文庫刊生田春月譯「ハイネ詩集」。春月のそれは第「六」歌とする)。

   *

 

  

 

おまへの頰をわたしの頰にあてゝごらん

そしたら淚は一しよに流れよう!

おまへの胸をわたしの胸にあてゝごらん

そしたら焰は一しよに燃えるだらう!

 

さうしてふたりの淚の河が

はげしい焰にそゝぐなら

さうしておまへを力一ぱい抱いたなら――

わたしはこがれこがれて死んぢまはう!

   *]

さうび百合ばな 伊良子清白 (ハイネ訳詩/参考附・生田春月訳)

 

さうび百合ばな

 

さうび百合ばな鳩日影

愛はむかしとなりにけり

淸らなるもの小さきもの

美しきものただひとり

われはをとめを戀すなり

さうび百合花鳩ひかげ

愛はすべてのもとなれば

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』初出(署名「清白」)であるが、総標題「夕づゝ(Heine より)」の下に、本「さうび百合ばな」・「きみとわが頰の」・「頰は靑ざめて」・「使」・「老いたる王の」・「墓場の君の」・「うきをこめたる」・「戀はれつこひつ」・「夕となりぬ」・「なれをこひずと」の十篇からなる、ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の翻訳詩群である。本篇は一八二三年刊の詩集“Tragödien, nebst einem lyrischen Intermezzo”(「抒情的間奏曲附きの、悲劇」)の“Lyrisches Intermezzo”(「抒情的間奏曲」)の第Ⅱ歌である。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。初出は最終行「愛はすべてのもとなれば」が「すべての愛のもとなれば」以外は表記違いのみ。なお、底本では、則ち、新潮社版「伊良子清白集」では、本篇と前の「牧童」との間には、ダイヤ型の大小を用いた変わった十字架状の装飾記号が三つ縦に打たれて、有意なパートを形成させている。これ以前の翻訳詩群「夕づつ」パートの前半と有意な区分を読者に示している。これは翻訳詩篇を伊良子清白が自分なりに区分けしたものであろう。

 前に倣って、生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)の訳を、PDサイト「PD図書室」のこちらから引用させて貰う(但し、漢字の一部を正字化した。引用元の底本は昭和一〇(一九三五)年二十四版新潮文庫刊生田春月譯「ハイネ詩集」)。そこでは全標題は「抒情插曲」と訳され、創作年を添辞で一八二二年から一八二三年とし、よく判らぬが(版が違うのか? 私はドイツ語が解らぬので調べ得ない)、春月のそれは第「三」歌である。

   *

 

  

 

薔薇よ、百合よ、鳩よ、 太陽ひよ

それらをむかしわたしは愛したが

もはやわたしは愛しない、今ではひとり

小さな、やさしい、淸い、ひとりのあの人が

愛といふ愛の泉となりました

薔薇と、百合と、鳩と、 太陽ひと

 

   *]

2019/05/04

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(19) 「馬塚ハ馬ノ神」(1)

 

《原文》

馬塚ハ馬ノ神   駒形ノ最初ノ意義ガ假ニ神降臨ノ遺跡ヲ示スコト自分ノ說ノ如クナリキトスルモ、此ト同時ニ馬其物ヲ神トスル別種ノ信仰アリシコトハ亦看過スべカラザル事實ナリ。【天然物崇拜】神ガ本地佛ノ形態ヲ以テ一ノ社ニ永ク留リ、神迎神送ノ思想ガ形バカリノ儀式トナリ終ルト共ニ、我々ノ同胞ガ宗敎生活モ一時却リテ天然物崇拜ノ境涯ニ道戾リシタル時代アリ。語ヲ換ヘテ言ハヾ、神モ召サザル馬バカリヲ怖レ且ツ禱リタル例ハ甚シク多キナリ。例ヘバ阿波國ニハカノ丹生明神ガ乘捨テラレシト云フ石馬ノ外ニ、今一ツ有名ナル天馬石アリ。名所圖會ニハ勝浦郡田野村トアレドモ今ハサル村ノ名無シ。恐クハ今ノ多家良村大字宮井ノ附近ナルべシ。【名馬池月】天ヨリ降リテ石ト成ルトモ云ヒ、或ハ源氏ノ名馬池月爰ニ來リテ死ストモ傳フ。名所圖會ノ插畫ニ伏シタル馬ノ形ニ描ケルハ所謂繪空事ニテ、誠ハ高サ四尺バカリノ立姿ナリ。ソレモ小兒ガ石ヲ打付ケナドシタル爲ニ、前ノ如クハ形ノ似テ居ラヌヤウニナレリト云ヘバ、今日ハ最早ドウナリタルカ分ラヌナルべシ。【要石】或ハ鹿島ノ要石(カナメイシ)ノ如ク地底ヨリ生エ貫キタリト云ヒ、又ハ此石ニ耳ヲ當テテ聽ケバ浪ノ音遙カニ響キ、船漕グ人ノ聲轡ノ音ガスルナドト傳ヘラレシモノナリ〔以上燈下錄〕。飛驒大野郡淸見村ノ龍ケ峯ノ峠ニモ、天ヨリ降リシ龍馬ノ化石ト稱シ駒ノ形ヲセシ大石アリ。連錢ノ紋マデモ鮮明ナリキト云ヘバ〔北道遊簿〕、此モ亦葦毛ナリシナラン。此峠ハ以前ノ往還ナレバ之ヲ見聞セシ人モ多カランニ、或說ニハ單ニ龍馬ノ蹄ノ痕ガ岩ノ上ニ有ルバカリノ如クニモ記セリ〔飛驒之山川〕。今日トナリテハ決シ難キ疑問ナリ。【馬乘石】播磨宍粟郡神戶(カンベ)村大字須行名(スギヤウナ)ニテハ、岡城山ノ谷川ノ中ニ馬乘石アリ。馬ニ似タル岩ノ上ニ又岩アリテ人ノ乘ルガ如シ〔播磨鑑〕。大和ノ橘寺ニハ古キ石人一軀ヲ巖石ニ彫付ケ其側ニ馬ノ如キ獸アリ。俗ニ之ヲ阿彌陀ト言ヒ、又聖德太子ト甲斐黑駒ノ像ナリト云フ〔遊囊賸記〕。【馬石】江州ノ石馬寺ニハ門前ノ池ノ側ニ馬ノ形ヲシタル石體在リ。此モ亦太子ノ遺跡譚ヲ傳ヘタリ〔大内靑巒氏談〕。越後北蒲原郡加治村大字茗荷谷(ミヤウガダニ)ノ山中、藥師堂ノ傍ニ大石アリ。縱ハ一丈バカリ橫ハ七尺餘、半ハ土中ニ沒ス。土人之ヲ馬石ト名ヅク。其形臥馬ノ如シ。石上ノ苔ノ中ニ二寸ホドノ白毛ヲ生ズトアリ〔越後野志十八〕。【爲朝】肥前西松浦郡大川村駒鳴(コマナキ)ノ駒鳴峠ニモ駒ニ似タル石アリキ。昔鎭西八郞爲朝櫻野ノ池ニ於テ大蛇ヲ退治シ、其鱗ヲ馬ニ積ミテ此阪路ニ掛リシニ、アマリ荷ノ重キ爲ニ馬ガ嘶キタリ。【道ノ神】峠ノ名ト村ノ名ハ此ヨリ起ルトノミアリテ、此ニハ化石ノ物語ハ傳ヘザレドモ、此峠ナル石ノ馬モ夜每ニ聲ヲ立テヽ往來ノ人ヲ劫カセシ故ニ、後ニ石屋ヲ賴ミテ之ヲ打割ラシムト云ヘリ〔松浦記集成〕。此モ亦今ハシカトシタル形ハ無キナルべシ。【駒岩】山城井手玉川ニ沿ヒタル雨山ノ雨吹龍王社ノ址ニ殘レル駒岩ハ正シク人作ナリ。自然ノ大岩ノ面ニ駒ノ形ヲ浮彫ニシテ甚ダ古雅ノモノナリシガ、今ハ磨滅シテ明瞭ナラズ。舊記ニ依レバ保延三年五月六日ノ文字アリシ由ナリ〔綴喜郡志〕。【駒形濱】石ニ詳シキ雲根志ノ說ニ依レバ、遠江國ニ駒形濱ト云フ渡海ノ湊アリ。海底ニ馬ノ形ヲシタル大岩アリテ、出入ノ船ニ馬又ハ馬ノ繪アル物ヲ運ブトキハ必ズ祟ヲ受ケテ難船ス。故ニ骨牌ノ荷ナドヲ送ルニモ、四十八枚ノ中ヨリ特ニ馬ノ繪ノミヲ拔キテ之ヲ陸ヨリ廻送スト云ヘリ。遠州ニハ駒形ト云フ船著ハ無ケレドモ、榛原郡御前崎ノ突端ニハ駒形大明神ノ社アリ。此邊ノ海ニテハ何故カ航路甚ダ磯近クニアリテ、岬ニ續ケル暗礁ノ爲ニ船ヲ損ズル者昔モ今モ絕ユルコト無シ。湊ト云フ程ニハ非ザレドモ神社ノ東ノ山陰ニ僅カノ船掛リ場アリ。【九十九】自分ガ旅行シテ聞取リタル所ニテハ、沖ノ御前ノ岩ニハ天然カ人工カハ知ラズ、九十九疋ノ駒ノ形アリテ汐干ノ時ニハ鮮カニ見ユト云ヘリ。但シ馬ヲ忌ムト云フ話ニ就キテハ終ニ之ヲ知レル人ニ逢ハザリキ。「メクリ」ノ骨牌ヲ江戶ニ送ル話モ實ハアマリニ出來過ギタリ。卯花園漫錄ニハ大阪ヨリ江戶へ送ル骨牌ノ中ヨリ馬ノ繪ノミハ陸送リスルナリト云ヘド、土地ノ人ノ知ラヌ話ナレバ猶如何カト思ハル。

 

《訓読》

馬塚は馬の神   駒形の最初の意義が、假に、神降臨の遺跡を示すこと、自分の說のごとくなりきとするも、此れと同時に、馬其物を神とする別種の信仰ありしことは、亦、看過すべからざる事實なり。【天然物崇拜】神が本地佛の形態を以つて一つの社に永く留(とど)まり、神迎へ・神送りの思想が、形ばかりの儀式となり終ると共に、我々の同胞が宗敎生活も、一時、却(かへ)りて、天然物崇拜の境涯に道戾りしたる時代あり。語を換へて言はゞ、神も召さざる馬ばかりを怖れ、且つ、禱(まつ)りたる例は甚しく多きなり。例へば、阿波國には、かの丹生明神が乘り捨てられしと云ふ石馬の外に、今一つ、有名なる天馬石あり。「名所圖會」には勝浦郡田野村とあれども、今は、さる村の名、無し。恐らくは今の多家良(たから)村大字宮井の附近なるべし。天より降(くだ)りて石と成るとも云ひ、或いは、源氏の名馬池月(いけづき)、爰(ここ)に來りて死すとも傳ふ。「名所圖會」の插畫に、伏したる馬の形に描けるは、所謂、繪空事にて、誠は高さ四尺ばかりの立姿なり。それも小兒が石を打ち付けなどしたる爲めに、前のごとくは、形の似て居らぬやうになれりと云へば、今日は最早、どうなりたるか分らぬなるべし。【要石(かなめいし)】或いは、鹿島の要石(かなめいし)のごとく、地底より生(は)え貫きたりと云ひ、又は、此石に耳を當てて聽けば、浪の音、遙かに響き、船漕ぐ人の聲・轡(くつわ)の音がするなどと傳へられしものなり〔以上「燈下錄」〕。飛驒大野郡淸見村の龍ケ峯の峠にも、天より降(くだ)りし龍馬の化石と稱し、駒の形をせし大石あり。連錢(れんぜん)の紋までも鮮明なりきと云へば〔「北道遊簿」〕、此れも亦、葦毛なりしならん。此の峠は、以前の往還なれば、之れを見聞せし人も多からんに、或る說には、單に龍馬の蹄の痕が岩の上に有るばかりのごとくにも記せり〔「飛驒之山川」〕。今日となりては、決し難き疑問なり。【馬乘石(ばじやうせき)】播磨宍粟郡神戶(かんべ)村大字須行名(すぎやうな)にては、岡城山の谷川の中に馬乘石あり。馬に似たる岩の上に、又、岩ありて、人の乘るがごとし〔「播磨鑑(はりまかがみ)」〕。大和の橘寺(たちばなでら)には、古き石人(せきじん)一軀(いつく)を巖石に彫り付け、其の側(そば)に馬のごとき獸あり。俗に之れを「阿彌陀」と言ひ、又、聖德太子と甲斐黑駒の像なりと云ふ〔「遊囊賸記(いふなうしやうき)」〕。【馬石】江州の石馬寺(いしばじ)には、門前の池の側に馬の形をしたる石體(せきたい)在り。此れも亦、太子の遺跡譚を傳へたり〔大内靑巒(せいらん)氏談〕。越後北蒲原郡加治村大字茗荷谷(みやうがだに)の山中、藥師堂の傍(かたはら)に大石あり。縱は一丈ばかり、橫は七尺餘、半(なかば)は土中に沒す。土人、之れを馬石と名づく。其の形、臥馬(ふせうま)のごとし。石上の苔の中に二寸ほどの白毛を生ずとあり〔「越後野志」十八〕。【爲朝】肥前西松浦郡大川村駒鳴(こまなき)の駒鳴峠にも駒に似たる石ありき。昔、鎭西八郞爲朝、櫻野の池に於いて、蛇を退治し、其の鱗(うろこ)を馬に積みて、此の阪路(さかみち)に掛りしに、あまり、荷の重き爲めに、馬が嘶(いなな)きたり。【道の神】峠の名と村の名は、此れより起るとのみありて、此(ここ)には化石の物語は傳へざれども、此の峠なる石の馬も、夜每に聲を立てゝ、往來の人を劫(おびや)かせし故に、後に石屋を賴みて、之れを打ち割らしむと云へり〔「松浦記集成」〕。此れも亦、今は、しかとしたる形は無きなるべし。【駒岩(こまいは)】山城井手玉川に沿ひたる雨山の、雨吹龍王社の址(あと)に殘れる駒岩は、正(まさ)しく人作なり。自然の大岩の面に駒の形を浮き彫りにして、甚だ古雅のものなりしが、今は磨滅して明瞭ならず。舊記に依れば、保延三年[やぶちゃん注:一一三七年。]五月六日の文字ありし由なり〔「綴喜(つづき)郡志」〕。【駒形濱】石に詳しき「雲根志」の說に依れば、遠江國に駒形濱と云ふ渡海の湊あり。海底に馬の形をしたる大岩ありて、出入りの船に、馬、又は、馬の繪ある物を運ぶときは、必ず、祟りを受けて、難船す。故に骨牌(かるた)の荷などを送るにも、四十八枚の中より、特に馬の繪のみを拔きて、之れを陸より廻送すと云へり。遠州には駒形と云ふ船著(ふなつき)は無けれども、榛原(はいばら)郡御前崎の突端には駒形大明神の社あり。此の邊りの海にては、何故か、航路、甚だ磯近くにありて、岬に續ける暗礁の爲に、船を損ずる者、昔も今も、絕ゆること無し。湊(みなと)と云ふ程には非ざれども、神社の東の山陰に、僅かの船掛(ふながか)り場あり。【九十九】自分が旅行して聞き取りたる所にては、沖の「御前の岩」には天然か人工かは知らず、九十九疋(ひき)の駒の形ありて、汐干(しほひ)の時には鮮かに見ゆと云へり。但し、「馬を忌む」と云ふ話に就きては、終(つひ)に之れを知れる人に逢はざりき。「めくり」の骨牌を江戶に送る話も、實(じつ)はあまりに出來過ぎたり。「卯花園漫錄」には大阪より江戶へ送る骨牌の中より馬の繪のみは陸送りするなりと云へど、土地の人の知らぬ話なれば、猶ほ、如何(いかが)かと思はる。

[やぶちゃん注:『「名所圖會」には勝浦郡田野村とあれども、今は、さる村の名、無し。恐らくは今の多家良(たから)村大字宮井の附近なるべし』【2019年5月5日本注改稿】当初は「多家良(たから)村大字宮井」に注して、『恐らくは、現在の徳島県徳島市多家良町のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。但し、もはやその馬型の石は最早、現存しない模様である』と注したのであるが、早速に、何時も情報を提供して下さるT氏より、これは柳田國男の推定の誤りであるとのメールを戴いた。以下、メールを引用する形で改稿した。

   《引用開始》

勝浦郡田野村は、明治二二(一八八九)年の町村制施行によって、十一村合併で小松島村になり、さらに後の昭和二六(一九五一)年になって小松島市になりましたが、

一方、多家良村は同じ施行によって同じ年に、五村合併で成立し、やはり同じ昭和二十六年に徳島市に編入されています(Wikiの「勝浦郡」の「近世以降の沿革」)。

「名所圖會」の「勝浦郡田野村」の「天馬石」は、「小松島市」の公式サイト内の「義経ドリームロード」の「天馬石(芝生町宮ノ前)」に、

【引用開始】

天馬石(芝生町宮ノ前)

名馬麿墨と宇治川先陣争いをした名馬池月が石に化したといわれ、また馬が天からおりて化石になったといわれている天馬石は、旗山の東北角にあって、馬の形をしており、この石を踏むと腹痛を起こすと言われている。[やぶちゃん注:確認したが、「麿墨」は原ページのママ。原ページの「磨墨」(するすみ)の誤記載である。後にT氏が添えて呉れたストリート・ビューの画像の解説板(同文)の画像は正しく「磨墨」となっている。なお、原ページには「天馬石」の写真があるが、以下のT氏のリンクの方が遙かによい。]

【引用了】

とあり、天馬石の写真は徳島県南ポータルサイト「なんとPlus(プラス)」の小松島市の旗山の観光案内の「天馬石」が大きく映っています。亦、ストリートビューでも見られます

「前のごとくは、形の似て居らぬやうになれりと云へば、今日は最早、どうなりたるか分らぬなるべし。」と柳田國男は大正三(一九一四)年の段階で危ぶんでいますが、今、「説明板があるから、そうか。」とも言えましょう。尚、ここは義経の「屋島」進撃路の途上に位置しています[やぶちゃん注:後のグーグル・マップ・データを開くと、「天馬石」の同地区に義経騎馬像があるのはそのためであろう。]。

「阿波名所図会」の図は、「早稲田大学図書館古典総合データベース」の「阿波名所図会巻」(上下二巻・探古堂墨海(たんこどう ぼっかい)撰・文化一一(一八一四)年刊)の、下巻九カット目です。

この現在の「芝生町」は元「芝生村」で、「田野村」の北にあり、明治二十二年の合併の際に「小松島村」になっています。

「小松島市芝生町宮ノ前」はグーグル地図のこちらです。

   《引用終了》

「天馬石」の位置は義経騎馬像東南東直近の三叉路のところで、そこでストリート・ビューを起動して西を向くと、天馬が出現する(左側面から石を見ると、何だか、淋しそうに首を地に垂らした馬の顔に見えてしまうのは私の哀しいシミュラクラだ)。いつもいつもT氏にはお世話になる。深く感謝申し上げます。

「鹿島の要石(かなめいし)」茨城県鹿嶋市の鹿島神宮のそれ。地震を鎮めているとされ、大部分が地中に埋まっている霊石である。嘗つて「諸國里人談卷之二 要石」で、かなり詳しく注したのでそちらを見られたい。

「飛驒大野郡淸見村の龍ケ峯」岐阜県高山市清見町のここ(グーグル・マップ・データ)。標高千百七十二メートル。中田裕一氏のサイト「飛騨美濃山語り」の「飛騨国由来の竜ヶ峰」でその「竜馬石」を見ることが出来る。その解説によると、この『竜ヶ峰にある「竜馬石」は、昔から不思議な石とされ、一説には「飛騨の国」の由来の石といわれます。江戸時代の「飛州志」は、「龍石」と称して、「大野郡楢谷村龍ヶ峰にあり、石面に鱗のごとき紋あり。」と記しています』。「清見村誌」に『よると、神代の頃、高天原の祖神様(おやがみさま)は、竜よりも速く空を飛ぶ「龍馬」という駒を、川上岳(かおれだけ)と白山の女神にお使いとして遣わしました。龍馬は、川上岳の女神にお使いをし白山に向かっていると、眼下に大好物の山笹の大草原を発見』し、『舞い降りて腹いっぱいになると眠りこけてしまいました。祖神様は、そのまま眠らせてやろうと考え、龍馬を石にしてしまいました』。『また別に』、「大原風土記」に『よると、昔』、『越前から飛んできた馬の子が名馬になりました。そこで里人は、その馬を近江の国の滋賀の都に献上しました。ところが』、『馬は、故郷を懐かしみ』、『この地に戻ってきたので、龍ヶ峰と称しました。龍馬石には、馬の歯の跡のような斑紋があり、龍馬石付近のササを産馬に食わせると』、『お産が軽いといいます』。ここでは『飛騨山脈の絶景が眺められます。ちなみに、竜馬の食べた笹はミヤマクマザサで』、『竜馬石は、竜ヶ峰火山による安山岩(年代は不明、数百万年前)です』とある。

「今日となりては、決し難き疑問なり」いえいえ、柳田先生、前の方の写真を見ると、如何にもお腹のくちくなった馬が蟠って寝ているように見えますよ。

「播磨宍粟郡神戶(かんべ)村大字須行名(すぎやうな)」「岡城山」「宍粟」は「しそう」(現代仮名遣)と読む。兵庫県宍粟市一宮町須行名(国土地理院図)。因みに、柳田國男の振った「スギヤウナ」は「スギヤウメ」の誤りか、誤植。現行「すぎょうめ」と読む

「大和の橘寺(たちばなでら)」奈良県高市郡明日香村にある天台宗仏頭山上宮皇院菩提寺(グーグル・マップ・データ)の通称。本尊は聖徳太子と如意輪観音。「橘寺」という名は垂仁天皇の命によって不老不死の果物を取りに行った田道間守(いたじまもり)が持ち帰った「橘の実」をここに植えたことに由来する。二面石や三光石は知っているが、「古き石人(せきじん)一軀(いつく)を巖石に彫り付け、其の側(そば)に馬のごとき獸あり。俗に之れを「阿彌陀」と言ひ、又、聖德太子と甲斐黑駒の像なりと云ふ」のはよく判らぬ。

「江州の石馬寺」滋賀県東近江市五個荘石馬寺町にある臨済宗御都繖山(ぎょとさんざん)石馬寺(いしばじ)。本尊は十一面千手観世音菩薩。ウィキの「石馬寺」によれば、『伝承によれば、今からおよそ』千四百『年前』、『霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れ、繖山(きぬがさやま)の山麓の松の木に馬をつなぎ』、『山上に登った。山の霊異に深く感動して戻ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた。これを瑞相と捉えた太子は、山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立し、石馬寺と号したという。聖徳太子筆と伝承する「石馬寺」の木額や太子馬上像等を所蔵する。登山口付近には、石馬が背中を見せている蓮池がある』とある。個人サイトのこちらで、その「駿馬化石」の写真が見られる。

「越後北蒲原郡加治村大字茗荷谷(みやうがだに)の山中、藥師堂」新潟県新発田市茗荷谷はここ(グーグル・マップ・データ)。国土地理院図ではここに寺がある(曹洞宗善積寺)が、これが「藥師堂」かどうかは分らぬ。

「肥前西松浦郡大川村駒鳴(こまなき)の駒鳴峠」佐賀県伊万里市大川町駒鳴の駒鳴峠(マピオン地図)。

「此(ここ)には化石の物語は傳へざれども、此の峠なる石の馬も、夜每に聲を立てゝ、往來の人を劫(おびや)かせし故に、後に石屋を賴みて、之れを打ち割らしむと云へり」というのは言っていることがよく判らない。馬の石化伝承がないのに、どうして石屋が打ち割る石馬があるんじゃい!?!

「山城井手玉川に沿ひたる雨山の、雨吹龍王社の址(あと)に殘れる駒岩」京都府綴喜郡井手町大字井手小字南玉水に現存。「井手町」公式サイト内の「駒岩 (こまいわ)の彫刻」によれば(地図有り)、『駒岩(こまいわ)の彫刻左馬は、重さ数百トンの大きな岩があり、表面に約』一『メートル四方の馬が刻まれています。玉津岡神社の社記によると、この駒岩は』、『もと』、『玉川左岸の株山にあって「玉川水源龍王祠側大岩彫刻駒形の絵」と平安末期の年号とともに記されています』。『本来は、雨を願い』、『玉川の水を治めるために、絵馬としての駒岩であったものが、いつのころからか左馬として「女芸上達の神」に変わり、裁縫や生け花、茶道、舞踊などを志す人々の守り神として古くから信仰の対象となっています』とある。株山は駒岩の対岸直近。

『石に詳しき「雲根志」の說に依れば、遠江國に駒形濱と云ふ渡海の湊あり。海底に馬の形をしたる大岩ありて、出入りの船に、馬、又は、馬の繪ある物を運ぶときは、必ず、祟りを受けて、難船す。故に骨牌(かるた)の荷などを送るにも、四十八枚の中より、特に馬の繪のみを拔きて、之れを陸より廻送すと云へり』私の愛読書である木内石亭の「雲根志」のここの以下に出る(今回は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で示した)。「骨牌(かるた)の」「四十八枚の中より、特に馬の繪のみ」とあるのは、十六世紀にポルトガルから日本に伝えられたゲーム・カードを国産化した「天正かるた」系のカルタには、馬に跨った騎士のカードがあったことを指す。

「榛原(はいばら)郡御前崎の突端には駒形大明神の社あり」現在の静岡県御前崎市御前崎にある駒形神社(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「ハッシー27のブログ」の「御前崎周辺(1)」の「駒形神社」に、案内のパンフレット「駒形神社略記」が電子化されてあり、『御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年』五三一年に鎮座とし』、慶長六(一六〇一)年、『徳川家御朱印』六石三斗の『寄進あり、また、慶長』九『年には、歩除地(年貢免除地)』十五『町を有した』。『神社創始よりの古文書、棟札等の資料に乏しく言い伝え等に頼る他無いが、御前崎市白羽』(しろわ)『鎮座の白羽神社元宮とされている』。『往古、延喜式に云う白羽官牧』(しろわのかんまき)『に馬を船にて運ぶ途中、厩崎沖で遭難した百頭の馬の内、一頭が岸にたどりついた地とされる。なお、残りの馬』九十九『頭は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う』。『古くより漁師の信仰が厚く、殊に明治以降、個人はもとより船会社よりの絵馬の奉納は多くを数える』とある。ブログ主は別に『次のような伝説もある』 とされ、『むかし伊豆の国から』九十九『匹の馬が駿河湾を泳いで渡ってきたが、あと少しで上陸できるところで力つきて岩に化してしまった』。『その岩が沖の御前岩(駒形岩)という岩礁だとされ、その馬の霊が駒形神社に祀られたという。岬の人々が海上安全と豊漁を祈願するために馬の霊を祀ったのが駒形神社であろう』ともある。同ブログ主は白羽(しろわ)神社も訪ねておられ、その「御前崎周辺(2)」の「白羽神社」で、驚天動地の見解が示されてある。『龍馬はもともと水辺で育った駿馬のことである。半島や島、大河などで区切られた場所が放牧地として適したことから、海辺や水辺で名馬が育つと考えられ、龍神信仰と繋がった』。『いつしか駿馬は神の乗り物であるだけでなく、龍神とも繋がる』。『ここで「白羽神社略記」にあった』、『遠江しるはの磯の贄の浦と あいてしあらば 言もかよはむ 万葉集遠江歌 丈部川相』『が、問題になる』。『この“白羽(しるは)の磯の贄の浦”とは、海神の怒り(暴風雨)を鎮めるために「贄(にえ)をささげた浦」のことだという』。『この海神にささげた生け贄が、どうやら“馬”だったようだ』。『駒形神社に伝わる』、『厩崎沖で遭難した百頭の馬の内、一頭が岸にたどりつき、残りの馬』九十九『頭は沖の御前岩(駒形岩)と化した 』という伝承は』、実は「『馬を生け贄にした』」『ということを表しているようだ』。『この地方でも焼津などに「草薙の剣」の日本武尊の伝説が残るが、日本武尊は東京湾を渡るときにも伝説を残している』。『走水から上総の国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めたという伝説がある。ここでは弟橘媛が海神の生け贄になっている』。『御前崎沖は海路の難所だとされる。「海神」に大切な「龍馬」を「贄」として捧げることによって、海上安全と豊漁を祈願していたのだろう』。『その生け贄の馬の霊を祀ったのが駒形神社なのかもしれない。そしてその馬の生け贄は、海上安全と豊漁のためだけでなく、白羽官牧の馬が丈夫に育つための生け贄でもあった可能性もある』。『白羽神社の“白羽”は「白羽の矢」にも通じる。“白羽の矢が立つ”とは、人身御供(ひとみごくう)を求める神が、その望む少女の住家の屋根に人知れず白羽の矢を立てるという俗伝から、多くの人の中で、これぞと思う人が特に選び定められる意味につかわれる。また、本来の犠牲者になるという意味もある』。『つまり、「白羽の矢」とは、本来は生け贄を選び出す目的で、神意を占う道具だったという』。『海神の娘である豊玉毘売命と玉依毘売命をまつる当社に、山幸彦である天津日高彦穂々出見命を祀るのは、山幸彦と豊玉姫が結婚したからばかりでなく、「白羽の矢」を含む弓矢が山幸彦所有の神具だったからなのかもしれない』とあるのである。非常に興味深く拝読した。このブログ主、ただものではない。

「御前の岩」国土地理院図で確認出来る。駒形神社から直線で約三キロメートル弱。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼩鼱(のらね・はつか) (ハツカネズミ)

Hatukanezumi

 

 

 

のらね

はつか

鼩鼱

       【和名抄爲鼱

        鼩二字】

        【和名乃良祢】

       【俗云二十日

ツイン キユイ  鼠】

 

本綱鼩鼱似鼠小卽今地鼠也

△按鼩鼱大不過二寸雖老不敢長大而甚進疾毎出厨

 下碓頭竊食米糠俗云爲鼷與鼩鼱一物者非也【鼷噬不痛

 鼩鼱噬痛】或鼩鼱卽家鼠子出巢可二十日故名之者亦

 非也家鼠之赤子皆大於鼩鼱

 

 

のらね

はつか

鼩鼱

       【「和名抄」、「鼱鼩」の

        二字と爲す。】

        【和名「乃良祢」。】

ツイン キユイ 【俗に「二十日鼠」と云ふ。】

 

「本綱」、鼩鼱、鼠に似て小さく、卽ち、今の「地鼠」なり。

△按ずるに、鼩鼱は大いさ、二寸に過ぎず。老と雖も、敢へて長大ならず。而〔して〕甚だ進-疾(すゝと)く、毎〔(つね)に〕厨〔(くりや)の〕下〔の〕碓〔(うす)〕[やぶちゃん注:臼。]の頭(ほとり)に出でて、米糠を竊み食ふ。俗、以つて、「鼷(あまくち)」と「鼩鼱(はつか)」とを一物と爲すは、非なり【鼷は噬〔(か)〕みて痛まず、鼩鼱は噬みて痛む。】或いは、「鼩鼱」は、卽ち、家鼠の子にて、巢を出でて二十日〔(はつか)〕ばかり〔なれば〕、故に之れを名づくといふも亦、非なり。家鼠の赤子、皆、鼩鼱より大なり。

[やぶちゃん注:ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus。本邦のそれは亜種ハツカネズミ Mus musculus musculus (ヨーロッパ東部及びアジア北部に棲息)。ウィキの「ハツカネズミ」を引く。『ハツカネズミの成獣は頭胴長が』五・七~九・一センチメートル、尾長が四・二~八センチメートル。体重は約十~二十五グラム。『体色は変異に富み、白色、灰色、褐色や黒色となる。短毛で腹側は淡い。耳と尾は非常に短い毛に覆われる。後足はアカネズミ属(Apodemus)にくらべ短く』、一・五~一・九センチメートル『ほどである。走るときの歩幅は約』四・五センチメートルで、最大、四十五センチメートルまで『ジャンプすることができる。糞は黒色で長径』四~六ミリメートル、短径一~三ミリメートルで、黴臭い臭いがする。『鳴き声は甲高い』。『若いオスとメスは簡単に識別できないが、メスはオスに比べ』、『肛門と生殖器の間の長さが比較的短い。メスは』五『対の乳腺と乳首を持つが、オスでは発達しない』。『性成熟時の明瞭な違いは、オスは睾丸が発達することである。この睾丸は体に比べて大きく、また体内に引っ込めることができる。胸部にあるエンドウ豆大の胸腺に加えて、待ち針の頭大の第二の胸腺が首の気管付近にある』。『草地、田畑、河原、土手、荒れ地、砂丘などをはじめ、家屋や商業施設の周辺などの様々な環境に生息して』おり、『雑食性で』、『種子や穀物類、雑草や花を採食するほか、小型の昆虫類も捕食する』。『また、汚染された飼料はもとより、ペットフードや家畜飼料などを消費する。さらに、しばしば農業や家屋に被害をもたらすと考えられている。ハツカネズミも他のネズミのように疾病を媒介するが、クマネズミ類ほど危険ではない』。『クマネズミ属のドブネズミ・クマネズミの』二『種と同様、「家ネズミ」として人家や周辺の環境に入り込むが、その害はクマネズミ属の家ネズミよりもずっと小さい。渇きに強く、コンテナなどの荷物に潜んで移動し、世界の広い地域に分布する。日本でも、史前移入種として、島嶼(とうしょ)部を含むほぼ全地域に生息する』。成熟に要する時間は二、三ヶ月で、『繁殖期は野生下では春と秋であるが、生息環境によっては一年中繁殖することができる』。『夜行性で、単独または家族で生活する。人家では家具の隙間などに巣を作る。河原や畑では、他の動物の掘った巣穴などを利用して生活する。一方で、実験用にも多用される面も持つ』とある。

「のらね」「野良鼠」の略。多くの辞書が地鼠のこととするのであるが、本邦で狭義に「地鼠」(歴史的仮名遣「ぢねずみ」)となると、モグラの仲間で日本固有種の哺乳綱トガリネズミ型目トガリネズミ科ジネズミ亜科ジネズミ属ジネズミ Crocidura dsinezumi を指すものの、ここは「本草綱目」の記載である以上、それに比定するわけにはいかない。近縁種が中国にもいるが、では近縁種ですましてよいかというと、どうも私は怪しい気がするのである。何故か? それは中文サイトで「中国地鼠」を調べると、学名と写真が出るが、それは凡そ本邦のジネズミとは似ても似つかぬ、ネズミ上科キヌゲネズミ科キヌゲネズミ亜科モンゴルキヌゲネズミ属モンゴルキヌゲネズミ Cricetulus griseus、別名チャイニーズ・ハムスター(Chinese hamster)だからである。また、「地鼠」は中国語ではもろにモグラ類全般を指す語でもあるのである。しかも「のらねずみ」というのは、これ、家鼠らしくない呼称ではないか。「地鼠」に至っては「野鼠」だろう。明代の時珍が何を指して「今の地鼠」と言ったのか、「本草綱目」の中国の研究家に訊ねてみたくなるのである。

『「和名抄」、「鼱鼩」の二字と爲す』「和名類聚鈔」巻第十八の「毛群部第二十九 毛群名第二百三十四」に、

   *

鼱鼩 「文選」注云、「鼱鼩、【「精」「劬」二音。「漢語抄」云、「乃良禰」。』。】小鼠也。

   *

と確かに字が逆転している。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼷(あまくちねずみ) (ハツカネズミの誤認)

Amakutinezumi

 

 

 

あまくちねずみ 甘口鼠

【音奚】

       【和名阿末久

イヰ      知祢須美】

 

本綱鼷者鼠之最小者嚙人不痛食人及牛馬等皮膚成

瘡至死不覺正月食鼠殘多爲鼠瘻小孔下血者皆此病

也治之以豬膏摩之及食貍肉爲妙

 

 

あまくちねずみ 甘口鼠

【音「奚〔(ケイ)〕」。】

       【和名「阿末久

イヰ      知祢須美」。】

 

「本綱」、鼷は鼠の最も小なる者なり。人を嚙む〔も〕、人、痛まず。〔然れども、〕人及び牛馬等の皮膚を食〔へば〕、瘡〔(かさ)〕と成る。〔然れども、〕死に至るとも、覺へず[やぶちゃん注:ママ。]。正月、鼠の殘(わけ)[やぶちゃん注:齧った食物。]を食へば、多く、鼠瘻〔(そろう)〕と爲る。小〔さき〕孔〔(あな)〕より血を下〔(たら)〕す者、皆、此の病ひなり。之れを治するに、豬(ぶた)の膏〔(あぶら)〕を以つて、之れに摩〔(す)〕り、及び貍〔(たぬき)の〕肉を食ひて、妙と爲る。

[やぶちゃん注:ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus の古異名或いは誤認異名。困ったことに、次項の「鼱(はつか)」は「俗に『二十日鼠』と云ふ」と出、良安はそこで強固に「鼷」と「鼱」は別種であり、それを同一とする説を誤りとして退けている。これは恐らく、江戸時代に鼠を飼うことが流行り、多数の変種や品種及び個体間格差を持った個体群や幼・成体が、好事家の間で恣意的に分類されて別種とされてしまった結果と思われる。ハツカネズミについては次で注することとする。但し、一説には、江戸時代の「甘口鼠」「鼷」はハツカネズミではなく、ネズミ科アカネズミ属ヒメネズミ Apodemus argenteus を指すとという主張もあるウィキの「ハツカネズ正月、鼠の殘(わけ)[やぶちゃん注:齧った食物。]を食へば、多く、鼠瘻〔(そろう)〕と爲る。ミ」の「語源」を参照。但し、その説には「独自研究」の批判が掛けられてある)。さらに言えば、ここで時珍は「正月、鼠の殘(わけ)を食へば、多く、鼠瘻〔(そろう)〕と爲る」と言っているのであるが、この条件は「鼱」が人家家屋内に侵入して人間の食物を齧る家鼠の類であることを示している事実である。ヒメネズミは野鼠の一種であって家鼠ではないのである。既に述べた通り、本邦の「家鼠」はドブネズミ・クマネズミ・ハツカネズミの三種のみであるのである。

「甘口鼠」この和名は噛まれても痛くないことに由来する。しかし「廿日鼠」という漢字表記との類似を見るにつけ、私はやはりハツカネズミ同一説を採りたくなる。

「鼠瘻〔(そろう)〕」頸部等のリンパ腺が腫脹する症状を指す。結核菌感染による頸部リンパ節の慢性的なそれは「瘰癧(るいれき)」とも呼ぶ。また、「小〔さき〕孔〔(あな)〕より血を下〔(たら)〕す者」というのは、瘰癧で腫脹部が潰れた後、そこに穿孔が生じ、智や膿がじくじくと流れ出る症状を指している。なお、ここより前の前半部の部分は、明らかに前に注した「鼠咬症」(「鼠咬症スピロヘータ感染症」或いは「モニリホルム連鎖桿菌感染症」)の症状を指している。]

太平百物語卷二 廿壱 孫兵衞が妾蛇になりし事

 

   ○廿壱 孫兵衞が妾(てかけ)蛇になりし事

 備前の國金山(かなやま)のほとりに、孫兵衞といふ百姓あり。弟(おとゝ)は播磨に住(すみ)て、獵を業(わざ)として居(ゐ)ける。彼(かの)孫兵衞は、家、富(とみ)さかへて、常にたのしかりしが、跡を嗣(つぐ)べき子なければ、行末、あぢきなくおもひくらしける。

 然るに、孫兵衞、かりそめに煩ひいだし、次第におもくなりて、心地死ぬべく覚へければ[やぶちゃん注:ママ。]、急ぎ播磨の弟が許(もと)へ、「かく」と告(つげ)やりしかば、弟は、取る物もとりあえず、いそぎ、備前に來たり、孫兵衞が病床に至れば、孫兵衞、いと嬉しげに眼(まなこ)をひらき、

「よくぞや、遠路を、はやく、參りたれ。我(われ)、病(やまひ)重ければ、本復(ほんぶく)せん事、おもひよらず、命(いのち)終らば、跡の營み、念比(ねんごろ)に、賴み參らするなり。元より、名跡(みやうせき)なければ、家財・田地等(とう)、ことごとく、御身に與(あたふ)るなれば、今よりしては、殺生(せつしやう)の業をやめて、わが屋敷に住(すみ)玉へ。又、これ成(なる)女は、とし比(ごろ)、われに仕へし馴染の者なれば、行末、見屆(みとゞけ)やり玉へ。」

と遺言して、程なく果(はて)ければ、弟、やがて、僧を招き、なくなく、死骸を㙒邊におくりけるを、此妾(しやう/てかけ)、限りなくかなしみ、共に㙒邊におくり行(ゆき)しが、彼(かの)孫兵衞がなきがらを土中に埋(うづ)み、僧、念比に囘向(ゑかう)ありて、皆々、歸らんとせしに、此妾(しやう)、孫兵衞をうづみし許(もと)に、

「つかつか。」

と行きて、塚の前を、三遍、

「くるくる。」

と廻りて、其儘、たふれ伏(ふし)けるが、たちまち、大き成蛇となりて、死(しゝ)たりける。

 人々、おどろき、

「こは、いかに。」

と、あはてけるが、此僧、つくづくみて、

「かゝる例(ためし)、なきにしもあらず、共に土中(どちう)に埋むべし。」

と。

 仰せに任せ、孫兵衞を埋みし傍(そば)に埋ませければ、此僧、此女が爲に、煩惱除災の法を行(おこな)ひ、念比に吊(とぶら)はれしに、此冢(つか)[やぶちゃん注:「塚」の異体字。]より、忽ち、木欒樹(もくげんじゆ)、おひ出(いで)たり。

「扨は。即座に佛果を得たるに疑ひなし。」

とて、此僧の奇瑞を、皆々、有り難くおもはれけるとかや。

 ふしぎなりし事ども也。

 

太平百物語卷之二終

[やぶちゃん注:「備前の國金山(かなやま)」現在の岡山県岡山市北区金山寺(かなやまじ)か(グーグル・マップ・データ)。本篇に登場する寺は固有寺名を示さないが、ここには古刹天台宗銘金山金山寺(きんざんじ/かなやまじ)がある(近世には銘金山観音寺遍照院とも呼ばれていた。本尊は千手観音)。

「播磨」現在の兵庫県南西部。

「木欒樹(もくげんじゆ)」ムクロジ目ムクロジ科モクゲンジ属モクゲンジ Koelreuteria paniculata。落葉高木。小学館「日本国語大辞典」によれば、「木槵子」「木患子」とも書き、本州西部の日本海側や朝鮮・中国に分布し、寺院に多く植えられる。高さ十メートルに達し、葉は奇数の羽状複葉で四~七対の小葉からなる。各小葉は長さ五~八センチメートルの卵形で、縁に二重の鋸歯がある。初夏、黄色い小さな四弁花が円錐状に集まって咲く。果実は袋状で、長さ約四センチメートル、初め紅色で、後に黒色に変わる。種子は黒色で堅く、数珠玉にする。和名は「ムクロジ」の漢名の「無患子」を誤用したもので、その字音に由来する。漢名は「欒樹」「木欒子」「欒華」。和名異名は「せんだんばのぼだいじゅ」「もくれんじ」「むくれにし」「むくれんじのき」「もくげんじゅ」「もくれんず」「もくらんじ」等。グーグル画像検索「Koelreuteria paniculataをリンクさせておく。]

牧童 伊良子清白 (ハイネ訳詩/附・生田春月及び片岡俊彦訳)

 

牧 童

 

牧のうなゐぞ帝王(みかど)なる

綠の丘ぞ御座(おまし)なる

天(そら)に輝く天津日は

かれが金(こがね)の冠(かぶり)なり

 

羊は伏(こや)す足の下

やさしき君に媚ぶるなり

犢(こうし)は騎士の役目にて

いとほこりがにはねめぐる

 

山羊は俳優(わざおぎ)大宮の

吹くや笛竹鳥の群

鈴をならすは牝牛にて

いづれもをかし雅樂寮(うたのれう)

 

ゆかし瀧水ひびき來て

樅(もみ)の梢のうち戰(そよ)ぎ

歌男(うたを)歌女(うため)にかこまれて

うまいしませる山の帝(きみ)

 

狗(いぬ)の大臣(おとど)は其ひまを

國司るつとめあり

警(いまし)め顏に吠ゆる聲

あたりの山に木魂して

 

ねたらで醒めし小帝王(こみかど)は

「國をさむるはむつかしや

麿は歸らむわが宿に

可愛(かな)し后(きさき)の傍(かた)へに」と

 

「可愛し后の腕(ただむき)に

まろが頭(かうべ)を橫へむ

かれの涼しき眼のうちに

はてなき領(うなじ)をよこたへむ」

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇六)年十月発行の『文庫』初出であるが、そこでは総標題「夕づゝ(三)(Heine より)」の下に、先の「山彥」「金」及び本「牧童」の三篇から成る(署名「清白」)。ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の訳詩で、本篇は一八二一年作のDie Bergstimme(「羊飼いの少年」・一八二七年刊行の詩集Buch der Lieder(「歌の本」所収)のそれである。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。

「うなゐ」はここでは少年の意。

 初出は表記違い以外では、私は大きな異同を認めない。

 参考までに、まず、ハイネの紹介に尽力した詩人生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年:入水自殺)の訳を、PDサイト「PD図書室」のこちらから引用させて貰う。但し、漢字の一部を正字化した。引用元の底本は昭和一〇(一九三五)年二十四版新潮文庫刊生田春月譯「ハイネ詩集」である。

   *

 

  牧 童

 

羊飼ひの子は王樣だ

綠の丘はその玉座

頭にかゝるお日さんは

大きな金の冠(かんむり)だ

 

その足もとには赤い斑(ぶち)の入つた小羊が

やさしい阿諛者(ごきげんとり)が寢そべつてゐる

犢(こうし)のむれは騎士(カヴアイリル)

大股に威張つて歩き廻る

 

仔山羊はみんなお抱へ役者

そして小鳥と牝牛とは

お抱へ樂師の一組で

笛を吹いたり鈴を鳴らしたりする

 

氣もちよく響くその音樂に

瀑布(たき)の轟き、樅の樹の

氣もちのよいそよぎが調子を合せるのを

聞きながら王はすやすや眠り入る

 

その間にも大臣の

犬は警備を怠らず

そのいさましい鳴聲は

國の四方に反響(こだま)する

 

若い王樣は眠さうに呟いて言ふ

『國を治めるのは實にむづかしい

あゝ、早く 家うちへ歸りたい

女王のところに歸りたい!」

 

女王の腕にやはらかく

この王の頭をやすめたい!

女王のきれいな眼の中に

僕の無限の國はある!』

 

   *

 次に所持する片山敏彦氏(昭和三六(一九六一)年没でパブリック・ドメイン)の訳を示す(「ハイネ詩集」昭和四一(一九六六)年改版新潮文庫刊)。

   *

 

  牧 童

 

牧童は王さま。

みどりの丘はその玉座。

頭の上の太陽が

大きな金のその王冠。

 

足元に羊たち。

赭(あか)いまだらのある、柔らかい声のお世辞屋。

犢(こうし)たちは騎士。

この騎士たちは大威張りで歩きまわる。

 

小さな山羊(やぎ)らは王室劇場の俳優。

横笛を吹く小鳥らと

頸(くび)の鈴を鳴らす牝牛(めうし)らとは

楽士たち。

 

歌声と楽器のおとのおもしろさ。

それに可愛いざわめきを添える

滝つ瀬と樅(もみ)の樹立。

聴きながら王さまはお眠りになる。

 

そのあいだに宰相である犬が

統治を怠ってはならぬ。

その唸(うな)るような吠声(ほえごえ)が

あたりに木魂(こだま)する。

 

若い王さまが眠たい声で口ずさむ。

「治める仕事はむつかしい。

早う家に帰って

妃(きさき)の傍に居りたいものじゃ。

 

妃の腕に抱かれると

王の頭はゆっくり眠れる。

妃の奇麗な瞳の中に

わしの広い広い国がある」

            Die Bergstimme

   *]

金 伊良子清白 (ハイネ訳詩)

 

 

めぐしき金(こがね)わが金

汝(なれ)は何處(いづこ)に旅立ちし

小川の水にうかぶなる

金(こがね)の色のうろくづの

中にやあそぶわが金

 

可愛(かな)し綠の牧の上

金のいろの野の花の

露にや光るわが金

 

雲を掠めて線(すぢ)をひく

金の色の村鳥の

羽にやひそむわが金

 

夜な夜な空にゑみ開く

金の色の星屑の

中にやかかるわが金

 

あはれ汝(いまし)よわが金

小川の浪に鰭(ひれ)振(ふ)らず

綠の故に輝かず

靑き雲間に漂はず

あかき御空にほほゑまず

悲しや一人金貸の

鋭き爪に攫(つか)まれにけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇六)年十月発行の『文庫』初出であるが、そこでは総標題「夕づゝ(三)(Heine より)」の下に前の「山彥」及び「金」、次の「牧童」の三篇から成る(署名「清白」)。されば、本篇はハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の訳詩。本篇は英訳をこちらで捜し得たが、私はドイツ語が出来ないので、そこから原詩を見出すことは出来なかった。

 初出は表記違い以外では、第四連の最終行が「中に光らすわが金」となっているのが、大きな異同である。]

山彥 伊良子清白 (ハイネの訳詩/参考付加・片山敏彦氏訳「山の声」)

 

山 彥

 

だくをゆるめて谷路行く

武士(もののふ)一人駒の上

「腕にすがらん戀人の

さらずば行かむ墓の下」

木魂の聲の答ふらく

「さらずば行かむ墓の下」

 

重き吐息をもらしつつ

武士なほもうたせ行く

「さらば墓場にわれ行かむ

墓場の下に休息(やすみ)あり」

木魂の聲の答ふらく

「墓場の下に休息あり」

 

なやみにみつる頰の上に

淚の珠のまろびつつ

「墓場の外に家ぞなき

われは墓ばをこのむなり」

木魂の聲の答ふらく

「われは墓場をこのむなり」

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇六)年十月発行の『文庫』初出であるが、そこでは総標題「夕づゝ(三)(Heine より)」の下に本「山彥」以下に電子化する「金」「牧童」の三篇から成る(署名「清白」)。されば、これらはドイツのユダヤ人詩人クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の訳詩で、本篇は一八二一年作の“Die Bergstimme”(「山の声」・一八二七年刊行の詩集“Buch der Lieder”(「歌の本」所収)のそれである。原詩はこちら(リンク先はドイツ語の「ウィキソース」)。

 初出は表記違い以外では、第三連の初行が「なやみにみつる頰の上は」となっているのが、大きな異同である。

 参考までに、以下に所持する片山敏彦氏(昭和三六(一九六一)年没でパブリック・ドメイン)の訳を示す(「ハイネ詩集」昭和四一(一九六六)年改版新潮文庫刊)。

   *

 

  山 の 声

 

山のはざまを騎士が行く、

陰気に静かな馬の足音。

「俺は今、恋しい人の腕へ行くのか?

それとも暗い墓へ行くのか?」

山の声(こえ)がそれに応(こた)える――

「暗い墓へさ」

 

騎士はそのまま進んで行くが

重い吐息をついて言う。――

「早や俺は暗い墓へ行くというのか――

それも宜(よ)かろう。墓の中には憩いがある!」

山の声がそれに答える――

「墓の中には憩いがあるさ」

愁いに充ちた騎士の頰には

 

一しずく淚が落ちた。

「俺のために憩いのあるのは墓穴だけか!

それなら墓もわるくはなかろう」

山の声が空(うつ)ろに答える!

「そうさ、墓もわるくはないさ」

              Die Bergstimme

   *]

2019/05/03

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(18) 「駒形權現」(4)

 

《原文》

 淺草駒形堂ノ觀音ハ淺草寺ノ觀音ト昔ハ何カノ關係アリシモノニハ非ザルカ。二百年來ノ江戶人ハ、アマリニ筆豆ニシテ却リテ昔ノ事ヲ不明ニシタル傾キアレド、少ナクモ此堂地ガ往古淺草觀音ノ境内ナリト云フ記事ハ信ズルニ足レリ〔地名辭書〕。【舞々】然ルニコノ淺草寺ノ片脇田原町ニ、近キ頃マデ田村八太夫ト云フ關東ノ舞々ノ總取締居住セリ。舞々ハ所謂陰陽師ノ一分派ニシテ、又神事舞太夫トモ稱ヘ、各地ニ二戶三戶ヅツ村ノ端ニ住ミテ、常ハ普通ノ百姓ト同ジク農商ヲ營ミ、祭禮ノ折バカリ社頭ニ出デテ舞ヲ舞フヲ役トス。又賴マレテ祈禱ヲ爲ス。色々ノ神ノ繪札ヲ配リテ米錢ヲ貰フ。【配札】其女房ハ多クハ例ノ梓巫(アヅサミコ)ニシテ、此モ亦札ヲ配ルヲ以テ職業トスル者ナリ。【竈神】田村八太夫ノ書上ニ依レバ、後世ノ舞々ガ配ル札ハ大黑ノ像、靑襖(スアウ)ト稱スル繪馬及ビ竈神ノ札ノ三種ナリト云フニ〔嬉遊笑覽〕、【猿馬ヲ牽ク繪札】一說ニハ舞々本來ノ家職トシテ配ルハ日曆十二神ノ札及ビ神馬ノ札、梓巫ガ家職トシテ配ルハ繪馬ト稱シテ猿ノ馬ヲ牽ク繪札ナリトモ云ヘリ〔寺社捷徑〕。【三社權現】右ノ如ク配札ノ種類モ更ニ一定セズ、現ニ田村ガ配下タル上州高崎新町(アラマチ)ノ神事舞太夫ノ如キハ、彼等ノ奉仕スル三社權現ノ御札ナリト稱シテ之ヲ村々ニ配リ居タリ〔高崎志〕。【習合神道】三社權現ハ淺草觀音ノ境内ニモ在リ、田村八太夫實ニ此ガ神主タリキ。田村ノ神道ハ昔トシテハ一寸奇拔ナル神道ナリ。天思兼命ノ神傳ナリト稱シテ、白川吉田ニ家ノ支配ヲ受ケズ。別ニ舞太夫梓巫ノ輩ヲ糾合シテ一派ノ習合說ヲ立テ居タリ〔續甲子夜話七十三〕。【濱成兄弟】田村派ノ主張ニテハ、淺草ノ三社權現ノ祭神ハ往古宮戶川ノ流ニ於テ一寸八分ノ觀音像ヲ感得セシ檜熊濱成武成三人ノ兄弟ナリト稱スレドモ、之ヲ信用スルハ餘程ノ骨折ナリ。檜熊ハ元來濱成武成兩人ノ苗字デアル筈ナリ。無理ニ三ツニ切リテ三社ニ附ケ合セタル形アリ。之ニ比ブレバ高崎ノ三社權現ニ於テ三社トハ荒神ト駒形ト大黑トナリト云フ方寧ロ無頓著ニシテ面白シ。勿論此トテモ驚クニ堪ヘタル烏合ノ衆ナレドモ、之ニ由リテ元祿以後田村氏ノ定メタル三種ノ配札ナルモノノ中、靑襖ノ像ト云フ繪札ノ、モト駒形信仰ヨリ出デタルモノラシキコトヲ想像シ得ル便リトハナル也。【大黑】高崎ノ三社神中ノ大黑、田村ノ三種ノ配札中ノ大黑ノ像ハ取分ケテ不調和ノ感アレドモ、此ハ舞太夫ノ徒ガ其商賣敵タル惠比須願人(エビスガンニン)ト稱スル別派ノ太夫ニ對抗スル爲ノ一策トモ考フルコトヲ得べシ。元祿頃ノ册子ニ舞々ガ歲ノ暮ニ困リ、當時流行ノ大黑舞太夫ニ早變リシテ錢儲ケヲシタル話モ思ヒ合サルヽナリ〔嬉遊笑覽〕。大黑ハ以前ノ摩多羅神ノ思想ヨリ推スモ必ズシモ臺所ト緣無シトハ言ヒ難シ。【竈神】荒神ト駒形トニ至リテハ竃ヲ中ニ置キテ正シク攻守同盟ノ間柄ナリ。確カナルコトハマダ知ラザレド、カノ靑襖ノ像ナルモノモ、或ハ「エビスサマノカオカクシ」トモ云ヒテ、後ニハヤハリ貰ヒ受ケテ竃ノ側ニ貼置クべキモノナリキト云ヘリ〔山中笑翁談〕。竈ト馬トノ深キ關係モ、或ハ同ジ陰陽師ガ古クヨリ二種ノ札ヲ一緖ニ取扱ヒ來タリシガ爲ニ、イツト無ク理窟ヲ附シテ之ヲ結ビ合セタル者トモ見ルコトヲ得。何レニシテモ舞々ノ如キ特殊ノ巫祝ガ駒形信仰ノ傳播ニ參與シテアリシコトハ注意スべキ事實ナリ。今日ハ箱根以西ノ國々ニ於テハ、馬ノ神ノ崇拜ハ盛ナレドモ駒形ノ名ハ關東ホドニハ行ハレテアラズ。【駒形神人】然ルニ南北朝時代ノ記錄ニハ山城男山ノ八幡宮ニモ駒形神人ナル者ノ有リシコトヲ傳フ〔園太曆正平元年八月十二日條〕。而シテ男山ノ八幡ハモト九州ヨリ上リタマヒシ神ナリ。此故ニ陸中ノ駒形神社ノ現況ヲ以テ昔ノ駒形ノ眞相ヲ類推セントスルハ、返ス返スモ道理ナキコトニテ、「オコマサマ」ノ特色ハ必ズシモ之ヲ全國ノ馬ノ神ニ伴フモノトスル能ハザルモ亦明白ナリ。

 

《訓読》

 淺草駒形堂の觀音は、淺草寺の觀音と昔は何かの關係ありしものには非ざるか。二百年來の江戶人は、あまりに筆豆にして、却(かへ)りて、昔の事を不明にしたる傾きあれど、少なくも、此の堂地が、往古、淺草觀音の境内なりと云ふ記事は信ずるに足れり〔「地名辭書」〕。【舞々(まひまひ)】然るに、この淺草寺の片脇、田原町に、近き頃まで、田村八太夫と云ふ關東の「舞々」の「總取り締り」、居住せり。「舞々」は、所謂、陰陽師の一分派にして、又、「神事舞太夫(じんじまひいたいふ)」とも稱へ、各地に二戶三戶づつ村の端に住みて、常は普通の百姓と同じく、農商を營み、祭禮の折りばかり、社頭に出でて舞を舞ふを役とす。又、賴まれて祈禱を爲す。色々の神の繪札を配りて米錢を貰ふ。【配札(くばりふだ)】其の女房は多くは例の梓巫(あづさみこ)にして、此れも亦、札を配るを以つて職業とする者なり。【竈神】田村八太夫の書上(かきあげ)に依れば、後世の「舞々」が配る札は「大黑の像」、「靑襖(すあう[やぶちゃん注:現代仮名遣「すおう」。])」と稱する繪馬及び「竈神」の札の三種なりと云ふに〔「嬉遊笑覽」〕、【猿馬を牽く繪札】一說には、「舞々」、本來の家職として配るは、「日曆十二神」の札及び「神馬」の札、梓巫が家職として配るは、「繪馬」と稱して、「猿の馬を牽く繪札」なりとも云へり〔「寺社捷徑」〕。【三社權現】右のごとく配札の種類も更に一定せず、現に田村が配下たる上州高崎新町(あらまち)の「神事舞太夫」のごときは、彼等の奉仕する「三社權現の御札」なりと稱して、之れを村々に配り居(ゐ)たり〔「高崎志」〕。【習合神道】三社權現は淺草觀音の境内にも在り、田村八太夫、實に此れが神主たりき。「田村の神道」は、昔としては、一寸(ちよつと)、奇拔なる神道なり。天思兼命(あめのおもひかねのみこと)の神傳なりと稱して、白川(しらかは)・吉田に家の支配を受けず。別に舞太夫・梓巫の輩(やから)を糾合(きうがふ)[やぶちゃん注:現代「きゅうごう」。「糾」は「縄を縒(よ)り合せる」の意で、 ある目的の下に人々を呼び集めること。一つに結集すること。]して一派の習合說を立て居(ゐ)たり〔「續甲子夜話」七十三〕。【濱成兄弟】田村派の主張にては、淺草の三社權現の祭神は、往古、宮戶川(みやとがは)[やぶちゃん注:現在の隅田川の一部、浅草近辺を流れる部分の古名。]の流れに於いて、一寸八分[やぶちゃん注:五センチ四ミリ。]の觀音像を感得せし檜熊(ひのくま)・濱成(はまなり)・武成(たけなり)三人の兄弟なりと稱すれども、之れを信用するは餘程の骨折りなり。檜熊は、元來、濱成・武成兩人の苗字である筈なり。無理に三つに切りて、三社に附け合はせたる形あり。之れに比ぶれば、高崎の三社權現に於いて三社とは、荒神(あらがみ)と駒形と大黑となり、と云ふ方(はう)、寧ろ、無頓著にして面白し。勿論、此れとても驚くに堪へたる烏合の衆なれども、之れに由りて、元祿以後[やぶちゃん注:一六八八年以降。]、田村氏の定めたる三種の配札なるものの中、「靑襖(すあう)の像」と云ふ繪札の、もと、駒形信仰より出でたるものらしきことを想像し得る便(たよ)りとはなるなり。【大黑】高崎の三社神中の大黑、田村の三種の配札中の大黑の像は、取り分けて不調和の感あれども、此れは、「舞太夫」の徒が、其の商賣敵(しやうばいがたき)たる「惠比須願人(えびすがんにん)」と稱する別派の「太夫」に對抗する爲めの一策とも考ふることを得べし。元祿頃[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の册子に、「舞々」が歲の暮に困り、當時、流行の「大黑舞太夫」に早變りして錢儲けをしたる話も思ひ合はさるゝなり〔「嬉遊笑覽」〕。大黑は、以前の摩多羅神(またらじん)の思想より推(お)すも、必ずしも臺所と緣無しとは言ひ難し。【竈神(かまどがみ)】荒神(あらがみ)と駒形とに至りては、竃を中に置きて、正しく攻守同盟の間柄なり。確かなることはまだ知らざれど、かの靑襖(すあう)の像なるものも、或いは「えびすさまのかおかくし」とも云ひて、後には、やはり、貰ひ受けて、竃の側(そば)に貼り置くべきものなりきと云へり〔山中笑翁談〕。竈と馬との深き關係も、或いは、同じ陰陽師が古くより二種の札を一緖に取り扱ひ來たりしが爲めに、いつと無く、理窟を附して、之れを結び合はせたる者とも、見ることを得。何れにしても、「舞々」のごとき特殊の巫祝(ふしゆく)が、駒形信仰の傳播に參與してありしことは注意すべき事實なり。今日は箱根以西の國々に於いては、馬の神の崇拜は盛んなれども、駒形の名は關東ほどには行はれてあらず。【駒形神人】然るに、南北朝時代の記錄には山城男山(をとこやま)の八幡宮[やぶちゃん注:京都府八幡市八幡高坊にある石清水八幡宮(グーグル・マップ・データ)の旧称。]にも、駒形神人(こまがたしんじん)なる者の有りしことを傳ふ〔「園太曆(ゑんたいりやく)」正平元年[やぶちゃん注:北朝の貞和二年でユリウス暦一三四六年。]八月十二日條〕。而して男山の八幡は、もと、九州より上りたまひし神なり。此の故に、陸中の駒形神社の現況を以つて昔の駒形の眞相を類推せんとするは、返(かへ)す返(がへ)すも道理なきことにて、「オコマサマ」の特色は、必ずしも之れを全國の馬の神に伴ふものとする能はざるも、亦、明白なり。

[やぶちゃん注:「淺草寺の片脇、田原町」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。駒形橋西橋詰西南西直近。

「田村八太夫」小学館「日本大百科全書」の「神事舞(じんじまい)」に、『神事のときに舞う舞。仏事のときに舞う舞に対していい、特別に神事舞という定まった舞があるわけではない。舞楽』・田楽・『風流(ふりゅう)』・能・『獅子舞(ししまい)』・『神楽(かぐら)など』、『神事の際に舞われた場合にはすべて』、「神事舞」と『いい、同じ芸能でも神事以外の場所で舞われた場合には』、「神事舞」とは『いわない。芸能全体をさすときには』、「神事芸能」と『よび、舞に重点を置いてよぶときには』、「神事舞」と『いう。また、近世後期、江戸・浅草に住した田村八太夫』及び『その系統の人々を』「神事舞太夫」と『いい、彼らによって舞われた里神楽や曲舞(くせまい)も』「神事舞」と』いった。宮崎県東臼杵(ひがしうすき)郡椎葉(しいば)村不土野(ふどの)』(ここ。グーグル・マップ・データ)『の神楽では、神楽を始める最初に式三番(しきさんば)といって神聖視されている舞』を『数番を演ずるが、それを』「神事舞」と『いっている』とある(下線太字は私が附した)。

「靑襖(すあう)」絵馬や御札としてのそれは不詳。小学館「日本国語大辞典」にも不載で、ネット検索でも掛かってこない。後注で示すように「嬉遊笑覧」や松浦静山の「続篇甲子夜話」にも出るであるが、画像なども見当たらない。お手上げ。識者の御教授を乞う。これが如何なる物であるかが判らないと、柳田國男の「田村氏の定めたる三種の配札なるものの中、「靑襖(すあう)の像」と云ふ繪札の、もと、駒形信仰より出でたるものらしきことを想像し得る便(たよ)りとはなるなり」という根拠が今一つ私にはピンとこないのである。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)が江戸後期相当の風俗習慣・歌舞音曲などについて書いた随筆。文政一三(一八三〇)年刊。その「巻五下」の掉尾に(所持する岩波文庫二〇〇四年刊を用いたが、恣意的に漢字を正字化した)、

   *

○神事舞とは、江戸處々の神社にて祭祀ある時、狂言をするに、さまざまの假面を着る。十二座・廿五座などゝてあり。田村八大夫[やぶちゃん注:ママ。]は、その内の頭たるもの也。その狂言を俗に神樂といふ。是には旋る伎[やぶちゃん注:「まはるぎ」か。トンボを打つことか?]なし。文政七年[やぶちゃん注:一八二四年。]の頃、其徒の内に、旋る伎をするもの、いづくよりか來りて、兩國廣小路にて觀せものにしたり。其頃、神田明神祭禮に、練物の内に雇はれて出。八大夫が配下の者也。八大夫は、『享保十三年[やぶちゃん注:一七二八年。]中三月十一日々記』に、「神事舞大夫、當四月朔日より七月晦日迄、町中相對勸化御免之趣申渡」とあり。其頃よりして今に靑襖の札といふものを、江戸町々の番屋に配り、初穗をとる事也(此事猶考あり。後にいふべし)。享保十二年丁未三月、菊岡沾凉、湯嶋天神社地にて萬句合[やぶちゃん注:「まんくあはせ」。]したる時、連歌師文裳「十二座のおどけや花の神慮」[やぶちゃん注:下五は「かみごころ」と訓じているか。]とあり。廿五座已後に增たるなるべし。

   *

「日曆十二神」不詳。「ひごよみじゅうにしん」(現代仮名遣)と読んでおく。その日の干支の十二支に仏教の十二神将を割り当てたものか?

「高崎新町(あらまち)」現在の群馬県高崎市あら町か(グーグル・マップ・データ)。この附近は江戸前期に加賀藩前田氏によって当地を通る街道(加賀街道)が開かれて宿場町が形成され、江戸中期には中山道の正式な宿場となった。

「三社權現は淺草觀音の境内にも在り」浅草寺本堂右隣にある東京最古とされる浅草神社(あさくさじんじゃ)(グーグル・マップ・データ)。現在も通称で三社権現と呼ぶ。ウィキの「浅草神社」によれば、『浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのまつち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)を主祭神』『とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・竹成の他のもう一柱の主祭神については諸説ある』『が、浅草神社では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった』。『社伝によれば、推古天皇』三六(六二八)年の三月十八日、『漁師の檜前浜成・檜前竹成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って』、『真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている』。『実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている』『明治の神仏分離により』、『浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治』五(一八七二)年に『郷社に列』した翌年、『現在の浅草神社に改称した』とある。

「天思兼命(あめのおもひかねのみこと)」一般には「思金神」「思兼神」で呼ぶことが多い。高御産巣日神(たかみむすびのかみ:高木の神格化か)の子。ウィキの「オモイカネ」によれば、『最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。国譲りでは、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後、天孫降臨で邇邇芸命に随伴した』。異名の一つ。八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)の『「八」を「多い」、「意」を「思慮」と解し、「八意」は思金神への修飾語、「思」を「思慮」、「金」を「兼ね」と解し、名義は「多くの思慮を兼ね備えていること」と考えられる』とある。

「白川」花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家。それによって受け継がれた神道の一流派を「白川神道」或いは「伯家(はっけ)神道」と呼ぶ。古来より、専ら、朝廷に伝わる祭祀の作法を口伝によって受け継いできた。詳しくはウィキの「伯家神道」を参照されたい。

「吉田」室町時代、京都吉田神社の神職吉田兼倶(かねとも)によって大成された神道の一流派「吉田神道(よしだしんどう)」を受け継いだ吉田家。反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる。詳しくはウィキの「吉田神道」を参照されたい。

『「續甲子夜話」七十三』以下。私は「甲子夜話」の電子化注を行っているが、遅々として進まぬ。当該条は「続篇甲子夜話」の「巻第七十三」の「梓神子(アヅサミコ)之事付(つけたり)追記」」以下。同電子化ポリシーに合わせて平凡社「東洋文庫」版を参考に恣意的に正字化して示す。【 】は割注(時間を食うので詳しい注は附さない)。

   *

都下に梓神子と云者あり。是も昔よりのことと聞こへし。「葵上」の謠に、爰に照日(テルヒ)の神子(ミコ)と申て、正き梓(アツサ[やぶちゃん注:ママ。])の上手の候を召、生靈死靈のさかひを梓に懸させ申さばやと存候。頓て梓に御懸候へ」など云へり。又、只今梓の弓の音にひかれて現れ出たるをば、何なる者とか覺しめす。是は六條の御息所の怨靈なりなど謠ふ。さて今江都に有る梓神子は、其頭を田村八大夫と稱す。これ神道佛寺の配下にも非ず。自から一家の者なり。又其始を尋るに彼業の者この八大夫、龜井戶に居る同職八木左京なる者の話略に【この語略の中、鄙野且辨じ難き言あり。因て、唯聞くまゝに記して一々其說を成さず】、

習合(シフカフ)神道、神事舞大夫、梓神子は、神代天思兼命の神傳にして、古來より吉田、白川兩家の支配を受けずして、獨り職業相續する中、嘗て右大將賴朝卿の治世、其頭を鶴若孫藤次なる者に命じられ、是より實朝薨じ、北條執權のとき、頭を天野(テンノ)十郞と云しが、夫よりしては其次第混亂して年月移れるを、御當家御入國のとき、三州より幸岩勘右衞門と云者御供にて、梓の頭仰付られ、幸岩を幸松と更むべしと有りて、知行五百石を給はり、於玉ケ池のあたりに宅せしが、其後幸松勘大夫と稱せし者、身持宜しからず迚隱居仰付。子未だ幼ければ、田村八大夫の先祖へ後見すべしと命有りしに、彼の幸松が子も亦身持宜しからずして、家絕へ[やぶちゃん注:ママ。]、其職も無かりしが、其後古來の傳授廢業のことを歎き申上たれば、再び興業の 旨を寺社奉行戸田能州【これ元祿の頃なり。憲廟のとき】申渡し有て、八大夫の後祖支配頭に仰付られ、今に相續すと。

この田村、代々家督のときは、寺社奉行の内寄合に於て申渡し有り。

    右御免許の次第

 男子社役へ  職札  裝束免許

 女子梓神子へ 法令書 法服免許

 又、右職業の者は、男女とも武家に屬するゆゑ、評定所にては上訴訟へ出、奉行所評席にては、上椽通りの取扱なりと。

竈神靑襖(スアフ)札と稱るもの、古來より年々正五九月に、御府内御免にて、配り札のため、名代の者巡行すると云。

淺草三社權現の神主(カンヌシ)役を兼帶すること、以前よりのことと云。

正月五日流蛸嶋【この流鏑馬、何(イ)かなる式にや。定めし淺草寺境内にて興行することならん。委しくは聞かまほし】。三月十七日十八日、境内を神輿(ミコシ)渡すとき、この神靈移し神靈還しと云ことありて、この神事を八大夫勤ると云【神輿とは、三社の御輿ならん】。

六月十五日、天下泰平の神樂と謂を行ふ。この神樂を俗に天下天(テンガテン)と稱す。このとき舞大夫の用ゆる翁面に、元久二年と記しあり。古物なり【考るに源實朝の時代】。かの習合神道の舞神樂は、一切他には無し。每年六月八日一七日潔齋して、社人八大夫宅に寄り、行入(ギヤフニフ)祓神樂と云を執行す。當日に淺草寺へ一同に會し、玄關より社人馬上にて出、觀音堂前の神樂殿にて神樂す。

前記せし嶋若孫藤次の家は、今は鶴岡八幡の社附にて、かの神事のときは前驅の役を勤ること佳例にして、又彼の家傳に、北條時政の執達梶原景時の筆なる、賴朝卿袖判の文書有りと云。この家も今は田村が配下になりしと。

又梓神子になる女は、七歲の頃より十三歲までの中、

修法の次第を皆傳せざれば、神子の業つとまらずと云。

右の略は、上屋鋪の臣中村某、天保卯年冬より、翌辰年春までに聞けるなり。

   追記

正月五日流鏑馬のこと、何かなる式やと聞かまほしけれど、由しも無かりしに、淺草寺の僧は觀たるべしと。堂守れる者に問たれば、云には、早春五日の爽旦なれば、誰も來ること稀にして、知る人も少なり、其次第は、三社の神前に於て行ふ。射手は社人一騎にして、烏帽子に淨衣着、檜的を竹に挾たるを人持て、東方と明方[やぶちゃん注:「あきのはう」で、所謂、「恵方」、その年の福徳を司るとされる歳の徳神がいるとする方角で、年によって方角が異なる。]と鬼門とに、三所に向ひて射る。弓は社人のことゆゑ、弱きまゝ、若し矢觸ても恐れなきを專とせりと。實に名のみにして神前の禮なり。武門の法式にあらず。

   *

「高崎の三社權現」これは現在の群馬県高崎市赤坂町にある高崎神社(グーグル・マップ・データ)のことを指しているものと思う。但し、ここの最初に奉斎されたのは実際には熊野三社であるらしい。

「惠比須願人(えびすがんにん)」夷願人で所謂、宗教者から零落した「願人坊主」の一派か。「願人坊主」とは僧形の大道芸人で、本来は、依頼者に代わって寺社を代参したり、願掛けや講中の代待(だいまち)・代垢離(だいごり)をした宗教的代願職を行う者を指した(元来は江戸東叡山寛永寺の支配下で僧侶の欠員を待って僧籍に入ることを願っていた者たちを指すとする説もある)。江戸時代には藤沢派(羽黒派)と鞍馬派の二派があり、江戸の市街地で集団生活をしていた。元禄頃(一六八八年~一七〇四年)になると、馬喰(ばくろう)町や橋本町に住み、天保頃(一八三〇年~一八四四年)には芝新網町・下谷山崎町・四谷天竜寺門前附近に居住していた。判じ物や各種の怪しげな祈祷・庚申の代待等を請け負って行う一方、諸芸を見せては乞食(こつじき)した。「半田行人(はんだぎょうにん)」「金毘羅行人」「すたすた坊主」「まかしょ」「わいわい天王」「おぼくれ坊主(ちょぼくれ、ちょんがれ)」「阿呆陀羅経(あほだらきょう)」「住吉踊り」などの多様な異名があり、これらの名が彼らが見せて物貰いをした大道芸の多種多様であったことを物語っている。それらの芸は、滑稽・諧謔に富み、卑俗なものであったため、民衆に親しまれた。門付(かどづけ)の祭文(さいもん)も語り、後の「浪花節」や「かっぽれ」に影響を与え、歌舞伎にもその風俗芸能が取り入れられた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。そうした中の恵比須の格好をして予祝った連中のことであろう。次注の「嬉遊笑覧」の引用も参照されたい。そこにも「非人」とある通り、被差別民であった。

「元祿頃[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の册子に、「舞々」が歲の暮に困り、當時、流行の「大黑舞太夫」に早變りして錢儲けをしたる話も思ひ合はさるゝなり〔「嬉遊笑覽」〕」やはり同じく「巻五下」に出る。前と同じ仕儀で示す。【 】は割注のような小字部分。

   *

○大黑舞は「滑稽雜談」に、「悲田寺四ケ所の垣外の類、大黑天の姿を摸し、面をかぶり、頭巾を着て、民間の門々に歌ひ舞ふ。年々嘉祝の詞を以て新作して唄ふ故に、此唱歌をも大黑舞といふ」といへり。按るに、大黑舞は左義長より起る(左義長の條見倂すべし)。「海音が淨るり」に、「傾城ごとの起りより、大黑まひの鳥追のと世上のさたにものつたれば」といへるをみれば、其時の世間の事を作り唄ひたりとみゆ。「歌舞妓事始」に、大坂の芝居の事をいひて、「正月に至て大黑舞といふものを兩人出てまふ。もと是美濃國より出る。民家にて春のことぶきをなす。これをうたふ」といへり。美濃國の舞まひの事、前條にいへり。是なるべし。又、「世間胸算用」に、「隣には舞まひ住けるが、元日より大黑まひに商賣をかへければ、張貫の面・槌ひとつにて、正月中は口過[やぶちゃん注:「くちすぎ」。糊口を糊すること。]すれば、えぼし・びたゝれ・大口はいらず」といふことみゆ【茄子の枯るゝを、むかしよりまふといふ。今も物終るを仕舞といへり。まふとは仕まふの略と聞ゆ。然るに、その枯れぬまじなひに錢を一文その木につるす。是はむかし、舞まひ一錢にては舞はぎりし故也】。「梅津の長者物語繪詞」に、「大黑がまふ處、一に俵をふまへ云々」あり。「夷曲集」序に、「大黑の能をきくに、一に俵をふまへ、二ににつこと笑ひ、三に三界の福壽を、袋一はいにいれ云々」。「雅筵醉狂集(がえんすいきやうしふ)」【大黑の扇を持て、米五俵ふまへたる處の繪】、「ふくろより扇めづらし米五俵五ついつもの圖にはかはりて」。此かぞへ歌古きを知べし。其磧(きせき)が「賢女の心粧」に、京師河東裏借屋のとをいふに、「夫は粟島大明神の御影で過れば、女はおふく[やぶちゃん注:「おたふく」の脱字か。]の面をかけて、大黑舞に出て、女夫ゆるりと暮せば云々」。江戶にはたまたま夷子(えびす)・大黑のまねして來る乞丐(こつがい)あれ共、定りたる時はなし。たゞし吉原町へ、正月六日より大よそ二月初迄も大黑舞とて非人共來て、種々の物まねをなす。大黑舞はかたばかりにて、芝居狂言の學び也。是も近世の始りごとなり。

   *

ここで喜多村が引いた、井原西鶴作の浮世草子で町人物の代表作とされる「世間胸算用(せけんむねさんよう)」は元禄五(一六九二)年刊である。同書の副題はそれこそ「大晦日は一日千金」である。引用は「巻一」の第二話「長刀(なぎなた)は昔の鞘」の一節。確認した新潮社日本古典集成の頭注では「舞々」について、『幸若舞(こうわかまい)の大道芸人。烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)・大口(おおぐち)の袴(はかま)を着け、幸若の詞章を唱えながら舞う』とする。

「摩多羅神(またらじん)」ウィキの「摩多羅神」を引く。或いは「摩怛利神(またりしん)」とも称し、『天台宗、特に玄旨帰命壇』(げんしきみょうだん:嘗つて天台宗に存在した一派。後に淫祠邪教扱いされ、江戸時代には廃絶したとされる)『における本尊で』、「阿弥陀経」及び『念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる』。「渓嵐拾葉集」(鎌倉末の仏教書。比叡山西塔北谷の別所黒谷にいた光宗(こうしゅう 建治二(一二七六)年~観応元/正平五(一三五〇)年の著)の第三十九『「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている』。『しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる』。『この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)の二童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒と煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという』。『江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった』。『また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる』。『一般的にこの神の形象は、主神は頭に唐制の頭巾を被り、服は和風の狩衣姿、左手に鼓、右手でこれを打つ姿として描かれる。また左右の丁禮多・爾子多の二童子は、頭に風折烏帽子、右手に笹、左手に茗荷を持って舞う姿をしている。また中尊の両脇にも竹と茗荷があり、頂上には雲があり、その中に北斗七星が描かれる。これを摩多羅神の曼陀羅という』。『なお、大黒天と習合し』、『大黒天を本尊とすることもある』とある。

「園太曆(ゑんたいりやく)」中園太政大臣と称された南北朝時代の公卿洞院公賢(きんかた 正応四(一二九一)年~延文五/正平一五(一三六〇)年:北朝方の重鎮として光厳院の院執事となり、左大臣・太政大臣を歴任した)の日記。

「男山の八幡は、もと、九州より上りたまひし神なり」石清水八幡宮は平安前期の貞観元(八五九)年に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国宇佐神宮(現在の大分県宇佐市)にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌年に清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。]

太平百物語卷二 二十 本行院(ほんぎやうゐん)の猫女にばけし事

Hongyouinnnoneko



   ○二十 本行院(ほんぎやうゐん)の猫女にばけし事

 洛中に本行院とて日蓮宗あり。

 或日、旦那川口甚平(かはくちぢんへい)といふ者、廟參(びやうさん)しけるが、常々、上人としたしかりければ、方丈に通りけるに、折節、上人は他行(たぎやう)にて弟子も見へねば、そこら見廻しけるに、六十斗(ばかり)なる老女、出(いで)て、

「しばらく御待ち候へ。上人、もはや、歸り玉ひなん。」

といふほどに、

「さらば。」

とて、次の間に通りて、しばらく休息しゐけるに、唐紙(からかみ)の一重(ひとへ)あなたに、人のおほく立吟(たちさまよ)ふ体(てい)の聞へしまゝ[やぶちゃん注:ママ。]、甚平、そと、のぞきみれば、若き女、三人、打まじり居(ゐ)たり。

 甚平、大きにあきれておもふやう、

『上人は、日比(ひごろ)、佛(ぶつ)ぼさつのやうに沙汰し、われもふかく尊(たうと)みおもひしに、案に違(たが)ひし事哉(かな)。今は、かゝる人に逢(あひ)ても、詮なし。』

とおもひ、立ち歸らんと思ふ所に、上人、歸寺(きじ)ありて、甚平を見給ひ、

「是れは、能う[やぶちゃん注:「よう」。]問(とは)せ給ふ。まづ、是へ御入候へ。」

とて、甚平をいざなひ、彼の女共(ども)が遊び居ける所の唐紙、おしあけ、

「いざ、此方(こなた)へ。」

との給ふに、甚平、あやしみながら、座に付けば、爐(ろ)[やぶちゃん注:火鉢。]のほとりに、猫三疋、うづくまり居(ゐ)しが、上人を見て、裾(すそ)にもつれ、よろこびぬ。

 上人、可愛がりて、小僧をまねきて、物、くはせらる。

 甚平、此体(てい)をつくづく見て、

『扨は。此猫共が女に化(ばけ)たるならん。』

と、おそろしく思ひければ、上人の耳に口をよせ、有(あり)し次第をかたるに、上人も始(はじめ)て驚きたまひ、やがて、三疋の猫を傍(そば)近く呼寄(よびよせ)、仰(おほせ)けるは、

「汝等、今日(こんにち)、姿を女人(によにん)に化(ばけ)し事を知る。此ゆへに[やぶちゃん注:ママ。]、只今、いとまをとらする也(なり)。はやはや、寺を立去(たちさる)べし。」

と、にがにがしく宣へば、此猫ども、甚平が告(つげ)し事を悟り、ふかく恨(うら)むる氣色(けしき)にて、甚平をにらみ付、いづちともなく、失せにける。

 甚平は、夫(それ)より、彼(かの)猫どもが俤(おもかげ)、身にそひて、何となくいと苦しかりけるが、それよりして、ぶらぶらと煩ひ出だし、心力(しんりよく)甚(はなはだ)つかれて、終に、程なく、死(しし)けり。

「これ、偏(ひとへ)に此猫が執心なりける。」

とて、皆(みな)人、おそれ合(あひ)けるとかや。

[やぶちゃん注:「本行院」現在の京都府京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町に現存(グーグル・マップ・データ)する。同院は同所の日蓮本宗(現在)の本山多宝富士山要法寺(ようぼうじ)の境内内寺院。要法寺の開基は日尊。彼は延慶元(一三〇八)年に諸国を遍歴し、京都山城で法華堂を建てたのを創始とし、天文一九(一五五〇)年に日辰が上行院と住本寺を統合して要法寺が建立された。日蓮本宗では、宗祖日蓮・二祖日興・三祖日目とし、日尊が第四代とする。市街地の中に一万三千五百平方メートルもの境内を所有し、歴史ある建築が並ぶ、とウィキの「要法寺」にあった。]

さいはひ 伊良子清白

 

さいはひ

 

なさけもあつきたらちねを

みとるこどものさいはひよ

行きがてにする人皆の

直(なほ)き道こそ開けたれ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・「ちごのをはり」(後に先の「稚児の終焉」に改題)・「運命」「鹿」「よきねがひ」「秋」「君の園生に」「涅槃」・本「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。初出は有意な異同を認めない。]

涅槃 伊良子清白

 

涅 槃

 

死にぬ

愛慾のため

埋められて

君の腕(ただむき)

目ざめぬまた

其接吻(くちづけ)より

仰ぐは御空

なつかしき眼(まみ)

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・「ちごのをはり」(後に先の「稚児の終焉」に改題)・「運命」「鹿」「よきねがひ」「秋」「君の園生に」・本「涅槃」・「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。初出は最終行が、『懷しき眼(まなこ)』となっている以外に異同はない。]

君の園生に 伊良子清白

 

君の園生に

 

君の園生にわれは入る

今日はいづこぞ戀人よ

この寂しさを通ひくる

胡蝶はひとり羽ばたきぬ

 

さばれ彩(いろ)なす衣して

花のはたけは匀ひけり

西の微風(びふう)は物の香に

こもりてわれを吹きめぐる

 

近くおはすを身にぞしる

さびしさ今は花やぎぬ

沈默(しじま)の鄕(さと)の上こえて

目に見えぬもの漂へり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・「ちごのをはり」(後に先の「稚児の終焉」に改題)・「運命」「鹿」「よきねがひ」「秋」・本「君の園生に」・「涅槃」・「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。

「さばれ」は副詞(接続詞的にも使用する。「さはれ」と同じ)で「そうではあるが。とにもかくにも。さもあらばあれ」或いは「しかし。だが」に同じ古語。

 初出は第二連が、

   *

さばれ彩(あや)なす衣(ころも)して

花(はな)の畠(はたけ)は匂(にほ)ひけり

西の微風(さそひ)は物の香に

こもりてわれを吹きめぐる

   *

で、ここは朗読すると、初出の方がよい。他に有意な異同は認めない。]

秋 伊良子清白

 

 

行けかしさらば春のたのしみ

綠の御室黃金の太陽(ひかげ)

園のとよみのまだき底ひに

うれしき絃の響をぞきく

 

御魂(みたま)よきみはくりかへしつつ

今もおもふや春の戀歌

しほたれ樹立(こだち)見よやめぐり

なつかしき夢果(み)となりにき

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・「ちごのをはり」(後に先の「稚児の終焉」に改題)・「運命」「鹿」「よきねがひ」・本「秋」・「君の園生に」・「涅槃」・「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。

「果(み)」実(み)の意であろう。しかし初出とは印象が変わってくる。初出は以下。

   *

 

 

行けかしさらば春のたのしみ

綠の御室黃金の太陽(ひかげ)

園(その)のどよみのまだき底ひに

うれしき絃の響(ひゞき)をぞ聽(き)く

 

御魂(みたま)よきみはくりかへしつつ

今もおもふや春の戀歌

しをたれ樹立(こだち)見よやめぐり

なつかしき夢(ゆめ)果(はて)と成(な)りにき

 

   *]

よきねがひ 伊良子清白

 

よきねがひ

 

繁みみどりに

森緘(つぐ)みて

懸想(けさう)の二人(ふたり)

わかれを

われは見る

女(をみな)は男を

をとこはをみなを

ふりかへりつつ

浮霧二人を

隔てはつるまで

 

しげみ色づき

もり音立てて

うきぎりひらき

かつきえ

われは願ふ

旅行く君に

くはしめに

時し來ぬれば

よろこばしさの

またの逢瀨(あふせ)を

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・「ちごのをはり」(後に先の「稚児の終焉」に改題)・「運命」「鹿」・本「よきねがひ」・「秋」・「君の園生に」・「涅槃」・「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。

「くはしめ」「美(麗)(くは)し女(め)」で上代以来の美女を示す古語。

 初出は以下。

   *

 

よきねがひ

 

繁(しげ)みあらはに

森緘(つぐ)みて

懸想(けさう)の二人(ふたり)

わかれを

われは見る

女(をんな)はをとこを

男(をとこ)はをんなを

ふりかへりつつ

浮霧二人を

隔てはつるまで

 

しげみ色づき

もり音立てて

うきぎりひらき

かつきえ

われ願(ねが)ふ

旅行く君に

花(はな)なる人(ひと)に

時し來ぬれば

よろこばしさの

またの逢瀨(あふせ)を

 

   *]

鹿 伊良子清白

 

鹿

 

日の朝まだき獵人(かりびと)は

森と草野の鹿逐ひて

垣越し花の處女子(をとめご)が

物見てあるにいで逢ひぬ

駿馬(しゆんめ)に事や起りたる

さては蹄の傷きし

狩倉たてず叫(さけび)せず

何のささはり獵の子よ

 

谷越え嶺(を)こえ物恐(お)ぢて

鹿(か)の子ひまなしのがるるに

とまれ希有(けう)なるけだものよ

獵人ながく汝(なれ)を忘れじ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・「ちごのをはり」(後に先の「稚児の終焉」に改題)・「運命」・本「鹿」・「よきねがひ」・「秋」・「君の園生に」・「涅槃」・「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。初出は有意な異同を認めない(最終行末は「忘(わす)れし」だが、単なる初出の誤植と断じた)。]

運命 伊良子清白

 

運 命

 

運命(さだめ)よわれは御身をよく知れり

さいはひそはこの地(つち)のものならず

詩歌の夢たのみただ花ひらく

御身はわれに苦痛(いたみ)をかずたまふ

またそのいたみに添へてよき歌をも

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・「ちごのをはり」(後に先の「稚児の終焉」に改題)・本「運命」・「鹿」・「よきねがひ」・「秋」・「君の園生に」・「涅槃」・「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。初出は有意な異同を認めない。]

稚兒の終焉 伊良子清白

 

稚兒の終焉

 

あるかなきかの跡印(つ)けて

汝(なれ)は來りぬまた往きぬ

かりそめなりし地(つち)の客人(まれびと)

いづこより來ていづかたへ

われらただ知る

神の御(み)子よりかみのみてに

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に「かへし」・本「ちごのをはり」(初出標題表記はこれ)・「運命」・「鹿」・「よきねがひ」・「秋」・「君の園生に」・「涅槃」・「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。初出は有意な異同を認めない。]

かへし 伊良子清白

 

か へ し

 

優しき手もて手折りきて

われにたまひし花薔薇(さうび)

夕をまたでしをれけり

こころのなやみ死となりぬ

いまはたましひうかびいで

みもとへ歸る小さき歌

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが、総標題「きらゝ雲」として、先の「休ひの谷」を筆頭に本「かへし」「ちごのをはり」「運命」「鹿」「よきねがひ」「秋」「君の園生に」「涅槃」「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている(署名「清白」)。初出は以下。

   *

 

か へ し

 

優しき手もて手折(たを)り來(き)て

われに贈りし花(はな)さうび

夕(ゆふべ)を待(ま)たで凋(しを)れけり

こころのなやみ死となりぬ

いまはたましひうかびいで

みもとへ歸る小さき歌

 

   *]

休らひの谷 伊良子清白

 

休らひの谷

 

終焉(をはり)の夕陽(ゆふひ)金(こがね)の色に

雲の峯を峙て

アルペンの山なすあらはれぬ。その時よ

われはいくそたびとなく

淚もてとびぬ

かく美しき雲の間に

わがあこがるる微妙(いみ)じき

休らひの谷はありやと

 

[やぶちゃん注:初出は明治三九(一九〇六)年四月発行の『文庫』であるが(署名「清白」)、総標題「きらゝ雲」として、本「休ひの谷」を筆頭に、「かへし」「ちごのをはり」「運命」「鹿」「よきねがひ」「秋」「君の園生に」「涅槃」「さいはひ」(表記はママ)の十篇から成っている。初出は有意な異同を認めない。]

墓場をいでて 伊良子清白

 

墓場をいでて

 

墓場をいでて少女子は

盆の踊にまじりけり

白き衣を身にまとひ

萎(しを)れし花を手にもちて

 

踊の群は散りにけり

月靑白く秋の夜を

死にし少女ぞ踊るなる

むかしのうたをうたひつつ

 

月靑白く秋の夜を

萎れし花ぞ靡(なび)くなる

萎れし花も落ち散りて

少女は死にに死ににけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年十一月発行の『文庫』であるが(署名「清白」)、総標題「野菊」として、「さゝなきしては」「秋風白々」(この二篇はドイツ・ロマン派の詩人ウーラント(Johann Ludwig hland 一七八七年~一八六二年)の翻案詩らしい)と、先の「少女の死を悼みて」と本「墓場を出でゝ」(初出題表記はこれ)の四篇からなる。初出との詩篇本文の有意な異同を認めないが、大事なことは、初出ではこの詩篇の最終行は『少女は死にに死ににけりUhland のうたのこゝろを)』となっているのである。しかも、この前の「少女の死を悼みて」は明らかに親和性が強いのである。さればこそ私は「少女の死を悼みて」も本篇も、やはりウーラントの詩篇の翻案詩であると考えるものである。]

少女の死を悼みて 伊良子清白

 

少女の死を悼みて

 

何を悲しむ百合の花

なにをはぢらふ花さうび

なにをおそるる蓮のはな

夏の夕をただ一人

少女は行きぬうらぶれて

 

打かたぶける百合の花

紅なせる花さうび

色蒼ざめし蓮のはな

ふるひつ泣きつ悲しみつ

夏の夕を語るなり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年十一月発行の『文庫』であるが(署名「清白」)、総標題「野菊」として、「さゝなきしては」「秋風白々」と、本「少女の死を悼みて」「墓場を出でゝ」の四篇からなる。初出との有意な異同を認めない。但し、「さゝなきしては」「秋風白々」の二篇は底本全集では後の「未収録詩篇」(これは以前に述べたように詩集「孔雀船」と新潮社の「伊良子清白集」に未収録の意)の中で、『翻訳詩』として載っており、そこには後書きで『(Uhland のうたのこゝろを)』と記してあり、次に紹介する「墓場をいでて」(初出は「墓場を出でゝ」の標題)の初出のそれにも同じ添書きが最終行末にある。 「Uhland」はドイツ・ロマン派の詩人ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)で、の翻案詩らしい。さすれば、「さゝなきしては」「秋風白々」「墓場を出でゝ」はそのウーラントの詩篇の翻案詩であるとすれば、間に挟まれた本「少女の死を悼みて」のみが創作しであるというのは、やや不自然の印象を免れぬ。しかも次の「墓場をいでて」は本篇と強い親和性を感じさせる。これも私は『(Uhland のうたのこゝろを)』を詠じたものと思う。

2019/05/02

ヘクトールのわかれ 伊良子清白

 

[やぶちゃん注:ここからは昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の第五パート「夕づつ」の電子化に入る。「ゆふづつ」(現代仮名遣「ゆうずつ」)は「夕星」で、夕方、西の空に際立って明るく見える「宵の明星」、則ち、金星のこと。漢字表記は「夕星」「長庚」とも書き、読みは「ゆふつづ」とも。「万葉集」に既に出る。]

 

 

ヘクトールのわかれ

 

われをそむきてとこしへに

アヒルが不思議の力もて

物おそろしき犧牲(いけにへ)を

パトロクルスにもたらすてふ

かしこにばしは行き給ふ

御志(みこころざし)におはするか

黑白(あやめ)もわかぬ冥府(よみ)の國

境きにはてもしたまびなば

をさなきものを誰がまた

武藝の指南神明(しんめい)に

祈ることさへ習はせん

 

世にもめぐしきわが妻よ

おことが淚をとどめよかし

戰の場(には)をおもほえば

あつきこころは燃ゆるぞよ

みやこを守る雙(さう)の腕

さては畏き神々の

鎭座(しづめ)のためにたたかひて

命終らん願なり

國の救ひ手われこそは

スチクス河に沈むべし

 

廣間の内の鐡(くろがね)は

やうなきものにかかるかな

たえてわなみは兄(せ)の君の

調度の音を耳にせず

かくてしあらばいたづらに

武名とどろくプリアムスの

いみじき血統(ちすぢ)もにごりはべらん

きみは行くなり日の影も

かつぞてらさぬよみのくに

荒野をよぎるコチツスの

流の音はむせぶらん

あな恩愛のなさけさへ

レーテの水に忘られん

 

よろづののぞみよろづのおもひ

流れしづけきいづみの水に

われは沈めて見せもせん

愛の心はいかでその

地獄の水にさそはれん

やや、物音のきこゆるは

すでに夷(えびす)の城ちかく

押しよせたりとおぼゆるぞ

よろひかぶとの用意せよ

 

やくなきなげき何とせん

わがまごころはいかでいかで

レーテの水にも亡びぬぞよ

             (シルラー)

 

(一) 冥界の激流九曲すといふ

(二) 流れんばかり滿ち湛へたる淸泉にして之を掬ふ者は必ず娑婆世界の事を忘るといふ

(三) 此一句稍原意を變更せり

 

[やぶちゃん注:本文には最後の注記号に該当する語句の右方に傍注記号があるが、見た目が邪魔なので略して以下で説明した。また、注は全体が詩篇本文ポイントの一字下げで、二行に亙る(二)は二行目が「(二)」の下の位置から始まっているが、ブラウザの不具合を考えて、かく処理した。

 注記号は、それぞれ、

(一)が第二連終行の「スチクス」の「ス」の右肩

(二)が第三連終行の「レーテ」の「レ」の右肩(但し、注内容は「レーテの水に忘られん」の詩句全体に対するもの)

(三)が第四連終行の「よろひ」の「よ」の右肩(但し、注内容は「よろひかぶとの用意せよ」の詩句全体に対するもの)

に配されてある。

 初出は明治三六(一九〇三)年四月発行の『文庫』。署名は「清白」。

 これは、かのゲーテと並ぶドイツ古典主義の巨匠、詩人・劇作家ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller 一七五九年~一八〇五年)が一七九〇年に書いた詩“Hektors Abschied”の訳(原詩には辿り着けず、見出せても私はドイツ語を解せないし、シラーの詩集もあるはずだが、書庫の底に沈んで見当たらず、これが後に用いられたらしい一七八一年作の戯曲「群盗」(Die Räuber)も読んでいない)である。「群盗」で相聞歌に改作されたもの(ドイツ語)はこちら(リンク先はドイツ語ウィキ)。「ヘクトール」(ラテン文字転写: Hector)はギリシア神話の英雄。トロイアの王子でトロイア戦争に於けるトロイア勢最強の戦士(詳しくはウィキの「ヘクトール」を見られたい)。因みに、一八一五年にはシューベルトが本詩を歌曲化している。

 というわけで、元が私には不分明であるので、半可通の注のみ附す(ギリシャ神話のそれは、概ね、それぞれのウィキを参照した)。

「パトロクロス」(Patroclus)はトロイア戦争の英雄アキレウスに仕えた武将にしてアキレウスの竹馬の友。

「スチクス」ステュクス(Styx)はギリシア神話で地下を流れているとされる大河。大海オケアノス(Oceanus)の流れの十分の一を割り当てられている支流とされ、地下の冥界を七重に取り巻いて流れ、生者の領域と死者の領域とを峻別しているという。

「わなみ」「我儕」「吾儕」と漢字表記する、対等の相手に対して用いる一人称代名詞の近世語。

「プリアモス」(Priamus)トロイア最後の王。ホメーロスの叙事詩「イーリアス」に登場する。

「レーテ」(Lethe)古代ギリシア語では「忘却」・「隠匿」を意味し、ギリシア神話では冥界に幾つかある川の一つで、その川の水を飲んだ者は完璧な忘却を体験するとする。古代ギリシア人の一部は「魂は転生の前にレーテの水を飲まされるため、前世の記憶をなくす」と信じていた。

 注の(二)の「掬ふ」は「すくふ」。

 初出は以下。注の配置は同前。

   *

 

ヘクトールのわかれ

 

われをそむきてとこしへに

アヒルが不思儀の力もて

物おそろしき犧牲(いけにへ)を

ペルガモニスにもたらすてふ

かしこにばしは行き給ふ

御志(みこころざし)におはするか

黑白(あやめ)もわかぬよみのくに

境きにはてもしたまびなば

をさなきものを誰がまた

武藝の指南神明(しんめい)に

祈ることさへ習はせん

 

世にもめぐしきわが妻よ

おことが淚をとどめよかし

戰の場(には)をおもほえば

あつきこころは燃ゆるぞよ

みやこを守る雙(さう)の腕

さては畏き神々の

鎭座(しづめ)のためにたたかひて

命終らん願なり

國のすくひてわれこそは

スチクス河に沈むべし

 

廣間の内の鐡(くろがね)は

やうなきものにかかるかな

たえてわなみは兄(せ)の君の

調度の音を耳にせず

かくてしあらばいたづらに

武名とどろくプリアムスの

いみじき血統(ちすぢ)もにごりはべらん

きみは行くなり日の影も

かつぞてらさぬよみのくに

荒野をよぎるコチツスの

流の音はむせぶらん

あな恩愛のなさけさへ

レーテの水に忘られん

 

よろづののぞみよろづのおもひ

流れしづけきいづみの水に

われは沈めて見せもせん

愛の心はいかでその

地獄の水にさそはれん

やゝ物音のきこゆるは

すでに夷(えびす)の城ちかく

おしよせたりとおぼゆるぞ

よろひかぶとの用意せよ

 

やくなきなげきを何とせん

わがまごゝろの愛情は

レーテの水にも亡びぬぞよ

             (シルラー)

 

(一) 冥界の激流九曲すといふ

(二) 流れんばかりに滿ちたる淸泉にして此を掬ぶものは必ず娑婆世界の事を忘るといふ

(三) 此一句は稍原意を變更せり

 

   *

初出の(二)の注の方は「掬(むす)ぶ」と読んでいる。]

2019/05/01

29年目の結婚記念日

今日は29年目の私と連れ合いの結婚記念日――しかしそれを語らずに、令和元年のどんちゃか騒ぎを冷ややかに見ていた――

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(17) 「駒形權現」(3)

 

《原文》

 【駒ノ石像】箱根ノ駒形ガ馬ノ神ナリシト云フコトハ、古記ニ據リテ之ヲ推定スルコト能ハズ。唯今日僅カニ地名又ハ神名ノ解釋トシテ、爰ニモ例ノ駒ノ「カタチ」ヲ、彫リタル石アリト傳フルノミ。更ニ此火山ノ南側、伊豆ノ輕井澤ヲ下リニ赴ケバ、路ノ右ナル松ノ中ニ駒方權現ノ社アリ。三尺ニ二尺五寸ノ平石ニ駒ノ形ヲ浮彫ニシ、烏帽子單衣ヲ著シテ乘レル人アリ。土地ノ者ノ說ニハ、昔賴朝公ノ愛馬此處ニテ俄カニ死ス。依リテ駒方ノ神ニ齋フト云ヘリ〔伊豆志四〕。【馬頭觀音】里ニ在ル駒形社ノ多クハ明白ニ馬ノ保護神ナリ。武州中尾ノ駒形社ノ三個ノ白馬像ノ例ノ如ク、駒形神ノ本地佛トシテ馬頭觀音ヲ說ク者多シ。東京淺草ノ駒形堂モ本尊ハ亦馬頭觀音ナリ。今ハ町中ノ堂トナリテ馬バカリニテハ堂守ノ暮シ立タヌ故ニ、外ノ祈願モ無論聽キタマフト雖、其御禮參ニハ後々マデモ小サキ馬ノ形ヲ作リテ之ヲ奉納ス。馬頭觀音ハ日本ノ田舍ヲ見タル人々ノ何レモ由來ヲ知ランコトヲ欲スル一ノ奇現象ナリ。誤レリヤ否ヤハ知ラザルモ自分ハ之ヲ斯ク解釋ス。今日道傍ニ立ツ馬頭觀音ハ簡略ニ文字ヲ刻ミタル石碑多ケレドモ、以前ハ專ラ馬ノ頭ヲシタル石像又ハ木ノ柱ナリシヲ、道祖神(サヘノカミ)ヲ地藏ニシテ了ヒシト同一ノ筆法ニテ、佛敎ノ方ノ人々ガ辛苦シテ珍シキ經典ノ中ヨリ馬頭觀音ノ名ヲ見出シ、早速其名ヲ採用セシモノナルべシ。天竺ノ觀音ノ像ニ馬ノ頭ヲ冠ニシタルモノアルハ、佛道ヲ宣傳スルコト恰モ馬ガ野ノ草ヲ食ヒ行クガ如シト云フ象徵ナリト聞ケド〔島地大等師說〕、日本ノ馬頭觀音ニハサル思想モ無ケレバ、此ノ如キ大流行ヲ促スベキ動機ニ乏シ。【供養ト祈禱】今日ノ路傍ノ馬頭觀音ハ大抵馬ガ其場處ニ斃レシヲ供養スル爲ニ立テタリト云フモ、而モ其石ノ前ニ線香ヲ焚キ花ヲ供フルコト絕エザルハ、今後往來ノ馬ニ同ジ災ノ無キコトヲ祈ルナリト云ヘリ。全ク以テ佛法ノ薄キ被衣(カツギ)ヲ著タル昔ノ馬ノ神ノ面影ナラズヤ。此故ニ自分ハ馬頭觀音ノ元ノ名ハ馬頭神ナラント思ヘリ。【馬ノ首】甲州ナドノ馬頭觀音ノ石像ハ、今モ馬ノ首ヲ頭上ニ戴キテハアレド、頭ヨリ下ハ眞ノ觀音ニ成切ツテ、馬ノ首ハ追々ト小サク、殆ド丁髷ホドニ退化シタル者多シト云ヘリ〔甲斐落葉〕。自分ハ又相州ノ西秦野村及ビ上奏野村ニテ、近年ノ建設ニ係ル鮮明ナル馬頭神ノ石體ヲ見タリ。馬ノ首ヲ戴ケル人物ハ何レノ點ニモ觀音ラシキ樣態ナク、寧ロ常陸ナドノ子安神(コヤスガミ)トヨク似テ女體ナルカト思ヘリ。【靑面金剛】東京ノ西郊下練馬ト上板橋トノ境上ニハ、靑面金剛神ノ石像、足下ニ「アマノジヤク」ヲ蹈ミ鷄ヲ隨ヘツヽ、而モ頭ニ馬ノ首ヲ戴ケル者アリ。寬政年間ノ建設ナリキ。

 

《訓読》

 【駒の石像】箱根の駒形が馬の神なりしと云ふことは、古記に據(よ)りて之れを推定すること、能はず。唯、今日、僅かに地名又は神名の解釋として、爰にも例の駒の「かたち」を、彫りたる石ありと傳ふるのみ。更に、此の火山の南側、伊豆の輕井澤を下(くだ)りに赴けば、路の右なる松の中に、駒方權現の社あり。三尺に二尺五寸の平石に駒の形を浮彫りにし、烏帽子(ゑぼし)・單衣(ひとへ)を著(ちやく)して乘れる人あり。土地の者の說には、昔、賴朝公の愛馬、此の處にて俄かに死す。依りて駒方の神に齋(いは)ふと云へり〔「伊豆志」四〕。【馬頭觀音】里に在る駒形社の多くは、明白に馬の保護神なり。武州中尾の駒形社の三個の白馬像の例のごとく、駒形神の本地佛として馬頭觀音を說く者、多し。東京淺草の駒形堂も本尊は亦、馬頭觀音なり。今は町中の堂となりて、馬ばかりにては堂守の暮し立たぬ故に、外の祈願も、無論、聽きたまふと雖も、其の御禮參りには、後々までも小さき馬の形を作りて之れを奉納す。馬頭觀音は日本の田舍を見たる人々の何れも、由來を知らんことを欲する一つの奇現象なり。誤れりや否やは知らざるも、自分は之れを、斯く解釋す。今日、道傍に立つ馬頭觀音は簡略に文字を刻みたる石碑多けれども、以前は專ら馬の頭をしたる石像又は木の柱なりしを、道祖神(さへのかみ)を地藏にして了(しま)ひしと同一の筆法にて、佛敎の方の人々が、辛苦して、珍しき經典の中より馬頭觀音の名を見出し、早速、其の名を採用せしものなるべし。天竺(てんぢく)の觀音の像に馬の頭を冠にしたるものあるは、佛道を宣傳すること、恰も、馬が野の草を食ひ行くがごとし、と云ふ象徵なりと聞けど〔島地大等(しまぢだいとう)師說〕、日本の馬頭觀音には、さる思想も無ければ、此くのごとき大流行を促すべき動機に乏し。【供養と祈禱】今日の路傍の馬頭觀音は、大抵、馬が其の場處に斃れしを供養する爲めに立てたりと云ふも、而も、其の石の前に線香を焚き、花を供ふること絕えざるは、今後、往來の馬に同じ災ひの無きことを祈るなり、と云へり。全く以つて、佛法の薄き被衣(かつぎ)を著(き)たる、昔の馬の神の面影ならずや。此の故に、自分は、馬頭觀音の元の名は「馬頭神(ばとうしん)」ならんと思へり。【馬の首】甲州などの馬頭觀音の石像は、今も馬の首を頭上に戴きてはあれど、頭より下は眞の觀音に成り切つて、馬の首は追々と小さく、殆んど、丁髷(ちよんまげ)ほどに退化したる者、多し、と云へり〔「甲斐落葉」〕。自分は又、相州の西秦野(にしはだの)村及び上奏野村にて、近年の建設に係る鮮明なる馬頭神の石體を見たり。馬の首を戴ける人物は、何れの點にも、觀音らしき樣態なく、寧ろ、常陸などの子安神(こやすがみ)とよく似て、女體なるかと思へり。【靑面金剛】東京の西郊下練馬と上板橋との境上には、靑面金剛神(しやうめんこんがうしん)の石像、足下に「あまのじやく」を蹈み、鷄を隨へつゝ、而も、頭に馬の首を戴ける者あり。寬政年間[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]の建設なりき。

[やぶちゃん注:「此の火山の南側、伊豆の輕井澤を下(くだ)りに赴けば、路の右なる松の中に、駒方權現の社あり」現在の静岡県田方郡函南町軽井沢にある駒形堂(グーグル・マップ・データ。同画像に函南町教育委員会の「函南町指定民俗資料 駒形像(軽井沢)」の解説板があり、そこには『本像は、高さ』九十一『センチメートル、幅』七十六『センチメートルの板状の石に烏帽子単衣の人物を乗せた馬(駒)が』浮『り彫りされている』。『製作年代は、不明であるが、町内の石造物のなかで稚拙ではあるが』、『素朴な印象を示し、源頼朝や平将門にまつわる伝説も多い民俗史料である』とある(「三尺に二尺五寸の平石」は九十・〇九×七十五・七五センチメートルで一致する)。「函南町」公式サイト内の「有形民俗文化財(町指定)」に同碑の画像があり、『一説には、頼朝がこの地で得た名馬「池月」に乗った姿を刻んだものと伝えられています。本像を納める駒形堂は、泉龍寺(せんりゅうじ)の隣接地にありますが、もとは弦巻山の中腹にあったといわれています』とあった。この弦巻山は諸資料を綜合すると、恐らくは軽井沢中心地区の東南東の五百二十一メートルのピーク(国土地理院図)ではないかと思われる(現在の駒形堂の南東七百メートル位置)。また、この駒形堂については、高橋春雄氏のサイト「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「謡蹟めぐり  七騎落7 その他2」に、『伊豆の函南町には駒形堂という小祠があり、頼朝の乗馬磨墨(摺墨)が嘶いたところ、名馬生月(池月)がこれに和してきたという伝説が伝えられ、頼朝がその名馬に乗った姿を刻んだ像が安置されている。堂内にその縁起を書いた』「伊豆旧跡 駒形堂縁起」なる『ものがあったので、判読を試みた』として以下のようにある。

   《引用開始》

駒形堂は今を去る九百年前、承平二壬辰、親王将門、関東下向の時絃巻山にて乗馬悩みたれば、将門観音に祈願したまうに、忽ち霊感ありて平癒したるを以て、報恩謝治のため弘法大師御作の守本尊を安置し給へり。これ泉龍禅寺内陣の本尊なり。其の後建久四癸丑、源頼朝公、富士の巻狩りの際彼の観音に参拝しけるに、愛馬の摺墨頻りに嘶き遥か向ふの池の山にまた馬の声あり。彼の山を狩らせたまうに、大成池のほとりに不思議にもその丈け七尺に余る馬一頭たたずみし故、池好と名づく。この名馬を得たるを以て絃巻山の懐に駒形堂を建立し、将門安置の馬頭観音を本尊となす。これ駒形堂起こる由来なり。かくて堂の側に秩父の守重忠矢の根を以て、頼朝公その名馬にうち乗りたる英姿を大石に刻し、駒形権現としたまう。なおかつ弓絃巻きて天下太平を祈り奉る。

弘化四年に大破したれば、名主五右衛門等発起して再建す。明治維新の折これをこぼちたり。大正六年三月この霊地を保存せんため区民協力して一小宇を建立す。

    大正六年三月吉祥日誌之

         伊豆国田方郡函南村軽井沢    駒形堂

   《引用終了》

いやいや! この高橋氏の記事で、この注は完璧だ!!

「武州中尾の駒形社」既出既注

「東京淺草の駒形堂」東京都台東区雷門の隅田川畔、駒形橋西詰にある浅草寺持分の、浅草駒形堂(グーグル・マップ・データ)。私の大好きな「駒形どぜう本店」のすぐそば。「浅草寺」公式サイト内の解説によれば、ここは浅草寺発祥の地とされ、推古天皇三六(六二八)年に『浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。駒形堂の名の由来については諸説あるが、浅草寺の一山寺院住職の故網野宥俊僧正は、「駒形堂の地が観世音菩薩上陸の地であることから、隅田川に棲む魚類に対する愛護の必要を感じ、生物の守護仏である馬頭観音を祀り、人びとが心願成就の御礼として馬形の作り物を奉納したことが名の由来ではないか」と推考している』。『駒形堂は』、天慶五(九四二)年に『平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとは』、『まず』、『駒形堂のご本尊を拝んでから』、『浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ』、『川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった』(現在の堂宇は二〇〇三年に再建されたものとある)。本尊は馬頭観世音菩薩(木彫立像二十八・八センチメートル。

「島地大等(しまぢだいとう)」(明治八(一八七五)年~昭和二(一九二七)年)新潟県出身の浄土真宗僧で仏教学者。西本願寺大学林に学び、明治三五(一九〇二)年、大谷光瑞のインド仏跡調査に参加したのち、東京帝大などで仏教学・仏教史を教えた。著作に「真宗聖典」「天台教学史」など。

「馬頭神(ばとうしん)」鹿児島県鹿児島市谷山中央にある「三宅美術館」公式ブログ内の「辻之堂の馬頭神」に、同美術館の敷地内にあり、もともとこの地にあった「馬頭神」の石碑(昭和二(一九二七)年建立)の写真があり、そこに『馬頭神の石碑は家畜の健康と安全を願い、また弔うために建てられ』たものとある。同美術館の位置はここ(同ブログの「アクセス」)で、『この辺り(永田橋のたもと)は伊作街道の宿場だったそうで』、『永田川の川岸で馬を』洗い、『永田橋から現JR谷山駅方面の川沿いには蹄鉄を打つ鍛冶屋や茶屋、車屋(馬車)が並んでいた』という。『乗り継ぐための馬が沢山飼われていて、今も当時の小屋が残ってい』るとある。

「相州の西秦野(にしはだの)村及び上奏野村」「西秦野村」は旧神奈川県大住郡で、「上奏野村」は旧神奈川県足柄上郡。現在の神奈川県秦野市の南西地区(この附近。グーグル・マップ・データ)と思われる。

「常陸などの子安神(こやすがみ)」二つほどであるが、グーグル画像検索「茨城 子安神」子を抱いた女神を彫った石像が見られる。

「靑面金剛」「せいめんこんごう」(現代仮名遣)とも読み、鬼病を流行させる鬼神とされ、身体は本来は青色とされ、四臂・二臂・六臂に造り、目は赤く三眼、頭髪は炎のように逆立ち、身には蛇を纏い、足下には二匹の鬼(柳田の言う「あまのじやく」も「天邪鬼」で鬼。後注参照)を踏みつけた忿怒相をとる。本邦では、特異的に中国の道教の説と結びついて、「青面金剛の法」は「伝尸(でんし)病」を除く法とされる。この「伝尸」を体内の「三尸虫(さんしちゅう)」と同義とするところから、庚申信仰と結びつき、庚申の本尊として祀られるが、庚申には帝釈天を本尊とすることもあり、三猿神も本尊とされる。「伝尸病鬼」ともいう。明治の廃仏毀釈で種々の石製神像が一緒くたに集められたが、今や、そのお蔭で存命しているものも多い。しかし私は、国家神道の宗教政策と文明開化による、ゴミ集積場の如くになった惨状を見るにつけ、何か、非常に淋しい気もするのである。

「下練馬と上板橋との境上」現存した! この中央の交差点(グーグル・マップ・データ。ストリートビューでも像が確認出来る)! 個人ブログ・サイト「信長の野望」の「青面金剛像庚申塔(板橋区上板橋2-18)」を見られたい。画像を見ると、頭部に馬の首らしきものを戴ているように確かに見える!! 必見!!! その解説によれば、現在も『練馬区と板橋区の区境』とあって(上記地図の同地点の西側は練馬区)、『旧川越街道との交差点』に当たり、もとは『五叉路だった』らしい(現行の上記地図でもそれが判る)。『だいぶ風化が激しくて彫りが浅くなっている感じで分かりにくいところもある青面金剛像庚申塔です』。『よくみると』、『一面八臂のもので、合掌している以外には、法輪、戟、弓、矢、棒状のものを持っています。左の一番下の手には何を持っているのかが分かりませんでした。持っていないように見えます』。『下部には真ん中に顔のある邪鬼を踏みつけ、その下のは三猿がいます。真ん中の言わざるの手がうっすら見えるので分かる程度です』画像はこれ。左右の猿は中央の猿方向をそれぞれ向いているものと思われ、手の配置から向かって左が「見猿」、右側が「聴か猿」と思われる)。また、『向かって右側の側面には「奉□□青面金剛像」という文字が見えます。ちょっと風化があって文字がしっかり読み取れません』とされる画像はこれ。読めないのは碑の当該部の左側(前面方向)が有意に欠損しているためで、私が見る限りでは欠損は三文字で、二字目は「彫」のようにも見えるが、(さんづくり)が確認出来ない。恐らく四文字目は「大」であろう。「大青面金剛」と書く例は他にある)。また、『向かって左側は壁があってよく見えないので、とりあえず写真だけ撮ってみました』(画像はこれ)。『そこには「元文四」の文字が見えます』から、元文四(一七三九)年で『江戸時代中期のものであることが分かります。奥には「豊嶋郡」の文字も見えます。ここは下練馬宿の江戸側の入口にあたる場所のようで、この宿場町のものであると想像されます。なぜか板橋区にも練馬区にも公式Webに記載がないので不明なことが多いですが、もっと分かると面白いかも知れません』と擱筆しておられる。画像を見るに手前は「元文四未年」(同年の干支は己未(つちのとひつじ))とあるように見え、向うの下方に確かに「豊嶌郡上板」とあるようである(下部に損壊が見られる)。なお、ブログ主が『左の一番下の手には何を持っているのかが分か』らず、何も『持っていないように見え』るとあるが、明らかに手は何かを握る形なっている。これは或いは、比較的珍しいケースであるが(実際にある)、ショケラと呼ばれる半裸の女人を紐でぶら下げているのではなかろうか? よく見ると、石柱正面のこの部分は、向かって左上から右下に、一回割れて、それを繋いだ痕があり、一番下の左手の下がもやもやっとしているのである。改めて「信長の野望」のサイト主に心より御礼申し上げるものである。

「あまのじやく」ウィキの「天邪鬼」より引く。『悪鬼神もしくは小鬼、また日本の妖怪の一種とされる。「河伯」、「海若」とも書く』。『仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった』。『日本古来の天邪鬼は、記紀にある天稚彦』(あめのわかひこ)』『や女神天探女』(あめのさぐめ)『に由来する。天稚彦は葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として』、八『年も経って戻らなかった。そこで次に雉名鳴女を使者として天稚彦の下へ遣わすが、天稚彦は仕えていた天探女から告げられて雉名鳴女を矢で射殺する。しかし、その矢が天から射返され、天稚彦自身も死んでしまう』。『天探女はその名が表すように、天の動きや未来、人の心などを探ることができるシャーマン的な存在とされており、この説話が後に、人の心を読み取って反対に悪戯をしかける小鬼へと変化していった。本来、天探女は悪者ではなかったが天稚彦に告げ口をしたということから、天の邪魔をする鬼、つまり天邪鬼となったと言われる。また、「天稚彦」は「天若彦」や「天若日子」とも書かれるため、仏教また中国由来の「海若」と習合されるようになったものと考えられている』。寺島良安の江戸時代の百科事典「和漢三才図会」で「先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)」から引用して、素戔嗚命が『吐き出した体内の猛気が天逆毎』(あまのざこ)『という女神になったとあり、これが天邪鬼や天狗の祖先とされている』とある。最後のそれは詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう)(実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)」を読まれたい(事前に言っておくとかなり長いのでご覚悟あれ)。]

太平百物語卷二 十九 狐人たがへして付し事

 

   ○十九 狐(きつね)人たがへして付(つき)し事

 京堀川に佛具屋宗兵衞(そうびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])といふ人、有り。

 一日(あるひ)、召つかひの小者を、用の事ありて使(つかひ)にやられけるが、因幡藥師(いなばやくし)の門前を通りけるに、此小者、俄(にはか)に肩の上に物ある樣(やう)にて、殊(こと)なふ[やぶちゃん注:ママ。]、おもくなると覚へて[やぶちゃん注:ママ。]、宿に歸りけるが、其儘、裏の口にいでゝ、大きにわらふほどに、宗兵衞、あやしくおもひ、其ゆへをとへば、小者がいふやう、

「われは、因幡やくしのほとりに年月(としつき)住(すむ)者なりしが、昨日、藥師の藪の内に、心よく臥居(ふしゐ)たるを、おどろかしたる者、あり。其者を恨めしくおもふ折節、此小者、門前を通りしを、昨日おどせし小者と心得、其儘、取り付きたりしに、能(よく)々みれば、人違ひなり。それがおかしさに、わらふぞ。」

といふて、又、大きにわらひけるほどに、

「扨は。きつねの付きたるなり。」

とて、宗兵衞をはじめ、家内(かない)の人々、おそれながらも、おかしかりしが[やぶちゃん注:ママ。]、頓(やが)て有驗(うげん)の山伏を請(しやう)じ、右の次第をかたり、

「如何(いかゞ)せん。」

と申しければ、法印[やぶちゃん注:山伏のことをかく俗称した。]、やがて水晶の珠數(じゆず)、おつ取り、

「さらさら。」

と、おしもみいのられければ、小者、俄にくるしみて、

「やれ、免(ゆる)してたび候へ。もとより、此人に恨みなければ、明日(あす)は、はやく、歸るべし。こよひ一夜(ひとよ)を待(まち)玉へ。」

と、さめざめとかきくどき、わびければ、法印、大きにゐかり、

「汝、人をたがへて苦しむるのみならず、今宵の宿をかれが胎中(たいちう)にからんとは、甚だ、きつくわひ[やぶちゃん注:「奇怪(きくわい)」の誇張発言表記であろう。]、至極なり。只今そこを除(のか)ずんば、明王(みやうおう[やぶちゃん注:ママ。])の功力(くりき)にかけて、いのり殺さん。」

と、のゝしりければ、これにいよいよおそれをなし、

「然(しか)らば、只今、退(のき)申すなり。ゆるし玉へ。」

と、いふ、とおもへば、やがて表に走り出(いで)、戸口を、

「ぐはらり。」

と開くぞと見へし、其儘、小者は倒れしを、人々、助け、いざなひ入(いれ)、能(よく)、ふさしめ置(おき)ければ、翌(あけ)の日、終日(ひねもす)臥(ふし)けるが、暮方(くれかた)より本心となりて、其後(そののち)は何の災(わざはひ)もなかりしとぞ。

「まことに麁忽(そこつ)のきつね殿や。」

と、聞(きく)人、笑ひ合(あひ)けるとなん。

[やぶちゃん注:能狂言を見るような陽性の滑稽(小者にはとんだ災難なわけだが)怪談である。

「京堀川」この場合、後の「因幡藥師」との位置関係から、現在の京都府京都市中京区四坊堀川町(しぼうほりかわちょう)(グーグル・マップ・データ)の堀川通沿い附近と比定しておく。本能寺跡の南西直近。

「因幡藥師(いなばやくし)」現在の京都府京都市下京区烏丸(からすま)通松原上る因幡堂町(ちょう)の因幡薬師(グーグル・マップ・データ)。先の堀川町とは実測距離で一・三キロメートルほどである。因幡薬師は正式には福聚山平等寺(びょうどうじ)真言宗。本尊は薬師如来で、昨今は癌封じの寺として知られる。

「麁忽(そこつ)」思慮の不十分なこと。そそっかしくて不注意なこと。軽はずみで失礼なこと。「粗忽」「楚忽」とも書く。]

冬が來たとて 伊良子清白 [やぶちゃん注:詩篇内時制を推理して年を限定してみた。]

 

冬が來たとて

 

冬が來たとて

若い衆の夜學

竹刀(しなひ)うちあふ

音もする

村の娘は

皆藁仕事

草履千足

夜業(よなべ)につくり

春の宮建(みやだて)

寄進の料(しろ)よ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。しかし、創作時期については一つの限定推定が可能かとも思われるのである。則ち、既に考証した通り、この大パート「笹結び」の「七つ飛島」以降が総て、伊良子清白が鳥羽に移ってからの作であることは、最早、疑いがなく、それは大正一一(一九二二)年九月十二日から、ここの底本親本である新潮社版「伊良子清白集」刊行の昭和四(一九二九)年十一月以前が閉区間となる。ところが、この詩の最後の部分の「夜業(よなべ)」仕事で作った「草履」(ぞうり)「千足」が「春の宮建(みやだて)」の「寄進の料(しろ)」だと言っている、この「春の宮建(みやだて)」なるものが、もしかすると、伊勢神宮遷宮の起工を指すものではないか? ということに思い至ったのである。そこで、調べて見たところ、原則で二十年毎にしか行われない遷宮が、まさにこの閉区間の最後の年、則ち、昭和四(一九二九)年十月二日(内宮)と同月五日(外宮)に五十八回式年遷宮が行われていたのである。而して、その起工がこの年の春にあったと仮定すれば、本詩篇の作品内時制は、その前の年、昭和三(一九二八)年の暮れの冬場の景と採れるのである。大方の御叱正を俟つものではあるが、この「笹結び」の小唄や労働歌風のそれらの初出が殆んど判らないのは、それこそ新潮社版「伊良子清白集」の刊行に際して、近々で詠みためてあった未発表のそれらを、謂わば、清白が自身の近作として読者に掲げようという意図があったことを示すのではないかと私は思うのである。

 なお、本詩篇を以って大パート「笹結び」は終わっている。]

市木木綿 伊良子清白

 

市木木綿

 

市木木綿(いちぎもめん)は

本藍染(ほんあゐぞめ)よ

市木木綿を

織る娘

燕が來(く)る日に

織り出して

燕が往(い)く日に

織り上げる

梭(をさ)の燕の

織り上げは

百と何反

嫁入り支度

織子娘の

氣立(きだて)は素直(すなほ)

節(ふし)や擦(す)れの

織疵なしよ

 

註 市木は紀伊南牟婁郡市木村なり、此地地織木綿の產地として有名なり。

 

[やぶちゃん注:初出未詳。以上の注は底本では本文ポイント一字下げでポイント落ち二行目は「註」の下方から始まるが、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。初出未詳。注の「紀伊南牟婁郡市木村」は現在の三重県南牟婁郡御浜町上市木及び下市木地区(孰れもグーグル・マップ・データ)のこと。]

製茶の唄 伊良子清白

 

製茶の唄

 

志摩の前島(さきしま)

茶山の霞

つばめくるとて

茶を摘みあげて

戀の濃みどり

焙爐(ほいろ)の木の芽

あつうなるほど茶は蒸(む)れる

蒸れた木のめを

揉み揉みあふぐ

あふぐお茶子の品定め

一番茶二番茶

三番茶もござる、よ

おいらは四番茶

つみがらし、よ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。

「前島(さきしま)」この複雑な半島部(グーグル・マップ・データ。「大王町」をポイントし、そこから左に大きく突き出る志摩町部分を含める)。志摩半島のうち、志摩市の大王町から志摩町にかけて英虞湾を囲む部分を「前島(さきしま)半島」と呼び、「前島」は「先志摩」「崎島」「先島」などとも表記する。

「焙爐(ほいろ)」木枠の底に和紙を張って火鉢などに翳(かざ)して茶を乾燥させる製茶道具。

「木の芽」はここでは異名としての山椒ではなく、茶葉のことを言っている。

「おいらは四番茶」/「つみがらし、よ」通常は商品としては「三番茶」(或いはそれを行わずに後の秋口になってから摘む「秋冬番茶」がある)までで、最初に摘む「一番茶」の新茶の爽やかな若葉の香りに対して、「四番茶」は瑞々しい香気も乾き枯れてしまった摘み残しということになる。「つみがらし」は名詞で「摘み枯(乾・涸)らし」か。当初は「摘んでおくれよ」という懇請かと思ったが、そうした方言を「がらし」の求めることが出来なかった。孰れにせよ、この一篇も一種、健康的な艶笑の匂わせを私は強く感ずる。]

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