柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(21) 「馬塚ハ馬ノ神」(3)
《原文》
【鞍掛松】越後西蒲原郡峯岡村大字平澤ノ馬塚ハ、土人ハ之ヲ鞍掛松トモ稱ス。昔上杉謙信此地ニ來タリシ時、其愛馬暴カニ病ミテ死ス。因ツテ之ヲ埋メテ塚ノ上ニ松ヲ栽ヱタリト云フ〔越後野志十一〕。此話ノ武州馬引澤ノ駒繫松トヨク似タルコトハ誰シモ心附クべキナリ。鞍掛松ノ名モ偶然ニハ非ザルニ似タリ。之ニ由リテ案ズルニ、多クノ馬塚ノ由來ニハ單純ナル記念ト云フ外ニ信仰アリ。肥後八代郡宮原町大字拵(カコヒ)ニテハ、街道ノ傍ニ一所ノ馬神ヲ祀レリ。【榎】豐臣秀吉島津征伐ノ途次、村雨ト云フ愛馬ノ斃レタルヲ、此處ニ埋メテ印ニ榎ヲ栽ヱタリ。里人之ヲ馬ノ神ト崇敬シテ永ク往還ノ馬ノ爲ニ其平安ヲ祈願スル風習アリキ〔肥後國志〕。【固有名詞】此等ノ口碑ヲ比較スルトキハ、固有名詞ノ必ズシモ大ナル要素ナラザリシコトヲ知ルニ足レリ。岩代河沼郡若宮村大字牛川字牛澤ノ名馬塚ハ、曾テ佐瀨上總ト云フ地侍アリテ、最愛ノ駿馬ヲ新地頭ノ蒲生殿ニ取ラルヽヲ惜シミ、馬ヲ殺シテ身モ亦自殺セシ、其馬ノ塚ナリト傳ヘラル〔新編會津風土記〕。【御靈】此話一ツノミヲ聞ケバ、如何ニモ尤モラシキ中世ノ武邊咄ナレドモ、過去三百年ノ間、土地ノ百姓ノ信仰生活ト交涉セシ點ハ、恐クハ右ノ「ローマンス」ノ中心ヨリハ遠キモノニテ、人及ビ馬ノ怨恨ト、之ニ基ク馬ノ祟ト云フコトニ重キヲ置キシ傳說ナルべシ。【馬ノ祟】此一條ノ如キハ、所謂御靈信仰ノ起原即チ邪神(アシキカミ)又ハ荒神(アラフルカミ)ノ思想ト緣遠クナリタル人々ニハ少シク信ジ難キコトナランモ、馬ガ死シテ村里ニ災シタリト云フ例ハイクラモ有ルナリ。【祝神】例ヘバ讃岐三豐郡莊内村大字箱ニ於テハ、昔八幡宮ノ神馬屢〻夜出デテ畠ノ物ヲ荒スニ困リ、浦人某ナル者之ヲ殺シタルニ、忽チ心亂レテ病ニ羅リ、後ニハ一村ニ祟ヲ蒙ムル者多カリシカバ、終ニ馬骨ヲ取集メテ馬神塚ヲ築キ、之ヲ馬神ト祀リテ漸ク其患ヲ免レ得タリ〔西讃府志〕。備後絲崎ノ絲崎八幡宮ノ境内ニ馬出(ウマダシ)馬神ト云フ祠アリ。【大豆ノ忌】昔此八幡宮ノ神馬モ同ジ惡癖アリテ、夜ナ夜ナ田畠ノ大豆ヲ喰ヒケルヲ、土地ノ者過リテ之ヲ打殺セシニヨリ祝神ト祀リタリ。此故ニ絲崎谷ニテハ決シテ大豆ヲ栽培セズ。之ヲ犯ス者ハ祟アリキト云フ〔三原志稿〕。【泣祭】常陸鹿島郡大同村ノ六月十五日ノ泣祭ナルモノモ、本來馬ノ靈ヲ弔フノ目的ヲ以テ營マレ、事ノ始末ハ頗ル馬引澤ノ葦毛ノ話ト相似タリ。【馬ノ首】或年此村ノ淖田(フケタ)ノ泥ノ中ニ陷リテ一頭ノ馬死ス。其後此田ヨリ馬ノ面ニ似タル害蟲發生シテ耕作ヲ荒シ、祈禱其效ヲ奏セザリシ餘ニ、或ハカノ馬ノ祟ニハ非ズヤト心附キ、馬ヲ祭ルコトヽナリテヨリ始メテ蟲ノ出ルコト熄ミタリ。故ニ每年六月望ニ一村休業シ、鉦太鼓ニテ大聲ニ泣キ廻ルト云フコトナリ〔日本宗敎風俗志〕。蟲送リニ鉦鼓ヲ鳴ラスコトハ弘ク行ハルヽ風習ニテ、一般ニハ害蟲ヲ戰場ニ歿シタル者ノ亡靈ノ所爲ナリトス。【實盛】實盛ノ祭ナルモノ即チ是ナリ。勿論馬ニ限リシコトニハ非ズ。【馬ト蝗】併シ伊勢大神宮ノ御神田(ミカンダ)ノ神事ニ、舞ヲ舞フ祝(ハフリ)等ノ手ニ持ツ御田扇ニハ馬ヲ描キ、之ヲ以テ熱病ノ患者ヲ扇ゲバ熱ガ醒メ、又之ヲ以テ田ヲ扇ゲバ蝗(タムシ)ガ附カズト云フヲ見レバ〔本朝俗諺志五〕、古クハ馬ト田ノ蟲トノ間ニ何カノ關係アリシナラン。蓋シ此等ノ馬ドモハ素ヨリ名モ無キ田舍者ナルニ、而モ猶斯バカリノ威靈ヲ行フコトヲ得タリシナリ。況ヤ天下ノ駿足ノ身ノ果ニ至リテハ、其憤怨ノ勢ハ到底之ヲ推測スルコト能ハズ。【磨墨】磨墨(スルスミ)ハ馬ノ最モ不遇ナル者ナリ。池月ナカリセバ能ク一代ニ雄視スルコトヲ得タリシナランニ、由ナキ主取ガ基トナリテ、生キテハアラユル壓迫ヲ受ケ、終ニ狐崎ノ悲運ニ殉ジタリト云フナリ。要スルニ化ケズシテハ居リ難キ馬ナリ。【賴政】似タル例ヲ引クナラバ、源三位賴政ガ平家ノ爲ニ奪ハレントセシ木下ト云フ名馬モ、死シテ後山城葛野郡木島明神ノ附近、寶金剛橋(ハウコンガウバシ)ノ南ノ田中ニ神塚ヲ築キテ祭ラレタリ。木島明神ノ名モ木下ヨリ出ヅト云フ雜說マデ古クヨリアリシモ〔臥雲日件錄長祿二年閏正月二十五日條〕、夫ハ勿論ノ誤リニシテ、社ノ東ニ在リト云フ養蠶社(コカヒノヤシロ)コソ或ハ此馬ノ神ナランカト謂フ〔都名勝圖會〕。【亡念ト馬】又誰ガ唱ヘ始メタルカ知ラズ、此馬ハ賴政ニ退治セラレシ鵺(ヌエ)ノ生レ變リニシテ、彼ガ一家ノ滅亡ヲ招クノ源トナリシモ、昔ノ怨ミヲ馬ト成リテ報イタルナリト云フ噂サヘアリシナリ〔臥雲日件錄同上〕。
《訓読》
【鞍掛松】越後西蒲原郡峯岡村大字平澤の馬塚は、土人は之れを「鞍掛松」とも稱す。昔、上杉謙信、此の地に來たりし時、其の愛馬、暴(には)かに病みて死す。因つて之れを埋(うづ)めて塚の上に松を栽ゑたりと云ふ〔「越後野志」十一〕。此の話の、武州馬引澤の「駒繫松」と、よく似たることは誰しも心附くべきなり。鞍掛松の名も、偶然には非ざるに似たり。之れに由りて案ずるに、多くの馬塚の由來には、單純なる記念と云ふ外に、信仰あり。肥後八代郡宮原町大字拵(かこひ)にては、街道の傍に一所の馬神を祀れり。【榎】豐臣秀吉、島津征伐の途次、村雨(むらさめ)と云ふ愛馬の斃れたるを、此處(ここ)に埋めて、印(しるし)に榎(えのき)を栽ゑたり。里人、之れを馬の神と崇敬して、永く、往還の馬の爲めに其の平安を祈願する風習ありき〔「肥後國志」〕。【固有名詞】此等の口碑を比較するときは、固有名詞の、必ずしも大なる要素ならざりしことを知るに足れり。岩代河沼郡若宮村大字牛川字牛澤の名馬塚は、曾つて、佐瀨上總(さぜのかずさ)と云ふ地侍(ぢざむらひ)ありて、最愛の駿馬を新地頭の蒲生殿(がもうどの)に取らるゝを惜しみ、馬を殺して、身も亦、自殺せし、其の馬の塚なり、と傳へらる〔「新編會津風土記」〕。【御靈】此の話、一つのみを聞けば、如何にも尤もらしき中世の武邊咄(ぶへんばなし)なれども、過去三百年の間、土地の百姓の信仰生活と交涉せし點は、恐らくは、右の「ローマンス」の中心よりは遠きものにて、人及び馬の怨恨(ゑんこん)と、之れに基づく馬の祟(たたり)と云ふことに重きを置きし傳說なるべし。【馬の祟(たたり)】此の一條のごときは、所謂、御靈(ごりやう)信仰の起原、即ち、「邪神(あしきかみ)」又は「荒神(あらふるかみ)」の思想と緣遠くなりたる人々には少しく信じ難きことならんも、馬が死して、村里に災ひしたり、と云ふ例は、いくらも有るなり。【祝神(いはひじん)[やぶちゃん注:読みは「ちくま文庫」版に拠る。]】例へば、讃岐三豐(みとよ)郡莊内村大字箱(はこ)に於ては、昔、八幡宮の神馬、屢々、夜(よ)出でて畠の物を荒すに困り、浦人某(なにがし)なる者、之れを殺したるに、忽ち、心亂れて病ひに羅り、後には一村に祟を蒙むる者、多かりしかば、終に馬骨(ばこつ)を取り集めて、馬神(うまがみ)塚を築き、之れを馬神と祀りて、漸く其の患(うれひ)を免れ得たり〔「西讃府志」〕。備後絲崎(いとさき)の絲崎八幡宮の境内に「馬出馬神(うまだしばじん)」[やぶちゃん注:読みは「うまだしうまがみ」では如何にも締まりがないと私が感じたのでかく読んだ。]と云ふ祠あり。【大豆の忌(いみ)】昔、此の八幡宮の神馬も、同じ惡癖ありて、夜な夜な、田畠の大豆を喰ひけるを、土地の者、過(あやま)りて、之れを打ち殺せしにより、祝神と祀りたり。此の故に、絲崎谷にては、決して、大豆を栽培せず。之れを犯す者は祟ありきと云ふ〔「三原志稿」〕。【泣祭(なきまつり)】常陸鹿島郡大同村の六月十五日の「泣祭」なるものも、本來、馬の靈を弔ふの目的を以つて營まれ、事の始末は頗る馬引澤の葦毛の話と相ひ似たり。【馬の首】或年、此の村の淖田(ふけた)の泥の中に陷りて、一頭の馬、死す。其の後、此の田より、馬の面(つら)に似たる害蟲、發生して、耕作を荒し、祈禱、其の效を奏せざりし餘りに、「或いは、かの馬の祟には非ずや」と心附き、馬を祭ることゝなりてより、始めて、蟲の出ること、熄(や)みたり。故に、每年六月望(もち)に、一村、休業し、鉦・太鼓にて大聲に泣き廻ると云ふことなり〔「日本宗敎風俗志」〕。「蟲送り」に鉦鼓を鳴らすことは弘く行はるゝ風習にて、一般には、害蟲を戰場に歿したる者の亡靈の所爲(しよゐ)なりとす。【實盛】「實盛の祭」なるもの、即ち、是れなり。勿論、馬に限りしことには非ず。【馬と蝗(たむし)[やぶちゃん注:「いなご」と読まなかったのは以下の本文のルビに拠る。]】併し、伊勢大神宮の「御神田(みかんだ)の神事」に、舞を舞ふ祝(はふり)等の手に持つ「御田扇(おんたあふぎ)」には、馬を描き、之れを以つて熱病の患者を扇げば、熱が醒(さ)め、又れを以つて田を扇げば、蝗(たむし)が附かずと云ふを見れば〔「本朝俗諺志」五〕、古くは、馬と田の蟲との間に、何かの關係ありしならん。蓋し、此等の馬どもは、素より名も無き田舍者なるに、而も猶ほ、斯(か)くばかりの威靈(いりやう)を行ふことを得たりしなり。況んや、天下の駿足の身の果てに至りては、其の憤怨(ふんゑん)の勢ひは、到底、之れを推測すること、能はず。【磨墨(するすみ)】「磨墨(するすみ)」は馬の最も不遇なる者なり。「池月(いけづき)」なかりせば、能く一代に雄視することを得たりしならんに、由(よし)なき主取(あるじとり)が基(もと)となりて、生きては、あらゆる壓迫を受け、終に狐崎の悲運に殉じたり、と云ふなり。要するに、化けずしては居り難き馬なり。【賴政】似たる例を引くならば、源三位賴政が平家の爲めに奪はれんとせし「木下」と云ふ名馬も、死して後、山城葛野(かどの)郡木島(このしま)明神の附近、寶金剛橋(はうこんがうばし)の南の田中に神塚を築きて祭られたり。木島明神の名も「木下」より出づと云ふ雜說まで古くよりありしも〔「臥雲日件錄」長祿二年閏正月二十五日條〕、夫(それ)は勿論の誤りにして、社の東に在りと云ふ養蠶社(こかひのやしろ)こそ、或いは、此馬の神ならんか、と謂ふ〔「都名勝圖會」〕。【亡念(まうねん)[やぶちゃん注:「妄念」に同じい。迷いの心、執着心のこと。]と馬】又、誰が唱へ始めたるか知らず、「此の馬は賴政に退治せられし鵺(ぬえ)の生れ變りにして、彼が一家の滅亡を招くの源となりしも、昔の怨みを、馬と成りて報いたるなり」と云ふ噂さへ、ありしなり〔「臥雲日件錄」同上〕。
[やぶちゃん注:「越後西蒲原郡峯岡村大字平澤の馬塚」現在の新潟県新潟市西蒲(にしかん)区峰岡はここだが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「新潟県埋蔵文化財包蔵地一覧表」(PDF)を見ると、この地区の東北にある西蒲区竹野町(まち)内に遺跡番号「644」として種別「塚」とあり、名称を「馬塚(観音塚)」というのがある(成立年代は室町時代とする)。また、峰岡地区(激しい飛地状態)の狭間の福井という地区には柳田國男の嫌いな「山谷(やまや)古墳」という古墳も見出せる。いやいや、竹野町には「菖蒲塚古墳」や「隼人塚古墳」もある、と言うより、この周辺には古墳がかなりある。これらの孰れかか、名称からは、ズバリ、竹野町の「馬塚」ではなかろうか? にしても、謙信絡みなのに、今に伝承していない(少なくともネット上では見当たらない)のも不審ではある。
「暴(には)かに」「暴」には「俄かに・突然」の意がある。
「肥後八代郡宮原町大字拵(かこひ)」熊本県八代郡氷川町宮原はあるが、しかし、「氷川町」公式サイトのこちらで、氷川町栫字桑原に「馬之神(かこいうまのかみ)」が現存することが判った(写真有り)。その解説によれば、天正一五(一五八七)年、『豊臣秀吉は島津氏を攻撃するため』三十七『カ国の兵を動員しました』四月十九日、『野津の阿弥陀路を経て氷川を渡り、勝専坊で休息をとった後』、『村はずれまで来た時、愛馬「村雨」が歩けなくなりました。そのため』、『秀吉は馬を乗り換えて出発しました。「村雨」はその付近に葬られ、その後「馬之神」として祀られるようになりました』とある。
「豐臣秀吉、島津征伐」前注でも示したが、ウィキの「九州平定」によれば、天正一五(一五八七)年四月十日、筑後高良山、十六日には肥後隈本(現在の熊本県熊本市)、十九日には肥後八代(熊本県八代市)に到着しているから、史実上なら、その期日となる。『秀吉の大軍の到来に対し、高田(八代市高田)に在陣していた島津忠辰は』、『これを放棄して薩摩国の出水(鹿児島県出水市)にまで撤退し』ている。秀吉はさらに四月二十五日に肥後佐敷(熊本県葦北郡芦北町)、二十六日に肥後水俣(熊本県水俣市)と進み、四月二十七日に『島津方の予想を上回る速さで秀吉が薩摩国内に進軍すると、出水城(出水市)の城主島津忠辰、宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の城主島津忠長らが降伏した』。『秀吉は、薩摩の浄土真宗勢力を利用するために本願寺(当時は摂津国天満に本拠を移転)の顕如をともなっていた。これにより』、『獅子島(鹿児島県出水郡長島町)の一向門徒の協力を得て、島津方の意表を突く迅速さで出水・川内の地に達したのであ』った。四月二十八日に小西・脇坂・九鬼勢が『平佐城(薩摩川内市平佐町)に攻撃を仕掛けたが、ここで』、『城主桂忠詮の反撃にあった(平佐城の戦い)。このとき、平佐城の井穴口を守る原田帯刀が寄手大将小出大隅守の弟九鬼八郎を弓で射とめ、また、城内の女たちや子どもたちも懸命にはたらくなど善戦して、双方、相当数の犠牲者を出した。これが島津方の最後の抵抗となった』とある。
「岩代河沼郡若宮村大字牛川字牛澤」福島県河沼郡会津坂下町牛川村附近。
「佐瀨上總(さぜのかずさ)」「会津坂下ぶらっと散歩」(会津坂下町観光物産協会製作か)のこちらのページの「牛沢館(うしざわだて)跡」に、『坂下厚生病院前より南へJR只見線の踏切を渡り、約』二キロメートル『の牛川地区の牛沢集落に』『芦名氏家臣の館跡』があるとあり、『曹洞宗大徳寺の北側の一帯が牛沢館跡だが、宅地化の』ため、『館としての形跡は留めていない』。「会津鑑」『には、牛沢地区には二氏による居住があったことが記述されて』おり、その一つが『牛沢村柵』で、『佐原右馬允包盛』(さわらうまのすけあきもり)『が築き、天正』(一五七三年~一五九一年)の頃は、『蒲生氏家臣佐瀬上総守』(さぜかずさのかみ)『が住んでいたとあ』り、『佐瀬氏の末裔の方は会津若松市』に今も『在住』されておられるとある(太字は私が附した)。「さぜ」の濁音はこのページに拠った。
「祝神(いはひじん)」「ブリタニカ国際大百科事典」では、「いわいがみ」を見出しとし、小山梨県から長野県にかけて、本家・分家関係にある数戸乃至十数戸の家々が合同で祀る神で、「いわいでん」とも「いわいじん」とも呼ばれる。集落の一隅のこんもりと茂った森の中に小さな祠を設ける場合が多く、一般に祭神は稲荷・春日・津島・天神などが多い。同族神の典型と考えられ、祭日は春は二月と四月、秋は 十一月に集中していて、日本の伝統的な氏神祭の祭日とほぼ一致しているとし、平凡社「百科事典マイペディア」では「いわいがみ」を見出しとし、長野・山梨・兵庫などに見られる同族神で、「いわいじん」「祝殿(いわいでん)」とも呼ぶ。集落内の森などに祠(ほこら)を建て、数戸から十数戸の同族の家が、一族の守護神として祀る。祭神は稲荷が多く、他に春日・天神・八幡などと雑多である、とある。
「讃岐三豐(みとよ)郡莊内村大字箱(はこ)」「八幡宮」香川県三豊市詫間町(たくまちょう)箱にある箱崎八幡宮であろう。
「備後絲崎の絲崎八幡宮」広島県三原市糸崎(いとさき)の糸碕(いとさき)神社(地名とは漢字表記が異なるので注意)。「馬出馬神(うまだしばじん)」本文で注した通り、読みは私の勝手な読みであるので注意。しかし、現行では、同神社名と、この「馬出馬神」ではヒットしない。もう祀っていないのだろうか?
「絲崎谷」上の三原市糸崎の後背部には、別に広島県三原市糸崎町が広がるが、グーグル・マップ・データの航空写真で見られると一目瞭然、丘陵部で、多数の谷があることが判る。
『常陸鹿島郡大同村の六月十五日の「泣祭」』現在の茨城県鹿嶋市荒井・津賀・武井附近の、この画面上一帯が旧大同村であったと推測される。太平洋に面し、北浦の東岸に位置する。鹿嶋市教育委員会社会教育課のサイト「鹿嶋デジタル博物館」の、「立原の泣き祇園(市無形文化財)」によれば、現在は、旧大同村の北に接する立原地区で「立原の泣き祇園」として残っていることが判る。『「泣きぎおん」とはその昔』、『深い田にはまって死んだ農耕馬を悼み』(ともに娘も死んでいる)、その馬の命日とされる旧六月十五日に『供養するようになったのが始まりとされています』。現在では七月十五日に近い休日に『行われています』。『かつてはお神輿のような棺箱を担いで』、『「じゃらんぼ遺跡」をお参りしました。棺箱は実際にお葬式で使われていたものです』とある。リンク先には四分の動画があり、より詳しい内容と、現在の祭りの様子が見られる(それによれば、今は泣き真似はしないそうである。それはちと淋しい)。同サイトに「じゃらんぼ遺跡」もあり、その説明によると、『鹿嶋市大字和の立原地区に所在する水田の中の小さな塚で』、『史跡内には』「延宝六(一六七八)年六月十五日」と刻まれた『石碑が建っています。この史跡は』『「泣きぎおん」にかかわるもので』、『大昔は』、『北浦に堤防がなく、長雨が降り続くと』、『水があふれ出し、田んぼは泥深くなり大変でした』。『そのような時、立原村の農民の馬が深みにはまり、抜け出すことができず、ついに沈んで絶命したと伝えられ、以後立原村(大字和)では、馬が亡くなった旧暦』六月十五日を「立原の泣き祇園」の日と『決め、葬式のじゃらんぼ行列を装い、泣きながらお墓に詣でる祭事を行っています』とあった。動画では、その石碑は「虫供養と書かれた観音石像」とあり、柳田國男が後で言う通り、この馬塚には「虫送り」も習合していることが判る。さらに、この行列が現在も鉦と太鼓を先頭に配して、鳴らしながら行くのは「虫送り」と同じで、それはある意味、《葬儀の再演》を行って霊を鎮めることが目的と判ることから、この「じゃらんぼ」という一見奇妙な名は、その葬儀の鉦鼓の音の「ジャラン、ボン」であろうことが推定される。
「馬の面(つら)に似たる害蟲」恐らく、先端から後端(翅の端まで)が約一・三センチメートルにも及ぶ、昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目オオヨコバイ科 Bothrogonia 属ツマグロオオヨコバイ Bothrogonia ferruginea ではないかと思われる。同種は背面に大きな黒い楕円形の斑紋があり、これは見ようによっては、馬の目のように見えるからである。
「日本宗敎風俗志」ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。
『「蟲送り」に鉦鼓を鳴らすことは弘く行はるゝ風習にて、一般には、害蟲を戰場に歿したる者の亡靈の所爲(しよゐ)なりとす」「實盛の祭」ウィキの「虫送り」によれば、『虫による害は、不幸な死をとげてしまった人の怨霊と考える御霊信仰』『に関係した』、『「害のあるものを外に追い出す」呪』(まじな)『いの一つである。神社で行われる紙の形代に穢れを移す』『風習との共通性が見られる』。『春から夏にかけての頃(おもに初夏)、夜間』、『たいまつを焚いて行う。また、藁人形を作って悪霊にかたどり、害虫をくくりつけて、鉦や太鼓を叩きながら行列して村境に行き、川などに流すことが行われる地域もある。地域によっては』、『七夕行事と関連をもって行われる』。「平家物語」でも『知られる平安時代末期の平氏武将・斎藤実盛(斎藤別当実盛)は、篠原の戦いのさなか、乗っていた馬が田の稲株につまずいて倒れたところを』、『源氏方の敵兵に付け込まれ、討ち取られてしまったため、その恨みゆえに』、『稲虫(稲につく害虫)と化して稲を食い荒らすようになったという言い伝えが古くから存在した』。『そのため、稲虫(特にウンカ』(浮塵子:半翅(カメムシ)目ヨコバイ亜目 Homoptera に属する種群の内、イネの害虫となる体長五ミリメートルほどの小型の昆虫類を指す)『)は「実盛虫(さねもりむし)」』『とも呼ばれ、主として西日本では、実盛の霊を鎮めて稲虫を退散させるという由来を伝え』、『この種の「虫送り」を指して「実盛送り(さねもりおくり)」または「実盛祭(さねもりまつり)」と呼んでいる』(主に近畿・中国・四国・九州での呼称である)。『かつては全国各地に数多く見られたが、農薬が普及するに連れて害虫の脅威が低減したことに加え、過疎化、少子高齢化、米価の下落などによる農業の衰退と、その結果としての担い手不足も大きく影響し、次第に行わない地域が多くなっていった』。『火事の危険などを理由に取り止めた地域もある。現在行われているものも、原形を留めるものは少ないといわれている』。『農業と地域社会に深く関わる伝統行事であるため、その保存には農業および地域社会の活性化と維持が不可欠で、大きな課題となっている』。同行事の異名には「虫流し」「田虫(たむし)送り」「稲虫(いなむし)送り」「虫追い」「虫供養」等がある。
「伊勢大神宮の」「御神田(みかんだ)の神事」最も知られているのは「磯部の御神田(おみた)」の祭儀を指すか。三重県志摩市の伊勢神宮内宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)に伝わる民俗芸能の田楽。ウィキの「磯部の御神田」を読まれたい。また、内宮近くにある猿田彦神社の「御田祭(おみた)」もある。キタヰ氏のブログ「神宮巡々2」の「御田祭[おみた](猿田彦神社)」が写真が豊富で、よい。
「祝(はふり)」現代仮名遣「ほうり」。ここは神道に於いて神主・禰宜(ねぎ)の次位にあって神に仕える者の意。
「御田扇(おんたあふぎ)」「御田扇 馬」で検索したが、画像が見当たらない。
「磨墨(するすみ)」既出既注であるが、ここでのウィキの「磨墨塚」をリンクさせておく。
「池月(いけづき)」既出既注であるが、ここでウィキの「生食(ウマ)」をリンクさせておく。同名馬の漢字表記は「生食」「生唼」「生月」「生喰」がある。これらは風流な「池月」に対して、生き物を喰らうほどに獰猛な馬の意である。
「狐崎」静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」がある(グーグル・マップ・データ)。ここで梶原一族は襲われて、滅亡した。私の「北條九代記 梶原平三景時滅亡」を参照されたい。
『源三位賴政が平家の爲めに奪はれんとせし「木下」と云ふ名馬』「平家物語」の「巻第四」の「競(きほふ)」の中に出る、頼政の嫡子仲綱が所有していた鹿毛(かげ)の名馬を平宗盛が執拗に望み、手に入れると、馬にひどい仕打ちをし、仲綱をも侮辱した。これによって頼政は平家打倒の挙兵をする決意を密かに固めた、といった展開を示す部分である。サイト「学ぶ・教える.COM」の「平家物語」の原文・現代語訳を併置するこちらと、こちらで読める。
「山城葛野(かどの)郡木島(このしま)明神の附近、寶金剛橋(はうこんがうばし)の南の田中に神塚を築きて祭られたり」「木島明神」京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社。通称を「木嶋(このしま)神社」「木島神社」「蚕(かいこ)の社(やしろ)」とも。「寶金剛橋」は不詳。]