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2019/05/09

太平百物語卷三 廿六 高木齋宮なんぎに逢し事

 

   ○廿六 高木齋宮(たがきいつき)なんぎに逢(あひ)し事

 大坂に高木齋(たがきいつき)といふ陰陽師(おんやうじ)あり。毎年(まいねん)、春の比(ころ)、江戶に下り、諸高家(かうけ)の御(おん)屋敷に出(いで)入して、卜筮(ぼくぜい/うらかた)の功、甚(はなはだ)驗(しるし)ありければ、御歷々も、したしく仰せ下されける。

 一年(ひとゝせ)、例のごとく吾妻に赴きける時、相摸領(さがみりやう)を通りけるが、折節、殘暑つよかりしゆへ、道、はかゆかずして、駅舍(ゑきしや/はたごや[やぶちゃん注:「ゑき」はママ。])ならぬ百姓の家に宿(やど)を乞(こひ)、從者(ずさ/めしつかい[やぶちゃん注:ママ。])と共に留(とま)りけるが、夜(よ)も五更[やぶちゃん注:凡そ現在の午前三時から午前五時、又は午前四時から午前六時頃に相当する。寅の刻。シチュエーションから前者で採る。]に近き比ほひ、女の聲にて、

「あつ。」

と、一聲(ひとこゑ)、さけびしが、其後(そのゝち)は、何(なに)の沙汰も、聞へず。

 齋(いつき)、あやしくおもひ、いとゞ寢がたく、便(べん)に出(いづ)るふぜいにて[やぶちゃん注:厠に行くふりをして。]、臺所の方(かた)に出(いで)て樣子を窺ふに、家内(かない)、よく寢入(ねいり)て、何(なに)の事もなければ、心を安んじ、又、もとの臥床(ふしど)に入らんとせしが、何やらん、足にあたれば、手を下(おろ)して、探りみるに、女の生首なり。

 齋(いつき)、大きに仰天し、四方をよくよく見廻(みまは)しけるに、乾(いぬひ[やぶちゃん注:ママ。「乾(いぬゐ)」は南西。])の方(かた)の壁、人の出入(いでいり)する程、切(きり)ぬきたり。

『こは。只事(たゞごと)ならず。我、此事を亭(あるじ)に告(つげ)なば、却(かへつ)て、僉義(せんぎ)むつかしからん。』

と思ひ、しらぬ体(てい)にて、ふしどに入しが、灯(ともしび)にて、わが身をみるに、着物の裾、又、手足にも、血、おほく付(つき)たり。

 齋(いつき)、心におもふ樣、

『明(あけ)なば、此事、せんぎあらんに、わが着類(きるい)に血の付(つき)たるを見るならば、定めて、我が仕業(しわざ)といはん事、必(ひつ)せり。所詮、こよひの内、忍びて迯出(にげいで)ばや。』

と思ひ定め、從者(ずさ)をひそかに呼び起し、此よしを告(つげ)しらせ、取(とる)物も取(とり)あへず、足をばかりに迯出(にげいで)、其夜(そのよ)のうちに三里ばかりの道を過(すぎ)て、藤澤まで、のがれ出たりしに、跡より追來(おいく[やぶちゃん注:ママ。])る人もなくして、夫(それ)より、事ゆへなく武州にくだりけるとぞ。

「其後は如何(いかゞ)なりけんも、しらず。」

と、聞(きく)人、咄(はな)せし兩人、一度に汗をぞ拭(のご)ひける。

[やぶちゃん注:前に訝しく思った通り、ほら、これも話に江戸は出るが、江戸じゃあ、ない。なお、場所は特定可能だ。最後の部分で、高木らが泊まったのは、藤沢宿の西の手前三里(十二キロメートル弱)附近であることが判る。藤沢宿の前は平塚宿であるが、旧東海道を実測すると、平塚宿と藤沢宿間は丁度、十二キロメートル強である。だのに、彼らは平塚宿に泊まらずに通過したと考えねばならない。問題はしかし、平塚宿を過ぎるとすぐに相模川があることである。しかも江戸時代の東海道の相模川(現在の馬入橋ばにゅうばし)付近で、この辺りの相模川を馬入川とも呼ぶ)には橋はなく、渡し舟によって渡河しなくてはならなかった。とすれば、未明に百姓家を抜け出したとして、そんな早朝では渡し舟は運航していないはずだ。さすれば、かれらは前日に馬入川を越えていたと考えねばならぬ。しかも馬入川川畔なら、舟止めの際のための仮泊まりの施設はあったろうから、そこは過ぎていたと考えると、この附近(グーグル・マップ・データ)、現在の茅ヶ崎市の西部辺りがロケーションではなかろうか(ここからは藤沢宿まで凡そ十キロメートル前後でドンブリで「三里」は腑に落ちる)なお、当時、公的には宿場以外の場所で旅人が宿を借りることや、そういう旅人に宿を提供することは禁じられていた。ただ、緊急避難的には黙認されていたし、そういう事実もある。例えば、私の「耳囊 卷之九 不思議の尼(あま)懴解(さんげ)物語の事」などが、そのよいケースである(ここでは全くの道途の何でもない茶店の主人が尼に店へ一泊の宿りを許している)。但し、あくまでこれは非合法で、たとえそれが江戸の高家の覚え目出度い陰陽師だろうが、公には許されることではない。彼が詮議(せんぎ)を受けることを恐れた一つの理由の中には、そうした一見、つまらない理由もあるのであると私は考えるべきであると思う。因みに、あまりよく知られていないと思うので言っておくと、例えば、江戸時代の旗本は実は不自由窮りなく、形式上では彼らは将軍直参の軍兵であるからして、幕府の許可なく、江戸市中の外に物見遊山や旅をしたりすることは勿論、江戸以外の地の親族の家に泊りに行くなどということさえ実は厳に禁じられていたのである。なお、本話は、最早、ゴースト・バスターのチャンピオンたるかの安倍晴明の遺伝子の欠片(かけら)もない情けない陰陽師といい、女の叫び声と生首と血糊(それが確かに衣服や手足に現認される点で怪異が現実を侵犯している)、そして、不気味な壁の大きな黒々と開いた穴(異界への通路か。私の好きなラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft 一八九〇年~一九三七年)の名短編「エーリッヒ・ツァンの音楽」(The Music of Erich Zann:一九二二年)を思い出した)という小道具、はたまた一貫して怪異の理由が最後まで明かされない設定といい、上質の真正怪談の要素満載の佳品である。

「高木齋宮(たがきいつき)」「たがき」はママ。本文で「高木齋(たがきいつき)」と「宮」が落ちているのもママ。思うに、本書に出る人名は孰れも読みが妙である。これは怪談集であることと関係があるのかも知れない。万一、同姓同名の人物がいた場合、或いはそれを指弾されて出版禁止になることもあろう。さすれば、読みを一般的でない形で附すことによって、これは架空の人物であることを示して、そうした難を避ける意味合いがあるとも言えるのかも知れない。

「陰陽師(おんやうじ)」ウィキの「陰陽師」の「近世における官人陰陽師の再興と民間陰陽師の興隆」を引いておく。『秀吉が薨じ、慶長』五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で『西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡鶏冠井(かいで)村(現京都府向日市鶏冠井町)・寺戸村(同寺戸町)、葛野郡梅小路村(同府京都市下京区梅小路)・西院村(同右京区西院)、紀伊郡吉祥院村(同南区吉祥院)にわたる計』百七十七『石』六『斗の知行を与えられて宮中へ復帰し』、三年後の慶長八(一六〇三年)に『江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家』二『家(賀茂・安倍)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂家の分家幸徳井家を再興させ』、二『家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した』。『この動きを得て、土御門家勢力は天和』二(一六八二)年に『幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、幸徳井家を事実上』、『排除して』、『陰陽寮の諸職を再度』、『独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、更にその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧みられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって有職故実の研究対象の一分野とされるようになっている』。『各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原家、地域派生の嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた』。ただ、貞享元(一六八四)年、『幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで』八百二十三『年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約』七十『年後の宝暦』五(一七五五)年、『土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている』。『その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された天保暦は、不定時法の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている』とある。

「高家(かうけ)」江戸幕府の職名。老中支配で、勅使接待・伝奏御用・京都名代・日光名代・伊勢名代など、朝廷・公家関係の儀式典礼を司った。畠山・由良・大友氏など、中世以来の名家や、日野・中条氏など公家の分家が多く、大名に準じた官位を受けた。慶長期(一五九六年~一六一五年)に大沢基宿(もといえ:持明院流)、続いて吉良義弥(よしみつ):足利氏庶流)が伝奏御用を勤めたのが始まりとされ、以後、次第に増加していった。江戸後期には二十六家が数えられる。役高千五百石、家禄は五千石の畠山氏を筆頭に一千石台が多く、品川氏の三百石に至る。孰れも世襲で、原則として他の役職に就くことは許されなかった。この内、若年や老年などの理由で非役の家を表高家と称して区別した。高家肝煎(きもいり)は二~三名が選任され、京都名代を勤めたもので、役料八百俵が支給され、その成立は享保期(一七一六年~一七三六年)頃と考えられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「卜筮(ぼくぜい/うらかた)」「うらかた」は元来は「占形」「卜兆」で亀卜(きぼく/かめうら)の結果として、その表面に現れた亀裂の形を指したが、後に「占方」と書いて、占術をすること或いはそれを仕事とする人を指すようになった。

「足をばかりに」原典も「江戸文庫」も「徳川文芸類聚」も「足をはかりに」であるが、濁音化した。前のケースと同じく、限定で「ただひたすらに足を動かすことばかりを頼りとして」の意であるからである。]

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