おとづ れ ツルゲエネフ(生田春月訳)
お と づ れ
私は開(あ)け放(はな)した窓邊にすわつてゐた……朝早く、五月一日の朝早くである。
日はまだ出ない。けれども。仄(ほの)かに白みそめて、暗(くら)い暖(あたゝ)かな夜は早や凉氣を帶びはじめた。
霧はまだのぼらず、そよとの風もない。よろづの物は一色(ひといろ)に、まはりには深い靜寂(しづけさ)がある――けれども自然はやがて目覺(めざ)めることを思はせた。微風は鋭い濕つぽい露の匂ひを蒔き散らしてゐた。
突然開け放した窓から輕い音立てゝ、大きな鳥が部屋の中へ飛び込んだ。
私はびつくりして、それに眼を遣つた……鳥ではなかつた、身にぴつたり附いた長い着物を垂れて、翼をそなへた小さな女の姿であつた。
彼女はすつかり灰色であつた、眞珠母(しんじゆぼ)いろの灰色であつた。たゞその翼の内側のみが、咲き初めた薔薇のやはらかな紅(くれなゐ)を帶びてゐた。君影草(きみかげぐさ)の花輪はその圓い頭のうち亂れた捲髮をとりかこんでゐた。美しい圓(まる)い額(ひたひ)には、二つの孔雀の羽根が蝶の觸角(しよくかく)のやうに面白く搖れてゐた。
彼女は部屋の中を二三度飛び廻つた。彼女の小さな顏は笑つてゐた。大きな黑い明るい眼も笑ひを湛へてゐた。
氣儘に飛んではふざけ廻るので、彼女の眼は金剛石(ダイヤモンド)のやうにきらきら輝いた。
彼女は曠野(ステツプ)に咲く花の長い莖を持つてゐた。露西亞人が「皇帝の笏」と呼んでゐるもので、實際笏によく似てゐる。
すばしこく私の上を飛びながら、彼女はその花を私の頭に觸れた。
私は兩手をその方へ差しのぱした……けれども彼女は窓から飛び出して、また行つてしまつた……
庭園(には)の紫丁香花(むらさきはしどい)の花の繁みの中で、斑鳩(じゆづかけばと)はその日のはじめの鳴聲を舉げて彼女を迎へた。彼女がはるかに消えてしまつたあたり、乳白の空はだんだんと紅味(あかみ)を帶びはじめた。
私はおん身を知つてゐる、空想の女神よ! はからずもおん身は私を訪ねてくれた、若い詩人たちの許(もと)へ行く道すがらに。
おゝ、詩歌(しいか)よ、靑春よ、女性の童貞の美よ! たゞこの瞬間に、お前たちは私の生涯に光輝(かゞやき)を與へてくれた、春のはじめの朝まだきに!
一八七八年五月
[やぶちゃん注:「眞珠母(しんじゆぼ)」アワビの貝殻の内側等に見られる真珠層の別名。真珠母(しんじゅぼ、英: mother of pearl)は、ある種の軟体動物(特に貝類)が貝殻の内側に形成する、外套膜から分泌された炭酸カルシウムを主成分とした光沢物質で無機物と有機物の複合物質である。干渉縞により、構造色(虹色)を呈する場合が多い。
「君影草(きみかげぐさ)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の別名。
「曠野(ステツプ)に咲く花の長い莖を持つてゐた。露西亞人が「皇帝の笏」と呼んでゐるもので、實際笏によく似てゐる」「曠野(ステツプ)」はステップ(ロシア語:степь /ラテン文字転写:stepʹ/英語:steppe)は中央アジアのチェルノーゼム(ロシア語:чернозём/ラテン文字転写:chernozyom/英語:chernozem/肥沃な黒土のこと)帯に代表される世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味で、学術的には、樹木のない平原で河川や湖沼から離れている様態を指す。通常は丈の低いイネ科 Poaceae 等の草が植生する。「皇帝の笏」の原文は「царским жезлом」で、「царским」は「ツアーリの」の原義から「豪勢な」の謂いで、「жезл」は権力や職権を表わす笏杖のことである。これは先行する神西清訳の「散文詩」の本篇の注で 学名 Verbascum thapus であることが明らかにされている。この Verbascum thapus とはシソ目ゴマノハグサ科モウズイカ(毛蕋花)属ビロードモウズイカで、名称はこの植物の毛深さに由来する(以下のリンク先の写真を参照)。ウィキの「ビロードモウズイカ」によれば、『ヨーロッパおよび北アフリカとアジアに原産するゴマノハグサ科モウズイカ属の植物である。アメリカとオーストラリア、日本にも帰化している』とあり、『この植物の大きさや形を元にした名前として、"Shepherd's Club(s) (or Staff)"(羊飼いの棍棒(または杖))』や『"Aaron's Rod"(アロンの杖)(これは、例えばセイタカアワダチソウのような、背の高い花穂に黄色い花を群がり付ける他の植物に対しても使われる))そして、他にも「何何の杖」は枚挙に暇がないくらい』多数あるとする。因みに、『日本では「アイヌタバコ」「ニワタバコ」などの異名がある』と記す。グーグル画像検索「Verbascum thapus」を添えておく。皇帝の笏杖の意が何となく判る。
「紫丁香花(むらさきはしどい)」「ムラサキハシドイ」はモクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラックSyringa vulgarisの標準和名。花言葉には「青春の思い出」・「純潔」・「初恋」などがあり、ここは確信犯の描写であろう。なお、ハシドイの語源は不明だが、花が枝先に集まることから、「端集(はしつど)い」の略ともされるようである。グーグル画像検索「Syringa vulgaris」をリンクさせておく。
「斑鳩(じゆづかけばと)」「數珠掛鳩」ハト目ハト科ジュズカケバトStreptopelia roseogrisea var. domestica。白色のものは手品等でお馴染みである。グーグル画像検索「Streptopelia roseogrisea var. domestica」をリンクさせておく。]