太平百物語卷三 廿七 紀伊の國かくれ家の事
○廿七 紀伊の國かくれ家(が)の事
泉州岸和田に、志賀右衞門(しがへもん[やぶちゃん注:ママ。])といふ者あり。若年の比(ころ)ほひより、志(こゝろざし)誮(やさ)しき[やぶちゃん注:「優しき」に同じい。]男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])にて、諸國を經廻(へめぐ)り、神社佛閣、或は、名勝古跡を尋(たづね)る事を樂しみけるが、一年(ひとゝせ)、熊㙒山(くまのさん)の方に赴(おもむき)ける時、紀伊の國、日高の郡(こほり)を通りしが、実(げに)、秋の日のならひにて、おもひの外に暮(くれ)かゝり、殊更、小雨そぼふり、何となく、物あはれなりければ、
こさめふる秋のゆふべのきりぎりす
たえだえになる聲ぞかなしき
と、口ずさみければ、一入(ひとしほ)、こゝろもしめり行くほどに、
『今宵は此あたりに宿をこひ、一夜(ひとよ)を明(あか)さばや。』
と、おもひしに、近きあたりには家居(いへゐ)も見へず。
「いかゞせん。」
と、たどり行に、少し道の傍(かたはら)なる小高き所に、家一軒、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、志賀右衞門、よろこび、
「いざや、これに行きて、宿をからん。」
と、あぜ道をつたひて、五、六丁斗(ばかり)[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十五メートル弱。]も行とおぼへて、彼(かの)所に至り、やがて、案内をこひ、「しかじか」のよしをいひければ、内より、三十斗(みそじばかり[やぶちゃん注:ママ。])の女、立ちいで、志賀右衞門を、つくづく、みて、
「旅人(たびびと)にて渡らせたまふかや。一夜のほどは、かしまいらせん。此方(こなた)へ入らせ玉へ。」
と、いと心よく、いひければ、志賀右衞門、よろこび、内に入、家内(かない)を見るに、此女の外、人、一人も、なし。
志賀右衞門、ふしぎをなし、あるじの女にむかひ、
「見申せば、召しつかひ玉ふ人もなく、御つれあひもましまさぬは、御他行(おんるす)にもや。」
と尋ぬれば、女、打ゑみ、いひけるは、
「われ、元より、夫(おつと)なし。夫なければ、子といふ者も、さぶらはず。一生、寡(やもめ)にて侍(はん)べる[やぶちゃん注:ママ。]。」
といへば、志賀右衞門、重ねて、いふ。
「此所には、續く家居も見へざるに、若き女性(しやう)[やぶちゃん注:「にやしやう」。]の、獨(ひとり)住(すみ)玉ふ事こそ、不審(いぶか)しけれ。これ、必(かならず)、僞(いつは)りならめ。眞(まこと)を明(あか)させ玉へ。」
といふに、女、いよいよ打わらひ、
「何(なに)しに僞りまいらせん[やぶちゃん注:ママ。]。我、常は獨住[やぶちゃん注:「ひとりずみ」。]といへども、用ある時は、これなる箱の内より、呼出(よびいだ)し遣(つか)ひ侍るなれば、つれづれもなく、まして、不自由も、さふらはず。」
と、いふにぞ、彼(かの)箱をつくづく見るに、わづか、方四寸ばかりなる、いと古びたるなり。
志賀右衞門、大きに笑ひ、
「こは。そも、我を無骨(ぶこつ)の男とおもひ、あるじの御方(おかた)の戲(たはむ)れをこそ宣(のたま)へ。われ、先ほどより、何とやらん、物さびしく侍らへば[やぶちゃん注:ママ。]、何にても、あつ物にして与へ玉へ。これぞ御芳志ならん。」
と、いふ。
女のいはく、
「実(げに)。さにこそ侍らん。一樹(いちじゆ)の陰(かげ)、一河(いちが)の流れも、他生(たしやう)の緣にてさふらへば、何をがな參らせ度(たく)は候へども、はかばか敷[やぶちゃん注:「はかばかしき」。]物も侍らはず。我、常に蕨(わらび)を好みて、食物(しよくもつ)とし侍る。これを与へ參らせん。」
とて、かの箱の上を、
「ことこと。」
と叩きければ、内より、二十(はたち)斗の女、忽然と顯はれ出でたり。
亭(あるじ)の女の、いふ。
「今宵、客人(まらうど)あり。なんぢは、急ぎ、わらびをしつらへて、參らせよ。」
と、いへば、此女、點頭(うなづい[やぶちゃん注:ママ。])て、納戶(なんど)に入る。
又、箱をたゝけば、十四、五才の童子、穴の中より出たりしを、
「汝は、客人に茶を煮て、まいらすべし。」
と、いふに、これも應じて、納戶に行(ゆく)。
暫くして、彼(かの)女、わらび餅を持出(もちいで)、志賀右衞門が前に置く。
志賀右衞門、此有樣をみて、大きにあやしみ、
『これ、人間にあらじ。此餅を喰(くは)ん事、如何(いかゞ)ながら、若(もし)、喰ずんば、いかなる事やあらん。』
と、心ならず喰(くひ)ければ、童子、同じく、茶を持來(もちきた)る。
これも、力なく飮(のみ)ければ、亭主(あるじの)女、二人の者に、いふ樣、
「今は、はや、用、なし。休むべし。」
と、いへば、二人共に、頓(やが)て、彼(かの)箱に、入りぬ。
志賀右衞門、奇異の思ひをなし、亭女(ていぢよ/あるじ)にむかひ、いふやう、
「われ、數年來(すねんらい)、諸國を廻(めぐ)り侍るといへ共、終にかゝる奇術を見ず。御身は、そも、いかなる人にてましませば、かゝる奇特(きどく)をなし給ふ。願(ねがは)くは御物語(ものがたり)候ひて、我(わが)冥闇(めいあん)を、はらさせ給へ。」
と、いへば、亭女(ていぢよ)のいはく、
「是、妖術なり。されども、御身の爲に、更に害なし。我、此所に住(すむ)事、百餘年、御身のごとく、道に迷ひ來(きた)る人、これまで、四人なり。此術をあながちに問ふ人、其内、二人ありて、力なく、命(いのち)を取。二人は問はずして、命、全(まつた)く、歸しぬ。」
と語れば、志賀右衞門も、其言葉の恐しさに、再び、とはず。
とかくして、夜(よ)も明方ちかくなりければ、亭女のいふ。
「もはや、夜(よ)も望白(あけなん)とす。これより、徃來(わうらい)の巷(ちまた)まで、おくり屆け參らせん。御身、此所へ來(き)し事、『假初(かりそめ)に五、六丁』と思へど、すべて人倫の道路、四方、すでに五十里[やぶちゃん注:百九十六キロメートル強。]あり。夜前(やぜん)、わが家(いへ)の方(かた)を見上(みあげ)玉ふゆへに[やぶちゃん注:ママ。]、通力(つうりき)を以て、招きたり。されば、今、御身、人力[やぶちゃん注:「じんりよく」。]にて出玉はん事、努(ゆめ)々おもひもよらず。」
とて、志賀右衞門が腰に、手をかくる、と見へし、やがて、徃來の道に出たり。
志賀右衞門は、茫然として、跡を見かへれば、遙かの樹木(じゆぼく)生茂(おひしげ)りたる山のみ幾重(いくへ)もかさなり、彼家(かのいへ)とおぼしき物は露斗(つゆばかり)も見へざれば、偏(ひとへ)に夢の覚(さめ)たる心地して、夫(それ)より、熊㙒山にまふで侍りしとかや。
ふしぎなりし事共なり。
[やぶちゃん注:数百年を生きた妖術を使う女と紀伊とくれば、泉鏡花の「高野聖」、はたまた、日高郡にして夫はなくして一生が寡婦(やもめ)と不思議なことを呟くところは、即座に安珍・清姫の「道成寺説話」を想起させる(因みに私はサイトに特設ページ「――道成寺鐘中――Doujyou-ji Chronicl」を持つ程度に同説話にはフリークである)。少なくとも作者の意識の中には後者が面影として映じているものと私は読む。
「泉州岸和田」現在の大阪府岸和田市(グーグル・マップ・データ)。
「志賀右衞門」挿絵を見る限り、二本差しで武士である。因みに、挿絵は時制を合わせずに、登場人物を総て登場させている。但し、不思議な箱は大き過ぎる。
「何とやらん、物さびしく侍らへば」何となく、小腹がすいて御座れば。
「あつ物」ちょっとした煮物或いは熱い汁物。恐らくは、彼女の夕食の余り或いは残り物をイメージしたものかと思われる。
「これぞ御芳志ならん。」「それこそ今の拙者にとって、まっこと、ありがたきお心遣いと申すものに御座る。」。
「望白(あけなん)とす」これはとてもいい風流な当て訓ではないか。]