我が競爭者 ツルゲエネフ(生田春月訳)
我が競爭者
私は一人の競爭者や持つてゐた。事業や、官職(つとめ)や、戀愛上の競爭者ではなかつたが、たゞ二人の意見はどんな問題にも一致しないので、二人が出會ヘぱ果てしもない議論が起つた。
二人は事每に爭つた。藝術や、宗教や、科學に就いて、地上や墓の彼方(かなた)の生活に就いて、とりわけ墓の彼方の生活に就いて。
彼は正敎信者で、且つ狂熱家であつた。或る時彼は私にかう言つた、『君は何でも嗤わら)
ふが、若し僕が君より前(さき)に死んだら、きつと他界(あのよ)から君のところへ來る……その時君がなほ嗤(わら)ふかどうか見たいものだ』
そして事實彼は私よりも前(さき)にまだ若くて死んだ。けれども歲月(としつき)は移(うつ)つて、私は彼の約束、彼の脅喝(けふかつ)を忘れてしまつた。
或る夜、私は床に就いたが眠れなかつた。と云ふより眠る氣がしなかつたのだ。
部屋の中は暗くも明るくもなかつた。私はいつか灰色の薄明(うすあか)りをぢつと見入つてゐた。
すると不意に二つの窓の間に私の競爭者が立つてゐて、靜かに悲しげに、頭を上下に振つてゐるやうに思はれた。
私は恐れなかつた、驚きもしなかつた……けれども少し起き上つて、肘(ひぢ)を突いて、その思ひがけない幻影を一層鋭く打見やつた。
その幻影はやはりうなづいてゐる。
『さあ?』と私はとうとう言つた、『君は勝ち誇つてゐるのか、悔い憾(うら)んでゐるのか? どうだね――警(いまし)めるのか責めるのか?……或はまた自分が間違つてゐたとか、二人共間違つてゐたとか知らせに來たのか? 君はどんなことを經驗したのか? 地獄の責苦か? 天國の愉樂か? せめて一言(こと)でも話したまヘ!』
けれども私の競爭者はたゞの一言も言はないで、相變らず悲しげに穩(おだや)かに頭を上下に振つてゐるばかりだ。
私は笑つた……彼は消えてしまつた。
一八七八年二月
【正教、露西亞の國教、希臘より傳はつた基督教である。ツルゲエネフは獨逸哲學に心醉した懷疑主義者だつたから、死後の生活について信じ得なかつたのである。この篇は「祈禱」などと比較して考へれば一層よくわかる。――競爭者と云ふのはネクラソフではないかと思はれる。ネクラソフはロシアで最も廣く讀まれた傾向詩人で、彼は詩を實利主義の奴隷となし、「乾酪は一片のプウシキンの全集より尊し」と叫んだ。だから藝術の自由を說くツルゲエネフとは合はなかつたのである。ネクラソフの代表作は長篇詩「露西亞にて幸福に生くる者は誰ぞ」「露西亞の婦人」等で、西歐にもよく知られてゐる。】
[やぶちゃん注:「祈禱」本書の終りから二番目のずっと先の作品なので、若い人のために『トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 祈り』をリンクさせておく。
「ネクラソフ」ロシアの詩人で雑誌編集者であったニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフ(Николай Алексеевич Некрасов/。ラテン文字転写:Nikolai Alekseevich Nekrasov 一八二一年~一八七八年)。一八四七年、故プーシキン(後注)が創刊した雑誌『同時代人』の発行者の一人となり、革命的民主主義の機関誌として、その地位を確立させたが、一八六六年に同誌が発行禁止処分にされたため、一八六八年に『祖国の記録』誌の発行権を買収、死ぬまでその編集と発行に当たり、進歩思想運動の合法的機関とした(ここまではウィキの「ニコライ・ネクラーソフ」に拠った)。ツルゲーネフ(一八一八年~一八八三年:六十四歳で没)より三つ歳下であるが、五十六で亡くなった。本「散文詩」(“Стихотворение в прозе”:ラテン文字転写“Stikhotvoryeniye v proeye”)は一八八二年十二月に雑誌“Вестник Европы”(Vestnik Evropy:『ヨーロッパ報知』)に“SENILIA”という標題で発表したものが原型(その後の経緯や改題等の詳細については、私の「ツルゲーネフ 散文詩 中山省三郎譯 (全83篇)」の冒頭注を参照されたい)。
「乾酪」チーズ(cheese)。
「プウシキン」ロシアの詩人・作家でロシア近代文学の嚆矢とされるアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Alexander Sergeyevich Pushkin 一七九九年~一八三七年)。妻絡みの決闘による傷で亡くなった。その経緯はウィキの「アレクサンドル・プーシキン」を参照されたい。]

