太平百物語卷四 卅七 狐念仏に邪魔を入し事
○卅七 狐念仏に邪魔を入し事
江戶牛込の片ほとりに、太郞市とて独り住(ずみ)の職人有(あり)けるが、淨土宗にて、殊に信心なる男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])なれば、朝暮(てうぼ)、佛前にむかひて、念仏、怠る事なし。
或夜、いつものごとく、念仏して居(ゐ)たりしが、後(うしろ)より誰(たれ)ともなく、念仏を唱ふる者、あり。
太郞市、
『たれやらん。』
とおもひ、後を見やるに、人、なし。
又、念仏すれば、同じく申すほどに、
『扨は、わが心の迷ひならめ。』
と、一心不乱に申しければ、うしろの念仏、次第次第に大音(だいおん)になりて、後(とち)には十人斗(ばかり)も唱へける程に、太郞市、ふしぎに思ひ、急に、うしろを歸りみれば、何やらん、
「ばさり。」
と、物音して、目にさへぎる物は、なし。
『こは、いかに。』
と、おもひ、心ならねば[やぶちゃん注:ここは、「如何にも不気味にして心落ち着かぬので」の意。]、明(あく)るを待ちて、急ぎ、旦那寺に行(ゆき)、住持に「此よし」告(つげ)申せば、和尙、しばらく思惟(しゆい)して申されけるは、
「これ㙒干(やかん)[やぶちゃん注:妖狐。]の所爲(しわざ)ならめ。我、はからふ子細あれば、今宵、御身の方に、ひそかに、行(ゆく)べし。」
との仰せ、
「有がたし。」
とて、太郞市は悅び、かへりぬ。
和尙、則(すなはち)、夜(よ)に入て、太郞市が宅(たく)に來(きた)られ、一間所(ひとまどころ)に隱れて、樣子を窺ひ居(ゐ)らるれば、太郞市、每(いつも)のごとく念仏しけるに、実(げに)も、太郞市がいふに違はず、うしろより、同音に唱ふ者、あり。
始(はじめ)の程は、一、兩人の聲なりしが、後(のち)には數(す)十人の聲となりて、責(せめ)念仏[やぶちゃん注:鉦(かね)を鳴らしながら高い声で激しい調子に唱える念仏。ここのシークエンスでは鉦の音の幻聴音も入れた方が効果的である。]、しきりなりし所を、和尙、能(よく)々見すまし、此者どもが後(うしろ)に廻り、
「南無阿彌陀仏。」
と、一聲(ひとこゑ)、落ちかゝるやうに、大音聲(だいおんじやう)に申さるれば、此一聲に肝を消し、俄に狐の化(ばけ)を顯し[やぶちゃん注:元の狐の姿を露見させてしまい。]、飛がごとくに迯失(にげうせ)たり。
和尙、
「さればこそ。」
と、太郞市にむかひ、申されけるは、
「此後(のち)、又も來(きた)るまじ。心やすく、念佛し玉へ。」
とて、歸寺(きじ)せられしが、狐ども、こりけるにや、それよりして、ふたゝび來らざりけるとぞ。
[やぶちゃん注:前にも「太平百物語卷三 廿二 きつね仇をむくひし事」で指摘したように、特異点の江戸ロケーションの怪談である。リンク先の話の浅草の一部が被差別民のアジールであったように、ここも江戸の東の辺縁である。やはり、この作者菅生堂人恵忠居士には何か江戸を忌避する意識が強く働いていると言ってよいように思うのである。
「江戶牛込」現在の東京都新宿区東部の地名であるが、当時は、谷の多い武蔵野(山手)台地からなる一帯で、古くより「牛込」の地域名は早稲田から戸山原方面にかけて呼称された広域地名で(この附近。グーグル・マップ・データ)、江戸市中の東端に当たり、東は、かく狐も住む野原であった。太郎市の家はその「片ほとり」とあるから、まさにその西の草原に近い位置にあったものと考えてよく、野狐も出入りし易かったのであろう。]