太平百物語卷五 四十三 能登の國化者やしきの事
○四十三 能登の國化者やしきの事
能登の國に、化物屋敷ありて、おほく人を取りけるよし、專ら沙汰しける程に、後々は住(すむ)人もなかりしに、幾田八十八(いくたやそはち)といふ侍、おこの者にて[やぶちゃん注:「おこ」はママ。]、此屋敷を所望し、好みて住みけり。
然れども、化物、更に出でざれば、八十八、笑つて、
「さこそあるべし。化物も人によりてこそ出(いづ)らめ。」
と、独(ひとり)嘲(あざけ)り居(ゐ)たりしが、ある夜(よ)、深更におよび、厠に行(ゆき)けるに、下(した)より長き毛の手にて、八十八が尻を、なでける。
「さればこそ。」
とて、能(よき)ほどに、なでさせ、頓(やが)て、引(ひつ)とらまへて、力に任せ、引(ひき)ければ、次第次第に長くのびけるが、空(そら)を[やぶちゃん注:厠内(かわやうち)の上方を。]、
「きつ。」
と見上ぐれば、屋根、板、めくれて、さもすさまじき頰(つら)だましゐの者、八十八を、
「はつた。」
と白睨(にらむ)。
八十八も、同じく、にらみ付(つけ)、先(まづ)、此手を取(とつ)て、外に出(いづ)るに、『出(いで)じ』と力(りき)むを、八十八、大力量の者なれば、苦もなく引出(ひきいだ)しけるに、空より白睨(にらみ)し化物、其儘、落(おち)たり。
能(よく)々みれば、此、化者が手なり。
それより、兩方引組(ひつくみ)、上になり下になり、互に負(まけ)じと爭(あらそひ)しが、八十八、力や勝れけん、終に化者を組留(くみとめ)、やうやうに、さし殺しけるが、我身も所々に疵を蒙りけり。
夜明けて、みれば、猿の劫(かう)經たるにてぞありける。
其屋敷のうらに、年經りたる槇(まき)の木の有(あり)しを、怪しくおもひ、悉く、きらせ見るに、果(はた)して、樹上(じゆしやう/きのうへ)には、年來(ねんらい)取喰(とりくらひ)し人の屍(しかばね)、おほく有りしとぞ。
八十八、此ばけ物を退治して後(のち)は、何の事もなかりければ、人皆(みな)、八十八が勇力(ゆうりき)不敵の程を、かんじける。
[やぶちゃん注:「おこの者」「烏滸(おこ)の者」。ここでは物好きな変人・奇人の意でとっておいてよい。「おこ」はなかなかに含蓄のある語で、総合的には「馬鹿げていて或いは滑稽で人の笑いを買う・誘うような様態」を指す語であるが、但し、それを確信犯として行う者の中には、なかなかに逆に賢いトリック・スターが有意に含まれる。ウィキの「烏滸」によれば、記紀に既に「をこ」もしくは「うこ」として『登場し、「袁許」「于古」の字が当てられる。平安時代には「烏滸」「尾籠」「嗚呼」などの当て字が登場した』。『平安時代には散楽、特に物真似や滑稽な仕草を含んだ歌舞やそれを演じる人を指すようになった。後に散楽は「猿楽」として寺社や民間に入り、その中でも多くの烏滸芸が演じられたことが』、「新猿楽記」に描かれており、「今昔物語集」(巻第二十八)や「古今著聞集」などの、平安から鎌倉時代にかけての説話集には、所謂、「烏滸話」と『呼ばれる滑稽譚が載せられている。また、嗚呼絵(おこえ)と呼ばれる絵画も盛んに描かれ』、「鳥獣戯画」「放屁合戦絵巻」は『その代表的な作品である』。『南北朝・室町時代に入ると、「気楽な、屈託のない、常軌を逸した、行儀の悪い、横柄な」』(「日葡辞書」)『など、より道化的な意味を強め、これに対して』、『単なる愚鈍な者を「バカ(馬鹿)」と称するようになった。江戸時代になると、烏滸という言葉は用いられなくなり、馬鹿という言葉が広く用いられるようになった』とある。平安期には既に「癡(痴)」を当てて「痴(を)こがまし」という形容詞が(「源氏物語」)、「宇治拾遺物語」には「痴こがる」という語も生まれている。
「槇(まき)の木」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus、マツ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata などを指す。前者は二十メートル、後者は三十メートルで幹の直径が一メートルを越える巨木に成長する個体もある。]
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