犬 ツルゲエネフ(生田春月訳)
犬
部屋(へや)の中には私達二人、犬と私と……戶外(そと)には恐ろしい嵐が吹き荒(すさ)んでゐる。
犬は私の前にすわつて眞面(まとも)に私の顏を見守つてゐる。
私もまた犬の顏を見てゐる。
犬は何か言ひたげにしてゐる。彼は默つてゐる、言葉が無いのだ、自分で自分がわからないのだ――けれども私は彼の心を知つてゐる。
私は此の瞬間(しゆんかん)に彼にも私にも同じ感情があつて、私達の間には何の差別も無いことを知つてゐる。私達は同じ生物だ、何方(どちら)にも同じ顫(ふる)へる火花(ひばな)が燃え輝いてゐるのだ。
死はその冷たい廣い翼(つばさ)を羽搏(はばた)いて落して來る……
かくて萬事休す!
誰かその時私達二人の心に燃えた火花の差別を立て得ようぞ?
いな! 互に見交す二人は獸と人間ではない……
互にぢつと見交してゐる眼は同等な物の眼である。
獸(けもの)にも人間にも、同じ生命が恐れ戰(をのゝ)きつゝも互に寄り添うてゐる。
一八七八年二月