二兄弟 ツルゲエネフ(生田春月訳)
二 兄 弟
それは幻影(まぼろし)であつた……
二人の天使が……一人の精靈が私のところに顯(あら)はれた。
私は天便とも精靈(せいれい)とも呼ぷ、二人は裸身(はだかみ)で衣(きぬ)も纒はず。いづれも肩のうしろに二つの長いしつかりした翼が附いてゐるからである。
二人とも若かつた。一人はふつくらとしてゐて、柔かな滑かな肌に黑い捲髮(まきげ)をしてゐた。鳶色のぱつちりした眼は睫毛(まつげ)が濃くてはればれした眼附には媚を含み、また熱が籠つてゐた。顏には魅するやうな迷はすやうなところと、厚かましい意地が惡さうなところとあつた。やはらかさうな紅(あか)い脣はぴくぴく顫(ふる)ヘてゐた。靑年は力ある者のやうに――自ら恃(たの)むところありげにまた氣怠(けだ)るげに微笑した。つやつやした捲髮(まきげ)にふわりとかかつた見事な花輪はその天鵞絨(びろうど)のやうな眉に觸れんばかりである。まだらな豹の皮は金の矢をもてとめられて、ま
るい肩からふつくりした腿(もゝ)へふわりと垂れてゐる。翼の羽根は薔薇色に染めなされ、その端はまるでなまなましい鮮血に浸されたやうな眞紅(しんく)である。時々さわやかな銀(しろがね)の響、春雨の音を立ててせはしげにその翼は振ふ。
いま一人は瘠せてゐて、肌は黃ばんでゐる。息する度に肋骨(あばらぼね)がかすかにあらはれる。その髮はブロンドで、細くて直(す)ぐだし、その眼は大きく圓くて薄鼠色である……眼附は不安げで、異樣に光つてゐる。相貌はすべて鋭く、尖つた魚のやうな齒をもつた小さな半ば開かれた口、よく通つた鷲鼻、白い絨毛(わたげ)で蔽はれてゐる突き出(で)た顎(あご)。乾いた脣は未だ曾て微笑したこともないであらう。
よく整つてゐながらも、何と云ふ恐ろしい無慈悲な顏だらう!(もつとも前の美しい靑年の顏も、惚れ惚れするやうではあつたが慈悲の相は缺いてゐた)此の靑年の頭には少しばかりのちぎれた空穗(しいな[やぶちゃん注:ママ。])が枯草で卷き附けられてゐる。腰には粗(あら)い灰色の布(きれ)をまとひ、どんよりした鼠いろの翼をゆるゆると脅(おびや)かすやうに動かしてゐる。
此の二人の靑年は離すことの出來ない伴侶(つれ)のやうに見えた。互に肩をもたせかけて、一人がその柔かな手を相手の骨ばつた頸に葡萄の房のやうに卷きつければ、一人の細長い指をした瘠せた手首は相手の女のやうな胸のまはりに蛇のやうに曲げられた。
すると何だか聲がして、それはかう言つた、『戀と飢とがお前のまへに立つてゐる――これ雙生兒(さうせいじ)、生きとし生けるものの二つの礎(いしずえ)。
『生きとし生けるもの皆食を求めて動く、そして後繼者(あとつぎ)を生まんが爲めに食ふ。
『戀と餓と――その目的たるや一つである、自分の生命(いのち)も、他人(ひと)の生命(いのち)も――生きとし生けるものの生命(いのち)を絕(た)やさせまいとするにある。』
一八七八年八月
[やぶちゃん注:「空穗(しいな)」歴史的仮名遣は「しひな」で「粃」「秕」と書く。殻ばかりで中身のない籾(もみ)を言う。]