禿筆餘興 伊良子暉造(伊良子清白)
禿筆餘興
玉 章
おぼろに匂ふ春の夜の、
月の光も影更けて、
ねられぬ夜半の小衾に、
はかなく物を思ひつゝ。
思ひあまりてきえぎえの、
閨の燈火かゝげつゝ、
かくとはすれど玉章に、
おつるなみだをいかにせむ。
思へばむかし君とわれ、
櫻をかざし月をめで、
春の長日も秋の夜も、
みじかしとこそ契りしか。
いなみてもなほたらちねの、
ことわり過ぎしかなしびに、
思はぬ人を見てしより、
たのしき夢は破れてき。
草刈る賤にみをなして、
埴生の小屋に住ふとも、
君と二人が暮しなば、
玉のうてなにまさるらむ。
おもてにゑみをよそひても、
うらにはうきをつゝみつゝ、
心もとけぬ朝ゆふは、
都もひなにことならず。
常盤の松のとはにこそ、
きよき操もちかひしが、
うつろふ花のときのまに、
かはるこゝろを思ひきや。
久しきあとのかたみにと、
二人うつしゝ面影も、
かはらで殘るうつしゑよ、
かはる心をうらむらむ。
うつゝも夢もあはぬみは、
ねてもさめてもくるしきに、
君とへだてのうき雲は、
なみだの雨とそゝぐなり。
君がたまひし玉章は、
ことわり深くきこえたり、
うらむみよりもうらまるゝ、
心を君ははからずや。
つま重ねにし小夜ごろも、
こはいひとかむすべもなし、
君をし思ふまこゝろは、
たゞ末かけてかはらじな。
筆ををさめてうちぬれば、
誰しのべとやをしふらむ、
關の戶近き梅が香の、
枕に深くかをるなり。
百合と蝶
姉と妹がうちつれて、
あそぶ野川の片岸に、
一もと咲ける百合の花。
妹の少女うれしげに、
母がめでますこの花の、
一枝はつどに手折りてむ。
姉の少女はとゞめつゝ、
ねぶるこてふのさむるまで、
靜けき夢なやぶりぞよ。
二人ながむる水のもに、
花はちりてぞうかびける、
うかぶを蝶もしたひつゝ。
世に情ある少女子が、
かふき言葉を咲く花と、
蝶はいかにや思ひけむ。
笛
櫻狩してかへるさの、
山の下遣道わがくれば、
谷をへだてし藁やより、
樓織るおさの音ぞする。
折しも月のをかしきに、
笛とりいでゝ吹きなせば、
藁やのはたはとだえして、
岸に少女ぞたてるなる。
[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月二十五日発行の『文庫』第二巻第四号掲載。署名は本名の伊良子暉造。
「かふき言葉を咲く花と、」の一句意味不祥。「歌舞伎」では、今一つ、私は意味が採れぬ。識者の御教授を乞う。]