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2019/05/15

暉造の詩 伊良子暉造(伊良子清白)

 

暉造の詩

 殘星ぬしの評言に付きて、憤激する所あり乃ち一詩を作る。

 

いづれか早きざれかうべ。

丈夫いつ迄存生へむ。

血あり肉あり歌はずば、

歌ふべき日はなかるらむ。

 

暉造生れて十九年。

ミユーズの神に招かれて、

詩國の放に來てしょり、

あと見かへれば早や三年。

のぼる山路を越えかねて、

 

人のつゑのみすがりしよ。

堂々六尺ますらをの、

女々しきことをしてけりな。

 

なみだに破れよ古硯。

男子生れてこのなみだ。

岩をも透すわが望。

人生殘す三十年。

 

諸君しばらく待ちたまへ、

暉造これより奮ひ立ち、

天地の聲をふところに、

登りて見せむ魁に。

 

血あり肉ある暉造は、

日本をのこの一人なり。

劔をぬきてうそぶけば、

風に聲あり硏ぐべし。

 

硏き硏きてひからずば、

たふれて止まむざれかうべ。

ざれしかうべを見給はゞ、

かの暉造がかばねなり。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月十五日発行の『文庫』第一巻第三号に掲載。署名は本名の伊良子暉造。木村喜代子氏の論文「伊良子清白」(昭和四〇(一九六五)年(?)。「Osaka Shoin Women's University Repository」所収のもの(但し、部分)がPDFでダウン・ロード可能)に、この詩篇についての記載があり、「殘星」は『滝沢秋暁の号。秋暁は長野県の人。上野美術学校に通い』、『『少年文庫』の編集をしていた』とある。彼については「秋和の里 清白(伊良子清白)(初出形)」で注したのを再掲すると、『上田市関連ソング 「秋和の里」について』に、『明治の末期、日本の文学界きっての文人滝沢秋暁(本名』は彦太郎。『文庫』派)『が種々の事情で東京の文学界を去り、故郷秋和村(現上田市秋和)に隠遁していることを知った文学界駆け出しの伊良子清白が、越後出張のおり』、『表敬訪問』して『歓迎され』、『秋暁の家に泊めてもらうことになった。そのお礼にと後日贈った詩である』とある。記者で作家の滝沢秋暁(しゅうぎょう 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は、早くから『少年文庫』などに投稿し、明治二十年代から小説「田毎姫」・詩「亡友の病時」・評論「勧懲小説と其作者」「地方文学の過去未来」などを発表、明治二八(一八九五)年には『田舎小景』を創刊したが、画道を志して上京、『少年文庫』の記者となった。しかし翌年、病を得て帰郷、家業の蚕種製造に従事する傍ら、小説「手術室の二時間」などを発表した。著書に「有明月」「愛の解剖」「通俗養蚕講話」などがある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。伊良子清白より二歳年上である。さて、木村氏の論文には、『近年、みすず書房より刊行された河井酔茗夫人島本久恵氏の著書『長流』(全八巻)には文庫派詩人の群像が描かれているが、そのうち主に四巻・五巻には清白について詳しく書かれている。それを読むと、詩への情熱に燃える清白と、生活に忠実な清白が入れかわり立ちかわり現われてくる。そういう清白を島本氏は』「漂泊の人」『という代名詞を以て呼んでいる。いま少し、彼の』「漂泊ぶり」『を辿ってみよう』と述べられた後に以下のようにある(一部、拗音・促音が小文字になっていないのを直した。注記号は省略した)。

   《引用開始》

 明治二十八年『文庫』㐧一号に発表した短詩五篇長詩一篇[やぶちゃん注:不審。「草枕」(四篇構成)・「四季の鳥」(四篇構成)・「初花を指すから、短詩八篇長詩一篇である。]に対して残星が「詞意共にいみじき作と見たれども先人踏襲の跡あるは、少し憾むべき事ならずや」と評した。また同誌㐧二号に発表した詩四篇[やぶちゃん注:「花籠」(四篇構成)を指す。]に対しても残星が「老練服すべし、又曰く毎度ながら君が他に私淑するあるを惜む、堂々たる六尺の男子豈に永く他が胯下[やぶちゃん注:「こか」。股の下。股座(またぐら)。]に堪ふべけんや」との評を下したが、清白はそれに対して『文庫』㐧三号に、「残星ぬしの評言に付きて憤激する所あり乃ち一詩を作る」[やぶちゃん注:ママ。]と前置して、「暉造の詩」を発表している。

   《引用終了》

として、本篇の最終第五・六・七連を引用された上で(引用は新字表記(「劒」は「剣」)。但し、句読点が一切ないこと、最終連中二行「のたふれて止まむざれかうべ。」/「ざれしかうべを見給はゞ、」が「たふれて止まむされこうべ」「されしかうべを見給はゞ」と異なっている。またある一部も異なるが、それは後述する)

   《引用開始》

 この詩には詩への焦燥と発奮を制しかねている若き清白の姿が歴々と現れてくる。が、その後、京都の医学校に在学中、河井酔茗に次のような手紙を書いている。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は全体が二字下げであるが、ブログ・ブラウザの関係で引き上げた。]

親愛なるわが友よ、われは君の懇篤なる忠告によりて豁然開悟するところありき。君よ君よわれは永久に詩を廃せざるべし、われの詩才なきはいふもはづかし、されど、詩才なきに失望して詩を廃するがごとき愚をなさゞる可し、われは自己の力に安んじ悠々として詩にあそぶこと夫れ山水にあそぶがごとくならむ、われはますます刀圭[やぶちゃん注:「たうけい(とうけい)」でもと「薬を調合するための匙」を指し、転じて医術・医者の意となった。]の業に勉むべし、詩は以て其余暇の雅具に供せん、あゝわれはおろかなりし、他人と競争せんとして其力足らざりしをかなしみしは、詩人たらんと欲して其才なきをかなしみしは、今や煩悩のこゝろをいでて菩提のさかひに近づくを得たり(後略)

 ここには最早、あの若き清白の姿は見られない。しかし、彼はこの書簡に於いていうように詩を「余暇の雅具に供」したのであろうか。否、彼は文学を専攻するため上級学校へ進もうとし、そのため父と争ったこともあり、この手紙を書いて後、明治三十三年一月には、遂に文学に専念するため家業の医業を継ぐことを弟の道寿に譲り、上京した。尤も、その時も、生計の道は飽くまで医業に求めていたのであるが……。彼は古典より現代に至る小説、翻訳もの、新体詩などあらゆる文学に関心を寄せている一方、実際に京都在住時代には『少年文庫』を主として、『よしあし草』『青年文』『もしほ草紙』などに作品を寄せ、上京してからは『明星』の編輯に携わっている。彼はまたよく詩を論じたようである。例えば、明治三十三年一月三日の浜寺(大阪府)の鶴の家に於ける『よしあし草』の新年会の席上、彼は鏡花の幻覚を取り上げ、それを医学上から立論して、それはのちの語り草となったりしていることや、また同年二月二十一日付鉄南宛書簡は彼が与謝野鉄幹と、万葉や業平、西行より新体詩に至るまで議論したことを伝えていること、あるいはまた、その年の八月十六日には酔茗の本郷の下宿で溝口白羊と会い、白羊は抒情詩、彼は叙事詩の立場で詩を論じているなどである。

 しかし、明治三十七年頃より、清白は父の浪費や病院事業の困難という事情の下で、だんだん文庫から離れてゆく。同年八月二十一日付の酔茗宛の手紙は、旅先の米子より送られたものであるが、そこで彼は詩から遠のきつつある我が身の寂しさを語っている。

[やぶちゃん注:同前。]

(前略)近頃の心の悶えは一入に御座候へかかる価なき生活は或る罪悪をつくりつつあるにひとしく候、(略)職業は授けられたるものに候へば、之を避くるは神の意志に背くものに候、ソレ故小生はいかにしてか心の安きを得んと苦しみ居候、(略)文庫にも怠り居候はさきにも申し上げ候通り心の衰へたる為に候、若うして力無きは笑ふべききはみに候(後略)

 しかしそれから半年後、明けて明治三十八年初頭には「月光日光」「漂泊」を創作し、九月には「淡路にて」「戯れに」「花柑子」「かくれ沼」「安乗の稚子」を『文庫』に発表する。これらはすべて、『孔雀船』に収められた彼の代表作である。ちょうど六月に彼は結婚しており、彼にとってこの年は会心の年であったに違いない。そしてそれまでの仕事の集大成という意味で、彼は二百編近くの作品の中から十八篇を自ら厳選して、詩集を発刊する計画をした。それが明治三十九年五月に刊行された、彼にとって唯一の詩集―彼の名声を高めたのはこの一冊の本である―『孔雀船』であるが、彼はその刊行に先立ち、四月二十九日、在京詩作生活に終止符を打って島根県の浜田へ細菌検査所検査主任として赴任する。そして翌年七月の「七騎落」の発表を最後に、完全に詩壇を去ったのである。[やぶちゃん注:以下、略。]

   《引用終了》

なお、本文中の「鉄南」について木村氏は、『堺の覚応寺の嗣子で、本名河野通該、当時錦西小学校の教師をしていた。『よしあし章』の同人』と注しておられる。「溝口白羊」(明治一四(一八八一)年~昭和二〇(一九四五)年)は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」によれば、大阪出身で、本名は駒造。早稲田大学専門部法律科卒。『文庫』などに詩を発表して注目されたが、「不如帰の歌」など多くの流行小説の通俗詩化に励み、詩壇を離れた。詩集「さゝ笛」(明治三九(一九〇六)年、詩文集「草ふぢ」(明治四十年)、編書に尼港(にこう)事件(ロシア革命後の大正九(一九二〇)年三月から五月にかけてアムール川河口の港町ニコラエフスク(尼港)で駐留していた旧日本軍や在留邦人約七百人及び資産家階級のロシア人数千人がバルチザン(不正規軍)に虐殺された事件。ソ連政府は事件後、責任者を処刑し、賠償を求めた日本は北樺太を保障占領した。ここは朝日新聞掲載の「キーワード」に拠る)の記録「国辱記」(大正九(一九二〇)年)などがあるとある。清白より四つ歳下である。木村氏の論文によって本篇を十全に味わうことが出来た。心より感謝申し上げる。

 なお、第六連「硏ぐべし」はママであるが、「風かぜにこゑあるとぐべし」では韻律がおかしい。しかも次の連の頭の「硏き硏きてひからずば、」では明らかに「みがきみがきて」と読んでいると読めるから、この「硏ぐべし」は初出時の誤植ではなかろうか? 因みに、木村喜代子氏の論文「伊良子清白」の引用では、「研くべく」となっている。暫くママで示しておく。

「存生へむ」「ながらへむ」。

「魁に」「さきがけに」。]

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