草枕 伊良子暉造(伊良子清白)
草 枕
旅がらす
旅よりたびの旅烏、
今日は山路になりにけり。
檜原松原こまつ原、
みちは迷ひぬ日は暮れぬ。
笠やどり
ひと村雨の笠やどり、
ほの見し人のゆかしさに、
結びとめたる靑柳の、
糸はほどかで別れ行く。
淸 き 渚
匂ふ花貝さくら貝、
ぬるゝ袖貝きぬた貝、
きよき渚のおもしろや、
しばしは洗へ沖つなみ。
三島が浦
小松がくれに船とめて、
浪も靜けきゆふまぐれ。
三島が浦をながむれば、
うのゐる岩の彼方より、
もしほ燒くらむ立つけぶり。
[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年八月二十五日の『文庫』第一巻第一号掲載(『少年文集』を引き継いで改題)。署名は本名の伊良子暉造。
「花貝」標準和名では斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科カノコアサリ亜科ヌノメガイ属ハナガイ Placamen tiara がいる。表面は灰白色乃至淡黄色で、殻長一・八センチメートルほどの円形を成し、十条ほどの輪条の強い隆起を成し(和名はそれを花びらに譬えたもの)、数条の放射状の点列も持つ。能登半島・房総半島以南からインド洋に見られ、水深十~五十メートルの浅海の細かな砂地に棲息する。グーグル画像検索「Placamen tiara」を示しておく。但し、私は(私は貝類収集家である)この板状隆起を美しいとはあまり感じないし、これを「匂ふ花貝」とは形容しない。ところが、この「花貝」は、別に次の「さくら貝」類(次注参照)の異名でもあるのである。それなら、私はこの一行が文句なしに受け入れられる。
「さくら貝」標準和名では、マルスダレガイ目ニッコウガイ科ニッコウガイ科Nitidotellina 属サクラガイ Nitidotellina nitidula を指す。同種は北海道南部から九州以南までと、朝鮮半島及び中国沿岸に分布し、潮間帯から水深十メートル潮線下の内湾の砂泥底に棲む。殻長は三センチメートル、殻高は一・八センチメートル、殻幅は6ミリメートルに達する。殻は楕円形を成し、扁平・薄質の半透明で、殻表は光沢を持ち、桜色、稀れに白色を呈する。殻頂から後腹の隅にかけて、やや濃い色帯を放射する。左殻を下にし、斜め横になって砂泥底に潜って長い水管を出す。グーグル画像検索「Nitidotellina nitidula」をリンクさせておくが、但し、一般に「桜貝」と呼ばれるのは本種に限るものではなく、同科の近似種が多く、古来、それらが一緒くたにされて詩歌の題材となっている。それらは、ニッコウガイ科Tellinidaeの Pinguitellina 属ミガキヒメザラPinguitellina pinguis・シボリザクラPinguitellina robsta・Jactellina 属ゴシキザクラ Jactellina obliquistriata・Loxoglypta 属のミクニシボリザクラ Loxoglypta compta・ハスメザクラ Loxoglypta transculpta・サクラガイと同属のNitidotellina 属のカバザクラ Nitidotellina iridella(サクラガイによく似る。但し、外洋砂浜性)・ウズザクラ Nitidotellina minuta・キザクラ Nitidotellina soyoae・ハツザクラ Nitidotellina pallidula・Moerella 属のモモノハナガイ(エドザクラ)Moerella jedoensis(サクラガイによく似るが、やはり外洋砂浜性)・トガリユウシオガイ Moerella culter・テリザクラ Moerella iridescens・リュウキュウザクラ Moerella philippinarum・ユウシオガイ Moerella rutila・Tellinides 属のヒラザクラ Tellinides ovalis・ヘラサギガイ Tellinides timorensis・Angulus 属のクモリザクラ Angulus vestalioides・Cadella 属のトバザクラ Cadella lubrica などが挙げられ、また紅色が強く、長い、同じニッコウガイ科のPharaonella 属のベニガイ Pharaonella sieboldii やトンガリベニガイ Pharaonella rostrata 等でさえも「桜貝」と呼ばれていた可能性が高い。
「袖貝」まず、腹足(巻貝)綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目スイショウガイ(ソデガイ・ソデボラ)科Strombidae に属するもので、殻口の外唇が外方へ張り出している種を「袖貝」と呼ぶ。褐色で白斑が並ぶ殻長八センチメートルほどの Euprotomus 属マイノソデガイ Euprotomus aurisdianae などが代表種であるが、広くはスイショウガイ科Strombidae に属する全体をも指し、殻長六センチメートルほどの、紡錘形で褐色のシドロガイ Strombus vittatus japonicus や、イモガイ(新腹足目イモガイ科 Conidae 或いはイモガイ亜科 Coninae 又はイモガイ属 Conus に属するイモガイ類)に形が似ている殻長六センチメートルほどの、スイショウガイ科ソデボラ属亜属 Conomurex マガキガイ Strombus luhuanus 等が含まれる。孰れも房総以南に分布し、熱帯に種類が多い。グーグル画像検索「Strombidae」をリンクさせておくが、但し、斧足(二枚貝)綱原鰓亜綱クルミガイ目シワロウバイ超科シワロウバイ(ロウバイガイ)科Nuculanidae に属する二枚貝のSaccella 属ゲンロクソデガイ Saccella confusa・Yoldia 属エゾソデガイ Yoldia johann 等を指す場合もある(孰れのリンクも当該学名のグーグル画像検索)。思うに、伊良子清白の言うそれは、後者の二枚貝類かも知れない。ビーチ・コーミングでは前者の巻貝類のそれらは、そうそう拾えるものではないからである。但し、次注最後も参照されたい。
「きぬた貝」房総半島以南と、台湾・中国大陸南岸の潮間帯下部から水深二十メートルの砂泥地に棲息する二枚貝の斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科キヌタアゲマキ科キヌタアゲマキ属キヌタアゲマキ Solecurtus divaricatus か(リンク先は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」)。但し、お馴染みの、腹足(巻貝)綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae のタカラガイ類をかく呼ぶこともある。拾えれば嬉しいが、タカラガイ類もそうそう拾えぬ。しかし、映像的にはその方がいいし、前行が二枚貝であるから、ここを孰れも巻貝ととった方がヴィジュアル的にはいい。
「三島が浦」不詳。識者の御教授を乞う。この年は四月に京都医学校(現在の京都府立医科大学)に入学しているが、前に述べた通り、五月に大阪湾に近い河合酔茗宅を訪ねており、また、夏季休業中には父政治のいた三重県北牟婁郡相賀村(現在の三重県北牟婁郡紀北町相賀)に帰っており、ここも一部が海に近い。一つ、三重県志摩市(大王町)の志摩半島の南東の熊野灘側にある岩礁三島山(さんとうさん/さんとうざん)(岩礁が三つに分かれて突き出た格好になっている)があるが(グーグル・マップ・データ)、この時期に彼が志摩半島を旅した事実は年表からは窺えない(例えば、夏休みに政治のところから行った可能性はあろう。ただ、「さんとうがうら」では韻律は悪い)。]