太平百物語卷五 四十六 獺人とすまふを取し事
○四十六 獺(かはうそ)人とすまふを取し事
さぬきの國に山城屋甚右衞門といふ者あり。
「一穴(ひとつあな)」といふ所に田地(でんぢ)を持ちける程に、常に下人を遣(つかは)して耕作をさせける。
一日(あるひ)、每(いつも)のごとく、耕作に、孫八といふ下人をつかはしけるに、主人の子甚太郞とて、今年十一才なるが、此「一つ穴」に遊びゐたり。
孫八、いふ樣、
「今日(けふ)は、高松の叔父君(おぢご)、御出(おんいで)ありて、父上、もてなし給ふに、何とて、内には居(ゐ)玉はぬや。はやはや、歸り玉へかし。」
といへば、此甚太郞、返答(いたへ)もせず、うちわらひ、
「相撲(すまふ)をとらん。」
といふ。
孫八も、おかしながら[やぶちゃん注:ママ。ここは「ちょっと不審に思いながら」という現代語に近い用法であろう。]、
「いで、さらば、取申さん。」
と、
「無手(むず)。」
と組合(くみあひ)、僞りて、孫八、まけければ、甚太郞、悅び、
「今、一番。」
といふに、又、取て、まけたり。
甚太郞、限りなく悅び、歸りぬ。
孫八も黃昏(たそがれ)に歸りて、甚太郞にいふやう、
「扨々。今日は『一つ穴』にて、二番迄、相撲に負(まけ)申たり。無念にこそ侍るなり。」
と、戲(やはむれ)て申しければ、甚右衞門夫婦、いひけるは、
「今日は、高松の叔父、御出(おんいで)なれば、甚太郞は終日(ひねもす)、他行(たぎやう)せず。何をか、いふぞ。」
と申しければ、甚太郞もうちわらひ、
「孫八が、晝寐(ひるね)の夢をや、見つるならん。」
と嘲(あざ)ければ、孫八、ふしぎをなし、
「正(まさ)しく『一つ穴』にて相撲を取(とり)しが、扨は、聞(きゝ)およぶ、あの邊(へん)の獺ならん、惡(にく)き事かな。重(かさね)て出(いで)なば、打殺(うちころ)さん。」
と、いひて、明(あけ)の日も耕作に行(ゆき)けるが、案のごとく、又、甚太郞に化(け)して、
「すまふを取らん。」
と、いふ。
孫八、
『扨は。昨日(きのふ)の獺ならん。』
と思ひ、
「心得たり。」
とて、頓(やが)て引組(ふつくみ)けるが、孫八、力量の者なれば、其儘、宙(ちう[やぶちゃん注:ママ。])に引提(ふつさげ)、かたへに有(あり)し岩角(いはかど)を目當(めあて)に、なげ付(つけ)ければ、頭(かうべ)を巖(いはほ)に打碎(うちくだか)れ、水の流るゝ事、一斗ばかりして、忽(たちまち)、獺となりて、死(しゝ)たり。
孫八、うちわらひ、歸りて、甚右衞門夫婦に「かく」と語りけるが、其夜、孫八に物の化(け)付(つき)て、口ばしりけるは、
「扨々、情なや。わが夫(おつと)を、よくも、殺しぬ。われ、此敵(かたき)を取(とら)ずんば、何(いつ)までも、歸るまじ。惡(にく)や、惡や。」
と叫びしかば、甚右衞門夫婦、是におどろき、頓(やが)て、実相坊といふ修驗者(しゆげんしや)を賴みて、祈禱し、樣々に詫(わび)ければ、やうやうに、物の化(け)、落(おち)たり。
然(しかれ)ども、孫八、心氣(しんき)つかれて、其後(そのゝち)は、力量もおとろへ、病心者(びやうしんもの)となりけるとかや。
[やぶちゃん注:本篇は既に二年前に「柴田宵曲 妖異博物館 河童の力」の注で電子化しているのであるが、今回は底本を原板本としたので、完全に一からやり直してある。こちらがより正確と心得られたい。
「獺」本作では、人を化かす妖獺としてのメイン・キャラクターとしての登場は、「卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」に続く二度目の登場である。そちらで妖怪としての「かわうそ」は注してあるので参照されたい。また、たまたま、その翌日に電子化注した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」も参照して戴ければ、幸甚である。
「一穴(ひとつあな)」地名として捜してみたが、見当たらぬ。しかし、この地名、作者の確信犯の意味深長な架空地名ではあるまいか? 諺に「蟻(あり)の一穴(いっけつ)天下の破れ」或いは「蟻の一穴」という成句があり、「大事はほんの些細なことから生じ、ちょっとしたことが原因で大変なことになる」の謂いであるからである。たかが獺の化けたものと相撲を取り、それが物の怪と知ってより、それをぶち殺した結果として、「ぶらぶら病」となった甚八は、まさにその諺と一致するからである。しかもこの語は「同じ穴の狢」などの語との相性もあって、一見、無関係のように見えても実は同類・仲間(特に悪事を働く存在)であることの喩えと通ずる。獺の連れ合いの牝が殺された牡同様に変化(へんげ)の妖術を持ち、甚八に憑くことが、まさしくそれを髣髴とさせるからでもある。]
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