磯馴松 蘿月(伊良子清白)
磯 馴 松
もしほの煙末きれて、
いさり火遠き磯さきの、
松の村立ほのかにも、
三保の浦曲のうらづたひ。
綾につゝめる玉のごと、
おぼろに匂ふ春のよの、
月のひかりをしるべにて、
淸き渚をそひ行けば。
雲井にたかき不二の根の、
雪よりしろき白浪に、
ころもの袖をぬらしつゝ、
しづかに立てる少女あり。
人まつさまのしかすがに、
うれひの雲はかゝれども、
月のおもわの淸けさは、
うき世の塵のあともなし。
晴るゝ御空によそひして、
みどりも深き和妙の、
衣のそでもにごらかに、
こぼるゝ色もにほひつゝ。
つげの玉櫛さしかへて、
か黑き髮をけづりつゝ、
かたへに匂ふ一枝を、
簪花に手折る﨟たさよ。
こゝろみだれてちる浪は、
袖に裳裾にくだけつゝ、
玉ゆりこぼす白玉を、
はらふもしばしそぼぬれて。
折しも浦のあなたより、
妙なる聲にわか人の、
わき妹と速くよびかけて、
少女の方にさし寄りぬ。
霞のころもすき見えて、
色香たえなるした染の、
花にもたぐふおもばせに、
あたりの風も薰りつゝ。
世にふさはしき妹とせの、
袂つらねて行く影を、
うらむか沖津白浪も、
中のへだてに打よせて。
葦間にねぶる葦田鶴の、
夢よりさむる聲もして、
羽がきひくゝなるまゝに、
二人も遠くなりにけり。
鹽げに匂ふ花貝の、
咲ける眞砂にあとつけて、
袂もかをる浦風に、
松を洩れ來る聲聞けば。
「三とせの春はゆめなれや、
しのぶもゆゝしすめらぎの、
月のみやこのたか殿に、
君がかへしゝ舞の袖。
うれ吹く風に散る花の、
雪をめぐらす一さしに、
うつし心もかきくれて、
天津御空に迷ひつゝ。
軒にかゝげし玉だれの、
小簾のほのかに見てしより、
うごき初めたるわが心、
君のすがたにあこがれて。
こゝらかきやる藻鹽草、
拾ふみるめもまれなれば、
葦吹く風のそよとだに、
君のかへしはなかりけり。
まれらに逢はむことをなみ、
尋ねぞわたる思ひ森の、
夢のうき橋うつゝにも、
ゆかしき人を忍びつゝ。
まごゝろごめて天地に、
いのるも久し七かへり、
ならの社に引く注繩の、
朽ちても君はつれなくて。
つれなき君を戀ひわびて、
やまふの床につきしより、
いそぐ冥途はうらまねど、
魂や迷はむ人ゆゑに。
千束につもる錦木の、
形見とながす水莖に、
君がたまひし玉章よ、
いく藥えしこゝちして。
かたみとかはす言の葉に、
とけし心は見えながら、
結ぶ契を知らずして、
夢に逢ひしもいくそたび。
逢はぬを逢ふにかへてまし、
うらむる程はうれしきに、
君がわびつるこひ草の、
さはりも繁き人がきを。
わきてながるゝ中川の、
中の逢瀨は絕えはてゝ、
わたるにぬるゝ露けさは、
袂に浪もかゝりつゝ。
心ひかるゝ靑柳の、
思ひみだれて君とわれ、
末の契にあこがれて、
月の都をぬけいでぬ。
星の林にふな出して、
行くもはるけき空の海、
くもの浪だつ明暮も、
人やりならぬ旅のそら。
千々の寶も百敷も、
玉のみやこもふりすてゝ、
塵のうき世にいそぎつゝ、
田子の浦邊に舟はてつ。
あふげばたかき不二の根の、
ふもとの野べの草がくれ、
君と相見るうれしさに、
習はぬ賤にみをかへて。
いばらからだち軒もせに、
こゝらこめたるいぶせさは、
洩るゝに如き月影の、
さやけきよはもくらくして。
末の松山浪こえて、
さゝれは巖と成りぬとも、
契るまことはかはらじと、
かたみに深くちかひつゝ。
埴生の小屋の明くれも、
君のこゝろのやさしさに、
つゞれも綾のこゝちして、
年の三とせも暮れはてぬ。
いつまで老いむ塵の世に、
はしきわぎ妹もあるものを、
かへるにつらき久方の、
こひしきものは故鄕の。
行衞も見えず立こむる、
天津御空の八重がすみ、
靉靆く方に聲もして、
鴈金遠くわたるなり。
雲井にまよふ白雲も、
なが故鄕にかへるらむ、
いぬるか行くか春風の、
御空に吹くもこひしくて。
妹よ」とさそふ羽衣に、
なみだのみをのたえまなく、
さぐりもよゝとなげきつゝ、
沈むが聲もかすかにて。
折しもかゝる一ひらに、
月の光はかきくれて、
うき雲まよふ遠近の、
あやめもわかず成りぬれば。
さながらまがふ稻妻に、
雲井のあたり見るほども、
まばゆく匂ふ紫の、
千々の光のわきいでゝ。
雪にたぐびてふりまがふ、
御空の花もかぐはしく、
妙なる琴もきこえきて、
二人は見えずなりにけり。
しのゝめしらす橫雲の、
磯山遠く立ちわかれ、
沖の片帆の影見えて、
浪路はるかに明け初めぬ。
のぼる朝日もさしそへて、
てるばかりなる羽衣の、
うれ吹く風になびきつゝ、
二ひらかゝる磯馴松。
[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十二月十日の『靑年文』掲載。署名は蘿月(現在知られる本署名の初出。「竹取物語」を中心に「天の羽衣」伝承などを隠し素材としつつ、心機一転、物語詩の創作を志し、自由に飛翔させようとした文語定型詩と思われる。悪くはないが、描写に酔い過ぎていて、構成と展開の具体な映像が今一つ鮮明でない恨みがある。
「和妙」「にきたへ(にきたえ)」(後世に「にぎたへ」と濁音化)。「織り目の細かい布」「打って柔らかくして晒した布」を指す万葉語。
「簪花」「かざし」と訓じていよう。
「葦田鶴」「あしたづ」。葦間の鶴。
「花貝」種としては先行する「草枕」の私の注を参照されたいが、ここは単に美しい砂浜に寄せる貝(貝殻)でよい。
「小簾」「をす」小さな簾(すだれ)。或いは「お」を美称ととって、簾。「おす」は誤読の慣用読みなのでとらない。
「みるめ」緑藻植物門アオサ藻綱ミル目ミル科ミル属ミル Codium fragile。「見る目も稀なれば」に掛ける。
「いく藥えしこゝちして」「いく」は「幾」であろうが、「生く」を掛けていよう。
「靉靆く」「たなびく」。]