蟲 ツルゲエネフ(生田春月訳)
蟲
我々廿人ばかりが窓や開け放した大廣間にすわつてゐる夢を見た。
その中には女も子供も老人もゐた。……珍らしくもない話が、騷々(さうざう)しく取交はされてゐた。
突然鋭い騷音を立てゝ二寸ばかりの大きな蟲が廣間へ飛び込んで來た……飛ぴ込んで來て、二三度飛び廻つて、壁にとまつた。
それは蠅か、山蜂かのやうであつた。その身體(からだ)は土色(つちいろ)であり、平つたいごつごつした翼も同じ色であつた。擴(ひろ)げた足には毛が生えてゐるし、頭は蜻蛉などに見るやうに大きくて角(かど)ばつてゐた。そしてこの頭も足も血潮に浸したやうに眞赤(まつか)だつた。
此の奇怪な蟲は絕えずその頭を上下左右に振り、その足をばたばたさせてゐた……それから突然壁から飛立ち、ぶんぶんと部屋を飛廻つて、また止(と)まると再ぴその場を動かないで、身體中を厭(い)やな氣味の惡い工合に動かしてゐた。
それは我々凡てに嫌惡、恐怖、戰慄の感をさへ起させた……我々の中には誰一人これまでこんなものを見た者はなかつた。我々は一齊(せい)に叫んだ、『此の怪物を追ひ出しちまへ!』そして、遠くからその方へ手巾(ハンケチ)を振つた……けれども一人として敢て近づいて行く者はなかつた……そしてその蟲が飛びはじめると、皆思はず身を避けた。
一座の中でたつた一人蒼(あを)い顏をした靑年が、驚いたやうに我々一同を眺めた。彼は利肩をゆすぶつて、にやりとした、そして一體我々にどんな事が起つたか、何故(なぜ)我々がこんなに騷ぎ立つてゐるか一向譯(わけ)がわからなかつたのだ。彼自身は全く蟲をも見なければ、その翼の不氣味(ぶきみ)な音をも聞かなかつた。
突然蟲は靑年をぢつと見込んだらしく。飛立つて彼の頭上へ落して行き、額の、眼の上のところを剌した。……靑年は微かに呻(うめ)いて、そして倒れて死んでしまつた。
その恐ろしい蠅は直ぐに飛び去つた……その時はじめて我々は、我々を訪(おとづ)れたものが何ものであつたかを悟つた。
一八七八年五月
[やぶちゃん注:これは旧約聖書「列王紀」や、新約聖書でイエスを批判する者たちが口にするところの「Beelzebub」(ベルゼブブ)、ヘブライ語で「ハエの王」、所謂、「悪魔」であろう。]