柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(20) 「馬塚ハ馬ノ神」(2)
《原文》
【巖ト塚】又馬石ニ對シテ馬塚又ハ名馬塚ト云フ塚モ諸國ニ多シ。此ハ獨リ馬石ニハ限ラズ、石ノ無キ土地ニ於テ塚ヲ以テ石工代フルハ常ノ例ニシテ、鷄石ニ鷄塚、烏帽子岩ニ鳥帽子塚、休石ニ休塚、鉢石ニ鉢塚等多クハ皆然リ。【名馬磨墨】馬塚ノ有名ナルモノハ尾張丹羽郡羽黑村大字羽黑ノ磨墨塚(スルスミヅカ)。此ハ其附近ニ梶原某ト云フ武士ノ居住セシ爲ニ起リタル說ラシク、塚ノ上ニ一樹ノ梅ノ栽エラレタル迄モ箙(エビラ)ノ梅ノ故事ニ附會シタリ〔犬山名所圖會〕。【太夫黑】讃岐木田郡牟禮村大字牟禮ニハ義經ノ愛馬太夫黑ノ墓アリ。屋島戰捷ノ後佐藤嗣信ノ追善ノ爲ニ大刀一振ト共ニ此馬ヲ志度寺(シドデラ)ニ寄進ス。志度寺ニハ厩無リシカバ此村ノ極樂寺之ヲ預カル。後ニ嗣信ノ墓前ニ赴キテ死スト傳ヘラル〔讃岐三代物語〕。下總印旛郡船穗村大字船尾ニモ字名馬塚アリ。末ダ其由來ヲ知ラズ。出羽ノ莊内領塔ノ腰山ノ麓ニ小サキ祠アリテ馬頭觀音ノ石像ヲ祀ル。酒井家ノ先代大乘院殿ノ召サレシ大河原毛ト云フ名馬ノ塚ナリ。【馬ノ墓地】此ヨリ此處ヲ御召馬ノ葬處ト定メラル〔三郡雜記下〕。備前邑久郡國府村大字福里ニ馬塚アリ。盛衰記ノ勇士海左介(ウンノサスケ)ナル者ノ名馬ヲ埋ム。【馬シカ】左介此馬ニ騎リテ海上ヲ馳騁セシガ、或時沖ニテ馬鹿(ウマシカ)ト云フ物ニ遭ヒテ、其馬傷ツケラレ歸リ來リテ死スト云フ〔和氣絹上〕。馬鹿ト云フガ如キ妙ナ怪物此世ノ中ニ在リヤ、我ハ幸ニシテ未ダ知ラザルナリ。蒲冠者範賴ノ乘馬ハ虎月毛ト名ヅク。亦一ノ名駿ナリ。九州征伐ノ折菊池家ノ先祖之ヲ拜領ス。數代ヲ經テ此馬猶堅固ナリ。後五百石ノ祿ヲ宛行ヒテ休息セシム。寬永年間ニ至リ齡五百餘歲ニシテ歿ス。【名馬ノ塚】野送ノ伴ヲスル者一千人、其馬ノ墓碑極メテ宏大ナル者殘存スト云フ〔阿州奇事雜話一〕。名馬ノ爲ニ墓ヲ築クト云フ傳說ハ決シテ新シキモノニ非ズ。現ニ播磨ノ古風土記ノ記事ニモ、飾磨郡胎和里(イワノサト)ノ船丘ノ北邊ニ馬墓及ビ馬墓地アリト見ユ。昔ノ昔大泊瀨天皇ノ御世ニ、尾治連(ヲハリノムラジ)等ガ先祖長日子ナル者、死スルニ臨ミテ最愛ノ妾ト馬トヲ葬ルコト吾ニ准ゼヨト遺言ス。故ニ第二ノハ其女、第三ノ墓ハ馬ヲ埋メタルモノナリ。【池ト馬】後世ノ國司ニ上生石(カミオフシ)太夫ナル者アリ、馬墓ノ邊ニ池ヲ構ヘタリトアリ。自分ハ此話ヲ以テ、或史學者ノスルガ如ク、古キガ故ニ之ヲ史實ナリトハ視ルコト能ハズ。殊ニ丘ヲ船丘ト謂ヒ、又馬塚ニ據リテ池ヲ築クト云フガ如キハ、後代ニモ類例多キ龍神ノ信仰ヲ表示スルモノナリト言フコトヲ得。
《訓読》
【巖(いはほ)と塚】又、「馬石」に對して、「馬塚」又は「名馬塚」と云ふ塚も諸國に多し。此れは獨り馬「石」には限らず、石の無き土地に於いて、塚を以つて、石工、代ふるは常の例にして、「鷄石(とりいし)」に「鷄塚」、「烏帽子岩(ゑぼしいは)」に「鳥帽子塚」、「休石(やすみいし)」に「休塚」、「鉢石(はちいし)」に「鉢塚」等、多くは、皆、然り。【名馬磨墨(するすみ)】馬塚の有名なるものは、尾張丹羽郡羽黑村大字羽黑の「磨墨塚(するすみづか)」。此れは、其の附近に梶原某(なにがし)と云ふ武士の居住せし爲めに起りたる說らしく、塚の上に一樹の梅の栽えられたるまでも、「箙(えびら)の梅」の故事に附會したり〔「犬山名所圖會」〕。【太夫黑(たいふぐろ)】讃岐木田郡牟禮(むれ)村大字牟禮には、義經の愛馬太夫黑の墓あり。屋島戰捷(せんしよう)の後(のち)、佐藤嗣信(つぐのぶ)の追善の爲めに、大刀一振りと共に、此の馬を志度寺(しどでら)に寄進す。志度寺には厩(うまや)無かりしかば、此の村の極樂寺、之れを預かる。後に、嗣信の墓前に赴きて死す、と傳へらる〔「讃岐三代物語」〕。下總印旛(いんば)郡船穗村大字船尾にも字名馬塚(めいばづか)あり。末だ其の由來を知らず。出羽の莊内領、「塔の腰山」の麓に、小さき祠(ほこら)ありて、馬頭觀音の石像を祀る。酒井家の先代、大乘院殿の召されし「大河原毛(おほがはらげ)」と云ふ名馬の塚なり。【馬の墓地】此れより、此處(ここ)を御召し馬の葬處(そうしよ)と定めらる〔「三郡雜記」下〕。備前邑久(おく)郡國府村大字福里に馬塚あり。「盛衰記」の勇士、海左介(うんのさすけ)なる者の名馬を埋(うづ)む。【馬(ウマ)シカ】左介、此の馬に騎(の)りて、海上を馳騁(ちてい)せしが、或る時、沖にて「馬鹿(ウマシカ)」と云ふ物に遭ひて、其の馬、傷つけられ、歸り來りて死すと云ふ〔「和氣絹(わきぎぬ)」上〕。「馬鹿(ウマシカ)」と云ふがごとき、妙な怪物、此の世の中に在りや、我は幸ひにして未だ知らざるなり。蒲冠者(かばのかんじや)範賴の乘馬は「虎月毛(とらつきげ)」と名づく。亦、一つの名駿(めいしゆん)なり。九州征伐の折り、菊池家の先祖、之れを拜領す。數代を經て、此の馬、猶ほ堅固なり。後(のち)、五百石の祿を宛行(あてが)ひて、休息せしむ。寬永年間[やぶちゃん注:一六二四年から一六四五年。]に至り、齡(よはひ)五百餘歲にして、歿す。【名馬の塚】野送(のべおく)りの伴(とも)をする者、一千人、其の馬の墓碑、極めて宏大なる者、殘存す、と云ふ〔「阿州奇事雜話」一〕。名馬の爲めに墓を築くと云ふ傳說は、決して新しきものに非ず。現に播磨の「古風土記」の記事にも、飾磨郡胎和里(いわのさと)の船丘(ふなをか)の北邊に、馬墓(むまばか)及び馬墓地(むまぼち)あり、と見ゆ。昔の昔、大泊瀨(おほはつせ)天皇の御世の[やぶちゃん注:第二十一代雄略天皇の「日本書紀」での名。在位は安康天皇三年から雄略天皇二十三年で、機械換算では西暦四五六年から四七九年。]、尾治連(をはりのむらじ)等(ら)が先祖、長日子(ながひこ)なる者、死するに臨みて、「最愛の妾(めかけ)と馬(むま)とを葬ること、吾に准ぜよ」と遺言す。故に、第二のは其の女、第三の墓は馬を埋めたるものなり。【池と馬】後世の國司に上生石(かみおふし)太夫なる者あり、馬墓の邊(へ)に池を構へたり、とあり。自分は此の話を以つて、或る史學者のするがごとく、古きが故に之れを史實なり、とは視ること能はず。殊に丘を「船丘」と謂ひ、又、馬塚に據(よ)りて池を築く、と云ふがごときは、後代にも類例多き、龍神の信仰を表示するものなり、と言ふことを得。
[やぶちゃん注:『尾張丹羽郡羽黑村大字羽黑の「磨墨塚(するすみづか)」』現在は愛知県犬山市大字羽黒字摺墨地内にある「磨墨塚史跡公園」となっている(グーグル・マップ・データ)。そのサイド・パネルの画像の中の下から二番目の「磨墨塚」の案内板の解説を電子化しておく(アラビア数字は漢数字に代えた)。
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「磨墨」と「池月」という二頭の名馬を持っていた源頼朝は、梶原景季(梶原景時の嫡男)に「磨墨」、佐々木高綱に「池月」を与えた。
「磨墨」を有名にしたのは、一一八四年(寿永三年:平安時代)の宇治川の合戦(木曽義仲との戦い)での、景季と高綱の先陣争いである。
頼朝の死後、鎌倉幕府の内紛で敗れた梶原景時は鎌倉から追放され、京に逃れる途中、駿河国狐崎(現静岡県清水)で息子景季、景高ら肉親、郎党とともにことごとく非業の死を遂げた。この時、鎌倉にいた景高の一子豊丸はまだ幼少で、乳母隅の方の手にあった。その家族は羽黒にゆかりのある隅の方と七家臣に守られ、「磨墨」を伴ってこの地に落ちのびてきたといわれている。
豊丸はこの地で成人して梶原景親を名乗り、現興禅寺の付近に館を構え、羽黒城を築城したといわれる。羽黒城は、以後約三百八十年間にわたって梶原氏の居城として栄えた。「磨墨」は墨の方が亡くなるのと時を同じくして死に、この地に葬られたと伝えられている。[やぶちゃん注:以下略。]
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同案内板の中の右上にある「磨墨にまつわる伝説」という記事(前と同じ仕儀で記号の一部を書き変えた)。
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磨墨塚より北へ約五百メートル。名鉄小牧線を挟んだ所に恩田島という地名がある。ここには恩田森と呼ばれる鎮守の森があり、稲作の神や疫病・厄災除けの神様を祀った恩田社がある。
この地名については、磨墨がこのあたりで死に、馬頭[やぶちゃん注:「うまがしら」。]が背負って磨墨塚の所までおぶって運んだという言い伝えから、「おった」がなまって「おんだ(恩田)となったという伝説が残っている。
また、江戸時代に書かれた『正事記』や『尾張徇行記』には、磨墨を葬った際に目印として塚に植えられた一株の姥桜があったという記述があるが、現在では枯れて残っていない。
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案内板にも出ている「犬山視聞図会(いぬやまみききずえ)」は、「国文研データセット簡易Web閲覧」のこちらで全篇が読めるが、こちらに「磨墨塚」周辺の挿絵が見られる。右頁中央の田の中にある「するすみ塚」がそれで、左頁下方の同じく田の中にある「御田社」というのが、上記の「恩田社」であろう。
「其の附近に梶原某(なにがし)と云ふ武士の居住せし爲めに起りたる」先のグーグル・マップ・データのサイド・パネルの「磨墨塚」の上の「羽黒城址」の案内板を見ると判るように、「磨墨塚」の解説にある通り、この羽黒城は建仁元(一二〇一)年頃、正治二(一二〇〇)年二月の「梶原景時の変」で梶原一族は大方が滅ぼされたが当主梶原景時の次男であった景高の子である豊丸(幼名)が、彼の乳母であった「お隅の方」の出であったここに落ち延びた(その時に「磨墨」を伴っていたとする)。豊丸はこの地で成人して梶原景親を名乗って羽黒城を築き、後、織田信長に仕えて三百石の領主となった梶原景義(景親から数えて十七代目)まで、実に約三百八十年の間、この辛くも生き延びた梶原氏は、この羽黒城城主である続けたのであった(景義は天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」で殉死し、跡目のなかった羽黒梶原氏はここで断絶して城も荒廃したと記す)。柳田國男が持って回った言い方をしているのは、この地は本来の梶原氏の出身地ではないからである(本来の梶原氏は相模国鎌倉郡梶原が発祥地)。これは既に「犬山視聞図会」(実は柳田國男が引用している「犬山名所図会」の別タイトルである)の「磨墨塚」の挿絵の下部にも、この伝承はこの羽黒梶原氏のことを磨墨の持ち主であった知られた梶原景時嫡男景季の話に牽強付会させてしまった誤りである旨のキャプション風の記事が書かれており、柳田國男のこれも直接にはそれを受けたものであろうと思われる。なお、景時失脚と不審な滅亡に至る経緯を御存じない方は、私の「北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ」及び、その続きの「北條九代記 梶原平三景時滅亡」を読まれたい。景時が京に上ろうとしたのは、不穏な動きなどではなく、恐らくは公家方の武家仕えとして被官し、一族を守ろうとしたに過ぎず、最期となった駿河国清見関(現在の静岡市清水区)近くで、偶然、居合わせたとする地侍や相模の飯田家義らと狐崎で騒擾から合戦となったというのも、如何にも怪しいのであって、この時の駿河国守護は北条時政であったし、景時失脚の火種となった流言の発信源とされる女官阿波局(源実朝の乳母)も時政の娘であり、総てが権力志向の強かった時政が陰で仕組んだ大きな謀略の可能性が濃厚なのである(その野望を肥大させ過ぎた時政もまた、子の義時と政子によって政治的に破滅させられるわけだが)。
「箙(えびら)の梅」寿永三(一一八四)年の春、源平両軍の「生田の森の合戦」の際、既に源氏方についていた梶原源太景季(一説には父景時ともする)が、梅の枝を矢を入れて背負う箙に挿して戦い、功名を挙げたという故事で、神戸市の生田神社の境内にその遺跡がある。
「太夫黑(たいふぐろ)」現代仮名遣では「たゆうぐろ」。平家一門氏のブログ「治承・寿永の覚書」の「屋島・太夫黒の墓」によれば、佐藤継信(彼の名はこうも書く。後注参照)の『死後』、彼『を供養するために義経から志度寺に寄進された義経の愛馬、太夫黒』は、『後白河法皇から賜ったもの、または岩手県千厩町産で藤原秀衡に献上されたものを義経がもらったと』も『いわれています』。『その名の通り』の『黒毛の馬』で、『黒毛は最上の毛並みの色』とされ、『献上の馬として珍重されたそうで』、『鵯越の逆落としも、義経がこの馬に乗って行っています』。『当時の馬は』、『今のサラブレッドよりかなり体高が低かったようですが、小回りが利いて俊足と』され、『ちなみにサラブレッドの体高は百六十センチメートル『強ですが、太夫黒は』百三十九センチメートル。寄進後は『大切に飼われていたようですが、ある日』、『事件が起こります』。『それが「太夫黒の涙」というお話です』。『太夫黒』が、『ある日』、『ふと』、『いなくなってしまいました』。『寺の人たちは探しますが、いっこうに見つかりません』。『人の言葉がわかるという馬だけに、道に迷った訳でもないと』、『みなで言い合いながら探しましたが、待てど暮らせど』、『帰ってきません』。『大勢で探した結果、太夫黒は継信の墓に寄り添うように倒れているのが見つかりました』。『寺の人たちはすぐさま手当てをしましたが、もう首も上げられないほど弱っていて、前夜からの雨で体も冷たくなっていました』。『寺の人が首の辺りを数度撫でてやると、太夫黒の目からはらはらと涙がこぼれ落ちたそうです』。『太夫黒はそのまま息を引き取りました』。『哀れに思った寺の人たちは、太夫黒を継信の墓の傍らに埋めてやったということです』(現在の墓の写真有り)。
「讃岐木田郡牟禮(むれ)村大字牟禮」佐藤継信と太夫黒の墓は、ここに出る「志度寺」(「しどうじ」とも呼ぶ。香川県さぬき市志度にある真言宗補陀洛山清浄光院志度寺(グーグル・マップ・データ以下同じ)。)にはない。また「志度寺」のある「村の極樂寺」という寺も現存しない(少なくとも現在の志度(かなりの広域)の地区には極楽寺という名の寺院はない同地区の南にある、さぬき市長尾東に真言宗紫雲山宝蔵院極楽寺ならあるが(志度寺から南に直線で七キロ位置)、この附近が志度村であった過去はない模様である)。現在の香川県高松市牟礼町牟礼にある真言宗眺海山円通院洲崎寺(すさきじ)にある。ウィキの「洲崎寺」によれば、『源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると』、『戦災により』、『当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり』、『戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり』、『毎年』三月十九日には『慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている』とある。因みに、現在の志度寺から太夫黒が洲崎寺へ向かったとすれば、実測で七キロメートル弱。
「戰捷(せんしよう)」戦さに勝つこと。
「佐藤嗣信(つぐのぶ)」ウィキの「佐藤継信」から引く。佐藤継信(久安六(一一五〇)年?或いは保元三(一一五八)年?~元暦二(一一八五)年三月二十二日)は『源義経の家臣』で、「源平盛衰記」では『義経四天王』の一人に『数えられる。奥州藤原氏の家臣・佐藤基治の子』。治承四(一一八〇)年、『奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行』し『、義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした』「吾妻鏡」の元暦二(一一八五)年二月十九日の『条によると、義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、一人の僧侶を招き』、『千株松の根元に葬った。また御幸供奉の時に後白河院から賜り、毎回戦場で乗っていた名馬「太夫黒」を僧侶に与えた』とあり、「吾妻鏡」の記者は『「これは戦士を慈しむ手本である。これを美談としない者はない。」と書いている』。「平家物語」では、『継信は平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受け』、『戦死したとされているが』、「吾妻鏡」では、教経は「一ノ谷の戦い」で『すでに戦死した事になっている』。「源平盛衰記」によれば、享年二十八とするが、佐藤氏の菩提寺である福島県福島市にある真言宗医王寺の『継信の石塔には享年』三十六『とある』。また、『高松市牟礼町洲崎寺に継信と太夫黒の墓がある』。「源平盛衰記」では、『継信は義経の乳母子とされている』。「平家物語」巻第十一「嗣信最後」における継信の最期の様子を以下に簡略に示す(名の表記は「継信」とする)』。『屋島の戦いにおいて、王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。なかでも源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことは』御座いませぬ。『しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは元より期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です」と答えて亡くなった。義経は鎧の袖を顔に押し当てさめざめと泣き、近くに僧がいないか探させ、その僧に大夫黒という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは』、『皆』、『涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べた』とある。『出身は奥州信夫郡(現在の福島市飯坂地区)で、佐藤氏の居館「大鳥城」が舘の山公園として存在する。継信、忠信兄弟が奉ってある佐藤氏の菩提寺・医王寺には、伝武蔵坊弁慶の「笈」(県重要文化財)とされるものや、伝継信所用とされる「鞍」(市重要文化財)が残されている。また、寺の敷地内には継信・忠信の母乙和御前の悲しみが乗り移って、花が咲く前につぼみが落ちてしまうという「乙和の椿」がある』。『医王寺にある継信・忠信の石塔(墓)は「粉にして飲むと体が強くなる」という言い伝えにより、薬として利用され、石塔の半ばほどが大きく削り取られている』(以下、継信の後裔の話が延々と続くが、失礼ながら興味がないので省略する)。「吾妻鏡」の記事だけは掲げておきたい。同日(元暦二(一一八五)年二月十九日癸酉(みずのととり))の条は長いので、当該箇所の前の部分から前後をカットして示す。
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又廷尉【義經。】昨日終夜。越阿波國與讚岐之境中山。今日辰尅。到于屋嶋内裏之向浦。燒拂牟禮。高松民屋。依之。先帝令出内裏御。前内府又相率一族等浮海上。廷尉【著赤地錦直垂。紅下濃鎧。駕黑馬。】相具田代冠者信綱。金子十郎家忠。同余一近則。伊勢三郎能盛等。馳向汀。平家又棹船。互發矢石。此間。佐藤三郎兵衛尉繼信。同四郎兵衛尉忠信。後藤兵衛尉實基。同養子後藤新兵衛尉基等。燒失内裏幷内府休幕以下舍屋。黑煙聳天。白日蔽光。于時越中二郎兵衞尉盛繼。上總五郎兵衞尉忠光【平氏家人。】等。下自船而陣宮門前。合戰之間。廷尉家人繼信被射取畢。廷尉太悲歎。屈一口衲衣葬千株松本。以祕藏名馬【號大夫黑。元院御厩御馬也。行幸供奉時。自仙洞給之。毎向戰場駕之。】。賜件僧。是撫戰士之計也。莫不美談云々。
○やぶちゃんの書き下し文
又、廷尉【義經。】、昨日終夜、阿波國と讚岐との境の中山を越え、今日、辰の尅、屋島の内裏(だいり)の向ひの浦に到りて、牟禮(むれ)・高松の民屋を燒き拂ふ。之れに依つて、先帝、内裏を出でしめ御(たま)ふ。前内府[やぶちゃん注:平宗盛。]、又、一族等(ら)を相ひ率いて、海上に浮ぶ。廷尉【赤地錦の直垂(ひたたれ)、紅下濃(くれなゐすそご)[やぶちゃん注:鎧縅(よろいおどし)に於いて、上を紅色に薄くし、下に向かうにつれ、次第に濃く配色してあるものを指す。]の鎧を著し、黑馬に駕す。】、田代冠者信綱・金子十郞家忠・同余一近則(よいちちかのり)・伊勢三郞能盛等を相ひ具し、汀(みぎは)へ馳せ向ふ。平家、又、船に棹さして、互ひに矢石(しせき)[やぶちゃん注:弓矢と弩(いしゆみ)の石。]を發(はな)つ。此の間、佐藤三郞兵衞尉繼信・同四郞兵衞尉忠信・後藤兵衞尉實基・同養子後藤新兵衞尉基淸等、内裏幷びに内府の休幕以下の舍屋を燒失す。黑煙、天に聳え、白日の光を蔽ふ。時に越中二郞兵衞尉盛繼・ 上總五郞兵衞尉忠光【平氏の家人(けにん)。】〕等、船より下りて、宮門の前に陣して合戰するの間、廷尉が家人繼信、射取られ畢(をは)んぬ。廷尉、太(はなは)だ悲歎して、一口の衲衣(なふえ)を屈して、千株松(せんじゆまつ)の本(もと)に葬むる。祕藏の名馬【「大夫黑」と號す。元は院の御厩の御馬なり。行幸に供奉の時、仙洞より之れを給はる。戰場に向ふ每(ごと)に之れに駕(が)す。】を以つて、件(くだん)の僧に賜ふ。是れ、戰士を撫(ぶ)するの計らひなり。美談とせざる莫(な)し、と云々。
「下總印旛(いんば)郡船穗村大字船尾」「字名馬塚(めいばづか)」千葉県印西(いんざい)市高花にある「千葉ニュータウン 高花第二団地」の公式サイト内の「周辺地域散策」のページの「源頼政伝承」というコラムがあり、そこには南東に接する地区にある『結縁寺』(千葉県印西市結縁寺にある真言宗晴天山結縁寺(けちえんじ))『の東南』三百メートル『の山林には、宇治平等院の境内で自害したといわれている源頼政の首を埋めた場所として伝えられている頼政塚があります』。『頼政は、死に際して家臣に「吾が首を持ち』、『東国へ向かって行け。吾が止まらんと欲する処に行かば』、『首が重くなって動かなくなるであろう。そこに塚を築いて首を葬れ」と遺言したとされており、家臣達は東国へ向かい、急に首が重くなり』、『動けなくなった所がこの辺りだったと伝えられています』。『結縁寺の鎮守である熊野神社石段の手前には、頼政の遺徳を慕って伊勢の国から訪れた女性が入定したと伝えられている入定塚があります』。『また、結縁寺の西南にあるのが、頼政の首を運んできた馬を葬ったといわれている名馬塚で、時折馬の好物である人参が供えられているそうです』とあった。現在の千葉県印西市結縁寺の、この山林附近(グーグル・マップ・データの航空写真)が頼政塚であろう。実際の寺院としての結縁寺はここから北西三百メートル位置にある。そこの西南というと、この附近かと思われる。「千葉県森林インストラクター会」の「㉛草深の森から結縁寺 首都圏近郊に残る貴重な里山景観」(PDF)のコース紹介に、『草深の森駐車場①スタート。広場の分岐を左へ進み、大日塚の碑②に立ち寄る。時計回りに進むとスギ、サワラ林の針葉樹の森、クヌギ、コナラの広葉樹の森となり、シラカシの林を過ぎると広場を経て駐車場へ戻る』。『車道を横断して右へ行き、団地の手前を左折すると気持ちの良い林内の道となる。突き当りを左折し道なりに進むと高架橋がありその下を行くと松崎台公園③に達する。公園を抜け、林縁沿いの道を行くと舗装路にあたる。この道では野草観察を楽しむことができる』。『そこを左折し坂を上りきったところに源頼政伝説の頼政塚④がある。さらに進んで突き当りを右折し、しばらく進むと左側に頼政の首を運んだ馬を葬ったといわれる名馬塚⑤。少し戻って左折すると結縁寺への道。坂を下ったところに池があり、その奥に結縁寺⑥。道なりに少し行ったところに熊野神社と入定塚⑦がある。そのまま気持ちの良い里山の道を歩いていくと草深の森から来た道に出会うのでその道を引き返す』とあって、「名馬塚」の写真(「結縁寺世話人会」による解説板の画像)も添えられてあるから、現在でも位置が確認出来ることが判る。解説板には、『結縁寺の西南にあたるこの地に頼政の首を運んできた名馬を葬ったといわれる名馬塚です。以前はお堂が建てられており、その中に納められていたと伝えられています』。『塚のそばには、刻像塔や文字塔の馬頭観音が数十基あります』とあるのである。或いは、グーグル・ストリート・ビューで見られるかと思って、周辺を探ってみたが、私のネット環境ではフリーズが多発してだめだった。ともかくも今も「名馬塚」は安泰であることは判ったので、それでよしとしたい。
『出羽の莊内領、「塔の腰山」』不詳。類似した山名を見出せない。
「酒井家の先代、大乘院殿」法名の「大乗院」から出羽庄内藩の第二代藩主酒井忠当(ただまさ 元和三(一六一七)年~万治三(一六六〇)年:彼の法名は大乗院載誉勇哲政運)のことと判明した。
「大河原毛(おほがはらげ)」不詳。読みは推定。
「備前邑久(おく)郡國府村大字福里に馬塚あり」『「和氣絹(わきぎぬ)」上』引用箇所を国立国会図書館デジタルコレクションの「吉備群書集成 第壹輯」の「和氣絹」のここの画像で確認出来た。ここに出る地名からは岡山県瀬戸内市長船町(おさふねちょう)福里(ふくり)と考えられる。調べて見たが、「馬塚」は見当たらない。しかしこの話、全体設定から細部に至るまで、不思議な強い作話性を感じさせる話ではある。「源平盛衰記」は前半を活字本で所持するが、当該箇所がどこなのか、それが私の所持する版本にあるのかも判らない。次注に繋げる。
「馳騁(ちてい)」馬を走らせること。一つ思うのは、無論、これは馬が疾駆出来る砂浜海岸の汀、浅瀬、比較的硬質地盤の干潟、潮の少し満ちた折りの岩礁帯を指していると読むわけだが、とすれば、『沖にて「馬鹿(ウマシカ)」と云ふ物に遭ひて』という謂いが不審である。それに目を瞑って、前者のような環境を馬が走っていて「其の馬」が「傷つけられ、歸り來りて死す」という事実があり得るとすれば、そこで想定出来る実在の海産生物の一つはウミヘビ(彼ら一部の毒はコブラの持つ毒よりも強いとされる)である。しかし、性質のおとなしい彼らが馬に咬みつくことは、まず、考えられない。そもそもロケーション岡山県瀬戸内海ではウミヘビ自体がまず見られることはない。とすれば、馬を昏倒させ、しかも、浅瀬までやってくる、瀬戸内海までやってくる「馬シカ」「馬鹿」とは何か? 次に考えたのは、アカクラゲやカツオノエボシの巨大個体である。しかし、余程の大型固体ならばまだしも、毛の生えた馬の身体にその強烈な刺胞を、馬の命を奪うまで打ち込むことは難しいのではないかと思う。さすれば、残るは一つ、サメである。一九九二年三月、松山沖の瀬戸内海でタイラギ漁の潜水夫が襲われて命を落とした(現在も行方不明)ケースは私には記憶に新しい。潜水服の一部に残存していた歯から、ほぼ間違いなく軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias に襲われたものと考えられている。馬の四足や腹部を中型のホオジロザメ等の獰猛な鮫が咬みつけば、これは致命的な損傷足り得ることは言うまでもない。私はまた、相応に大きなサメを、鮫を知らない人間が見たら、「馬鹿(ウマシカ)」と表現するとしても、強ち、違和感がないと感ずる人間である。それは柳田國男が言うように、「妙な怪物」「此の世の中に在りや、我は幸ひにして未だ知らざるなり」と如何にもな「馬鹿」にするような微苦笑するものではないと私は考える。まあ、大方の御叱正を俟ちはしよう。
「蒲冠者(かばのかんじや)範賴」源頼朝の異母弟にして義経の異母兄である源範頼(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年?)。
「虎月毛(とらつきげ)」馬の毛色の一種としての一般名詞でもある。白みを帯びた赤毛の中に虎斑(とらふ)のあるものを謂う。「まだらつきげ」とも。
「九州征伐」ウィキの「源範頼」によれば、寿永三(一一八四)年八月、『範頼は九州進軍の任を受ける。出陣の前日に範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る。この時代において馬は貴重品であり、また頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられた事から、遠征の重要性が理解できる。また』、『九州進軍は平氏討伐ではなく、頼朝と対立・平氏を援助する西国家人を鎮圧し、平氏を瀬戸内方面に孤立させる事である。参加した武将は北条義時・足利義兼・千葉常胤・三浦義澄・八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員・和田義盛・工藤祐経・天野遠景など頼朝軍の主力武士団を揃えた』。『備前国藤戸の戦いにて』、『佐々木盛綱の活躍で平行盛』の『軍に辛勝し、長門国まで至るが』、『瀬戸内海を平氏の水軍に押さえられていることもあって、遠征軍は兵糧不足などにより進軍が停滞した。この事から、範頼の戦での能力は低いといわれるが、実際は頼朝が、範頼軍の食糧問題を解決する前に出発させた事が原因であるとされる。その理由として』三『万もの軍勢を京に長く滞在させることで、食糧や治安に問題がおきる事を避けたためといわれ』ている。『範頼は防長』(ぼうちょう:現在の山口県全域を指す広域呼称)『から』、十一~十二月『にかけて』、『兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など窮状を訴える手紙を鎌倉に次々と送る。それに対し』、『頼朝は食料と船を送る旨と、地元の武士などに恨まれない事、安徳天皇・二位尼・神器を無事に迎える事、関東武士たちを大切にする事など、細心の注意を書いた返書を送っている。特に安徳天皇の無事は重ねて書き送っている』。文治元(一一八五)年一月二十六日、『豊後国の豪族・緒方惟栄』(これよし)『の味方などを得て、範頼はようやく兵糧と兵船を調達し、侍所別当の和田義盛など勝手に鎌倉へ帰ろうとする関東武士たちを強引に押しとどめ』、『周防国より豊後国に渡ることに成功。九州の平氏家人である原田種直を』二『月に豊前の葦屋浦の戦いで打ち破り、さらに博多・太宰府に進撃した。これにより、長門国彦島(下関市)に拠点を置く平氏は背後を遮断されたことになり、平氏の後背戦力は壊滅したのと同じであり、平氏は援助も隠れる場所すらも失い、ただ彦島のみを拠点とせざるをえなくなった』。『同年』『二月、頼朝から出撃の命を受けた義経が屋島の戦いで勝利』したが、『範頼は頼朝に窮状を訴える手紙の中で、四国担当の義経が引き入れた熊野水軍の湛増が九州へ渡ってくるという噂を聞いて、九州担当の自分の面子が立たないとの苦情も書いている』。しかし、三月二十四日の「壇ノ浦の戦い」で以って平氏は滅亡することとなったのであった。
「菊池家」ウィキの「菊池氏」によれば、平安末期の『院政時代』、『全国の在地支配層は、こぞって中央の有力者に荘園を寄進してその庇護を受け、院の武者として勢力を拡大しようとした』。第四『代菊池経宗』や次代の『菊池経直が鳥羽院武者と記録されていることからも、菊池氏がその例に漏れなかったことが推定される。このころまでに菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力として定着拡散して行ったことが分かる』。『平家台頭後は日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると』、『菊池氏は平家の家人と化したが』、治承四(一一八〇)年に『源頼朝が兵を挙げると』、翌養和元年、第六代『菊池隆直は』、「養和の乱」を『起こして』俄然、『平家に反抗した。隆直は翌年』、『平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として』「治承・寿永の乱」(源平合戦)に『従軍し』はし『たものの』、「壇ノ浦の戦い」に及んで、『源氏方に寝返り』、幕府『御家人に名を連ねた』。しかし、『源平の間を揺れ動いたことで』、『頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた』のであった。さらに鎌倉時代になると、第八代菊池能隆が「承久の乱」で『後鳥羽上皇方に』組み『したため、北条義時によって所領を減らされ』ており、また『乱後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置して、西国の押さえとした』。なお、第十代『菊池武房は元寇に際して、鎌倉幕府から博多に召集され、一族郎党を率いて』、『元軍と戦闘を交え』、『敵を討ち取っ』ている。このように『菊池氏は、伝統的に源平勢力と』、『一定の距離を保ち』、『在地勢力の勇としての意地を見せてきたが、鎌倉幕府に衰えが見られるようになると』、『朝廷とのつながりを深め』、第十二代『菊池武時は後醍醐天皇の綸旨に応じ、元弘三/正慶二(1333)年には、『阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗をさそって』、『鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって』、『善戦むなしく』、『鎮西探題館内で戦死し』ている。『武時の遺志は嫡男』であった第十三『代菊池武重に引き継がれ』、「建武の新政」『成立後、楠木正成の推薦もあって肥後守に任じられた。武時の武功は高く評価され、その庶子菊池武茂・菊池武澄・菊池武敏らも叙任を受け』ている。
「齡(よはひ)五百餘歲にして、歿す」ウヘエ!!!
「尾治連(をはりのむらじ)」尾張氏に同じい。
「長日子(ながひこ)」天孫族の祖の一人とされる天火明命(あめのほあかり)のこと。ウィキの「天火明命」を参照されたい。
「上生石(かみおふし)太夫」不詳。]
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