夏の海 すゞしろのや(伊良子清白)
夏 の 海
四里あまりある島村に、
舟を僦ひて渡り行く、
七月なかばの海の色、
藍の油にさもにたり。
[やぶちゃん注:「僦ひて」「僦」は「借りる」の意で、「雇(やと)う」の意でよく用いられ、ここも「やとひて」と読む。]
暑さを飛ばすまぜ風に、
席帆張りて舟子等が、
赤裸なるたくましさ、
櫓のかけ聲もおもしろく。
[やぶちゃん注:「まぜ風」南方から吹き来たる南風。「はえ」「まぜ」「ぱいかじ」などとも呼ぶ。但し。漁師たちはこれを天候変化の前兆として警戒する。
「席帆」「むしろほ」。]
こゝらあたりは荒磯の、
つんざきやぶる白濤に、
いはは抉られ削られて、
あやふやすがる松一木。
屛風のごとき絕壁の、
下は百千の貝殼に閉ぢ、
暴風の夜每に落ちくだけ、
碎けつもれる山の石。
[やぶちゃん注:「百千」「ももち」。
「貝殼」「かひ」或いは「から」であるが、断然、前者。
「暴風」「かぜ」と読んでおく。]
上は葛虆の垂れさがり、
かつておほなみのぼりけむ、
ところどころに獸の、
爪もてかきしごときあり。
[やぶちゃん注:「葛虆」音「カツルイ」で蔓草の総称である両字ともに「蔦葛(つたかずら)」のことであるから、ここは二字で「かづら」と読んでおく。]
かゝる磯にもいさり夫が、
魚見るためにしつらへし、
杉の板屋の板廂、
雨風いかにつらからん。
一里あまりも行くほどに、
靑松續く白濱に、
畫くが如き海士の家、
鷗もうかび人もよぶ。
四月なりけむこの浦の、
いそもの狩にまねかれて、
一夜いねたる村長の、
宿さへ近くめに見ゆる。
丘のいたゞき濱寺の、
庫裡の白壁日はさして、
松にかゝれる凌霄の、
蘿も花も搖ぎつゝ。
[やぶちゃん注:「凌霄」「りようせう(りょうしょう)」で落葉性の蔓性木本のシソ目ノウゼンカズラ(凌霄花)科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora のこと。夏から秋にかけて、橙色又は赤色の大きな美しい花をつけ、気根を出して、樹木や壁などの他物に付着して蔓を伸ばす。
「蘿」は「かづら」と呼んでおよう。]
丘の下には鰹つる、
彩舟あまたひきあげて、
船板穿つ大工らの、
鑿の音こそきこえたれ。
こゝをすぐればこの海の、
名にきこえたる難所にて、
今日はことさらしづけきも、
なほいさゝかのうねりあり。
潮の色は黑靑く、
沫をつくりて流れくる、
早瀨に舟をのせたれば、
さながら飛ぶがごとくにて。
しほに曲げられ矯められて、
かしら得あげぬ木々の幹、
石に抱かれ岩に匍ひ、
鳥の塒もなかるらむ。
陸のなごりかわだ底に、
うねくつゞく暗礁、
あはれ膽ある船長の、
しづめしふねもいく艘ぞ。
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「陸」は「くが」と読みたい。]
おもへばなみもなみの音も、
祀らぬ鬼が水底に、
あるゝならずやその聲の、
さけびならずや舟人よ。
岬の鼻をうちめぐり、
わが島村にきて見れば、
浪は綠に山うつる、
夏の夕べのしづけさよ。
からりころりと櫓の音の、
水にひゞきて行くあとは、
一すぢのこる舟のあと、
入日のさすも花やかに。
澄みわたりたる夕汐の、
玉も拾はむそこ淸み、
いく群となきうろくづの、
舟を掠めてとくすぐる。
沖にむらむら雲湧きて、
やうやうせまる暮の色、
水に臨めるみ社の、
華表の奧に灯もともる。
[やぶちゃん注:「華表」「くわへう(かひょう)」で、ここは神社の鳥居を指す。「とりゐ」と読んでもいいが、だったら、「華表」と漢字表記してルビも振らぬのは、あざと過ぎる。]
松疎らなる岩山に、
折しも白く瀧見えて、
半ばのぼれる峯の月、
舟をさすこそうれしけれ。
[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年十二月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。本篇が底本の明治三十年の最後の詩篇である。個人的には好きな詩であるものの、ルビが一切ないのは確信犯であろうが、異様に、気になる。定型音律を用いている以上、孤高にして佶屈聱牙の詩人ならいざ知らず、素直に多くの民衆に読めることを心掛ける詩人たるべき彼にして、不親切、否、独善的な感じさえする。今の若い読者はそこら中で躓くぞ! 清白! だから敢えて無粋に注を挿入したんだ! なお、底本全集年譜によれば、前の「南海の潮音」(同年七月発表)との間の八月八日頃に、『靑年文』や『文庫』を介して文通のみの関係にあった、新進の新体詩人として頭角を現わしつつあった詩人・歌人の島木赤彦(明治九(一八七六)年~大正一五(一九二六)年:伊良子清白より一つ年上。当時は長野尋常師範学校最終学年で、翌年、北安曇郡池田会染尋常高等小学校の訓導となった。当時のペン・ネームは「塚原伏龍」「久保田山百合」。なお、彼が『アララギ』派の代表歌人となるのは明治四二(一九〇九)年以降)の訪問を受けている。]
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