太平百物語卷三 廿三 大森の邪神往來を惱ませし事
○廿三 大森の邪神(じやじん)往來を惱ませし事
甲斐の國身延山(しんゑんざん[やぶちゃん注:ママ。])の麓に大きなる森あり。樹木、年經りて、大木(たいぼく)、あまた有。
其中に、槐(ゑんじゆ)の木の、太さ、五人の兩手をして、漸(やうやく)およぼすほどの、たけ、五、六丈斗(ばかり)なる、すさまじき大木あり。
其傍(かたはら)に社(やしろ)有けるが、旅人(りよじん)、日暮(ひぐれ)て此前を通れば、祟りをなしけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、おろかには通りがたし。
若(もし)、通らで叶はざる人は、結構なる器(うつは)物・衣類又は金銀等(とう)を、此槐の木の許(もと)へ、供(そな)へ、禮拜(らいはい)すれば、難なし、といひ傳ふほどに、人々、おそれて、日暮(ひぐれ)ては、人跡絕(たへ)たり。
然るに、茂次(もじ)といふ百姓、用の事ありて、他所(たしよ)に至りけるが、母おや、急病のよしを告越(つげこし)けるに、茂次、常々、孝心なりければ、大きにおどろき歎き、取物(とるもの)も取あへず、わが家に急(いそぎ)けるに、途中にて、ふと、おもひ出(いだ)しけるは、聞及(きゝおよ)ぶ大森の社の前を通らでは、歸る事、叶はず。
日は、はや、暮に向(なんなん)とす。
然(しかれ)ども、宝器(ほうき)か金銀を供へずしては、通る事、おもひもよらず、此道を除(のぞ)かんとすれば、既に三里の道を廻る。急病なれば、廻り歸らん事も淺まし。
「いかゞせん。」
と案じ煩ひけるが、
「所詮、此森の御社(おんやしろ)に御斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])を申さんに、子細はあらじ。」
と覚悟して急ぎけるに、初夜(しよや)の比(ころ)ほひ、大森のやしろに至る。
茂次、かの槐の木の許にうづくまり、地に平伏して祈りけるは、
「われ、今日(こんにち)、母親が急病によつて、心いそぎ、御供物(ぐもつ)を失(しつ)せり。重(かさね)て宝器を捧(ささげ)奉らんに、此所を御ゆるしありて、通さしめ玉へ。」
と、実(げ)に余義[やぶちゃん注:ママ。](よぎ)なく斷(ことはり)申して、夫(それ)より、一さんにかけ行所に、俄に土風(つちかぜ)、
「さつ。」
と、一しきりして、後(うしろ)より、甲冑(かつちう)を着たる者、大勢、追來(おいきた[やぶちゃん注:ママ。])り、
「茂次、まて。」
とぞ、のゝしりける。
茂次、
「南無三宝。」
と身をちゞめけるに、程なく追付(おつつき[やぶちゃん注:ママ。])、いふ樣、
「汝は今、われわれが魁(さきがけ)の神に供物(ぐもつ)を參らせずして過(すぐ)る事、甚(はなはだ)以て、いはれなし。急(いそひ[やぶちゃん注:ママ。])で宝器を渡すべし。若(も)し、さもなくば、命をとらん。」
と、いふ。
茂次、色を正しくして、
「されば候ふ、わが母おや、既に死せんとす。此ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に心いそぎて供(ぐ)物を失せり。重ねて宝器を捧げんに、此度は、ぜひ、ゆるし玉へ。」
と、さめざめと歎きければ、其中に、年老たる者の、いはく、
「誠に、此者、助けがたしといへども、いか樣、僞(いつは)るまじきつらたましゐ[やぶちゃん注:ママ。]なれば、此度(たび)は、ゆるすなり。必ず遠からぬうち、供物(ぐもつ)を捧ぐべし。」
とて、皆々、引き具し、歸りしかば、茂次、辛きいのちを助(たすか)り、やうやう宿に歸り、母親が末期(まつご)にあひ、追善、事すみて後(のち)、彼(か)の大森の邪神(じやじん)の事を委(くはし)く語りければ、有(あり)あふ人々、舌をふるはし、いよいよおそれあへりしが、
『其儘に捨て置きては、後難も如何(いかゞ)。』
とおもひながら、茂次、元來、家、まづしければ、これに心を苦しめけるが、
「兎角、供物(ぐもつ)も分限(ぶんげん)相應なれば。」
とて、やうやうして、鳥目(てうもく)五百文こしらへ、彼(かの)大森に持參し、打(うち)しほれて申しけるは、
「我(われ)、家、貧しければ、おほくの寶(たから)、心に任せず。是式(これしき)ながら、指上(さしあぐ)るなり。仰(あふ)ぎ願はくは、あはれみをたれ玉ひ、ゆるさしめ玉へ。」
と、槐の木(こ)の許に、五百文を置(おき)て歸らんとせしに、又、冷風(りやうふう)、一しきり吹(ふき)來つて、以前の邪神(じやじん)、顯はれ出(いで)、大きに怒つていはく、
「かゝるかるがるしき供物(ぐもつ)を參らせて魁神(くはいしん[やぶちゃん注:ママ。])をかるしむるや。いで、物見せん。」
とて、大き成[やぶちゃん注:「なる」。]土(つち)の鍋(なべ)を取いだし、眞中(まんなか)に引(ひき)すへ、茂次を取て打こみ、柴(しば)・薪(たきゞ)を持(もち)はこび、既に烹(に)ころさんとす。
茂次は、いと淺ましく、苦しき事におもひながら、今は覺悟を究(きは)めて、日比(ひごろ)念じ奉りし不動明王の眞言(しんごん)を唱へていたりしが、はや、薪に、火、うつりて、次第に、炎、燃上(もへあが[やぶちゃん注:ママ。])りしが、俄に、夕立(ゆふだち)降りしきりて、此火を打消(けし)、忽然(こつぜん)として、赤き童子壱人、顯はれ、此者どもをさんざんに打(うち)ちらし、茂次を鍋より助け出(いだ)し、彼(かの)土鍋(どなべ)は、遙(はるか)の谷になげ捨(すて)、
「今は故障(さはり)なし。汝が供へし供物(ぐもつ)を、持歸(もちかへ)るべし。」
とて、一つの筥(はこ)を取(とつ)て、茂次に渡し、引出し給ふとおもへば、程なく、我が家に歸り着(つき)ぬ。
茂次は夢の覚めたる心地して、かの筥を明(あけ)みれば、金子(きんす)千兩、ありけり。
『こはいかに。』
と思ひながら、
「返すべき方(かた)もなく、我(わが)物ならねば、つかふべきにもあらず。」
とて、ふかく、かくし置(おき)けるが、其夜、夢中(むちう)に、彼(かの)童子、あらはれ出、
「それ成[やぶちゃん注:「なる」。]金子は、汝が常に親に孝ありしを以て、天より与へ玉ふなり。必ずうたがふべからず。」
と、あらたに示現(じげん)を蒙(かふむ)りければ、夫(それ)より、心定(こゝろさだま)り、有(あり)がたくおし戴き、わが物となしけるが、次第次第に冨貴(ふうき)になりて、今に榮へ侍るとぞ。
[やぶちゃん注:「甲斐の國身延山(しんゑんざん])」現在の山梨県南巨摩郡身延町と早川町に跨る身延山(みのぶさん)。標高千百五十三メートル。ここには日蓮宗総本山身延山久遠寺がある。ここで筆者が「しんゑんざん」と音で振っているところからは、背景に日蓮宗の影(筆者が日蓮宗信者であったか、或いは日蓮宗に相応の親和性を持っていたということ)を見ることが出来ると私は思う。高橋俊隆氏の「蓑夫(身延)」についての論考によれば、『「みのぶ」の語源は山の姿が蓑を着た人が蹲踞した姿に似ているいう説があります。また、この近辺に蓑を作る人が多く住んでいたことから「蓑夫」(みのふ)と呼ばれたといいます。ほかに、蓑父とも書かれ、「蓑生」(みのうふ)ともいいます。(町田是正著「『身延山秘話外史』一五七頁)。『報恩抄』(一二五〇頁)の末尾には「自甲州波木井郷蓑歩嶽」とあります。いずれにしましても、『波木井殿御報』(一九二四頁)にある「みのぶさわ」は、『新訂身延鏡』(一九頁)にある「蓑夫の沢」にあたります。つまり、「蓑夫」・「蓑歩」を「身延」としたのは、日蓮聖人の改名によるということです。「蓑夫」を「身延」と当て字されたのは、文永十二年[やぶちゃん注:一二七五年。]二月十六日に「此所をば身延の嶽と申す」とのべていることから、入山されてまもないころに「身延」と当て字されていたことがわかります。日蓮聖人が入山される以前は「みのぶ」と呼ばれていたことは明らかで、その語源は「蓑」に関連していたことがわかります。「身延山」(しんえんざん)と呼称するのは、日蓮聖人がこの地において九年のあいだ「心やすく」生活することができた、とのべたことから、心身ともに安穏に法華経の人生をおくれたという、延命長寿の願いがこめられています』とある。
「槐(ゑんじゆ)の木」落葉高木マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum。ウィキの「エンジュ」によれば、『中国原産で、古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている。和名は古名』「えにす」が『転化したもの』。『街路樹や庭木として植えられる。葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は』四~七『対あり、長さ』三~五『センチの卵形で、表面は緑色、裏面は緑白色で短毛がありフェルトのようになっている。開花は』七『月で、枝先の円錐花序に白色の蝶形花を多数開き、蜂などの重要な蜜源植物となっている。豆果の莢は、種子と種子の間が著しくくびれる。また木質は固く、釿(ちょうな)の柄として用いられる』とある。私の記憶によれば、大木になり、寿命も長い木であることから、中国(植生としては華北に適する)では古来より霊や神の宿る木として伝奇や志怪小説にしばしば登場するし、古代から街路樹としても馴染みのある樹種であり、特に長安等の首都の官庁街に植えられたことから高位高官或いは仁政の象徴でもあった。知られた作品では、中唐の伝奇小説で、主人公の侠客淳于棼(じゅんうふん)が夢の中で蟻の国へ行き、国王の娘婿となり、南柯郡太守に任命されて三十年を過ごす異類婚姻譚である、李公佐の撰の「南柯(なんか)太守伝」(八〇二年成立)であろう。主人公が冒頭で昼寝するのはまさに槐の木の下であった。なお、博物誌や文化史的な槐については、寺井泰明氏の詳細を極めた論文「槐の文化と語源」があり、「桜美林大学学術機関リポジトリ」のこちらからダウン・ロード(PDF)出来る。
「五、六丈」十五メートル強から十八・一八メートル。
「初夜(しよや)」元は仏語で、一昼夜を六分した六時(晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)の一つ。戌の刻で、現在の午後八時から午後九時頃。「初更」「甲夜」も同じ。本来はその時刻に行なう勤行を指した。
「土風(つちかぜ)」土埃(つちぼこり)を吹き上げる風。特に春先に吹くそうした風を指し、俳句の春の季語ともなっていたから、ここは暗にシークエンス時制を示す効果も持っているのかも知れない。小学館「日本国語大辞典」には、「つじかぜ」(辻風)が、「じ」・「ぢ」の音の混同によって「つぢかぜ」と書かれ、「土を巻き上げながら吹く風」という語源俗解が加わって生じたものか、ともあった。その場合は、殊に旋風(つむじかぜ)を指すこととなるが、ここの怪異の出来(しゅったい)について見るならば、旋風の方が映像的効果はより高くなるように思われるものの、『「さつ」と、一しきりして、後(うしろ)より、甲冑(かつちう)を着たる者、大勢、追來(おいきた[やぶちゃん注:ママ。])り』というリズムにはちょっと合わず、大仰に過ぎる。
「南無三宝」「なむさんぼう」と濁るのが正しい。仏語の連語で、「三宝」は「仏」・「法」・「僧」の三つを指す。「三宝に帰依し奉る」の意で、三宝に呼びかけて、仏の救いを求める言葉。一種の感動詞として現代でもよく使用される。
「魁(さきがけ)」首魁(しゅかい)。親分。槐の邪神には多数の眷属がいるようだ。
「供物(ぐもつ)」かく濁音でも呼称する。
「分限(ぶんげん)相應」その人物が置かれている地位・境遇に相応した相対的な違いがあることを謂う。
「鳥目(てうもく)」銭(ぜに)の異称。また、一般に金銭の異称。江戸時代までの銭貨は中心に穴が空いており、その形が鳥の目に似ていたところからかく称する。
「五百文」本書は享保一七(一七三三)年板行であるから、江戸中期(一七〇〇年頃から一七五〇年頃まで)で、一文は二十円程度、一両は八万円ほどで、「五百文」は現在の一万円相当に当たる。母の葬儀を出した直後の、しかも貧しい茂次にとってはこれはまさに相応の大金である。
「赤き童子壱人」「不動明王」には八大童子或いは三十六童子又は四十八使者と呼ばれる眷属がいるともされるが、実際にはその内の、「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」と「制吒迦童子(せいたかどうじ)」を両脇侍とした三尊形式(不動明王二童子像或いは不動三尊像と称する)で絵画や彫像に表わされることが多い。この場合、不動明王の右(向かって左)に制吒迦童子が、左(向かって右)に矜羯羅童子を配置するのが普通で、矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表わされるものが多く、制吒迦童子は対照的に金剛杵(こんごうしょ)と金剛棒(いずれも武器)を手にし、悪戯小僧のように表現されたものが多い。ここに登場するのは制吒迦童子が相応しい。
「一つの筥(はこ)を取(とつ)て、茂次に渡し、引出し給ふとおもへば、程なく、我が家に歸り着(つき)ぬ」ここにも瞬時に茂次の身体が家に移動している怪異を読み取らねばならぬ。
「千兩」先の換算に従えば、実に八千万円!
「示現(じげん)を蒙(かふむ)りければ」「示現」は神仏が不思議な霊験・奇跡を現わすことで、ここでは茂次の夢に確かに疑いようのない、再度の制吒迦童子の顕現と新たな諭(さと)しを授かったので。]
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