淸泉 すゞしろのや(伊良子清白)
淸 泉
さゝの葉
君かさしたる盃を、
われもかへして酌みつれど、
敷かさなればおのづから、
さためがたくも成りにたり。
くれなゐ深くわが頰の、
もゆるばかりにおもふまで、
醉ひに醉ひたる折なれば、
物をもわかずなれるかな。
われはわすれぬ君ゆゑに、
都の空をあとに見て、
かゝる深山の奧ふかく、
柴かる賤とやつれしも。
われはわすれぬ夜もすがら、
花ちる陰にたゞずみて、
君かかきなす琴の音に、
こがれよりつるいにしへも。
園生の淸水
園生の淸水ながれては、
君かみ他におつるとき。
花の姿のうつるやと、
にごしもやらぬわが心。
中の柴垣ひまあらみ、
ながれてくぐる眞淸水に、
せめて一夜はみをかへて、
君と相見んすべもがな。
ふりわけ髮
今日や皈るとわが君の、
浦の洲崎にたちいでゝ、
松の葉越にわが船の、
見ゆるをいつとまつならむ。
松の老木にみをよせて、
わかれしあとをかたりなば、
つもるはなしのつきずして、
そこにぞやがて暮れぬべき。
ひいな飾りしわらはべの、
むかしのさまもわすれねど、
花にもまさるおもばせの、
今のすがたやいかならむ。
菫菜つまんと春の野に、
君をさそはゞそのかみの、
わらべあそびをそのまゝに、
うなづきますやはぢらはで。
あはれたらちの父母が、
ふりわけ髮のいにしへに、
結びたまひし妹と背の、
まことのちぎり結ばんと。
めさせ給ひし玉章に、
學のまどもあとにして、
都の空を立ちはなれ、
皈ると君は知りますや。
峯のまつかぜ
みねの松風吹きたえて、
たぎち流るゝ瀧津瀨の、
音たちあくるあけぼのゝ、
谷閒がくれのひとついほ。
朝たちさわぐ群島の、
羽うつかぜに霧はれて、
みねのあなたにあかあかと、
のぼる朝日のうらゝかさ。
筧の淸水くみあげて、
口そゝぐまに我妹子の、
かしぐ朝飯のうす煙、
松の木のまに立ちのぼる。
手に手をとりてわぎ妹子と、
こゞしきみちを行きゆけば、
ふみもならはぬいにしへの、
わがみの上をしのばれて。
思へば君をわぎ妹子と、
はじめてよびしその折よ、
君はいたくもはぢらひて、
おもてを袖におほひしよ。
むかしはわれも九重の、
玉のうてなにときめきて、
雲の上なるまじらひに、
限もしらず榮えしが。
小柴かるてふ山がつの、
君のすがたを見てしより、
大内山をぬけいでゝ、
わりなき道にやつれてき。
山わけ衣袖さむみ、
なれてもつらき山賤に、
おのが姿をかへてより、
ひさしくなりぬいつしかに。
峰の妻木をこるひまに、
日影は西にかたふきて、
ひろひ集めし枯柴を、
背負ひて皈る谷のみち。
今日の一日もくれはてゝ、
谷の小川のさゝやぎも、
尾上の松のおとなひも、
夕暮ふかくなりにけり。
ゆあみも終へて我妹子と、
圍爐裏の焚火かこみつゝ、
へたてぬ中をかたりあふ、
わかかくれ家のたのしさよ。
[やぶちゃん注:本篇は明治三〇(一八九七)年二月十一発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。初篇「さゝの葉」の第一連終行の「さためがたく」はママ。]
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