初花姬 伊良子暉造(伊良子清白)
初 花 姬
袂はなみだ裾はつゆ。
ぬれこそ勝れ君故に、
たづねわづらふ大井川、
霧にもくもる夕月の、
ほのかに招く花薄。
嵯峨野の奧の燈火は、
君がおはする菴ならむ。
更け行く月をながめつゝ、
しぼるにあまる袖時雨。
柴の折戶にさしよりて、
火影洩れ來る隙間より、
しばしは内をすかし見つ。
君を尋ねてみやこより、
初花ひめがまゐりたり、
三位の卿はおはさずや。
常ならぬ身にみごもりて、
形見をやどす一人子も、
ふりすて給ふわが君の、
心はつゆも恨まねど、
よしなき戀にあこがれて、
消えなむ果ぞ朽惜しき。
のがれ給ひし墨染の、
衣の袖も知らずして。
いそげど遠き法の山、
修むる道のさはりとや、
姬のうらみもよそにして、
心づよくも思ひ絕ち、
細りはてたる燈火も、
袂の風にかき消しつ。
千々の思にたえかねて、
みだれ勝なる鐘の音、
いとゞ淚に咽ぶらむ、
經讀む聲もしめるなり。
落ち行く月に誘はれて、
西ヘ西へとたどる身の、
この世からなるみつ瀨川、
かへらぬ水に任せつゝ、
やがて消えなむうたかたの、
きえぬ恨をのこしおき、
莟の中のひとり子の、
さかりの春も知らずして、
手折りし人の無情さに、
ところがらなる嵐山、
冥路をかけて散りて行く、
初花ひめぞ哀なる。
柵むものもなみの上、
行衞も知らぬなき人の、
魂はいづこをまよふらむ。
嵐ぞとざす高野やま、
峰の松風の音澄みて、
眞如の月のかげ淸し。
谷の小川のそば傳ひ、
御寺をさして歸るらむ、
閼伽汲む桶にさし添へし、
櫁の花のふたつみつ、
ころもの色も墨染の、
綾の故にひきかへて、
いかなるうきやこもるらむ。
菅の小笠に竹のつゑ、
旅にやつれしわらべ子の、
法師の袖をひきとめて、
こゝの御寺に源の、
三位の卿はおはさずや、
父をたづねてはるばると、
習はぬ旅も辿り來て、
母が遺しゝ言のはの、
世に亡きあとの恨をも、
聞えまつらむわが願、
いかで一めは父上に、
あはし給へといふ貌を、
夕ぐれながらすかし見て、
思はず立てし一聲に、
父よとばかり縋る手を、
物をも言はずふりすてつ、
心のうちはいとし子よ。
鳥部の山の夕まぐれ、
苔むすつかにぬかづきて、
かきくどきつゝ童子の、
いのる姿を見かへりて、
袖をしぼる旅僧は、
いかなる人の果ならむ。
[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年八月二十五日の『文庫』第一巻第一号掲載(『少年文集』を引き継いで改題)。署名は本名の伊良子暉造。不学にして、本篇、如何なる物語を素材としているか不詳である。識者の御教授を乞う。苅萱道心(石動丸)説話の変形譚の一つか?]