いさり舟 すゞしろのや(伊良子清白)
いさり舟
う ま 追
菫はな咲くませ垣に、
もたれてひとりながめやり、
妹まつひまの手すさびに、
なびく柳をいくたびか、
ときつ結びつまたときつ。
むかひあはせの近ければ、
朝夕かほは見るものを、
さすがにいはですぎ行くを、
かたみに二人いひいでゝ、
うらみあひしもいくそたび。
めぐみも深きたらちねの、
父とはゝとのうせしより、
にはかに家はおとろへて、
あとにのこりしみなし子は、
うま追ふ賤におちぶれき。
契りし妹も人づまと、
淸きみさををかへぬれば、
人の心のつれなさに、
ひとり思にたえかねて、
袂もくつるうきなみだ。
草むらごとに蟲なきて、
夕風さむきさとのみち、
うまおひながら皈り行く、
尾花の末に松見えて、
これぞ昔のおのが家。
星
夕やけ雲の色そへて、
日影殘れる山の端の、
うすくれなゐに匂ふとき。
そよがぬ木々のひまとめて、
水より淡き大空に、
星の帝王(みかど)はのたまひぬ。
「あはれわが臣けふもまた、
鳥を塒におくりてよ。
雲をみ山にかへしてよ。
ふねを湊にあつめてよ。
菫つむ子をまつ母の、
そのふところにおくりてよ。」
のたまふまゝに三ツ二ツ、
四つ六つ五つつぎつぎに、
星のひかりのあらはれて、
空もせきまでなりし時、
淸き夢路の戶を開けて、
宇宙は皆安く眠り行く。
あ る 夕
秋の夕べをかなしとは、
いかなる人か言初めし。
あゝわが如くいにしへも、
うせにしせこをこひわびて、
ひとりさびしき岸に行き、
水のながれにうらみけむ、
少女やかくもいひそめし。
し ら 浪
春の夕べのさびしさに、
ひとり海邊にたちいでゝ、
こゝろともなく眺むれば、
みるめだになき荒いそに、
たれをか戀ひししら浪の、
とほき潮路をわたりきて、
よせてはかへしきてはうつ。
行 く 水
ながれゆく水の、
あとをおひて、
しばし語らむと、
ふたりあゆむ。
空はれわたりて、
いとしづかに、
星かげきらめく、
ゆふぐれどき。
すぎこしうれひを、
おもひいでゝ、
戀のかなしさに、
袖をぬらしぬ。
されどもせめては、
きみとあひて、
かたらひうるをぞ、
さいはひとせむ。
みにしみわたれる、
夕ぐれどきの、
えならぬけしきを、
いかでわすれむ。
ながれ行く水の、
あとをおひて、
かたりしゆふべを、
いかでわすれむ。
は る 風
あしのわか葉の、
末かけて、
妹がそで吹く、
うみのかぜ。
八重たちこむる、
あまぐもの、
千さとのをちを、
しのびきて、
さわらびもゆる、
わかやまの、
尾上のまつに、
吹きわたる。
[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年四月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]