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2019/05/12

伊勢櫻 伊良子暉造(伊良子清白)

 

伊 勢 櫻

 

春とはいへど名のみにて、

 花にうかるゝ人もなく、

 ちるや櫻のちりぢりに、

 君も臣下もおのがじゝ、

 こゝろごゝろになり弭の、

 響を聞くぞあはれなる。

頃は文正十四年、

 彌生なかばの朝ぼらけ。

 衞士のたくなる篝火の、

 かなたに起るせめ鼓、

 よせによせたるつは者は、

 音に聞えし羽柴勢。

城のあろじと聞えたる、

 富田の朝臣のぶ高は、

 かねて心を德川の、

 淸きながれに通はして、

 安濃津のしろにたてこもり、

 小勢ながらも守りたまふ。

衆寡勢敵せねば、

 あはれ賴みし城さへに、

 今日か明日かとなりにけり、

 信高あそん今はとて、

 城の大手にいで給ひ、

 彼方をきつとながめたり。

折こそあれやしとやかに、

 あらはれいでし女武者、

 箙にかざす伊勢ざくら、

 花にも似たる面影や、

 いづれをいづれ白月毛、

 駒に任せて步まする。

女ながらも武士のつま、

 長刀片手にかいこみて、

 群がる敵に割つて入り、

 かけ立蹴立つる馬煙、

 矢たけ心の春風に、

 花をちらして馳せめぐる。

味方はこれに勵まされ、

 小勢ながらも鐡石の、

 義勇に刀向ふ敵もなく、

 夜すがらはげしき戰に、

 今はかちたり安濃津城、

 夜はほのぼのと明け初めぬ。

ふるき昔をとひ來れば、

 松杉くらきした蔭に、

 眞白妙にもさきいでゝ、

 昔しながらの花の色、

 かざせし人の俤を、

 にほふもうれし伊勢櫻。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年五月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。かなり具体な歴史詠であるが、史実と照らして、致命的な誤りが激しいのが難

「こゝろごゝろになり弭の」「弭」は「はず」で「ゆはず」、弓の両端の弦をかけるところを言う。所謂、弦の張り具合を確かめて鳴弦させるシーンを「なり弭」と言いつつ、一方で、「籠城している兵たちが、どうなることかとそれぞれに心々の内に不安をかかえているであろう『はず』に違いない」を掛けたものであろう。

「文正十四年」「文正」は「ぶんしやう(ぶんしょう)」であるが、文正は室町時代の「応仁」の前で、しかも二年までしかない。ここに語られるのは、「関ヶ原の戦い」の前哨戦の一つである「安濃津城(あのつじょう)の戦い」(現在の三重県津市にあった津城(つじょう)の別名。ここ(グーグル・マップ・データ))あるから、慶長五(一六〇〇)年のことである。元号といい、年数字といい、不審だが、以下に示す本篇のヒーロー富田信高が秀吉に仕えたとされる天正十六年辺りを伊良子清白は誤認したものか。ウィキの「富田信高」によれば(太字下線は私が附した)、富田信高(とみたのぶたか ?~寛永一〇(一六三三)年)は近江国で生まれで、継室の宇喜多忠家の娘(宇喜多秀家の養女)が本篇に登場する女武者である(名は伝わらない)。父富田一白(信広・知信とも称した)が羽柴秀吉に仕えて側近になったことから、天正一六(一五八八)年から信高も関白秀吉に仕えた。文禄三(一五九四年)、従五位下・信濃守に叙任され、文禄四(一五九五)年に父が伊勢安濃(あの)郡に二万石を加増されるが、一白はこれをそのまま信高に分知(武家の「知」行の一部を親族に分与すること。「分地」とも言う)している。慶長三(一五九八)年、秀吉が亡くなり、翌慶長四年には『父が隠居し』、『家督を継いだ。信高は安濃津城主』五『万石(』六『万石とも)の大名となった』。その後、慶長五(一六〇〇)年六月、『徳川家康が上杉討伐の軍を起こすと、信高も』三百『名の家臣を率いて従軍し、榊原康政の軍勢に属した』。『遠征途中の』七月十二日に』は石田三成が挙兵するが、『小山評定において』、『他の諸将と同様、家康に与力することを決意する。富田氏は三成と同じく近江衆であるが、信高や一白は』、『もともと三成とは不和であったという』。『家康は、交通の要衝にある安濃津城を確保するために、信高と伊勢上野城主分部光嘉に先行して帰還し、防備を固めるように命じた』。八月一日、『信高と光嘉は下野小山から急ぎ出立し、東海道を進んで池田輝政の三河吉田城に到り、兵船数百を借りて三河湾を渡った。途中、伊勢湾を海上封鎖する西軍の九鬼嘉隆の兵船に遭遇して乗り込みを許したが、嘉隆とは懇意だった信高は西軍に属するために東軍から離脱したと欺いて、虎口を脱し』ている。『伏見城を攻略していた西軍は、伊賀方面から伊勢路に向けて大軍を進出させ、すでに近くまで迫っていた。光嘉は自らの居城である上野城は守るに足りないと判断して、同城を放棄し、信高の居城・安濃津城に合流』、『東の門を守った。信高は東軍に籠城の状況を伝え、急ぎ家康に西上してもらうように要請しようとしたが、西軍・九鬼勢の海上封鎖により』、『東軍との連絡は絶たれており、孤立した状態となっていた。鍋島勝茂の軍勢に包囲される松坂城の城主古田重勝も、僅かだが』、『兵力を割いて、援軍は城の南郭を補強した。結局、信高は兵』千六百名(千七百名とも)『と共に籠城した。対する西軍は毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、宍戸元続、吉川広家ら総勢』三『万にのぼった。ところが、いち早く安濃津城を攻撃しようとした長束正家の軍勢は、浜に上陸した数千の信高の兵船を見て、東軍本隊の到着と誤認し』、『鈴鹿・亀山の山中に潰走』、『後でこの間違いに気付いて戻ってくるが、信高はこれを夜襲で撃破して気勢を上げた』。八月二十三日(グレゴリオ暦九月三十日)、『安濃津城攻防戦が開始された。』二十四日、『西来寺』(現在の三重県津市内)『が兵火で焼けて町屋まで延焼』したが、『この機に乗じて西軍は城壁を上り始めたので、信高と光嘉は城から打って出て反撃した』。『光嘉は奮闘したが、宍戸元続と戦い、双方が傷を負って退いた。信高も自ら槍を振るって戦ったが、群がる敵兵に囲まれた。そこへ単騎、若武者が救援に駆けつけて危機を脱した。それは「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」』『と刮目された』、この「若武者」こそが実は本篇に登場する信高の妻なのであった(引用元にある月岡芳年の絵「教導立志基三十一 富田信高」をリンクさせておく)。『しかし』、『戦いは劣勢で、二の丸、三の丸が陥落し、詰城に追い込まれた』。二十五日、『敵が総攻撃に移るなかで、信高は城門を開いて突撃』し、五百余りの敵を『余を討ち取って』、『寄せ手を撃退し』、『再び』、『城に籠もった』。二十六日、『これ以上』、『戦いを継続するのは困難であると判断した信高』は『矢文を投じて和議を請うたとも』、『決戦が迫って戦いを切り上げようとした毛利秀元が木食応其を仲介として講和を成立させたとも』、『吉川広家の降伏勧告を信高が容れたとも』『伝わるが、いずれにしてもこの日に開城することが決まり、城を明け渡して、信高は一身田町の高田山専修寺で剃髪して出家し、高野山に奔った』(本篇の「今はかちたり安濃津城」は籠城戦の一齣の勝利という意で、場面をそこで現代の景にずらしているのであろうが、一見、史実と一致しないように読めてしまうのはやはり難がある)。『関ヶ原の役が東軍の勝利で終わると、家康より』、『二心無き旨を賞され、失った所領を復して本領が安堵されたほかに、伊勢国内に』二『万石を加増され』、慶長一三(一六〇八)年には『伊予板島城に転封となり、これが宇和島藩』十『万』千九百『石』『とな』ったが、その直後にここに出るヒロインの夫人がよかれと思って行ったある行為が元で(これには複雑な人間関係があるが、本詩篇とは無関係なので略す。リンク元を読まれたい。処分の背景自体にも実は別な真相があるらしい)。『信高は改易に処され』、『陸奥磐城平藩の鳥居忠政に預けられ、岩城に蟄居』となり、そのまま亡くなっている。

「彌生なかば」冒頭の「春」からして、おかしい。これは「安濃津城の戦い」の本格的な攻防戦が成された、上記の八月二十四日、グレゴリオ暦で一六〇〇年十月一日のシークエンスである。或いは、後の軍記風の読み物や近代の講談などで、こうしたシチュエーション改変が行われていたものかも知れない。

「衞士」「ゑじ」。

「羽柴勢」豊臣秀頼は幼少であるが、秀吉死後の羽柴宗家二代当主であるから、まあ、かく言ってもおかしくはない。

「衆寡勢敵せねば」「衆寡敵せず」(多数と少数で相手にならない)に「勢」(「いきおひ」と訓じておく)を挟み込んだもの。

「箙」「えびら」。矢を挿し入れて腰に付ける箱形の容納具。

「伊勢ざくら」特定の種名ではない。

「白月毛」「しろつきげ」。白みがかった月毛(葦毛(一般に想起する馬の毛色ととってよい)でやや赤みを帯びて見えるもの)。

「矢たけ心」「矢竹」(矢の竹で出来た主幹の矢柄・篦(の))に「(彌(いや))猛(た)け心(ごころ)」を掛ける。

「眞白妙にも」「ましろ/たへにも」。]

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