太平百物語卷四 卅二 松浦正太夫猫また問答の事
○卅二 松浦正太夫猫また問答の事
備中に松浦正太夫といふ侍あり。常に武勇を逞(たくまし)ふして、甚(はなはだ)殺生を好み、おほく獸(けだもの)の命(いのち)を取事、數年(すねん)なりし。
一夜(あるよ)の事なりき。
いつものごとく、夫婦、奧の間に臥居(ふしゐ)けるに、女房、俄に物に襲(おそは)れ、わなゝきければ、正太夫、おどろき覚(さめ)て、其体(てい)をみるに、居間を、手足にて、這步(はひあり)き、口ばしり、いひけるは、
「扨も、御身は情なき者かな。われ、おことの爲に仇(あだ)となりし事もなきに、能(よく)も殺せし。此恨み、はれやらねば、今、汝が妻の皮肉に入たり[やぶちゃん注:「いりたり」。]。見よ見よ、十日の内には責殺(せめころ)さんぞ。」
と、正太夫を白眼付(にらめつけ)ければ、家内(かない)の者は此体(てい)を見て、恐れあへるぞ理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])りなる。
され共、正太夫は心剛(こゝろがう)なる男なれば、打笑つて、いはく、
「おのれ、今、わが妻に取(とり)つき、樣々に口ばしれども、我、今迄殺せし惡獸(あくじう)、かぎりなければ、いかなる獸(けだもの)やらんもしらず。我、常に殺生を好むといへども、あへて咎(とが)なきを、殺さず。まづ、おのれは、何といふ獸(けだもの)ぞ。名乘るべし。」
と、いふに、伏したる女房、
「すつく。」
と、立(たち)、
「何。咎なきは殺さぬとや。われは、生駒八十介(いこまやそすけ)殿に、久しく育てられし、猫なり。昨日(きのふ)の暮方(くれがた)、何心なく緣先に伏(ふし)ゐたりしを、おこと、後(うしろ)に來たりて、情なくも、さし殺しぬ。かく、無罪の殺生をしながら、何とて、僞るや。」
と、
「はつた。」
と、ねめ付(つく)れば、正太夫、これを聞き、大きに怒つていふ樣、
「扨は。己(おのれ)は八十介が家の古猫(ねこ)なるや。おのれこそ、ちかき比(ころ)、さまざまに變化(へんげ)して、人を惱ませし事、限りなし。我、此事を慥(たしか)に、知る。此故に、昨暮(さくぼ)、折を得て、害しぬ。然るに、其恨(うらみ)をなさんため、妻を苦しめ、殺さん事、甚(はなはだ)以て、いはれ、なし。誠(まこと)、恨みをなさんとならば、など、我に付て仇を報ぜんや。」
と、いへば、答へていふやう、
「我も左はおもへど、おこと、心剛なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、いかに窺へども、其間(そのひま)を得ず。此故に、妻に付し。」
と、いふ。
正太夫、笑つていはく、
「畜生なればとて、比興至極の仕業(しわざ)かな[やぶちゃん注:「比興」は卑怯の意がある。]。既に己(おのれ)が產(うみ)たる子猫、八十介(やそすけ)方に數多(あまた)あれども、咎(とが)なければ、殺さず。然るに、恨みなきわが妻を苦しめ殺さん事、人間の道にして、殊にはづる所なり。よしよし、我が妻を殺すならば、我、又、汝の產たる子猫ども、なぶり、さいなみ、殺すべし。我、是れを殺す心はなけれども、おのれ、道に違(たが)ふゆへに、われ、又、止む事を得ざるなり。」
と、理を盡していひければ、俄におどろく風情にて、
「あら、かなしの仰せやな。然らば、御身の妻を殺すまじ。子共が命を助け玉へ。」
と、身をちゞめ、歎きしかば、正太夫、打點頭(うちうなづ)き、
「さあらば、遺恨をはらして、此所を、はやはや、離魂(りこん)すべし。我、汝が爲に成仏得脫(じやうぶつとくだつ)の法事をなして得さすべし。然るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、前生(ぜんしやう)の惡行(あくぎやう)、滅して、仏果を得べし。」
と、いひければ、
「扨々、有難きおほせやな。われ、畜生と生まれながら、人間に近付(ちかづき)、其家の寵愛ふかしといへども、更に恩顧を、しらず。剩(あまつさへ)年經るに從ひ、變化(へんげ)自在をなす。妙所(みやうしよ)に至れば、人を苦しめ、たぶらかす。是れ、倂(しかしながら)、わが生得(しやうとく)の因緣なれば、奈何(いかん)ともする事、なし。必ず、年經りたる猫は、われに限るべからず。然るに、今、有り難き示しによつて、邪氣偏執(へんしう)の角(つの)も折れぬ。必ず、御言葉を違(たが)へ玉はず、畜生道を遁(のが)るべき法事をなしてたび玉へ。今は、いとまを申なり。」
と、いひも終らず、緣先へ、
「つかつか。」
と出る[やぶちゃん注:「いづる」。]、と、おもへば、妻は、かしこに倒れしを、人々、助け抱き入(いる)れば、むかふの方の叢(くさむら)に、火の魂(たま)、飛(とん)で、炎(ほのほ)を顯はし、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])うせぬ。
それより、正太夫は約束のごとく、跡を念比(ねんごろ)に吊(とぶら)ひやりければ、其後(そのゝち)は、何の災(わざはひ)もなくして、此正太夫、次第に立身しければ、
「扨は。此猫が佛果を得たる有難さに、災(わざはひ)變じて、此家(いへ)に幸(さいはひ)を守るならん。」
と、皆(みな)人、いひあへりけるとなり。
[やぶちゃん注:「備中」現在の岡山県西部。
「松浦正太夫」不詳。
「生駒八十介」不詳。]
« 和漢三才図会巻第三十九 鼠類 麝香鼠(じやかうねづみ)(ジャコウネズミ) | トップページ | 野末の菊 伊良子暉造(伊良子清白) »