會話 ツルゲエネフ(生田春月訳)
會 話
「ユングフラウも
フインステラアルホルンも
未だ曾て人間の足に踏まれしこと
なし」
アルプスの最高峰……峨々たる懸崖の連續……山脈の眞中(まつたゞなか)。
山の上には淺綠の澄み渡つた默せる空。身に沁み渡る烈しい寒氣。かたい、輝く雲。その雲を貫いて聳える氷に鎖され風に吹きはらはれる陰暗(いんあん)たる峯。
地平線の兩端には二人の巨人が立つてゐる。ユングフラウと、フインステラアルホルンとである。
ユングフラウはその隣人に言つた、『何か新しい事がありますか? 貴下(あなた)は私よりよく見えるでせう。下界には何があります?』
幾千年は過ぎ去った。たゞ一瞬である。するとフインステラアルホルンは雷(かみなり)の轟くやうな聲もて答へる、『地は深い雲に蔽はれてゐる……まあ待ちなさい!』
再び幾千年は過ぎ去つた。たゞ一瞬である。
『さあ、今は?』とユングフラウが問ふ。
『今度は見える。下界は何處もまだ元の儘だ。靑い水、黑い森、灰色の積み重つた石。そのまはりには虫共がやつぱり這(は)ひ廻(まは)つてゐる。そら、例のまだ一度もお前や私を汚し得ないあの二足動物のことさ』
『人間のことですか?』
『さうだ、人間のことだ』
幾千年は過ぎ去つた。これたゞ一瞬である。
『さあ、今度は?』とユングフラウが問ふ。
『蟲共は減つて來たやうだ』とフインステラアルホルンは雷鳴(とゞろき)の聲もて答へる。
『下界は明るくなつた。水は減(ひ)いて、森は疎(まば)らになつた』
またも幾千年は過ぎ去つた。たゞ一瞬である。
『今度は何が見えます?』とユングフラウが問ふ。
『此の我々の周圍(まはり)は綺麗(きれい)になつたやうだ』とフインステラアルホルンが答へる、
『けれども彼方(あちら)の方は谷間(たにま)に矢張(やつぱり)斑點(しみ)がある、元のやうに何だか動いてゐる』
『さあ今度は?』また幾千年過ぎ去つた後、――卽ち一瞬の後、ユングフラウが問ふ。
『もうよくなつた』とフインステラアルホルンが答へる。『何處を見ても。すつかり眞白(まつしろ)で、綺麗になつてゐる……何處(どこ)も彼處(かしこ)も雲だ、雲と氷だ。何も彼(か)も凍つてしまつた。もうよくなつた、靜かになつた』
『よろしい』とユングフラウは言つた。『ところで貴下私達は大分喋(しやべ)りました。もう寢る時分です』
『さうだ、寢る時分だ』
そして巨大な山は眠り入つた。そして澄み渡つた蒼空(あをぞら)も、永遠に沈默した大地の上に眠り入つた。
一八七八年二月
【ユングフラウ、處女峯の義、少女が嶽とでも云ふべきか。】
【フインステラアルホルン、黑鷲峯の義、共に獨逸語。ツルゲエネフがこれを書いた時分には、未だ一人の此二峯を踏破する者が無かつたのである。一八九〇年に至つてはじめて登山者が山頂を究める事に成功した。】
[やぶちゃん注:標題の後の添え辞は実際には繋がった一文「ユングフラウもフインステラアルホルンも未だ曾て人間の足に踏まれしことなし」であるが、底本では二行で全体が、かく字下げになっていることから、ブログ・ブラウザでの不具合を配慮して、かく処理した。
『地は深い雲に蔽はれてゐる……まあ待ちなさい!』の鍵括弧閉じるは、底本では存在しない。読んでいて躓くので、特異的に挿入しておいた。
「何だか動いてゐる」は底本では「何だ動かいてゐる」である。激しく躓く。明らかに誤植のレベルとしか見做せないので、ここは特異的にかく訂した。例えば、後のロシア語原典から訳しておられる中山省三郎氏の訳でも、この台詞は『「僕たちの身のまはりは綺麗になつたやうだ。」フィンステラールホルンが答へる、「けれどあの遠く谿間にはやはり斑點(しみ)がある、そして何だか動いてゐるよ。」』であるから、私の仕儀は問題ないと判断する。]