太平百物語卷四 卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事
○卅六 百々(どゞ)茂(も)左衞門ろくろ首に逢(あひ)し事
若狹の國に百々茂左衞門といふ侍あり。
或時、夜更(ふけ)て、士町(さぶらひまち)をとをられけるが[やぶちゃん注:ママ。]、水谷(みづのや)作之丞といふ人の、やしきの高塀(たかへい)の上に、女の首斗(ばかり)、あちこちとせし程に、怪しくおもひ、月影に、能く[やぶちゃん注:「よく」。]すかし見れば、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、作之丞召使ひの腰元なりしが、茂左衞門を見て、
「にこにこ。」
笑ひければ、茂左衞門、いよいよ、ふしぎをなし、持(もち)たる杖にて、頭(かしら)を、そと、突きたりしが、是に恐れて、迯吟(にげさまよ)ふ風情(ふぜい)にて、やがて、高塀の内にぞ、落(おち)たり。
茂左衞門、深更(しんかう)[やぶちゃん注:深夜。]の事なれば、不審(いぶかし)ながら、其儘にして、歸宿しける。
此腰元、能(よく)臥居(ふしゐ)たるが、
「あつ。」
と叫び、苦しみければ、傍(そば)に臥たる下女、此音に驚き覚(さめ)て、
「如何(いかゞ)し玉ひける。」
とゝへば、此腰元、胸、押(おし)さすり、語りけるは、
「扨も、恐しき夢を見侍る。每(いつ)も心安く旦那殿と語り給ふ百々茂左衞門殿の、此門前を通りたまふに行逢(ゆきあひ)しに、わらはを見て、嶲(たづさ)へ給ふ杖を以て、わが頭(かいら)を、さんざん、打ち給ふ程に、余り苦しく、堪(たへ)がたさに、にげ走ると思ひしが、夢にてこそ侍べりつれ。」
と語りける。
此事、作之丞耳(みゝ)にも入(いり)しが、
「夢は、跡かたなき物なれば、さる事もあらん。」[やぶちゃん注:「夢などというものは、所詮、他愛もない、意味なき幻しのものであるから、そんなこともあるであろうよ。」。]
と、いひて止(やみ)けるに、其(その)翌(あけ)の日、茂左衞門、來り、世上の物語などして後(のち)、ひそかに、作之丞傍(そば)に寄(より)、腰元が事を、「しかじか」のよし、語りければ、作之丞も、此腰元が物語も、少(すこし)も違(たが)はねば、
『扨は。世にいひ傳ふ「ろくろ首」ならめ。』
と、淺ましく、不便(びん)の事に思ひて、ひそかに此女を一間に招き、「此よし」を告(つげ)しらせ、能(よく)々さとしければ、此女、いと恥かしき事におもひ、直(すぐ)に主人に御いとまをこひ、髻(もとゞり)おし切(きり)、尼となり、前生(ぜんじやう)のかいぎやう[やぶちゃん注:「戒行」。戒律を守って修行すること。]、拙(つたな)き事を歎きて、一生、佛に仕へ、身罷(まか)りけるとぞ。
[やぶちゃん注:以上は「轆轤首(ろくろくび)」譚では極めて多く見出される常套的な轆轤首譚の典型的な一つである。本書は享保一七(一七三三)年刊であるが、恐らく、最も古い本邦を舞台とした酷似する類型話は近世初期の怪談話の古形をよく伝える「曽呂利物語(そろりものがたり)」(著者未詳。寛文三(一六六三)年刊の全五巻から成る仮名草子奇談集)の「二 女のまうねんまよひありく事」(女の妄念迷ひ步く事)であろうし、それを受けた「諸国百物語」(著者未詳。延宝五(一六七七)年刊。「百物語」系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、この「諸國百物語」ただ一書しか存在しない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))の「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」が、総ての本邦を舞台とした本パターンの源流と言えるであろう。以降のヴァリエーションは私の「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」でかなり電子化して示してあるので参照されたい。最も新しい私の轆轤首の注記載は江戸前期の文人山岡元隣による怪談本(貞享三(一六八六)年刊の著者没後の板行であり、元隣は寛文一二(一六七二)年没であるから、彼の見解は「轆轤首」が盛んに変形される前の、その原型に近いものを考証していることから、見逃し難い内容を持つ)「古今百物語評判卷之一 第二 絶岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」であり、そこで元隣も明らかにしている通り、轆轤首のルーツは中国の「尸頭盤」「飛頭盤」である(私の注は中国の原典も示してある)。なお、こちらで、江戸イラストレーターで、主人公と同じ姓の百々敬子氏が描かれた本話の十一コマの漫画が見られる。
「士町(さぶらひまち)」侍町(さむらまち)。当時のそれは亀山城山麓の東から北西部及び反対の南から南西部にあったものと推定される(グーグル・マップ・データの亀山城周辺。以上の位置はグーグル・マップ・データの史跡配置及び「図説福井県史 近世四 城下町のかたち(一)」の記載に拠った)。]