岩 ツルゲエネフ(生田春月訳)
第 二
【一八七九年――一八八二年】
岩
諸君は、うららかな春の日の滿潮時(しほどき)、海岸の年經た灰色の岩に、八方から勢ひのいい浪が打寄せて……碎けて、戯れて、撫でさすつて――そしてその苔むした頭上に眞珠の破片のやうなきらきらする泡を散らすのを見た事があるか?
岩はいつも變らぬ岩であるが、そのくすんだ灰色の面は鮮かな色を呈して來る。
その色は溶けた花崗岩(みかげいし)がやつとかたまりかけたばかりで、まだ赤熱の色に燃えてゐたあの太古(おほむかし)のことを語つてゐる。
そのやうに此頃の私の老いた心も、若い婦人の心の浪に圍(かこ)まれ打たれて……その手に撫でさすられて、久しく褪せてゐた色、消えた火の名殘が燃え上る!
浪はまた退いてしまふ……けれども。その色はまだ褪せない。鋭い風は乾(かは)かさうとずるけれども。
一八七九年五月