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2019/05/27

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(24) 「甲斐ノ黑駒」(2)

 

《原文》

 【神馬足跡】對馬ヨリ出デタル神馬ノ足跡ハ、同國與良村大字豆酘内院(ツヽナヰン)神崎ノ馬下(ウマオロシ[やぶちゃん注:底本ではルビの「ロ」が脱字であるため、後文と「ちくま文庫」版によって挿入した。])ト云フ海岸ノ巖ノ上ニ、數處一列ヲ爲シテ存在シ、此馬ノ洋海ノ出ス所ナルコトヲ暗示セリ〔津島記事〕。但シ馬下ノ「オロシ」ハ神ヲ降臨セシムルコトヲ意味スルカト思ハル。甲斐ノ黑駒ノ遺跡ニ至リテハ、太子ニ對スル崇敬ト伴ヒテ更ニ弘ク國内ニ分布セリ。【馬蹄石】先ヅ其本國ノ甲斐ニ於テハ、東山梨郡等々力(トヾロキ)村ノ萬福寺ノ門前ニ、太子ノ憩ヒタマヒシト云フ馬蹄石アリ。此寺今ハ眞宗ニシテモトハ天台宗、而モ聖德太子ヲ以テ開基トス〔本朝國語〕。四ツノ蹄ガ四ツナガラ鮮カニ現ハレ居ルト云ヘバ〔甲州噺〕、勢ノハズミニ打込ミタルモノニ非ズシテ、靜カニ且ツ確實ニ印シタル痕跡ナリ。同ジク東八代郡日影村駒飼宿(コマカウジユク[やぶちゃん注:ママ。])ノ駒飼石ニ至リテハ、五間ニ三間ノ石ノ面ニ二十一箇ノ足跡アリキ。上宮太子此地ニ於テ黑駒ヲ飼ヒタマヘリト傳ヘタリ。此石ハ享保年中笹子川ノ洪水ニ障リトナリテ多クノ民屋ヲ損ゼシヨリ、之ヲ割リテ川除ノ石堤ニ用ヰ〔甲斐國志〕、今ハ其片影ヲモ留メズ〔山梨縣市町村誌〕。其他東山梨郡加納岩村上下石森組ノ境、熊野權現ノ小山ニ馬蹄石、同郡松里村大字松里三日市場組ノ馬蹄石一名ヲ駒石、【駒形石】北巨摩郡穴山村黑駒ノ駒形石、北都留郡初狩村下初狩組カンバ澤山ノ馬蹄石ナドアレド、何レモ聖德太子ノ傳說ヲ伴ハズ。【降臨ト馬】穴山ノ駒形石ハ黑駒大神ノ社頭ニ在レドモ、此神ハ大汝(オホナムチ)ト建御名方トノ二尊ヲ祭リ、昔諏訪ノ神黑駒ニ乘リ此地ニ來リタヒシヨリ社ヲ立テ名ヲ定メタリト稱シ〔山梨縣市町村志〕、初狩ノ馬蹄石ハ數多ノ馬ノ蹂躪シタル跡ナリト云フ〔甲斐國志〕。黑駒ガ聖德太子ノ知遇ヲ忝クセシト云フハ大和ノ朝廷ニテノ事ナリ。富士往來ノ三日ノ外、後ニ鄕里ニ還リタリトモ見エザレバ、太子ノ口碑ノ甲斐ニ多ク存セザルハ寧ロ當然ナリ。【黑駒ノ塚】黑駒終焉ノ地ハ河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷ナリト謂ヒ、此村ノ金剛輪寺ハ亦太子ノ建立スル所ナリ。此谷ニモ黑駒ノ足形ノ石ノ上ニ遺ルモノアリ。之ヲ繫ギタリト云フ柊(ヒヽラギ)ノ樹ハ葉ノ端ニ刺無シ〔和漢三才圖會〕。攝津川邊郡長尾村ノ仲山寺モ太子創立ノ寺ナリ。境内ノ黑駒石ニハ四ツノ蹄ノ跡アリ。後世ノ爲ニ斯ノ如キ奇跡ヲ留メシナリ〔攝陽群談〕。大和ノ三井ノ法輪寺ノ巽ノ方ニハ、太子ノ召サレシ栗毛ノ駒ヲ葬ルト云フ栗毛ノ岡アリ〔大和國遊誌下〕。此ハ勿論黑駒トハ別ナルべキカ。播州斑鳩寺(イカルガデラ)ノ檀特山ノ路ニ、御駒ノ蹄ヲ留ムト云フ岩アリシハ、是レ亦日本ノ太子ニ托シタル靈石ナルガ如シ〔朝風意林所錄斑鳩寺緣起〕。

 

《訓読》

 【神馬足跡】對馬より出でたる神馬の足跡は、同國與良村大字豆酘内院(つゝなゐん)神崎の馬下(うまおろし)と云ふ海岸の巖の上に、數處、一列を爲して存在し、此の馬の洋海の出だす所なることを暗示せり〔「津島記事」〕。但し、馬下の「おろし」は、神を降臨せしむることを意味するかと思はる。甲斐の黑駒の遺跡に至りては、太子に對する崇敬と伴ひて、更に弘く國内に分布せり。【馬蹄石】先づ、其の本國の甲斐に於いては、東山梨郡等々力(とゞろき)村の萬福寺の門前に、太子の憩ひたまひしと云ふ馬蹄石あり。此の寺、今は眞宗にして、もとは天台宗、而(しか)も、聖德太子を以つて開基とす〔「本朝國語」〕。四つの蹄が、四つながら、鮮かに現はれ居ると云へば〔「甲州噺」〕、勢ひのはずみに打ち込みたるものに非ずして、靜かに、且つ、確實に印(しる)したる痕跡なり。同じく、東八代郡日影村駒飼宿(こまかうじゆく)の駒飼石に至りては、五間に三間[やぶちゃん注:五・〇九×五・四五メートル。]の石の面に二十一箇の足跡ありき。上宮太子、此の地に於いて黑駒を飼ひたまへりと傳へたり。此の石は享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]、笹子川の洪水に障(さは)りとなりて、多くの民屋を損ぜしより、之れを割りて、川除(かはよけ)の石堤に用ゐ〔「甲斐國志」〕、今は、其の片影をも留めず〔「山梨縣市町村誌」〕。其の他、東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野權現の小山に馬蹄石、同郡松里村大字松里三日市場組の馬蹄石、一名を駒石、【駒形石】北巨摩郡穴山村黑駒の駒形石、北都留郡初狩村下初狩組かんば澤山の馬蹄石などあれど、何(いづ)れも聖德太子の傳說を伴はず。【降臨と馬】穴山の駒形石は黑駒大神の社頭に在れども、此の神は大汝(おほなむち)と建御名方(たけみなかた)との二尊を祭り、昔、諏訪の神、黑駒に乘り、此の地に來りたまひしより、社を立て、名を定めたりと稱し〔「山梨縣市町村志」〕、初狩の馬蹄石は數多(あまた)の馬の蹂躪(じうりん)したる跡なりと云ふ〔「甲斐國志」〕。黑駒が聖德太子の知遇を忝(かたじけな)くせしと云ふは、大和の朝廷にての事なり。富士往來の三日の外、後に鄕里に還りたりとも見えざれば、太子の口碑の甲斐に多く存せざるは、寧ろ當然なり。【黑駒の塚】黑駒終焉の地は、河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷なりと謂ひ、此の村の金剛輪寺は亦、太子の建立する所なり。此の谷にも、黑駒の足形の、石の上に遺るもの、あり。之れを繫ぎたりと云ふ柊(ひゝらぎ)の樹は葉の端に刺(とげ)無し〔「和漢三才圖會」〕。攝津川邊郡長尾村の仲山寺(なかやまでら)も太子創立の寺なり。境内の黑駒石には四つの蹄の跡あり。後世の爲めに斯くのごとき奇跡を留めしなり〔「攝陽群談」〕。大和の三井の法輪寺の巽(たつみ)の方には、太子の召されし栗毛の駒を葬ると云ふ「栗毛の岡」あり〔「大和國遊誌」下〕。此れは、勿論、黑駒とは別なるべきか。播州斑鳩寺(いかるがでら)の檀特山(だんとくざん)の路に、御駒の蹄を留むと云ふ岩ありしは、是れ亦、日本の太子に托したる靈石なるがごとし〔「朝風意林」所錄「斑鳩寺緣起」〕。

[やぶちゃん注:「對馬」「與良村大字豆酘内院(つゝなゐん)神崎の馬下(うまおろし)と云ふ海岸」対馬の最南端に位置する長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)豆酘内院(つつないいん)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。海岸線は東側のみであるが、ネットでは「馬下(うまおろし)」という海岸は確認出来ないし、神馬伝承も不詳。識者の御教授を乞う。

「東山梨郡等々力(とゞろき)村の萬福寺」山梨県甲州市勝沼町等々力にある万福寺。推古天皇一二(六〇四)年創建で(聖徳太子の関わった創設伝説有り)、当初は法相・天台・真言の三宗兼学道場であったが、鎌倉時代に浄土真宗となった。境内に聖徳太子が乗用した黒駒の蹄の跡とする「馬蹄石」が現存するが、滝おやじ氏のサイト「巨石・滝・地形めぐりの記録とメモ」の「山梨県甲州市勝沼町綿塚 大石神社、等々力 萬福寺の馬蹄石」の記載によれば(馬蹄石の写真有り)、昭和三三(一九五八)年刊『勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」』の『万福寺の項によれば』、『馬蹄石』は『駒塚ともいう』。『長さ二間』(約三・六四メートル)、『広さ九尺』(約二・七三メートル)。『石の面は平らにして馬の蹄の跡四個を留む。伝説によると』、『聖徳太子甲斐の驪駒に乗り』、『富士山、駒ヶ岳に登り』、『還りて』、『この石に駐したりと』とあるとし、『さらに、町誌』』『によると』、『松尾芭蕉が「野晒紀行」に著した甲斐国回遊の道すがら、万福寺に立ち寄り、馬蹄石も見たと考えて、万福寺住職三車らの努力により、石の傍らに「行駒の麦に慰むやどりかな」の芭蕉句碑が建立され、地方俳人による句集「駒塚集」が刊行されたと』という。但し、現存するその「馬蹄石」は巨石研究家のサイト主が見ても、最早、上記のサイズより小さく、『万福寺の所在する扇状地面位置ではあり得ない大きさの礫で、角が丸くなっていますから転落岩塊ではなく、土石流運搬の礫だと思います』。『完全に地表に露出していて、境内の地表の上に乗っていて埋まっていません。また』上述の『句碑、馬蹄石、参道、本堂』の総合的な『配列も人工的で』あって、『この地点に』もともと『あったものでなく、別の地点から人工的に運んできたものと思います』。『念のため、境内の地質を見てまわったら、本堂脇に穴があってテフラ』(tephra:地学用語。噴火口から放出されて火山周辺や風下側の広い範囲に堆積した降下性火山砕屑物の総称)『が見えました』。『馬蹄石は、テフラ堆積後』、『現在位置に乗ったことにな』り、近くを流れる日川(ひかわ)の『氾濫による溢流堆積とは考えられない地形なので、人工移動と』する『より無い』と断じておられる。「四つの蹄が、四つながら、鮮かに現はれ居る」とあるが、現行の当該石の複数の写真を見ても、最早、それも認め得ない。

「東八代郡日影村駒飼宿(こまかうじゆく)の駒飼石」現在の山梨県甲州市大和町日影のこの附近が、旧甲州街道駒飼(こまかい)宿である。個人ブログ「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!」の『甲斐大和「笹子峠」を越えると本陣「駒飼宿」があった!』によって旧駒飼石(馬蹄石)のあったらしい位置が判る。則ち、示したグーグル・マップ・データの南の端の橋附近である。

「東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野權現」山梨県山梨市下石森と上石森の間となると、この中央附近であるが、熊野神社は見出せない。或いは画面北部分にある下石森の山梨岡神社に合祀されたか?

「同郡松里村大字松里三日市場組」山梨県甲州市塩山三日市場はこの附近

「北巨摩郡穴山村黑駒」山梨県韮崎市穴山町はここで、同地区内に御名方(みなかた)神社(黒駒神社)を現認出来る。「山梨県神社庁」公式サイト内の同神社の解説に、『「甲斐国志」に云ふ黒駒明神なり、社記に「古昔諏方ノ神、驪(くろ)駒(こま)ニ騎リテ来レリ因テ祠ヲ置キテ地名トス、祠後ノ山ニ馬蹄石アリ、駒形石ト呼ブ、又祠東ニ鎮座石アリ、昔鉾ノ木ト云フ処ヘ神與ヲ移シテ祭リシガ今ハ廃セリ今尚其地ニ神楽田、楔田ナド云フ名残レリ云云」』とあった(因みに「楔田」(くさびだ)というのは如何にも変。「禊田」(みそぎだ)の誤りではなかろうか?)。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の同神社のページ「馬蹄石」の写真が挙げられており、『黒駒大神の社の後ろに馬蹄石があり、駒形石と呼んでいる。昔 諏訪明神が黒駒に騎って来たのでこれを祀り、また駒ケ岳の黒駒もここに往来したという。(北巨摩郡誌)』(昭和二八(一九五三)年山梨民俗の会刊「甲斐傳説集」より)とある。

「北都留郡初狩村下初狩組かんば澤山」山梨県大月市初狩町はここ。東西に貫通する笹子川の南北に沢と峰が複数あり、特定不能。

「河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷」「金剛輪寺」大阪府羽曳野市駒ケ谷に「金剛輪寺址」として残る。同マップのサイド・パネルの写真の解説板によれば、実際には奈良時代後期の創建と推定されている。明治四(一八七一)年に廃寺となっている。「和漢三才圖會」の巻第七十五の「河内」に載る。以下、所持する原典(画像)から電子化し、訓読(一部の読みは私の推定)する。

   *   *

金剛輪寺   在駒之谷 名十六山安養院

 推古天皇祈願 聖德太子開基

 釋迦堂【座像四尺五寸】 十一靣觀音 藥師如来【共此太子之作也】

 三所權現社 辨財天

 聖德太子乘黑駒以調子丸爲舎人入于雲中至富士山還到河州磯長山時放駒於此谷其馬足形遺于石靣有之所馬繫柊樹有之葉耑無尖刺

   *

金剛輪寺   駒之谷に在り。十六山安養院と名づく。

 推古天皇の祈願。聖德太子の開基。

 釋迦堂【座像。四尺五寸。】。十一靣觀音。藥師如来【共に、此れ、太子の作なり。】。

 三所權現社。辨財天。

 聖德太子、黑駒に乘り、調子丸(ちやうじまる)を以つて舎人(とねり)と爲し、雲中に入りて、富士山に至る。還(また)、河州[やぶちゃん注:河内国。]磯長(しなが)の山に到りし時、駒を此の谷に放つ。其の馬の足形、石靣に遺りて、之れ、有り。馬を繫(つな)ぐ所の柊(ひいらぎ)の樹(き)、之れ、有り、葉の耑(はし)に、尖-刺(はり)無しと云々。

   *

「攝津川邊郡長尾村の仲山寺」兵庫県宝塚市中山寺(なかやまでら)にある真言宗紫雲山中山寺(なかやまでら)。寺伝では聖徳太子が建立したとされ、日本最初の観音霊場である。古くは「極楽中心仲山寺」と称されていた。「黑駒石」は公式サイトのこちらにも、『奥之院のほど近く、太子の愛馬黒駒の馬蹄跡が残る石がございます』とあるが、ネットで検索しても画像は見当たらない。

「大和の三井の法輪寺の巽(たつみ)の方」奈良県生駒郡斑鳩町三井の法輪寺(三井寺)の南東になる富郷(とみさと)陵墓参考地附近か。ここは「岡の原」と地元では呼ばれている。因みに円墳である。

「播州斑鳩寺(いかるがでら)の檀特山(だんとくざん)」兵庫県揖保(いぼ)郡太子町(たいしちょう)鵤(いかるが)の斑鳩寺であるが、柳田國男の言っている「檀特山」はその南東二キロメートルの位置の、現在の兵庫県姫路市勝原区下太田にある。ここ「太子町観光協会」公式サイト内「檀特山」の解説(そこをクリックすると、地図が移動するによれば、『弥生時代の頃、屋根筋の最高所に近いところで広い範囲に集落を築いていました。考古学では、高地性集落と呼んで注目されています。天下の名僧徳道上人の特化の由緒を持つ感動石の伝説もあり、また、その石に打たれて死んだという悪キツネの話もあります』。また、『行道岡・黒駒蹄跡』が檀特山から峰伝いに東北に少し行った位置にあり、ここは『太子行道』(こうどう)『の岡ともいいます。山頂に十畳ほどの岩があり、その表面にある無数のくぼみは、聖徳太子の駒の蹄跡と伝えられています。その傍らに昔は駒のつなぎの松がありました。この木が妙なる異香を放っていたので、異香留我(いかるが)の地名がついたとの言い伝えもあります』とあり「太子町」公式サイトのこちらの「行道岡・黒駒蹄跡」に、それらしい多数の穴の開いた岩の写真が添えられてある。

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