美人禪 蘿月(伊良子清白)
美 人 禪
麓におふる松杉の、
枝をかはしてきよらかに、
日蔭もらさず生ひ繁り、
涼しき風のまにまに、
菅なき笛の吹きすさぶ。
はるけき谷を流れくる、
水は幾谷落ちあひて、
幾度わきつあひつしゝ、
けしき磐根にくだかれて、
絃なき琴をかなでけり。
うき世を外のこの山邊、
おとのふ人もあばらやに、
住める共なくさしこめて、
のどかに暮す人やある、
見ゆる屋根こそ床しけれ。
軒端かたむき壁おちて、
僅にのこる庵のさま、
かくても人のあるなるや、
竹の編戶もとざゝねば、
まさしく住める人あらん。
あはれ住みいる人や誰れ、
まだうらわかき乙女子の、
麻の衣をまとへども、
ゆかしかりける名殘こそ、
靑き額にのこりけれ。
哀れいかにやかくばかり、
人目はなれし山里に、
色香たへなるさ乙女の、
浮世をすてゝわびしくも、
佛につかへまつるらん。
かれは悟りし身ならんも、
さすがに思ひ忍びてか、
形見の文かとり出でつ、
淨き衣の袖をしも、
ぬらし汚しぬ淚もて。
照りそう日蔭もらさじと、
枝をかはせる木々の音は、
浮世にたちし心しも、
物思ふ身はいかばかり、
哀れになどか埋るらん。
谷を流れて幾度か、
われつあひにし水の音は、
佛のつかふ身ながらも、
なき人かこつ心にも、
いかでかあだに過すへき。
[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年六月『新聲』掲載。署名は蘿月。]
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