太平百物語卷五 四十八 紺屋ばけ物の事
○四十八 紺屋(こんや)ばけ物の事
阿波の國に松屋五郞八といふ紺屋あり。
或る夜、子の刻ばかりに、家内(かない)、何となく、騷がしかりしかば、五郞八、目覚めて、あたりを見廻しけるに、色の黑き、犬よりは大き成[やぶちゃん注:「なる」。]獸(けだもの)、兩手をあげて、足(あし)二本にて、庭を步(ある)きけるが、染物につかふ糊(のり)をこしらへ置(おき)けるを、悉く、喰(くら)ひ仕廻て、
「そろそろ。」
と、上にあがり、燈(ともしび)の油を、ねぶりける。
五郞八、此体(てい)を、よくよく、みるといへども、餘りのおそろしさに、しらぬふりにて[やぶちゃん注:騒いだり、音を立てたり、することも出来ず。]、伺ひ居(ゐ)たり。
扨、夜明(よあけ)ければ、其邊(あたり)の若者共に、「此よし」を語り、
「如何(いかゞ)せん。」
と議(ぎ)しければ、いづれも、はやりお[やぶちゃん注:ママ。「逸(はやり)り男(を)」。]の者どもなれば、皆々、いさんで、五郞八が宅(たく)に集(あつま)り、
「今宵、化者きたらば、打殺(うちころ)さん。」
とて、木刀、又は、樫(かし)の棒なんど、思ひ思ひに脇ばさみ、物かげに隱れ居て、
『今や來(きた)る。』
と待(まち)けるに、案に違(たが)はず、夕(ゆふべ)の刻限[やぶちゃん注:前夜と同じ子の刻。]と覚しき折節、かのばけ物、顯(あらは)れ出(いで)、あたりを、
「きつ。」
と見廻し、又、糊棚(のりだな)にかゝる所を、待(まち)かけ居たる若者共、一度に、
「どつ。」
と、飛出(とびいで)て、
「遁(のが)すまじ。」
と打(うち)ければ、化物、これにおそれをなし、迯ぐる所を、彼方此方(かなたこなた)と追廻(おひまは)けるに、少(すこし)戶の透間(すきま)の有(あり)し所より、
「つ。」
と、拔(ぬけ)て迯出(にげいで)ければ、
「何國迄(いづくまで)も。」
と追(おひ)かけたりしが、平山(ひらやま)といふ所にて、大き成[やぶちゃん注:「なる。]榎(ゑのき)の内に隱れけるを、猶も、かけ寄(より)、尋(たづね)めぐれば、壱つの、火の玉、ほのほとなりて飛出(とびいで)しに、皆々、おそれて、迯歸(にげかへ)りしが、其後は、五郞八が宅へも、再び、來(きた)らざりける、とぞ。
いかなる化者にてや、有りけん、しらずかし。おぼつかな。
[やぶちゃん注:確信犯の因果も根拠も一切不明の物の怪であり、しかも本書の強い特色である獣類の変異である、黒犬よりも有意に大きい獣(狼より有意に大きく、月の輪熊よりは一回り小さいといったニュアンス)の見かけを持り、しかもそれは直立二足歩行を日常的に行う四足動物の形状を成す。糊や灯しの油を舐(ねぶ)る(妖猫・妖狐・妖狸・妖獺・妖鼬の類いに繋がりそうな属性ではある)。かなり残念なのは、二日目の夜の出現の、複数の目撃者がいるリアルさを出すべき「キモ」のシークエンスで、全く、その視認された「物の怪」の形状や習性を、全く描かれていない点ではある(それはそれで筆者の、読者の最後まで不明性の恐怖を与えるための確信犯なのであろうが)。最後のロケーションである、榎は、老木になると、怪異を生ずるともされるし、大きな榎の洞にはやはり年経て化け物と成った大蛇・化鳥・妖獣の類いを想起は出来る。但し、「火の玉」の出現(私は狐火より(榎の内は狐の棲み家としては相応しくない)も、火と強い相性を持つとされる妖鼬の「火柱」を想起した。私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち)(イタチ)」を参照されたい。まあ、この部分も追跡者を退散させて話を切り上げるには展開上で必要ではあったのだが)は、視覚上に小道具として如何にもな、三文芝居のそれで、却って、読んでいて失笑してしまった。
「おぼつかな」形容詞語幹の用法による詠嘆。正体不明のこの「化け物」に対する不信・恐怖を余韻として添えて効果的である。それは「おぼつかなし」の「ぼんやりしていて、その実体がはっきりせず、不気味に火の玉となってほのかに消えてしまう」という原義を含みつつ、派生するところの不安感情としての「ひどく気がかりで、不安で」「不審極まりなく、如何にも疑わしいではないか?!」という響かせである。]
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