太平百物語卷五 四十七 松田五市狸を切りし事
○四十七 松田五市狸を切りし事
ある國の事なりし。
御城下を、每夜每夜、役人衆、夜廻りに通られけるに、丑三つ[やぶちゃん注:午前二時。]の此ほひ、町はづれにて、若き女の綿帽子をかづきて、只一人(いちにん)、いと忍びやかに通りしかば、役人衆、此体(てい)をみて、心得ぬ事におもひ、跡を付(つけ)て行(ゆか)れけるに、此女、ふり歸りみて、
「莞尓(につこ)。」
と、わらひ、又、靜(しづか)に步み行(ゆき)けるまゝ、いよいよ、あやしくおもひ、猶々、慕(した)ふて行(ゆく)に[やぶちゃん注:ますます不審を募らせて、なおもその後(あと)をつけて行ったところが。]、此女、しだひしだひ[やぶちゃん注:ママ。]に、たけ高くなりて、大きなる松の木の許(もと)に行(ゆく)ぞ、と見へし。
かの綿ぼうしを取(とり)て、役人の衆中(しゆぢう[やぶちゃん注:ママ。])を、
「はつた。」
と、ねめしをみれば、眼(まなこ)は日月(じつげつ)のごとく、口は耳のもと迄さけて、頭(かしら)におどろの髮を乱し、眉間(みけん)に一つの角(つの)を生(おひ)たりしかば、さしもに武(たて)き面々も、身の毛、
「ぞつ。」
と、立(たち)ければ、皆、引色(ひきいろ)に見へにける[やぶちゃん注:流石に、殆んどだれもが怖気てしまい、身を退かせ気味になったように見受けられたという。]。
其中に、松田五市といふ人、心勝(こゝろまさ)りの男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])にて、頓(やが)て、刀を拔放(ぬきはな)し、橫樣(よこざま)に切付(きりつけ)しかば、其儘、形(かた)ちは消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])て、切(きり)こみしは、松の木なりしが、大勢の聲として、
「どつ。」
と、笑ふ音して、其後は、何事も、なかりけり。
能(よく)々きけば、
「此所に數(す)百年を經し古狸(ふるだぬき)の所爲(しよゐ)なり。」
とぞ、いひあへりける。