月下吹笛 伊良子暉造(伊良子清白)
月下吹笛
袖引きとめて關守が、
とめしつらさをなさけにて、
花にやどかる須磨の里、
今宵は笛にあかさばや。
蘆分小舟棹とりて、
浪のまにまに漕ぎくれば、
網手かけたる海士が軒、
小松がくれに月さしぬ。
しばし岸根に舟とめて、
手折るも一枝吹風に、
散るや木末のひまとめて、
月も洩れくる磯さくら。
霞にくもるはるの夜は、
須磨も明石も名のみにて、
ほのかに見ゆるいさり火に、
今宵は速きあは路しま。
故鄕人はうらむとも、
一よはゆるせ笛竹の、
天つ御空に通ふらむ、
雲もたゞよふこゝちして。
おぼろに匂ふ夜もすがら、
すみ行くものは調にて、
あはすもゆかしおのづから、
波のつゞみに松の琴。
[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月三日刊行の少年園刊『詞藻 新體詩集』に次の「勿來の關」とともに掲載。署名は本名の伊良子暉造。]