荒野 伊良子暉造(伊良子清白)
荒 野
一むら薄穗にいでゝ、
人さし招く夕まぐれ。
古井のわたり雁がねの、
なくなる聲もあはれなり。
野中の末に一本の、
松の木立も物さびて、
佛をまつる草の菴、
いつの昔のあとならむ。
黑みはてたるみ佛は、
ねずみのはみし跡見えて、
かべにかけたる蜘蛛(さゝがに)の、
果がきをはらふ者もなし。
苔蒸す塚は並べども、
手向の水のあともなく、
露のやどりと成はてゝ、
訪ひくるものは嵐のみ。
かくも荒れたるこの菴の、
かくもさびしき夕暮に、
露けき草にそぼぬれて、
たゝずむ人や誰ならむ。
長き黑髮ふりみだし、
靑きころもをまつはりて、
やせたるおもは何となく、
凄き姿に見ゆるなり。
かしらにともす灯の、
むねの炎の燃え上り、
物狂はしき聲立てゝ、
彼方こなたを叫ぶなり。
敏鎌を硏ける三日月の、
光は細くきらめきて、
雲をかすめて星影の、
かすけき色も見ゆるなり。
さゝやく蟲の聲高く、
夕霧うすくたちこめて、
朽ちたる橋をくゝり行く、
水音遠く聞ゆなり。
荒れたる菴のそば近く、
松の木立にさしよりて、
のろひの聲のいや高く、
乙女は釘をうち初めぬ。
女心の一すぢに、
恨みし人やあるならむ。
いかりの眼血にあへて、
槌音高くひゞくなり。
いつしかかゝる村雲に、
月の光はかきくらし、
靑き炎の飛ぶ見えて、
人の姿はうせにけり。
血汐の紅葉あと古りて、
奧城どころ霜寒く、
形見に殘るものとては、
ざれしかうべのたゞ一つ。
[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年七月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。夕暮れに佇む女の姿は呪詛の「丑の刻参り」のそれであるが、牛の刻でないのは、しかし、問題はない。彼女自身がこのいずれかの塚に纏わる亡霊だからである。]