松籟潮聲 すゞしろのや(伊良子清白)
松籟潮聲
新 曉
しづかに木々の、
つゆおちて、
いはほの苔も、
かをるとき。
むらさきうすき、
しのゝめの、
くものしとねに、
うまいして、
ねむるもきよき、
曉(あけ)のひめ。
靑ぞらとほき、
ひかしより、
黃金のくるま、
かゝやきて、
のぼらせたまふ、
朝日子の、
たかきすがたに、
はぢらひて、
かすみに隱れ、
きりにのり、
のこんの星を、
ともなひて、
雲路はるけく、
きえて行く。
[やぶちゃん注:「ひかし」はママ。]
心のやみ
みわたすかきりは、
露おりて、
秋野にこよひは、
星くずおほし。
なにとてこゝまで、
さまよひきけむ。
家ゐをいでしも、
さやかに知らず。
いまわれしづかに、
思ひてみれば、
人こひそめしは、
まよひのはじめ。
まよひにしづめば、
こゝろはくらく、
くるしきもだへに、
やせおとろへぬ。
たのしき天國(あめ)とは、
こひしき人を、
見そめしをりより、
外にはあらじ。
この世もかのよも、
わが行く道は、
さみしくおぐらき、
冥府(よみ)にやあらぬ。
いのりもさゝげじ、
つとめもなさじ。
はかなき生命を、
こひにぞすてむ。
[やぶちゃん注:「かきり」はママ。]
讀 書
今日插し初めし花櫛の、
まだ少女子のきみなれば、
わが讀むふみをなにぞとも、
知りたまはぬをうらまねど。
わがよむふみは紫の、
式部の刀自かつゞりたる、
よにもかなしくうら若き、
をとこ女のこひなれば。
わが口唇はうちふるひ、
よみさす聲もみだれつゝ、
熱き淚ははらはらと、
こぼれて書におつるなり。
あゝいかなればさばかりに、
深くもなげき給ふぞと、
戀しききみののたまはゞ、
うれしからむを一ことも。
[やぶちゃん注:「刀自か」の「か」はママ。]
吹 笛
すかたみにくきくちなはの、
いかなればこそかくまでに、
わが吹く笛をしたふらむ。
たゞ一ふしのたけにさへ、
きれば七つの律呂(こゑ)をなす、
ふかきまことのこもれるに。
火焰はくてふくちなはの、
聲こそなけれこゝろには、
あつきうれひのなからめや。
いさきけよかししづかにて、
夕暮ふかき草原に、
なかためふかむしばらくは。
[やぶちゃん注:最終連の「すかた」「なか」「いさきけよ」(「潔氣よ」であろう)はママ。以上、示した全篇の清音語は、総てが、万葉調を匂わせるための確信犯と思われる。明治三〇(一八九七)年六月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]