『汝は愚者の審判を聞かざるべからず……』プウシキン ツルゲエネフ(生田春月訳)
『汝は愚者の審判を聞か
ざるべからず……』 プウシキン
『汝は愚者の審判を聞かざるべからず……』お、我等の偉大なる詩人よ、卿(おんみ)は常に眞實を語つた。今度も亦卿(おんみ)は眞實を語る。
『愚者の審判(しんぱん)と群集の笑ひと』……誰か此の二つを知らなかつた者があらう?
此の凡てを人は堪へることが出來る、また堪へなければならぬ。自分の力を信ずる者はそれを輕蔑するがいゝ!
然し世には一層殘酷に心を衝き通す打擊がある……或人は出來る限りの事をした、懸命に、親切に、正直に働いた。……然も正直な人々は嫌惡をもつて彼から顏をそむける、正直な顏は彼の名を聞くといづれも憤怒(ふんぬ)に燃え上る。『行つてしまヘ! 其處を退(ど)け!』と正直な若者は聲々に彼を罵る。『おれ達はお前にもお前の仕事にも用はない。お前はおれ達の居處(ゐどころ)を汚す。お前はおれ達を知つてはゐない、理解してはゐない。……お前はおれ達の敵だ!』
かやうな人はどうすべきであらうか? 仕事を續けるがいゝ。自分を是認しようとしてはならぬ、より正しい判斷を求めようとさへしてはならぬ。
曾て百姓は麺麭(ぱん)の代用物、黃民の常食なる甘藷(かんしよ)を齎した旅人を呪つた……彼等は旅人が差出した貴い贈物(おくりもの)をその手から打落して、泥の中へ投げて足で蹂躙(ふみにじ)つた。
今彼等はそれで生きてゐる、しかもその恩人の名前さへも知らない。
それでいゝのだ! 彼等に彼の名前が何であらう? 彼はよし名前は顯れずとも、彼等を餓ゑから救つてゐるのだ。
我々は我々の齎すものが眞に立派な食物であるやうに氣を附けさへすればいいのだ。
愛する者の脣(くち)に上る苦(にが)い不當な非難……然しそれもまた堪へられる……
『私を打て! 然し私の言葉を聽け!』とアゼンスの將軍はスパルタ人に言つた。
『私を打て! 然し健かに滿腹してゐよ!』と我々は言はなければならぬ。
一八七八年二月
【汝は愚者の審判を聽かざるからず これはブウシキンの詩「ある詩人に寄す」中の一句、原詩は「おお、詩人よ、汝の民衆の愛顧を切望するな、賞讃者の喝采の聲は息の如く消え去るべし、愚者は汝を審判すべし、群衆は汝を嘲るべし、されど冷然として努力せよ、よし汝の手何等の慰めも與へられずとも云々」と云ふのである。】
【アレクサンドル・プウシキン、露西亞の國民的詩人、露西亞の新文學の創建者である。その母は波得大帝の黑奴イブラヒム・ハンニバルの孫であつたから、黑人の血を享けてゐる。一七九九年に生れ、一八三七年決鬪によつて斃れた。はじめバイロンの影馨を受け、のち自己の新境地を拓いた。代表作は韻文小説「オネエギン」其他「高加素の囚人」「ボリス・ゴヅノフ」等の詩、「大尉の娘」(邦譯あり)等の小説もあるトルストイ、ドストエフスキイ皆プウシキンを尊敬した。ツルゲエネフもさうで、また屢々散文のプウシキンとも呼ばれたものである。――この篇はツルゲエネフの後年の大作がいづれも冷淡に迎へられ、作者其人も故國人に反感を抱かれてゐた事を考へて讀まねばならぬ。】
[やぶちゃん注:「甘藷(かんしよ)」はサツマイモのことで、ここはジャガイモで、誤訳。訳すなら「馬鈴薯」とすべきところ。
「アゼンス」アテネのこと。英語“Athens”(アセンス)の当時の日本語読みらしい。
「波得大帝」初代ロシア皇帝ピョートルⅠ世(Пётр I Алексеевич 一六七二年~一七二五年/在位:一六八二年~一七二五年:全名はピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ(Пётр Алексе́евич/ラテン文字転写:Peter Alexeyevich Романовы))のこと。
「黑奴イブラヒム・ハンニバルの孫」アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Alexander Sergeyevich Pushkin 一七九九年~一八三七年)はモスクワ生まれで、父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族であったが、母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバル(Абрам Петрович Ганнибал/Abram Petrovich Gannibal(ファースト・ネームは Hannibal 或いは Ganibal とも表記し、別にイブラヒム・ハンニバル(Ибрагим Ганнибал/Ibrahim Hannibal)とも呼ばれた) 一六九六年~一七八一年)はピョートルⅠ世にアフリカから黒人奴隷として連れてこられたが、皇帝から寵愛され、少将・軍事技術者・タリン(バルト海東部のフィンランド湾に面する、現在のエストニア共和国の首都)総督となったエリート軍人であった。
「高加素の囚人」「高加素」は「コーカサス」のこと。]
« ブログ・アクセス1220000突破記念 梅崎春生 囚日 | トップページ | 滿足せるもの ツルゲエネフ(生田春月訳) »