太平百物語卷五 四十一 力士の精盗人を追ひ退けし事
○四十一 力士の精(せい)盗人を追ひ退けし事
因幡の國に、作㙒屋(さくのや)の何某(なにがし)とて冨(とめ)る人あり。
或夜の事なりし。
盗人(ぬすびと)、五人、押入(おしいり)て、家内(かない)の者を悉く引き縛り、亭主壱人を扶(たす)け[やぶちゃん注:縛り上げず。]、藏の内の案内をさせける。
亭主、力なく、土藏に伴ひければ、銀箱(かねばこ)を五つ取り出だし、五人の盗人、壱つ宛(づゝ)、かたげ[やぶちゃん注:肩に担(かつ)いで。]出でんとせし時、俄に、藏の中(うち)、鳴動して、一人の力士、顯れいで、盗人等が前に立塞(たちふさが)りければ、五人の者ども、是をみるに、頭(かしら)は赤熊(しやぐま)にして、眼(まなこ)は金(こがね)のごとく光りて、其有樣、世に冷(すさま)じかりければ、盗人共は肝を消し、彼(かの)銀箱(かねばこ)を打捨(うちすて)、一さんに迯歸(にげかへ)りければ、藏の中(うち)も程なく靜(しづま)り、彼(かの)力士も見へざりけり[やぶちゃん注:ママ。]。亭主此体(てい)をみて、限りなくよろこび、頓(やが)て家内の者のいましめを解(とき)て、「しかじか」のよしを語りければ、亭主の老母、橫手(よこで)を打(うち)、
「それこそ。此家に先祖より持傳(もちつた)へし、力士の精魂ならめ。それならば、土藏の二階に有(ある)べし。心見(こゝろみ)に取出(とりいだ)し見玉へ。」
といふ程に、頓(やが)て取いだしみるに、此木像、汗をながして坐(おは)しけるが、兩足(りやうそく)をみれば、土も付(つき)てありし程に、
「扨は。此奇瑞に疑ひなし。」
とて、夫(それ)より厨子を結構し、此力士を納め、永く祝ひ尊(たうと)みけるとかや。
[やぶちゃん注:以下は原典ではベタのやや字が小さく、本文で二字分下げで、改行せずに一行で記されてある。]
或る人の曰(いはく)、
「此力士は『鳥佛師(とりぶつし)』の作にて、其後も、奇瑞、ありける。」
とぞ。
[やぶちゃん注:「赤熊(しやぐま)」兜の縅(おどし)や、能・歌舞伎で用いられる、赤く染めたヤク(ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク。野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniens。自然分布はインド北西部・中国西部(甘粛省・チベット自治区)・パキスタン北東部で本邦には棲息しないが、本邦ではヤクの尾毛が兜や槍につける装飾品や能や歌舞伎の装具として、古くから、特に武士階級に愛好され、江戸時代の鎖国下でも清を経由して定期的な輸入が行われていた。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう)(ヤク)」を参照されたい)の尾の毛、或いは、それに似た赤い髪の毛の飾り鬘(かつら)。
「橫手(よこで)を打(う)」つ、とは、思わず、両手を打ち合わせることで、意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた!」と思い当たったりしたときなどにする動作を指す。室町末期以降の近世語。
「鳥佛師(とりぶつし)」「鞍作止利・鞍作鳥(くらつくりのとり)」或いは「止利(とり)仏師」と呼ばれた飛鳥時代の代表的仏師の名。「日本書紀」によると、渡来人の司馬達等(しばたつと/しめだち)の孫で、坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈(くらべのたすな)の子。法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像(推古天皇三一(六二三)年)の作者として光背の銘文に名をとどめる。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事し、推古一四(六〇六)年には元興寺金堂の丈六像を造り、その功として大仁位に叙せられて水田二十町歩(ちょうぶ)(約二十ヘクタール)を賜ったといわれる。中国北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風を持ち、板耳・杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(もかけざ)などに特色を持つ。このような様式の仏像を「止利様(とりよう)」と称する(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
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