柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(19) 「馬塚ハ馬ノ神」(1)
《原文》
馬塚ハ馬ノ神 駒形ノ最初ノ意義ガ假ニ神降臨ノ遺跡ヲ示スコト自分ノ說ノ如クナリキトスルモ、此ト同時ニ馬其物ヲ神トスル別種ノ信仰アリシコトハ亦看過スべカラザル事實ナリ。【天然物崇拜】神ガ本地佛ノ形態ヲ以テ一ノ社ニ永ク留リ、神迎神送ノ思想ガ形バカリノ儀式トナリ終ルト共ニ、我々ノ同胞ガ宗敎生活モ一時却リテ天然物崇拜ノ境涯ニ道戾リシタル時代アリ。語ヲ換ヘテ言ハヾ、神モ召サザル馬バカリヲ怖レ且ツ禱リタル例ハ甚シク多キナリ。例ヘバ阿波國ニハカノ丹生明神ガ乘捨テラレシト云フ石馬ノ外ニ、今一ツ有名ナル天馬石アリ。名所圖會ニハ勝浦郡田野村トアレドモ今ハサル村ノ名無シ。恐クハ今ノ多家良村大字宮井ノ附近ナルべシ。【名馬池月】天ヨリ降リテ石ト成ルトモ云ヒ、或ハ源氏ノ名馬池月爰ニ來リテ死ストモ傳フ。名所圖會ノ插畫ニ伏シタル馬ノ形ニ描ケルハ所謂繪空事ニテ、誠ハ高サ四尺バカリノ立姿ナリ。ソレモ小兒ガ石ヲ打付ケナドシタル爲ニ、前ノ如クハ形ノ似テ居ラヌヤウニナレリト云ヘバ、今日ハ最早ドウナリタルカ分ラヌナルべシ。【要石】或ハ鹿島ノ要石(カナメイシ)ノ如ク地底ヨリ生エ貫キタリト云ヒ、又ハ此石ニ耳ヲ當テテ聽ケバ浪ノ音遙カニ響キ、船漕グ人ノ聲轡ノ音ガスルナドト傳ヘラレシモノナリ〔以上燈下錄〕。飛驒大野郡淸見村ノ龍ケ峯ノ峠ニモ、天ヨリ降リシ龍馬ノ化石ト稱シ駒ノ形ヲセシ大石アリ。連錢ノ紋マデモ鮮明ナリキト云ヘバ〔北道遊簿〕、此モ亦葦毛ナリシナラン。此峠ハ以前ノ往還ナレバ之ヲ見聞セシ人モ多カランニ、或說ニハ單ニ龍馬ノ蹄ノ痕ガ岩ノ上ニ有ルバカリノ如クニモ記セリ〔飛驒之山川〕。今日トナリテハ決シ難キ疑問ナリ。【馬乘石】播磨宍粟郡神戶(カンベ)村大字須行名(スギヤウナ)ニテハ、岡城山ノ谷川ノ中ニ馬乘石アリ。馬ニ似タル岩ノ上ニ又岩アリテ人ノ乘ルガ如シ〔播磨鑑〕。大和ノ橘寺ニハ古キ石人一軀ヲ巖石ニ彫付ケ其側ニ馬ノ如キ獸アリ。俗ニ之ヲ阿彌陀ト言ヒ、又聖德太子ト甲斐黑駒ノ像ナリト云フ〔遊囊賸記〕。【馬石】江州ノ石馬寺ニハ門前ノ池ノ側ニ馬ノ形ヲシタル石體在リ。此モ亦太子ノ遺跡譚ヲ傳ヘタリ〔大内靑巒氏談〕。越後北蒲原郡加治村大字茗荷谷(ミヤウガダニ)ノ山中、藥師堂ノ傍ニ大石アリ。縱ハ一丈バカリ橫ハ七尺餘、半ハ土中ニ沒ス。土人之ヲ馬石ト名ヅク。其形臥馬ノ如シ。石上ノ苔ノ中ニ二寸ホドノ白毛ヲ生ズトアリ〔越後野志十八〕。【爲朝】肥前西松浦郡大川村駒鳴(コマナキ)ノ駒鳴峠ニモ駒ニ似タル石アリキ。昔鎭西八郞爲朝櫻野ノ池ニ於テ大蛇ヲ退治シ、其鱗ヲ馬ニ積ミテ此阪路ニ掛リシニ、アマリ荷ノ重キ爲ニ馬ガ嘶キタリ。【道ノ神】峠ノ名ト村ノ名ハ此ヨリ起ルトノミアリテ、此ニハ化石ノ物語ハ傳ヘザレドモ、此峠ナル石ノ馬モ夜每ニ聲ヲ立テヽ往來ノ人ヲ劫カセシ故ニ、後ニ石屋ヲ賴ミテ之ヲ打割ラシムト云ヘリ〔松浦記集成〕。此モ亦今ハシカトシタル形ハ無キナルべシ。【駒岩】山城井手玉川ニ沿ヒタル雨山ノ雨吹龍王社ノ址ニ殘レル駒岩ハ正シク人作ナリ。自然ノ大岩ノ面ニ駒ノ形ヲ浮彫ニシテ甚ダ古雅ノモノナリシガ、今ハ磨滅シテ明瞭ナラズ。舊記ニ依レバ保延三年五月六日ノ文字アリシ由ナリ〔綴喜郡志〕。【駒形濱】石ニ詳シキ雲根志ノ說ニ依レバ、遠江國ニ駒形濱ト云フ渡海ノ湊アリ。海底ニ馬ノ形ヲシタル大岩アリテ、出入ノ船ニ馬又ハ馬ノ繪アル物ヲ運ブトキハ必ズ祟ヲ受ケテ難船ス。故ニ骨牌ノ荷ナドヲ送ルニモ、四十八枚ノ中ヨリ特ニ馬ノ繪ノミヲ拔キテ之ヲ陸ヨリ廻送スト云ヘリ。遠州ニハ駒形ト云フ船著ハ無ケレドモ、榛原郡御前崎ノ突端ニハ駒形大明神ノ社アリ。此邊ノ海ニテハ何故カ航路甚ダ磯近クニアリテ、岬ニ續ケル暗礁ノ爲ニ船ヲ損ズル者昔モ今モ絕ユルコト無シ。湊ト云フ程ニハ非ザレドモ神社ノ東ノ山陰ニ僅カノ船掛リ場アリ。【九十九】自分ガ旅行シテ聞取リタル所ニテハ、沖ノ御前ノ岩ニハ天然カ人工カハ知ラズ、九十九疋ノ駒ノ形アリテ汐干ノ時ニハ鮮カニ見ユト云ヘリ。但シ馬ヲ忌ムト云フ話ニ就キテハ終ニ之ヲ知レル人ニ逢ハザリキ。「メクリ」ノ骨牌ヲ江戶ニ送ル話モ實ハアマリニ出來過ギタリ。卯花園漫錄ニハ大阪ヨリ江戶へ送ル骨牌ノ中ヨリ馬ノ繪ノミハ陸送リスルナリト云ヘド、土地ノ人ノ知ラヌ話ナレバ猶如何カト思ハル。
《訓読》
馬塚は馬の神 駒形の最初の意義が、假に、神降臨の遺跡を示すこと、自分の說のごとくなりきとするも、此れと同時に、馬其物を神とする別種の信仰ありしことは、亦、看過すべからざる事實なり。【天然物崇拜】神が本地佛の形態を以つて一つの社に永く留(とど)まり、神迎へ・神送りの思想が、形ばかりの儀式となり終ると共に、我々の同胞が宗敎生活も、一時、却(かへ)りて、天然物崇拜の境涯に道戾りしたる時代あり。語を換へて言はゞ、神も召さざる馬ばかりを怖れ、且つ、禱(まつ)りたる例は甚しく多きなり。例へば、阿波國には、かの丹生明神が乘り捨てられしと云ふ石馬の外に、今一つ、有名なる天馬石あり。「名所圖會」には勝浦郡田野村とあれども、今は、さる村の名、無し。恐らくは今の多家良(たから)村大字宮井の附近なるべし。天より降(くだ)りて石と成るとも云ひ、或いは、源氏の名馬池月(いけづき)、爰(ここ)に來りて死すとも傳ふ。「名所圖會」の插畫に、伏したる馬の形に描けるは、所謂、繪空事にて、誠は高さ四尺ばかりの立姿なり。それも小兒が石を打ち付けなどしたる爲めに、前のごとくは、形の似て居らぬやうになれりと云へば、今日は最早、どうなりたるか分らぬなるべし。【要石(かなめいし)】或いは、鹿島の要石(かなめいし)のごとく、地底より生(は)え貫きたりと云ひ、又は、此石に耳を當てて聽けば、浪の音、遙かに響き、船漕ぐ人の聲・轡(くつわ)の音がするなどと傳へられしものなり〔以上「燈下錄」〕。飛驒大野郡淸見村の龍ケ峯の峠にも、天より降(くだ)りし龍馬の化石と稱し、駒の形をせし大石あり。連錢(れんぜん)の紋までも鮮明なりきと云へば〔「北道遊簿」〕、此れも亦、葦毛なりしならん。此の峠は、以前の往還なれば、之れを見聞せし人も多からんに、或る說には、單に龍馬の蹄の痕が岩の上に有るばかりのごとくにも記せり〔「飛驒之山川」〕。今日となりては、決し難き疑問なり。【馬乘石(ばじやうせき)】播磨宍粟郡神戶(かんべ)村大字須行名(すぎやうな)にては、岡城山の谷川の中に馬乘石あり。馬に似たる岩の上に、又、岩ありて、人の乘るがごとし〔「播磨鑑(はりまかがみ)」〕。大和の橘寺(たちばなでら)には、古き石人(せきじん)一軀(いつく)を巖石に彫り付け、其の側(そば)に馬のごとき獸あり。俗に之れを「阿彌陀」と言ひ、又、聖德太子と甲斐黑駒の像なりと云ふ〔「遊囊賸記(いふなうしやうき)」〕。【馬石】江州の石馬寺(いしばじ)には、門前の池の側に馬の形をしたる石體(せきたい)在り。此れも亦、太子の遺跡譚を傳へたり〔大内靑巒(せいらん)氏談〕。越後北蒲原郡加治村大字茗荷谷(みやうがだに)の山中、藥師堂の傍(かたはら)に大石あり。縱は一丈ばかり、橫は七尺餘、半(なかば)は土中に沒す。土人、之れを馬石と名づく。其の形、臥馬(ふせうま)のごとし。石上の苔の中に二寸ほどの白毛を生ずとあり〔「越後野志」十八〕。【爲朝】肥前西松浦郡大川村駒鳴(こまなき)の駒鳴峠にも駒に似たる石ありき。昔、鎭西八郞爲朝、櫻野の池に於いて、蛇を退治し、其の鱗(うろこ)を馬に積みて、此の阪路(さかみち)に掛りしに、あまり、荷の重き爲めに、馬が嘶(いなな)きたり。【道の神】峠の名と村の名は、此れより起るとのみありて、此(ここ)には化石の物語は傳へざれども、此の峠なる石の馬も、夜每に聲を立てゝ、往來の人を劫(おびや)かせし故に、後に石屋を賴みて、之れを打ち割らしむと云へり〔「松浦記集成」〕。此れも亦、今は、しかとしたる形は無きなるべし。【駒岩(こまいは)】山城井手玉川に沿ひたる雨山の、雨吹龍王社の址(あと)に殘れる駒岩は、正(まさ)しく人作なり。自然の大岩の面に駒の形を浮き彫りにして、甚だ古雅のものなりしが、今は磨滅して明瞭ならず。舊記に依れば、保延三年[やぶちゃん注:一一三七年。]五月六日の文字ありし由なり〔「綴喜(つづき)郡志」〕。【駒形濱】石に詳しき「雲根志」の說に依れば、遠江國に駒形濱と云ふ渡海の湊あり。海底に馬の形をしたる大岩ありて、出入りの船に、馬、又は、馬の繪ある物を運ぶときは、必ず、祟りを受けて、難船す。故に骨牌(かるた)の荷などを送るにも、四十八枚の中より、特に馬の繪のみを拔きて、之れを陸より廻送すと云へり。遠州には駒形と云ふ船著(ふなつき)は無けれども、榛原(はいばら)郡御前崎の突端には駒形大明神の社あり。此の邊りの海にては、何故か、航路、甚だ磯近くにありて、岬に續ける暗礁の爲に、船を損ずる者、昔も今も、絕ゆること無し。湊(みなと)と云ふ程には非ざれども、神社の東の山陰に、僅かの船掛(ふながか)り場あり。【九十九】自分が旅行して聞き取りたる所にては、沖の「御前の岩」には天然か人工かは知らず、九十九疋(ひき)の駒の形ありて、汐干(しほひ)の時には鮮かに見ゆと云へり。但し、「馬を忌む」と云ふ話に就きては、終(つひ)に之れを知れる人に逢はざりき。「めくり」の骨牌を江戶に送る話も、實(じつ)はあまりに出來過ぎたり。「卯花園漫錄」には大阪より江戶へ送る骨牌の中より馬の繪のみは陸送りするなりと云へど、土地の人の知らぬ話なれば、猶ほ、如何(いかが)かと思はる。
[やぶちゃん注:『「名所圖會」には勝浦郡田野村とあれども、今は、さる村の名、無し。恐らくは今の多家良(たから)村大字宮井の附近なるべし』【2019年5月5日本注改稿】当初は「多家良(たから)村大字宮井」に注して、『恐らくは、現在の徳島県徳島市多家良町のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。但し、もはやその馬型の石は最早、現存しない模様である』と注したのであるが、早速に、何時も情報を提供して下さるT氏より、これは柳田國男の推定の誤りであるとのメールを戴いた。以下、メールを引用する形で改稿した。
《引用開始》
勝浦郡田野村は、明治二二(一八八九)年の町村制施行によって、十一村合併で小松島村になり、さらに後の昭和二六(一九五一)年になって小松島市になりましたが、
一方、多家良村は同じ施行によって同じ年に、五村合併で成立し、やはり同じ昭和二十六年に徳島市に編入されています(Wikiの「勝浦郡」の「近世以降の沿革」)。
「名所圖會」の「勝浦郡田野村」の「天馬石」は、「小松島市」の公式サイト内の「義経ドリームロード」の「天馬石(芝生町宮ノ前)」に、
【引用開始】
天馬石(芝生町宮ノ前)
名馬麿墨と宇治川先陣争いをした名馬池月が石に化したといわれ、また馬が天からおりて化石になったといわれている天馬石は、旗山の東北角にあって、馬の形をしており、この石を踏むと腹痛を起こすと言われている。[やぶちゃん注:確認したが、「麿墨」は原ページのママ。原ページの「磨墨」(するすみ)の誤記載である。後にT氏が添えて呉れたストリート・ビューの画像の解説板(同文)の画像は正しく「磨墨」となっている。なお、原ページには「天馬石」の写真があるが、以下のT氏のリンクの方が遙かによい。]
【引用了】
とあり、天馬石の写真は徳島県南ポータルサイト「なんとPlus(プラス)」の小松島市の旗山の観光案内の「天馬石」が大きく映っています。亦、ストリートビューでも見られます。
「前のごとくは、形の似て居らぬやうになれりと云へば、今日は最早、どうなりたるか分らぬなるべし。」と柳田國男は大正三(一九一四)年の段階で危ぶんでいますが、今、「説明板があるから、そうか。」とも言えましょう。尚、ここは義経の「屋島」進撃路の途上に位置しています[やぶちゃん注:後のグーグル・マップ・データを開くと、「天馬石」の同地区に義経騎馬像があるのはそのためであろう。]。
「阿波名所図会」の図は、「早稲田大学図書館古典総合データベース」の「阿波名所図会巻」(上下二巻・探古堂墨海(たんこどう ぼっかい)撰・文化一一(一八一四)年刊)の、下巻の九カット目です。
この現在の「芝生町」は元「芝生村」で、「田野村」の北にあり、明治二十二年の合併の際に「小松島村」になっています。
「小松島市芝生町宮ノ前」はグーグル地図のこちらです。
《引用終了》
「天馬石」の位置は義経騎馬像東南東直近の三叉路のところで、そこでストリート・ビューを起動して西を向くと、天馬が出現する(左側面から石を見ると、何だか、淋しそうに首を地に垂らした馬の顔に見えてしまうのは私の哀しいシミュラクラだ)。いつもいつもT氏にはお世話になる。深く感謝申し上げます。
「鹿島の要石(かなめいし)」茨城県鹿嶋市の鹿島神宮のそれ。地震を鎮めているとされ、大部分が地中に埋まっている霊石である。嘗つて「諸國里人談卷之二 要石」で、かなり詳しく注したのでそちらを見られたい。
「飛驒大野郡淸見村の龍ケ峯」岐阜県高山市清見町のここ(グーグル・マップ・データ)。標高千百七十二メートル。中田裕一氏のサイト「飛騨美濃山語り」の「飛騨国由来の竜ヶ峰」でその「竜馬石」を見ることが出来る。その解説によると、この『竜ヶ峰にある「竜馬石」は、昔から不思議な石とされ、一説には「飛騨の国」の由来の石といわれます。江戸時代の「飛州志」は、「龍石」と称して、「大野郡楢谷村龍ヶ峰にあり、石面に鱗のごとき紋あり。」と記しています』。「清見村誌」に『よると、神代の頃、高天原の祖神様(おやがみさま)は、竜よりも速く空を飛ぶ「龍馬」という駒を、川上岳(かおれだけ)と白山の女神にお使いとして遣わしました。龍馬は、川上岳の女神にお使いをし白山に向かっていると、眼下に大好物の山笹の大草原を発見』し、『舞い降りて腹いっぱいになると眠りこけてしまいました。祖神様は、そのまま眠らせてやろうと考え、龍馬を石にしてしまいました』。『また別に』、「大原風土記」に『よると、昔』、『越前から飛んできた馬の子が名馬になりました。そこで里人は、その馬を近江の国の滋賀の都に献上しました。ところが』、『馬は、故郷を懐かしみ』、『この地に戻ってきたので、龍ヶ峰と称しました。龍馬石には、馬の歯の跡のような斑紋があり、龍馬石付近のササを産馬に食わせると』、『お産が軽いといいます』。ここでは『飛騨山脈の絶景が眺められます。ちなみに、竜馬の食べた笹はミヤマクマザサで』、『竜馬石は、竜ヶ峰火山による安山岩(年代は不明、数百万年前)です』とある。
「今日となりては、決し難き疑問なり」いえいえ、柳田先生、前の方の写真を見ると、如何にもお腹のくちくなった馬が蟠って寝ているように見えますよ。
「播磨宍粟郡神戶(かんべ)村大字須行名(すぎやうな)」「岡城山」「宍粟」は「しそう」(現代仮名遣)と読む。兵庫県宍粟市一宮町須行名(国土地理院図)。因みに、柳田國男の振った「スギヤウナ」は「スギヤウメ」の誤りか、誤植。現行「すぎょうめ」と読む。
「大和の橘寺(たちばなでら)」奈良県高市郡明日香村にある天台宗仏頭山上宮皇院菩提寺(グーグル・マップ・データ)の通称。本尊は聖徳太子と如意輪観音。「橘寺」という名は垂仁天皇の命によって不老不死の果物を取りに行った田道間守(いたじまもり)が持ち帰った「橘の実」をここに植えたことに由来する。二面石や三光石は知っているが、「古き石人(せきじん)一軀(いつく)を巖石に彫り付け、其の側(そば)に馬のごとき獸あり。俗に之れを「阿彌陀」と言ひ、又、聖德太子と甲斐黑駒の像なりと云ふ」のはよく判らぬ。
「江州の石馬寺」滋賀県東近江市五個荘石馬寺町にある臨済宗御都繖山(ぎょとさんざん)石馬寺(いしばじ)。本尊は十一面千手観世音菩薩。ウィキの「石馬寺」によれば、『伝承によれば、今からおよそ』千四百『年前』、『霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れ、繖山(きぬがさやま)の山麓の松の木に馬をつなぎ』、『山上に登った。山の霊異に深く感動して戻ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた。これを瑞相と捉えた太子は、山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立し、石馬寺と号したという。聖徳太子筆と伝承する「石馬寺」の木額や太子馬上像等を所蔵する。登山口付近には、石馬が背中を見せている蓮池がある』とある。個人サイトのこちらで、その「駿馬化石」の写真が見られる。
「越後北蒲原郡加治村大字茗荷谷(みやうがだに)の山中、藥師堂」新潟県新発田市茗荷谷はここ(グーグル・マップ・データ)。国土地理院図ではここに寺がある(曹洞宗善積寺)が、これが「藥師堂」かどうかは分らぬ。
「肥前西松浦郡大川村駒鳴(こまなき)の駒鳴峠」佐賀県伊万里市大川町駒鳴の駒鳴峠(マピオン地図)。
「此(ここ)には化石の物語は傳へざれども、此の峠なる石の馬も、夜每に聲を立てゝ、往來の人を劫(おびや)かせし故に、後に石屋を賴みて、之れを打ち割らしむと云へり」というのは言っていることがよく判らない。馬の石化伝承がないのに、どうして石屋が打ち割る石馬があるんじゃい!?!
「山城井手玉川に沿ひたる雨山の、雨吹龍王社の址(あと)に殘れる駒岩」京都府綴喜郡井手町大字井手小字南玉水に現存。「井手町」公式サイト内の「駒岩 (こまいわ)の彫刻」によれば(地図有り)、『駒岩(こまいわ)の彫刻左馬は、重さ数百トンの大きな岩があり、表面に約』一『メートル四方の馬が刻まれています。玉津岡神社の社記によると、この駒岩は』、『もと』、『玉川左岸の株山にあって「玉川水源龍王祠側大岩彫刻駒形の絵」と平安末期の年号とともに記されています』。『本来は、雨を願い』、『玉川の水を治めるために、絵馬としての駒岩であったものが、いつのころからか左馬として「女芸上達の神」に変わり、裁縫や生け花、茶道、舞踊などを志す人々の守り神として古くから信仰の対象となっています』とある。株山は駒岩の対岸直近。
『石に詳しき「雲根志」の說に依れば、遠江國に駒形濱と云ふ渡海の湊あり。海底に馬の形をしたる大岩ありて、出入りの船に、馬、又は、馬の繪ある物を運ぶときは、必ず、祟りを受けて、難船す。故に骨牌(かるた)の荷などを送るにも、四十八枚の中より、特に馬の繪のみを拔きて、之れを陸より廻送すと云へり』私の愛読書である木内石亭の「雲根志」のここの以下に出る(今回は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で示した)。「骨牌(かるた)の」「四十八枚の中より、特に馬の繪のみ」とあるのは、十六世紀にポルトガルから日本に伝えられたゲーム・カードを国産化した「天正かるた」系のカルタには、馬に跨った騎士のカードがあったことを指す。
「榛原(はいばら)郡御前崎の突端には駒形大明神の社あり」現在の静岡県御前崎市御前崎にある駒形神社(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「ハッシー27のブログ」の「御前崎周辺(1)」の「駒形神社」に、案内のパンフレット「駒形神社略記」が電子化されてあり、『御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年』五三一年に鎮座とし』、慶長六(一六〇一)年、『徳川家御朱印』六石三斗の『寄進あり、また、慶長』九『年には、歩除地(年貢免除地)』十五『町を有した』。『神社創始よりの古文書、棟札等の資料に乏しく言い伝え等に頼る他無いが、御前崎市白羽』(しろわ)『鎮座の白羽神社元宮とされている』。『往古、延喜式に云う白羽官牧』(しろわのかんまき)『に馬を船にて運ぶ途中、厩崎沖で遭難した百頭の馬の内、一頭が岸にたどりついた地とされる。なお、残りの馬』九十九『頭は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う』。『古くより漁師の信仰が厚く、殊に明治以降、個人はもとより船会社よりの絵馬の奉納は多くを数える』とある。ブログ主は別に『次のような伝説もある』 とされ、『むかし伊豆の国から』九十九『匹の馬が駿河湾を泳いで渡ってきたが、あと少しで上陸できるところで力つきて岩に化してしまった』。『その岩が沖の御前岩(駒形岩)という岩礁だとされ、その馬の霊が駒形神社に祀られたという。岬の人々が海上安全と豊漁を祈願するために馬の霊を祀ったのが駒形神社であろう』ともある。同ブログ主は白羽(しろわ)神社も訪ねておられ、その「御前崎周辺(2)」の「白羽神社」で、驚天動地の見解が示されてある。『龍馬はもともと水辺で育った駿馬のことである。半島や島、大河などで区切られた場所が放牧地として適したことから、海辺や水辺で名馬が育つと考えられ、龍神信仰と繋がった』。『いつしか駿馬は神の乗り物であるだけでなく、龍神とも繋がる』。『ここで「白羽神社略記」にあった』、『遠江しるはの磯の贄の浦と あいてしあらば 言もかよはむ 万葉集遠江歌 丈部川相』『が、問題になる』。『この“白羽(しるは)の磯の贄の浦”とは、海神の怒り(暴風雨)を鎮めるために「贄(にえ)をささげた浦」のことだという』。『この海神にささげた生け贄が、どうやら“馬”だったようだ』。『駒形神社に伝わる』、『厩崎沖で遭難した百頭の馬の内、一頭が岸にたどりつき、残りの馬』九十九『頭は沖の御前岩(駒形岩)と化した 』という伝承は』、実は「『馬を生け贄にした』」『ということを表しているようだ』。『この地方でも焼津などに「草薙の剣」の日本武尊の伝説が残るが、日本武尊は東京湾を渡るときにも伝説を残している』。『走水から上総の国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めたという伝説がある。ここでは弟橘媛が海神の生け贄になっている』。『御前崎沖は海路の難所だとされる。「海神」に大切な「龍馬」を「贄」として捧げることによって、海上安全と豊漁を祈願していたのだろう』。『その生け贄の馬の霊を祀ったのが駒形神社なのかもしれない。そしてその馬の生け贄は、海上安全と豊漁のためだけでなく、白羽官牧の馬が丈夫に育つための生け贄でもあった可能性もある』。『白羽神社の“白羽”は「白羽の矢」にも通じる。“白羽の矢が立つ”とは、人身御供(ひとみごくう)を求める神が、その望む少女の住家の屋根に人知れず白羽の矢を立てるという俗伝から、多くの人の中で、これぞと思う人が特に選び定められる意味につかわれる。また、本来の犠牲者になるという意味もある』。『つまり、「白羽の矢」とは、本来は生け贄を選び出す目的で、神意を占う道具だったという』。『海神の娘である豊玉毘売命と玉依毘売命をまつる当社に、山幸彦である天津日高彦穂々出見命を祀るのは、山幸彦と豊玉姫が結婚したからばかりでなく、「白羽の矢」を含む弓矢が山幸彦所有の神具だったからなのかもしれない』とあるのである。非常に興味深く拝読した。このブログ主、ただものではない。
「御前の岩」国土地理院図で確認出来る。駒形神社から直線で約三キロメートル弱。]
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