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2019/05/05

太平百物語卷三 廿二 きつね仇をむくひし事

 

太平百物語巻之三

   ○廿二 きつね仇(あだ)をむくひし事

 江戸淺草の片ほとりに、常心(じやうしん)といへる同心者(どうしんじや)、住みけり。又、品川に巨作(こさく)といふ隱者(ゐんじや)ありしが、常々したしく交(まじは)りける。

 一夜(あるよ)、巨作、常心がいほりに訪(とぶら)ひきたり、四方(よも)山の物語してゐけるが、夜も更(ふけ)ければ、

「一宿し給へ。」

といふに、巨作も外ならねば、

「仰せに任すべし。」

とて、常心と通夜(よもすがら)、世上の物語して、他事(たじ)なく樂しみゐけるに、夜半すぐるころ、いづくともなく、大石(たいせき)を礫(つぶ)て打(うつ)ほどに、

「こは、何事やらん。」

と、兩人共におどろく所に、いよいよ、きびしく打(うち)ければ、常心、今はたまりかね、表に出(いで)んとするを、巨作、引きとめ、

「あのごとく、しげく石打(いしうつ)所へ御出(いで)あらば、怪我あるべし。無用。」

といふに、常心、氣づよき僧なれば、

「何ほどの事候はん。」

と、戶口をひらき、飛出(とびいづ)るに、目にさへぎる者、一人も、なし。

 石うつおとも、やみければ、

「扨は。わが出(いで)しにおそれて、迯(にげ)たるならん。」

とて、内に入りて、巨作に「かく」と告(つげ)て、ふしぎをなし居(ゐ)けるに、又々、きびしく打(うつ)音しきりなれば、常心、大きに腹をたて、

『にくき奴原(やつばら)がふるまひ哉(かな)。壱人なりとも、つかまへん。』

と、おもひ、戶口に待ちうけ、しげく打ける所を、

「遁(のが)さじ。」

と飛出るに、世上、靜まりて虫の聲、かすかなり。

 常心も、こゝろは武(たけ)しといへども、相手なければ、詮方なく、興覚(けうざめ[やぶちゃん注:ママ。])、内に入りければ、巨作もあきれ果(はて)、

「如何樣(いかさま)、これは變化(へんげ)のわざと覚(おぼへ)たり。今宵は、兩人、ねぶらずして守(まも)り居(ゐ)ん。」

と、互に心を配りけるが、しばらくありて、表の方(かた)に、大勢の聲として、

「いかに、巨作よ。石打(いしうつ)事のおそろしきや。常心なくば、打殺(うちころ)さん物を。」

と、

「どつ。」

と、わらふて、うせければ、常心、巨作にむかひて、

「御身、心に覚へありや。」

とゝへば、巨作がいはく、

「されば、今日(こんにち)、此許(このもと[やぶちゃん注:ママ。])へ參る折節、堤の上に、狐の二疋、晝寐(ひるね)をして居たりしに、折節、酒きげんにて、小石を二つ三つ、あてゝおどしけるが、其仇にも侍るやらん。」

といふ。

 常心、きゝて、

「さればこそ。其返報なり。穴賢(あなかしこ)、㙒干(やかん)・貍(たぬき)の類(たぐ)ひ、かりにも、おどし玉ふべからず。」

と、堅く誡めければ、巨作も、殊の外、後悔し、夜明(よあけ)て、常心に謝禮して品川に歸りけるとかや。

[やぶちゃん注:面白いことに、これが本書の初めての江戸をロケーションとした怪談であり、しかもこの後に江戸を舞台としたものは実は「卷四」の「卅七 狐念仏に邪魔を入し事」一つないここまでは圧倒的に西国(それも各地。鎌倉は特異点であるが、江戸ではない。主君が登ったのは江戸であるが、それを全く描写していない)をロケ地とした怪奇談で、この後も実は概ねそうなのであるのは、本書が大坂の板元であることにも由来はしようが、どうもこの特異的な偏り方には、私は、作者菅生堂人恵忠居士なる人物の何らかの思い(江戸に対する強い忌避感情)が隠されているように思われてならない。

「同心者(どうしんじや)」間違えて読む人は居るまいが、ここは無論、出家した「道心者(だうしんもの)」の謂いである(世俗を捨てて仏道に専心する者とは世俗からスポイルされた者である)。こういう言い間違いは私は珍しいと思う。御覧の通り、歴史的仮名遣が異なるし、「道心」を「同心」とは一般でも書かないし、辞書にも載らない。さてもかつてのフロイディストであった私は、これと前の江戸を殊更に忌避しているのを絡めると、これはまさにフロイトの謂う「言い間違い」行為なのではないか? 「道心」とすべきところを町奉行配下で江戸市中の犯罪等を取り締まった「同心」(その場合は「町方」)と誤って書いたのは、この正体不明の作者菅生堂人恵忠居士なるあやしげな人物が、実は文字通り、江戸で何らかの犯罪を犯して所払いされた者、或いは犯罪を犯して逃げてきた者だったために、意識の中に捕まることを恐れた同心のイメージが、かく書き間違えをさせてしまった……なんてえのは、如何(いかが)? てへ、ペロ!

「淺草」浅草の一部は当時の被差別民が多く居住した地域でもあった。この「常心」なる人物が、そうした中の一人であった可能性もあろう。

「品川」「巨作(こさく)」という名(絵師か何かの名前みたように私は感ずる)、江戸の外れのそこで「隱者(ゐんじや)」(世俗を忌避した存在である)という設定も、何だか、ぶっとんでいて、この設定自体が、噂話、則ち、事実めいた怪談、まさに大江戸の都市伝説(urban legend)の条件から外れているように思われてならない。但し、品川は江戸の辺縁、相対的な意味での都会と田舎の境界的空間ではあったのだから、物理的な意味で隠棲地として不当であると言いきれるわけではない。

「外ならねば」外でもない親しい常心の慫慂であり、実際、今から品川に帰るとなると、深夜も過ぎるので。

「㙒干(やかん)」狐。一つ、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)」でもどうぞ。]

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