髑髏 ツルゲエネフ(生田春月訳)
髑 髏
壯麗な、燦爛たる廣間。紳士淑女の群れ。
すべての知は活氣附いて、談話(はなし)ははずんでゐる。……賑かな談話(はなし)の對照は或る有名な唱歌女(シンガア)である。彼等は彼女を神聖だ、不朽だと呼んだ。……『あゝ、實にすばらしいものだつた、彼女が昨日やつた最終の顫音(トリルレル)は!』
すると突然――丁度魔法使ひの杖を振つたやうに――すべての頭から、すべての顏から、綺麗な皮膚の蔽ひが滑り落ちてしまつて、忽ち白々(しろじろ)とした髑髏があらはれ、むき出しになつた顎や齒齦(はぐき)鉛色に光つた。
恐る恐る私はその顎や齒齦(はぐき)の動くのを見た。そのごつごつした骨の球が、ランプや蠟燭の光にきらめいたりぐるぐる廻つたりするのを見た。又その球の中に他の一壮層小さな球が廻つてゐるのを見た。それは何の意味も無い眼の球だ。
私は恐ろしくて自分の顏に觸れないように、また鏡にも向はないようにしてゐた。
髑髏はやつぱりぐるぐる廻つてゐる。……そして初めのやうな騷ぎをして、小さな紅(あか)い布(きれ)みたやうな舌を剝き出された喬の間からべろべろ覗かせながら喋(しやべ)つてゐる、『實にすばらしい、實に及びもつかぬ.不朽な……さうだ、不朽な……唱歌女(シンガア)のやつたあの最後の顫音(トリルレル)は!』
一八七八年四月
【唱歌女(シンガア)、オペラの歌うたひ、柴田環、原信子などと云ふ人がそれに當る。】
【顫音は音樂上の言葉、聲をふるはせて長く引つぱる唱ひ方をいふ。】
[やぶちゃん注:「顫音(トリルレル)」恐らく生田はこの篇を「序」に出る「ヰルヘルム・ランゲ」(ドイツ人と思われる翻訳家ヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange 一八四九年~一九〇七年)か)のドイツ語訳を元にしているものと思われる。トリル(trill:音楽用語。「音をふるわす」の意で、装飾音の一種。通常は略して「tr.」と記入のある主要音と、その二度上の補助音とを交互に急速に反復することを指し、主要音から始まるのが普通。三度以上の音程とそれを行う場合は「トレモロ」(イタリア語:tremolo)と呼ぶ)はドイツ語で「Triller」(発音カタカナ音写:トゥリラァ)と書くから、生田はこれを綴り字から、かく音写したものと思われるからである。
「柴田環」三浦環(みうらたまき 明治一七(一八八四)年~昭和二一(一九四六)年)は日本で初めて国際的な名声を得たオペラ歌手で、十八番(おはこ)であったプッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)の「蝶々夫人」(Madama Butterfly:一九〇四年初演)の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名であった。東京生まれ。元の姓は「柴田」で、明治三三(一九〇〇)年の東京音楽学校入学直前に父の勧めで陸軍軍医藤井善一と結婚して「藤井環」と称したが、後、離婚(明治四〇(一九〇七)年)し、大正二(一九一三)年に柴田家の養子であった医師三浦政太郎と再婚した。本書は大正六(一九一七)年六月刊であるが、彼女は三浦と結婚後、「三浦」姓を、終生、名乗っていたようである。詳しくは参照したウィキの「三浦環」を読まれたい。
「原信子」(明治二六(一八九三)年~昭和五四(一九七九)年)は国際的なオペラのソプラノ歌手。青森県八戸市出身で明治三六(一九〇三)年から三浦環に師事した。大正七(一九一八)年には「原信子歌劇団」を結成し、浅草で大衆的なオペレッタを次々と上演、田谷力三・藤原義江らとともに、所謂、「浅草オペラ」の一時代を築いたが、翌大正八年に突然の引退宣言をし、本格的にオペラを学ぶために渡米、マンハッタン・オペラに出演する幸運に恵まれ、その後、カナダを経由してイタリアに留学、そこでサルヴァトーレ・コットーネ(Salvatore Cottone)に師事し、また、プッチーニやピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni 一八六三年~一九四五年:オペラ作曲家・指揮者)の知遇も得た。一九二八年(昭和三年)から一九三三年までの間、日本人で初めてミラノの「スカラ座」に所属し出演した。昭和九(一九三四)の帰国後は「原信子歌劇研究所」を創設、晩年まで、声楽家として多くの著名な歌手を育てた。詳しくは参照したウィキの「原信子」を読まれたい。孰れも今や、却って「註釋」に注が要るものとなってしまった。]