水馴棹 蘿月(伊良子清白)
水 馴 棹
さゞれ浪こす磯崎の、
淸き渚にほど近く、
濱の御殿と名によびて、
玉の宮居ぞたてるなる。
塵だにすえぬ高殿に、
小簾まき上げてすめ御子が、
あつささけさせ給ふなる、
今年の夏もふけにけり。
軒の濱荻風見えて、
夕べ涼しくなりぬれば、
月にうかれて皇子の、
やがてひとりぞいでたゝす。
さすもさやけき月影に、
濱の眞砂もかゞやきて、
御裳の裾をぬらしつゝ、
しづかに浪もよするなり。
吹かせ給へる笛の音の、
いよいよ淸くなりなべに、
おもほす事もなかるらむ、
更くるもしらに行かすなり。
磯馴まつのかげ白く、
蘆の花咲く岸の邊に、
海士の小舟ぞたゞよへる、
淸き少女の棹とりて。
賤のをとめよその舟に、
まろものせてとの給へば、
綾の御袖のま近きに、
少女はいとゞかしこみて。
* * * *
浪のまにまに棹させば、
吹くや御裳の風きよく、
夏をよそなる月影に、
なびく玉藻も見ゆるなり。
吹かせ給へる笛の音は、
ふけ行くなべに聲澄みて、
雲井に遠き久方の、
月のみやこに通ふなり。
ちりのこの世は忘られて、
げにおもしろき月のかげ。
あはれ少女よ二人して、
千代もながめむすべもがな。
きくにかしこきすめみ子の、
ふかきことばを賤の女は、
樟とる手さへわすられて、
夢かとのみやたどるらむ。
* * * *
八重の潮路の末遠き、
はなれ小島の松陰の、
蘆のとま屋にたゞ二人、
海士の妹背ぞすまふなる。
浦邊づたひに妹と背が、
あゆめる影もむつまじく、
手に手をとりて今日もまた、
語らひながらかへり行く。
背なる男の子はふるびたる、
笛とりいでゝ吹きなせば、
しめるか聲のたえだえに、
さびしき節もきこゆなり。
思ひかけきや九重の、
玉のうてなの笛の音を、
人げたえたる荒磯の、
浪のしらべに合はすとは。
あはれ我妹子しばしきけ、
一年夏のわびしきに、
大内山をあとにして、
濱の御殿に行幸しぬ。
さやけき月のをかしきに、
うかれいでたるその夕べ、
君と二人が船うけて、
すゞみし折は夢なれや。
にわかに風の吹きあれて、
雨さしそはる夜もすがら、
行ゑもしらず流れきて、
いつしかつきぬ離れじま。
汐風さむき小衾に、
語りあかしてしのぶれば、
わが故鄕の戀しくて、
袖になみだのこぼれけり。
玉のうてなも百敷も、
たかき位もわすられて、
昔の人にあらねども、
賤の手業にやつれてき。
朝は山に妻木こり、
夕べはうみに釣たれて、
いつしかすぐる年月を、
馴るゝともなく馴れにけり。
君のこゝろのうれしさに、
かたみにかはす眞心を、
結びそめたる妹と背の、
戀てふ中となりにけり。
かゝる島邊にながれきて、
二人くらすも前の世に、
君を戀ふてふ妹と背の、
ふかき緣やありつらむ。
あはれわき妹子とことはに、
流肌るゝ水のかはりなく、
ちぎりかはしてこの島に、
二人くらさむ老ゆるまで。
こをうちきゝて少女子は、
花のすがたもなまめきて、
ゑむもやさしきかほぼせに、
くれなゐ深くにほふなり。
いま一ふしと吹きさすや、
笛のしらべもいやすみて、
夕ぐれ淸き浦風に、
磯うつ浪の音たかし。
とまやの軒にたゞずみて、
海原遠くながむれば、
濱松が枝にいざよびて、
今しものぼる月の影。
[やぶちゃん注:ここより明治三〇(一八九七)年パートに入る。四月に京都医学校三年に進級、また、この年中に刊行された医学校校友会会誌の創刊号の編集に加わっている。この年の十月四日で満二十歳。本篇は明治三十年一月十日発行の『靑年文』掲載。署名は「羅月」。
第二連「すめ御子」の「すめ」は接頭語で、神や天皇に関わる語に付いて、尊(たっと)んで褒めたたえる意を添える。]
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