南海の潮音 すゞしろのや(伊良子清白)
南海の潮音
春 の 夜
ともし火くらき春の夜の、
窓によりそひ書よめば、
心のもつれはるかぜの、
氷吹きとくおもひあり。
都にひとりのこりゐる、
こひしき妹もわがごとく、
まなびの業のひまなさに、
夜すがら書をよむらむ。
障子の紙にさらさらと、
散りくる花のおとすなり。
かゝる宵にはこひ人の、
よくわが宿を訪ねしか。
げにわすれてはなにとなく、
人まつさまのこゝちして、
いなわぎも子は今宵しも、
おとづれこむと契りしが。
わがよむ聲をきくまゝに、
かれが優しきこゝろより、
柴のをり戶をあけかねて、
門に立つにはあらざるか。
まどを開きてながむれば、
あるかなきかの月影の、
弱きひかりにほの見えて、
たゞたえまなく花ぞ散る。
ともし火かゝげまたもわれ、
書よみおれば門の邊に、
とひくる人のけはひして、
わが名をよぶはかのきみか。
されどあたりに音はなく、
くま笹がくれうねうねと、
一すじ白く行く水の、
たえつつゞきつ見ゆるのみ。
しばらく書をよむほどに、
またしも妹のこゑはして、
はては障子をうつ花の、
散りくるふ音となりにけり。
花はますます散りしきり、
月はいよいよおぼろなり。
夜もはやいたく更けぬらし、
妹のきたるはいつならむ。
醉 歌
あまつみくには
さゝやけき、
ひさごのなかに
あるぞかし。
ちりのうき世を
いとひなば、
きたりてこゝに
あそびませ。
わかきいのちの
いつまでか、
白きおもわの
われらぞや。
げにわか人を
たとふれば、
ゆめよりあはき
春の夜や。
夜はのあらしを
知れよとは、
法のうたにも
をしへたり。
くるしきこひの
かなしさに、
つき日をすつる
ことなかれ。
まなびのもりに
わけいりて、
あらたにまよふ
ことなかれ。
たゞなにごとも
うちわすれ、
この一つぎを
くめよかし。
見よ桃靑は
句にかくれ、
また雪舟は
繪にかくる。
をかしからずや
この酒に、
君と二人が
かくれなば。
ほまれといふは
ちりひぢか、
くらゐといふも
あくたなり。
にほへる顏の
くれなゐに、
まされるたから
世にあらめやも。
詩 人
うた人ようた人よ、
君はいかなれば、
玉をまろばすいと竹の、
きよきしらべをいとはしと、
荒野のすゑにたちいでゝ、
あらしの樂をきくならむ。
うた人ようた人よ、
君はいかなれば、
たかきくらゐのあて人の、
たまふさかづきをうけずして、
みどりしたゝるおく山の、
松の淸水をくむならむ。
うた人ようた人よ、
君はいかなれば、
錦のしとねしきつめし、
たまのうてなにのぼらずに、
あらゝぎ匂ひさ百合咲く、
岩の小床にぬるやらむ。
うた人ようた人よ、
君はいかなれば、
彌生のはるの都路の、
花のさかりをめでずして、
名もなき草のしら露に、
熱きなみだをそゝぐらむ。
[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年七月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。
「あらゝぎ」はここでは、「万葉集」「源氏物語」以来、愛されたキク目キク科キク亜科ヒヨドリバナ属フジバカマ Eupatorium japonicum の異名と採っておく。]