兵士の朝鮮に行くを送る 伊良子暉造(伊良子清白)
兵士の朝鮮に行くを送る
雲さわぎ龍かもいまく、
雨くろし神かもおつる、
鴨みどり川水にごり、
碧ひづめ花ぞ散り布く、
ふるひたち行けや益荒雄、
千速ぶる神の御國の、
しき島のやまと魂、
示すべき折こそ來つれ、
ふるひたち行けや武夫、
劍太刀おとなりびゞき、
空高くこま嘶けり、
これぞげに醜の御盾ぞ、
思ひやれ新羅のむかし、
見ても知れ筑紫の嵐、
そのかみのいさを忍べば、
醜の支那なにかはあらむ、
碧蹄のから山おろし、
不知火の神の御いぶき、
今もなほむかしのまゝぞ、
いざやゝよ支那の奴子等、
神代より鍛へ鍛へし、
大和だまいやとぎすまし、
日本太刀斬味見せむ、
見よや見よ豐島牙山、
荒磯の岩根にくだけ、
朝露の消えてぞ失せし、
これぞ實に御國の稜威、
行けや行け日本益荒雄、
箱崎や松浦の沖ゆ、
百船の對馬の海ゆ、
黑船ははやいで行けり、
水行かば水つくかばね、
山ゆかば草むすかばね、
大君のへにこそ死なめ、
これぞ實に日本武夫、
さゝらがた錦の御旗、
唐山のみ山颪に、
おし樹てゝ攻めても行けや、
鴨みどり川水にごり、
碧びづめ花ぞ散り布く、
行きて行きて攻めても崩せ、
支那の大城。
[やぶちゃん注:明治二七(一八九四)年九月三日発行の『少年園』に掲載されたもの。署名は本名の伊良子暉造。愛国少年の戦意高揚詩。この年、朝鮮で内紛が起こって日・清はその事実上の覇権を窺っていた。ウィキの「日清戦争」によれば、この年の一月上旬に『重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の下で蜂起し』、『農民反乱が勃発』、『自力での鎮圧が不可能な事を悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も』「天津条約」『に基づ』き、六月二日に『日本人居留民保護を』名目と『した兵力派遣を決定』、三日後の六月五日に『大本営を設置した。日清双方による部隊派遣を危惧した朝鮮政府は』、急遽、『東学党と和睦し』六月十一日までに『農民反乱を終結させると』して、『日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし、日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないとして』十五『日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると』、二十四日、『日本は単独で改革を行う旨を宣言』、『これが最初の絶交書となった。同時に日本の追加部隊が派遣され』、六月三十日の『時点で清国兵』二千五百『に対し』、『日本兵』八千『名の駐留部隊がソウル周辺に集結』、七月九日、『同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、内政改革を主張する日本側の間で開かれた再度の会談も決裂し』、十四日、『日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており』、七月十六日に『日英通商航海条約を結ぶ事に成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌』『日に清国との開戦を閣議決定し』た、とある。かくして七月十九日に日本海軍は初の聯合艦隊を編成し、同七月二十三日には日本軍が、事実上、朝鮮王宮を占領して(四日後の二十七日に第一次金弘集政権成立し、第一次「甲午改革」が開始される)興宣大院君を擁立、その二日後の七月二十五日には日本海軍と清軍の「豊島沖海戦」が(事実上の「日清戦争」の勃発)、七月二十八日には陸戦「成歓・牙山の戦い」が行われ、八月一日を以って、日本と清が相互に公式の宣戦布告をしている(最終的終結は日本の勝利後に割譲された台湾での日本の行政機構が樹立した翌年一八九五年十一月三十日とする)。
「碧」音律から「あを」と読んでいるか。
「ひづめ花」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属ウマノアシガタ Ranunculus japonicus のことであろう。因みに、キンポウゲ(金鳳花)は別種ではなく、このウマノアシガタの八重咲きの品種(Ranunculus japonicus f. pleniflorus)を指す和名である。
「益荒雄」「ますらを」。以下、老婆心乍ら、読みを附す。
「千速ぶる」「ちはやぶる」。
「武夫」「もののふ」。
「劍太刀」「つるぎたち」。
「嘶けり」「いななけり」。
「醜の御盾」「しこのみたて」。古代の楯には威嚇のための醜悪な鬼面や妖獣の装飾を施した。
「新羅」「しらぎ」。
「碧蹄のから山おろし」「碧蹄(へきてい)の唐山(からやま)おろし」で、文禄・慶長の役における合戦の一つである「碧蹄館(へきていかん)の戦い」を想起させている。文禄二年一月二十六日(一五九三年二月二十七日)に朝鮮半島の碧蹄館(ピョクチェグァン。現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り、漢城(現在のソウル)目指して南下する提督李如松率いる約二万の明軍を、小早川隆景・宇喜多秀家らが率いた約二万の日本勢が迎撃し、打ち破った戦い(ここはウィキの「碧蹄館の戦い」に拠った)。
「不知火の神の御いぶき」「不知火」は「しらぬひ(しらぬい)」。これは「筑紫」の枕詞であり、或いは神宮皇后の三韓征伐を想起しているものか。よく判らぬ。
「いざやゝよ」「いざや」「やよ」孰れも感動詞。
「奴子等」「やつこら」。
「神代」「かみよ」
「日本太刀」「やまとだち」と訓じておく。
「斬味」「きれあぢ」。
「豐島牙山」明治二七(一八九四)年七月二十五日、宣戦布告前に発生した、朝鮮半島中部西岸牙山湾の西にある豊島(現在の韓国京畿道安山市檀園区豊島洞)沖で発生した日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋水師(北洋艦隊)の間での「豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)」と、先に注で出したその三日後の二十八日の陸戦「成歓・牙山の戦い」両方を指していよう。次が「荒磯の岩根にくだけ、」と「朝露の消えてぞ失せし、」で対句になっているからである。
「實に」「げに」。
「稜威」「りようい」でもおかしくはないが、きっちりとした音律からは「みいつ」と当て訓した方がよい。天皇の威光。「みいつ」はその意から「御厳(みいつ)」とし、本熟語の読みとなったものである。
「箱崎」福岡市東区南部(現在の福岡県福岡市東区箱崎町一帯)。豊臣秀吉は九州征伐の際にここに本陣を構えた。
「松浦」「まつら」と読んでおく。肥前国の郡名で現在の佐賀県と長崎県の北部の一帯を指した。対馬等の島嶼を除くと、日本列島の中で中国大陸や朝鮮半島に最も近い。
「百船」「ももふね」或いは「ももぶね」。沢山の船を意味する万葉以来の語。
「日本武夫」「やまともののふ」。
「さゝらがた」「細形」。細かな文様を丁寧に織り出した織物。前の「万葉集」の「水行かば」等と同じく、これは「日本書紀」の「允恭紀」の歌謡「ささらがた錦の紐を解き放けて」を念頭に置いたものであろう。
「唐山のみ山颪に」「からやまの/みやまおろしに」。「み」は美称(ここは音調整序のため)の接頭語。
「おし樹てゝ」「おしたてて」。]